五・七五・七七

> 思ひきや ひなのわかれに おとろへて あまのなはたぎ いさりせむとは

倒置表現というのは、万葉時代にもあったわけである。
ただし、初句切れの倒置表現というのは、小野篁が最初かも知れない。
万葉時代のはだいたい二句切れで、

> こころゆも われはおもはずき またさらに わがふるさとに かへりこむとは

のようになる。

で、これは小野篁が漢文の語順を輸入したからだというのが、
丸谷才一の説だが、
その可能性はないとはいえないが、たぶん違う理由だと思う。

万葉時代は基本的に五七調なので、
初句切れということはまずあり得ない。
二句切れか四区切れになる。
ところが古今集の時代になると、七五調が主流になる。
短歌形式ではわかりにくいが長歌には如実にその傾向が現れている。

七五調になると、二句目と三句目のつながりが強くなる。
そこで初句が浮いた形になって初句切れというものができてくる。
二句三句が強く結びついたせいで、上三句(発句)と下二句(付句)に分かれる傾向が強くなり、
連歌となり、発句だけが残って俳句となる。

平安末期の今様とかそれからのちの歌舞伎の歌詞なんかも、
そして童謡や軍歌や、今の演歌なんかも、
ほとんどが七五・七五・・・となっている。

そんで、初句切れは七五調と相性がいいから、普及したのであり、
漢文語順で効果が斬新だからみんながまねして使われるようになったとは思えない。
特にほとんどの女はそんな漢文とか知らないんだから、漢文っぽい和歌なんて詠むはずがない。

初句切れの倒置表現というのは非常に多い。
「思ひきや」「知るらめや」「忘れめや」「ちぎりきな」「みせばやな」
こういうの使いこなせるようになると、なんか急に和歌がうまくなったように錯覚する。

発句がひとかたまりになってしまい、付句が弱いとものすごく弱いかんじになる。
いわゆる腰折れというやつで、それが昂じて俳句になってしまう。
もう下の句要らんよねということになる。

そこをまあ、枠構造というんですか。
ドイツ語にあるような枠構造というのは、
歌全体の統一感を高めてくれるんですよね。
伏線回収とも言うかも知れない。
初句と付句が七五の二句三句を挟み込む形になって、
非常に安定する。
初句が枕詞になったり、
枕詞ではないが何かのあまり深い意味の無いことばになったり。
或いは初句と付句が倒置表現になったりする。
特に初心者なんかはそれを意識して詠んだ方が、
割と簡単に良い歌が詠めたりするから便利なんじゃなかろうか、
などと思ってしまう。

万葉時代が五七調なのは、単に、もともと長歌というものは、
五七・五七・五七・・・と続けるものだったからだ。
見てみると、五七五七七ではなく五七五七七七というものけっこうある。
仏足石歌というのだな。
まあ、五七で来て、〆に七を重ねたのが長歌で、
さらに七を重ねたのが仏足石歌。

五七だと、五と七の間に間が空く。
声に出して詠めばすぐに気がつくこと。
これは、呼びかけ、語りかけの場合には、
相手が気づくのを待つ、
こちらの呼びかけの意味を理解する、
その間だという気がする。
相手が聞いた。それを理解した。それから続ける。
今の会話でもそういうことはある。
「いいかい、」とか「ほらね、」とかまず短く相手の注意を引くわけで、
注意を引いたところで言いたいことを継ぐ。
呼びかけだから、特に意味は無くて良い。だから枕詞のようなものが使われる。
枕詞だと次に来る語がだいたい予想つくから、余計に呼びかけには都合がよいわけだ。
「ひのもとの」とくれば「やまと」とくる。
冗長であるが、これもまた語りかけのプロトコルだと思えばリーズナブルだ。
今で言う、ヘッダーみたいなもの。

五七・五七・七ってのはだから、
ヘッダーとメイン、ヘッダーとメイン、フッターみたいなもんだと思えばいい。

政治家の街頭演説もだいたいそんな風にできている。
歌とは本来、訴えるひとから聴衆への語りかけだからだ。
「ねえ、みなさん」「なんとかかんとかでしょう。」
そこでいったん聴衆の反応を見て、
「ですから、」「これこれなわけなんですよねえ。」
それの繰り返し。
たぶんなんかの話術のテクニックとして学んだもんじゃない。
自然と語りかけとはそうなるもんだ。

五で相手の気をひいておいて七でつなぐ。
ふたたび五で気をひいて七でつなぐ。
それが五七調なんだが、
楽器の伴奏なんかが入ってくるとそういう相手とのやりとりというのかな。
プロトコルが必要なくなるじゃないですか。
むしろリズムの方が重要になる。
リズム、テンポという意味では七五調のほうがずっとなめらか。
あと、文字に書いた歌には、やはりそういう相手の気を引く、相手がこちらの語りかけに気づくための間がやはり要らない。
むしろ間があるとじゃまな感じがする。

だから、言葉だけの時代から、
奏楽と文字の時代に移って、
五七が七五に逆転したのだと思う。

おそらく外国の詩歌にも類例はあるはずだ。
探してみたいもんだ。

古今集の時代

古今集は平城天皇から醍醐天皇までの歌集なんだが、
平城天皇の歌が残っているのは、たぶん、
平城天皇から在原氏が出て、在原行平が宇多天皇から歌を集めるように依頼されたからだろう。

次の嵯峨天皇は和歌には何のシンパシーもなかった。
嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和、陽成の六代は和歌の低迷期であった。
この時代のことはほとんど忘れられて、知られてない。

特に嵯峨天皇が即位してから崩御するまでの三十年間くらいは暗黒時代といってよく、
この時代に歌人だったといえるのは、小野篁と在原行平くらい。

仁明天皇から光孝天皇の代というのは藤原良房と基経の時代であった。
この時代に登場してくるのが、
僧正遍昭、文屋康秀、在原業平、小野小町であり、
(あまりにも情報が少なすぎてわけわからんが)喜撰と大伴黒主もこの時代であろうと考えられる。
つまり六歌仙の時代である。
六歌仙の時代とは良房・基経の時代であり、伊勢物語の時代である。
遍昭は桓武天皇の後胤、業平は平城天皇の後胤であるから、
比較的身分が高く、歌もよく残っているが、
あとはよくわからない。
ともかくこの時代は和歌の低迷期で、
六歌仙に関する情報も断片的にしか残ってない。
この時代の情報はノイズに埋もれかけており、間違っているものも多いと思う。

で、光孝天皇が和歌を復興させはじめる。
いよいよ本格的な古今集の時代が始まる。
宇多天皇はそれを加速させ、上皇時代にほぼ完成させる。
その成果が古今集となるのだが、
この時代の歌人というのが、いわゆる古今集の撰者たちであり、
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑。
あとは素性法師、菅原道真、伊勢、藤原敏行。

素性法師は僧正遍昭の息子だからまあいいとする。
菅原道真もまあ古くからの公卿の家柄。
あとがよくわからない。
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、伊勢。
これらは殿上人未満の下級役人だったが、
光孝天皇という人は苦労人で下積みが長かったし、
宇多天皇は臣籍降下までした人だったから、そういう地下にいて、
才能ある人によく気がついて、抜擢したということだろうと思う。

その時期はわりと遅く、おそらくは菅原道真が失脚し、
宇多天皇が上皇になった後だろう。
もともと宇多天皇は菅原道真、在原行平、是貞親王あたりに歌の蒐集・編纂をやらせようとした形跡があるからである。
業平の妻が紀名虎の孫(紀有常の娘)だった関係で、在原氏と紀氏は当時比較的近く、
おそらく有常が仲介となって業平と友則がつながり、
貫之、躬恒、忠岑、伊勢らはもともと下級役人仲間でつるんでいたか。
実際古今集の歌人で全然どんな人か知られてない人がたくさんいるのだが、
そういう連中もおそらくこの階層の人たちだ。

藤原敏行の妻も有常の娘である。

たぶんもともとは友則が選者の第一人者だった。
延喜五年というのがだいたいそのタイミング。
何らかの理由で、
友則をリスペクトするために、彼が生きていた時代に勅撰があった、
としたいのだと思う。

六歌仙時代の歌というのは、伊勢物語を中心にして、なんとなくもやっと、
伝説的に残っていた。
業平、二条后、惟喬親王、源融、良房、基経、遍昭、文屋康秀、小野小町。
政治的には非常にどろどろとした時代であり、
その雰囲気が古今集にも投影されている。
暗かった旧き悪しき時代というイメージ。

有常、貫之、友則の関係は少しわかりにくい。
ずっと祖先に紀勝長がいた。
勝長の子に名虎と興長がいた。
名虎の子が有常。
興長の子が本道。
本道の子が有友と望行。
有友の子が友則で、望行の子が貫之。

古今集の真名序を書いた人というのが、
紀淑望なのだが、彼と貫之らとの家系の関係はよくわからん。
同じ紀氏ではあろうが。
で、淑望はけっこう早死にしている。
宇多天皇や貫之より先に死んでいる。
てことはたまたま漢文が書けたというので、
おまえ古今集の序文書けとか言われて、
古今集ができた直後くらいに(つまり亭子院歌合の直後くらいに)、
いろいろ調べて書いた人なのだろう。
彼の時代までくると六歌仙の時代というのは伝聞であり、伝承であって、
よくわからなかったはずだ。
宇多天皇にも貫之にもよくはわからん。
伊勢物語の原型になったような、大鏡的な歴史書(日記?)があった可能性がある。
さらにもっと時代が下ってから、仮名序は書かれたはずであり、
ゆえにあのような支離滅裂な文章になってしまった。

源氏を賜った皇女

普通、皇女や内親王は、一般人と結婚するときに、
皇籍を離脱して、そのまま夫の姓になる。

たとえば、清子内親王は、結婚したあと、
区役所に婚姻届を出したと同時に皇籍離脱して、黒田という姓になったことになっているようだ。
これが「臣籍降嫁」というものだろう。
だから、清子内親王がいったん「臣籍降下」して、
たとえば源清子という名前になり、
源清子が一般人として婚姻して黒田清子になったわけではない。
もしそうなら一時的にも、昭和源氏というものが生まれたことになる。

或いは皇族以外と婚姻しても内親王などの身分はそのままで、
厳密には姓がない、のか。

だが、女性でも源氏をたまわって臣籍降下した人いる。
たまたま見つけた。
[源潔姫](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BD%94%E5%A7%AB)
という人だ。
しかしいくらなんでも四歳で良房の妻になったりするのだろうか。

他にも例があるのだろうか。
ああ、嵯峨天皇の皇女には源氏を賜った人がたくさんいるな。
光孝天皇や宇多天皇にもいるな。
[源順子](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%86%E5%AD%90)
とか。

ついでだが、
宮家の場合は「親王」ではなくて「王」なのだな(間違った。「親王」の場合もある)。
で、厳密には姓があるのかないのかよくわからない。
宮家から皇籍離脱したときには、たしかに宮家を姓とするように思われる。

ふむ。宮号というのは、称号であって姓ではないようだ。
しかも宮家の当主で皇族男子しか宮号は用いないのだから、やはり姓ではない。

つまり宮家というのは、普通に皇族(変な言い方だが)なわけだ。

ふむ。たとえば、
伏見宮博明王は伏見博明という名前になったわけだ。

おもひきや

丸谷才一が『新々百人一首』で、
小野篁の歌

> 思ひきやひなのわかれにおとろへてあまのなはたきいさりせむとは

この「おもひきや・・・とは」という倒置表現が、
漢詩の語順の影響だというのだが、はてどうだろう。
たしかに冒頭いきなり「おもひきや」とやったのは、調べた限りでは小野篁が初出のようではあるが。

> こころゆも われはおもはずき またさらに わがふるさとに かへりこむとは

> こころゆも われはおもはずき やまかはも へだたらなくに かくこひむとは

> やまとには きこえもゆくか おほがのの たかはかりしき いほりせりとは

> うつつにも いめにもわれは おもはずき ふりたるきみに ここにあはむとは

まあ、類似した倒置表現ならば万葉集にもあるわけだが。

しかしいきなり「思ひきや」で切ったのは新しい表現だったかもしれんね。
いや、探せば出てくる可能性はあるがね。

> ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは

これも倒置だわな。
小野篁が隠岐の島に流されたのよりは後だが。

> 月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして

これもやはり業平なんで小野篁よりは後なわけだが。
もしかすると古歌かもしれんがね。

ましかし初句切れは万葉集にはまず出ないよな。

あとは「知るらめや」とか「忘らめや」とかもあるわな。

> はるやとき花やおそきとききわかむ鶯だにもなかすもあるかな

> めづらしや昔ながらの山の井はしづめる影そくちはてにける

> 春やこし秋やゆきけんおほつかな影の朽木と世をすくす身は

これも初句切れ。

亭子院歌合

勝、負、持(ぢ)は引き分け。

> 左の奏は巳時にたてまつる。
方の宮たち、みな装束めでたくして、州浜たてまつる。
大夫四人かけり。

> 右の州浜は午時にたてまつる。
おほきなるわらは四人、みづらゆひ、しがいはきてかけり。

かけり、というのは担いだという意味で、
神輿のようにして四人がかりで州浜を担いだ、と言っている。
州浜が未だによくわからんが、やはり巨大な生け花のようなものだったように思う。

寛平菊合でも州浜に菊を挿すなどという話がでてくる。

> 左 貫之

> さくらばなちりぬるかぜのなごりにはみづなきそらになみぞながるる

> 右 貫之

> みなぞこにはるやくるらんみよしののよしののかはにかはづなくなり

> みぎかつ。うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける。

州浜が入るのも、奏楽があるのも、歌を詠むのも左→右の順番のようである。

左も右も同じ歌人なのはどうなのかと思うのだが、
同じ亭子院歌合ではそういう例がいくつもあるので、
同一人物が判者(この場合は宇多上皇)にどちらが良いか決めてもらうという意味か。
「うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける」がわかりにくい。
貫之の、右の方が良いが、私の歌なら負けなかっただろう、という意味か。
この詞書きのせいでこの歌が宇多天皇の御製に間違われ、
さらに醍醐天皇の歌に間違われたのだろう。
思うに、貫之の歌というのが一番自然だ。
宇多天皇はこういう、見もしないみよしのの歌なんて歌わない気がする。
気がするだけだが。

丸谷才一は、だがたとえそうだとしても、勅撰集に醍醐天皇御製として採られているからには、
醍醐天皇の作とすべきだ、などと言っていて、そんなはずはないと思う。
どこからそんな考え方がでてくるのか。

室町時代の勅撰集はそういうことをよくする。
詠み人知らずの歌を猿丸大夫の歌だとかよくわからんことをする。
けしからんことである。
「王朝文化」というのはそういう江戸時代や室町時代から古代を眺めたフィルターのかかったものではないはず。
それは結局、王朝時代の価値観ではなく、江戸時代の価値観にすぎないからで、
現代人が王朝時代を江戸時代の価値観で眺める必要などない。
古いものが神秘的でありがたく見えるのは人間の習性にすぎない。
実際昔の方が迷信深くて信心深かっただろうが、
なんでもかんでもそんなふうに解釈するのは間違っている。
丸谷才一も結局は「古今伝授」と同じ病気にかかっている。
古今伝授といってもそれは紀貫之が考えていたこととは似ても似つかぬものだ。
紀貫之をありがたがるなら古今伝授などというもので紀貫之の姿がゆがめられていることを排除し、当時彼らがどのようなものの考え方をしていたかを推し量るべきではなかろうか。

王朝とか新古今とかいいながら、
実は江戸時代や現代人の価値観で王朝とか新古今とか言ってるだけではないか。
だから、王朝文化は新古今で死んだとかいいたくなる。
江戸時代にも王朝文化は続いていた。
連続性はあった。
古今伝授のような迷信のせいで不連続に見えるだけではないのか。

> 左 御

> はるかぜのふかぬよひだにあらませばこころのどかにはなはみてまし

> ひだりはうちの御うたなりけり、まさにまけむやは

「ひだりはうちの御うたなりけり」左は実は御製だったのだ、負けるはずがない。
判定は誰が詠んだかわからぬ状態でやるらしい。
ま、その方が公平だわな。
詠み手とは別の人がよみあげ係をやる。
で、判者が宇多上皇だから、本人は自分の歌が勝ちと判定するから負けるはずがない、
とまあそんな意味だろう。

大津皇子

日本で最初に漢詩を作ったのは大津皇子ということになっているのは『懐風藻』の冒頭にいくつか大津皇子として漢詩が載っているからだ。

大津皇子がほんとに漢詩を作れたかはあやしい。
弘法大師が温泉見つけたようなもんだと思う。
が、しかし、作ったかもしれん。

> 朝択三能士

朝に択ぶ、三能士

> 暮開万騎莚

暮に開く、万騎の莚

> 喫臠倶豁矣

臠を喫らひ、倶に豁たり

> 傾盞共陶然

盞を傾け、共に陶然

> 月弓輝谷裏

月弓、谷裏に輝き、

> 雲旌張嶺前

雲旌、嶺前に張る

> 曦光已隠山

曦光、已に山に隠れ

> 壮士且留連

壮士、しばらく留連す

まあそんな難しくはないな。
そのまま読めばよい。

「喫臠倶豁矣、傾盞共陶然。」
のあたりが実に愉快そうだ。
「且留連」は、去るにしのびず、しばらくぐずぐずととどまる、の意味。
対句が見事だよね。だからわかりやすい。

小野篁

小野篁は菅原道真と同様に和歌も漢詩もうまかった人ということになっているのだが、
漢詩人というには詩がそれほど残っていない。
たとえば、頼山陽なら一冊の詩集になるくらい大量に詩を作っているし、
当時も菅原道真や嵯峨天皇は大量に詩を残している。
歌人というのも、貫之や業平ならやはり歌集を残しているから、
歌人といえるだろうが、
一つか二つしか残ってなかったり実は本人の作かすらわからんのもあり、
そういうのを何の検証もせずただ歌人とか詩人とかいうのはおかしいのではないか。

小野篁の詩は少ない。
わかる範囲で片付けていく。

> 和從弟內史見寄兼示二弟

従弟の内記に和して、寄りて見るに、二人の弟に兼ねて示す

内史は内記で官職、従弟はいとこだわな。二弟は二人の弟という意味だろうな。

> 世時應未肯尋常 昨日青林今帶黃 不得灰身隨舊主 唯當剔髪事空王

世時はまさにいまだ尋常を肯んぜず、
昨日の青林は今、黄を帯ぶ。
灰身は旧主に随(したが)ふをえず、
ただまさに髪を剔(けづ)り空王に事(つか)ふ。

旧主、空王が具体的に誰を言うはわからんが
(嵯峨天皇と文徳天皇とか、いくらでも解釈はできるが)、
なんかの漢詩の言い回しを使っただけだと思う。
灰身というのはなんかもういろいろ疲れてぼろぼろになった私、とかそんな意味。

> 承聞堂上增羸病 見說家中絕米粮 眼血和流腸絞斷 期聲音盡叫蒼蒼

承り聞く、堂上では羸病増し、
見説く、家中、米粮絶ゆと。
眼血、流るに和し、腸、絞り断つ。
声、音尽きて、蒼々と叫ばんと期す。

和流、というのは兄弟いとこどうしでもらい泣きするという意味か。

つかまあ、少ないよね、関連書籍が。
ネットで検索してもあまり出てこない。
図書館で探し出しても解釈がついてなかったり。

新々百人一首

古今集を調べている関係で丸谷才一『新々百人一首』を再読しているのだが、うーむ。

二条妃の「雪のうちに」の解釈が異様に長い割には、何も言ってないのに等しい。
最後に「高子のこの絶唱と並ぶほどの返歌は業平にもむづかしかったらう」などと書いている。

二条妃とか良房とか基経なんかというのは非常に政治色の強い人であり、
基経は歌を一つも詠まなかったらしいんだが、
そういう傾向は親兄弟に遺伝するものであって、
基経の妹の二条妃こと高子も、実際に歌を詠んだか疑わしい。
高子の歌も非常に少ない。

高子や良房を古今集に登場させたかった誰かが代わりに詠んだ歌である可能性が非常に高い。
というより、その可能性を考慮したうえで読み解くべきなのである。

この歌はなんのことやらわからぬ、思わせぶりな歌であるというだけであり、
新古今的、あるいは俳句的に解釈すれば「絶唱」かもしれんが、
古今集では政治的寓意という意味以外は考えにくい。
たぶん、高子が兄基経によって皇太后位を剥奪され、不遇のまま死んだことが暗喩されているだけだと思う。

また、光孝天皇「君がため」を「農民の持ち来つた若菜なのに自分が働いたやうに装つて詠じたのである」
などと言っている。
丸谷才一は徒然草の黒戸御所の逸話を知らないのだろう。
光孝天皇は皇統からはずれて、55才まで親王のままで、息子たちは皆臣籍降下して、
まさか庶民のように自分で若菜を摘んだり、炊事をしたりすることはなかったといえ、
当時の人たちが抱いた光孝天皇のイメージは、
庶民のような質素な暮らしをしていた人、なのであり、
そのイメージに沿って、本人だか他人だか知らないが、詠んだ歌であり、
そのように解釈された歌なのである。

> それは呪術とまじりあつてゐる牧歌趣味であつた。

いや、そう解釈してはいけない。
天皇とか、古代の和歌というのがいつもいつも呪術的で言霊思想だと考えるのはおかしい。

醍醐天皇の歌

> みなそこに春やくるらんみよしのの吉野の川にかはづ鳴くなり

「呪歌にふさはしい悠揚たるもの」「三句から四句にかけて、大味でこせつかない効果がいい」
「職業歌人の詠とは違ふ帝王調の魅力を満喫」とあるのだが、これも誤読に近いのではないか。
どちらかといえば丸谷才一が職業歌人と名指しした貫之の屏風歌に酷似している。
何かの間違いなのではなかろうか。

「みよしのの吉野の川に」は単なる常套句であるのに、どうしてこれが帝王帳なのか。
天皇だってわざと庶民のような歌を詠むことだってあるのに。

醍醐天皇の歌の多くは宇多上皇と間違われている危険性が高いと思う。

嵯峨天皇

嵯峨天皇「春日遊猟、日暮宿江頭亭子」

三春出猟重城外 四望江山勢転雄

逐兎馬蹄承落日 追禽鷹翮払軽風

征舟暮入連天水 明月孤懸欲暁空

不学夏王荒此事 為思周卜偶非熊

これは恐ろしく良くできた詩だ。平仄も押韻も対句も完璧。

しかも、天皇なのに乗馬して猟をしている。嵯峨天皇が実際にこういう人であったかどうか。少なくとも嵯峨天皇は日本の大君ではなくて中国の皇帝を理想としていた。唐の皇帝を。それを唐詩にした。

大和朝廷の王権というのは、ま要するに、天武天皇くらいに固まったのである。天武天皇から嵯峨天皇まではわずかに150年くらいしかない。当時の日本国というのは若い国家だった。この頃はまだ万世一系とかそんなことは関係なく、日本は、アジアによくある、生まれては滅んでいく王朝の一つにしかすぎなかったのだ。南北朝のころになってやっとなんか日本という国は特殊だな、ということに北畠親房あたりが気づいたのに過ぎない。

嵯峨天皇は中国式の完全に新しい国家を作ろうとしたのだろうと思う。

経国集

[経国集](http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/keikoku/keikoku.htm)
はここで読むことができるが、立派な漢文の序文がついている。
やはり、この流れで行くと、古今集の序も最初は漢文だったのではないかと思われてくる。

どうかんがえても淳和天皇の勅撰じゃないだろ。
嵯峨上皇の命令だと思うよな、普通。

[滋野貞主](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E9%87%8E%E8%B2%9E%E4%B8%BB)が選んだと書いてあるのだが、
ウィキペディアには、
良岑安世、菅原清公らが編纂とあるのはどういうわけだ。

> 春宮學士從五位下臣滋野朝臣貞主等奉敕撰

ここで東宮というのは嵯峨天皇の皇子で、
淳和天皇の皇太子に建てられていた、
のちの仁明天皇だわな。

勅撰というものが明らかに意識されたのも、漢詩集のほうだわな。
和歌集の方は、勅撰という意識が確立されるまでにだいぶ時間がかかった。

良岑安世は僧正遍昭の父で素性法師の祖父だから、
もとはこの家系は漢学の家だったのかもしれんね。

当時の平安京というのは、
完全に人工的な未来都市として作られて、
原始神道的匂いのする和歌は嫌われてて、
そもそも新都平安京には和歌を詠むような住人もいなくて、
それで自然に廃れたんだろうな。

奈良の仏教というとなんか密教的な、山岳信仰的な匂いがあるよね。
そういうのも一切捨てられてしまって、
完全に中国式の宗教儀礼に入れ替わったということじゃないかな。