twitterの中毒性

twitterは、ふと思いついたことを書き留めておくにはむいている。スマホでちょっとなにか書くのにむいていて、もしその思いついたときに twitter に書いておかなければそのまま忘れてしまうだろうという強迫観念でつい書いてしまう。

思うに、ほんとうに書き残さなければならないことであれば、紙にメモでもするなりしてあとでブログに書けば済む話だ。twitterがなければならない理由はないし、後でよく考えてから書いたほうが良い文章が書けるだろうし、間違いも少ないし、いきなり世の中に公開して恥をかくこともないわけだ。

またtwitterではいろいろおもしろいこと役に立つことを書く人がいるのも事実なわけで、ついみてしまう。しかし読まなきゃよまないでもなんとかなるわけで、どうしてもひまでほかにすることがないときくらいしか読まないようにしようと思っている。

twitter で読み書きしているうちに人はだんだん精神をおかされていくのではなかろうか。収益化なんかすると余計に。まあしかし、それはブログでもユーチューブでも同じだろう。ユーチューバーも収益を上げようとしてだんだんおかしな動画を作り始めるように思える。

twitterはもうダメだ

最近のtwitterは何もかもカタにはめようとしてくる。さらにカタに自らハマってインプレッションを狙うようなやつばかりが増殖している。

プロフィール画像を変えようとしたのがすぐには変わらなくなった。撮ったばかりの写真をすぐにプロフィール画像に使おうとすると規制がかかる仕様なのかもしれんし、だいたいそういうときに使った画像は後で直したりもするのだが、とにかく何からなにまで挙動不審で得体がしれぬ。こんなものを使っていてはダメだ。知らず知らずに精神を操作されてしまう。見るのも書き込むのもやめたほうが良い。

結婚制度

上野千鶴子という人が結婚していたことについて文春が書いてそれについて飯山陽があれこれ言っているのだが、私は上野氏の主張にはさほど矛盾は感じなかった。というよりも一貫した主張をみた感じがした。

上野氏は結婚という社会制度は認めないが恋愛は認めていてずっと伴侶がいたが、その伴侶が死ぬ寸前に婚姻届けを提出して配偶者となって遺産を相続した。既存の社会制度の枠組みの中で一番手続きをスムーズに進めやすかったからそうしただけのことだろう。

上野千鶴子という人を好きか嫌いかといわれれば、どちらかと言われれば嫌いだがそれよりなにより私とは関係無いとしかいいようがない。文春に関していえばそんなことをわざわざ調べて金儲けするとは下品だなとしか思えない。

飯山陽に関していえば、そんなネトウヨみたいに上野千鶴子などのことでいちいち騒いでないで、もっとほかにもいろいろやることはあるだろ、とは思う。

飯山陽の書いた本を橋爪大三郎が褒めていて、飯山氏はその本で橋爪大三郎のことも批判しているのにそれでも橋爪氏が飯山氏の本を褒めているのはあっぱれだと言っていた。橋爪氏はかつて小室直樹の学説を批判したことがあるが、そのとき小室直樹は橋爪氏に対して怒らなかったのだという。学問とはそうしたものだから、自分を批判する飯山氏に対しても、良く批判した、勇気ある行為だ、学者というものは内輪で褒め合っていてはいかんなどとと言ったのだという。

飯山氏が嫌いな学者(?)に池ちゃんマンがいるのだが、池ちゃんマンも橋爪大三郎も東工大社会理工学研究科の教授で、江藤淳がいて、橋爪大三郎がいるところにあとから池ちゃんマンとその一派を送り込んできたのはいったいどこのどいつらなのか、そのときどんな学内政治が行われたのか、東工大の中の人たちはこの人事をどう思ってるのか、すごく気になる。

追記: 池ちゃんマンは池上彰ではなく別の人らしい。

社会理工学研究科なんてもう存在しないのか。まあいいや。

ネトウヨに賛同できないのは、たとえば夫婦別姓とか同姓とか、西洋の影響を受けて明治以降にできた制度にすぎないのに、それのせいで家族の結びつきが失われるとか、日本が日本でなくなるとか言っているところかね。薩長政権こそは結婚制度をぐちゃぐちゃにした張本人で自民党はその残滓だろ。きちんと歴史的検証をして、それが保守すべきかどうか、考えてないというか。脊髄反射的にこれは守らなきゃいけないんだって思ってるところがいやだよな。

仕事を減らす

この年になると何もしなくても勝手に仕事が勝手に増えていく。逆に体力は落ちていくから、何もしなくてもだんだんに生きるのがしんどくなる。昔書いたものの手直しだけでも膨大な作業量になる。

では何をすべきかといえばできるだけ仕事を減らし、できるだけ遊びを減らして、ひまな時間を増やして、疲れないようにしなくてはならない。人間関係も減らす。娯楽も減らす。とにかく減らす。あと物を減らす。物があるとそれだけ手間が増えるから、可能なら減らす。消耗したらできるだけ補充せずに増やさないようにする。何もかもマイナスにマイナスになるように考える。

楽しいからといって遊びを増やしたり、やりがいがあるからといって仕事を増やしたりするととても大変なことになる。

退屈でどうしてもなにかやりたくなったらまずその日どうしてもやらなくてはならないことから手をつける。お茶をいれるとかご飯を炊くとか歯を磨くとか部屋を片付けるとか服を片付けるとか。そうしたことでなにかやりたい気持ちや何かをやろうと思えばやれた時間などを消費して、なんかやった気分になる。いや実際になんかやってるわけなんだけどね。

それでもまだなにかやりたくなったら将来どうせやることになる仕事を片付ける。ここで大事なのは余計な仕事を増やさないことだ。逆に仕事を減らすことだけをやる。定年退職したあとはしらんが、退職するまではずっとそれでいく。

アメリカ人の借金

アメリカは経済を失速させないようにどんどん通貨を増やすからインフレになる。インフレを放置するか金利を上げるかどちらかということになる。どちらにしても個人消費は減ることになる。ところがアメリカの消費者はインフレになろうが金利があがろうが消費を減らさない傾向がある。貯金を使い果たすと借金をしてでも消費し続けようとする。

消費が減ればインフレは収まり、金利も下がるのだが、アメリカはなぜかいつの間にか消費者が消費を決して減らさない社会になってしまった。だから政府が経済を活性化させるために通貨を増やした分、ほぼ自動的に個人の資産が減ることになってしまった。

クレジットカードやデビットカードの支払いが滞るとそれを車や家のローンに組み込む形で借り換える。そうして借金はより見えにくい形の借金にかわるだけで減るわけではなく、むしろ増えていく。以前のサブプライムローンよりもさらに巧妙で見えにくい形の借金が増えている状態であろうと推測される。

そうして信用を失ったり、破産したりした人が増えていけば、いつかは金融機関の連鎖破産ということが起きる。金融業界の再編で済むうちはよいが、個人預金が保証されなければそこでついに経済が失速する、ということになる。

じゃあ政府がドルを刷るのをやめればいいじゃんと思うけど、それをやると大恐慌がきたり、日本のバブル崩壊のようなことがおきてやはり経済は破綻する。

アメリカは覇権国家だし、人口もまだ増え続けているし、情報産業は絶好調だから、アメリカという国自体がぽしゃる可能性は低いが、個人の借金を制御できなくてしばしば経済が不安定化する、ということだろう。要するにアメリカ人が全体として身の程にあった生活をして、借金してまで贅沢しなければよいだけのことだ。企業もメディアもどんどん物欲を刺激して消費させるから、それになんらかの規制をかければよいのではないかなあ。

日本保守党は面白い

ネトウヨ政党というのを以前書いたが、日本保守党が面白いというより、飯山陽はちょっと面白い。今選挙の投票率が異様に低いのは自民党が面白くなさすぎるからだ。しかし自民党以外に批判の票を入れたくても他に入れられる政党がない。

自民党はとっくに解体すべきなのだが、政権与党にしがみついていて、生存し続けることが最優先になっていて、それが日本の政治をあまりにもつまらなくしている。これじゃダメだろ。麻生が派閥政治自体は悪くないと言っていたが、そりゃそうで、政党政治とは派閥政治そのものだ。複数の政党が一つの政党であるがごとく偽装しているのがそもそもよくない。

私は日本保守党の党首が全然好きではないし、ネトウヨが好きではないし、彼らの歴史認識はあまりにひどいと思う。しかしものわかりのよい右翼ばかりでは政治は動かない。ちょっと暴れるくらいの右翼がいなくてはならない。なぜなら国民大衆というものは基本的に物わかりが悪いからそれにある程度まで政治を合わせなくてはならないからだ。そのために自民党の中にもものわかりの悪い人はたくさん混じっているのだが(多分)、そういう人はなかなか可視化されてこない。

飯山陽はちょっと頭の良い人なので日本保守党の党首とは違う。だがそれを認識したうえで是々非々でやると言っているところが面白い。日本保守党にはもっと面白い人材があと二人か三人くらい集まると良いと思う。そしたら少しおもしろくなってくる。ただそうなってくると今の日本保守党執行部は気分良くないだろうな(笑)。

プロンプト

今の生成系AIはユーザーとの対話、つまり、プロンプトのやりとりによってAIが学習しているかのような錯覚を覚えるのだが、AIの学習はすべて終わったあとであって、ユーザーから与えられたプロンプトとそれに対する回答、及び追加のプロンプトの組み合わせによって答えを絞り込んでいるだけであって、ユーザーとの対話によってAIが学習して賢くなることはないのだ。原理的にありえない。

だからこちらからいくらこちらの好みを伝えようが、彼らが学習した範囲以外のことは決して思いつかない。こちらからいくら間違いを指摘しようとも、彼らが学習した範囲以外の正解にたどり着くことはない。私たちがいくら彼らのために良かれと思ってプロンプトを工夫したところでAIが賢くなることはないのだ。

AIはものすごい時間と手間暇と金をかけてすでに学習した後なのだ。ユーザーのプロンプトぐらいでは彼らの学習成果になんらかの影響を与えることなどできない。

プロンプト

コロナにかかって約2週間、やっと嗅覚が戻ってきつつあるように思う。醤油、わさび、ケチャップ、化学塗料の匂いなどなど。

一つのことにあまりに集中すると、それ以外のことではもう一生懸命になれなくなるということはあると思う。今回一冊の本を書くためにものすごく時間とてまひまをかけた。てまをかければかけるほどよくなっていくのがわかる。今まで書いていたものはいったいなんだったんだろうともおもうし、もうこれ以上のものは書けないだろうなとも思う。これ以外のことでこんなに充実した気分になるのは不可能な気もする。この本を書き終えて世に残せたらあとはもうどうでも良い、みたいな気分にもなる。

日本経済はどうしたこうしたとか、これから何が伸び何が廃れるとか20年後に死ぬ私にはなんの関係もない。興味がもてない。もう好きにしてくれとしか思えない。思えば去年はいろんなことをやったが、だいたいのことはやったような気がする。だから去年までにやったことを多少手直ししてあと定年までの七年間もたせる。もうそれで良い気がする。そうするとだいぶ楽になるし時間の余裕も出るように思える。

今の生成AIって要するに「プロンプト」に対していかに的確な言葉なり画像なり動画を返すか事前にあほみたいに学習しておく、っていう原理にすぎない、つまり「プロンプト」に対する最適化問題にすぎないから、ある種のゲームのルールの中で最適解をみつけだす「メソッド」ではない。つまりゲーム理論みたいなものからはすごく遠いように思える。たとえば17文字で俳句を作れとか31文字で和歌を詠めみたいな「プロンプト」に対してはそもそもその17文字とか31文字という制限が今の生成AIには守れない。間違いを指摘しても改めることができない。与えられたルールの枠組みの中で最適なものを出すということができず、勝手に最適だと学習したことを返してくる。

今のAIにゲーテみたいなドイツ語の詩を作れというと、太陽が輝いて鳥が歌い、人々は楽しげで花は色とりどりに咲く、みたいなあほみたいな詩を作る。じゃあハイネみたいな詩を作れというと、春は過ぎ去り夏は来る、昼は黄金色で夜は花が香る、みたいな詩を作る。

geminiとの対話

関係ないこと

近頃は youtubeを見ても twitter を見ても何にも面白くない。だいたいみんな見飽きたというのもある。最初は面白くてもすぐに飽きてしまう。あと20年くらいで死ぬのでいまさら新しいことを始めても仕方ない。つまらないことはどんどんやめてしまって、行きたい店だけ通ってほかのいろんな店はみんな行くのをやめてしまうくらいでよいと思う。

茸本朗とかノージョブフドウとか楽しくみていたのだが、だんだん感動がなくなってきて、見なくても全然平気になった。

コロナにかかったせいでいまだににおいが戻らない。醤油をかいでも山椒をかいでもまったくにおわないのは困る。ものを食べても酒をのんでもにおいのぶん損している気がする。four roses でも jack daniels でもにおいがないから違いがない。

世の中直接私に関係ないことであれこれ考えても仕方ない。東京都知事がどうなろうとクルド人が増えようとあと20年で死ぬ私には直接関係ない。

家を建てて20年も経つとどこかしらガタが来て、業者がわらわらきて、点検したらどこかしら不具合があって、営業がうるさい。とにかくうざい。営業は営業トークなのであれこれ悩むだけ無駄だ。基本放置が正しい。正直なんの興味もない。こうなってくると持ち家が良いのか賃貸がよいのかわからなくなってくる。独り者なら2年おきに引っ越すのが一番楽ではないか。だがただ年寄りには簡単に部屋は貸してくれないだろうから結局買わねばなるまいなあ。