magenta、solferino戦の真相

[Battle of Magenta](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Magenta)では、ピエモンテ・フランス連合軍が59100人、
一方オーストリア軍は125000人とある。
次の
[Battle of Solferino](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Solferino)では、138000人対129000人となっている。
ほんとだろうか。
どちらも数字がかなりおおざっぱだ。

ソルフェリーノではオーストリア軍は皇帝フランツ・ヨーゼフが本国から増援部隊を連れてきたはずだ。
また、マジェンタではミラノに駐屯した軍隊しかいなかっただろう。
一方連合軍はナポレオン三世みずから緒戦からピエモンテに居たのだから、
最初から13万人くらいいたのではなかろうか。

つまり、マジェンタでは 13万対8万くらい、
ソルフェリーノではだいたい13万対13万くらい。
劣勢の方は数を多く見せたがる。優勢の方はわざと数を小さく見せたがる。
それがそのまま戦史になっただけではなかろうか。
憶測だがギュライの味方はごくわずかの、母国ハンガリーから連れてきた手勢しかなく、あとは適当にミラノ・ロンバルディアあたりで、
地元の領主から兵を借りたのではなかろうか。
しかしここらはもともとピエモンテにシンパシーを感じており、十年前にはピエモンテとともに叛乱を起こしたのだ。
そんな連中が協力的なわけがない。たとえ数合わせにはなったとしても。

[Battle of Novara](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Novara_%281849%29)が
85636対72380の規模だったというから、両軍ほぼ8万人程度で対等。
ピエモンテ軍はロンバルディアの反乱軍も入れた数字だろう。
単独ではもっと少なかったはず。
ミラノ軍単独でもおそらくこの程度の規模なのだろう。

そう考えるのが自然ではなかろうか。

Citadel

Half-Life2に[Citadel](http://half-life.wikia.com/wiki/Citadel)というのが出てくるのだが、
漠然と語感から都市という意味かと思ってた。
しかし、wikipediaなど読むと[Citadel](http://en.wikipedia.org/wiki/Citadel)は、
要塞という意味であり、特に18世紀から19世紀くらいにかけて作られた、
セメントやコンクリートで固めた、
[堡塁](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%A1%E5%A1%81)を備えた近代的な要塞のことを言うらしい。
日本で言えば五稜郭がその典型で、幾何学的な構造を持つ。

citadelの語源はやはりラテン語のcitizenであって、
オーストリア・ハプスブルク家がハンガリー叛乱の鎮圧のためにブダペストに建てた
[Citadella](http://en.wikipedia.org/wiki/Citadella)
が有名だそうだ。
イタリア語では cittadella (チッタデッラ)
と綴るようだ。
[Cittadella](http://en.wikipedia.org/wiki/Cittadella)という名の町はヴェネト州(つまり、ロンバルディアの東、ヴェネツィアの近く)
にもある。普通の中世の都市のようだ。

[Casale Monferrato](http://en.wikipedia.org/wiki/Casale_Monferrato#Via_Garibaldi_and_Sant.E2.80.99Ilario)
では、

> It successfully resisted the Austrians in 1849, and was strengthened in 1852. Towards the end of the 19th century it became known as “Cement Capital” (capitale del cemento), thanks to the quantity of Portland cement in the hills nearby

とあるので、ラデツキー将軍もカザーレの要塞を陥とすことはできなかった、ということになる。
第一次と第二次イタリア統一戦争の間にピエモンテの鉄道網とともに強化された。
capitale del cemento は「セメントの都」とでも訳せばよいか。
カザーレ・モンフェラートは近くにモンフェラートという丘があるのでそう呼ばれる。
モンフェラートではセメント(の原料)がたくさんとれた。
[ポルトランドセメント](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88)という、18世紀の終わりにイギリスで実用化された、
近代の普通のセメントがばんばん使われたということのようだ。

> 硬化した後の風合いがイギリスのポートランド島で採れるポルトランド石 (Portland limestone) に似ているから

google maps で見ると、カザーレの要塞はほとんど痕跡を留めてない。
が、南の駅の近くに少しだけ残っているのがわかる。
目を細めてみるとなんとなく星形の全体像が見えてくる。


アレッサンドリアにも見事な cittadella がある。ほとんど完全に残されているようだ。

> In 1348 Alessandria fell into the hands of the Visconti and passed with their possessions to the Sforza, following the career of Milan, until 1707, when it was ceded to the House of Savoy and henceforth formed part of Piedmont. The new domination was evidenced by the construction of a new big Cittadella on the left side of the river Tanaro, across from the city.

とあるので、サヴォア家、つまりヴィットーリオ・エマヌエーレに続く家系がピエモンテの領主になった
1707年以降に作られたもののようだ。
五稜郭と比べるとその巨大さがよくわかる。

同じ縮尺で比べてみるとこんなに違う。
当時のピエモンテと日本の国力の差もこんなだっただろう。
また、市街地に巨大な鉄道駅があり、ピエモンテ交通の要衝であることもわかる。

玉葉集風雅集攷

次田香澄『玉葉集風雅集攷』というものを読んでいるのだが、
この著書の編者でもある岩佐美代子によれば、
岩佐が恩師次田の遺稿をまとめてこの一書がなったことがわかる。
岩佐は今日、京極為兼についての本を書くほぼ唯一人の作家であるが、
なぜ彼女が為兼に関心を持ったかはよくわかった。
では次田はなぜ為兼に関心を持ったかだが、名前から察するに彼女もまた女性であろう。
本を読んだ感じで大胆に想像すれば、彼女は、最初芭蕉の俳句に興味をもった。
それから、俳句のわびさびの世界を室町和歌まで遡り、そこに永福門院を見いだした。
永福門院の師が為兼であった。ということではないか。
岩佐にも『内親王ものがたり』などがあるところを見ると、
式子内親王など女流歌人に関心が高いのではないか。
両者とも京極派の創始者として為兼をある一定の程度評価しているに過ぎず、特に次田は、彼女の好みは京極派の中にある、自然観察とかわびさびのようなものにあるように思われる。
為兼の歌に

萩の葉をよくよく見れば今ぞ知るただ大きなるすすきなりけり

というのがある。
普通こういう歌は江戸時代には狂歌と呼ばれる。
また、古今集では俳諧歌という部立てでこのような滑稽な、
不真面目な歌が採られている。
古今集にはあったこのような遊び心は、おそらく、
和歌から俳句や連歌の方に専門が分かれたのだろう。
そういう意味では俳句の源流が京極派、特に風雅集時代にあって、
その先駆的歌人が永福門院であった、のはまあ当たりなのかもしれんが、しかし、為兼その人は別に俳諧歌を詠もうと思って詠んでいたのではないと思う。
また、自然観察が主たる目的でもなかったと思う。

為兼は漢文が書けなかったという。
当時の高官たちの必須教養である漢文が書けないということは、
つまり日記も書けなかった。
歌論などの和文は多少は書けたらしい。
漢文の序を書けない、
紀貫之以来の口伝を受けてない、
歌が奇矯であり、俳諧的であるというのが、
勅撰集編纂者として不適任だと指摘されたのは、
当然だったようにも思われる。

為兼その人はたぶん、西行のような、心に浮かんだことをそのまま歌に詠みたかっただけで、それが巧まずできた人だった。芸術家肌、天才肌の人であっただろう。自然主義や俳句の先駆者になろうと思ったわけではあるまい。
枯れとか寂びなどは定家に、女流歌人では永福門院に任せておけばよかろう。

為兼は勅撰集の題名に新とか続とか後とかを付けるのに反対したそうだ。笑える。
室町時代の勅撰集はそんなのばかりだ。

万葉集や古今集の頃までは文字というものが庶民の間になかったから、歌という口伝えの文学しかなく、ましてや教科書や類題集などというものはなかった。歌をたしなむかなり濃密なコミュニティが存在していたのだろうが、時代が下るとそういう自然発生的なコミュニティは廃れて、自然に詠歌の習慣を維持することが困難になり、それでも古典を継承していくために学問とか道としての歌道・歌論が生まれ、これによって初めて安定して存続することが可能になり、ますます知識階級によるサポートなくしては残れなくなり、彼らの発言力がますます強くなる。庶民の趣向は逆に圧殺され、ますます和歌の世界は萎縮していく。貴族や学者などという生命維持装置を外すと死んでしまう。それをなんとか救おうとしたのが為兼だっただろう。民間人がもっと和歌に参加すべきだと考え、そのための方便として天皇家や勅撰集という権威を借りようとしたのではなかろうか。

うひ山踏み

以前[一番うまいところをよけて食えと](http://tanaka0903.net/?p=5323)などと言うものを書いたが、
またしても『うひ山踏み』を読んでみることにした。

『うひ山踏み』はおそらく宣長を学ぼうと思う人が最初に読むものではなかろうか。
以前は岩波文庫にもあって、絶版になってしまったようだが、割と入手しやすかった。
宣長の印象というのはこの『うひ山踏み』から来るものが大きいと思う。
宣長全集でも第一巻の一番最初に掲載されている。

だが、これはいかにも誤解を与えかねないものだ。
『うひ山踏み』は宣長が『古事記伝』を書き終えて、七十になろうとして弟子も大勢いて、
彼らに請われてしぶしぶ書いたものであり、
宣長が自分から書きたくて書いたことではない。
たぶんいちいち問われて答えるのが煩わしいので文書化したのだろう。
ただひたすら弟子に読み聞かせてわかりよいように書いてあるだけである。
中には筆が走って言いたいこと言いまくってる箇所(後半の歌論など)もあるが、
全体としては、宣長にしては分別くさい退屈な内容だ。

まず、賀茂真淵を恩師として敬う形に書かれているのだが、あまり本質的ではないことだ。
古事記・日本書紀・万葉集を学べなどということも、宣長の学問が体系化してから言い出したことであり、
いわば老学者の教訓的なものにすぎない。
この辺を最初に読んでしまうと、宣長はまず第一に、
賀茂真淵に多くを負う門人の一人であって、古事記・日本書紀・万葉集をことさら大事にする、
と感じてしまう。
で、だいたいこの最初の部分だけ読んでわかったような気になって、ああつまり宣長とはそんな人なのだなと合点して、あと読むのをやめてしまうだろう。
宣長の膨大な著述に目を通すなど無駄だと思って。

宣長は七十間近になって耄碌していたわけではないが、老人の繰り言的な言い方になってはいる。

何度も言うようだが、宣長は、室町時代に確立した(書道や華道や茶道や能狂言などの室町時代が生んだ古典芸能と同じ意味での)歌道の中に居た。
そうした場合、自分がどうにかこうにか歌を詠めるようになること、人前で恥をかかない程度に歌が詠めるようになること、できれば気の利いた歌を歌会で読んだり、著作に掲げたり。後世に歌人として名を残すような良いできばえの歌を読詠めれば詠みたいと、
つまり、日常生活の中での創作活動やサロンにおける詠歌が一番肝要であって、
歌をどれだけ「鑑賞」「論評」できるかということはさほど重要ではない。
であればこそ、『古今集』や『新古今』などはよけて、
『千載集』や『新勅撰和歌集』や、その後応仁の乱まで淡々と続いた勅撰集に学べと言っているのだ。
江戸時代における和歌は室町文化の精華であって、
生の『古今』『新古今』ではないし、まして自由に感情を述べるためのメディアでもない。
それを前提に読まねばわけがわからない。

思うに、『万葉集』『古今』は真似ようとしても時代が古すぎて近世人がやるとおかしな具合になる。
『新古今』には西行や後鳥羽院、定家など癖の強い歌人の歌がまじっているので教育上問題がある。
それ以外の勅撰集に採られた西行や定家の歌などは割と平淡でつまらないがしかし真似てもさほど害がない。
しかし『玉葉』『風雅』は為兼のせいで『新古今』をさらに奇抜にしたような歌がたくさん採られている。
これらは「異風」であるから真似てはならない。
室町初期の頓阿の『草庵集』や、やはり室町期の類題集の『類林愚抄』は歌道の手本としてそつなくまとまっているので、
自分で歌を詠むための参考書として使うとよい。
とまあ、こんな具合に言いたいのだろう。

ま、そういう宣長のもろもろがよくわかった上で読むぶんにはよくまとまった彼の思想をよく表した書だとは言えるかもしれん。

今の短歌は、五七五七七に思ったことをそのままいえば良い、というような、室町時代の裏返しのようなことを言っているが、
どちらも両極端なだけで、どちらが良いということも言えない。

宣長のところへ学問を習いにくる、門人になろうと来る若者たちは様々だったろうが、志望動機が宣長と同じだった人はほとんどなかったろうと思う。これまた宣長が誤読される理由の一つかもしれない。人々は宣長を歌人だと思ってくるわけではない。歌を習いにくるのではない。国学の大家だと思ってくる。賀茂真淵の第一の弟子だと。当代一の国学者だと。だんだんと尊皇攘夷思想が盛んになってくるから、最初からそういうつもりで、国学者になろうと思って、たとえば平田篤胤なのが近づいてきたのに違いない。

宣長は、だから『うひやまぶみ』で、学ぶ分野も志望動機も人それぞれだと、自分の嗜好を押しつけるのは控えた。明らかに弟子たちの期待していることと、自分が少年の時の気持ちが違っているからだ。宣長はまず和歌に興味をもった。なぜ和歌を好きになったかはよくわかわないが、おそらく王朝文化、京都文化に対するあこがれのようなものだろう。生け花や茶道を好きになるのと何も違わない。
本人の好みという以上に特に理由はいらないだろう。
少年の頃からその嗜好は変わらない。

和歌は古語で書かれているから古語を学ぼうと思った。宣長は古文辞学の才能があった。おそらくは歌人としてよりも。結果的に彼は国学者となったのだ。最初から国学者になろうとしていたはずがない。でも我々は彼が子供のころから国学に興味があったと思いがちだし、子供の頃はともかく学者となってからは国学に一番関心があったと思いがちだが、しかしそれは違う。和歌を詠むのに必要だから国学を学んだのだ。それがたぶん真相だ。

後白河の后

後白河の后はけっこう複雑だ。

親王時代に源懿子を后とするが、
懿子が死んだのが1143年、生年は1116年とされている。
西行が1118年生まれなのでそれより年上であり、
親王は1143年に16歳。
懿子は27歳。
ちょっと信じられない。何かの間違いではなかろうか。
親王の側からの必然性とか政略結婚の必要もあまり考えられないし。

初婚だとすると25歳くらいまで独身だったのか。
なんかおかしいなあ。
再婚というのならまだわかる。
後白河の皇子の二条天皇も二代后を入内させているし、そういう傾向があったとしても不思議はない。
にしても女性の方があまりにも年上過ぎないだろうか。
姉さん女房というのなら光源氏の本妻もそうだが。

皇子と后の婚姻はどちらも十代前半というのが普通だ。
当時25歳まで独身ならば明らかに婚期を逃しており、一生独身でもおかしくない。
当時の観念では初老というに近く、婚活すらしないだろう(いや、初老で結婚する人もいるだろうが)。
タイミングが変だ。まあいいや。
二条天皇を産んですぐに死んでしまう。

で、藤原忻子は1155年入内なので、懿子が死んでから12年も後だ。
子供もいない。
後白河即位と同時に入内している。
俊成はこの忻子の付き人だった。
あまり重要なポストではなかっただろう。
忻子の妹にいわゆる二代后こと藤原多子がいる。
後白河の弟・近衛天皇と、子の二条天皇の二人の天皇の后となったからだ。
姉妹の父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。
後白河にさほど寵愛を受けたとも思えない。
後白河は近衛天皇とも二条天皇とも仲が良くはなかったからかもしれない。

平滋子は1142年生まれ。
1127年生まれの後白河よりは15歳下。
寵愛を受け始めたのは1150年代後半、17、8歳ころのことではないか。
高倉天皇を生んでいる。

藤原成子は後白河のいとこにあたり、正式な后にたてられたのではないが、
1140年代半頃、つまり、懿子がなくなった頃から寵愛を受け、
以仁王、式子内親王他、皇子・皇女を何人ももうけている。

他に何人も「局」とよばれる女御がいる。

懿子が謎すぎる。伝記もあまり残ってない。
皇子の二条天皇は後白河の院政と対立したが早死してしまった。
記録があまり残ってないのはそのせいかもしれない。
後白河がまだ若い皇子の頃の后のせいかもしれない。

多子は二条天皇より年上だったが、それでもわずか三歳上なだけであり、
1161年再入内したときに21歳だった。
まあ、それもかなり特異な例だが、懿子はもっとはずれている。
なんなのかこれは。

懿子は後白河が即位前に死んでいるので、親王妃であり、
二条天皇の生母なので、皇太后を贈られている。
懿子が生きていれば即位後に順当に皇后に立てられただろう。

滋子は後白河が譲位した後の后だから、皇后ではないが、
高倉天皇の生母なので皇太后である。
譲位は1158年、入内と皇子の誕生は1161年。
滋子は平氏なので、身分が低く、女御にすらなれなかった。
皇太后になれたのは結果論である。

忻子が皇后かといえば彼女は中宮でしかない。
この時代、中宮と皇后は微妙に違う。
結局皇后がいないのだ、後白河には。皇太后は二人もいるのに。
へんてこだなあ。
以仁王が皇子であるのに冷遇されて、源頼政を巻き込んでいわゆる以仁王の乱を起こし、
源平の争乱の発端となったのは有名だ。
成子が後白河に最も寵愛され、同じくらいに滋子を寵愛したが、
正式な皇后はいなかった。
実におかしな具合だ。

千載集

千載集を読んでいるのだが、なかなか面白いなあ、歌がというよりも、時代背景が。

藤原道長、赤染衛門、紫式部、和泉式部、清少納言、藤原公任などが多い、というか、目立つのは、先の勅撰集の流れというのもあるかもしれんが、
俊成の文学趣味を反映しているのかも。

後白河院の歌が多い。
千載集は後白河院の院宣によるものであるから、当たり前といえばいえるが、
彼は歌人とはみなされておらず、そもそも歌をそれほどたくさんは詠んでないはずだから、特別待遇といえる。
選者俊成自身の歌を三十も四十も入れるように命じたのは、案外自分の歌が多いのを恥じたからかもしれぬ。

式子内親王は後白河の皇女。
上西門院は後白河と崇徳と覚性法親王の実の姉。
待賢門院は後白河と崇徳と覚性法親王の実の母。
上西門院も、待賢門院も、自ら歌は残してないが、その二代続いたサロンには、
待賢門院堀河や上西門院兵衛と言った女流歌人が多い。
俊成の活躍の場はこのサロンが中心だったのではなかろうか。

千載集には崇徳の歌もたくさん採られているが、後白河と崇徳は保元の乱で戦争までした仲である。
しかし、千載集編纂のころにはすでに崇徳は崩御しており、後白河は崇徳に個人的に恨みもなく、
したがって千載集に採るのに不都合がなかったのだろう。
後白河の性格もあるかもしれない。

崇徳も覚性も歌人として名高いのになぜ後白河だけ歌が下手だったのだろうか。
不思議といえば不思議だ。

俊成の官職は皇太后宮大夫というが、この皇太后というのは、後白河の后の藤原忻子のこと。
また俊成の娘に後白河院京極局という後白河の女御がいる。
彼女は定家の異母姉にあたる。

いずれにせよ俊成と後白河の関係は深い。
選者になったのも当然といえるだろう。

俊成と西行は歌のやりとりもかなりあったようだ。
西行が出家したときに歌を贈っている。

西行と清盛は同じ北面の武士だったから、仲が良かった。
清盛と後白河も非常に深い関係があった。
西行と後白河もおそらく緊密な間柄であり、
待賢門院や上西門院のサロンにも出入りしていたはずであり、
特に待賢門院堀河との交友は有名だ。

つまり、西行の歌が千載集に採られても何も不思議ではないということだ。

他に千載集で目立つ歌人には、覚忠。彼は日記『玉葉』で有名な九条兼実と、頼朝と親しかった慈円の兄だ。
兼実、慈円の入選も多い。

藤原清輔は『続詞花集』を編纂していたが、二条天皇が崩御したために、勅撰ではなく私選となった。
彼の父・顕輔は『詞花集』の選者。『詞花集』は崇徳院の命による。
徳大寺実定は忻子の弟。
源俊頼は『金葉集』の選者、俊恵はその息子。道因は俊恵の知り合いらしい。

源頼政は清盛と同時代の武士で、歌人としても名高い。
叛乱を起こして清盛に討たれたが、その平家も滅んだあとなので、
とっくに名誉回復したのだろう。

二条太皇太后宮肥後、二条太皇太后宮大弐という歌人がいる。
二条太皇太后宮とは誰かよくわからんのだが、
白河院皇女で、堀河天皇皇后の令子のことであろうか。
太皇太后は皇后の先代の先代(?)。
あまりに該当者が多すぎてよくわからん。

ざっとこんな感じかな。つまり、後白河の身内が多い。

俊成自身の歌は、やはり、文学青年っぽい、理屈っぽい歌が多い。
文学趣味がにじみ出ている。
本歌取り、という言い方もできるかもしれん。
源氏物語の愛読者だったのは間違いなさそうだ。
西行とはまったく違う。
西行の歌には古典のにおいがしない。
即興でそのときの思いつきで詠んだような歌。
俊成は一杯勉強した教養をもとに詠んだような歌。

千載集は古今集とも新古今とも新勅撰集とも全然違う。
たぶん雰囲気としては後拾遺とか詞花集とか金葉集に近いのだろうと思う。よく知らんが。

追記:
俊成は西行とまったく違うなどと書いているが、
俊成と西行はかなり似ている。
どちらがどちらをまねたかは知らんが、
本歌取りというより、返歌といってもよいくらい同じ趣向の歌がある(cf. [もろこし](/?p=14586))。
俊成は確かによく学んだ人だが、定家ほど秀才っぽくはない。
西行と定家の間くらいと言えばよいか。

類題集

宣長に『安波礼弁』というものがあるが、これは宣長が京都から松坂に帰ってすぐに寄稿されたものだという。
だから、「或人、予に問て曰く」と冒頭にあるのは、
松坂に帰ってから誰かに聞かれたというよりは、帰郷直前くらいに、
同輩らと議論していてそのように問答があった、と解釈すべきだろうと思う。
その頃のことを、落ち着いてノートにまとめてみたくなったのだ。
『排蘆小船』の方も同じような成立に違いない。

『安波礼弁』を宣長全集で見ると非常に短くて欄外の書き込みなどがあって、
『排蘆小船』よりも未完成なメモ書き程度に見える。
著述という意識は少なかっただろう。
しかし、宣長のいわゆる「もののあはれ」論の嚆矢にあたるものであり、極めて重要だ。

上の書き出しに続いて、

俊成卿の歌に
恋せずは 人は心も無らまし 物のあはれも 是よりぞしる
と申す此のアハレと云は、如何なる義に侍るやらん、

とある。この歌は『長秋詠藻』という俊成の私家集にだけ採られているもので、
自薦の歌であるから、俊成のお気に入りではあったが、しかし、勅撰集に採るにははばかられる何かの理由があったのかもしれない。
何しろ彼は『千載集』の選者だったのだから、入れようと思えば入れられたはず。
『長秋詠藻』は『千載集』とほぼ並行して編纂された。

上の俊成の歌に、西行の

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮

は非常に似ている。
西行と俊成は同時代の人だから、どちらかがどちらかに影響を与えたのはほぼ間違いないと思う。
それがどちらからどちらだったのか。
西行の歌には「こころ」「あはれ」を歌ったものが多い。
いくらでもごろごろとある。
一方、俊成の方は、私はあまり知らないのだけど、
どうも西行から俊成が影響を受けたのではないかという気がしてならない。

他にもよく似た歌がある。
俊成の

いくとせの 春に 心を尽くし来ぬ あはれと思へ み吉野の花

に対して西行の

あはれ我が 多くの春の 花を見て 染めおく心 誰に伝へむ

など。どちらも『新古今』に採られた歌だ。
西行の歌は自分で勝手に詠んだ歌だろろう。
しかし、俊成の方は本歌取りとみてもおかしくない歌ではないか。

俊成が西行をどう思っていたかはよくわからない。
嫌っていたという人もいるようだが、『千載集』にあれだけ西行の歌を採っているのだから、
少なくともその才能は認めていたのだろう。

話は戻って宣長はなぜ『安波礼弁』で俊成の歌に注目したのか。
この歌は非常にマイナーな歌のはずだ。
勅撰集にも採られてないし。
あまり言及されることのない歌だ。
なるほど良くできた歌で、平安王朝風で、いかにも宣長好みの歌ではあるのだが。

宣長は似たような西行の歌も目にしたはずだが、あまりふれてない。
伊勢物語や源氏物語などへ関心が移っている。
思うに、最終的に宣長の関心が源氏物語へ移っていったのは、源氏物語が長編で難読なためだろう、
彼が学者だったからだろうと思う。
古事記にしてもそうだ。
彼は学者として、取り組みがいのあるものに惹かれるが、
それが特に好きなわけではない。
より簡単な命題にはあまり時間をとらないだけだと思う。

宣長が「こひせずば」に出会ったのは『題林愚抄』などの類題集で和歌を学んだからだろうと思う。
現代の普通の人ならば古今集や万葉集、あとは千載集や新古今あたり、
もっと言えば小倉百人一首程度を適当につまみ食いするが、
江戸時代で和歌を勉強するというのは歌道、題詠を学ぶということだった。
したがってあんちょことしての類題集は極めて役に立ったはずだ。
題林愚抄の成立は室町中期というから、勅撰集が途絶えるよりも早い。

だいたいなんでも完全に題で分類するようになったのは、たぶん類題集が一般化してからである。
だって、類題集がなければ題詠もできるはずがない。
鶏と卵の関係。
題詠というものが一般化するよりちょっと前にできた類題集という意味で、注目に値する。
室町時代に入り勅撰集が大量生産というか粗製乱造されるようになる。
武士たちも手っ取り早く教科書が欲しい。
もしかすると武士に頼まれて公家のゴーストライターがまとめたものかもしれん。
『題林愚抄』という名前にそんなものを感じる。

で、宣長は、ばりばりの江戸時代の歌人で、二条派の伝統の上にいたから、勉強に類題集を読む。
そうすると、おそらく、「あはれ」とか「こころ」とかに分類されていたところに俊成の歌を発見したのだろう。
そうでもなければ宣長が、少なくとも初学者の宣長が、あんなマイナーな歌に出会うはずがないと思う。

類題集は、そうやって和歌を横断的に、分析的に学ぶのに適したもので、
宣長のような学究派の人間は重宝したに違いない。

宣長は、新しい歌ができるだけまざってない『題林愚抄』などで勉強しろと弟子に言っている。
そりゃそうだ。古今集や新古今なんかいくら読んでも題詠のやり方なんかはわからない。
良い歌だなあ、それで終わりで、自分で歌など詠めるようにはならない、普通の人間ならば。
宣長という人はどうしても源氏物語や古事記の研究で注目されがちであり、歌の方は大したことなかったからだと思うが、
歌論がはなはだしく軽視される傾向にある。
しかし宣長の学問の根本は若き日から老年まで和歌であり、しかも単なる歌詠みではなくて、
題詠に基づく室町時代に成立した歌道を嗜むという意味での歌人だった。
それを認識した上でないと宣長の書いていることが理解できないことが多い。
現代人は歌を自分で詠まないから、どうしてもそこのところが理解できずに読み飛ばしてしまう。
宣長の著述は膨大だから、自分の関心のあるところだけ読む。
すると自分の関心のままに宣長を解釈することが可能になるから、
宣長という人が人それぞれに全然別の人格のように言われてしまうのだ。

ちなみに私の場合は、今から思えば明治天皇御製集が類題集の代わりを果たしたのだろう。
わかりやすいし、文法にはまったく間違いがないし(当たり前だが)、
しかも時代が近い。
感性が近い。
詠まれる題材も年代が比較的新しい。
あれを暗記するくらいに読んでいれば、一年か二年くらいで自然と自分で歌が詠めるようになる。
古今集なんか読んでいてもたぶん無駄だっただろう。
まして百人一首を暗記しても何の役にもたたない。
似たような、普通の歌がたくさんならんでいるものを何度も学ばねば。
それは語学と同じだ。

蘆庵も古今集を学べとか、古今集は凡人が直接読むには難しいから近世の手引書を読めとかアドバイスしている。
今の人が和歌を読めないのは、そうした江戸時代の資産を読まず、方法論を学ばないからだろう。
明治以降の短歌ばかり見ていては結局何がなんだかわからぬはずだ。
書道や華道や茶道と同じで、ある一定の指導を受ければ現代人でもポコポコ詠めるはずだが、
しかし現代カルチャーセンターの短歌はもはやどうしようもないほどに伝統から遠ざかってしまった。
あるいは、伝統のよからぬところだけが残留した、というべきか。

類題集の中で、宣長は西行や為兼の歌も見たであろう。
しかし、彼らの歌は他の歌から浮きだして異様に思えたはずだ。
少なくとも題詠の参考にまるでならない。
規格外の歌だ。
だから宣長は嫌ったのではないか。
類題集で歌を学んだからなのではないか。

異風に落ちる

宣長の歌論というのは、複雑で壮大だが、どうもすっきりと納得できないところがある。

宣長は新古今の頃の和歌が一番良い、と言っている。
そういう評価をする人は多い。
しかし、では、新古今的な歌を詠めばよいと言っているかというと、必ずしもそうではない。

宣長の場合は、新古今の歌人たちは古今後選拾遺を学んだので新古今的な歌が詠めたのだから、
学ぶのは古今後選拾遺であるべきだ、新古今を学んで新古今的な歌を詠もうとすると異風に落ちる、
などといっている。

古今支持派の意見、例えば香川景樹や高崎正風なども、根っこで言っていることはだいたい同じだろう。
新古今は面白いが奇矯過ぎる。
真似しようと思っても真似できるものではない。
だから基本に戻って古今を学ぼう、と。
正岡子規が言っていることも根本では同じだ。
古今や新古今は良いとして、その後が糞すぎる、と。

事実新古今を学ぶのは容易ではない。
定家、後鳥羽院、西行などはそれぞれ個性が強い。どれが新古今と言う定形がない。
二条派だって、定家の真似をしろとは誰も言ってない。
ただ、定家を本歌として二次創作しろと言っているにすぎない。

新古今の後、和歌は自然と二条派に収束していった。
僧侶階級に理論家が現れ、
歌論が発達し、類題集が編纂され、題詠や歌合などのルールが確立されていった。
二条派への反発も、京極派などであったが、やがて多様性は失われていった。
まるで、西欧における異教裁判のように。

新古今は和歌が一次創作から二次創作へ移り変わる転換点だった、と考えるとわかりやすいだろう。
一次創作は、理論に収まらないから一次創作なのだ。
体系化することはできない。
いきなり天才が現れて忽然と新しい流れがうまれ、理屈では説明できない傑作が生まれるのが一次創作というものだが、
理屈で良い悪いを判断することができないので、キュレーターも評論家も学者も手も足も出ない。
自然と、ある一定の評価が定まるまで、
あたかも火山が噴火して溶岩が冷えて固まって人が住めるようになるまで、待つしかないのだ。

これに対して二次創作は万人が理解でき、万人が参加できる。
西行の真似はできなくても、西行の本歌取りはできる。
もはやそこは手付かずの原野ではない。
きちんと手入れされた里山のようなものだ。

宣長は、理論の天才ではあったが創作の凡才だった。
凡才というのは言い過ぎならば、秀才であった。
したがって、西行や為兼などを恐れた。
二条派を確立した頓阿や、比較的早期に成立した題林愚抄などの類題集などを、
実際には愛した。
人種として、宣長は頓阿に近く、西行からは遠すぎたのだろう。
宣長は、題林愚抄を編纂した室町時代の無名の歌人(歌学者、おそらくは二条派主流にいた誰か)に共感をおぼえたのだ。
為兼についてもそうだろう。自分とは違う人種だと、感じたのにすぎないのではないか。

宣長は「異風に落ちる」ことを異様に恐れた。
西行や為兼を直接批判しているのではないのだと思う。
彼らを真似すると異風に落ちる。
凡人が真似るとよけいに迷走する。
特に為兼には危険な匂いを感じていた。
魅惑というよりも恐怖に近い。
自分自身、彼らの真似をすれば、歌の基準を見失って、歌がまったく詠めなくなってしまう、
そんな危機感を覚えるのだろう。
宣長が実作するに具体的に頼りになるのは頓阿などなのだ。
宣長はのちには、古今を直接学ぶのは難しいから頓阿の草庵集や、題林愚抄で学べ、などと言っている。
そもそも古今や新古今にはまだ題詠などという概念がない。
題しらずの、歌合以外の場所で詠まれた歌がたくさんある。
題詠や本歌取りなどのルールは定家の後、二条派において確立された。
日本の伝統文化のほとんどは室町時代に確立された。
こんにち和歌といっているものも実際には室町時代に完成されたものであり、
それ以前の、生の古今集や新古今集ではないのだ。
現代人は室町までは案外すんなりわかる。
しかし、それ以前は、感覚として、直感として理解することができない。容易ではない。

江戸時代に生きた宣長は題詠から入り、題詠以外の歌が詠めなかった。
宮廷サロンで生まれた「歌道」から外れた歌は詠めない。楽しめない。
「歌道」は「茶道」や「書道」などのように、室町時代に様式化された文化であって、
それ以前の時代の生の作家の生の創作活動とは根本的に違う。
別物といってよい。

宣長は、生まれたときから歌道の上にいる。
題詠以外の歌を詠むときにも、どうしても題詠の作法の範囲の中で詠んでしまう。
おそらく、子供の頃から、そういう詠み方しか知らないし、やったことがないのだ。
題詠を学ぶには室町以降の文献に頼るしかない。

その辺の事情が宣長の歌論をわかりにくくする。
宣長も新古今が一番だと思っている。
とりわけ、定家が好きだ。
しかし新古今や定家を直接真似することができない。
そのもどかしさを感じていたのだろう。
宣長が何度もくどくど繰り返している言い訳のようなものは、現代人から見ればつまりそんなところだろう。
江戸時代の人間、室町以降の人間は、題詠でない歌は詠めない。
題詠を学ぶには室町以降の歌論を学ぶしかない。
そのために遡れるルーツは二条派しかない。
その始祖は定家だが、定家自身を真似ることは不可能だ。

むろん、江戸時代にも、宣長より大胆な、一次創作に挑む歌人はいくらもいた。
小沢蘆庵や香川景樹はそうだっただろう。
しかし、江戸狂歌の歌人たちがそうだったとはちと思えない。
彼らのは二次創作そのものではないか。
それ以上の創意があっただろうか。

秋の夕暮

題しらず

さびしさは その色としも なかりけり 槇立つ山の 秋の夕暮 (寂蓮 1139-1202)

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮 (西行 1118-1190)

西行法師すすめて、百首詠ませ侍りけるに

見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮 (定家 1162-1241)

この『新古今』に並んで収められた三つの歌の成立をどうとらえるのか。
詞書によれば、西行の歌があって、それに対して定家が返歌を求められた形になっている。
従って、西行より定家が後なのはわかる。

では西行は寂蓮の歌を本歌として詠んだのだろうか。
さて、そうだろうか。

年の順で言えば、寂蓮は西行の21歳の年下、定家はさらに23歳年下。
定家は西行よりも44歳も年下である。

西行の歌は1187年に成立した『御裳濯河歌合』に入っており、
定家の歌は1186年にできた『二見浦百首』に、
寂蓮の歌は1191年成立『左大臣(良経)家十題百首』入っているという。
『御裳濯河歌合』は西行の自選集だから、詠んだのはもっと昔かもしれない。

定家は西行を本歌として、寂蓮は定家と西行を本歌として詠んだのだが、それがわかるとすっきり理解できる。

寂蓮はしかも定家という実子が生まれるまで俊成の養子であった。
やや複雑だが、いずれも歌道の家の人間であるのに、その間に挟むように、西行の歌があるのはなにやら悪意すら感じる。
寂蓮と定家は二人とも『新古今』編纂の寄人で、西行はとっくに死んでおり、
寂蓮は選考の途中で死んでしまった。
残された定家としては、このような順序にせざるを得なかったのかもしれない。

「心なき身にもあはれは知られけり」は、俗世を捨てて人の心も捨てたはずの私にも、どうしても、もののあはれというものが感じられる、
という意味だろう。
世の中では、「心無き身」を「情趣を解さぬ粗野な自分」とか「煩悩を捨て悟りを開いた自分」などと解釈するらしいが、
それはおかしい。実にfunnyだ。西行の

惑ひきて 悟り得べくも なかりつる 心を知るは 心なりけり

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

我ばかり 物思ふ人や またもあると もろこしまでも 尋ねてしがな

などの歌を見ればわかるが、西行は、煩悩を捨てきれずに苦しんだ人であり、
煩悩を捨てきれずに苦しむ者こそが真の世捨て人であって、
世捨て人のふりをして何の悩みもないやつは世捨て人ではない、とまで言っている。
また、当然のことながら、風流や情愛のわからぬ朴念仁だと自分を卑下してもいない。謙遜もしてない。
自分こそは、人の心がわかると、もののあはれを知っていると自負しているのだ。
自分くらいわかっている人がいるか、世界の果てまで探してみたいものだ、などと言っているくらいだからなー。
西行ファンで西行を誤読している人が多い。

従って、大意としては、普通の叙景の歌であって、ひねりはない。
素直な歌だ。

しかし、定家のは、実にひねくれた歌だ。
何にも無い、殺風景な、殺伐とした、ただの秋の夕暮れだ、と言っているだけなのだが、こういうものに情趣を感じる人がいるのが不可解である。
この歌はただひねり過ぎてひねくれた歌とだけ解釈すればそれで済むと思うのだが。
もっと言えばこれは西行への当てつけの歌だ。
西行的な、浪漫的で印象絵画風な歌への嫌悪を歌ったものだ。
それ以上のものではあるまい。

寂蓮のはさらに、定家の虚無感を仏教的な無常観につなげようとした、いやらしさを感じる。
しかしこういうものに、世の中の人は、ことさらに幽玄とかなんとかの価値を見いだそうとする。
本歌取りの歌というものは、だんだんにひねくれていくものだ。
最初の歌は素直な、見たままの歌であるのに、二次創作、三次創作となるにつれて、
いやらしさがまとわりついてくる。
特に定家は本歌取りの名人などと言われたわけだが、実にうっとうしいやつだ。

定家は『新勅撰和歌集』というものを一人で選んだのだが、
その前の『新古今』が後鳥羽院の親選だったのを考えると、実に皮肉な題名だ。
『新勅撰集』は定家の私撰集というような内容だからだ。
これはつまり、『新古今』から、
後鳥羽院や西行のような、
主観的で耽美的なものをそぎ落として、なにやらよくわからん虚無的・無味無情なものだけを抽出したようなものだ。
肉食を禁じて精進料理にしたようなものだ。
たとえば、『新勅撰集』にも西行の歌はいくつも採られているが、どれもなんか、気が抜けたような、
西行らしくない歌ばかりなのだ。

定家がたまたま『新勅撰集』でそんな実験をしたというだけなら、大して害はなかったのだけど、
後の人は『新勅撰集』みたいなものを和歌であると、勅撰集であると思い込んでしまった。
これは和歌にとってあまり良いことではなかった。
おそらく為兼はそれをいくらかなりと矯正したかったのだと思う。

たぶん、後鳥羽院は西行を愛してはいたが、
定家のことは、才能はあるがひねくれたやつくらいにしか思ってなかっただろう。
父の俊成とはかけ離れた、よくわからん変なやつ。
しかし世の中は何かよくわからんモノの方をありがたがるものだ。
『新勅撰集』以後、わかりやすい歌というものは急速に減っていった。
為兼がその流れを変えようと孤軍奮闘したが、大勢に抗することはできなかった。

字余り

以前書いたことの繰り返しになるが、
「なぜ宣長は『源氏物語』が読めるようになったのか」という問いに対して、
「人妻への片思いがあったからだ」「熱烈な恋愛を経験したからだ」などという答えを用意することには、反対だ。
そういう論法に従えば「なぜ宣長は和歌を理解できたのか」「なぜ宣長は古事記を読めたのか」という問いに対しても、
「若き日の大恋愛と失恋があったからだ」などというへんてこりんな答えを導き出さねばならぬ。
やはり、宣長は天才であったから、和歌の本質を理解し、『古事記』も『源氏物語』も読めた、といった方がすんなりくる。

字余りについて最初に明確に指摘をしたのは、やはり宣長であった。
彼は千載・新古今から破格の字余りが用いられるようになり、特に西行に顕著であるとみているが、非常に鋭い観察だ。

千載和歌集の選者は藤原俊成、新古今は後鳥羽院である。
特に後鳥羽院は西行の天才を愛しており、そのため西行の歌を積極的に採り、かつ自分も「まねてみた」のであろう。

たとえば千載集では、西行の歌で露骨に字余りなのは

もの思へども かからぬ人も あるものを あはれなりける 身のちぎりかな

くらいしか見当たらないのが、これはまた変な歌だ。「もの思へども」でなく「もの思へど」でも同じだし、
その方が字余りにならない(「ものおもへど」でも六字のようだが、母音が連続する部分は一音とみなすから、五字相当である)。
わざと字余りにしている。京極為兼の歌のようだ。

俊成は勅撰集の選者として一つの先例を残した、という意味でのちの後鳥羽院を勇気づけるには十分だった。
新古今では

岩間とぢし 氷も今朝は とけそめて 苔の下見ず みち求むらむ

あはれいかに 草葉の露の こほるらむ 秋風たちぬ 宮城野の原

小倉山 ふもとの里に 木の葉散れば 梢にはるる 月を見るかな

君去なば 月待つとても 眺めやらむ あづまのかたの 夕暮れの空

世の中を いとふまでこそ かたからめ かりのやどりをも をしむ君かな

思ひおく 人の心に したはれて 露分くる袖の かへりぬるかな

棄つとならば うきよをいとふ しるしあらむ 我が身は雲る 秋の夜の月

風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ 我が心かな

月の行く 山に心を 送り入れて 闇なるあとの 身をいかにせむ

いかがすべき 世にあらばやは 世をも捨てて あな憂の世やと さらに思はむ

と、数多くある。
思うにこれは、後鳥羽院が自ら選んだからこんな大胆なことができたのである。
普通、字余りの歌というのは、臣下の身では遠慮があってなかなか採りにくいだろう。
しかし、好き嫌いのはっきりした後鳥羽院はじゃんじゃん採った。
そして自らも詠んだ。

秋の露や たもとにいたく むすぶらむ 長き夜あかす 宿る月かな

つゆはそでに ものおもふころは さぞな置く かならず秋の ならひならねど

そでのつゆも あらぬ色にぞ 消えかへる 移ればかはる 嘆きせしまに

などがある。いわば自薦の歌だ。後鳥羽院自身は、西行のような歌を、世の中にはやらせたかったのに違いない。

新古今には、まだ多様性があった。
万葉時代の古歌や、古今時代の歌人の歌などもふんだんに採られ、
題のない、題詠ではない歌が大半であり、歌物語ほどの長さの詞書もある。後世の勅撰集や私家集にはあまり見られない特徴だ。
歌物語の書き手がこの時代にようやく枯渇してきたしるしだ。

同時に定家や式子内親王などの同時代の歌も混ざる。
西行と後鳥羽院は新古今の代表的歌人ではあるが、代表的な歌とはいいがたい。
一方定家・式子内親王の方は後の二条派に直結する正当派である。
おそらく新古今的という形容は、定家や式子内親王やそれに類する歌に対するものであり、
西行・後鳥羽院の破格の歌をいうものではない。

時代が下ると、二条派の歌が主流となって、それ以外の「雑多」な歌は排除されるようになった。
西行・後鳥羽院的な歌風は忘れ去られようとしていたのだが、
それをむりやり復活させようとしたのが京極為兼であったろう。
つまり、為兼は、西行が始めたスタイルの方向へ和歌を急旋回させようとしたのだ。
それは為兼自身が二条派の本流に反発したためでもあったかもしれない。
和歌を政治の道具にしたとも言えるかもしれない。
同時に二条派が西行や後鳥羽院らの歌を積極的に好んではいなかった証拠なのではないか。

以前、字余りは京極派、為兼が最初にオーソライズしたのだと書いたことがあったが、それは誤りだった。
最初にオーソライズしたのは俊成で(だが、よく考えると、俊成が西行を好きだった可能性は低く、どこかから強い入選の圧力があったのかもしれない)、
それを後鳥羽院が発展させた。
しかし、定家はそちらへふくらませることを拒んだ。逆にしぼりこもうとした。
そこから後世の二条派の形というものが作られていったのであろう。
定家のやったことは一種の矮小化であったから、そこからはみ出そうという動きはいくらでもあった。
為兼はそれをわざとむきになってやったのに過ぎない。

江戸時代に入ると、もう人々は自分の創意工夫で和歌を詠む能力を失った。
ルールと作法が完全に確立してしまったのである。
だれもが定家以後のしっかりした二条派歌論に基づく歌を詠むようになった。
西行・後鳥羽院・為兼の歌は、歌論になじまない。
逸脱したものを愛好するからだ。
宣長が嫌った理由もそこではなかろうか。
宣長はしかし西行や後鳥羽院の歌をどう感じたのであろうか。