風雅集

岩佐美代子『風雅和歌集全注釈』を読み始めた。上中下三巻たっぷりある。
も少しコンパクトでもよかったのだが、まあいいや。

為兼

> 降る雪も山もや変はる変わらじを心よりこそ春は立ちけれ

> 今日に明けて昨日に似ぬはみな人の心に春の立ちにけらしも

> しづみはつる入り日のきはにあらはれぬかすめる山のなほ奥の峰

> 鶯の声ものどかに鳴きなしてかすむ日影は暮れむともせず

すごい歌だな。やはり為兼は別格だ。

貫之

> 春立ちて咲かばと思ひし梅の花めづらしみにや人の折るらむ

わろす。さすが貫之。彼はこういう歌が多いんだなあ。

定家

> なにとなく心ぞとまる山の端に今年みそむる三日月の影

定家は影が好きなんだな。

後鳥羽院

> 朝日さすみもすそ川の春の空のどかなるべき世の景色かな

> 松浦潟もろこしかけて見渡せばさかひは八重の霞なりけり

なんかゴージャスで大いばりな歌だなあ。派手好みな若き帝王って感じだよなあ。

崇徳院

> 春来れば雪げの沢に袖垂れてまだうらわかき若菜をぞ摘む

「うらわかきわかな」とは大胆な反復だなあ。

読み人しらず

> 人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かな

為氏

> 人もなき深山の奥のよぶこ鳥いく声鳴かば誰かこたへむ

光厳院

> つばくらめすだれのほかにあまた見えて春日のどけみ人かげもせず

おもしろいなこれ。わざと字余り。「あまた見えて」でなくて「あまた見え」でも良いはず。

蘆庵と宣長

[宣長年譜1757年](http://www.norinagakinenkan.com/nenpu/nenpu/n0183.html)

> 宝暦7年8月6日 (1757/9/18)
○8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる。

> 『在京日記』(宣長全集:16-128)。
本庄七郎は、小沢蘆庵。蘆庵は享保8年(1723)生まれで宣長より7歳上。寛政5年(1793)上京の折にも対面、唱和する。その時の蘆庵の詞に「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」とある。宣長が京都に遊学した年には既に30歳であるから「わがはたち余り」はあるいは記憶違いか。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。

廬庵が1757年に宣長と出会い、宣長の『排蘆小船』に廬庵の「ただごと歌」の影響がある、
とすればこれはかなり重大なことになる。
「ただごと歌」の主張と、『排蘆小船』のありのままに歌を詠めという主張は、
いずれも紀貫之の古今序に基づいていて、極めて近い。

廬庵は1723年生まれ、宣長は1730年生まれ。当時、廬庵34才、宣長27才(いずれも満年齢)。
「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、」というのは、つまり自分が二十代の頃に、という意味であり、
話のつじつまはあう。
というよりも、宣長はもっと早い時期に廬庵と会っていたかもしれない。
日記に書かれていないだけかもしれないのだから。
宣長は1753年、冷泉為村門下の森河章尹に入門した。
廬庵もほぼこれと同時期に為村の門人になった。
同じ京都の同じ門下である。
これ以後二人がたびたび出会っていてもおかしくない。このとき宣長はまだ23才。
まさに「はたち余り」の頃である。
月次会の席で、少なくとも年に数回は会っており、場合によっては、
個人的に頻繁に連絡を取り合っていてもおかしくない。
このことは、繰り返すが、極めて重大なことなのである。
なんとか証拠固めしたい。

廬庵という人の経歴はわかっているようでまったくわからない。
宣長の場合こまごまと日記をつけていて、それもふくめて著述のほぼすべてが完全な形で残っており、しかも全集としてまとめられている。
正に一次資料・一級資料であり、研究がやりやすいといったらない。
しかし、廬庵のよく知られた六帖詠草などは、割と年を取ってからの歌しか採られていないようだ。
宣長と出会った30才の頃にどんな歌を詠んでいたか、それもよくわからない。

[江戸中後期における三都間の歌壇の対立](http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/2006/ja/issue/pdf/pdf_0309city-fiction/07arokay.pdf)。
ドイツの日本研究者が書いたもののようである。
少し面白い。

> 職仁親王とその弟子である谷川士清や特に言語学者として知られている富士谷成章の流派、武者小路実岳と弟子の澄月や伴蒿蹊の流派、そして冷泉為村と弟子の小沢蘆庵、慈延、涌蓮の流派である。後には為村と実岳が激しく競争するようになったが、弟子の澄月と蘆庵が特に対立的であった。

> 大坂の歌壇では烏丸家や有賀長因の歌学を受け入れた加藤景範が中心的存在になり、初心者向けの歌学書を出版したり、京都の歌人である長因・蘆庵・澄月などの歌と自詠を歌集に編んだりした。先に述べた、和歌の普及に功績のあった有賀長伯と同じように、通俗歌学書によって大坂での和歌の普及に貢献した。

なるほど、当時の京都・大阪の歌壇とはこうしたものだったのだろう。
有賀長因は、松坂に帰った宣長が添削を頼んだ有賀長川のこと。
烏丸光栄は為村の師で霊元天皇の弟子。
有栖川宮職仁親王は霊元天皇の皇子で光栄の弟子。

谷川士清は宣長と比較的似た経歴の人で、三重県津の出身で京都で医者となり、職仁親王に歌を習って国学者となった、とある。
宣長のライバルとして描いたら面白そうな人だな。

加藤景範は医師で薬売り。大阪にいたのだろう。

宣長が有賀長川に添削を頼んだのは、長川が弟子をたくさん取って通俗的な添削などを商売とするような人だった、
というだけのことだったのではなかろうか。
ある意味、後の香川景樹に似てはいないか。

富士谷成章は京都生まれ、職仁親王の弟子で国学者、宣長は彼を評価していたようである。

武者小路実岳は堂上家。

伴蒿蹊は京都の商家の出。

澄月は子供の頃上洛して比叡山に登り僧となったようだ。
慈延も似たような境遇の人のようだ。

涌蓮は伊勢の人で江戸にいたが出奔して京都・嵯峨に住む。

[小沢蘆庵の人となり・事績](http://www.sobun-tochigi.jp/hurusato/matome.html)

> 小沢家は大和宇陀郡松山藩。

> 享保8年(1723)難波に生まれ、京都に住した

> 若き時本庄家の養子となり、本庄七郎などと称した。

> 武技にも長じ、鷹司輔平に仕えたが、致仕後は歌人として一生を送った。はじめ冷泉為村を師としたが、破門後一家の説を立て、巧まぬただ言を主張し、清新平坦しかも雅趣ある作品を残した。

> 澄月・慈延・伴蒿蹊・上田秋成・入江昌喜・加藤千蔭らと交友があった。

> 晩年契沖を尊び、その著書を集め翻刻の意があった。静嘉堂文庫蔵『さいうの記』21冊には契沖説の書抜が多い。
流布の刊本『六帖詠草』のほかに稿本『六帖詠藻』47冊(自筆本静嘉堂文庫蔵)やその系統の本もまた知られている。
著書としてほかに『ふり分髪』『ふるの中道』などがある。※阿部註:編著書類は50書にのぼる。

宇陀というのは、大和の飛鳥の辺り。南紀の山間部、といったほうがわかりやすいだろう。
そこの武士の子孫として大阪に生まれ、のちに京都に移り住んだ。
養子となり、士官もしたが、四十代半ばに浪人になっている。
それ以上のことはわからん。

上田秋成との交友とは晩年近くのことだろう。

入江昌喜は大阪の商人で、隠居後に国学を研究した。

加藤千蔭は有名な江戸の文人で、御家人。馬渕や田安宗武などの一派だわな。
おそらく書簡上のつきあいで、盧庵と直接会って交友したわけではあるまい。

上の引用の中には入ってないが、香川景樹とも交際があったはずだ。

排蘆小船

『排蘆小船』だが、万葉集に出てくる

11: 2745 湊入之葦別小舟障多見吾念公尓不相頃者鴨
(湊入りの葦別け小舟障り多み吾が思ふ君に会はぬ頃かも)

12: 2998 湊入之葦別小船障多今来吾乎不通跡念莫
(湊入りの葦別け小船障り多み今来む吾をよどむと思ふな)
或本歌曰 湊入尓蘆別小船障多君尓不相而年曽経来
(湊入りに葦別け小船障り多み君に会はずて年ぞ経にける)

から来ているとする説が一般的だが、しかし、和歌データベースで検索すると、37件もあって、後世の勅撰和歌集でもしばしば使われていることがわかる。

題しらす 人まろ みなといりの葦わけを舟さはりおほみわか思ふ人にあはぬころかな
(拾遺)

辛しなほ葦別け小舟さのみやは頼めし夜半のまた障るべき
(続拾遺1279年)

おくれても葦別け小舟入り潮に障りしほどを何か恨みむ
(続後撰1304年)
道あれと難波のことも思へども葦別け小舟すゑぞとほらぬ
後嵯峨院 (同上)

澄む月のかげさしそへて入り江漕ぐ葦別け小舟秋風ぞ吹く
為藤 (後千載1320年)

うきながらよるべをぞ待つ難波江の葦別け小舟よそにこがれて
(新千載1359年)
同じ江の葦別け小舟おしかへしさのみはいかがうきにこがれむ
為世 (同上)

以下略。で、このように「排蘆小船」なる言い回しが頻繁に使い回されているのは、三代集の一つ『拾遺集』
の中に、柿本人麻呂の歌として一首採られているからであろう。
宣長が万葉集をこの時期に直接読んでいたとは必ずしも言えない。
三代集ならば和歌を志すものは誰もが直接読んだはずだ。

意味としては、学問の道に障害が多くてなかなか先へ進めない、ということを言っているだけだと思う。

おやおや、頓阿が『草庵集』で何度も「葦分け小船」を使ってるぞ。これはもしや、宣長は『草庵集』を読んだだけかもしれんね。

なみのうへの-つきをのこして-なにはえの-あしわけをふね-こきやわかれむ
こきいつる-あしわけをふね-なとかまた-なこりをとめて-さはりたえせぬ
なみのうへの-つきのこらすは-なにはえの-あしわけをふね-なほやさはらむ
ありあけの-つきよりほかに-のこしおきて-あしわけをふね-ともをしそおもふ
なにはえの-あしわけをふね-しはしたに-さはらはなほも-つきはみてまし
さりともと-わたすみのりを-たのむかな-あしわけをふね-さはりあるみに
しもかれの-あしわけをふね-こきいてて/なみまにあくる-ゆきのとほやま

ところで、『排蘆小船』は、「もののあはれ」論の原型であるとして、
『安波礼弁』を起稿し、『源氏物語』の講釈を開始した、帰郷後の宝暦8(1758)年頃に成立したのではないか、
宝暦9(1759)年に書いたんじゃないかという説もあるが、
そんなに後ろに引っ張ることはないんじゃないか。
なんでもかんでも「もののあはれ」で解釈したがるのは悪い癖だ。
歴史的仮名遣いがまだからきし使いこなせてないことや、内容がまだそれほど国学っぽくないところをみると、
かなり早い時期、つまり、小沢廬庵と二人で、冷泉為村の悪口を言い合ってた時期に書いたものではなかろうか。
つまり、宝暦7(1757)年8月頃、京都遊学最後の最後の頃。
『排蘆小船』は問答集の形を取っているが、その相手が廬庵だと想像するのは楽しいではないか。

も一つ、国文では普通、「あしわけをぶね」を「葦分け小船」「葦別け小船」などと書く。
しかしそれをわざわざ漢文調で『排蘆小船』と書いたのは、儒学者の堀景山の下で、わざわざ漢文で日記を書いていた時期に成立した、
ということを示唆しないだろうか。こういう漢語臭のする題の著書は他に『紫文要領』くらいか。
『源氏物語』をわざわざ『紫文』と言い換えるあたりがいかにも漢語的だ。

宣長の結婚2

やっと図書館が開いたので大野晋『日本語について』岩波書店同時代ライブラリーと、丸谷才一『恋と女の日本文学』講談社、を借りてきた。
大野晋が宣長と草深多美の再婚について言及しているのは、宣長全集に挟み込まれている記事で知り、
さらにネットで検索してだいたいのことはわかったのだけど、ともかく原著にあたってみようと思ったのだ。

まず、『恋と女の日本文学』の方だが、こちらは「恋と女と本居宣長」という文があり、何かの講演のような体裁になっているが、
1995年2月号の「群像」に直接掲載されたもののようだ。
その9の中の「大野晋さんの説を紹介することになるでせう。」(p80)から以降の部分に記述してある。

『日本語について』の方はI語学と文学の間―本居宣長の場合―「美可」と「民」という箇所だ。
こちらの初出は 1976年日本書籍社版『日本語について』らしい。

大野晋は、

> 外にとりたてた証拠はないのです。

と断っているし、丸谷才一もまた、

> 小説家らしい想像力の働かせ方と笑はれるかもしれませんが、しかしここからの展開ぶりはちよつと小説的である。

と言い訳めいたことを書いている。
つまり、ふたりとも、是が非でも真実であると主張したいわけではない。
でも、一つの可能性として、仮説として、世に問うに値する、といいたいらしいのだ。
特に大野晋の場合には1994年に再度岩波書店から同じ内容で出しているのだから、自分の説にそれなりの自信があるということだ。

私は子供の頃から丸谷才一も大野晋も大ファンで大きな影響を受けたから、むしろ、
なぜ彼らはそのように判断し、しかし私はそうは思わないのか、という点に非常に関心を持った。
きっと私以外の人たちはふーんそうなの、と考えてそれ以上追求したりしないだろうと思う。

宣長は京都から松坂に帰郷してから三年間結婚しなかった、いかにも不思議だ、何か未練でもあったのだろう、
と彼らは考えているのだが、それはどうでもよいことだ。
宣長は二十二歳と、学問を始めるにはかなり遅い時期から遊学している。
無論彼は松坂でずいぶん早い時期から学問をしていて、その結果意を決して京都に上ったのだろう。
さらにそれから五年間も京都にぐずぐずして、師匠が死んでやっと帰郷していて、しかも三年間も結婚していない。
私が思うに、この二十二歳から八年間の長い長いモラトリアムは、
単に宣長が学問好きだったからとか、独身でいたかったからではなくて、
結婚したかったけどなかなかうまい縁談がみつからなかったからだろうと思う。
京都ではどこか医者の娘のところへ婿入りできないか探していた。
松坂に帰ってからも、一年か二年の間はその運動を続けていた。
それらがすべてうまくいかなかったから、地元の有力者の娘と結婚したが、それもうまくいかなかった。
仕方なく知り合いの妹の後家の女と結婚した。
そう考えるのが一番自然だ。

大野晋は日記の文体のリズムが、最初の妻の美可(旧名ふみ)のときと、二度目の多美のときで違う、などと書いている。
しかし、それにしても、美可のときは初婚で大家との縁談なので緊張していただけかもしれんし、
多美のときは再婚で気負っていただけかもしれん。それだけのことのような気がする。

さらに、大野晋と丸谷才一が言いたいのは、宣長が仏教や儒学からの呪縛から逃れて、
『源氏物語』を読み解く目を持ち得たのは、多美への未練を三年間持ち続けていたからだ、などと言っているのだが、
そんな重大な結論が導かれるには、これだけの状況証拠では足りなすぎる。

宣長が儒教や仏教などの呪縛から自由だったのは、なぜかだが、この問は、
信長がなぜ比叡山を焼き討ちして本願寺を武装解除できたのか、という問と同じだ。
白河天皇が手を焼き、清盛が甘やかした寺社勢力というものを、なぜ突然信長が中世の宗教的桎梏から解き放たれて、
徹底的に弾圧し得たのか。
信長が天才だったからだろう。
そうとしか言いようがない。

宣長の場合、自ら歌を詠み、古今集や新古今集、伊勢物語や源氏物語を「原著」で読んだであろう。
さらに定家や契沖の歌論書など片っ端から読んだ。
その経験が「国学」というものを突然創始させたようにみせた。
少なくとも定家や後鳥羽院の頃までは、日本人は儒教や仏教にとらわれず、自由に歌を詠んだ。
そこから直接学べば、外来思想の影響は受けにくい。
また、国学の祖といわれる契沖は、
定家よりも古く、万葉集や日本書紀、古事記などを研究していたから、
宣長もまた、定家の頃にはすでに忘れられていた古い古典にさかのぼって国学というものをうちたてねばならないと考えていた。
宣長が古事記の研究をライフワークとしたのも、契沖がそのとっかかりを与えてくれたからだろう。
源氏物語を読めるようになったのも、第一には契沖の影響だろう。

蘭学の影響もまったくなくはなかったかもしれない。
医者にとって、少なくとも医者のコミュニティの中では、蘭学の影響は無視できないはずだ。
仏教があり、儒教があり、それとは別にキリスト教というものがある。
学問の世界はすでにいろんな説に分かれて相対化しつつあった。
宣長も京都に上っていろんな学問のうちどれをどのくらい学ぼうかと品定めくらいはしただろう。
そういう雰囲気の中に第四の学問として国学を創始するべき時運が整っていたのだろうと思う。

さらにいえば、戦国時代や江戸初期の歌人、とくに武将などは、わりと自由に歌を詠んだ。
必ずしもイデオロギーに囚われてはいなかった、と思う。
誰も彼もが心を縛られているのではない。
宣長はもともと浄土宗だが、自らそのくびきから逃れている。
ただ、仏教や儒教から逃れて国学に徹したのではなかった。
仏式と国風の二つの墓を作ったくらいだ。彼は宗教というものを相対化していた。

宣長もまったく恋愛を経験しなかったわけではなかろうが、それは草深多美への片思いだった可能性は低い。
一番可能性が高いのは、日記にも記されていない、あるいは記したが後世には残されなかったところにあるかもしれない。
それはたぶん五年間という長い長い京都遊学時代のどこかだと思うが、何も証拠は残ってない。

熱烈な恋愛を経験したから源氏物語が読めるようになるのであれば、そんな人間はいくらでもいるだろう。
しかし当時の多くの日本人は、仏教や儒教に囚われた、曽根崎心中のような浄瑠璃に感情移入したのであり、
当時すでにあまりにも浮世離れした源氏物語に結びつけるには飛躍がありすぎる。

古今伝授の真相

この「古今伝授」なる珍現象を考えるに、最初にでっちあげたのは東常縁という人だったに違いないが、
宣長も言っているように彼はただの小者であって、とやかく批判しても仕方ない。
三条西実隆と言う人は、ごく普通の教養人のような人だったろう。
宣長は、彼は利口な人であって、自分の家が歌道の権威を独占するためやったのではなかろうかというが、そこまで腹黒い人だったとはちと思えない。

細川幽斎という人は、武士らしい斬新な歌を詠む人であり、この人が古今伝授などというものを墨守していたはずがない。

思うに、主犯は冷泉為村、またはその師匠たちではなかろうか。つまり江戸中期の公家たち。
為村は霊元院から直接古今伝授されたと言っている。
霊元院は後水尾院から。
古今伝授というものが権威付けされたのは、江戸初期から中期にかけての、
後水尾院と霊元院の二代の院政期であって、
それ以前は特に注目もされてなかっただろう。
天皇家の秘伝となるといろんな輩がそれを箔づけに利用したがるに違いない。
それが為村だったのだ。
彼がわざわざ紀貫之までさかのぼって、古今伝授を由緒ありげなものにしたてたのだ。

私はかつて、古今伝授は応仁の乱の後の戦国のどさくさに捏造されたのではなかろうか、と推測したわけだが、
要するにこの時期は南北朝のように何もかもでたらめで、まともな記録が残ってないので、後世の人がいろいろと捏造するのに都合良いのだ。
後水尾天皇の歌もまだ江戸初期なのでのびのびとしている、ように思える。

類題集というものも後水尾天皇より前からあったが、江戸期に入って世の中が落ち着いてくると、
暇つぶしにこの手のデータベース作成的な事業が盛んになった。
後水尾天皇と霊元天皇が勅撰したという類題集がその精華だと言える。
後水尾天皇には、応仁の乱で途絶えた勅撰集を復活させようという圧力が、公家からも武家からもあっただろう。
だが、後水尾天皇は幕府が大嫌いだった。
勅撰集を出すには足利氏の頃の慣例に依らないわけにはいかない。
後鳥羽院の昔に戻すわけにはいかない。
室町時代の勅撰集とは、武家、公家、天皇の三位一体で量産されていたから、
天皇が勅撰集を出すということは、武家の協力を仰ぎ、彼らと和歌の権威を分かち合うことに他ならない。
足利氏の時代に確立された、公家や天皇家に対する武家の桎梏とはそこまで強固だったし、
徳川氏の時代にはさらにそれが強化された。
一挙手一投足、すべては武家の監視下に置かれたのだ。
天皇は、宮中ならびに公家諸法度やその他の有職故実に記されたとおりに行動しなくちゃならない。
後水尾天皇はそんな窮屈なことに縛られるのはまっぴらだっただろう。

しかし公家たちは天皇の権威の下で勅撰集の編纂事業がやりたくて仕方ない。
やむをえず、一応勅撰という形はとるが、武家を交えず、秀歌を選りすぐるなどという作為を交えず、
公家たちだけで淡々と類題集の編纂という形の活動をしたのではなかろうか。
冷泉為村もまた、そういうこすっからい公家の一人だったのだ。

となると、古今伝授の権威付けには、後水尾天皇と霊元天皇だけでは足りず、
紀貫之までの連綿とした伝統が欲しい。
後陽成天皇が細川幽斎の助命嘆願をしたというのを、古今伝授が失われるのが惜しい、という理由にすり替え、
さらに三条西殿三代というのをやたら持ち上げて和歌の中興などと位置づけた。
為村は、よほど自分の才能に自信がなかったと見える。
そうやって過去の権威にひたすらすがろうとしたのだろう。
宣長や蘆庵はそういう為村を目撃したのである。
だからあんなに厳しい批判を加えたのだが、敵はそんな大昔にいたのではなかったのだろうと思うよ。

【コミュニティの一生】
面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする ←ニュー速いまココ

面白くないので皆居なくなる

このコピペ、偶然みつけたんだが面白いな。まったく同じ話だわな。

宣長の儒学

宣長は、京都の堀景山の門下生となって儒学、つまりは漢学を学び、その間はずっと漢文で日記をつけた。
思うに、公家はずっと公式の日記を漢文で書いてきた。
定家の日記にしても、九条兼実の『玉葉』にしても、『吾妻鏡』にしろ漢文だから、
ともかく漢語を知らぬことには国学もできないわけであり、彼にとっても必須教養を学んだわけだ。
頼山陽のような学び方とは無論まったく意味が違っただろう。

逍遥院実隆

古今伝授の祖とされるのが室町末期・戦国初期の武将の東常縁。
本家は関東の千葉氏であるという。
お家騒動があって千葉氏が下総千葉氏と武蔵千葉氏に分かれて戦った。
東常縁は将軍足利義政に派遣されて、大石氏を頼り葛西城に居た武蔵千葉氏の実胤、
太田道灌と同盟して赤塚城に居た実胤の弟の自胤と共に戦ったという。
東常縁の父は素明法師と呼ばれる東益之で、
最後の勅撰集・新続古今集に歌が採られ、またその祖先・東胤行は藤原為家の娘婿であり、
母方が定家の血を継いでおり、
常縁は頓阿の曾孫・堯孝の弟子で、また冷泉為尹の弟子・正徹にも学んだそうだ。

常縁によれば、この古今伝授なるものは、紀貫之以来の相伝が、
藤原基俊から弟子の俊成へ、俊成から子の定家へ、
定家から子の為家へ、
為家から二条家の祖・為氏へ、
為氏から子の為世へ。
為世の時代には二条家は漸く衰微して、定家の子孫の中では冷泉家だけがなんとか命脈を保った。
そこで為世の弟子の中でもっとも有力だった頓阿に古今伝授が伝えられ、
頓阿の子孫の堯孝から常縁に伝えられた、と言いたいらしい。
頓阿もまた藤原氏の末裔であるというが、ほんとうだろうか。
後世の人の願望が込められてはいないか。

東常縁は宗祇に古今伝授を伝え、
宗祇は三条西実隆に伝え、実隆は子の公条に、公条は子の実枝に伝えた。
実枝は細川幽斎に伝え、幽斎は実枝の孫の実条に伝えた。
あるいは幽斎は八条宮智仁親王に相伝し、智仁親王は兄・後陽成天皇の皇子・後水尾天皇に伝授し、
後水尾天皇は皇子の霊元天皇に伝授した、ということになっている。

それで、『排蘆小船』を読むと、

> 西三条殿三世を、世には道の中興のやうに思ひて、この人々を神のやうに敬へども、
実は歌道の中興にはあらで、此の時より歌道大いに衰えたり。

などと書かれている。
西三条殿とは三条西実隆のこと。三世とは、実隆、公条、実枝のことだろう。
江戸後期の歌壇の雰囲気がやや伝わってくる。
また、

> 西三条殿逍遥院実隆公、和漢の才ありて、ことに歌学に達し、詠歌もすぐれたまへり。
この人まことに歌道の中興にして、今に至るまで仰ぎ信ずることかはらず。

などと言っているので、宣長は実隆を一定に評価していることがわかる。
[実隆公記](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E9%9A%86%E5%85%AC%E8%A8%98)
など読むと、実に多芸多趣味な人だったことがわかる。

実隆は応仁の乱で勅撰集というものが途絶した後に出た歌人なので、
当然勅撰集には採られてない。この時代から以降は勅撰集という基準がないので、
誰がその時代を代表する歌人かがわからずやっかいだ。
ちなみに東常縁について宣長は

> もとよりいふにたらぬおろかなる人

とまったく評価していない。

ついでだが、明治天皇の和歌指南役に三条西季知がいるが、季知はむろん実隆の子孫である。
冷泉家が定家子孫直系。三条西家が古今伝授の総本家。
他には最後の勅撰集の選者を出した飛鳥井家などが和歌の堂上家の代表。

改めて高崎正風の『歌ものがたり』を読みなおしてみると、初期の御歌掛には、
季知の他に福羽美静、渡忠秋が居たとある。
季知と美静はいずれも孝明天皇の近習であるから、明治天皇が京都で皇太子だった頃から、
和歌を教えていた可能性が高い。
渡忠秋は香川景樹の弟子、正風と同様桂園派である。
季知と美静は孝明天皇派であると同時に長州派でもあり、
ふたりとも七卿落ちのメンバーだ。
正風と忠秋はどちらも明治七年とかそのくらいから出仕したのだと思われる。

そのほか、西四辻公業や有栖川宮幟仁親王も明治天皇に歌を教えたとある。
西四辻公業は高松公祐の子。
高松公祐は季知の歌の師とのこと。

宣長の歌

宣長が和歌に志し、『和歌の浦』を執筆し始めたのは延享4 (1747)年11月14日のこと。
生まれた日は享保15 (1730) 年5月7日なので、満17歳の時。
『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」

> 十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、
よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、
人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき

宣長が初めて歌を詠んだのは、延享5 (1748) 年正月のこと。

> 此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける
> 新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空

寛延2年3月20日 (1749/5/6)
> 同二年【己巳】従三月下旬、詠和歌受宗安寺〔中ノ地蔵立〕法幢和尚之添削【自去年志和謌、今年ヨリ専寄此道於心】また、三月下旬ヨリ、宗安寺ヨリ歌ノ直シヲ受ル、「杉ナラハ、「ハル/\ト、「カクヲシム、「ナニハヱノ、「池水ノ、始テ五首ヲツカハス

この[法幢和尚](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/houtoku.html)というのが、初めて宣長が歌を添削してもらった人、
つまり最初の師匠ということになる。
どんな人かはそれ以上はわからない。

寛延2年9月10日 (1749/10/20) 定家の歌論書『詠歌大概』『秀歌体大略』などを筆写する。

なぜ和歌に興味を持ったのか、いろいろ理屈を考えてみたが、京都に行ったり、
父が商売していた江戸に行ったり、
また吉野や伊勢神宮に参拝したりなどして、自然と和歌に関心をもった、
という程度のものなのだろう。

宝暦2(1752)年3月上京。上京というのはこの当時は当然京都へ行くこと。

> 母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒学をもせむとてなりけり

> 景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす

堀景山とは儒学者で医師。
また、契沖の研究者で、景山の紹介で契沖の『百人一首改観抄』を読む。
宣長は契沖を高く評価しているがそれは師匠景山の影響だろう。

宝暦2年9月22日、新玉津嶋社を訪い社司森河章尹に入門、
新玉津嶋社和歌月次会に約1年ばかり出席するようになる。
この森河章尹という人が、法幢に続いて宣長の二番目の和歌の師範となる。

宝暦2年11月 (1753/1/3)

> 年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉もはか/\しくよしあし見わくる人もなき事をうらみて同し題(浦千鳥)にておもひをのへ侍りける/和歌浦たちよるかたを浪間にそ夜半の千鳥の鳴あかすなる/浜千鳥鳴こそあかせ和歌の浦やたつらんかたもなみのよる/\

と言った具合に、宣長は森河章尹という人が歌の良し悪しもわからぬ人だと言っている。
森河は藤原氏であり、冷泉為村の弟子である。
為村(正徳2年1月28日(1712年3月5日) – (安永3年7月29日(1774年9月4日))は正真正銘、
堂上家の歌人であり、霊元天皇(承応3年5月25日(1654年7月9日) – 享保17年8月6日(1732年9月24日))に古今伝授を受けた。
霊元天皇が添削した詠草が現存するらしい。
冷泉家というのは定家の唯一の直系の家系でもある。

宣長が、『排蘆小船』で古今伝授のことを激しく攻撃しているのは、
この森河や為村のことを指している、と言って間違いなかろう。
古今伝授がでっちあげだと初めて主張したのは契沖で、
宣長も全面的に賛同している。

小沢蘆庵は為村の弟子だったが破門された。
宣長と蘆庵は、宣長が京都遊学中、宝暦7年8月6日(1757/9/18)出会っている。
蘆庵と宣長の接点は森河か為村しかない。
為村は当時まだ存命中だ。
新玉津嶋社和歌月次会で顔見知りになったと考えるのが自然だ。
この年には師匠の景山が死去し、宣長はただちに帰郷している。

宝暦8年2月11日地元松坂の嶺松院歌会に初めて出席し、有賀長川に添削を受けている。
つまり彼が宣長の三番目の歌の師範となる。
長川は有賀長伯という比較的有名な二条派の歌人の嗣子。
松坂に住んでいたのでなく、おそらく大阪か京都に居て、宣長は書簡で添削を受けたのだろう。

宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

深読みとオカルト

> 江戸時代には、和歌の家には、堂上と地下という区別が付けられていた。和歌の用語で、堂上とは、宮中に参内する資格を持つ公家がいて、その中で和歌を詠むのを家業としている公家の流派を言う。当時、どの公家がどの家業を受け持つかということが厳しく決められており、それは世襲だった。笛の家、琴の家、琵琶の家、能の家、歌道の家、書道の家と決まっていた。堂上以外の公家や武家や町人はみないっしょくたに地下と呼ばれた。堂上には「古今伝授」という秘伝が代々伝承されており、これの免許皆伝でなくては流派を継げない。

> 古今伝授とはようするに『古今集』の序文や歌の解釈の秘密を流派ごとに独占的に伝授したものだ。たとえば「 百千鳥ももちどり」という言葉がある。これにはいくつもの解釈があって、普通は「何百何千というさまざまな鳥」、つまり何か特定の鳥を言うのではなく、種々雑多なたくさん群れている鳥のことを言うと考える。しかし、たとえば堂上のある流派はこれを「百匹の千鳥」と解釈する。またその「千鳥」も「シロチドリ」だとか「メダイチドリ」だとか、いわゆる普通のチドリ目チドリ科の千鳥ではなくて、古来は別の種類の鳥を指していたのだ、などと独自の解釈をする。こうして、歌に詠まれるさまざまな言葉を故意に「深読み」し、歌ごとにそれぞれ独特の解釈をして、それが一般人の知るよしもない極意であるとした、いわば「オカルト」「疑似科学」的なものである。契沖や本居宣長などの国学者が古文辞学的に解明したように、そのような解釈は藤原定家やまして紀貫之の時代には存在しておらず、戦国の動乱期に捏造されたものであって、なんら根拠はないのである。

これは、[歌詠みに与ふる物語](http://p.booklog.jp/book/33114)の中の、有料でしか読めない部分に書いたことだが、
「古今伝授」というものは江戸時代まで続いた。
その後、世の中では「和歌」を「短歌」と呼び変えるようになり、「古今伝授」などという古めかしいものも絶えてしまったかのように思われている。

しかし、今の文芸評論というものも、意味不明の深読みをありがたがる、
深読みに深読みを重ねて、自分の世界に行ってしまって帰ってこない、
という点においてはオカルトと何ら変わりない、
と思うことがしばしばある。
新古今から室町末期の正徹辺りまでの和歌を論じるときに、その傾向が強い。
というのは、古今までの和歌というのはシンプルでわかりやすかった。
江戸も末期になってくると、香川景樹とか小沢廬庵、良寛のように、わかりやすい歌が現れる。
しかし、新古今以後の勅撰集の和歌は、歌そのものはともかくとして、それに対して語られる歌論がわけわからん。
つまらん歌にくどくどと理屈をこねているだけとしか思えない。
そんな歌よりも面白いものは江戸時代の文人の歌にいくらでもある。

江戸時代の一部の文人たちは、自分たちの時代の、「現代的」な歌を作り出そうと努力した。
一方で、和歌というものがわからなくなった連中は、過去にこそ真の、究極の歌があるのだ、和歌は死んだ、
和歌は公家社会とともに、応仁の乱の劫火に焼かれて死んだ、などと主張して、
ますますわけのわからぬ、ロジックとも信仰告白ともつかぬ理屈をこねくり回すようになった。
現代とまったく同じだ。

だいたい、和歌を鑑賞するのに、その詞書きや本歌や、いわゆる王朝サロン固有の解釈、などというものを知らねば、
本当には味わいがたい、などと言っているのは、「古今伝授」とまったく同じ論法であって、
そんなもので素人をけむにまいておもしろがっているのではないか、としか思えない。

意味のよくわからない歌というのは、何かの歌合の題詠であったり、絵に付ける画賛であったりする。
そういうものは、一応プロがきちんと調べて解説を加えなくてはわからん。
だが、題詠であろうと、画賛であろうと、そのまま鑑賞してみて、それなりにおもしろみのあるものでなければ意味はない。
そのままで面白いものが、その由来を聞いてみてさらにおもしろみが増すとか、理解が深まるとか、そういうものであり、
だから普通に素人は、そのまま読んで面白いものを愛好しておればよろしいのだ。
ただそれだけのことだ。
いらん格付けをされても迷惑だ。

江戸時代の景樹、廬庵、良寛の歌ではなぜいけないのか、「新続古今」とか「新後拾遺」とか、
そんな「糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかり」舐めているようなことをして何が楽しいのか、と思ってしまう。

『歌詠みに与ふる物語』を有料にしているのは、歌論など無料にしてもどうせ読んでもらえないと思っているからだ。
読めば十分わかると思うが、読んで分かる人がいるとも思えない。
読んでもらえない、読んでも理解できない評論をわざわざ書く趣味はないのだが。