和歌と詩

詩というものはあらゆる時代のあらゆる民族に見られる普遍的なものだ。

詩には長短や強弱などの律(リズム)がある。
或いは押韻がある。
そしてふつうは一番短くても四行くらいはある。
中国の七言絶句やペルシャのルバイなどが典型だ。
この四行を核として普通はもっと長く続く。

ところが日本の和歌はそういう普遍的な詩の概念からはかなり逸脱している。
最初の頃、長歌に反歌を添える形であった頃はまだ和歌は詩であった。
しかし反歌だけが独立し、五七五七七というごく短い定型詩として固定していく。

日本語には基本的には母音の長短は無い。
強弱はあるが、しかし和歌では無視される。
則ち和歌には五七五七七という句の長さ以外にリズムはない。

押韻というのは比較的高度な詩に見られるものだが、和歌にはない。

つまり、和歌はふつう詩がもっているはずの特色をほとんどもっていないのである。
他の詩形と比べてみるとそれが如実である。

和歌は詩というよりはパズルである。
短い形の中にいかに複雑な心象や叙景を盛り込むかというパズル。
その、パズルとしての和歌を確立したのは明らかに藤原定家だった。

和歌は完全な文法をそなえている。
名詞、形容詞、副詞、助動詞、助詞。
そして完全な修辞を駆使できる。
暗喩、反語、対句、倒置、コラージュ、オマージュ、などなど。
言語として完全でありつつ極限まで短い定型のパズルというのが和歌だ。

日本にも歌謡はあったわけである。
和歌はもとは歌謡の一種だったが、そこから分岐して特異な進化をとげた。
さらにそこから分岐してさらに短いパズルとなったのが俳句だ。
俳句は明らかに詩ではない。パズルだ。
少なくとも普遍的概念としての詩ではない。
俳句は文法的・修辞的完全性を捨てた。
俳句は心理描写を捨てた。だから俳句には恋歌が無い。
逆に、俳句になれすぎた日本人は恋歌を詠めなくなった。

メディアの業

すでに[靖国神社合祀](/?p=16623)、[産経購読10年](/?p=16491)、[地方紙5紙の社説がソックリ。](/?p=1635)
などに書いたことの蒸し返しになるが、
私は2006年8月時点で日経を見限って、以来ずっと産経を読み続けていることになる。
ということは現時点でもまだ10年経ってないわけだ。

> 2つ目の話題は、元宮内庁長官の日記と手帳に関する報道の件です。昭和天皇が太平洋戦争のA級戦犯の靖国神社合祀について不快感を示していたという報道をしました。これは1面トップで取り上 げ、国際的なスクープになりました。

> 日経がなぜ報道したかというのは、新聞としての原点で考えたということです。いろいろな検証の結果、正しいと判断した事実があります。これを1カ月か1カ月半後のなんらかの政治的なイベントに影響を与えかねないから押さえ、1年後に公表したとします。これこそまさしく政治的利用と言えるのではないでしょうか。

> 正しいと検証された歴史的な事実は読者に早く伝える、それが政治的にどういう影響を与えようと、読者にまず知らせるという行動をとる。これは新聞に限らずメディアの非常に重要な基本であり、日経は日経としての編集方針を忠実に守って掲載しました。

日経が富田メモを入手したのは2006年5月。
もちろん誰かが意図的にこの時期を狙って、わざわざ日経というメディアを選んでリークしたのである。
記事にしたのは2006年7月20日。
「1カ月か1カ月半後のなんらかの政治的なイベントに影響を与えかねないから押さえ」というのはつまり、
小泉総理の総裁任期満期総辞職とその前に行った靖国参拝を言っているわけである。
普通に考えれば、富田メモをリークした者は、小泉を靖国に参拝させたくない誰かである。

日経は発表を若干遅らせることはできたがそうしなかったという。
逆に小泉靖国参拝にぶつける形でセンセーショナルに煽ったのだ。
終戦記念日まで一ヶ月きった時期にトップ一面でだ。

いや、一番の問題は、この日経のスクープ以来世論が、
昭和天皇が靖国参拝しないのはA級戦犯が合祀されているからだということに固まってしまったことだ。
詳細に分析すれば、昭和天皇が靖国参拝しない理由は他にある。
きちんと分析したきちんとした論文として発表していれば世論はこれほど騒がなかった。
しかし日経はその真逆のことをしたのだからやはり罪は重い。

報道はつねに脚色される。報道は事実ではない。
報道と事実はむしろ対極にある。
事実を称したければ仮説の一つとして提示すれば良いだけである。

メディアは単に事実を即座に発表しましたではすまされない。

> 正しいと検証された歴史的な事実は読者に早く伝える。

これこそが日本経済新聞社東京本社編集局総務小孫茂の、そしてより一般的にはメディアというものの確信犯的な大嘘だ。
検証したというのは要するに秦郁彦・半藤一利の二人に分析させたというだけだろう。
それは個人の見解以上のものではないし、
事実を確認したものでもない。
歴史というものは、歴史的検証とか事実とかいうものは、そんなやすいものではない。

Johanna Spyri

ハイジは

> 1880年に出版された前半部分 Heidi’s Lehr und Wanderjahre (元祖ハイジ)

> 1881年に出版された後半部分 Heidi kann brauchen,was es gelernt hat (ハイジ続編)

に分かれており、
元祖ハイジの著者は

> Von der Verfasserin von “Ein Blätt auf Vrony’s Grab”

つまり、「フローニの墓に一言」の作者としか記されていないのに、
ハイジ続編は Johanna Spyri という実名で書かれている。
普通は元祖ハイジが非常に売れて人気が出たので匿名をやめてハイジ続編から実名を使ったのだと考えられている。
あるいはこの時点でシュピリは商業主義に転向したのだと。

しかし実はそうではない。
最初に実名で書いたのは 1880年の Im Rhonethal (ローヌの谷で)である。
Im Rhonthal で Johanna Spyri は

> Verfasserin von “Verschollen, nicht vergessen”

つまり、1879年に出版された Verschollen, nicht vergessen(失踪したが忘れられてはいない人)の作者であると紹介されている。

また、1880年に出版された Aus unserem Lande (私たちの土地から。Daheim und wieder draussen と Wie es in Wildhausen zugehtの2編を収録)では、単に Johanna Spyri と著者名が記されているだけである。

Im Rhonethal はチラ見しただけだが、やはり病気の子供が死ぬ話である。
なぜこの作品からシュピリは実名を明かしたのだろうか。

Verschollen, nicht vergessen には、

> Ein Erlebniß, meinen guten Freundinnen, den jungen Mädchen

と副題がある。
「meinen guten Freundinnen」「den jungen Mädchen」いずれも明らかに3格であるから、
「私の良き友に、また若い娘たちに語りたい一つの経験」
というような意味だろう。
おそらくこれも童話ではなさそうだ。
いや小説ですらなく、実話かドキュメンタリーだったはずだ。

1878年に書いた Heimatlos は明らかに童話である。
しかし、1879年に書いた Verschollen, nicht vergessen や、1880年に書いた Im Rhonetal は童話ではなかった。
もし童話であれば誰かが邦訳したにちがいない。

シュピリがほぼ完全な童話作家となったのは1881年からということになり、
それ以前から実名で作品を書いていた、
ということについては少し考察が必要だ。

Erde der Hand

> Wie ein zarter Fremdling stand sie unter den übrigen Bergblumen, als gehöre sie einem andern Lande an und harre still und blaß auf fremder Erde der Hand, die sie versetzen würde nach dem heimatlichen Boden.

auf fremder Erde der Hand とは何かと思うではないか。
手の土地?
そんな言い回しがあるのか?
違うのだ。

> sie harre der Hand, die sie versetzen würde

でひとかたまり、つまり、「それはそれを移し替えてくれるような手を待ち望んでいる」と訳すのだ。
harren は2格支配なので、der Hand は2格ということになる。Hand は女性名詞なのでこれを die で受けているのだ。

> still und blaß auf fremder Erde

でひとかたまり。「見知らぬ土地の上で静かにひっそりと」と訳すべきなのだ。

> gehöre sie einem andern Lande an

これはつまり

> sie angehöre einem andern Lande

という意味だ。

als という接続詞の訳も難しいけど、als ob (as if)のように訳しておけばよかろう。
でまあ全体としては、

> 一人のよそもののように、それは他の山の花たちのなかに立っていた。まるで、それはよその土地に属しており、見知らぬ土地の上で静かにひっそりと、それを移し替えてくれるような手を待ち望んでいるかのように。

とでも訳せば良いのだろうが、これではくどすぎるから、もう少し滑らかに意訳するべきだろう。
ちなみにgoogle翻訳で英訳すると

> Like a delicate stranger she stood among the other mountain flowers, as they belong to another country and wait for still and pale on foreign soil by hand, which would enable them after the native soil.

となるのだが、やはり der Hand 以下がうまく訳せてない。
シュピリがわざとそういうややこしい言い回しをしたからだ。

こうやって一個一個理詰めで訳しているときりがない。
しかもほんとにそれであっているのかどうか、確証も持てない。

Ihrer Keines vergessen

ドイツ語が異様に難しいのだが、例えばヨハンナシュピリの小説のタイトル、

> Ihrer Keines vergessen

高橋健二というドイツ研究者はこれを「彼らの一人をも忘れず」と訳している。

たぶん、Ihrer = Keines vergessen なのだと思う。
あなたたちのこと。すなわち、何も忘れないこと、なのだ。
他に文法的に解釈のしようがあるだろうか。

Ihrer は2格であろう。だから名詞としては「あなたたちのこと」。

Keines も2格であろう。

大村益次郎銅像銘文 解説

DSC_0036

大村益次郎の銅像を見に行った。に書かれていた解説をもらいに行った。駐車場の受付(?)ではもらえなかった。いろいろ人に聞いてやっと受け取ることができた。内容は同じようで微妙に違う。原文は載せてほしかった。

あと、碑文だが、円筒状になっていて高いところにあるために非常に読みにくく、かつ、写真にとりにくい。逆光になるとまあ普通のスマホでは写せない。一眼レフ持ってかないとだめだわ。

嗚呼此故兵部大輔贈從三位大村君之像也方顙圓頤眉軒目張凛乎如生使人想其風采君諱永敏稱益次郎長門藩士性沈毅有大志夙講泰西兵法擢為兵學教授尋參藩政釐革兵制慶應二年之役守藩北境連戦皆捷戊辰中興徴為軍防事務局判事時幕府殘黨據東叡山方命君獻策討而殲之尋征奥羽平函舘君皆參其帷幄以功賜禄千五百石陞任兵部大輔大定陸海軍制之基礎明治二年在京師為兇人所戕薨年四十七

天皇震悼贈位賜賻後又授爵榮子孫頃者故舊相謀造立銅像以表其偉勲以余知君尤深記其概略若夫平生事業具載其郷圓山墓碑嗚呼像之與碑君之功名可共不朽

明治廿一年六月

内大臣従一位大勲位公爵 三條實美撰并書

どうでもいいっちゃいいんだが、実際に目で「函館」は「函舘」であることを確かめた。

「方命」は天子の命にさからうことと辞書にある。孟子に「方命虐民」とあるらしい。この「方」は「妨」もしくは「放」の意味か。「幕府殘黨據東叡山方命」いわゆる彰義隊のことだな。

宇治谷 順

「キュレーター」は面白い。
しかし評判が悪くて連載打ち切りになったそうだ。
連載ものは最初だけうまくてあとはつまらないのが多い。
連載にこぎつけるまでは原作者も編集者も真剣なのだろうが、
いったん連載に持ち込めば惰性で続けているだけなものが非常に多い。

よく似たマンガに「ギャラリーフェイク」があるが、
「キュレーター」はそれより7年も前に出ている。
キュレーターとかキュレーションという言葉が一般化してきたのも最近のことだ。
どうもこのマンガはちょっと時代が早すぎたようだ。
こういうマンガが電子書籍で復刻されて再び読めるようになるのはすばらしいことだと思う。

同じ原作者のマンガで「弁護士TASUKE」というのがあるが、こちらも面白い。
連載ものであるのに、あまりキレが落ちずに続いているのは見事である。
しかし[原作者の facebook](https://www.facebook.com/ujijun/posts/788800747863854:0)など見るとこれもまた尻切れトンボで連載打ち切りになったらしい。
もっとつまらないマンガでずっと連載しているのもあるのに不思議なことだ。

刑事もののテレビドラマはだんだん進化していて、例えば最近は「相棒」
などが評価されるようになった。
ああいうややこしい話は昔は(少なくともテレビドラマでは)人気がなかった。
「太陽にほえろ」「西部警察」「踊る大捜査線」などの馬鹿げた話が受けていた時代とは、
ずいぶんと変わった。
「弁護士TASUKE」も今連載されていればきっと人気が出ただろうと思う。

原作者がまじめに原作を書いても時代が早すぎて世の中に受け入れられないことはあるよなあと、
この宇治谷順という人の作品を見ると思ってしまうのだ。

auブックパス

ガラケーをスマホに買い換えて約1年。
最初は出たばかりの xperia Z ultra を買ったのだが、
無茶な使い方をしていたせいでとうとう割れて使えなくなった。
それで今度は xperia z3 にした。
xperia は初代タブレットの頃から使っているが、
だんだんによくなってきて、z ultra で一線を超えた。
もはやいかなるスマホもタブレットも xperia には勝てまい。
sony の walkman が apple の ipod にやられたその反撃がやっと奏功してきたところだと言える。
ただ日本人向けには良いこの xperia も外国人にはただの高いおもちゃにすぎない。
多少経済的に余裕がある日本人にしか売れない設計になっている。
非常にもったいないが、sony には節を曲げずにこれからも頑張ってもらいたい。
でないと私が買うスマホやタブレットがなくなってしまう。
これからも sony の売り上げに貢献するためにときどきスマホを割って買い換えてあげなくちゃいけないかもしれない。

それでまあうちは諸般の事情で au 縛りなのだが、
連絡先はなんとか復旧できた。
au のバックアップと google のバックアップの二つがあって、
au の au cloud かなんかに同期がとれていたらしくて、
friends note というやつを使って最近までの連絡先がほぼ完全に復旧できた。
au id ってところで連絡先は管理できるみたいなんでこれからはも少し活用していく。

というわけで auブックパスとの付き合いはそろそろ1年になるが、
未だに読み放題を解約できずにいるのはそれなりに活用しているからだ。
最初は手塚治虫の作品があれもこれも読み放題なので、それだけで満足していたのだが、
だんだん飽きてきた。全作品が読めるのではない。
私の知る限りでも「海のトリトン」が無い。
kindle版はあるのでそちらを買うことにしたのだが。

手塚治虫は短編に良いものが多く、
連載ものはあまりぱっとしない。
トリトンは例外的にやや長いけども面白いと思う。

古きを慕う

和歌は外来語や漢語に対して排他的であるというが、
実は大和言葉自体に対しても同様だ。
はるさめ、とは言うが、あきさめ、こさめ、きりさめ、などは和歌には使われない。
これらの語が俳句や都々逸に使われるのはまったく問題ないことだ。
なつさめ、ふゆさめなどはそもそもそういう言葉がない。
そのかわり、さみだれ、しぐれなどという言葉がある。
なぜそうなっているかと言っても理由はないのだ。

法律が判例の積み重ねでできているように、
和歌は誰かが急に新しい言葉を作ってもしっくりこない。
和歌が古きを慕うというのは法律の判例主義と同じで、
何百年もかけて少しずつ変わっていくのは良いが、
急激に変えてはいけないといっているのである。
古いものを墨守していても死んでしまう。
その加減が難しい。

明治の人たちはしかし新語や造語をやたらと作った。
和歌にもそれを強要した。破壊的、革命的な変化が許されると信じた。
信じなければ明治維新なんてやってられなかっただろう。
根拠として万葉時代の歌が持ち出された。
万葉の歌は前例主義から自由だったと言いたいのだ。

さみだれをなつさめとかゆふだちと言い換え、しぐれをふゆさめと言い換えることに抵抗がない人はそうすれば良い。
俳句や現代短歌がどうなろうと私は知ったことではない。
私は千年前と互換性のある歌が詠みたい。
いや、違うな、ある時代にしか通用しないような価値観にはしばられたくない、というべきか。
だから私は自分では和歌しか詠まないし、
自分の歌は和歌としか言わない。

後鳥羽院初学の歌

> この頃は 花ももみぢも 枝になし しばしな消えそ 松の白雪

後鳥羽院御製。正治後度百首(1200年末)。新古今。
後鳥羽院の 1200年より前の歌というものは残っていない。
当時満20歳。
和歌の習い立てに定家の

> 見渡せば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

> 駒とめて 袖打ち払ふ かげもなし 佐野の渡りの 雪の夕暮れ

の影響をもろに受けたものであるのは間違いない。
後鳥羽院に定家が出詠したのも 1200年であり、それ以前に二人に交渉はない。

後鳥羽院の歌に定家の露骨な影響を見るのはしかしこれくらいであり、
後鳥羽院はおそらくまもなく定家の影響を受けることを拒み、
俊成や西行、或いは式子を志向するようになったと思う。
というのは定家の歌はあまりに癖が強いので真似るとすぐにばれるからである。
それでも上の二つの定家の歌の模倣者は多かった。
そういう意味では後鳥羽院はわりとまともな精神の持ち主だったと思う。