定年とアカウント

勤め先からもらっているアカウントでyoutubeに動画上げたりメイルやりとりしたりしているんだが、定年退職するとyoutubeはともかくとしてメイルアカウントは消えてしまうわけで、それはもう7年後に迫っている。だから今から個人用と仕事用できちんとアカウントを使い分け始めなきゃいけないと思っている。さらに定年後はこの筆名と実名も、区別なくそうと思っている。区別しているのはなんやかんや書き散らかして職場に迷惑かけたりしないためでもあるんだが、仕事やめたらもうそういう遠慮も要らんだろう。

実名にともなう肩書きは多少、筆名でやっている活動を広めるため役立つかもしれないし、実名でやっている仕事に筆名でやっている活動も多少は業績として加えられるかもしれない。しかし今はそれをやる勇気がない。定年になったら両方の業績リストを一つに統合する、くらいのことはやるかもしれないが、それ以上に何か宣伝したりすることはないと思う。

ともかく、仕事を辞めたあともしばらくはだらだら趣味で執筆活動は続けると思うんで、そのための準備は着々としておくつもり。

株は、始めて1年半くらいだが、この銘柄、そろそろ底値かなってところを狙って買うのが、脳汁がどばどば出て楽しいんだと思っている。で、だいたい底値か、底値より10円高いくらいで買っていることが多い。底値を見誤ったときはナンピン買いしてる。

低迷してる株は怖くなって売ってしまうことが多い(で、持ち直してくると手放したのが惜しくなる)。その場合も、いつも買値よりは1円でも高く売るようにしている。要は、銘柄単位でも全体でも損するのが怖いだけなんだけどね。一部は損しても全体で得してればOKというのがほんとの相場師なんだろうけど、私はそれで給料もらってるわけじゃないしね。好きなようにやる。

調子の良い株は基本放置。1000円以上値上がりしたら売ると決めているのだがまだ私の保有株でそんなに上がったのはない。

短期で元手を回転させて利ざやを稼ごうというやり方はしてない。基本的に、銀行預金や郵便貯金だとほとんど利子が付かないから、株に資産を移しているだけ。そりゃまあ儲かればうれしいだろうが、年に10万20万程度儲かったところで時給換算すれば誤差程度、お小遣い程度だ。それを言えばkindleもそうなんだが、とりあえず株は貯金の一部としてやってる。そういうやり方でこれまで特に損もしてないので、このままこういうやり方を続けると思う。

投信の積み立てNISAとか言うのはすかん。他人任せで勝手に上がったり下がったりするからみててイライラするだけ。貯金の仕方としては優れているとは思うけど、私には要らない。というかなんでNISAとか税金で優遇して、金融取引で20%も税金取るんだよ、むしろ金融税もNISAもやめろ、余計な仕組みを増やすなよ、と言いたい。

株価が下がっているのは、業績が悪いからとか、なんか不祥事を起こしたからとかっていう場合はほとんど無いと思うんだよね。たいていは、ダウが下がったとか日経平均が下がったとかおかしな流行病が流行ったとか、大株主がまとめて処分したがってるとか、あんまその銘柄に関係ない理由。業績が悪いというか、もうその会社がやる気なくて、新規開拓もしない、新商品も出さない、後はもうだらだら株価を下げるだけみたいなところは買わないけど、たまたま下がってるだけだろって思えるようなところは買ってる。底値付近で買っておけば後はしばらく放置できるから楽。逆に上がってる最中に買うと、いつ下がるかとずっとビクビクしてなきゃいけないから嫌かな。下がらないだろうとわかっててもただ単に右肩上がりな株も、私としては手が出しにくい。なぜかというとそれは上にもう書いた通りの理由。

日本株というか日本企業ってほんとに手堅く守りに入っちゃってるところ多いよね。それでじりじり株下がってても気にしない。経営者がとにかく失敗を恐れている。そんな会社めちゃめちゃ多い気がする。でもまあシャープとか東芝見てるとそういう気にもなるかもね。

しかし、競馬やパチンコよりも株のほうがずっと面白いし儲かるチャンスも多いと思うんだが、なぜみんな博打をやりたがるんだろうね。まあそう思う人はさっさと株をやってるわけだよな。それで、経営者になって人を雇ってフランチャイズやったり無人餃子売ったり。そういうことしたい人はするんだろうが、そこまで本腰で経営とか人付き合いとかやりたくなきゃやっぱネットで株やるんだろうな。

底値がわかりゃ苦労はないわけだが、まず、ガッと売りにくるやつがいて、そこでいちいち反発が入る株は、落ちっぱなしではなく、底を打って回復に転じやすいと思う。それでもやっぱガッと売りに来る奴がいて、それが1ヶ月も2ヶ月続くと、なんかしらんがすごく売りたがってる大株主でもいるんかなってなってしばらく様子見になることもある。

逆に底値打ってすぐに回復する株もある。そういうやつをちまちま買っとく。今のところは1銘柄100株で止めて、ナンピン買いしたときだけ200株とか500株とか買って、だいたいは後で100株に戻して、いろんな銘柄を広く浅く買う。

ま、ともかく、狼狽売りだか、資産家が死んで財産を処分しようとしてるのか知らんが、業績が特に悪いわけでもなく、下がる理由も大してないのに下がってるのはどんな理由かは知らんが売りたがってる奴がいるので、そいつに売りたいだけ売らせて、そうすると反発が来て、攻防が始まって、売買がすごく小刻みになるから、そのへんで買えば良いんじゃないって思ってる。ほんとにダメで落ちてる株は攻防が無いからみてりゃわかると思う。とかいうのはやっぱネットでリアルタイムに売買が見られるからできる技であって、昔みたいに新聞の株式欄を一日一回見るみたいなやり方ではできないよね。だから、私のやり方は基本的には放置だが部分的にデイトレみたいなもんだな。こういうやり方してる人っているのかしらんが。ずーっとデイトレで張り付いてるってのは全然やりたくない。

若い頃はすくなくとも酒を飲めばハメを外してストレスの発散になったのだが、今は逆に外で酒を飲むとハメを外さないようにモノをなくさないようにと我慢して飲むからストレスをため込んでしまう。家で飲むときには安全でしかも適量しか飲まない(350mlのビール2本とハイボール1杯くらい)。外で飲むとどうしても飲み過ぎてしまうししかもハシゴまでしてしまう。

要するに年を取ってメンタルも弱くなったし、体力も落ちたし、酒にも弱くなったし、酒を飲むと自分がどうなるかってこともほとんど全部経験し尽くしていてこれ以上新しいことなんて(自分自身がまったく別人にでもならんかぎり)ないってわかってるわけだ。自分という形ができあがってしまってその形の中で酒を飲まなきゃならんという窮屈さがある。自分という殻が邪魔だし、自分の周りの環境も邪魔だし、つまり自分自身が邪魔なわけだ。犬がうるさいのも自分のせいだしタバコが臭いのも自分のせい。すべて、他人のせいでもあるが同時に自分のせい。これはもうわかりきっている。じゃどうしたら良いんだよっていうとどうにもできやしない。ここまでこじらせてしまうと手の付けようがない。

いろんなことをくよくよと気にするようになったのも年のせい。人の言うことをいちいち深読みしてちゃ外飲みはできんのだろう。年を取ったおかげでいろんなことが予測できるようになってしまった、先回りしてわかるようになってしまった、ということは良いことでもあるのだろうが、メンタルにはきつい。

アマゾンのレビュー

『特務内親王遼子』なのだが、特に読まれた形跡はないのに(読破した人がいるとは思えないのだが)レビューに星1つついてて、コメントは無し。おそらく平安文学的、ないしは女性週刊誌的「内親王」のイメージで読み始めたがそのイメージとまったく合わないことが書かれていたので、読むのをやめて星1つを付けたのだろう。あるいはこれが、近代東アジア史のパロディになっているので、それが生理的に気に入らなかったのかもしれない。

同じことはおそらく『江ノ島合戦』にも言えて、ただ単にタイトルのイメージで面白そうだなと思って読んでみたら期待外れだったのだろう。

『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』もそうだろう。ハイディに対するイメージと違う、そういう反発で低い点を付ける。

これはもうしょうがない。私の場合世の中にもう読みたい本がなくなったので自分で書き始めたのであり、その辺にありそうな本を読みたい人が読んでも面白いはずがない。気難しい、世の中が嫌いで人間が嫌いなおっさんが書いたものなので、一般人が読んで不快なのはしょうがない。

『妻が僕を選んだ理由』は23個もレビュー(コメント無しを含む)がついてて、なんでこれがそんなに読まれたのか不思議だが、おそらくこれも単にタイトルに興味が引かれたというだけなのだろう。

どうしたものだろうね。

朝の騒音

年を取ってSNSというものがメンタルをガリガリ削ってくるので見るのが嫌になった。最近のSNSってのが、ごく普通の人がただ単に書きたいことを書いてるのでなくて、なんかなまじプロの書き手がいて、より多くの人に読まれようと巧んで書かれるようになり、そういう人のツイートなり動画なりがよけいに目立つようになってきて、それって昔のテレビや新聞と同じじゃん、マスコミと根っこはまったく同じじゃん、自分が見るのも嫌だったのと同じことを一般人がやるようになった、そういうメディアができただけじゃんってことになり、見るのが苦痛になってきた。

なんかものが書きたきゃ、心静かにブログでも書いているほうがよいと思えるようになってきた。

朝は耳栓をしていることが多い。

3:00頃新聞配達のバイクが来る。うるさい。早朝ですらない。深夜だ。もしバイクで新聞配達するんなら昼間にやればよい。深夜に配達するんなら、音のしない何かでやってもらいたいがそれはそれで暗闇の中事故を起こしてしまうから危険なのだろう。そもそも新聞自体が無くなってしまえば良いのに。

犬の鳴き声。つい最近、いや1年くらい前か。近所のどこかが犬を飼い始めた。早朝犬の散歩をする。でかける時と帰ってくるときに吠える。うるさい。やかましいというのではなく、カンに障る。小型犬でたいして大きな声ではない。そんなのカラスの鳴き声のほうがうるさいだろうと思うかもしれないが、この小型犬というものが完全に人間のエゴで作られた生き物であり、犬は人間に媚びるしか生きていくすべがない。人間のほうはただ可愛いというだけの理由で衝動的に飼っている。そういう人間と犬の関係性が嫌でたまらないからカンに触るのだ。イノシシを狩る時に連れて行く犬とか、鼠を狩る猫ならまだわかる。単なる愛玩動物。存在自体が嫌いだ。

これは何度も書いたことだが、若い頃は犬が多少吠えていても気にもとめなかった。賃貸で二階に住んでいて一階で犬を飼っていることもあった。ところがずっと後になり隣の家で1:00頃必ず犬が鳴く。新聞配達が来ると必ず1時間くらいずっと鳴き続ける。それがもううるさくて仕方なかった。それ以来犬が大嫌いになったし、新聞配達も嫌いになった。

後、雨戸の開け閉め。あんなもの必要無くないか。だいたい隣の家は4箇所雨戸を開ける。だから1回ガラガラっといったらあと3回同じ音を聞かされる。それが嫌だ。

とにかく年をとるのはやっかいだ。こんなに生きるのがめんどくさくなるとは。

銭湯

最近割と銭湯を利用するのだが、グーグルマップで調べて入り口に灰皿を置いているようなところには行かないようにしている。

東京都の共通入浴券を買った。

15時から17時くらいまでは、開店そうそう待ち構えてやってくるじいさんとか謎の職業の人たちで込んでいるが17時以降はいったん客が引いてガラガラになるところが多いように思う。繁盛している店は二階建てにしたりサウナ付けたりしてるんだが、私はそういうのは要らん。

ほぼすべての店にボディーソープとシャンプーがあるが、ものすごく薄めてあってストレスがたまる。特に泡タイプにしている店はどんなに出してもぜんぜん効き目がない。それで近頃は Biore 1 という、ボディーソープもシャンプーもリンスも全部一緒になった洗剤を使っている。割高なのかもしれんが、とりあえずこれで十分な気がする。

マスクはしているのに路上でタバコふかしてるじいさんとかもうわけがわからない。手の消毒なんかもまったく意味はない。そういう連中がいるから3年間もコロナで騒いでたわけでもうどうしようもない。

どことはいわんが営団地下鉄の改札の向かいにたばこ屋があってそこでいつもたばこを吸っていてくさい。またこれもどことはいわんが地下鉄の駅ビルの裏、ビルの側は禁煙なんだが道挟むと禁煙ではないらしくそこでいつもその駅ビルで働いている連中がタバコを吸いにきている。

どことはいわんが、某スーパーで、タバコと酒は二十歳になってからってわざわざ店内放送してるところがあるんだが、アレなんで要るの。なぜスーパーでアナウンスする必要があるの。酒買いに来たやつが不愉快な気持ちになると思わんのかね。タバコなんかと一緒にされちゃ迷惑だからもうそのスーパー行くのやめるわ。

まったくスーパーにしろ百貨店にしろ駅にしろ電車にしろどうでも良いアナウンスをくどくどくどくど聞かされるのほんとつらい。まじコロナ後遺症だわ。ほんとアナウンスが嫌になった。

製氷皿

近頃は twitter に書こうか blog に書こうか迷ったら twitter に書くようにしているつもりなのだが、ハイボールを飲むようになってから製氷皿を酷使するようになって、自動で作ってくれる冷蔵庫も自宅にはあるがそれ以外の場所で貧弱な冷蔵庫使う場合もあって。それで良い製氷皿というのは、ひねるとぽろっと自然に氷が落ちる。悪い製氷皿はひねっても氷が落ちず氷にヒビがはいったりする。あと、積み重ねて置けるような形になってる製氷皿があるんだが下の皿は凍りすぎてやはり氷が落ちにくい。あと何年も使ってると割れて水が溜まらなくなる。

ウィスキーもおんなじやつをずーっと飲んでれば、味の違いがわかるようになるし、製氷皿もしょっちゅう使ってれば善し悪しが分かるようになるし、だから、人間も長く生きているとよろずのことに善し悪し好き嫌いができてくるのは仕方ないことなのだな。

社会活動

私個人はどちらかといえば共産主義思想、社会主義思想に非常に共感できるほうだと思う。スウェーデンでは、今もそうかは知らないが、男子も女子も同じ更衣室、同じシャワー室を使うというが、別にそうなっても良いしならなくても良い。日本の公衆便所や銭湯が男女別になろうが同じになろうがどちらでも全然かまわない。人間なんて所詮チンパンジーかオランウータンから毛が抜け落ちた程度の存在なんだから、社会習慣が多少変わろうがたいしたことはない。

私にとって駅前の一等地をパチンコ屋が占めているのも、女性向けファッションの店が占めているのも、どちらも醜悪、俗悪、目障りなだけだ。テレビの番組なんてどれもこれも度し難い、低俗極まりないアジテーションだと思っている。しかし私は共産主義者であると同時に自由主義者でもあるので、他人の権利を制限することにはかなり抵抗がある。全体主義者であるべきか自由主義者であるべきかという問いには、どちらかといえばかなり自由主義に同情的だと思う。特に「表現の自由」という言葉にはかなり弱い。ただあまり自由すぎて治安が崩壊しているのもどうかとも思う。

いずれにしても私個人の思想信条がどうであれ私は自分が社会活動家になって社会を変革しようというような人間ではない。他人は他人、自分は自分、自分の生活に干渉されない限り、こちらから文句をいうようなことはしないようにしている。したくなるときはたまにはあるが。

私から見ると、社会活動だか政治活動だか宗教活動だかしらないが、熱心にやっている人というのは、大きく分ければ、理屈づくでビジネスモデルとしてやっている人か、なんかの私怨をこじらせて自分で何やってるかわかんなくなってやっている人しかいないように思う。好き好んでやっているだけの話。

山本直樹の態度は非常にすがすがしいというか、私は別に彼のエロを必要としていないし、彼の作品を評価するわけじゃないんだが、自分は何がしたいのか、何がなんでも創作したいものがあるっていうなら結局ああいう態度に収束していくしかないのではないか。

私の中にもいろいろよかれと思うことはある。40代の頃は自ら旗振り役をやろうかと思ったこともあったが、誰も私についてくる人はいないってことがわかり、しかももう60才になろうとしていてあとはどう無難に死ぬかということが一番優先度の高いことなってしまい、世の中を変えようなんてことはもう一切考えないのがよい、自分一人で生きていくのが良いと思ってる。

奥歯が割れた件

奥歯が割れて、金属の詰物をしたのだが、入れてもらった直後は噛み合わせが良くない気がしていた。歯医者は無理やり私を納得させて返したような気がした。

数週間が過ぎてみると、今はそんなに気にならなくなってきた。思うに、上も下も金属を埋めた状態だと、歯を噛み合わせたときにちゃんと噛み締められてないような気がするのだろう。しかしだんだんに顎の関節などが適用してきて、普通に噛み締めている感じになるのではなかろうか。金属が変形してちゃんと噛み合わされるようななった、というのはあまり考えにくいようにおもう。

とりあえず痛くもなくなったしちゃんと噛めているのでよしとする。

外飲み

一部の店に限っていくらか外飲みも続けていたのだが、もう原則として一切外飲みはしないことにしようかと思っている。もっと早くそうしてもよかったのだが、いろんな人付き合いとかしがらみとかあるとなかなかやめられない。外で人と会うのは楽しいがそれよりも自分の方で受ける精神的なストレスがまさる。人と交わることは当然ストレスとなるのだが、若いうちは打たれ強いというか、あんまり気にならないような、さまざまなこまごまとしたことが気に障るようになってしまい、それが年をとり老人になるということなのだろうと思う。

なんかちょっとしたものをどこかの飲み屋に忘れてきてしまったり、はしごしすぎて翌朝アルコールが体に残ってたり、昔はなんとも思ってなかったようなことが今ではすごく嫌でたまらない。

外飲みしなくなればもっと時間は自由になるし、使える時間も増えるし、金は減らないし、もっと早くそうするべきだったんだと思う。