水尾の里と小野の里

清和天皇と惟喬親王の扱われ方というのは良く似ている。二人は文徳天皇の皇子で、異母兄弟なのだが、二人ともほぼ同じころに宮廷を追いだされて、山の中に幽閉された。惟喬親王は貞観14年(872年)、京都の東、比叡山中の小野の里に。清和天皇は元慶3年(879年)5月、京都の西、嵯峨野の山中・水尾の里に。まあ要するに、藤原基経高子兄妹によって、傀儡陽成天皇を立てて、要らなくなったから追放されたのだ。

ひどい話だなと思っていた。

でもまあよくよく考えるに、惟喬親王も清和天皇も生活も経済力も外戚に丸抱えされていたわけである。天皇や親王が個人所有している資産というものが、この時代にはなかった。飛鳥・奈良時代にはあったんだろうが、律令国家というものを作って、官僚組織を作って、中央独裁にした結果、天皇個人の財産と国家の財産というものの区別がなくなり、国家から切り離された天皇個人の財産というものがなくなった。桓武天皇とか嵯峨天皇のころにそうなっちゃった。

それで日本では、通い婚、婿取り婚の伝統があるから、本卦還りしてしまって、天皇は嫁さんの実家の経済力に頼らざるを得なくなった。摂関政治の本質はそこだよな。

摂家の陰謀で、清和天皇と惟喬親王は追放された、というよりは、二人とも隠居後の資産なんて何ももってなかったから、京都近郊の山の中を開拓して、水尾の里と小野の里というものを作って、そこに住民も移住させて、死ぬまで生きていけるようにした。ようは老後のための年金として水尾の里と小野の里が与えられたのだろう。今も山の中に老人ホーム作ったりしてるがあれと同じ。そんなふうに思えてきた。別に幽閉されたというわけではなかったようだ。京都近郊をうろうろしてた。

惟喬親王は宮中を追いだされて25年後に54才で死んだ。まあまあ長生きしたほうだ。

清和天皇は貞観18年(876年)突然譲位。まあ、失脚したんだわな。そして3年後、出家して水尾に入り、翌年あっという間に、30才で死んでしまった。よっぽど嫁さんに嫌われてたみたい。あんまり指摘されることはないのだが、清和天皇ってかわいそうなひとだったんだなってことに新井白石は気付いていた。たぶん。

で、似たような状況が後三条天皇までは続いた。だから、花山院みたいな悲惨な上皇もいた。皇太子や天皇の間はちやほやされるが上皇になったらもう見捨てられちゃうみたいな(時代は違うが後鳥羽院にもなんとなくそのけがある)。白河天皇は、その反省から、天皇家が自分で資産を持つようにしたわけよね。そうして、外戚の資産に頼らなくて済むようにした。それがまあ白河院が目指した院政というものだわな。

日本人が知らない村上春樹

何が言いたいのかさっぱりわからない本だ。ましかし、少しだけ面白い箇所もあるから引用してみる。日本在住のスイス人の作家が書いた文章。

複雑だったり、抽象的だったりする。新たな文体の冒険も随所に見られる。しかし本質的にはやはりなじみやすいし、感情移入しやすいし。全編でないにせよ、また錯覚と分かっても、誰にでもある程度まねできる日本語だという感覚を抱かせる。

アメリカ文学の影響をうけた村上の文体を翻訳調と見る人もいるらしい。しかし、25年ほど日本の小説を読みあさってきた僕はそう感じない。

彼の日本語が僕にとって理解しやすいのは決して翻訳調だからではない。翻訳調なら、文体の不自然さのためきっとかすかな混乱と違和感を覚えるだろう。・・・あくまで彼の日本語は、僕が昔から慣れ親しんできた芳しい日本文学の中にあり、唯一無二の旋律を奏でている。例えば今回の作品で言えば、こんな表現だ。

「吹く風の感触や、流れる水音や、雲間から差す光の気配や、季節の花の色合いも、以前とは違ったものとして感じられる」

平明な文体は決して平板な文体ではない。綿密に言葉を選び、その並べ方に工夫を凝らす村上は、平淡な文章から極めて洗練された言い回しまで、実に色彩豊かな日本語の世界を僕らに提示してくれる。

彼の小説世界は、誰にとっても分かりやすいものでは決してない。しかし心地よい音声の中を旅する読者は、それを読み解きたいとさらにページをめくる。

そうなのよね。わかりにくいのだが、なじみやすい、自分にも真似できると錯覚させる文体。もっといえば、何か難解な文学を理解したような気分にさせてくれる文体。それは錯覚に過ぎないのだけど、そう読者に思わせることは著者にとって大きなメリットになる。翻訳調というのは確かに一つの風味付けにすぎない。上に引用された言い回しもまた、ごく普通の少女漫画にでてきてもおかしくない。そこがまあ、グリム童話の、魔女が建てたお菓子の家のようなものだと言えなくもない。

次は別の人の文章

ニューヨーク・タイムズの書評家であるジャネット・マズリンが、「1Q84」を「あきれた作品」と酷評した。自ら提示した問題への答えを示しておらず、登場人物の乳房のことばかり書くなどおかしな部分がある

そう。私にもそんなふうに思えるし、逆に、そんなふうなおかしな文章が好きな人が村上春樹を読むのだろう、としか言いようがない。へんなたとえかもしれないが、PPAP は実にくだらないどうでも良い動画だが、世界中の多くの人が視聴した。村上春樹もそんなものなのではないか?

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅰ)

少女漫画のように読みやすいということ、食べ物・音楽・ファッションなど衣食住に関する描写が心地よく感じられること、それからさらに何か得体の知れない薄気味の悪さがある

少女漫画のように読みやすい、というのは、そうかもしれないなと思う。何も難しいことは書いてなく、書いてあってもそれは表面をなぞるだけで中に入っていくわけではない。ただのBGM。たとえば、村上春樹には、第一次大戦と第二次大戦に挟まれたチェコスロバキアの人民が幸せであったかどうかなんてことを深く追求するつもりはないのだ。村上春樹にとってハプスブルク家は中世以来の圧政的・絶対王政的な封建領主であり、ヒトラーは独裁者なのだ。だからその両者から自由であったチェコスロバキアは自由だったはずだ、と言っているだけのことであり、実際に自由だったかどうかを考証するつもりもない。単に世界史的にはそのように教科書に記述されている、それで充分なのだ。ヤナーチェクの音楽がどうだということを語るつもりもない。単にそれらは、読みもしないのに本棚に飾られている革張りの書籍と同じだ。

そして唐突に殺人や自殺やセックスが挿入されるのはまさに少女漫画的展開であり、テレビドラマ的でもある。軽薄すぎる、とさえ言える(私は冒頭いきなり人が死ぬ話が好きになれない。多くのミステリーがそうだが。いきなり事件が起きて、謎解きするだけ。1Q84もある意味そうだ。殺意もとってつけたような場合が多い。殺意は単に、推理に必要とされるヒント、加害者と被害者の関係性としてだけ利用されている。そんなただのパズルみたいな話はいやだ)。

居心地がいいけれど、厨房の奥に底知れない闇があるような、そんな喫茶店

グリムの「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるお菓子の家

人さらいのいるサーカス小屋

着飾った女性たちのいる遊郭

そう、村上春樹は読者に魔法をかけてやろうと待ち構えている。そんな「薄気味の悪さ」は確かに村上春樹の作品の特徴だろうと思う。そうして、そこにやらせを感じて、読むのをやめてしまう人もいるはずだ。私はどちらかと言えばそっちだ。魔法をかけてもらおうとよろこんで身を委ねる人もいるだろう。彼の読者はおそらくこちらのタイプだ。

この小説は本当に恋愛小説といえるのだろうか? 本当に恋愛小説として読まれているのだろうか? 精神病者の観察記録やポルノグラフィーとして読まれている可能性はないのだろうか?

何をもって恋愛小説というかだが、たとえば、氷室冴子の小説が恋愛小説だとすると村上春樹は全然違うと思う。志賀直哉や吉行淳之介や安岡章太郎なんかとは全然違う。谷崎潤一郎とか田山花袋とも違う。どちらかといえば、三島由紀夫や川端康成のそらぞらしさに近いものがあるかもしれない(ちなみに私が書くものは比較的志賀直哉や吉行淳之介に近い、と本人は考えている)。ちなみに宮崎駿の作品には恋愛ものはない。若い男女の非日常があるだけだ。

作者とワタナベ君のみ息が合っていて、女性ばかりが蚊帳の外という感じなのだ。恋愛小説で、作中人物が如何に鈍感であろうとも、作者が鈍感であることは許されない。そのような滑稽さ、苛立たしさを感じるのはわたしだけだろうか。

そう。村上春樹は実はほんとは恋愛なんかしたことないんじゃないかと思いさえする。

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅱ)

村上春樹という男は、触ったもの全てに自分の臭いをこすりつける性癖がある。作品の中で、ある世界観を物語るためだけに一面的に引用されたこれらは、食い散らされて、本来の持ち味を、意味合いを、香りを、輝きを失わざるをえない。何という惨憺たる光景であることか!

そう。1Q84のヤナーチェクもまさにそう。別に何の必然性もない。

50ccのバイクを2速で走る感じ

若い頃は、ていうか、30歳くらいだと、まだ自分が何者かわかってないしこれからどうなるか予測がつかない。50過ぎた今からみると、30のときにすべてがもう決まってた気もする。

ホルモンか何かのせいだと思うが30歳くらいまではとにかく何かになろうってのめりこめる。自分がアクション映画の中にいるひとみたいに思える。

しかし50過ぎると、持病は抱え込むし、体力は落ちるし、酒を飲めば疲れるし、いろんなしがらみで身動きとれないし、どうやれば失敗するかわかってるから、行動範囲も狭くなるし、どっか転居したり転勤したりもできなくなるからだいたいもう日常がわかりきってしまうし、少し食べ過ぎるとすぐ太るし。

とにかく自分という体が動かない。思うように動かせない。30歳の頃は400ccのバイクを5速で飛ばしてたようなもんで、今は50ccのバイクを2速くらいでちんたらはしってる感じ。

定年まであと15年もあるかと思うと絶望する。

wordpress

tanaka0903.net が固まっていた。JetPack とか All in One SEO などのプラグインのせいであるのは明らかだ。いまどきアフィリエイトもやらずに、非力なレンタルサーバーで、プラグインも使わずに、wordpress を使い続けることにどんな意味があるのだろう。だがまあ、ともかくこのまま使い続けてみようと思う。もしかするともう少しうまい方法がみつかるかもしれない。facebook と連携なんてアホなことをやるのはやめた。

アメリカ映画

ハリウッド映画やアメリカドラマでは、よく夫婦が離婚する。離婚した状態で物語が始まる。或いは別居中である。仕事はできるが夫としては頼りない男が主人公で、ヒロインは別れた妻で、子供は妻に取られてて、困難を克服して夫婦はふたたび仲直りする。というストーリーになっているのがすごく多い。ナンデヤネン。

一方で、主人公が軍人の場合には(退役軍人をのぞく)、彼は理想的な男であり、良き夫であり、妻とも子とも仲が良い。しかし軍人なので家を離れがちであり、しばしば愛する妻に電話した後に死んだりする。

この扱われようの違いはなんだとおかしくなる。

アメリカでは、軍人は頼りない夫であってはならない。そんなストーリーはタブーなのだ。

ソラリス

自分で小説を書くようになると、むかし読んだ小説が違って見えてくる。『ソラリス』を読み解くのはなかなか厄介だ。まず原作のスタニスワフ・レムという人がややこしい。『ソラリス』を読んだだけではよくわからん人だ。それをアンドレイ・タルコフスキーというソビエトの監督が映画化した。これまたよくわからん映画だし、映画版『ソラリス』を見ただけではタルコフスキーという人はわからない。

さらに『ソラリス』をよくわからなくしているのはハリウッド版の『ソラリス』なのだが、ハリウッドという存在をある程度知っていれば、このような脚色になるのは理解できるし、その知識に基づいてリバースエンジニアリングすれば元の『ソラリス』をある程度「復元」することも可能だ。

タルコフスキー『惑星ソラリス』:悪しき現実逃避映画。山形浩生もまたそのややこしさに目くらましされているように思う。もしかすると彼は東宝が配給した日本語吹き替え版を見たのかもしれない。この日本配給版は、冒頭で説明的なナレーションをかぶせたり、
意味深な前振りをざっくり省略したりしている。この前振りはラストと呼応しているわけだが、前振り抜きでラストだけ見させられると、どうしても山形浩生のように、

タルコフスキーは最後の最後でそこから逃げる。

という印象になってしまうだろうし、そこから

現実との直面を妄想との置換で逃げるやりかたのあらわれでもある。

という結論に導かれてしまいがちなのである。レム原作の『ソラリス』は現実逃避な話でもなければ、「愛が世界との関係の比喩になっている」作品でもない。最初から最後まで完全純粋なSFである。SFというか、物語仕立てにした、科学的手法に基づいた思考実験、というべきか。その「まな板」の上で「恋愛」が調理されているに過ぎない。この「まな板」はレムの他の作品と共通なものだから、それを知った上で『ソラリス』を見れば、ああ、レムは今回は「恋愛」をSF的手法で徹底的に切り刻んだわけだと、簡単に理解できるのである。

大嫌いです。冷たくて人工的で。だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。あんなの全部、口先だけのインチキです

変なことを言う、と思う。創作者はみな自分を狂気に追い込まなくてはならない。狂気の中に身を置かねばならない。いつも自分がほんとうに狂ってしまわないように自分の理性をコントロールしながら生きていくものだ。家族が好きかどうかということはあまり関係ない。それに妹に兄のことがわかるはずがない。親にも子にもわかるはずがない。映画監督の気持ちなんて。

それでまあ、山形浩生は律儀な人だから、レムの原作も読んでみたわけだ。感情なき宇宙的必然の中で:スタニスワフ・レムを読む。ところが彼はレムの小説ではなく彼が書いたSF評論を先に読んでしまったようだ。山形浩生は作家ではなくて評論家であるから、評論家としてレムを見ようとしたのかもしれないが、レムの評論に何か意味があるとは思えない。レムはSF作家以外の何者でもないからだ。

さようなら、人間嫌いのレム。死んで、水のつまったべちゃべちゃの醜悪な肉体から解放されたあなたは、機械に生まれ変われたでしょうか、それとも情報の炎を放つ星になれたでしょうか。もうしばらくして人間の時代が終わり、宇宙の主役が交代して機械となったとき、その機械たちにあなたの慧眼が伝わりますように。もっとも……あなたが正しければ、おそらくぼくたちは、その交代が起こったことにすら気がつくことはないのでしょうけれど。でもその一方で、かれを悼む人々に対してレムなら平然と言い放つだろう。悲しむことはない、と。

「機械に生まれ変われた」というのは『砂漠の惑星』のことを言っているのだろうし、
「情報の炎を放つ星になれた」というのは惑星ソラリスのことを言っているのだろう。
しかし、レムはおそらくただの「人間嫌い」ではなかったはずだし、宇宙の主役が機械になってしまうことを望んでもいなかっただろうし、自分自身が機械になりたいとも思ってなかったはずだ。

レムが嫌っていたのは、例えばウェルズの『宇宙戦争』のように、地球に人間が住んでいるのならば、火星には火星人が住んでいるはずだ、とか、火星人がいたら、地球人が民族どうし戦争するように、戦争するはずだ、文明人が野蛮人を征服するように、火星人のほうが地球人よりも文明が進んでいれば、先に火星人が地球に征服に来るはずだ、という「あまりにも人間的」な発想だ。19世紀のヨーロッパ帝国主義的と言ってもよい。

このウェルズ型の素朴な「宇宙人」「侵略者」は、徐々に洗練されていく。人間と良く似た宇宙人がいて、地球を侵略しに来て、時には宇宙人と地球人の間に恋愛が成立して、子供まで出来てしまうという、実にご都合主義的なSFも出てくる。そのご都合主義は、イデオンのように宇宙人も地球人ももともとは同源であるとか、キューブリックのように、キリスト教的な、地球のすべての生命体のスーパーバイザーとしての知的生命体の存在を仮定したりする。『未知との遭遇』のように、戦争に倦んだヒッピーたちは人間の形に似ているが友好的な宇宙人像を求めた。すべて馬鹿げたことだとレムは思っただろう。そんな人間に都合の良いような、人間の想像力で説明が付くような宇宙人が存在するはずがない。人間の都合で宇宙人を作るな。それは、人間の都合で神を作ってきたのと同じくらい馬鹿げたことだ。人間固有の発想に囚われている。先入観を捨てて、人間的発想から脱出しなくてはホンモノのSFは書けない。レムはそう思ったはずだ。

宇宙には人間とはまったく異なる知的生命体が存在するに違いない。それはどういうものであり得るか、ということを(20世紀に生まれた人間という限界の中で、ぎりぎりまで)追求したのがレムという人だった。他のSF作家が「あまりにも人間的」なSFばかり書くのでそれに反発したのがレムであったというだけであり、そここそがレムのオリジナリティーなのである。作家が自分のオリジナリティーに過度にこだわり、必要以上にのめり込むのは当然といえる。レム自身が人間嫌いだったとは言えない。

飯田規和氏の訳はともかくとして、『ソラリスの陽のもとに』という早川文庫の邦題は余計だ。「ソラリス」はもともと「太陽」の意味でかぶってるし、「ソラリスの陽」ではまるでソラリスは恒星のように思える。まあ、惑星をソラリスと名付けるのがそもそも問題だが。『ソラリス』だけでわかりにくいというのであれば『惑星ソラリス』くらいにしておくのが一番良かろう。『ソラリスの海』というのは冨田勲の命名。

タルコフスキーが『ソラリス』をあんな恋愛ものに仕立ててしまった理由はよくわからない。レムは反発してそして抵抗を諦めたのに違いない。『僕の村は戦場だった』で、白樺林の中でマーシャがくるくる回るシーンがある。そしてあの暗く冷たい湿地帯のイメージ。まさにポーランドの原野だ。『ソラリス』では東京の首都高をぐるぐる走ってる。要するにタルコフスキーはそういう映像表現が好きな人であって、それを『ソラリス』に投影すればあんなふうになるのだろう。としか言えない。

ハリウッド版の『ソラリス』はまあどうでもよい。タルコフスキー版からヒントを得て、きちんとしたSF恋愛ものにリメイクしてしまった。ヒロインは悲劇のアンドロイドとして描かれている。和食がみんな醤油味なのと同じで、ハリウッドの『ソラリス』はハリウッド味のハリウッド映画、としかいいようがない。

レムの『ソラリス』だが、導入からして完全にSFである(タルコフスキーとはまったく違う!)。第一章の終わりで、スナウトの手に干からびた血がこびりついている、という記述がある。この日の朝、ギバリャンは死んだとスナウトは言っているのだから、スナウトがギバリャンを殺したか、あるいはその死に深く関わっているだろうということが暗示される。うまいひっかけだと思う。読者はこのひっかけにひっかかってさらに読み進めざるを得なくなる。多くの謎が第一章で投げかけられるが、そのほとんどすべてがあとで裏切られていく。そこがまあこの作品のおもしろさだろう。第二章ではさらに昔死んだ恋人が現れる。これがだめ押し。ここまで読めばとりあえず読者は中盤までは読み進めるだろう。レムの他の作品にもあると言えばあるが、これほど巧妙な仕掛けはしてないと思う。

私もこういう仕掛けを使わなきゃならんなと思わせる。

ま、しかし、レムの代表作が『ソラリス』なのはタルコフスキーの映画のせいであって、『ソラリス』が真に理解されたからではないし、『ソラリス』だけに恋愛要素があるからでもないだろう。『ソラリス』は確かに傑作だが、その評価はかなり本質からずれていると思う。

『ソラリス』の多くの部分は、おそろしく退屈だ。恋愛なんて一言も語られない。ここはレム自身による作品解説になっている。タルコフスキーもハリウッドもこの部分はざっくり省略している。多くの読者もそれらはよみとばしているのではないか。

真ん中あたりに「バートンの飛行日誌と調査委員会における証言」というエピソードがある。巨大な人間の赤ん坊がソラリスの海の中で、ソラリスに操られて無意味な動きをしているという場面などが出てくる。実は『ソラリス』は他を一切読まず、ここだけ読んでもわかる。『ソラリス』という話の核とも言える。もしかするとレムは最初にここを書いて、前後を付け足したのかもしれない。

レムはおそらく科学者に憧れた人だっただろう、宇宙時代を開拓したソビエトという国家に現れた科学者たちに。少なくともレムの作品にはオカルト的な、不条理な、ファンタジー的な要素はひとかけらもない。100%ピュアな科学小説だ。レムにしてみれば、この作品は小説の体裁をした「学術論文」あるいは「哲学書」という性格のものであり、徹底的につじつまを合わせ、ネタばらしをしなくては気が済まなかった。実は私も「エウメネス」や「マリナ」ではそうしている。前半部分は読者サービス。中盤以降の解説部分は、たぶん読者にはあまり興味ないのだろうと思うが、著者としては書かずにはおれない。

finis vitae, sed non amoris

などと言った、恋愛小説めかした文句は結局は飾りなのだ。

機動戦士ガンダム THE Origin

「機動戦士ガンダム THE Origin」なんだが、comic-walker などで無料の試し読みが見れるので、読んでみたのだけど、これはねえ。安彦良和の悪いところが出てしまっているというか。「王道の狗」「虹色のトロツキー」なんかは好きで読んだけど、それとおなじノリをガンダムでやられると、正直つらいところがある。「麗島夢譚」的なノリというか。

フラウボウとアムロ、ミライとブライトの関係なんかも見ててはがゆい。

本人が描きたかったということもあるんだろうけど、描けば必ず売れるという計算もあっただろうと思う。安彦良和のオリジナル漫画なんてマニアック過ぎて誰も読まないからね。

オリンピック

アッリアノスなんか見てると、神前に犠牲を捧げて、体育の捧げ物とか音楽の捧げ物とか、競技などを催すのだけど、これが近代オリンピックのひな形なのだろう。

この、古代ギリシャにおける、神に捧げる体育競技というイメージと、今のオリンピックはほぼ何の関係もないような気がする。こんなものを捧げられた神様はたまったもんじゃない。

オリンピックなんてやめて、個別競技の世界選手権で良いのではないか。インフラ整備なんてものをいちいちやる必要ないし。同じようなもので万博というのももう死んでしまったし。

一度リセットしてみるべきなのではなかろうか。

エウメネス2 ― イッソスの戦い ―

最初は「エウメネス2」か「イッソスの戦い」かどちらにしようか迷ったが、結局間をとって「エウメネス2 ― イッソスの戦い ―」とした。

図版無し90枚くらいのはずが、図版あり225枚くらいになった。かなりの大作だ。最終的には250枚くらいになるだろうと思う。

「イッソスの戦い」がメインなのだが、だんだん書いていて「テュロスの戦い」もけっこういけるんじゃないかなと思えてきた。この「テュロスの戦い」だが、あまり深く掘り下げて書いたものはなさそうだ。むろん、イッソスにしろ、テュロスにしろ、アッリアノスの「アレクサンドロス東征記」を下敷きにしているわけで、こちらのほうが細かいといえば細かい。しかしほかの文献で補完したりしてかつ私なりの脚色と考察を加えているわけだから、私のほうが詳しいといえば詳しい。割と良い出来だと思う。

先に書いた『エウメネス』だがだいぶ整合性がなくなってきたので、少し書き換えた。少しだけだけど。最新版ダウンロードはアマゾンに個別にリクエストしてください。すみませんが、よろしくお願いします。変えたところというのは、まず、カルディアというポリスのことを誤解していた。カルディア == トラキアのケルソネソス半島だと思っていた。実際にはケルソネソス半島のごく一部。また、エウメネスの母をトラキア人としていたのだが、フリュギア人に統一。

しかし、『ヒストリエ』ではなぜエウメネスをスキュタイ人としたのだろうか。たぶんプルタルコスの『対比列伝(英雄伝)』の記述に引っ張られたんだと思うが、『対比列伝』は、ローマ人についてはともかくとして、ギリシャ人の記述は民間伝承レベルで、決してよろしくない。と思う。ヨーロッパからみたスキュティアは今のウクライナ辺りになるのだが、北方のトラキア人を広い意味でスキュタイ人と言ったのだろうか。そうかもしれんね。

もうほとんど完成したと思うんだが、出版予定日は繰り上げずに予定どおりやると思う。
こまごましたところはゆっくり直していけば良いと思うんだけどねえ。KDPなんだし。

ちょっとだけネタばらしすると、テュロスの戦いですごいのは、おそらくアレクサンドロスが世界で初めて「投石器を搭載した軍艦」を建造し、実戦に投入し、これによって勝利した、ということだと思う。誰か前例を知ってたら教えてください。無いと思うけど。
それまでの海戦はだいたい軍船どうしの戦いだったはずだ。一日で決着がついた。しかしテュロスの戦いは軍船による島の上に建てられた城の包囲戦だった。こんな戦いがテュロス以前にあったはずがない。これがゆくゆくは米海軍による黒船襲来、マニラ艦砲射撃へとつながっていくわけですよね。もちろん軍船の上で弩を使って撃ち合った、というようなことはあったかもしれんが。

でまあ、私としては、テュロスの戦いはもっと注目されて良いと思った。と言っても、イッソスの戦いですら、日本ではあまり話題になることがないのだよね。

あと一気に読むのは長さもあって辛いと思います。私も校正してて気絶しました。地名や人名がたくさん出てくるのは勘弁してください。そういうところは流し読みしていただけると助かります。

これを当てて、ゆくゆくは総集編を出したいよねえ(笑)

あ、あと、アマゾンが 50pt 付けてくれてるのはありがたい。