いろいろ思うことはあるが、

福島第一原発跡地を国が買い上げるのであけば、米軍基地や自衛隊の基地にすれば良い。横田や厚木や横須賀基地を移転すれば良い。横田や厚木や横須賀の跡地を売却すればむしろ儲かるだろう。防衛庁も首都機能も移転すればよい。今の東京のそれを売却すれば、むしろ儲かるだろう。絶対そうすべきだ。良い財源になる。増税する必要もないわなあ。

横断歩道に人がいても一時停止しないやつ、歩行者専用の地下道を自転車で通るやつ、そういうやつらも、全員、自衛隊で、研修受けさせれば良いと思うよ。だって、今は非常時なんだろう。なんでもできるよ。

ヤハウェと火山

フロイトは、ヤハウェは明確に火山神だと言っているのだが、エジプトにもシナイ半島にもパレスティナにもシリアにも火山はなく、この付近で唯一火山があるのは、アラビア半島西部、およそメディナの辺りだ。

2009年5月25日に、サウジアラビアのアルアイス地方で、群発地震が起きて、火山が噴火する可能性があるので、住民が避難した、ということがあったらしい。アラビア半島には休火山しかなく、有史以来、噴火したという記録はほとんど見られないようだ。しかし現代でも住民が避難するくらいだし、噴火口跡はたくさんある。3500年くらい前に実際に噴火があってもおかしくはないわけである。海(アカバ湾?)が割れる(たとえば地震による津波)くらいの天変地異があってもおかしくない。

ヤハウェの記述は明らかにアドナイとは別のものであり、この二つの神が融合してイスラエルの宗教になったのだろうと、フロイトは言う。さらに、イスラエルの12氏族のうち、モーセやアロンなどの指導層が属したレビ族は、後の時代まで氏名がエジプト語由来のものが混ざることから、エジプト人そのものであり、ユダヤ人ではないのだという。古代エジプト語とヘブライ語はそうとう遠い言語であるから、この二つの民族は、最初、言葉が通じていなかった可能性が極めて高い。

レビ族なるアメンホテプ4世の一族のエジプト人(彼らは、宗教改革に失敗してエジプトを追われた)が持っていたアトン信仰と、アラビアの火山地帯に居住していた(もしくはたまたまエジプトに寄留していた)と思われるユダヤ諸族のヤハウェ信仰が、合わさってできたものが後のユダヤ教なのではないか。かつ、アトン信仰というのはおそらくシリアのフェニキア人のアドニス信仰に由来するのだろう。

句読点の省略と新聞社について

思うに、夏目漱石が最初に作品を発表したのは朝日新聞であり、森鴎外は読売新聞だ(追記: 漱石が最初に小説を発表したのはホトトギス、明治38年。鴎外が小説に関する論文もしくは戯曲の翻訳を発表するようになったのは読売新聞で明治22年、最初の小説『舞姫』を発表したのは国民之友)。司馬遼太郎ももとはと言えば産経新聞の社員。このように、新聞社関係の人間は、カギ括弧の終わりの句読点を省く傾向がある。

一方、永井荷風や中島敦らが最初に活動したのは文芸誌か同人誌であろう。

新聞社では活字を節約するために、句読点の省略ということをやった可能性が高い。せこいが年間で0.何パーセントか、コストを削減できたに違いない。逆に文芸誌や同人誌などは、たかだか句読点の一つや二つ省いたからと言って、採算がどうこうなるというわけではなかっただろう。学者の文章というのも、やはり、句読点を省かなかったのに違いない。

子母沢寛も松本清張ももとはといえば新聞社の人間である。そして、新聞社というは、影響力が大きいものであって、そのために句読点が省かれるようになった、また、みながそれを真似するようになった。

そんな気がする。

もしそうだとすれば、今の時代に句読点をいちいち省略するのは、ばかげたことだと思う。

『墨東綺譚』を読むに、やはり句点は省かれていない。「そうか。」「今晩。」「ご存じ。」など、短い会話文でも、かならず、省略しない。短くても改行する場合が多いが、いつもではない。朝日新聞に掲載されているが、永井荷風は当時すでに文豪だったから、句読点を削られるようなしうちはなかったのに違いない。やはり、初期の頃の執筆の癖というものが、その後もずっと残り、途中で変わることはない、と考えるのが自然だろうよ。

追記。文芸作品に限れば句読点を省くか省かないかなどということは些細なことかもしれないが、新聞に掲載するのは文芸だけではないから、活字の節約ということは大きな意味がかつてはあったに違いない。文体も簡潔にし、改行もできるだけしない、などということがあったかもしれない。

『墨東綺譚』は最初私家版だったらしい。

アドンとエデン

昔、けっこう一神教の起源について書いたことがある。一神教の起源アトンYHWHアドニヤモーセと一神教文献メモ、などだ。状況証拠的に考えて、アメンホテプ4世の時代のアトン信仰と、出エジプト時代のイスラエル人の宗教に、何の関連性もないと考える方がおかしいのであって、あとはどうやってその連続性を立証していくかという作業があるにすぎないと、私は思うよ。それで、そういう話がどうしてあまり広まらないかと言えば、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒もいずれも、自分たちの宗教のオリジンが、古代エジプトにあるとは、あまり考えたくないからだろう。ただユダヤ人の(無神論者の)フロイトだけが、勇気を持って、その説を主張したのだ。

それで、フロイトが書いた、『モーセと一神教』という本があって、私はそれにすべては書き尽くされていると思ったのだが、フロイトが指摘してない、まだ新しい関連性を発見した。というのは、クアルーン(コーラン)では、エデンのことを「アドン」と言っているということだ。アラブ語はヘブライ語と同じセムハム語系の言語であって、同語源であると言える。それで、ヘブライ語では「主」のことを「アドナイ」という。これは「アドン」の複数形である。神の名は一人でも複数形となるのは、あちらの言語ではわりと一般的である。たとえば神の一人称はWeである。「アドン」「アドナイ」は「アトン」とほぼ同じ言葉であるというのはフロイトの発見だ。そして「アドニス」などとの関連性も、フロイトは示唆している。アドニスはギリシャの神だがもともとはフェニキア人の神であり、フェニキア語はやはりセム語系だ。アメンホテプ4世の別名「イクナアトン(アクエンアテン)」とは「アトンに愛される者」という意味だ。

それで今度はエデンという語の起源をウィキペディアなどで調べてみたけど、これが恐ろしく古い。アッカド語、もしくはシュメール語で「園」もしくは「平原」という意味らしいのだ。ちなみにヘブライ語でエデンは「快楽」という意味らしい。また、ギリシャ語ではパラデイソス、つまりパラダイスと訳される(いかにもギリシャ語語源な語だわな)。いずれにしても「天国」とか「神の国」と言う意味だよ。だけれどまあ、もしエデンとアドンが同語源ならば、一神教はシュメール時代までその起源がさかのぼれることになるよ。どうよ。

エジプトという多神教の世界にいきなり一神教が、忽然として、生まれたというのはやはり無理があり、それはどこか別の世界からもたらされた、たとえば、アメンホテプ4世の王妃がミタンニ王女ネフェルティティであったという説があり、メソポタミア地方に、原初的な一神教が古代から伝わっていた、と考えるのが、やはり自然ではなかろうか。いや、むしろ、異国の地の神が土着の多神教のエジプトに導入されたときに、他の神から阻害され、切り離された存在となって、それが先鋭化して一神教という形になったのかもしれんわな。山本七平が言う、「オリエントの専制君主制が宗教化したもの」ではあるかもしれないが、さらにはそこで、専制君主が多神教社会の中で宗教改革を断行しようとした結果、外来の、異邦の一つの神が、絶対化されて、一神教が生まれたのかもしれん(当時のエジプト王がいわゆる「専制君主」といえるかはわからん。神官の長のような権威的存在だったかもしれんし)。とかく、宗教改革というのは、一つの神に権威を集中させ、他を排斥しがちなものであり、いわば、宗教改革というものが、一神教を生み出した根源的な原因かもしれん。その歴史的な最初の例がアメンホテプ4世だったのではないか。

くどいが、一神教だから宗教改革に発展したのではなくて、宗教改革の結果、一神教が生まれたのではないか。

ミタンニは印欧語族だという。エデンの園が東の方にあったというのは、ミタンニ王女の国がエジプトの東方であったことを意味しているのかもしれんよ。

tomb raider 4 (last revelation)

なぜか久しぶりに TR4をやる。しかもドリキャス版。二日目くらいで、クレオパトラ宮殿まで来た。二年に一度くらいやると面白い。

四月になったがまだ Portal2 は出ない。

自粛という以前に、外飲みは少し控えようと思う。外で酒を飲むといろいろ腹が立って仕方ない。一番腹立つのはマナーの悪い自転車乗りで、最近耐え難くなってきた。正義感とか怒りというのは低級な感情であって、赤ん坊にもある。それを抑えるのが大人というものだろう。しかし酒を飲むと時に、そんな安っぽい正義感が爆発してしまう。が、社会のマナーを良くしようなどという運動なんて、自分には一番向いてない仕事であり、何を見ても怒らず、社会の不正を見てもいからず、ネガティブな愚痴も言わず、ただ自分の精神の安定を保ち続けるのが一番だと思う。自転車の次に腹が立つのは他の飲み屋の客だなあ。そういう店には近づかないのに限る。しかしそれが案外難しい。

仕事の責任も増え、震災のごたごたもあって、いつもより私の精神は酒を必要としているのだが、外飲みはしばしば逆効果になる。酒を飲まないと、精神状態をコントロールするのは極めて簡単になるが、しかし仕事のストレスは発散せねばならない。さて、どうすりゃいいのか。

三種の神器 3

「三種の神器」の初出が『平家物語』ではないかという根拠は、簡易な手法ではあるが、
新潮国語辞典の用例を調べたのである。この辞典は用例に「もっとも頻繁なもの」ではなく「初出」つまり「もっとも古い例」を載せるのが方針である。教科書等に載っているような、無視できない典型例は「初出」と併記されるから、「初出」が漏れることはないのだ。

それで、『平家物語』の成立は、鎌倉幕府の成立からどう見ても半世紀は後だろう。1240年くらい。つまり、1221年に起きた「承久の乱よりも後」なのである。

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)

後鳥羽院の御時、つまり承久の乱の直前に、すでに原型が出来ていた可能性もあるのだが、承久の乱によって、宣旨も院旨もなしに、「三種の神器」の権威だけで、後堀川天皇は即位したのであり、それによって「三種の神器」という概念が初めて確立し、それが『平家物語』の中に、リアルタイムで盛り込まれたのではないか。偶然の一致とは思えぬ。

つまり、安徳天皇都落ちのときには、「三種の神器」というものが皇位継承の印として、重要視されてはいなかった可能性もあるということだ。もし「三種の神器」が承久の乱以前から皇位継承の証であったなら、公卿の日記などにも、前々から用例がなくてはなるまい。どうかな。

夢金

船宿が出てくる落語に、夢金と言うのがあるのだが、吉原の山谷堀にある船宿で、隅田川に出て深川まで行くと言う話。三遊亭円生の話を聞いていると亭主と女将は一階にいて、船頭の熊五郎は二階で寝ている。古い柳橋辺りの写真を見るに、この頃の町屋はほとんどが二階建て。柳橋新誌の記述とも符合する。深川でも妓楼とは言わずに船宿と言っていたらしい。

家に必ず楼あり。楼に内外あり。小なるものは外楼あるのみ。家人皆下に棲止して、客を楼に迎ふ。その舟子を畜ふ、上は四五人を食ふ。下は一二人を食ふ。

思うに、船宿というのは、普通の二階建ての町屋のようなものだったろう。多くの商店のように、間口は狭く、奥に長い。表に面した二階が客に貸す客間、奥の二階には、船頭が待機・休憩していたのではなかろうか。一階は通りに面して玄関と帳場があって、その奥に亭主と女将一家のすまいがあったのだろう。

思うに柳橋というところは、戦後日本の駅前商店街のように、船宿は船宿、料理屋は料理屋、酒楼は酒楼、などというように個別の専門店が立ち並んでいて、相互に補完していた。町全体でいろいろまかなった。船宿の座敷は個別のこじんまりしたレンタルルームのたぐい、酒楼は広間をシェアするようなものであり、密会には船宿の方が都合良いのであろう。一方、吉原などでは、「張り見世」などで大勢の遊女が集められていたのように、妓楼一つ一つが独立したスーパーマーケットのようなものだったに違いない。その建物も巨大で、三階建て、四階建ては当たり前。従って同じ芸者と言っても吉原と柳橋では全くシステムが違っていたのだ。

落語の中ではまた「屋根舟」という言葉が出てくる。これも古い写真などで確認すると、普通の川船に簡易な屋根を設けた程度のものであり、五、六人も乗れば満員、船頭も一人きりで、竿をさして移動するもののようだ。船宿が所有する舟のメインはこれ。これに対して屋形船というのは何十人も乗れて中には畳の座敷のようなものまであるもので、幕府の免許(株)が必要で、柳橋新誌の頃には七隻に減っていたという。つまり、屋形船は大きすぎのろすぎて、洒落と便利を尊ぶ「遊び」には向いておらず、皆屋根船を使うようになったということだろう。

屋根船よりも簡易で船足の速いのはチョキと言い、急に山谷堀まで遊びに行きたくなったときなどに早駕籠代わりに使ったという。

同朋町

江戸の地図を見ているとあちこちに「同朋町」というものがある。少し調べてみると、これが「同朋衆」の住む町であったことがわかる。「同朋衆」というのは、だいたい室町時代から出てきたもので、世阿弥や千利休のような僧侶であって、表坊主、奥坊主、などの呼び名もあって、将軍家のため芸能などに携わるものたちを言ったらしい。だが、『柳橋新誌』の頃の柳原同朋町は、芸者母娘の巣窟になっていた、とある。もともとは芸人(おもに男)のすみかであったところが、時代の移り変わりで、芸者(おもに女)のすみかになった、ということなのだろうか。なんか興味深い。

で、ほかにも興味深いのは、柳橋の芸者母娘の娘というのは、通常お金で買われた養子であり、つまり芸者として奉公する契約を結んでいるのはこの同居している母娘どうしだということだ。母というのももとはと言えば、娘と同じような身分の芸者だったわけだ。吉原だと、妓楼の亭主が芸者と契約して奉公させる。一方、柳橋では、芸者母娘というのは、ごく普通の親子と、表向きは何も違わないということであり、実際実の親子である場合も十に一つくらいはあったのだという。

江戸繁盛記

深川の 流れの末の 浮かれ妻 つひのよるせや いづくなるらむ

船底の 枕並べて 深川の 遊びは客の 舵をこそとれ

まことなしと 人に言はるる 身ぞつらき 客に情けも 深川の里

身揚がりを して呼ぶ客は たをやめの 心のうちも 深川の里

柳橋新誌と併せて江戸繁盛記も読んでいるのだが、吉原と深川の対比が面白い。吉原は北にあるので、里(ほくり)。深川は南東にあるので、辰巳(たつみ)。吉原は幕府公認だから、いわば公娼。深川は民間、私娼。

吉原は芸と色では色の方が重く、それぞれの妓楼が芸者も料理人も幇間も雇っている。ところが深川では芸者は置屋というところにいて、客は酒楼に遊びに行き、料理屋から肴を取り寄せて、置屋から芸者を呼ぶ。また芸者も芸と色では芸の方が重い。

柳橋芸者は、天保の改革で深川はつぶされてから出来たもので、辰巳芸者の流れをくむ。ここでは、酒楼ではなくて船宿が主体となる。船宿と言っても必ず楼(二階)があって、一階は船宿の亭主や女将が住み、客は二階に上がるものらしい。船宿には厨房のようなものも、ないようだ。亭主の他に船頭が居て、つまり亭主というのは実は何もしない。ただばくちを打ったりして遊ぶだけらしい。女将の滑舌によって船宿というものは儲けたり儲からなかったりするのだという。

柳橋芸者は普通、柳橋南詰め、西両国広小路の北の、下柳原同朋町というところに住んだらしい。その母と二人暮らし。他には猫くらい。客が芸者の自宅に来て遊ぶこともあったようだ。