龍馬

龍馬はまさに「さざれ石が巌となって苔むすまで」虚像がふくれあがった人と言うべきだろう。土佐を脱藩して薩摩の密偵とか武器商人相手のブローカーのような仕事はしていたかもしれないが、教養があるわけではなく、今でいうところのやくざの中堅幹部くらいのものだったのではないか。「世の中を洗濯」程度のことはその当時の志士なら誰でも言いそうなことであり、和歌はほとんどがその時代のはやり歌のつぎはぎだし、手紙だって自分で読み書きできたかどうかすら怪しい。まあしかし野口英世母のシカだってなんとかこうとか手紙くらいは書くわけだから、まったく書けなかったということもないかもしれないが。そんなやくざ映画の主人公みたいなところが受けるのだろうが、彼一人居ようがいまいが、維新がどうこう、日本の歴史がどうこうということはあり得ない。

贈正四位坂本龍馬君忠魂碑というものがあるらしいが、昭憲皇后の夢枕にどうこうというそのいきさつはともかくとして、明治24年に追贈されたというから、おそらく薩摩藩でも西郷隆盛に追贈の運動があって明治22年に正三位を贈られているので、土佐藩の中では一番名高い龍馬にもそのような運動の結果、追贈があった、くらいに考えれば良いのではなかろうか。西郷隆盛は西南戦争の首謀者で本来朝敵だが名誉回復という意味で正三位にとどまったので、本来であれば正一位でもおかしくない。たった一位の違いだが龍馬と西郷隆盛ではその意味あいが違う。何しろ

我は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ

敵の大将たる者は 古今無双の英雄で

と歌われたのが隆盛なのだから。贈正四位は生前だと五位くらいの、平安時代だと地方長官、鎌倉時代以降では執権や大名くらいの官位で、維新に功績があった人には普通かやや高めくらいか。

こういう形の偶像崇拝は、非常に不愉快だ。司馬遼太郎にも大いに責任がある、と言えなくもないが、司馬遼太郎を何か権威付けして利用し金儲けしている連中も、自分たちのやっていることが歴史上どれくらい危険か、自覚した方が良い。司馬遼太郎自身この手の虚構の偶像崇拝を嫌悪していたのではないのか。

伊東甲子太郎、橋本若狭、中原猶介が贈従五位か。ここらまでくるとほぼ無名の志士だな。も少し事例があればだいたいの相場がわかるのだが。

賀茂真淵の歌

本居宣長全集を読んでいると、村岡典嗣の評として(やや抜粋)

歌人としての宣長は、遺憾ながら第二流、もしくは以下の評価を甘受せねばなるまい。
文学や詩歌に対する、未曾有のすぐれた理解や見識を示した彼にして、なにゆえにかくのごときであったかは、あるいは不思議としうるくらいであり、学者と作者は必ずしも一致しないとはいいながら、この点賀茂真淵などと比較して、全く違っている

が紹介してあり、では賀茂真淵には秀歌があるかと思って、岩波書店日本古典文学大系「近世和歌集」を読んでみる。確かに面白い歌もある。

大魚(おほな)釣るさがみの海の夕なぎに乱れていづる海士小舟(あまをぶね)かも

いにしへのしづはた衣きし世こそおりたちてのみしのばれにけれ

沖つ舟手向けすらしも岩浪のたてるありそにかかるしらゆふ

雲のゐるとほつあふみのあはは山ふるさと人にあはでやまめや

故郷にとまりもはてず天雲の行きかひてのみ世をば経ぬべし

もののふの恨み残れる野辺とへば真葛そよぎて過ぐる秋風

見わたせば天香具山うねび山あらそひたてる春霞かな

むらさきの芽もはるばるといづる日に霞色濃き武蔵野の原

つくば山しづくのつらら今日とけて枯生(かれふ)のすすき春風ぞ吹く

さくら花花見がてらに弓いればともの響きに花ぞ散りける

山ふかみおもひのほかに花をみて心ぞとまるあしがらの関

かげろふのもゆる春日の山桜あるかなきかのかぜにかをれり

しなのぢのおきその山の山ざくらまたも来て見むものならなくに

しかし特に驚いたのは次の二首

うらうらとのどけき春の心よりにほひいでたる山さくら花

もろこしの人に見せばやみよしののよし野の山の山さくら花

「うらうら」の方は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の本歌ではないかというくらい似ているし、「もろこし」の方も「もろこしの人に見せばや日の本の花の盛りのみよしのの山」にクリソツ。 もちろん、真淵は宣長の33才の年長であり、宣長が39才のとき(1769)に真淵は亡くなっており、先に詠んだのは真淵である。宣長も、わかった上でまねて詠んだのだろう。

世の中によしのの山の花ばかり聞きしに勝るものはありけり

みよしのをわが見に来れば落ちたぎつ瀧のみやこに花散り乱る

これらも真淵が吉野山を詠んだ歌。

宣長は43才のとき(1772)吉野に桜を見に行っている(菅笠日記)。猛烈に桜の歌を詠み出したのは44才の時からだ。思うに宣長の山桜好きは真淵から受けた影響(あるいは師・真淵を慕う気持ち)と、実際に吉野山を訪れたことによるのはほぼ間違いないし、「敷島の」の歌が真淵へのオマージュであることも確かだろうと思う。

真淵の歌を全体としてみれば、宣長と大した違いのない古今調だが、中にはわざと万葉調に詠んだものもある。田安宗武ら武士の師となったこともあり、武家の影響もみられる。一方、宣長は青年期から老年まで歌の傾向はまったく変動がない。二十台後半に書いた「おしわけをぶね」において彼の思想と学問の方針は完全に完成されているのは見事である。しかしゆえに十年一日のごとく「ほとんど生長も発展もみられないことも、やがて彼が真の詩人でなかったゆえとすべき」などと言われる始末だ。

「近世和歌集」の真淵の歌は抜粋なのでこれ以上なんとも言えないのだが、宣長に比べて真淵の歌が優れているとするのは単なるアララギ史観に過ぎないと思う。

ねぢけゆくわが心

木の花の 咲くがなどかは めづらしき よそぢとしふる 我が身なりせば

木の花の うつしゑうつす はかなさよ よろづの人も ならふてぶりに

ねぢけたる 老い人なれや わこうどの いはふ日なれど たのしくもなし

春の日に ねぢけゆくわが 心かな おくりむかふる 人の世ぞ憂き

いはふとて 飽かざらましや 千とせふる つるかめの身の 我ならなくに

いはふべき 春の良き日に しかすがに ふさがりとざす 我が心かな

ねぢをれて ひねまがりたる 老いけやき 憂き世に長く ふればなるべし

浮かれ女や 浮かれ男つどふ 春の野辺 たまゆらにこそ 浮かれやはせめ

大国魂神社

なぜか大国魂神社にしだれ桜を見に行く。そのあと府中美術館。歌川国芳展。まあまあ。
文覚が那智の滝に打たれる三枚続きの浮世絵が印象的。

ひろびろとして良い町。工場も多いし競馬も競輪もあるからさそがし地方税やら医療費やらは安かろう。戦闘機も飛ばず静かだし。のんびり住むには良い町だろう。

たま川を わがこえくれば 川の辺に 咲きたる桜 ひと木だになし

しだれざくらは赤みが強い。エドヒガンの一種らしい。ということはやや早咲き。ほぼ見頃だが、まだ満開ではなく散るようすもない。

こちらはやはり早咲きの、府中美術館近くに咲いていた大寒桜。

頼義・義家父子と家康が奉納したという大国魂神社ケヤキ並木を

武蔵野の司の道にうゑつぎていやさかえゆくけやき並みかな

しかし八幡太郎が千本植えてさらに家康が補充したはずなのに現在は150本しかなくてしかも並木道の全長は500mもあるっていうのはどういう計算なんだいという。もともとせいぜい100本くらいしか植えなかったんじゃないのかなと。イチョウ、ケヤキの並木、大木が多い。五月頃来るとまた美しいのだろう。

二宮金次郎

菜の花の 咲けるをりには 思ひやれ 身を立て世をも 救ひし人を

「歯がない」と「はかない」をかけて

をさなごの歯の生えかはりゑむかほのはかなきものは春ののどけさ

をさなごのはかなきかほをながめつつ春のひと日を過ぐしつるかな

またたばこ

いたづらに立つや浅間のけぶり草目には見えでもけむたきものを

賀茂真淵の大和魂

賀茂真淵にいまなびによれば、

女の歌はしも、古は萬づの事丈夫に倣はひしかば、萬葉の女歌は、男歌にいとも異ならず。

かくて古今歌集をのみまねぶ人あれど、彼れには心及さく巧みに過ぎたる多ければ、下れる世人よひとの癖にて、
その言狹せばく巧めるに心寄りて、高く直き大和魂を忘るめり、とりてそれが下に降くだちに降ち衰えつゝ、終に心狂ほしく、言狹小ささき手振となん成りぬる。

女の歌も古い時代には何事も丈夫であって、万葉の女歌は男歌と大した違いはなかった。古今集の時代によると言葉を狭く巧むようになって高く直き大和魂を忘れ、だんだんと衰えて言葉狭く小さくなっていった、とある。

末の世にも、女をみなにして家を立て、鄙つ女にして仇あたを討ちしなど少なからず。かゝれば、此の大和魂は、女も何か劣れるや。まして武夫ものゝふといはるゝ者の妻、常に忘るまじき事なり。

末の世でも女が家を建てたり、田舎女で仇討ちをしたりするものが少なくない。このように考えれば大和魂というものも女が劣るというものではなく、まして武士の妻というものは常に忘れるべきではない、と。

こうしてみると、「大和魂」「大和心」という用例は源氏物語や赤染衛門が初出であるのに、その精神は万葉時代からすでにあったという論法だ。確かにそのようなますらおぶりな、高く直き心というものは、古くからあり、また近世の武士にもあるかもしれないが、それを「大和心」「大和魂」と呼んでしまうと、中世の用例と齟齬ができてしまう。

いったい全体、賀茂真淵のような用例はいつ頃から誰が言い始めたのだろうか。賀茂真淵がいきなり始めたこととはとても思えないのだが。「にひまなび」は1765年成立とあるから、宣長が35才のときにはすでにこのような説があったということだな。真淵と宣長がはじめて松坂で面会するのは1763年。国学者が「大和魂」などと言い始めたのはいつかってことは、たとえば小林秀雄の追求も真淵までで止まっており、そこからさかのぼってはいない。北畠親房「神皇正統記」、山鹿素行「中朝事実」あたりが怪しいと思うのだが。

うーん。やはり、それらしい思想はすでにあったけれど、その思想にそのものずばり今日の意味の「大和魂」という言葉を「発明」し当てはめたのは、やはり賀茂真淵なのかもしれない。そういうことはうまい人だったのだろう。宣長は真淵の弟子ということになっているので、宣長も真淵と同じような意味に「大和魂」という言葉を使ったに違いない、という誤解はあり得ただろうし、宣長よりは真淵の意味の「大和魂」の方が勇ましくてわかりやすいので、宣長の主張はかすまざるをえなかったということかもしれん。

永井豪

いまさらながら、ハレンチ学園やあばしり一家やデビルマンを小学生の頃読んだ世代にしてみれば、ああいうものが規制されなかったほうがおかしいと、改めて思う。ただ単に、役人も、世間一般も無知だっただけだろう。規制されるべきかどうかの議論にはあえて言及したくないが。

今の漫画もアニメも私たちが子供の頃の純朴だったときとは明らかに違う。エヴァなど見れば性的にどうこう言う以前に精神的に病んでいる。それで良いのかと思う。

ビデオゲームにしてもやはり昔のものはえげつない。その反省なしに先には進めまい。

こういうことは言えると思う。わずか20年なり、40年なり前は、何を見てはいけないか、何を見てもよいかという基準を国家権力が決めるのは、危険だった。だから、どちらかといえば、何もしない方が安全だった(昔の方が今よりずっと規制は多かったがコンテンツ自体が圧倒的に少なかった。というよりコンテンツが少なかったから選別して規制出来たと言える)。しかし、情報にあふれる今、逆に言えば、年少者がアクセスできる情報は国家がコントロールした方が良いのではないかと。今と20年前とどれほど情報量が増えていようか。

漫画家やゲーム開発会社が自由に創作活動するのは良い。しかし子供はどうか。

あしわけをぶね

相変わらず宣長を読んでいる。排蘆小舟(あしわけおぶね)は宣長が医者の修行で京都に遊学していた28才くらいまでに書かれた歌論書で、宣長の評論の中では比較的初期でかつまとまったものである。現代語に全訳してやろかとも思うがそんな暇人でもない。

近代の先達の教えに、玉葉・風雅などの風体を嫌って、正風体を学べと教えられるなり。その教えは良けれども、その人と歌をみれば正風にはあらずして、その嫌わるる所の玉葉・風雅に近き風なり。これはもと、玉葉・風雅の悪風を改めて、頓阿という人、正風を詠み、かの悪風を大いに戒められたるより伝わる教えなり。頓阿は名人なれば、実に風体の善し悪しをわきまえて言われし故に、自分の歌みな正風なり。その後の近世の先達は、頓阿の説に従って、教えはさることなれども、歌の風体の善悪を知ること、頓阿に及ばず、故に自分の歌、正風にあらず。かの嫌われる所の悪風に近し。これなにゆえとなれば、大概は風の善悪も分かるる人も、正風にのみ詠みては珍しきこと詠み難し。それゆえに珍しき風情を詠まむ詠まむととするゆえに、おのづから異風になるなり。これいにしえの人に及ばぬ所なり。いにしえの人は正風にして、珍しい風情を詠めり。いかほど珍しく優なる歌にても、正風を離れず、少しも悪きところなきなり。近世の人は、珍しきことを詠めば、必ず正風を失うなり。

いにしえの(善悪を知る)人ならばどんなに近現代の珍しいことを歌に詠んでも正風を離れず詠むことはできる。しかし近現代の人が今の風情を詠もうとすると必ず正風を失う、と主張している。つまり今の歌詠みは、古いことを古いながらに歌に詠むことはできるが、
新しい、それまで和歌で試みられなかったような事物を詠もうとすると必ず古風を失う。
あるいは俗語や漢語などを使おうとする、と。まるで明治以後の歌人たちを言っているようではないか。

また、次のようにも言っている。近代の人の歌をまねるべきではない。当時無双と言われる名人でも、いにしえの歌には及ばない。そのうえ次第次第に言葉遣いの誤りも多くなる。古代の歌をまねて詠めば古代の歌も近代風の歌も詠めるが、逆は成り立たない。ただしいきなり昔の歌を詠むのは初心者には難しいので、「題林愚抄」などで題詠のやり方を学ぶと良い。古代の歌を学んだ後ならば近代の歌を善悪の見分けもつくのでそれほど害にはならない。

また、俳諧・連歌について、俳諧は「今日の常態言語」を使い、これほど人に近く便利なものはない。なぜ和歌でなく俳諧をとらないのか、という問いに対して、連歌・俳諧・謡・浄瑠璃・小唄・童謡・音曲のたぐいは、すべて和歌の一種であって支流である。その中で雅びなものと俗なものがあるが、風雅の道においてはどうして雅を捨てて俗をとることがあるか。本をおいて末を求めることがあろうか。しかしそれも個人の好みにまかせれば良い、などと言っている。

実際、俳諧は、和歌に比べるとはるかに俗語を取り入れるのに、古くから熱心だった。なので、明治に入ってからもわりあい人々に容易に受け入れられた。しかし、和歌は逆に「正風」をやかましく言い、俗語や歌舞音曲を受けいけることを拒んだ。明治に入って急激に俗語や漢語を取り入れたために悲惨なことになったが、和歌は江戸時代にあまりにもその準備がなさすぎた。和歌というものが、宣長がやったように、歌道の家の言い伝えなどはひとまずおいて、古文書に直接当たって文献批評のような科学的分析を加えないと、もはや一般人にはとうてい善悪の見分けがつかない状況にあった。伝授・附会といった歌道の「密教化」が進み、あるいは堂上・地下の対立が起きたというのも、ようするに「歌学」というきちんとした方法論なしには和歌が詠めなくなっていたからなのだ。それに比べて俳諧などは「学問」という仰々しいものがなくてもある程度は直感的に作れたわけだ。

伝授・附会とか堂上・地下といった風潮はつまり、学問的な考察なしに、歌をどうこうしようとしてどうにもならなくなっておこってきた現象であり、これを宣長は京都遊学中に契沖の歌論書によって気づかされたのだろう。つまり、聖書に textual critics が必要なように、歌学にも文献批評が必要だ、という一つの真理に気づいたということだ。

ははあ。古文辞学は荻生徂徠の学派に学んだということか。うまくできてるな。確かに Textkritik を「本文批評」と訳すよりは「古文辞学」と訳した方がしゃれてるわ。

宣長は京都遊学前から頓阿の草庵集や井蛙抄などを読んで手本としており、ますますこれらを正風として手本にしたと思われる。

思うに、和歌は、公家も武家も詠むものだ。公家の世界に限ればおそらくその最盛期は新古今集。その次の新勅撰集からは武家の歌も多く混じるようになった。頼朝、実朝、泰時、高氏らはみな歌を喜んで詠んだ。もろびとこぞって和歌を詠んだ。武家に和歌は不要だと言った武人はほとんどいない。家康が言ったか言わないかくらいのことだ。公家は公家のように、武家は武家のように歌を詠めば良い。特に勅撰集が編纂されなくなった応仁の乱以後は武家が和歌の伝統を支える大きな役割を担った。中には田安宗武のような武家の思想・儒家の思想で和歌を解する人も出た。武家が武家の思想で歌を詠んで何が悪かろうか。それまで公家は公家の詠みたいように詠んできたし、坊主は抹香臭い歌を詠んできたのだから、ただお互い様というだけのことだ。戦の歌もあり、商売の歌もあり、政教の歌もあり、四季や恋の歌があるだけのことだろう。

諫める

漢字の「諫」には、目上の人に直言して悪事をやめさせる、という意味しかないのだが、
やまとことばの「いさむ」には、たとえば

> たらちねの親のいさむるうたたねはもの思ふときのわざにぞありける (伊勢) または「おやのいさめし」

> たらちねのいさめしものをつれづれとながむるをだにとふひともなし (和泉式部)

> たらちねの親のいさめの絶えしより花にながめの春ぞ経にける (九条道家)

> 無き影の親のいさめは背きにき子を思ふ道の心弱さに (藤原定家)

> うたたねの夢にもうとくなりにけり親のいさめの昔語りは (? 続拾遺集)

> 別れをば一夜の夢と見しかども親のいさめぞ絶えて久しき (? 続拾遺集)

> 伝へおく言の葉にこそ残りけれ親のいさめし道柴の露 (? 新後撰集)

親が子をいさめたり、

> 恋ひしくは来てもみよかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに (在原業平)

> 今ぞ知る神のいさむる道ならぬ世々の契りのふかきまことを (正徹)

神がいさめたり、

> もみぢ葉をおのがものとも見てしがな見るにいさむる人はなけれど (源重之)

> いかで世にあらじと思へどありぞふる誰かいさむるものならなくに (能因法師)

誰かにいさめられたり、

> 大空に照るひの色をいさめても天の下には誰か住むべき (女蔵人内匠)

小うるさい人にいさめられたり、

> 世の中を厭へと人のいさめしは吉野の里の花を見むみむため (宗良親王)

坊さんにいさめられたりも、

> 折る人をわきていさめむ九重のみ橋の花に風は吹くとも (二条為藤)

いさめたりする。
親が諫めるというのは、ぼーっとながめていたりうたたねしていたり、
つまり何もせず無為に過ごしていてはいけませんよとしかられるということだろう。
神が諫めるとはつまり神域の禁忌などのことだろう。
車から緋色の裾が垂れていると、はしたないと見とがめていさめる人もいるということか。

要するにやまとことばの用例では、
子が親を諫めるなどというよりは、
親が子をしつけたり戒めたり、他人にみとがめられたりする場合に言うことが多い、ということだわな。

代々木の園

なぜか明治神宮に行ってきた。

降ればなほ 行きて見まほし 春雨に 代々木の園は 青みたるかと

みそのふに 春雨ふれば 人を無み しめ野にひとり あるここちする

正直に言えばここまでは「心象風景」。わりに人はいた。しかもふしぎと女が多い。最近、明治神宮内の「清正井」がブームらしく、宝物殿などはいつも閑散としているのに、そこから流れてくるのか、にわか歴女たちが「大正天皇ってダンディー」とか言いながら群れているのが、何かいらだたしいやらにがにがしいやら。テレビ見たくらいでほいほい沸いてくるなよと思いつつ。

春雨の ふれる宮路を 踏みゆけば しめりてきしむ さざれ石かな

などか知る 虎を狩りたる きよまさの 名にしおふ井戸に 人の寄り来る

で、よく見ると雨の中にも視界に人影が一人二人と入ってくる。同じ場所にずっと立ち続ける女性とか、一人で気功やってる男性とか。写真撮ってるひと、地面に穴掘る人とかいろんな人がいる。

占いやってる人ってものすごい勢いでしゃべりたがるよね。いや、しゃべりたがっているのではなくてそういう仕事なのかもしれんが。女性だとわざと化粧をしなかったり。すっぴんでも大丈夫なんですパワーとか。心霊スポットならずパワースポットとか。そういう人たちが明治神宮に集結しだしたらどうしようとか杞憂だろうか。

なんか明治神宮創建当初全国から集められた植樹は、当時の写真で見ると大鳥居よりも背が低かったようだ。そこで詠める:

うつせみの 代々木のもりは 鳥居より 木高くなりぬ ふりしまにまに

おほきみの みよのとほさを 生ひ茂る 代々木の杜の 木立にぞ知る

代々木公園の方にも行ってみる。こちらも日曜だが雨のためほとんど人はいない。しかしまったく居ないというのでもない。見るといろんな碑やら像やらが立っている。中で「大東塾十四烈士自刃之處」というものがあり、ここがむかし連兵場で終戦当時に切腹をした人たちが居たらしい。塾長の影山庄平という人の辞世の歌:

こんとんを ひらきて今や 天地の 始発の時と 祈り行くなり

國うれふ やたけ心の きはまりて 静かなるかも 神あがるとき

代々木連兵場は米軍に接収され宿舎用地となり、東京オリンピックの時に返還されて選手村となり、そのあと国土緑化運動の中の一つとして森林公園となったそうである。これらうっそうたるレバノン杉やヒマラヤ杉やメタセコイヤの林も東京オリンピック以来とはなかなか信じがたいものがある。

きもをなめ たきぎにふせし つらき世を 知らずなりゆく わがくに民は

知るらめや 代々木の園も ひとたびは えびすの住める 里となりしを

それはそうと、「たまぼこ」は「道」にかかる枕詞なので、宣長の「玉鉾百首」とは「神の道」を教えた歌だったのだ。どうりで宣長にしては、ぎこちない歌ばかりだと思った。

うまざけは 日ごと飲みても うまけれど ひと日あくれば なほまさりけり

歌物語というのはあるが歌ブログというのはあまり無いジャンルではあるまいか。