研究

私も長らく研究者というものをやってきた。

研究といっても、それは論文を何本書くかということであり、論文を1本書くと言うことはつまり、従来研究をサーベイして、その差分を、0.1ミリくらい付け足すということであった。私は、研究というものはもっと面白いものかと思っていた。世の中をガラッと変えてしまうものかと思っていた。しかし私に課せられたタスクというものは、ただ単に、昔の人はこういうことを思いついたが、私は新たにこういうことを思いついた、それは、今まで誰も思いついていないから、新しいことであるに違いない。そう報告するだけであった。

私は研究者として定年まで働くことはできたかもしれないが、30才くらいで、すでに研究というものに飽きてしまっていた。その上、学生ではなくなり、年をとり職位に就くことによって人と共同研究をやったり、助成金や科研費などを獲得しなくてはならなくなった。それは私が本来やりたくもなんともなかった、民間企業がやっているところの、開発という仕事と、本質的に同じものであった。

民間で働きたくないから一生懸命努力したのに結局やってることは民間と同じ。なら最初から民間で働けばよかったじゃん。そうとしか思えなかった。

バブルがはじけ、民間からアカデミックの世界へ、人材がどんどん逆流してきた。外資系の研究所より大学のほうが安定して待遇も良い時代がきた。はっきりいってばかばかしかった。昔は赤貧洗うが如き世界に好き好んで世捨て人をきどっていたものだが、今や人気職種みたいになった。みんなが羨む世界になった。実力の伴わないこんな世界に安住するのが嫌になった。

私はそうした仕事をたぶん我慢して定年までやることもできたのかもしれないが、何か新しい可能性というものを試してみたくなり、転職を二度ほどした。結果わかったことは、どこにいようと、私がやりたいようなことは出来ない、私は、自分と家族を養うために、つまり、給料を稼ぐために働かなくてはならない、自分の専門性とは関係のないことをやって世の中の需要に応えねばならないということだった。

正直もうこんな仕事には飽きた。

私は面白おかしく、無責任に適当にいいかげんに、自分の好きなように勝手に生きて死ぬために、研究者になったはずだったのに、気付いてみればいろんな役職に縛られて、まるで人のため社会のために生きているようなざまとなった。

あと数年働いて定年がくる。それまで我慢するしかない。今の私にできることはただそれだけだ。

私は今も和歌を詠む。それはつまり、なまじ研究をして0.1mm先の仕事をして今の人たちに理解して評価してもらうよりも、30cmくらい先の仕事をしたいと思うからだ。0.1mmとか0.2mm先の仕事をして評価されるかされないかという世の中で30cmも先の仕事をしても誰にもわからない。千年後か1万年後にならなくては私の仕事は理解されるまい。

1km先の仕事をしようなんて、考えているわけじゃない。30cm程度先の仕事だから、理解出来る人が今の世の中にもいるかもしれないが、そういう人を探しているヒマは私にはないから、ただもう、30cmとか31.5cm先の仕事をして、あとは死ぬしかないと思っている。

短歌はけっこう流行ってる

短歌は今わりと流行っているらしい。note にも短歌というジャンルがあって、多くの人が歌を詠んでいる。

文芸春秋は俵万智の新作をしばしば載せているし、彼女は4月からNHK短歌の選者になったらしい。俵万智は40年前からずっと歌壇に影響を与え続けてきた人だ。日曜美術館にも時々出ていたようだ。世の中の短歌というものが現在ほとんどすべて、俵万智の亜流の感があるのは当然だと思う。

俵万智は実際非常に優れた歌人である。現代語を用いて詠んだからだけではない。彼女の歌は、赤裸々な不倫の歌であり、シングルマザーの歌である。尋常な歌ではない。人をぎょっとさせる歌である。自分のプライバシーをさらけ出して詠んでるから迫力が全然違う。また、五七五七七の操り方もうまい。彼女はまさしく歌人である、といえる。和泉式部に近い。たぶんこの二人はよく似たキャラクターであったはずだ。もちろん与謝野晶子とも似ている。

俵万智は、もちろんいろんな歌を詠む人ではあるが、本質的には不倫とシングルマザーの歌人であるといってよい。しかしながらそれだけで流行ったのではない。もうひとつ、一般人に、自分もまねできるのではないか、自分でもああいう歌が詠めるのではないか、と思わせた。多くの模倣者を生んだ。このふたつの相乗効果で流行った(ほかにも、佐々木信綱の孫、佐々木幸綱に早稲田で学んだ、ということも割と重要なことであったかもしれない)。

俵万智の歌の面白味というか凄みは、彼女の独特の体験からにじみ出てきたものであって、たぶん彼女はものすごく奇矯な性格の人であって、それゆえ必然的にああいう経験をしてしまうのであり、だからその歌も、ごく普通の一般的な日常を送っている人には決して詠めない類のものである。それをむりやり似せようとすれば、どぎつい、露骨なエロスを詠んだだけの歌になってしまうのではないか。

今の短歌の中にも、現代語特有の語感を活かしたちょっと独特で面白い歌もあるにはあると思う。それ以外はほとんどが俵万智的な何かだ。新しい歌というものはそう簡単には詠めないもので、これまでも、天才が出てそれの模倣者がでて、という歴史を繰り返してきた。みなが勝手に口語で歌が詠めるのではない。

私は口語で歌を詠まないと決めたから、今の短歌と呼ばれるものがどうなろうとしったこっちゃない(たまに詠むとしてもそれは狂歌のたぐいだ)。そういうものをうっかりみてしまうと、何か乗り物酔いか3D酔いしたような気持ち悪さを感じてしまうから、見ないようにしている。ただ、ときどきこわいものみたさでみてしまったりする。なぜいまそこそこ短歌が流行っているのか私にはよくわからない。今の短歌の価値も私にはよくわからない。今の歌人がどういう気持ちで歌を詠み、人の歌を評価し、また自分の歌の良し悪しを決めているのか。まったく想像もつかない。

自分のことを僕と言ったり私といったり俺といったり自分といってみたり。一人称をころころ変えるのは節操がない。歌とて同じことだ。こういう詠み方をすると決めたらずっとそういう詠み方をし続けなくてはならない。ブレがあってはならない。私はそう思っているけれども、人によっては、どんどん詠み方を、自己表現をとっかえひっかえしている人もいるのかもしれない。SNSではいくつも匿名でアカウントをもち、それぞれことなるキャラクターを演じている人もいるのかもしれない。

俵万智のような恋歌は、与謝野晶子の歌もそうかもしれないが、和歌というよりは、江戸時代の都都逸や常磐津のようなあたりからきたものではないかと、私には思える。都都逸には非常に優れた恋歌がたくさんあって俵万智や与謝野晶子もかすむくらいであろうと思う。ほかにも浄瑠璃とかなんとかかんとかとかいろいろたくさんあって、ちゃんと調べると膨大なものがあってそれらを超えることは容易でないと思うのだ。逆にいえばそうした厚みと下地があるからこそ、あのような恋歌は詠めるのだと思う。恋歌とていきなり詠めるわけではない。

そして、恋歌を詠みたいのであれば都都逸とか今様で詠むほうがずっとすっきり詠めるだろうにと思う。五七五七七という形式は非常に詠みにくい詩形で、それをわかったうえで詠んでいるひとは少ないように思う。あとやはり現代短歌はどこか気持ちが悪くて好きになれない。都々逸だと新作でも江戸の粋というものが感じられて気持ち良いものが多い。個人の感想だが。

喫煙という悪臭(悪習)

なんのへんてつもない田舎のラーメン屋があった。大してうまくはないことはgoogle mapsのレビューなど見ればほぼ確定的なのだが、特別まずいわけではないらしく、この町に来た記念に一度くらいは食べておこうかという気持ちで、炎天下にわざわざ出かけてみた。

そうすると先に来ていた客がなんのことわりもなく灰皿を取って煙草を吸い始めた。

私はエアコンの風上にいたが部屋は閉め切っているからそのうち煙は店内全体に充満した。私のこの店に対する好感度は65点くらいから0点まで落ちた。

こんなことなら来なければよかったと思った。というより、このあたりの飲食店やら居酒屋を一通りめぐってみようかとも思っていたのだが、その気持ちは一気にうせた。帰り道、それらの店の前を通ってみたがどこにも禁煙のシールは貼られていない。店頭に消毒液をいまだにおいているのに禁煙ではない店もあった。シャレオツな見た目のイタ飯屋にも、どこにも禁煙のマークはなかった。ああ、この大いなる田舎よ。

もうこの町では飲食店に入るのはやめようと思った。というよりこの沿線のどの駅に降りてもこうなのだから、もう一切ここらで飲食店に入るのはやめようと思った。店に入ったらまず店内を見回して灰皿を置いていたらそのまま出るくらいじゃなきゃダメ、というより、店先に禁煙のシールが貼ってない店にはもう入るのはよそうと思った。ここでは喫煙できるのがデフォルトなのだ。健康増進法などという法律はいまだここには存在していないのだった。

世の中には心優しい人がいてタバコの煙なんかきにしない、そんなことで店を選んだりしないという人がいるが、私にとっては、どんな料理を出すかとか、どんな日本酒をおいてるかとかそんなことより禁煙かどうかのほうがずっと重要だ。そして、喫煙可でも、喫煙不可でもどちらでも良いという心優しい人が多ければ多いほど、喫煙という悪習はこの世からになくならない。喫煙者は淘汰されないのだ。

田舎者ってなぜあんなにコロナを恐れるくせにタバコには無頓着で寛容なのだろう。田舎の人間には何を言っても無駄だということもまた真理なので、私はただここのブログに愚痴を書くだけにする。

電子ピアノ

電子ピアノが欲しいなと思っていた。PCにつなぐmidiキーボードは持っているのだが、PCソフトで鳴らしても、キーボードをたたいたときの強弱で音の強弱が表せない。そうするとどうしても雰囲気が出ないから、ただ叩いて音を鳴らすための電子ピアノがあればいいなと思ったのだった。

しかし実際に電子ピアノを弾いてみると、音量を上げたときには確かに強弱の違いがわかるんだが、ボリュームを下げると大きな音が小さくなるだけで、小さな音がより小さくはならないのだ。これはたぶん今弾いている電子ピアノが安物で、小さな音では強弱を弾き分けられないのだと思う。となるとmidiキーボードと大差はないわけで、買う必要はないかなあと思った。

本物のピアノはやっぱそこのところが違う。

もっと高級な値段の高い電子ピアノならばよいのかもしれないが、場所をとるし、そもそもそんなピアノ弾けないのに高い楽器を買うのがもったいない。

世の中はうるさい

農家はうるさい。一年中、朝からうるさい。農家は工務店や工場と同じくらいに自分の家の隣にはありたくないものだ。私たちはなにか牧歌的なイメージで農村とか農家というものを考えるが、実際農家の隣に住んでみると実にいらいらする。農家というものは朝雨戸をあけるがこの雨戸の数が半端ない。庭に小屋のようなものを建ててその下に業務用の洗濯機か何かを置いて、服だか農作業用の何かだか知らないが延々と洗濯しているからうるさい。

第一種低層住宅地にも農家は存在するからタチが悪い。また、第一種低層住宅地には工務店のようなものはないけれど、そういう規制のないところにはけっこう工務店があったりして、そういうところではきまぐれに板金を叩いたりするから油断できない。古い農家の納戸か何かのように見えて実は中で機械を使って作業していたりする。何か味噌か醤油でも作っているのだろうか。まったくもって油断できない。少し田舎にいくと雑草や植え込みなんかがいたるところにある。それを原動機付きチェンソーで朝から晩までずっと刈っていてうるさくて仕方ない。

かといって住宅街の中もまったく静かではない。まず自動車。冬場は延々と暖気運転するやつがいる。ドアをやたらと何度も開けたり閉めたりするやつがいる。ケルヒャーで外壁をしつこく洗浄するやつがいる。ときどきバイクをもちこんで空ぶかしするやつもいる。深夜三時になると原付で新聞を配達しにくるがこれがまたうるさい。あと、小型犬だから鳴き声もかわいいでしょうと遠慮なく窓を開けっぱなしで無駄吠えさせるやつもいる。非常にうるさい。

バイクにしろ自動車にしろ、ガソリンエンジンの車はうるさいし臭いので早く絶滅したほうが良い。電気自動車が別に好きというわけではないのだが、せめて街中は電気にすべきではなかろうか。街中は無人運転のタクシーみたいにしてシェアするのが一番良いと思う。

私のような人間の場合鉄筋コンクリートの建物の地下の宿直室みたいなところが静かで快適でよく眠れるのだろうと思う。ひとけがなくて、冷蔵庫と簡単なキッチンがあって、ベッドとシャワールームがあって、クローゼットがあって、歩いて近くにトイレがあればよい。近所にスーパーとホームセンターとコンビニがあるとなお良い。というか、そういうところは探せばいくらでもありそうなものだ。

とにかく周りに人がいるといらいらする。朝は朝日があたる部屋じゃなきゃいけないという人もいるようだが私は別にどうでもよい。朝日なんかなくたって普通の精神状態で暮らせると思う。

光琳と宗達

岡本太郎は尾形光琳を非常に愛好していて、その理由をいろいろと自ら解説しようとしているのだが、それを読んでもいっこうによくわからない。岡本太郎が個人的に光琳を好きなのは、別に趣味なのでかまわないのだが、それを一般化しようとして、光琳以外の画家やら江戸時代の文化芸術をゆがめて解釈しようとするのは、非常に迷惑で、ちょっと許しがたい気がする。はっきり言って、少なくとも私には、その論理がまったく意味不明なのである。はたして世の中にわかっている人はいるのだろうか?

じじつ、光琳があの絢爛で、心にくいまで力づよい仕事をつくりあげた世界は、元禄年間、日本の近世文化がもっともはなやかに開花した時代です。

これがよくわからない。元禄文化。実際、言論人の中では元禄を褒めて江戸後期の文化をけなす人が一定数いる(渡部昇一などがそれに近いと思う)。元禄文化の代表としてそれらの人々が挙げるのはたいてい井原西鶴と尾形光琳。江戸時代というものは、平安時代から続いて安土桃山で開花し、江戸初期の元禄で最も発展した。その後鎖国の影響で、封建社会の世の中で芸術も文化もいびつに歪んでいき、あきらめ、わび、さび、など、しぶくくすんだ文化がはびこった、というのである。そうした主張をする文化人はたいてい明治維新によって日本が世界に開かれたことによって、日本の文化や芸術は再び活気を取り戻したのだと言いたい人たちが多い。

そうなのだろうか。たぶん、安土桃山というのは、信長が築いた安土城とか千利休の金の茶室とか、そういうイメージで、そういう金ぴかなものが元禄の頃までは続いていた。しかし江戸城の天守閣も焼け落ちて以後再建されなかった。なんかダセーな。そんな感じだろうか。

わび、さびなどは鎌倉時代から顕著になり、おもに仏教の影響で、安土桃山時代に最高潮に達した。元禄は江戸文化の中では非常に初期的で、ナイーブで、未発達なものだった。日光東照宮に代表されるように、安土桃山元禄は、ありとあらゆるものをごちゃまぜにして、兜に鹿のツノをはやしたり虎革のパンツをはいたり、やたらと金箔を貼ったり金の茶釜を作ったようなゲテモノ文化が流行った時代であった。

時代劇にしてもそうで、戦国時代は派手で、江戸時代は地味だ。そんなイメージだろうか。

幕府や士族階級による締め付け、鎖国による閉塞感というものは確かに江戸時代を通じてあったけれども、町人文化がそれを押しのけてあまりあった。また学術的な考証がきちんと積み重ねられていき、古いものと新しいもの、外来のものと日本古来のもの、儒教と仏教と道教と神道の違いなどがだんだんと整理されていった。

江戸初期の神道というものは、太宰春台が「今の世に神道と申候は、仏法に儒者の道を加入して建立したる物」などと評したような、実に情けないものだったが、太宰春台の師である荻生徂徠が始めた古文辞学を取り入れて、本居宣長らが神道に混入していた仏教や儒教の成分をより分けて、より近世的な、洗練された神道を作っていった。

明治になると江戸時代(というより徳川幕府)はなんでもダメだと決めつける薩長のプロパガンダが世論を圧倒し、戦後になっても江戸時代の名誉回復はまったく不十分だった。

ともあれ、岡本太郎らがいうような、元禄時代が日本の近世文化が最も開花した時代である、という主張はまったく受け入れがたい。私は天保が最も爛熟しその絶頂であったと思うし、それ以降幕末まで、江戸時代は非常に文化的に豊かな時代だったと思う。元禄を初ガツオだとすれば天保は戻りガツオ。そのくらいに脂ののり方がまったく違う。江戸時代もそれぞれの時期に良さがあり、どこが良いなどということは、そう簡単には言えないはずだが、岡本太郎は乱暴にも、元禄以降をばっさりと切り捨ててしまう。非常に困った人だ。

さらに岡本太郎は俵屋宗達と尾形光琳を比較して光琳のほうが優れているということを証明しようとするのだが、これもよくわからん。

光琳の重厚絢爛で威圧的な気配が、教養ある趣味人には、ほんとうには好かれていない。

宗達には今までの日本の教養人に、何か情的にふれてくるきずながある

これにたいして、同じく典型的な日本人でありながら、光琳はそれとまったく異質な非常な世界を現出させます。

はっきり言って私には岡本太郎が何をいいたいのかさっぱりわからない。教養ある趣味人とか日本の教養人とは誰のことか。典型的な日本人とは誰のことか。光琳や宗達は典型的な日本人なのか。では江戸後期の日本人は典型的な日本人ではないのか。わけがわからない。思うに宗達の絵は伝統を踏まえていて、昔っぽくて、新鮮味が足りないけど、光琳は金ぴか感がすげーあって、派手で斬新でカッコイイと言いたいのか。

宗達というのはつまりあの風神雷神図のようなものをいうのだろう。光琳というのは燕子花図や紅白梅図屏風のようなものをいうのだろう。はっきりいって私にはどっちもどっちとしか思えない。ああいう絵が良いとはまったく思っていない。悪いとも思わないが、私にはなんの面白味もない。檀家がたくさんいて金持ちな京都の寺の金屏風くらいにしか思えない。風神雷神の、ああいうぶさいくな、おなかがぶよぶよな醜悪な絵柄はむしろあまり見たくないとすら思う。私なら歌川国芳の相馬の古内裏のような錦絵や、谷文晁の南画のほうがずっと面白い。どっちが良いというのは趣味にすぎないが、あの時代はよかったがこの時代は悪いとなにか芸術理論のごときものを語りたいのであれば、もうちょっと勉強して理論武装するべきではなかろうか。

江戸時代は260年間もあって、明治維新から現在までおよそ150年だから、それより100年も長いわけである。昔は時代の進化が遅かったから時間が長くても大したことはなかった、退屈な、空疎な時代だったと今の人は思っている。まずそこから間違っている。さらにその前の室町時代もなんと240年間もあった。これも明治維新から今までよりずっと長い。長いけど何があったかよくわからんから、現代人は、ただ時間が長いだけで大したことは何もなかった時代だと思い込もうとする。そんなことはない。ちゃんと見ていくと江戸時代も室町時代も長いだけではなくものすごく濃密な時代だった。しかしそれをちゃんと理解しようとするとおそろしく手間ひまがかかるから、今の人たちは坂本龍馬が活躍して日本は文明開化した、それまでは封建時代でいびつに歪んで文化も停滞していた、というごく単純化された歴史モデルで理解したことにしたいのだ。なぜそうなるかといえば、要するにちゃんと調べるのがめんどくさいからだ。坂本龍馬は歴史を極限まで簡略化して何も考えなくて済む(わかった気分になって自分を納得させられる)ようにする便利なツールなのだ。無理解と無関心。岡本太郎の態度もまったくそれと同じだ。

神宮外苑の銀杏並木を切るなという人たちがいる。あんなものはせいぜい、関東大震災以後わずか100年の伝統しかない。戦後日本人は江戸城の堀を埋めたり上に高速道路を通したりして台無しにしてしまった。隅田川添いにも自動車道路を通して景観を台無しにしてしまった。400年の歴史がある江戸の風情をぶち壊しておきながらせいぜい100年の銀杏を守ろうとするとは。ばかげていて話にもならない。要するにみんな歴史なんてどうでもよくて、今目に見えている景色を守ればよいとか、今常識として信じられていることを信じたいだけなのである。戦後80年。ちっぽけな時代だよ。今自分が生きている時代だけが正しく、過去は間違っているという考え方自体が間違っている。

今の私たちは封建という言葉に対してだいぶものわかりがよくなってきている。客観的で正確な歴史的認識を持っている。それは日本においては古代の大和朝廷による中央集権的な国家体制が瓦解し、これに代わって中世から近世に至る地方分権的な武家政権のことを言うし、ヨーロッパの中世社会と非常に類似した社会であった。しかるに敗戦後のいわゆる戦後民主主義の一時期においては、ナチズムやファシズム、家父長制や男尊女卑などと同様な絶対悪のイメージで、封建的とか封建制とか封建主義とか封建時代という言葉が使われていた。岡本太郎もまたそのドストライクな意味で封建という言葉を使っており、戦前の旧勢力を攻撃するための便利なレッテル貼り、革新の自己肯定的免罪符として、当時この言葉をそういうニュアンスで使っていた人々の中の一人であったといえる。

レンブラントとゴッホ

相変わらず岡本太郎を読んでいるのだが、彼が友人とアムステルダムで開催された大ゴッホ展を見に行ったときの記事に次のように書かれている。

博覧会場を出てから友人に案内されるままに王立美術館を訪れた。オランダの最も誇りとする画家、レンブラントの傑作の数々が展示されていた。そこで私は「夜警」を見た。

レンブラントとゴッホは同じ国の人間だ。が、まったく正反対の極に運命づけられている。一方は過剰と思われるくらい確信にみち、冷ややかである。一方は熱く燃えながら、すべてから拒否され、絶望し、自ら命を絶った。

同行の友人はゴッホの絵を見ているときよりもはるかに真剣に、「レンブラント」の前に直立したまま動かない。確かに、そのスケール、巧みさは圧倒的だ。しかし、私はとまどった。いったい、このどこに私は入り込めるのか。どこにも、本当に私の魂をうってくるものがないのだ。このような美術史の典型的な大傑作。感動しなければならない条件はすべて揃っているのに、空しい。

それよりも、いま私の胸にこたえているのは、先ほど見てきたあの「じゃがいも」、あのまったく下手くそな、そして惨めな「じゃがいも」なのだ。その方が私の精神、身体全体にのしかかってきている。

とまあこんな感じである。これを読んで私はやはり、岡本太郎に見えているものと、私に見えているものはまったく違うんだなあってことを確信した。

私も実はアムステルダムの王立美術館に行ったことがある。同僚と二人、ポーランドで開かれる国際会議に向かう途中オランダのスキポール空港にトランジットで降りた。一泊したか、その日に移動したかはよく覚えていないが、あまり時間はなかった。同僚はアンネの部屋に行きたがり、私はゴッホ美術館と王立美術館に行きたかったので別行動をとった。

ゴッホ美術館にはまさしく本物のあのひまわりがあり、さらに驚いたことにはあの本物の烏の居る麦畑まで展示されていた。すべてがほんものだった。それで私は感動したにはしたのだけど、ゴッホの絵というものはすでに何かの画集のようなもので見たことがあるものばかりだったから、実物を見たからと言ってそれほど私はすごいなとは思わなかった。実物だから伝わってくる何か、というものは、ある種の絵にはあるのかもしれないが、私にとってはどうでもよかったらしい。

王立美術館では例の夜警の部屋も通った。いったん通り過ぎて、待てよ、今の部屋はなんだったんだろうと引き返したら、一部屋まるごとあの有名な夜警が展示されていた、というような出会いであったと思う。とにかく扱われ方がすごかった。こりゃすごいなと思ったけど、あまり事前知識がなくて見たので、なんだかやたらとたくさん人が描かれた絵だなと思ったが、細部まで眺めることはなかった。ああいう権威主義的な展示の仕方をするから何度も傷つけられるのだろう。かわいそうな絵だともいえる。

王立美術館で私が一番印象的だったというかびっくりしたのは、レンブラントの自画像だった。それはとても小さな手のひらサイズの絵で、しかし何か異様な感じがしたので近づいてみたら傍らに張られたプレートにレンブラントの名があったのである。そう、最初の印象はちっぽけな何か薄気味の悪い絵というだけだった。ゴヤに我が子を食らうサトゥルヌスという作品があるがあんな雰囲気。そしてあのレンブラントがこんなちっぽけな気持ち悪い絵を描くのかというのがなおさらに衝撃的であった。また、その展示方法があまりにもそっけなくてそれにもびっくりした。いろんな名画が並んでいる中にわざとそんなふうに展示してあるのか。わからない。

油絵で肖像画やら自画像を描いたことがある人ならわかると思うが普通はこういう肖像画は描かない。光は真横か少し後ろから当たっていて顔の半分は暗く、目はくぼんでうつろで、まるで黒い穴が開いたように描かれている。髪の毛はもじゃもじゃの天然パーマ。

レンブラントはなぜこんな絵を描いたのか。非常に不思議だった。あまりにも印象的だったので私はわざわざ売店でその絵の絵ハガキを買った。何度も眺めてみて、まさしくこれが光と影の画家、レンブラントの絵なのだろうと納得することにした。

今調べてみるとその絵は彼が23才の頃、つまり、絵の修行をして、やっと世の中に認められた頃に描いたものらしい。自画像というのものは、自分をモデルにしているから、いつでも好きな時に描きたいだけ描ける。絵の練習にはちょうど良い。絵の中で一番難しいのは人物の、それも顔を描いた絵なんだけど、レンブラントは自画像をたくさん描いている。年をとってからの自画像は醜く太っている。なんでこんなものを描いたのかやはりよくわからない。

他人に依頼され金をもらって描く肖像画と違って自画像を描くときにはある種の葛藤がある。どうしても実際よりかっこよく描きたいと 思ってしまい、逆に謙遜にかっこ悪く描いてしまったりする。自分自身との対話なのである。

自画像は当然、誰かに売るために描いたものでもない。だから描きたいように描きたいものを、人物画の練習として描いたものに違いない。さらにうがって考えてみれば、モデルがいる肖像画を描くときには前から光を当てて描くに決まっている。後ろから光が当たった時顔はどういうふうに見えるか、どういうふうに描けばよいか、それをテストするためわざわざ自分をモデルにして練習したのかもしれない。絵の中にモブ(ザコキャラ)を描きこむときその人物には逆光で光が当たっていることはしばしばあるわけだから。

そうした絵をいくつもいくつも描いて、練習して、絵の注文が来たら、夜警のような、集合写真みたいな絵を描くわけである。つまり、夜警はレンブラントの画業をまとめて応用した集大成であって、人に売るために描いたものであり、人に気に入られるように描いたものだ。一方でこの、23才で描いた自画像というものは、描きたいものを描いた、というより、自分は何を描こうか、何が描けるのかを試している絵なのである。もちろん自画像だから、そこには自分の内面も表現されているかもしれない。

それで話は岡本太郎に戻るが、岡本太郎はレンブラントというか、古典絵画というものをまったく理解していないし、理解する気も勉強する気もないようにみえる。おそらくこの認識でまず間違ってはいないと思う。これは非常に困ったことではなかろうか。レンブラントがわかってないということはゴッホのことも実はわかってないのではないかという疑いもわいてくる。

私は大学受験の時に大阪万博跡地を訪れて太陽の塔を見た。よく覚えていないが感動したと思う。更地になった芝生に残されている太陽の塔。そこにExpo70の熱狂を見た気がした。しかし同時に、だからなんなのだ、ただでかいだけではないかという気がした、ような気がする。私はむしろ民俗博物館のほうに新鮮な感動を覚えたことを記憶している。

この太陽の塔こそはレンブラントの夜警ではないか。功成り名を遂げて、注文されて作った。美術史の典型的な大傑作。感動しなければならない条件はすべて揃っている。しかし空しい。このどこに私は入り込めるのか。どこにも、本当に私の魂をうってくるものがない。それらの言葉が皮肉にもそのままそっくり当てはまるような気がしてならない。

さきほど手のひらサイズと描いたが、実際の大きさは h 22,6cm × b 18,7cm であるらしい。レンブラントは同時期に同じようなモチーフの自画像を少なくともあと二つ描いている。どれも良く似ている。

ホーローにクリームクレンザーを塗ってみる

ガスコンロの上面が安物のホーローコーティングなんだけど、毎回洗うのもめんどう、たまに洗うと焦げ付いてるからクリームクレンザーで磨いているが、だんだんホーローが削れて傷がついてきてよろしくない。

それで最初から、吹きこぼれして焦げ付きやすそうなあたりにクリームクレンザーを塗ってみることにした。

クリームクレンザーは乾くとアルミニウム(カルシウムorシリコン?)の粉に戻るだけのはずだし、琺瑯はガラス質だし、特に問題はないとおもうんだがどうだろう。汚れてきたら塗っておいたクリームクレンザーごと洗い流せばよい。

岡本太郎と岸田劉生

岡本太郎と岸田劉生はどちらも画家であり、芸術家であって、同時に文人でもある。私はまず青空文庫などで岸田劉生を見かけて面白いと思い、岸田劉生全集を買った。買ってしまうと積読になりがちなのだが、実際今はそれほど読んではいない。

そうしたところで、ある人から、岸田劉生ばかりではない、岡本太郎もずいぶんたくさん本を書いているよということを聞いた。そこで私は、岸田劉生を読むからには岡本太郎も読んで比較せねばなるまいと思った。岡本太郎の本は図書館にいけばいくらでも借りることができるし自分で買うこともできる。一方、岸田劉生全集はめったにない(岩波文庫にもあるが全集には程遠い)。ある図書館にはあるが、非常に珍しい。珍本の類といってよい。つまり岸田劉生を読む人は岡本太郎の読者よりも圧倒的に少なく、それゆえ、岸田劉生を理解する人もほとんどいない状況である、と言える。

それで岡本太郎の書いたものを片っ端から読んでいるのだが、たとえば、日本庭園というものは、自然そのものではなく、人工物でもなく、その中間的な、その多くはどっちつかずであいまいな、安易な姿勢をとっている。それが日本の伝統芸術全般に言えることであって、口惜しい、などと言っている。岡本太郎は、日本のいろんな古刹や庭園を見て回って、日本の伝統芸術というものを、ときに褒めつつ、ときにけなしつつ、全般的には、戦後民主主義社会に顕著な、戦前や維新以前のものを否定して、現代を肯定する方向へ、どうしてももっていこうとする。結論ありきな展開が透けてみえる。

実を言えば、岡本太郎自身が、彼が自ら言うように、極めて、中間的な、その多くはどっちつかずであいまいな、安易な人なのだ。彼が日本の古典に対して言うことはいつもふらふらしていて、結局何が言いたいのかはっきりしない。つまり、よくわかっていないのだ。自分には良いか悪いか判断する知識が、あるいは判断力そのものが足りません。わかりませんといえば済む話だと思うのだが。たぶん彼は出版社やら新聞社やらに連れ回されて日本の寺社を隈なく見て回らされたのだと思う。そして何か書けと言われた。原稿料ももらった。だから書いたけど、結局見れば見るほど彼はわからなくなっていったのではないか。そうした迷いで書いたものを編集者らはそのまんま出版してしまった。何しろ岡本太郎本人が書いたものを出せば売れる。商品価値があるから出してしまった。同じことは白洲正子にも言える。

今日の日本芸術論はたいていこの岡本太郎の言うことの焼き直しばかりだと言える。

日本の古典美術を礼賛する人は必ずしも日本の古典の真の価値、真の意味を「発見」してはおらず、たいていそれは戦前の保守的国粋的な価値観を蒸し返しただけの迷惑なものだ(いわゆるネトウヨの主張はたいていその程度のものだ)。人は往々にしてそれら戦前の遺物を叩いて満足し、それ以上古典というものを自分の目で精査しようとはしない(人は自分が生まれた時代の新たな方法論で古典を再評価し、客観的に見て明らかに間違った定説を破棄する義務がある)。彼らはつまり記号化された保守、記号化された国粋主義を批判しているのであり、そもそも何を保守すべきで、何を捨てるべきかという選別をしていない。旧家が老朽化し取り壊すことになった。蔵の中にしまわれたものを日の当たる場所に並べて一つ一つ鑑定し直すこともなく、まるごと解体屋に壊してもらい更地にしてしまったという発想となんら変わりない。

逆に、これもよくあることだが、旧家は何がなんでも保全しなきゃならんと、民間でできなきゃ国や地方自治体が予算を組んで保守しなきゃならんと言う人たちもいて、彼らもやはり、保守するならするで保守する価値のあるものはなにかを一から鑑定し直す、修復しなおす、などという手間をかけようとは、普通はしないのである。ただ古いからもったいないと思っているだけだ。

戦後雨後の筍的に生えてきた革新的評論家に比べれば岡本太郎はより勉強しているし古典に対して理解があり、同情的であると言えるが、彼が生まれ育った環境からは、日本の過去が、歴史が、伝統が、古典というものがあまり見えてはいないようだ。世の中のすべてのことを見知る機会を得られる人などいない。岡倉天心だってたまたま開港したばかりの横浜に生まれ育ったからああいう人になったに過ぎない。岡本太郎と岡倉天心はそういう意味でよく似た人だと言える。

だからそこで、岸田劉生や夢野久作、夏目漱石や芥川龍之介などといった、ほんものの古典理解者との差がでてきてしまう。今世間で保守主義とか国粋的と言われている人々のほとんどは芥川龍之介程度の「革新」かぶれの「若造」ほども古典を理解してはいない。

それで岡本太郎が世界に名の知れた芸術家であるから私は彼の書いたものを読んでいるが、彼がそれほどの名声を得ていなければ私は彼が書いたものをわざわざ読むことはなかったと思う。つまり私は世の中で芸術家と呼ばれる人が書いたものを参考までに読んでいるのに過ぎない。

しかし岸田劉生は違う。彼がまったく名の知られていない画家であっても、私は彼が書いた本を読むだろう。なぜかといえば彼が書いたものは読んで面白いからだ。

人々が装飾的だと思う光琳こうりんなどは僕の目には本当の装飾の感じをうけない。形式がいやに目について装飾の感じは来ない。装飾の感じは線や何かが有機的に生かし合っている、そして如何にも精神を以てこの世界を飾るという感じがする。ウィリアム・ブレークやシャバンヌなども装飾的だ。ブレークの描く人間の形は布局の線のための形だ。その表情から来る想像の力をぬかせば。
 こういう内容の一部を生かすのには日本画法はよい手法である。花鳥でもいい人物でもいい風景もよかろう。写実に行かずとも充分に内からく美で形を与える事の出来る内容(即ち内なる美)を取る人が執るとあの資料はたしかに世界に特殊な美を生んでくれると思う、昔の日本画にはそういうものがわりに沢山ある、いろいろの程度で。

どうかな。難解、とか、衒学的、というより、理解するのに非常に時間を要する、つまり、一つの文章がもつ情報量が圧倒的に多い。岡本太郎は絶対こういう文章はかかない。

岸田劉生は、尾形光琳の絵は装飾というよりは形式だ、記号だと言っているように見える。劉生にとって装飾とは人間の想像の華である。美術とは世界の装飾にある。美は外界にはないく人間の心の
うち
にある。しかし光琳の絵は世界の装飾というよりは単なる形式に近い、と言いたいのだろうと思うが、合ってるだろうか。そして岡本太郎が光琳の絵に惹かれたのはおそらくそこに、縄文の土偶や弥生の埴輪や、アフリカの原始美術にみるような意匠性、社会的な記号性を見たからではないか。劉生の言う形式とはつまり、商店街に掲げられる看板のような、菓子箱のパッケージデザインのような、様式化された、外面的なものをいうのではなかろうか。一方で装飾とは、写実から外れた誇張表現、叙情的な、緊張や恐怖など内面の表現のことを言うのではないか。つまり世間でデザインとアートを分けていうようなものが、形式(様式)と装飾の違いではなかろうか。

多くの古典批判や古典礼賛に共通しているのは情報量がゼロだということ。ただ宣伝したりけなしたりしているだけで、読んでも何も得るものがない。それらは方向性が違うだけでどちらも同じものだ。

結局私は岸田劉生が良い作家であることを再確認するために彼の同業者である岡本太郎を参考にしたというわけだ。もちろん文芸だけでなく芸術についても興味はあるのだが。

創作活動の孤独

ふつう、人は、今の自分のために創作をして、今の人に自分の作品を見てもらって、同じ趣味の者どうし集まって、交流して、楽しみを分かち合う。それが普通の人たちにとっての創作活動というものであって、中学高校、あるいは大学のサークル活動と大きな違いはない。

だが、私は違う。もちろん私は自分のため、人のために創作しているけれども、それは今の私でもなく今の人々のためでもない。今の世の中の人々が私の作品の価値を理解できるとは思っていないし、まして、共感することで作風が変わったり、影響を受けたり、作品の価値が変わるとも思っていない。他人を超えるため、他人にできない、私にしかできない仕事を後世に残すためにわざわざ時間をかけて創作しているのだから、サークルの仲間たちと同じレベルの活動をしても無意味だと思っている。もし影響を受けるとしてもそれは明治天皇とか香川景樹とか本居宣長のような、すでに死んでしまっている人たちであって今たまたまこの世に生きている人である可能性は極めて低いと思う。

だからコミケに出品したりなどという、いわゆる同人活動というものを私はまったくやっていない。そういうものも創作活動のうちだろうし、そこから新しいものが生まれてくることもあるだろうし、そうしたものに意味がないとは思わないが、他人はともかく私はそうしたやり方を取るつもりはない。若いころならば、友人を作ったり、そうしたことをきっかけに、新しい方向性が開けたりしたかもしれないが、年をとったいま、もうそういうことはしない。

つまり私にとって創作活動とは自分が死んだ後のためにやっている。終活というやつだ。死んだ後にこの世に私が生きていた痕跡を残すためにやっている。そして私が影響を受けた人たちというのも、ずっとむかしにすでに死んだ人たちなのだ。

そこのところが人と私と大きく違っていることを最近ひしひし実感する。

もちろん私を理解してくれる人が現世で現れてくれたほうが現れないよりはずっと良いのだが、そうした人を探したり、人に私を理解してもらうために労力を費やすこと、あるいは、私の作品に価値があるかわからない人のために金を使って宣伝をすること、そんなことをやりたいとは思わないのだ。

私がやっているような、そうした孤独な創作活動を行ってきた人は今までにもいたはずだ。しかし彼らは圧倒的多数の人たちには理解されないから、存在を認識されていないだけだと思う。