鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

喀血歌

見延典子『頼山陽』を読んでいると、天保元(1830)年、

正月早々香川景樹から届いた薩摩の牛肉を食べると、

などと書かれていて、これははて、書簡や日記などにそのような記録が残っているということだろうか。
同じ年、7月、広島に帰省していた間に京都で地震があり、「郵便得京報」うんぬんという長い詩を作っている。
この「郵便」という単語は、日本国語大辞典によれば、どうもこれが初出らしい。
明治になって、山陽の詩を知る人が post の翻訳に採用したのだろうか。
郵便制度を創始したのは前島密とあるが。

同じ頃、山陽は体調を崩し、広島藩の医者、中村元亮に労咳の疑いがあると、診断されている。
満49歳。

同じ頃、大塩平八郎は、大阪町奉行を辞職、遠縁の格之助(塾生の一人だったらしい)を養子として迎え、跡継ぎとし。
尾張の先祖に報告の墓参に行く途上、山陽をもとを訪れる。
平八郎は山陽に刀を贈り、山陽は「吾書三十余万字 博得君家両尺鉄」うんぬんという詩をのこしている。
「君家」とあるから、家宝だったのだろう。
ところで、両尺、九寸というから、脇差ではなくいわゆる本差、武士が携帯する本物の刀かとも思うが、見延典子の記述によれば「脇差し刀」であるという。
九寸未満の刀を長脇差と言って博徒などの武士以外の人間が差していたはずである。
九寸あったのかどうか、微妙なところだ。
また「大塩子起の尾張へ適くを送るの序」というものを書いて平八郎に贈っている。

また、平八郎には本妻はなくて、「妻同様のつきあいの妾ゆう」が居たと書いている。
妾であれば嫡子がなくて養子をもらってもおかしくない。
また平八郎は与力を辞職した後の、いわゆる大塩平八郎の乱(1837)に先立って、ゆうを離縁したのではなく、与力として弓削新右衛門事件などに当たるときにすでに離縁していたという。
また、弓削事件のとき、ゆうは薙髪しただけだという記述もあるようだ。
いずれにせよ、なぜ普通に結婚しなかったのか不思議なところだ。

天保3(1832)年4月、
詩集出版のために大阪へ。このとき大塩平八郎と会い、平八郎の著作『古本大学刮目』『洗心堂箚記』などを読む。

同年6月12日に初めて喀血、16日まで続く。
すでに禁煙していたが、禁酒を命じられる。
27日、再び喀血。
7月下旬、「結核を患い、戯れに歌を作る」と題する詩を作る。

吾有一腔血 吾に一腔の血有り
其色正赤其性熱 その色は正に赤く、その性は熱し
不能瀝之明主前 これを明主の前に瀝(そそ)ぎ
赤光凛向廟堂徹 赤光凛として廟堂に向かひ徹するあたはず
亦不能濺之国家難 またこれを国家の難に濺(そそ)ぎ
留痕大地碧弗滅 大地に痕を留めて碧、滅せざるあたはず
鬱積徒成磊塊凝 鬱積し、徒に磊塊の凝るをなす
欲吐不吐中逾熱 吐かんとして吐かず、中いよいよ熱し
一旦喀出学李賀 一旦喀出して李賀を学びても
難収糝地紅玉屑 糝地の紅玉屑は収め難し
或曰先生閲史遭姦雄逭天罰 或る人曰く、先生史を閲し姦雄の天罰を逭(のが)るるに遭へば、
睢陽之歯輒嚼齧 睢陽の歯、すなはち嚼齧(しゃくげつ)し
渠無寸傷己自残 渠(かれ)に寸も傷無く、おのれ自ら残(そこな)ひ
憤懣遂致肺肝裂 憤懣遂に肺肝の裂くるに到る
或曰先生殺人手無銕 或る人曰く、先生人を殺すに手に銕(てつ)無く、
発奸擿伏由筆舌 奸を発(あば)き、伏を擿(あば)くに筆舌に由(よ)り、
以心誅心人不知 心を以て心を誅し、人知らず、
霊台冥冥瀦陰血 霊台は冥冥として、陰血瀦(たま)る
吾聞此語両未頷 吾れ此の語を聞けど、両つともに未だ頷かず
童子進曰走意別 童子進みて曰く、走意は別
先生肉中本無血 先生肉中本(もと)血無し
腹中奇字僅可剟 腹中の奇字、わずかに剟(けづ)るべし
賺得杜康争戴酒 杜康を賺(だま)し得て、争ひて酒を戴き
剣菱如剣岳雪雪 剣菱は剣の如く、岳雪は雪、
大福蔵府受不起 大福の蔵府、受けて起たず
溢為赤漦戒饕餮 溢れて赤漦をなし、饕餮(とうてつ)を戒しむ
咄哉此意愼勿説 咄かな、此の意、愼んで説くなかれ

※霊台 魂のある所。心。
※杜康 中国神話の酒の神。転じて杜氏。
※赤漦 赤い体液
※饕餮 なんでも食べる中国神話の猛獣。転じて暴飲暴食。

剣菱の杜氏に、もう酒が飲めなくなったと贈った詩であるという。
弟子が言う、「遭姦雄逭天罰 嚼齧 己自残 憤懣遂致肺肝裂」とは、歴史書に悪人が天罰を受けない箇所を読むと歯がみして自ら傷つけ、その憤懣で遂に肺や肝臓が裂けてしまった」のだろうと。
また、「発奸擿伏由筆舌 以心誅心人不知 霊台冥冥瀦陰血」とは、歴史上の悪事を筆舌によって曝いているうちに、知らず知らずに胸に血が貯まってしまった」のだろうと。

8月18日、大量の喀血、23日、同じく喀血。
9月23日(1832年10月16日)死去。
平八郎曰く、

その秋、山陽の血を吐き、而して、病きわまれるを聞き、われ洛に入りて以てその家に到れば即ちその日すでに易簀(えきさく、賢人が死ぬこと)せり。大哭して帰り、夢の如く幻の如く、往時を追思す。先に山陽の余を訪れ、觴酒せし際、その情の繾綣(けんけん、ねんごろ、つきまとってはなれないこと)たりしこと、それ永訣の兆しなりしか。嗚呼、痛ましきかな。悲しきかな。今、山陽をして命を延きてあらしめ、而して箚記両巻を尽くさしめなば、即ち彼に益するのみならず、必ず吾にも益せんもの。蓋し、亦少なからざらん。おもふにこれ余が一生涯の遺憾たるのみ。

幸田成友『大塩平八郎』に、大塩平八郎の業績の六番目として、

> 頼山陽が紛失した菅茶山手沢の杖を数十日内に捜出し、山陽の其術を問ふや階前は万里なり、阪府の所管僅に方数拾里、其内在る所の物は繊芥の微と雖もわが眼底を逃れずと答へた

とある。

裏柳生口伝

小池一夫原作の漫画「子連れ狼」(1970-1976)には主人公・拝一刀の

仏に逢うては仏を殺し、父母に逢うてはこれを殺し、祖に逢うては祖を殺し、しかして、何の感情も抱かぬ、無字の境地に至れぬものか!

というセリフがある。こちらのサイトにはその英訳も掲載されている。

Meet the Buddha, kill the Buddha. Meet your parents, kill your parents. Meet your ancestors, kill your ancestors.

などと訳されているのがわかる。映画「子連れ狼」(1972-1974)にも同様のセリフが出る。いくらおにぎりブログ

阿弥陀如来に申し上げる。我ら親子、六道四生順逆の境に立つもの。父母に会うては父母を殺し、仏に会うては仏を殺す。喝!

深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』(1978年)では、柳生宗矩役の萬屋錦之介が

親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す。

と言い、同年テレビドラマ版『柳生一族の陰謀』では、柳生十兵衛役千葉真一の冒頭のナレーションで、

裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや。

とある。テレビドラマで「親に会うては親を殺し」は刺激が強すぎるのかもしれん。「神に逢うては神を斬り」はこれが初出か。いかにも日本的な言い回しではある。

『魔界転生』(1981年)では

神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。

という言い回しがあり、『キル・ビル』ではやはり千葉真一がハットリハンゾウ役で

自惚れではなく、これは私の最高傑作。

旅の途上で、神が立ちはだかれば、神をも斬れるであろう。

などと言っている。これの源流は、臨済宗の祖、臨済の言葉を記した『臨済録』の中に出てくる以下のくだりであると思われる。

爾、如法の見解を得んと欲せば、但、人惑を受くること莫れ。
裏に向かい、外に向かひて、逢著せば、便(すなは)ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん・親族)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。

道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。

臨済という人はずいぶん過激な人だったようだが、禅宗由来と言われればたしかにそんな気がしてくる。

戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。

ここは深作欣二のオリジナルらしいが、孫子の兵法形篇

勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝。

「勝兵は先づ勝ちて而る後に戦ひを求め、敗兵は先づ戦ひて而る後に勝ちを求む」が出どころであろう。

ところで頼山陽には「兵児の謡」という詩があって、前後に分かれているが、その前半は

衣至骭 袖至腕
腰間秋水鉄可断
人触斬人 馬触斬馬
十八結交健児社
北客能来何以酬
弾丸硝薬是膳羞
客猶不属饜 好以宝刀加渠頭

衣は骭(すね)に至り 袖腕に至る
腰間の秋水 鉄断つ可し
人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を斬る
十八交を結ぶ健児の社
北客能く来らば何を以って酬いん
弾丸硝薬是れ膳羞
客猶ほ属饜(しょくえん)せずんば 好(かう)するに宝刀を以て渠(かれ)が頭に加えん

  • 秋水 よく切れる剣。日本刀の美称
  • 健児の社 薩摩藩が青年藩士のために設けた教育機関。
  • 膳羞 ごちそう
  • 属饜 飽きる

薩摩男子は、裾は脛まで、袖は腕までの短い粗末な服装だが、腰に差した剣は鉄も切れるほどに鋭利である。立ち向かってくるものがあれば、人だろうと馬だろうと何でもかまわず斬る。十八歳になると健児の社に加わって同志と交わる。薩摩の北から客が訪れれば、何をもって応対しようか。弾丸や硝薬、これごちそう。客がそれでも飽き足りないときには、頭に宝刀を加えて引き出物としよう。

ここで、人でも馬でも斬る、という形になっている。もともと薩摩の民謡を漢詩に翻案したもので、そのオリジナルは

裾は脛まで 袖は腕 腰の剣は鉄も断つ

人が触れば 人を斬り 馬が触れば 馬を斬る
若さを誓ふ 兵児仲間

肥後の加藤が来るならば 煙硝(えんしょう)肴に弾丸(たま)会釈

それでお客に足らぬなら 首に刀の引き出物

というようなものであったらしい。

「兵児の謡」の後半は、しかし、

蕉衫如雪不愛塵
長袖緩帯学都人
怪来健児語音好
一操南音官長瞋
蜂黄落 蝶粉褪
倡優巧 鉄剣鈍
以馬換妾髀生肉
眉斧解剖壮士腹

蕉衫雪の如く塵をとどめず
長袖緩帯都人を学ぶ
怪しみ来る健児語音の好きを
一たび南音を操れば官長瞋る
蜂黄落ち蝶粉褪す
倡優巧みにして鉄剣鈍し
馬を以て妾に換え髀肉を生ず
眉斧解剖す壮士の腹

  • 蕉衫 芭蕉布の服
  • 蜂黄落蝶粉褪 蜂の黄色い色は落ち、蝶の粉は色褪せてしまった。女色に退廃したようす。
  • 倡優 芸能
  • 眉斧 美人

衣服は真っ白で一点のちりも無く、袖は長く、帯は緩く、都人の流行を真似ている。健児らの言葉遣いも都びていて、薩摩弁で話しかけると官長が怒り出すしまつ。女色に溺れ、芸事は旨くなったが鉄剣は鈍い。馬を妾に換えて股に贅肉が付く。美人が壮士の腹を割いてしまった。

頼山陽は1818年、37歳頃に九州各地を漫遊している。長崎から雲仙、熊本、薩摩と移動したようだ。諸国を観察して、詩を作ったり、それを揮毫して小遣い稼ぎしたり、歴史を学んだりしたかったのだろう。「肥後の加藤」とは清正のことだろうから、秀吉の時代の歌であったのが、山陽が薩摩を訪れた江戸半ばすぎには、島津家中の武士ですら、贅沢に馴れていた、というふうに鑑賞すべきである。

時に薩摩藩は島津重豪の時代で、開明的だが浪費家で、死後大赤字を残したことで有名だ。鎌倉宮の謎参照。

癸丑歳 偶作

十有三春秋   十有三春秋
逝者已如水   逝く者は已に水の如し
天地無始終   天地始終なく
人生有生死   人生生死あり
安得類古人   安んぞ古人に類して
千載列青史   千載青史に列するを得ん

癸丑歳とは寛政5年、1793年のことであり、安永9年12月27日(1781年1月21日)生まれの頼山陽が、満で言えば12才の時の作であると推測される。数えでは14才。その最初の形は安藤英雄『頼山陽詩集』によれば、

十有三春秋 春秋去若水
何時吾志成 千古列青史

という五言絶句であるという。あまり面影がないよなあ。ていうか全然違う詩だよな、ここまでいじってしまうと。

私が初めてこの詩に出会ったのは、中学三年生の時、中学校の図書館で、内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んだときだった。私は最初、内村鑑三を通して頼山陽という人を理解し、彼と同じ気持ちで、日清戦争前夜の日本人の気持ちで、山陽の詩に感動したのだった。戦後民主主義は頼山陽を完全に否定し、子供の目に付かないように隠蔽していた。今でも或る意味ではそうだ。内村鑑三は反戦主義者だったから戦後も生き残った。その内村鑑三を通さなくては、私は頼山陽に出会うこともなかったわけで、内村鑑三はたまにしか読まないが、頼山陽は未だに良く読んでいるので、実に不思議な偶然とも言える。

岩波文庫には、頼山陽の著作に『日本外史』と『頼山陽詩抄』があって、頼山陽が1781年生まれのために、生誕200年というので、『日本外史』も再版となって、だいたい1980年代からしばらくは入手が容易だったのだけど、今では絶版となって、なかなか手に入らない。もちろんアマゾンなどで中古で手に入らないこともないが、やや割高である。それに比べると、『頼山陽詩抄』の方は、戦前の復刻版であるのに、未だ絶版ではなくて、普通に書店で買うことができる。というのは、つまり、頼山陽の詩は詩吟などで参照され、細く長く人気があるのかもしれん。

山陽は杜甫や陶淵明を好んだという。

『頼山陽詩抄』の編者の一人である頼成一は、頼山陽から数えて五代目、『日本外史』編者の一人である頼惟勤は六代目に当たり、1999年没、お茶の水女子大学名誉教授、と見延典子『頼山陽にピアス』にある。

入院してた2

最初行った病院は自宅最寄り駅の駅前の病院で、かりにA病院とすると、ここは入院患者は老人ばかりで、それ以外は外来。私はなんか利尿剤か何かを処方されて外来で通院するものとばかり思っていたので、とりあえずここへ来たのだが、CTとったり心電図とったりしたら、とにかくもう心房細動が出まくっていて、心拍も速く、CTには水が一杯たまっていて、今から紹介状書くからすぐ入院した方が良いといわれた。明日の朝か来週からでも良いかと聞いてはみたが、あなたはとても重症なので、すぐ入院すべきだ、ということを言われる。

そんで、タクシーで次の病院へ行き、B病院に入院する。ここでは超音波エコー診断などしたのだが、やはり、心臓の収縮率がとても悪い、心臓がほとんど動いてない、などとおどされる。あとやはり心房細動・心拍数がやばいといわれる。

尿道カテーテルを刺され、利尿薬を注射される。水は一日に500mlまでしか飲んでいけないといわれる。何かあったら言ってくださいと看護師に言われるが、言われると同時に異様な渇水感が高まってきて、とにかく水が飲みたくて飲みたくてたまらなくなる。何かとてつもなく純粋な、水に対する離脱症状のようなものが襲ってきて、気が狂いそうになって、まったく我慢できない。きっと拷問に利用すれば効果的だろうと思う。それで水を飲ませてもらうのだが、のどはからからに乾くし、うとうとしていると何か痰のようなものがのどにつまって息ができなくなるし、水を飲みたいのも全然おさまらない。

どういう状況だったのかよくわからんが、仮に血中アルブミンが不足した状態で利尿薬を大量に注射すると、腹水はそのままで、血中の水分が腎臓から尿として出てしまい、急性の脱水状態になってしまうのではないか。

ただ、だんだん体が利尿薬になれてきたのか、次第に尿が出てものどが乾いたり水が飲みたくなることもなくなり、腹水やらがびゅんびゅんカテーテルから出てくるようになる。B病院では手作業で利尿薬を注射していたのだが、B病院は2泊でC病院に転院。B病院では循環器系の精密検査ができないという理由。とにかく超音波の結果でも判明したけどあなたは特に重症だからという理由で転院を勧められる。

C病院ではシリンジポンプというものを使って時間当たり一定量を輸液する。点滴というのは、重力を利用して輸液するのだが、シリンジポンプは注射器のピストンを一定の割合で動かすことによって、薬を一定時間の間、一定のきまった量を体内に送り込めるのだ。うーんと、普通の生理食塩水を普通のやり方で点滴して、それが本線で、それに合流する形で一つないし二つくらいのシリンジポンプからの輸液がつながれる。

C病院では24時間連続で利尿薬を輸液された。そうするともうものすごい勢いで尿が出る。一日で6リットル、全部で10リットルは出たはず。10リットルとは10kgですよ。体重も一気にそのくらい減った。入院前に82.4kgだったのが、退院時には70.2kgになった。

それだけたくさん水が出ても特にのどの渇きは感じなかった。たんたんと腹水や肺の水が抜けていったのだろう。同時に足のむくみもなくなった。

ある程度抜け切ったのをレントゲンで確かめると、今度は利尿薬を錠剤で、一日一回、朝食後に飲むだけとなった。たぶんこれはあまり効果はないし持続もしない。すでに水は抜けていたのだから、これ以上水がたまらないようにという予防だろう。また、血液の量が増えると心臓に負担がかかるので、脱水状態に近いくらいにしておいたほうが良いというのが医師の説明。血液が濃くなるので、さらさらになるような薬を同時に飲む。

C病院でそうやって大量に利尿薬を輸液された、最初のとき、手足がつって痛くなった。体液を急に抜いたためカリウムが足りなくなったせいだという。そこでカリウムも輸液することになったのだが、これがまた、血管に非常に負担のかかる薬らしく、点滴の針を刺したあたりが非常に痛む。三時間たったら終わると言われたのだが、実に長い難行苦行であった。基本的に薬物治療だけだから、入院したら安眠できると思ったが実はまったくそんなことはなかった。とにかくいろんな薬を次々に打たれ非常に苦しんだ。

氷枕気持ちいいなとか思っていると、意識が無くなるように寝てしまって、はっと気付くとま夜中だったりする。熟睡しているのか意識を失ったのかよくわからない眠り方がよくあった。

入院してた。

7月5日から17日まで入院していた。12泊13日。

心臓の超音波エコー、カテーテル検査、MRI、X線CTなどさまざまな検査を受けたのだが、病名は「拡張型心筋症」「アルコール性心筋症」の二つに絞り込まれた。この二つは、初期段階ではきわめて類似していて、いまどちらかと特定するのは難しい。

「拡張型心筋症」は心臓が肥大することなく、心室内部が拡張して、心筋が薄くなっていく病気であり、原因不明の進行性で、治ることはない。薬物治療で延命するか、最悪心臓移植くらいしか治療法がない。

「アルコール性心筋症」の原因はずばり酒の飲みすぎ。10年以上にわたり、大量の酒を飲み続けると発症する。断酒すると3ヶ月くらいでほぼ完治するそうだ。

医師の話を聞いたり、カテーテル検査などを見せてもらうと、私の心臓は肥大しているらしい。肥大するということは、弱った心臓の力をおぎなうために心臓が大きくなる「代償」という現象で、「拡張型心筋症」には見られない。なので、肥大があるということは「アルコール性心筋症」である可能性を大きくするが、まだ初期段階なので、なんとも言えない。

ともかく数ヶ月以内に「拡張型」なのか「アルコール性」なのかは明らかになるわけだ。
状況的には「アルコール性」である可能性が高い。何しろ、だいたい20年間くらいは毎晩のように酒を飲んでいたし、近頃はすべての小遣いを飲み歩きだけに使ってきたし、それもほとんど一日も空けず、毎日、ビール中瓶換算で4、5本以上確実に飲み続けてきたのだから。だが、「拡張型」ではないと現時点で断言することはできない。

「拡張型」だと今以上に良くなることはありえない。じわじわと悪化していくだけ。それを薬で抑えてなんとかしのぐしかない。幸いにして、今のところ日常生活に困るほどではない。みんながすぐ死んじゃうような病気ではない。だけど「アルコール性」なら完治するわけで、私としてはできるだけそちらであってほしい。

今回、肺だけでなく腹や胸などにも水がたまっており、とくに、肝臓の周りや下腹部などにも水があった。足もむくんでいた。ということは、私の場合、体全体で同時多発的に、水漏れが起きたということである。これは、体全体で静脈内の圧力がある一定水準を超えたことを意味する。動脈はもともと圧力が高いけれども、心臓のポンプとしての力が弱ると静脈の圧力も上がるらしい。そうすると静脈の毛細血管から体液として水が漏れ始める。というより、静脈内の圧力が高いために、体液が静脈に戻っていけなくなる。

ところで、腹水がたまる理由としては、肝臓の機能が低下して、アルブミンという血漿タンパクが生成されないこともありえる。アルブミンは血液中にあって、血液の水分が不足すると、それを毛細血管を通じて体液から水分を補って、血中水分を増やそうとする。

利尿薬を飲むと、腎臓から血の中の水が尿となってどんどん出ていくので、アルブミンが作用して腹水や肺の水などを抜いて血管に戻してくれるというわけだ。心臓の機能は短期間の療養では簡単に回復しないらしく、私が退院する時点でも、まだ静脈圧力は高いままだった。私の心臓はかなり以前から弱っていて、静脈圧力も高い状態だったように思われる。それが急に水漏れし始めたのは、別の、複合的な要因もあったのではないかと疑われる。

たとえば、酒の飲みすぎか何かで、肝臓の機能が落ち、アルブミンの生産が不足したとする。静脈圧力が高いところにアルブミンが不足すると、一気に腹水がたまり始めるだろう。

そもそも「アルコール性」心筋症というのは、酒の飲みすぎで肝臓がへたった結果、心筋に何らかの、原因不明な、悪影響を与えて発症するものではなかろうか(そういう学説があるらしい)。アルコールが直接心筋を痩せさせるとは考えにくい。アルコールによって疲れた肝臓が、心筋に必要な何かを不足させたり、心筋を弱める毒素か何かを分泌するのかもしれない。

と考えると、「アルコール性心筋症」を治すにはまず肝機能を回復させなくてはならないということになる。飲酒習慣のある者がアルコールを断つと肝臓の機能は、少なくとも肝硬変よりずっと手前の初期の段階では、かなりすみやかに回復する。肝臓が元気になれば、心筋も元気を取り戻す。「アルコール性心筋症」の回復に三ヶ月程度を要するという理屈をうまく説明できる。

まあ、私の場合、自他共に認める大酒飲みであったから、「アルコール性心筋症」である可能性がかなり高いが、今はまだ予断を許さない状況だ。

そろそろ病院にいくしかないと思っている。

今月頭くらいから肺に水がーなどと言っていたのだが、治るかと見せかけて治らなかったりして、とりあえず今週末は酒を抜いて自宅で養生してみて、それでもやはり肺に水が入ってくるようであれば、観念して医者へ行こうと思う。

心臓がばくばくしたりとか、息苦しいということはもはやないのだが、とにかく腹がはる。腹がはると苦しくて身動きとれない。

傾向としてだが、朝方の方が夕方よりも腹がはる。夕方、さらに、酒を飲んだりすると割と楽になるので、治ったかのような気分になるが、たぶんこれが良くない。反動で次の日の朝、かなり水がたまる。

水は安静にしているときにたまる。つまり夜中寝て居るときとか。昼間も横になっているとたまるので、逆に昼間は、ずっと軽作業などしている方が楽。

運動を始めると腹が張り始めるのだが、これは、運動によって新たに水がしみてきたというよりは、呼吸と水がまざって肺の中でふくらむのだと思う。肺を圧迫することによってある程度は肺から水が抜けることはある。

食欲は普通にある。

タフマンの車内広告だらけだったので栄養ドリンクでも飲んでみるかとコンビニに行ったがタフマンはなくて、リポビタンDを飲んでみたのだが、少し元気になる気がした。

尊観

尊観という人を、ざっとネットに落ちてる情報だけで調べると、およそ二人いる。

一人は、1239-1316。名越朝時の子で浄土宗の僧侶。

もう一人は、1349-1400。時宗の遊行上人12世。時宗中興の祖。

この二人目の尊観は亀山天皇の孫で、亀山天皇が生前最後に西園寺家の娘に生ませた恒明親王の王子の深勝法親王と同一人物であるという説があるという。Wikipedia もこれに従う。

しかしながら『日本外史』では、尊観は南朝後村上天皇の子であると言っている。つまり、後村上天皇は最初皇子がなかったので、亀山天皇の孫(深勝法親王。外史では誤ってこれを恒明と呼んでいる)を養子としたが、後に実子が生まれたので、養子を僧侶とした。これが尊観であるという。

たぶんいずれも伝説なのだろう。高名な僧侶はこのようにして皇族のご落胤とされている可能性が高いとみなくてはならない。

尊観は、上野国祝人(はふり)村に隠れていた家康の遠い祖先で新田氏の末裔の有親(ありちか)を得阿弥という僧侶とし、連れていた二人の男子のうち長男を長阿弥とし、もう一人はまだ幼かったので僧侶とはならず、徳寿と呼んで、三河に逃れたのだという。徳寿は松平氏に養われてのちに松平泰親となり、これが三河の徳川家の遠祖となったというのだ。また長阿弥は後に親氏と名乗り、その子・広親は徳川譜代の酒井氏となったという。

Wikipedia によれば「徳阿弥」と名乗ったのは有親の長男の親氏の方であって、彼が松平家の祖だとなっている。

これらは、いずれにせよ、松平家と酒井家が清和源氏の血を引いているということをいうために作られた伝説に違いないわけだが。

Wikipedia では、松平泰親は長氏の嫡男であるともし、またやはり弟でもあると書いている。

以前にも似たようなことをうだうだ書いた。

徳川氏の歴史を読んでいると「上野」という地名が出てくる。これは「三河国碧海郡上ノ庄」もしくは明治以後の「三河国碧海郡上野村」のことらしい。紛らわしい。

また、「伊奈」という地名も出てくるがこれも信濃の天竜川の伊奈谷と紛らわしい。豊川市伊奈町(旧宝飯郡小坂井町伊奈)、本多氏の居城・伊奈城というものがあった。

いろいろ思うことはあるが、

福島第一原発跡地を国が買い上げるのであけば、米軍基地や自衛隊の基地にすれば良い。横田や厚木や横須賀基地を移転すれば良い。横田や厚木や横須賀の跡地を売却すればむしろ儲かるだろう。防衛庁も首都機能も移転すればよい。今の東京のそれを売却すれば、むしろ儲かるだろう。絶対そうすべきだ。良い財源になる。増税する必要もないわなあ。

横断歩道に人がいても一時停止しないやつ、歩行者専用の地下道を自転車で通るやつ、そういうやつらも、全員、自衛隊で、研修受けさせれば良いと思うよ。だって、今は非常時なんだろう。なんでもできるよ。