平氏にあらざれば人にあらず

「平氏にあらざれば人にあらず」あるいは「平氏にあらずんば人にあらず」という言い方が世間で一般的なようだが、平家物語には「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と表現されている。源平盛衰記でも「此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける」としか書いてない。しかるに日本外史には「平族にあらざる者は人にあらざるなり」と出てくる。なので、「平氏にあらざれば人にあらず」という言い方はもしかすると日本外史に由来(というか日本外史の訓み下しの一例)なのかもしれない。

中にはこのせりふを言ったのが平清盛だと思っている人がいる。正確には平時忠である。

また重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」というのももともとは平家物語だが、このフレーズは日本外史の訓み下し文そのものである。もともとはもっとくどい言い回しの和文だが、それを頼山陽がすっきりとした漢文調の文句にしたのである。原文(『平家物語』「烽火」)

悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。

このように実は日本外史に由来するかもしれない言い回しというのはものすごくたくさんあるんじゃないかと思う。

里内裏

たとえば保元の乱で後白河天皇は高松殿、崇徳上皇は白河殿にそれぞれ布陣するわけだが。

ここで高松殿とか白河殿というのがよくわからない。御所だとか内裏だとか書いているものもある。

調べていくと、高松殿というのは源高明が最初に作った豪邸であるという。その後、天皇や上皇などが住む屋敷としても利用されたとある。つまり、平安宮の内裏というのは火災で焼失したりして実際にはあまり機能してなかった。なので、実際に天皇や上皇や法皇が居住していた屋敷が御所とか内裏と呼ばれていて、平安宮の内裏と区別して里内裏と言ったのだそうだ。

白河殿というのもこれまたもともとは藤原氏の別荘だったのだが、天皇家と藤原氏は姻戚関係にあり、当時は天皇も入り婿みたいにして妻もしくは母親の屋敷に住んだはずだから、いつの間にか上皇の御所として使われるようになった。

とまあ、見ていくと、平安京みたいなのっぺりした市街に普通の寝殿造りの屋敷があって、それが戦の本陣になったというのは、後世の常識から言ってまったくあり得ない。そもそも本格的な戦闘が起きるとは思ってなかったのではないかとしか思えない。こういう状況では先に敵の屋敷に火を付けた方が勝つに決まってる。作戦という以前の問題だ。為朝、義朝でなくても、とにかく今すぐ、夜中で良いから、敵の本陣に先にしかけた方が勝つに決まってる。平治の乱でも似たようなことをやっている。

ていうかこの内裏とか里内裏とか離宮とか別荘とかいろいろありすぎてよくわからんのですが。

もし平安宮がきちんと壕があり、城壁があれば、保元・平治の乱などというものは起こりえなかったし、また天皇がきちんと御所と兵士を掌握するシステムならば、単なる天皇と上皇の戦いというものもあり得なかっただろう。古来、皇族どうしの権力闘争というのはなかったわけではなかろうに、なぜそうやって権力をきちんと守っていこうという方向に努力がなされなかったのだろうか。やっぱ不思議だよね。

漢文体

江戸時代まで、あるいはおそらく戦前までは、漢文のテクストとして、論語や大学のような中国の古典ももちろん利用されてはいただろうが、それと並行して、吾妻鏡の腰越状だとか、日本外史などが利用されていた。つまり、当時の武士というのは事務仕事もしなきゃならないが、日記にしろ公文書にしろ漢文で書く。漢文で日常的な作文をしなくちゃならないのに、ただ中国の古典だけ読んでいて書けるはずがない。公家が書いていた漢文の日記だとか、あるいは吾妻鏡のように漢文で書かれた公文書なども当然参考書にしたわけだよ。

ところが戦後の日本の教育では日本人の漢文というものがまったく排除されてしまった。
しかも近代や現代の中国語を教えるわけでもない。ただ単に浮世離れした漢籍だけを教えるようになった。これでは日本人にとっての漢文体というものがまったくわからんようになっても仕方ない。

せいぜい森鴎外とか中島敦とかそういうふうなところからしか「日本人の漢文体」を習わない。漢文体に接しない。

頼山陽が詩人であったということと、日本外史が漢文のテクストとしても使われていたということは非常に重要な意味があると思う。日本外史が日本の漢文体に与えた影響はおそらくものすごく大きい。しかし今の国語教育にはその観点が完全に欠落している、と思う。

五位鷺伝説

またしても平家物語をだらだら読んでいたのだが、五位鷺という名前の由来が醍醐天皇の時代の出来事に由来するのだという話がある。これまた平家物語の本筋とはまったく関連がなく、後から追加された逸話だと思う。ゴイサギは頭の後ろに長い毛が生えていて、それが水の中の魚をついばむのはなかなかかわいらしい仕草である。日本中どこにでも水辺に見られる鳥だと思うのだが、それはともかくして。

醍醐天皇の時代は西暦930年までで、平家物語の成立は鎌倉時代中期の1250年から1300年くらいだと思われるのだが、およそ300年前の伝承が途中まったく他の文献にも見えずいきなり現れたというのはもうこれは当時の民間伝承か何かと思わざるを得ない。能の演目にもなっているがそれは後に室町時代になってから平家物語にあるんで能になっただけだろう。

平家物語は今昔物語的なところがあり、当時のいろんな説話が無造作に取り込まれている感じだ。

千葉氏

源頼信とか平忠常の乱とか調べてて、千葉氏の一族 というめちゃくちゃ詳しいサイトを見つけた。こりゃすげえっっ。他にも、個人のブログとかで、日本史関連で異様に詳しいサイトとかかなりある。

花林
南木

など。

近頃は、何もすることがないとき、ぼーっと日本史のことを考えていると、案外時間がつぶせることを発見。脳内世界って便利。

田舎暮らしとジーパン

埼玉某市に10年ぶりくらいに遊びに行ったのだが、夫婦でやってた居酒屋は女将さんが死んでいなくなってたり、立ち飲み屋に行ったら820万円請求されたり(笑)、カラオケスナックで一曲歌ったら1000円しなくてまたびっくりしたりした。なるほどこの町って実は飲食代が異様に安かったんだな、今住んでる町が高すぎるのだなと思った。関東近県でも、飲食費が馬鹿高いのは吉祥寺とか多摩センターとかそんなところだけで、田舎に行けばこんなものなんだなと。

半ズボンでバス停でバス待ちしてたら蚊にふくらはぎをばんばん食われて困った。田舎暮らしにはジーパンのような厚手の長ズボンが必須だなと思った。田舎と言わずとも庭で草むしりとかヤブ蚊が出るようなところだとジーパンは便利だなと思った。夏でもびしっとジーパン、靴下、ブーツ。

昔は山道なんてところかまわずヒルやまむしが出てたいへんだったろうなと思う。だから大名行列には先払いみたいなものが必要なんだよなあ。

アイアンメイデン

知り合いと、Mr.Bigというバンドの武道館公演のビデオを見てて、なんかこう、優等生的な、秀才的なロックバンドだなという話になって、昔はヒッピーというか、普通のサラリーマンからはみ出した不良みたいのがロックやるイメージなのが、かれらはどちらかというと一生懸命技術を磨いたというか。
ギターの先っちょにビデオカメラ取り付けて指が早弾きすんのを見せるという。
確かに速いが音楽的にどうなのかと思うこともある。

それでそういえば今の大学生にヘビメタが好きだというのがいて、ヘビメタの何を聞くのかと聞いたらアイアンメイデンだよという。
アイアンメイデンって俺ら高校生の頃からあったよと。30年以上続いてるらしいね、って話になったのだが、でも最近ではアイアンメイデンはアニメで有名だよねっていうやつがいて、それからずーっと気になってたんだが、それってもしかして「ローゼンメイデン」???

ありゃりゃ。Mr.Bigもけっこう古くから活動してるんだなあ。でもせいぜい私が大学卒業するころくらいからだわ。

懸垂

懸垂が一度もできないと落ち込んでいたのだが、腕を完全に伸ばしてしまいそこから首を棒より上に出すのは難しい。しかし、腕を曲げたままならば、三回くらいは余裕でできることがわかった。みんなだいたい一回目は飛びついた勢いでできる(笑)。次に腕を完全に伸ばさないようにして、頭を棒の上下に往復させるだけならわりと楽にできる。回数がこなせるようになってから、徐々に腕を伸ばしていけば良いのではないか。

体重はなかなか減らない。73kgまでもう少しというところで1ヶ月は停滞している。

天領

佐渡が天領だというのは、すごく違和感がある。ただ単に徳川将軍家が佐渡島の金山を開発するために直轄領にしただけであるのに、だ。

しかし、Wikipediaなど読むと、徳川幕府の所領が明治初期に一時的に天皇の直轄領(御料)に組み入れられたために天領と言われるようになったということで、江戸時代にはそのような呼び方はされなかったというので、なるほどと思った。それにしても、廃藩置県とともに天皇直轄領、天領なるものも消滅したに違いなく、それにも関わらず、天領佐渡なる言い方が残っているのはいかがなものかという気がする。