治天の君

いろんなところに、とくにWikipediaで、「治天の君」という言葉が使われているのだが、出典がわからない。「市沢哲「鎌倉後期公家社会の構造と『治天の君』」(『日本史研究』三一四 一九八八年」辺りが初出か。

治天。
なんか引っかかる言葉だ。
治天下大王(あめのしたしろしめすすめらみこと)に由来するのではないか。
治天下大王を治天と略したということか。
治天下大王とは天皇そのもののことであり、院政を行った上皇の意味はない。
だから引っかかるのだ。

天皇家の家督相続者を治天下、治天、政務などと呼んだというが、いったい誰が呼んでいたのか。
それは歴史的な呼称なのか、それとも近代になって史学的な専門用語として誰かが造語したのか、どっちなのか。
上皇が治天の君である場合、現役の天皇は在位の君とよばれる、というが、
「在位の君」と言う言い方はいつからあったのか。
誰が使っていたのか。

新古今和歌集・岩波文庫復刻版

これまた戦前の版。
後鳥羽上皇の意志によって編纂された勅撰和歌集。
後鳥羽上皇は本文中にただ「太上天皇」としか書かれてない。
注記もない。佐佐木信綱による解題を読めば後鳥羽上皇存命中にできたことはわかるので、
太上天皇が上皇を意味することを知っていれば、
後鳥羽上皇を差すのであろうということはわからんでもないが、
いかにもわかりにくい。
「上皇」とは「太上天皇」を略したものか。
当時としては上皇とは言わず、正式名称は太上天皇で、通称は院だったかと。
法皇という言い方も、してなかったようだ。

新井白石の読史余論には院政のことを「政出上皇」と書いているから、
少なくとも新井白石の時代には「上皇」という言い方はあった。
しかも、漢文用語だろう。

なるほど、上皇が何人もいるときは、一番最初になった人を「一院」または「一の院」「本院」、
一番後を「新院」、その間の人を「中院」または「中の院」と言っていたわけだな。
まあ、四人以上上皇がいることはなかったようだ。

新古今というのは、幽玄とか唯美とか公家階級のなぐさみものみたいなイメージで、
好きではなかったが、
後鳥羽上皇の激動の人生を知るにつけて、なんかもっと違うふうに読めてくるから不思議なもんだ。
なんか、こう非常に屈折した心理を感じるよね、後鳥羽上皇の歌を読んでいると。
式子内親王もそう。
抵抗なくすっと入ってきて、なんか心のどこかにひっかかってとれない感じよな。

高校教育というか、大学受験というか、この辺のところがまったく伝わって来なかったよな。
ていうか日本史を学ばないと結局新古今はわからんよな。
万葉集や古今集はその点、そのままさくっとわかる部分もあるかと。

新葉和歌集・岩波文庫復刻版

岩波文庫の新葉和歌集も買ってくる。
だいたい源氏物語とか平家物語などはいつでも買えるが、
こういうやつは復刻されて数年で絶版となるので、
今のうちに買っておかないと先々苦労することになる。
値段も七百円程度と特に懐も痛まない。

もちろん地方自治体の図書館など、いくところにいけば、日本文学全集とかそんなものの中に新葉和歌集も収録されているだろう。
しかし重い。携帯に不便。
日頃持ち歩いて愛読するにはやはり紙媒体の文庫本は重宝する。

岩佐正氏、解題に曰く、神皇正統記は文の新葉和歌集であり、新葉和歌集は歌の神皇正統記である、と。
まさにその通りだ。
新葉和歌集は戦前にはそれなりの評価がされていたのだろうが、戦後例によって軍国主義的だとして、無視されたのだろうと思う。
そもそも軍国主義的な(準)勅撰和歌集というのが、ちとすごすぎる。

ところが、カバーに書かれた解説が言うには「二条家の流れをくむ歌人、宗良親王撰の準勅撰和歌集」とか「四季や恋など伝統に従った技巧的な詠歌が多い」
とか、まったくピント外れなことを言っている。
大丈夫か岩波書店。
いったいどういうつもりで、この戦前の本を2008年になって復刻したのか、理解に苦しむ。

いったいに、皇族や貴族らが宮廷でのんべんだらりと詠んだ歌はたいていつまらないが、
配流されたり骨肉が誅殺されたり、逆境にあるときにはなかなかすばらしい歌を詠む。
すてきすぎます。

たとえば、式子内親王にしても、ただの宮廷歌人で藤原定家の弟子だというだけなら大したことはなかったろうが、
あの以仁王の同母の姉弟の関係にある。
その境遇があのようなすさまじい歌を詠ませたのであろう。
いやあ、すごすぎます。

昭和天皇の歌は、わかりやすすぎて困る。
それも、昭和五十年以降は特にくずれすぎ、軽すぎ。もはや五七調でも七五調でもなく、現代語をそのまま使っている。
外そうかと思ったが、わかりやすいのは和歌の初心者には入りやすいだろうし、
悠久の御製の歴史の流れを知るには、あっても良いかと思った。

読史余論

岩波文庫「読史余論」を読む。
戦前の復刻版で旧漢字、読みにくいが、難解ではない。ゆっくりと読めば良いか。
思うに、新井白石という人は、武士が元々、天皇や公家の政治について思っていたことを、
きっぱりはっきりと言ってのけた。
時の幕閣の一人として、多少の遠慮はあるとは言え。
将軍の教育係として、その教科書として読史余論が書かれたという背景にもよるだろう。
正直に思ったままを書いたというべきだろう。

新葉和歌集

南朝で編纂された[新葉和歌集](http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/waka3/sinyo/)
がかなりおもしろい。
特に後村上天皇の歌が力が入っててすごくおもしろい。

> 高御座とばりかかげて橿原の宮の昔もしるき春かな

> あはれ早や浪収まりて和歌の浦に磨ける玉を拾ふ世もがな

> 四つの海波も収まる徴しとて三つの宝を身にぞ伝ふる

南朝は、宮廷の貴族なども少なくて、
明治になってから正統とされたからそれまでにきちんと記録に残らなかったことも多いのだろう。
後醍醐天皇の皇子らの名前の読みが曖昧なのも、
親王でよくわらかない人が居るのもそのためなのかもしれん。

幕末や維新までくだってきたならともかく、天皇が、「橿原の宮」や「三種の神器」を和歌に詠むというのはかなり異色だ。
三つめの歌などは、明治天皇御製

> 四方の海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらむ

を思わせる。
おそらく関連はあるのだろう。

今なら[岩波文庫版](http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E8%91%89%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%9D%92-139-1-%E5%B2%A9%E4%BD%90/dp/4003013913/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1261580129&sr=8-1)
が新品で買えるようだ。
確保しておくか。

勅撰和歌集

なぜ勅撰和歌集は江戸時代には無くなってしまったのだろうか。

なるほど、応仁の乱で途絶えたわけか。

しかしまあ、「室町時代は政治が貧困で文化が栄えた」的な言い方をすれば、 勅撰和歌集が途絶えたのは文化的には衰退なんじゃないのか。ねえ。和歌を詠む伝統は無くならなかったが、勅撰和歌集というものだけが消えてしまったのだろうか。あるいは宮中の歌合などもか。

日本で一番偉いのは天皇なのか将軍なのか?

わろた。

難しいよな、そりゃ。

説明しにくい。少なくとも一言では。

たとえば、後白河法皇と平清盛はどちらが偉いかとか簡単に説明できるか。できないだろ。

ま、しかし今上天皇と小沢一郎という意味ではあまりにも明らかだとは思うのだが。そうでもないのか。

同時受戒

平清盛と後白河上皇はほぼ同時期に出家して受戒している。
清盛が病気になってまず出家し、そのあと後白河が出家し、
その後同時に受戒している。

康治元年(1142年)、鳥羽法皇と藤原忠実も同時受戒したと言う。

清盛が出家したのは病気療養のためであり、後白河上皇は清盛平癒祈願のために同時に出家したとも考えられる。

で、出家と受戒の違いはなんだろうかな、と思うに、
出家と言うのはなんとなく剃髪するとか屋敷を移るとか俗名をやめて僧侶の名前(戒名ではない?)を通り名にすることを言うような気がする。
姿形や名前を俗人とは変えてしまうことか。
受戒とはどこかの寺院で戒律を守りますよ的な儀式を受けて、以後肉食など止めることを言うのかもしれない。
僧侶になるにはどちらも必要な気がするのだが、微妙に違ってるよな。
よくわからんな。
つまり、出家は個人で出きるが、受戒にはある特定の教団ないし寺院ないし主催する僧正を必要とするということか。
また受戒というのはしばしば盛大な儀式になるのでまとめてやった方が便利なのかもしれん。

ましかし、やはり、清盛のために後白河も出家したと考えてほぼ間違いないようだ。

平氏にあらざれば人にあらず

「平氏にあらざれば人にあらず」あるいは「平氏にあらずんば人にあらず」という言い方が世間で一般的なようだが、平家物語には「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と表現されている。源平盛衰記でも「此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける」としか書いてない。しかるに日本外史には「平族にあらざる者は人にあらざるなり」と出てくる。なので、「平氏にあらざれば人にあらず」という言い方はもしかすると日本外史に由来(というか日本外史の訓み下しの一例)なのかもしれない。

中にはこのせりふを言ったのが平清盛だと思っている人がいる。正確には平時忠である。

また重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」というのももともとは平家物語だが、このフレーズは日本外史の訓み下し文そのものである。もともとはもっとくどい言い回しの和文だが、それを頼山陽がすっきりとした漢文調の文句にしたのである。原文(『平家物語』「烽火」)

悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。

このように実は日本外史に由来するかもしれない言い回しというのはものすごくたくさんあるんじゃないかと思う。