ふとおもったのだが、

明治天皇御製、角川文庫版で

> 九重の庭の白菊たをらせて宴にもれし人におくらむ

とあるものが、J-Texts では

> 九重の庭の白梅たをらせて宴にもれし人におくらむ

となっていて、
J-Texts の方を調べてみると題が「折菊」となっているから、
単に「白梅」ではなくて「白菊」の誤記だったらしい。
「白梅」でも一応意味は通じるが、
「菊の宴」は毎年のように催されたようだが、
「梅の宴」というのは特になかったようで、
そういう意味でもやはり菊の方が正しいのだろう。
ここで「宴に漏れた人」というのはこれが明治三十七年秋に詠まれた歌なので、
日露戦争に出征していた人たちという意味が込められていると考えられるのだが、
実際には送ろうにも遠すぎて送れないわけで、単に多忙で出席できなかった人ともとれる。

誤記は誤記として、まとめてメモしておいて J-Texts に連絡してあげた方がよろしかろうか。

題の異同がはなはだしいのだが、
もしかするともともと「題しらず」だったのかもしれないし
(すべてが事前に題を課された「題詠」のはずはないし、中には歌を詠んでから題を付けたものもあるに違いない)、
或いは出版に際して題を詳しくするなどの手直しがあったのかもしれない。
一方が「をりにふれたる」となっていて他方が「をりにふれて」または「折りにふれて」となっているのも、
気にし出すと気になる。
「をりにふれたる」とはつまり特に題がないか季節がないという意味だと思うが、
しかし明らかに梅や桜など季節や題が特定できるものも「をりにふれたる」となっている場合があって、
となると題がもともとなかったものに仮に「をりにふれたる」と題を付けているようにも見える。
一度きちんと研究してみたくなる。
漢字か仮名か判然としない変体仮名などが使われているらしく、
原文を忠実に再現することは難しいのだろう。

ああっ。
また微妙な異同が。

> いかならむ薬すすめて国のためいたでおひたる身をすくふらむ

> いかならむ薬あたへて国のためいたでおひたる身をすくふらむ

これ。
おそらく原本にはどちらも採られているかと。

> 国の為いくさのにはにたつ人に仇なすやまひ防ぎてしがな

これと

>国のためいくさのにはにたつひとのやまひのあたをふせぎてしがな

これもほとんど同じ。

ところで最近暖かい日が続いたせいか梅が咲き始めたが、
梅は枝の下の方から梢のほうに順に咲くようだ。
先の方はまだつぼみだった。
おもしろいな。

serious sam

最近少しアクセスが増えたのは serious sam について書いたかららしい。
まあ、増えたと言っても 20ユーザ/日くらいだが。
別に広告載せてるわけでもないし、どうでも良いことだが。

加地伸行

[【古典個展】立命館大教授・加地伸行 不善な君主に従うなら…](http://sankei.jp.msn.com/life/environment/100123/env1001230246001-n1.htm)

最近読んだ「孝経」の著者だな。
なるほど、大阪大学から立命館に移ったのか。

絵で見る幕末日本

エメェ・アンベール著、高橋邦太郎訳「絵で見る幕末日本」「続・絵で見る幕末日本」など読む。
鶴岡八幡宮の描写など面白い。
あと日枝山王社や神田明神の祭りなど。
今よりかなりどぎつかったようだ。

この、名前から察するに、フランス語系のスイス人の物の見方は現代人とほとんど何も変わらないように思える。

しかしまあ、

> われわれは、彼に対して、もし彼が、われわれのために、閉塞されている建物の中に入れるよう取りはからった場合には、
その奉仕に対しての代償を提供するであろうということを説明した。

みたいな言い回しはどうにかならなかったのかな。
CNN の同時通訳じゃないんだから。

ふと思ったのだが

デザインというのは、ある不幸な状況のときにより必要とされる。
しかしもともと不幸な状況にあるのだから、その不幸な状況を改善できなかったとして、
デザインのせいにするのは酷というものだろうと思った。
そう、よくあるパターンとしては、デザイナーの独りよがりであったり、
デザイナーの自己満足のためにデザインが悪いのだろうと思ってしまうということ。
しかし、必ずしもそうではない。

たとえばある間取りの悪いテナントがあったとする。
形も間口も悪くてどうがんばって洗い場やカウンターを配置しても客を効率的にさばけないとする。
デザインしようがない。
しかしそんなときでも「デザインが悪い」と言われることが多い。
デザインはかわいそうだ。

たとえばある限られた予算の中である公共交通機関ができるだけ乗客を増やしつつ障害者にも配慮した車両を作ろうとするだろう。
そんなときに条件を満たそうとしてちょっとした配慮の不足があるとたちまちそれは「デザインのミス」として観察されてしまう。
デザインはかわいそうだ。

しかし、往々にして、
我々からみていると、
とくに不幸な状況でもないのに、デザインがしゃしゃりでてきて、
状況を不幸にしているように見えることもある。
たぶん錯覚なのだろう。

資金が潤沢にあるようにみえてデザインが悪いのは、
デザインが悪いのではなくてたぶん何かの政治的理由なのだろう。
なにしろ金がうごけば動くほど世の中は妥協の産物となるものだ。
やはりデザインのせいにされてはかわいそうなのだろう。

デザイナーはマネージメントができて戦略的な予測もできて、
かつ市場調査もできなくてはならないが、
そんな完璧な人材は、どんな業種にもめったにいない。
デザイナーはやはりかわいそうだ。
ある意味 SE くらいかわいそうだ、とおもえばわかりやすい。

そもそもアレとかアレとかアレとか、とてつもなく人間に不親切な設計とか、
別段、デザイナーのせいではなくて、複数の候補を用意して、
それを選んだクライアントがセンスがないせいかもしれない。
たぶんだが、デザイナーは、センスの良いデザインではなく、
コンペでクライアントに選ばれやすいデザインをする傾向にあるだろう。
そうこうするうちにデザイナーはますますそういうデザインをするようになり、
世の中はそういうデザインで満ちあふれることになろう。
まあ、政治家と国民の関係にも似ているよな。
あるいはマスコミと国民の関係と言っても同じだが。

デザイナーは同時にアーティストであったりする。
しかし基本的にデザインとは自分を殺すことであり、
アートとは自己主張することであって、あい矛盾する。
しかしなぜか世の中ではアート&デザインなどといって、
この二つは混同されている。
いやおそらく同時に二つの属性が必要とされるのだろう。
やはり不幸だ。
それについて十分に説明されていない状況も不幸すぎる。

昔バブルの頃は、低学歴だがお金持ちという人と、高学歴だが貧乏という人がいた。
なんか矛盾しているようだが、こういう社会は非常に安定している。
ようするに世の中景気が良くて勉強しなくても進学しなくても日銭がいくらでも稼げるわけ。
ばかばかしくて何年もかけて勉強しない。
はてはフリーターみたいな人たちも出てきた。
そりゃそうだ。
まじめに勉強したり、正社員としてしばられなくても、生きていけるんならみんなフリーターになる。
しかし今は低学歴だと低収入、高学歴だと高収入という、当たり前なんだが、
非常に危険な社会になってしまったよな。

だがしかし、
そもそも、
景気の変動の影響を受けやすいリスクの大きい仕事に就いた人と、
景気の変動を受けにくい手堅い職に就いた人といるわけだから、
景気の良いときに我慢する人と、
景気の悪いときに我慢する人がいるのも当然のことだよな。

モーニングのアレとか読むと確かに大学進学率が上がって大学生が異常に増えた。
大卒の採用人数も増えている。
しかし大学生が多すぎるので、就職内定率は下がる。
不況で新卒が採れないという以前に大学生が多すぎるから内定率が下がっている。
もし大学生の数が20年前と同じなら内定率はもっと高いのだろう。

大学生は増えたかもしれないが、少子化で新成人は減ってきているはずで、
じゃあこの先どうなるかといえば、団塊の世代が退職したあとは逆に新卒は足りなくなる。
そもそも労働人口自体が足りなくなる。
あと五年くらいだろうか。
多少不況だろうと就職はできるようになろう。
で、失業率が下がれば賃金も上がるし景気も良くならざるを得ない。
そうこう考えればいま就職ができないとか不況がどうこうということをあまり深刻に考えても仕方ないのではないか。
ただ今の状況だけ見て、企業の奴隷みたいな人材を作り続けるのはやめた方がよい。
むしろやらなきゃいけないことは逆。

世の中には正しいか正しくないかの基準が明確には決まってないのにどちらかに決着を付けなくてはならないことがある。
商売や営業などもそうだし、企画もそうだし、
裁判もそうだし、倫理や文芸批評もそうだろう。
とにかく人文系はたいていそうだ。
これが工学系だと、定量化とかいう手法を使うわけだが、
文系だと延々と時間をかけて立法とか法令の成文化とか判例の蓄積とかなんだかんだかけてやっている。
答えがないんだからそうやってやっていくしかないのだろう。
それはそれで良いとして、
センター試験などの大学入試の問題も文系の問題はたいていそうだということだ。
もっとも確からしいものを選べといわれてもどれも正しくどれも正しくないように見える。
そういう答えが判然と決まってない問題を大学入試に出して良いのか。
あるいは大学入試の頃からそのような感覚を磨かねばならないのか。
出題ミスかどうかの判断はどこでされるのか。

無視できない違い

> ちりやすき一重桜の花のうへに雨さへそひてふく嵐かな

明治天皇御集角川文庫版。

> ちりやすき一重桜の花のうへに風さへそひてそゝぐ雨かな

文部省版。似ているが単なる誤記ではないな。

思うに9万首の御製の中には、このような推敲の段階によって微妙に異なる歌、習作、などがかなりふくまれるのではなかろうか。
題も相当に違っている。

梅にうぐいす

[梅にうぐいす 北大路魯山人](http://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49960_37760.html)

ひどい話だなと思った。
うずいすは、二月から八月くらいまで毎日のように鳴く鳥で、
しかも梅の木というよりはごく普通の竹藪にいるものだ。
正直に観察すれば梅にうぐいすのような陳腐な歌など出てくるわけがない。

最初に鳴き始める二月が一番印象的なのかもしれない。
だが、ただそれだけだ。
そもそもうぐいすの鳴く声は聞いたことはあるが、
その姿をわざわざ目撃するというのはまれだと思う。

> あたらしきいへゐはならびたちにけりやぶうぐひすのすみかなりしが

> うぐひすのあさなあさなに鳴く里は夏のやぶ蚊もさぞおほからむ

first encounter hd クリア ネタバレあり

serious sam はラスボスが異様に強く途中で難易度も変えられないので、
一番簡単な tourist モードでさくっと行ったのだが、
ラスボスは自力では倒せないらしく、
わけわからんので、しかたなくネットで検索してみた。
ピラミッドの頂上まで来たら、四隅にあるカタパルトみたいので跳躍して四つのわっかすべてをくぐると、
ピラミッド上空にとまっているUFOからラスボスめがけてビームが照射される。

だがラスボスの位置によってはビームが当たらないこともある。
そのときは一からやりなおし。
ビームだけでは致命傷に至らず、回復してしまう。
そこで武器の中で一番強力な canonball などでビームと同時に攻撃すると倒せる。

以前は途中で放棄してしまいラストを見てないのでなんとも言えないが、
このラストはオリジナルと同じものなのだろうか。

明治天皇御製集

明治天皇御製だが、93032首という全集は皇室に153冊の写本として残されているという。
そのうち明治天皇御製集として大正8年から宮内省の事業として編集したものが1678首を納めているが、
J-Textsにある[明治天皇御集](http://www.j-texts.com/sheet/meijit.html)は大正11年に文部省が発行しており、
おそらく同一のものと考えられる。
つまり、宮内省が編集して文部大臣鎌田栄吉の名で発刊したということだろう。

その後、昭和35年から明治神宮がより多くの歌を公にしたいというので、
入江相政や佐佐木信綱らが委員となって、「新輯明治天皇御集」というものが昭和39年に出た。
これには8936首が納められている。
現在、平成2年刊「類纂新輯明治天皇御集」というものが定価5250円で、明治神宮で買えるというのだが、はてどこで買えばよかろうか。
もしかすると宝物殿の中で売っていたかもしれない。
まあ問い合わせてみるか。
図書館にも所蔵しているところがある。
しかし、これが最大の収録であり、それ以外の9万首近くの歌というのは我々がいくら望んでも見られそうもないということだな。

さらに新輯御集から1404首を選び出して明治神宮編角川文庫版「新抄明治天皇御集昭憲皇太后御集」が昭和42年に出た。
私が大学受験の時に明治神宮で買ったものはこれだったと思う。
さらに平成12年に注釈に多少補筆した版が出ており、
現在明治神宮の文化館(土産物売り場)で表紙カバーに「非売品」と書かれているが500円で買うことができる。

他にも昭和15年に明治神宮社務所から「明治天皇御集」というものが出ているようだ。

で、J-Textsにある大正11年版御集と、平成12年版御集だが、
収録されている歌にかなり違いがある。
たとえば大正11年版には武蔵野を詠んだ歌が入ってない。
平成12年版は日常の素朴な歌をより多く取り入れる構成になっているのかもしれない。

キング付録「明治大帝」という昭和2年に出た本を見ると、

> 御製編纂以前、新聞などで公表されたのを拝誦いたすと、ほとんどみな、主観的な、教訓的な御製ばかりであったので、御製は全部かようなものかと存じておったところが、編纂に従事してみると、決してそうではない。

また

> 明治天皇の御製が新聞に洩れ始めたのは、明治三十七八年の戦役の頃ではなかったろうか。少なくとも、この頃から新聞にあらわれるのがにわかに多くなったように思う。
これは当時の御歌所長高崎正風男爵が洩らされたように承っておる。

> 元来、大帝には、御製の世に洩れるのをお好み遊ばされなかった由であるが、

> 大帝は、御製の頻々として新聞に出るのを苦々しく思し召され、高崎男爵をお召しになって、ご注意があった。

これに対して正風は

> 御製を世にお洩らし申し上げるということは、世道人心の上に、誠に結構なことと存じて、畏れながら正風取りはからったことでございます。
もしこれについてお咎めを蒙るようなことあらば、正風、切腹して御申し訳をいたします。

と答えたそうだ。

高崎正風「歌ものがたり」にある話で、
明治10年に西南戦争が起こり、

> 思いの外西南事件が長くかかって、しばらく京都にご滞在あそばされたが、
ようやく結末がついたので御還幸になることになった。
今度は路を海におとりになることになったので、自分も供奉いたして、神戸から舟に乗った。

> しかるに遠州灘ご通行の折り、富士がよく晴れておったのをご覧あそばされて、たちまち御製三首あそばされて、
それを御手帳にお書きあそばされて、お裂きなされて、私にお見せになって、
「高崎歌が出来たがどうだ」と仰せられた。

で、この時の歌というのがおそらくは

> あづまにといそぐ船路の波の上にうれしく見ゆるふじの芝山 「西京よりかへりける船の中にて」

であると思われる。
これに対して正風は

> その御製は覚えておらぬが、何でも故郷が近くなったと見えて、富士が見えるようになったのがまことにうれしいというような御製であって、
つまり久しく西南事件のために京都に御滞留あらせられたことであるから、早く故郷に帰りたい、と思うのは人情誰も同じことであるが、
その御実情をそのまま御歌いになったのであるから、誠にこの御製は結構に伺います

と答えたそうだ。

正風が宮中の御歌掛(後の御歌所長)になったのは明治9年であるから、
上記エピソードはその後のことだろうが、
明治天皇の御製が毎年きちんとした形で残るようになったのが明治12年からだから、
おそらく正風の助言や尽力があったのだろう。
実際、

> 当時宮中の御歌はいわゆる堂上風であまりにもお歯黒臭かったので、
翁はその旧弊を一洗して、かねて私淑していた香川景樹風の清新にして格調高い歌にしたい、
というようなことを申し上げたところ、非常に御意に適い、それが動機となって、明治十二年頃から御製の拝見を仰せ付けられるようになったと承っている。

またその際に

> 御歌を御好みあそばすは誠に結構に存じますが、それがために御政治にお障りあそばすようなことがあれば、
畏れながらひらにお許しを願います

と条件をつけたそうだ。

正岡子規の「[十たび歌よみに与ふる書](http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/2533_16281.html)」(明治31年)で批判されている御歌所長というのも、具体的には正風のことだと思われる。

> 田舎の者などは御歌所といへばえらい歌人の集まり、御歌所長といへば天下第一の歌よみの様に考へ、従ってその人の歌と聞けば、
読まぬ内からはや善き者と定めをるなどありうちの事にて、生も昔はその仲間の一人に候ひき。
今より追想すれば赤面するほどの事に候。
御歌所とてえらい人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐るにもあらざるべく候。
今日は歌よみなる者皆無の時なれど、それでも御歌所連より上手なる歌よみならば民間にこれあるべく候。

子規は明治35年に死んでいるので、
正風が37年頃から新聞に洩らしたというような歌も、ほとんど目にしていないものと思われる。
子規が仮に日露戦争の後まで生きていたら、
御製についてなんと言っただろうか。
たしかに気にはなる。