劒岳 点の記

なぜか、新田次郎原作の[劒岳 点の記](http://www.tsurugidake.jp/)を見る。

まあ、わりと好き。
CGに頼らず、とあるが、人が崖から落ちるシーンはスタントでなんとかなるのかもしれんが、
雪崩に人が埋まるのは危険すぎるだろ。
ふつうここは人命的にはCG使うんじゃないのか。

千載和歌集

久保田淳校注「千載和歌集」。

凡例に

> 翻刻に際しては、歴史的仮名遣いに統一し、適宜底本の仮名を漢字に改め、漢字を仮名に改め、その他用字を改め、送り仮名を補い、振り仮名を付し、・・・もっぱら読みやすさを主眼とした校訂を加えた

とある。
なるほど1986年初版の文庫本ならば当然そうあるべきである。

[J-TextsのFAQ](http://www.j-texts.com/faq.html)に、

> 問:どうして文庫本を底本に使ってはいけないのですか。

> 答:昭和40年代以降の文庫本は表記の改変が著しく、原本との乖離が甚だしいからです。電子化によって止むを得ず原本から乖離してしまう所もありますが、学術的観点からは、殊更に表記を改変しようとすべきではありません。文庫本が何故表記を改変しているかといえば、読みやすくして、より多くの人に読んで(買って)もらいたいと考えているからでしょう。それが廉価の代償です。商売をするのでない限り、文庫本を電子化する必要はありません。より良い本文を使うべきです。大学の学部4年間には、教科書として使ったり卒業論文で使用したりすることはあるかもしれませんが、大学院以上のレベルになると、文庫本から引用するということは、まず考えられません。文庫本は初心者用、入門者用と考えてください。表記の改変がなされていない文庫本なら結構です。

とある。
しかし、特に和歌の場合、もともとが変体仮名などで書かれており、用語も極めて特殊で、
漢字でふつう書くところをわざと仮名で書いたり、その逆であったり、そもそも濁点がまったくなかったり、
どこで切れるのかわからなかったりする。
手書きの原本を見れば察せられるかもしれないことも活字にした段階で欠落する。
まあなので、文庫本であればわかりやすさを優先しても仕方ないし、
また戦前の本だからといって必ずしも正確とは言えないと思うのよね。

全然千載和歌集の話ではなかったが。

松蔭日記

図書館にあった講談社学術文庫はだいたい読みたいものは読み尽くしたので、つぎに岩波文庫にうつる。
上野洋三校注「松蔭日記」。

吉田松陰の日記かと思い、和歌だけでも抜き出してみるかと読み始めると、
柳沢吉保の話ばかり書いてあり、
あれっ、柳沢吉保って長州藩だったっけ、
もしかして吉田松陰って柳沢吉保と徳川綱吉の時代を評価していたのかななどと半信半疑に読んでいくと、
六義園が立派に完成してどうのこうのとか、最後まで柳沢吉保。
おかしいなと思い解説を読んでみるとそもそもこれは柳沢吉保の側室正親町町子が書いた自画自賛の日記なのだった。
解説に書いてある話もなんか悲惨で、幕初にあった資産も綱吉の時代に浪費しつくして、借金が吉宗の時代まで残った、
などと書いてあってひどいやつだなあ(笑)という感想しか出てこない。

テルマエ・ロマエ

ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」を読む。
たぶん一話完結だったのが好評だったので連載化したのだろうが、
風呂に溺れて古代ローマから現代日本にタイムスリップしてしまうという恒例のパターンが、
だんだん苦しくなってくるよなあ(笑)。
このネタであと何話くらい引っ張るつもりなのだろうか。
月刊コミック・ビームに不定期連載、ってところが泣かせる。

タイトルの THERMAE ROMAE だが、ローマ風呂、とでも言う意味か。

「モーレツ!イタリア家族」というのも書いているのか。ふーむ。