私撰武家百人一首

竹村紘一「士魂よ永遠に 私撰武家百人一首」を読む。

徳川慶喜

> とりわきていふべきふしはあらねどもただおもしろくけふもくらしつ

なんだか良い味出してるなあ。

佐久間象山

> みちのくのそとなる蝦夷のそとを漕ぐふねより遠くものをこそ思へ

なかなか面白い。

村田清風

> しきしまの大和心を人とはば蒙古の使ひ斬りし時宗

これはわろた。本居宣長のもじりやね。
蒙古は「もぐり」と読むらしい。

> 長らへば憂きことおほしはねよりもかろきいのちと思ひはてまし

無名武士の歌

相変わらず「武人万葉集」。

西郷隆盛とか赤穂浪士とか、或いは新撰組の有名人らの歌には後世の偽作もまざろうが、
西南戦争や彰義隊の比較的無名な人たちの歌にわざわざ偽作が混ざる可能性は低いと思うので、
おそらく真作だと思うのだが、なかなか身につまされるものがある。

森陳明

> 函館のやぶれし時に身を終へばかかる憂きめに逢はざらましを

本多晋

> 君の為ともに死なむと契りしをおくれたる身の恥ずかしきかな

田端常秋

> 何事も遅れがちなる我ながら死出の山路に魁やせむ

半田門吉

> いづこにていつ果つるとも不知火の筑紫に帰る身にしあらねば

野村忍助

> みどり子の髪かきなでて立ちわかれ出づるも国のためにぞありける

それはそうと。

> 散らば散れ積もらば積もれ人とはぬ庭の木の葉は風にまかせて

これは徳川慶喜の歌で、出典は「坂本龍馬の手紙」だというのだが、
まず作風からして疑問だし、なぜ坂本龍馬の手紙に徳川慶喜の未知の歌が載っているのかも謎だ。

なかなか面白い歌があったのだが、やや難があるので改作した:

町田四郎左衛門

> 我死なば焼きて埋めよ野に捨てば痩せたる犬の腹を肥やさむ

ネット調べてみたらなんと本歌があった。壇林皇后(または小野小町):

> 我死なば焼くな埋むな野に捨てて痩せたる犬の腹を肥やせよ

壇林皇后とは嵯峨天皇の后らしい。
後者の歌はつまり仏教思想によるものだよな。
今昔物語に出てきそうな話だが。

賤の心もしづごころなし

牧水のまねをしてみた。今は後悔してる。

> 居酒屋のともしびともる夕暮れは賤の心もしづごころなし

ええっと。
敢えて解説すれば本歌は吉田松陰の「賤の心は神ぞ知るらむ」と、
紀友則の「静心なく花の散るらむ」です。
で、賤と静をかけるのは静御前の歌があって、以下省略。

> をちこちの夜の巷をはしごしてまずは立ち飲み次は居酒屋

本歌は大村益次郎の「朝顔の花のようなるコップにてきょうも酒々明日も酒々」。
のつもりだったが原型留めてないな。

> しづのをは夕暮れ時も待ちかねてはや立ち飲みの戸をくぐるらむ

> 夕さればやうやく店は開きつつまずはいづちへ行くべかりける

> 居酒屋の数そふ町にわが住めば夜の宴のつひえもおほし

> 夜ごと飲む費えはさすがおほけれど他にこれてふたしなみもなし

> 知り合へる人も増えたり世の中に交はらむとて飲むにはあらねど

デブ。

> 痩せしとき買ひたる細きジーンズの今は履けなくなりにけるかも

> 細ければえも履かざるを痩せたらばまた履かばやと積みておくかな

> 米もうまし佃煮もよしと食ふほどにけふもいかほどわが太りけむ

ジーンズ怖い

今日何気なく横浜辺りで登りのエスカレータに乗っていてふと前の親父のズボンを見ると、ジーパンにサイズのシールが貼られたままになっている。
胴回り94cm、股下69cmとかって、ジーンズ的にはあり得ないサイズを履いている。
いや、自分的にはですね、ウェストをぎゅっと絞って無理してぴっちぴちにして履くからジーパンというのはかっこ良いんであって、
こういうふうにゆったり履いてしまうとですね、ただのだらしない普段着になってしまうと思うんです。
だとしたら私なら普通の綿パンかジャージでも履いた方がましと思ってしまう。

いや、まずシールはがそうよと。
たぶんサイズの組み合わせからして880円のトップバリュではないかと。

いや私は一応胴回りが85cm、股下75cmで買ってますよと。

で、また別のこんどは立ち飲み屋に入ってきた親父がまた真新しそうな、
きれいな紺染めの(笑)ジーパン履いてるじゃないですか。
やばい来たぞと。
親父ジーパンブーム来たぞと。
1000円以下で安くジーパンが買えるようになったおかげでものすごい勢いで親父がジーパン履いてますよ。
下手に安物のジーパンなんぞ履いてると同類と思われるぞと。
で急にジーパン履くのが怖くなったわけです。