江戸時代の和歌と歌人

宗政五十緒「江戸時代の和歌と歌人」を読む。
やや古い本で、著者自身はすでになくなっている。
きわめて興味深い本ではある。しかし、いろいろな短編のエッセイを集めて大学の助成金で出版したものであって、
いわば一種の珍本のたぐいで、
まったく予備知識のない人が江戸期の歌人について学ぼうと思ってこの本を読むとめんくらい、ひっくりかえるだろう。
江戸期の和歌史というのであればまず細川幽斉や後水尾天皇から始めて、
古今伝授がどうしたこうしたとか、真淵が出て万葉調がとか、
そういう流れになろうかと思うのだが、細川幽斉や後水尾天皇については名前が出てくるだけで歌の紹介などはほとんどなく、
松永貞徳の説明はあるが歌はひとつも紹介されていない。

冒頭に紹介される歌が後西院(後水尾天皇の第八皇子)で後水尾院から古今伝授されているのだが、
その歌というのが、

> 咲かばまづここにをき鳴けうぐひすの根こじて植ゑし梅にやはあらぬ

をきは「招き」だが、万葉時代の古代語であり、ちょっとわかりにくい。
そもそも「招き鳴け」とは変な言い方だ。
「うぐひすの根こじて植ゑし梅にやはあらぬ」も何のことやらさっぱりわからない。
「うぐいすが根から堀り取って植えた梅ではないのか」とはどういう意味か。
というかそれ以外に解釈しようがないではないか。
これが本歌取りでもとの歌は拾遺集の

> いにし年根こじて植ゑし我が宿の若木の梅は花咲きにけり

だというが、こちらはすっきりすんなり理解可能だ。
どうしてこんなへんてこな歌を紹介しなくてはならなかったのだろうか。
なんかいろいろとちぐはぐな印象を受ける。

一方、森河章尹(あきただ)の歌

> 露の身を送るばかりと聞きしかど草の庵にも月はすみけり

涌蓮(ようれん)の返し

> 草の戸に月すめばこそ露の身のかかる嵐も耐へて住まるれ

などはなかなか面白い。

さらに

> 近世和歌を言うならば、私は前期の第一の人は後水尾院であり、後期の第一人者は香川景樹であると評価するものである。
だから、近世和歌史はこの両者の線を基線にして記述されるべきである、と私は考える。
後水尾院、景樹、ともに人々のよく知るところである。
敢えて、この二人の和歌に言及せずして近世和歌の世界を述べてみたわけである。

などと言っている。
これは「短歌研究」というものに初出の「近代和歌の展開」という文章らしいのだが、
単行本にまとめるにあたっていきなりこんなことをもち出すとはどういう読者を想定しているのかと、
雑文のただの寄せ集めであることの言い訳に過ぎないのではないかと言いたくもなる。

霊元院の歌

> 梓弓やしまの外の波風ものどかなる世の春やいたらむ

> 袖の香を家づとにせむ道の辺の垣根の梅は折るべくもなし

> 山水の一つ流れをいく町にすゑせき分くるしづが苗代

> 夏もはやなかばは過ぎぬさみだれの晴れぬ日かずを数へこし間に

> おのがためつれなき妻を有明の月にたぐへて鹿や鳴くらむ

> 消えなばと拾はで見るも笹の葉のうへにたまらぬ玉あられかな

> 都にはまだ降りそめぬ雪をけさ山の端白く見てぞおどろく

> 風に伏し霜にしほれて池水のみぎはに枯れぬ芦の葉もなし

> つたひ来る流れも細き岩間よりこほりにけらし山河の水

> にひまくらかはす言葉も年月の思ひのほどをいかが尽くさむ

> おどろかす一筆もがなあひ見しは夢かとたどる今朝のまた寝に

> ひとたびはあひ見し人の忘るばかりにまたぞつれなき

> ひととせのしわざいとなき民や住む田づらに見えてつづくいほりは

油谷倭文子の歌

> 雪深き谷の古巣のうぐひすはまだ春としも知らずやあるらむ

> 春風は吹きそめにけりつくばねのしづくの田居や氷とくらむ

> 花の色に心も染めぬうなゐ子の昔よりこの春は待たれし

> 雪深きかきほの梅もうぐひすの声聞くときぞにほひまされる

> いつしかも行きて見てしがみよし野のよしのの山の花の盛りを

> 昔より神も諫めぬわざならし花に浮かるる春の心は

> 玉と思ふ露はくだけしはちすばにまたこそけさはあざむかれけれ

> 月見ればおふけなくしもなりぬかな知らぬ千里も思ひやられて

> 山里のもみぢの色を見ぬ人は秋に心を染めずやあるらむ

> よひよひに涙はゆるすをりもあるをやるかたなきぞ心なりける

> 来じと言はば来む夜もありと待たましを来むと頼めて来しやいつなる

> 思ふなる心に数はなきものをなほこそ待ためみとせ過ぐとも

> 一夜経(ふ)と言へばたやすしきのふけふおぼつかなさの数ぞやは知る

> 末いかにちりやかさねむ手枕のにひしきほどにふた夜来ぬ君

祇園梶子の歌

> しづのめが降り立つ小田の水かがみ見るひまもなく取る早苗かな

> 雪ならばとひこし人のあとも見む木の葉に埋む庭の通ひ路

> 契りしは昔なりけり思ひ寝の夢には絶えぬ人の面影

> つらくのみ過ぎこし方を忍べとや憂きひとり寝に立てる面影

> 雪ならばこずゑにとめて明日や見む夜のあられの音のみにして

よみ人しらず

> あはぬ間にいかに恨みの多かりきこよひは何を語りあかさむ

かへし

> よしさらばくらべかこたむあはぬ間の恨みの数はいづれまさると

> あふことを夢なりけりと思ふにもさめしうつつぞ苦しかりける

> 契りあれば夢にもあふと思ふにぞさめしうつつのたのみなりける

> もえわたる沢の蛍を憂き人に見せばや身にも余る思ひと

> こひこひてまた一とせも暮れにけり涙の氷あすやとけなむ

最後の歌は14才(満で12か13才)の時の歌というから、なんとも早熟だ。

auの携帯

なんか、電波帯が無くなって使えなくなるというので、機種変更。
もし変更しなければどうなったのだろうか。
まあいいや。
5250円持ち出しで。
au共通充電器というものも980円で買ったのだが、
古い充電器でも普通に充電できてショック倍増。

桂園遺文

景樹の「桂園遺文」に、

文句は古今に従ひ、都鄙によりてかはりゆくものなれば、たのみがたきものなり。この調べのみは古今を貫徹するの具にて、いささかもたがはざるなり。ひとり大和言葉のみならず、からもえぞも変はらぬものなり。

などと言っている。ここで古今と言っているのは古今集のことではない。語彙や言葉遣いは時代や場所で変わってしまうので、頼りないものだが、調べ(リズム)というものは、
時代や地域の違いはなく、言語の違いすらない、などと言っている。

思うに、景樹の歌論にはかなり無理がある。景樹の歌が当時の京都の人々の話し言葉で詠まれているとは誰も思ってないだろう。景樹は確かに俗語や口語を和歌に取り入れてみたが、100%俗語口語で歌を詠んだのではない。今日の、現代短歌のような意味での口語の和歌ではないのは明らかだ。また、誠実に歌を詠めば自然と良い調べの歌になる、というのも単なる精神論にしか思えない。結局何を言いたいのかがわからない。景樹は、歌人としての天性の才があったのは間違いないが、いろんな人の影響を受け、またいろんな人の批判も受け、そのため歌論のようなものを主張しては見たが、そもそもあまりロジカルな考え方をする人ではない、というのがまあ、だいたいの結論と言ってよかろう。

その時代にしか通じない言語で歌を詠んでしまうと、その歌はたちまちに陳腐化する。わずか50年後に見ても何か違和感を感じるだろう。明治期の万葉調の和歌や、戦後の左翼歌人らの和歌、俵万智の模倣者らの歌などがまさにそうだ。ところで景樹の歌などは今から200年ほど前の歌なわけだが、それなりに今でも鑑賞できるし、古今集なども多少古典文法を学んでおけば何の説明もなしにわかる平易なものが少なくない。それは、古典文法や文語文法というものがそのような時代を超えて生き続ける生命力を持っているからであり、だからこそ和歌を文語文法に則って詠む必要があるのだと思う。

蘆庵と宣長と景樹

長くなるので、記事を改める。
蘆庵と宣長と景樹、この三人は比較的仲が良く、互いに交友している。

思うに、蘆庵は、良い歌を詠むには、第一義には「無法無師」つまり何も決まりなく、誰にも教わらずに詠むのが良いとしている。
古歌はみなそうして自然とできたものだからだ。
第二義には、愚鈍蒙昧な私であるから、そうして「無法無師」できた古歌を見習って詠めばよい、とする。
第三義には、古歌をことごとく調べて良い歌を選り出すのは難しいので、とりわけ古今集を参考にすれば良い、と言っている。
古今集を参考にせよと明確に言っているのは景樹ではなくて実は蘆庵である。
しかも蘆庵は、最善でも次善でもないがやむを得ない第三の方法として、それを勧めているだけなのだ。

また、宣長は、真淵を師と仰ぎながらも、その万葉調の歌ぶりには与せず、比較的正統な二条派の歌風を生涯維持した。
また、景樹の「古今和歌集正義総論」など読むと、宣長の国学・神学の強い影響と賛同とが読み取れる。
景樹は、明らかに、自分よりも40才ほど年長のこれら宣長・蘆庵の二人の説を取り入れて自分の歌論を形作ったものと思われる。

新学異見

佐佐木信綱編「日本歌学大系」第7、8巻を借りてくる。
契沖から大隈言道まで、江戸期の歌論を要領よく収録してくれている便利な本。
そのうちのとりあえずは景樹「新学異見」をざっと読んでみる。

「新学異見」というか景樹の歌論というものは、紀貫之を崇拝して、古今集を理想とするものと一般には説かれているのだが、
読んでみたところ、そんなファナティックな論調はどこにも見られない。
ただ単に真淵の「新学(にひまなび)」の引用箇所のそれぞれに対して反論を試みているだけのものであり、
特に古今集が良いとか、紀貫之の論が優れているなどという主張をしているのではない。
面白いのは、真淵が実朝をほめているところを、景樹がけなしているところで、正岡子規と真っ向から意見が対立しているのが面白い。

にひまなびに

> (万葉集には良い歌も悪い歌も混ざっているが) これをよくとれるは鎌倉の大まうち君(実朝)なり。その歌どもを多く見て思へ。

とあるのを(以下一部省略)、

> 按ずるに、歌はおのが思ひを尽くすのほかなければ、何を模(カタ)とし、何を学ばむ。

歌は自分の思いを尽くす以外のことはなく、何かを規範としたり、何かを学ぶということはない。

> また鎌倉の右府の歌は、こころざしある人たえて見るべきものにあらず。いはんこれにならふべけむや。

歌に志す人は、実朝の歌は決して見てはならない。まして真似してはならない。
そもそも古歌を尊ぶのは、それが真心から出ていて、人情や世態の隠れる隈もないからだ。

> 且つ、かたはら己が詠嘆するも、古人の偽りなきにならはんがためぞ。

自分が古風な歌を詠むのは古人の偽りの無さにならうためである。

> しかるに右府の歌の如く、ことごとく古調を踏襲し、古言を割裂したらんには、或る人は情をいつはり世を欺くの作なりといやしむべし。

要するに、実朝の歌は万葉調をわざとらしくまねたものであって、古人にはあった誠実さがなく、世の中を欺こうとするもので、卑しいものだ、というのである。同じことは近世に万葉調を尊んだ歌人たち全員に言えるだろう。

思うに、少なくとも景樹にとって、古今集時代に完成した古典文法、あるいは文語文法と言った方がぴったりくるかもしれないが、
その文語文法というのは、口語文法と相容れないものではなくて、互いに補完しあいながら共存すべきものだっただろう。
景樹にとっては文語文法とは今現在実際に使われている言語、つまり現代語の一種だっただろう。
必ずしも無理矢理いにしえにまねたというつもりはなかった。
景樹が、「大御世の平言」と言っているのはこの文語文法のことであろうと思う。
何しろ江戸時代にはもう膨大な類題和歌集のたぐいがあって、平言のサンプルは無限に蓄積されていたと言って良い。
この膨大な古典文献こそが「平言」たるゆえんなのだ。誰もがその意味を理解できるのだから。
景樹が嫌っているのは「聞こえざる」「聞きまどふ」「聞きがたき」「聞きぐるしき」言葉である。
たとえば万葉の言葉など。
景樹にとっては当世の俗語も文語も「聞き惑はぬ」言葉という意味では同じなのだ。

いにしへにはその誠実さだけを学んで、「大御世の平言」によって歌を詠めば良いと言っているのは、
つまり、新古今以来のような、言葉を飾ったり、見もしない仮想世界を歌に詠んだり、
わざと(万葉調などの)古くさい言い回しを使うのでなく、
今日皆が使っている完成された文語文法を使って心に偽りの無い歌を詠めばそれで良いと言っているのである。

心に偽りなく「大御世の平言」を正しく使って歌を詠めば、詞の調べも整って自然と良い歌になるというのが景樹の歌論であって、
紀貫之を崇拝し、古今集を理想とした「詞の調べ」を重んじよなどとは言ってない。
なんでそんなことになってしまったのかは、いろいろ思い当たるふしがありすぎる気もしなくもない。

ひどい一日だった。

> 人はいつも おのがありかに 飽かずして 逃れ出でむと 思ひこそせめ

連休明けというだけでなく、何から何まで最悪だった。
良い仕事はしたと思う。
しかし、そのわりには満たされない。
しかし、今自分の居るところが気にくわないと、
仕事や住む所を転々としてみたが、別にどこにいようが、不満がないところなどなかった。
ようするに、愚痴や不満をうまく飼い慣らして、今自分が居るところに落ち着くしかないのだろう。
たとえば年収が今の二倍あればなどと考えるのも似たようなものに違いない。

[高崎正風歌論の変質](http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AA12016400/BRCTR_6_45.pdf)。
おもしろい。
高崎正風はどちらかといえば口べたな方だっただろう。
歌論というほどのいさましい哲学はもってなかっただろう。
御歌所長という重職にあって、辛い思いをしたに違いない。
今のどんな人が、明治天皇やその歌の師の高崎正風の和歌に正当な評価を与えることができようか。
まして高崎正風本人に、自分自身や明治天皇の歌風について論じることは、はなはだ困難だったに違いない。
私は思う、明治天皇や高崎正風の目指していた和歌の方向というものは、きわめて妥当なものであって、
その価値はいずれは正しく評価される時がくるだろうが、
今はまだ全然その時ではないと。私がどうこう言ってもたぶん理解もされないだろうし。
私はただ、明治天皇御製に直接の影響を受けて歌を詠み始め、その正当性を多少とも証さんがために、
和歌を詠むだけだ。

> 明らかに 治まりし世の 大君の おほみ心を たれか受けつがむ

> 今の世も とほき御世にも たれか知る 知らむと思へば 知れる心を

から猫

和歌でときどき猫のことを「から猫」というが、「から」とは「やまと」に対する言葉だから、
「やまと猫」というものがあるかというと、別に居ないようだ。
ツシマヤマネコが和種として古くから知られていて、それに対するものかもしれない。
或いは昔、猫と呼ばれていた別の動物が居たか。