朱塗り

私は九州で生まれ育ったのだが、
九州には養蚕があまり発達しなかったせいか、
お稲荷さんの祠があまり無い。
従ってあのような赤い鳥居というものを見たことがなかった(祐徳稲荷に幼い頃行ったはずなのだが、鮮明に覚えてない。とにかくひたすら長い階段の回廊を登ったことだけ覚えている)。

また、九州はあまり地震がないわりに台風が良く来るからだと思うが、
鳥居は石作りのものが多い。
博多あたりだと朱塗りの鳥居や社殿も多いようだが、
たとえば長崎の諏訪神社などは朱はまったく使われていない。
石か黒々とした木肌か。

まあだから私が田舎を出て京都に住んだときに一番驚いたのは神社建築のけばけばしさだった。
特に上賀茂神社には驚いた。
上賀茂神社というのは、平安京が出来るよりも、渡来人の秦氏が入植するよりもずっとまえの山城の国に土着の豪族のなごりだろう。
それがあのように、白い砂、緑の芝生、朱塗りの鳥居のように、
なんといえば良いのか、派手な色彩でいろどられているのにびっくりしたわけだ。
上賀茂の近くに久我神社という小さな町中の神社があるがここも赤くて白くて実に清らかな神社だ。

その後、日光東照宮も見てみたが、いろいろ噂に聞いたよりは派手さも感じなかったしけばけばしいとも思わなかった。
むしろ、落語に聞いていた左甚五郎の眠り猫の彫刻があまりにちっぽけなのに落胆したくらいだ。

ブルーノ・タウト以来、桂離宮を褒めて東照宮をけなすのがはやりなようだが、
桂離宮は見たことないのだが、
どちらが駄目でどちらが良いという気にはならん。
もしケバくてデコラティブなのが駄目だというのなら伏見稲荷の鳥居の参道などどうなのだろうか。
廃仏毀釈以前の鶴岡八幡宮などはもっとデコラティブでまがまがしいところだったに違いない。

仏像も寺院も元の朱塗りや青塗りや金箔を残さないのがわびさびであって、それが室町時代に完成して、
日本ではそれ以来朱塗りはしなくなったのに東照宮はひどい、というのは明らかにおかしい。
朱塗りの事例はいくらでもあるからだ。
東照宮がいかんというのならお祭りの御輿や祇園祭の山鉾などはどうなのか。
仏壇の装飾はどうなのか。
同じようにけなさなくちゃなるまい。

宣長の違和感

ドナルド・キーンや司馬遼太郎が宣長の文章に違和感を感じているという件だが、これはやはり何かの勘違いなのではないかと思えてきた。

もし宣長が、普通の学者のように、古今以降新古今的な言葉遣いだけを用いていたら、たぶんキーンも司馬も違和感は感じなかっただろう。現代人は新古今的なものや古今的なものは抵抗なく受け入れられるからだ。小倉百人一首などの古典のおかげだろう。

しかし宣長はそれ以前の記紀万葉や祝詞などを発掘した人なわけで、おそらく現代人はそういうものを聞くと激しく違和感をおぼえると思う。たとえば神主さんが祝詞をよみあげるわけだが、普通の人は意味がわからないから違和感もないだろうが、意味をわかって聞くと相当にへんてこな気分がするだろうと思う。私ですらそうだから、司馬やキーンなどもそうなのに違いない。ちなみに私は七五三や結婚式などで神主さんの祝詞を耳で聞いてほぼ100%理解できた。別に難しくもなんともない。あれがいわゆる擬古文というものだ。ふだん古典文法で和歌を詠む訓練をしていればあんなものはどうということはないのだ。

しかし、宣長が記紀万葉の言葉使いをしているところは彼の著作のほんの一部だ。玉勝間の中でも一部にしか出てこない。多く出てくるのは、私はあまり読んだことがないのだが古事記伝あたりだろう。そういう、一部の印象でもって判断しているのではないか。宣長の文章にはそういう雑多なものが混ざっている。漢文も、新古今も古今も、江戸風の言い回しも。その違いがわからず、つまり意味もわからず、ただなんとなく宣長の文章を読んでいたらちょうど車酔いのような気分になるだろう。それが違和感なのではないか。ははあここは祝詞だな、とか、ここはわざと万葉調に書いてるな、ここはどうも日常語らしいな、などとわかって読めば別にさらっと読めると思うのだが。

それから、万葉の古語を最初に発掘したのは賀茂真淵だから、宣長が「創作」したというのは当たらない。「創作」という言葉にも何か悪意を感じるな。

ドナルド・キーン3

ドナルド・キーンの「足利義政」を読んだ。ハードカバーだが、文章量はさほどない。それをさくっと読んだ感想だが、やはり、この人自身が、義政の東山文化にしか興味がなく、というか東山文化に興味をもったために義政に行き付き、その施政に疑問を持ち、いろいろ調べてみたが、西洋的な為政者のイメージとあまりに違っていてわけわからん、というのが結論らしい。

思うにドナルド・キーンは明治天皇を褒めすぎで義政をけなしすぎ。確かに明治天皇は偉大な人で、外国人から見ても日本人から見ても驚嘆すべき存在なのだが、ここまで褒めるのは何か偶像視しているようで違和感がある。明治天皇は偶像ではない。実在した生身の君主だ。逆に義政も悪政者の偶像ではない。

たぶん、ドナルド・キーンという人は、明治天皇と義政以外の日本の為政者は描けない人なのだろう。事実、彼は義教を義政の父として紹介しているのだが、実に平板な、恐怖政治を敷いたために暗殺された人、みたいな描写になっている。なんとも観察が浅すぎる。そんな文章なら大学生のレポートでも書くだろう。極端な例をさらに誇張して書くことしかできないのであれば、日本の歴史に現れたさまざまな功労者たちをどうやって顕彰できようか。日本史全体の流れをどうやってとらえられようか。そういうつまみ食い、文脈を無視した切り出しは許せない。

日本外史は、そうはなってない。将門・純友の乱から始まり、前九年の役、後三年の役、保元の乱、平治の乱、源平合戦、承久の乱、建武の新政、南北朝の争乱、と読んでいくうちに、頼山陽が主張したいテーマというものが一本につながってわかってくる。なぜ天皇は失政を繰り返したのか。なぜ武家政権が起こったのか。なぜ武士らが皇位の継承や領国支配に干渉せねばならなかったか。もちろん個々人の活躍もあるのだが、日本外史が主張したいのはその日本史のコンテクストというものだ。しかしつまみ食い派の司馬遼太郎やドナルド・キーンにはその観点はない。そしておそらく、今の日本史教育にもそれはない。

なるほど、キリスト教やイスラム教では貧民に施しをする喜捨の習慣がある。美徳と言ってもよいかもしれん。しかし、内村鑑三も言うように、彼もキリスト教徒だが、一万円の金を一万人に一円ずつ配るよりは、その一万円の金で新しい事業を興した方が世の中のためにはなるだろう。その一万円が雇用を生み産業を生んだら何百万円の価値に増えるからだ。目の前の貧民に施しをしなかったから悪人であるというのはあまりにも短絡的ではないか。

内村鑑三の意見はエントロピー的にも正しい。一円の金を集めて一万円にするにはたいへんなエネルギーが要る。或いは、金儲けという才能、或いは運が要る。しかし一万円を一円ずつばらまくのは極めて簡単だ。労力は要らない。運も要らない。そしてばらまいたものは二度と戻っては来ない。仮にその一万円の投資が失敗しても、誰かにその金は渡っているのだから、世の中全体として無駄になったわけではない。

私なら知人で困っている人(かつ好意を持っている人)には何らかの援助をすることもあるかもしれんが、マスコミやら慈善団体を通じて寄付や募金をするということはしないと思う。自分のお金がどう使われるか、どんな人間に渡るのかコントロールできないのだから。

司馬遼太郎にしても、海軍を褒めすぎて陸軍をけなしすぎ。実際には海軍にもいろんな暗部恥部があったに違いない。陸軍とそれほど大した違いはないはず。なるほど東郷平八郎は偉大な提督だったかもしれんし、乃木希典には致命的な欠点があったかもしれんが、トータルで見たときに、組織として、陸軍と海軍のどちらかが悪でどちらかが善、という描写をするのは極めて危険だと思う。もし彼が単なる娯楽小説として書いているならばともかく、第二次世界大戦の敗北の遠因を分析しているつもりだとすれば、明らかに間違っていると言えよう。それは、幕末や戦前の危険思想家とどれほどの違いがあろうか。

ドナルド・キーン2

続き。ドナルド・キーンは

宋代の美学は、日本に非常に影響を与えています。

和歌の場合でもそうだと思いますが、特に京極派とか冷泉派の和歌の場合は、圧倒的に影響が強いですね。そもそも定家の場合でもそう言えるのじゃないですか。

などと言っている。別にここは目くじら立てるようなところではないのかもしれないが、
いったい何が言いたいのかわからない。もちろん定家以降の和歌には漢詩や禅などの影響が強いのだが、定家、京極派、冷泉派などと例示するならするで、では定家のどこが、京極派のどこが、冷泉派(二条派という意味だろうが)のどこがどう影響を受けたのか言ってもらわないと困る。

南宋の文化は、日本に一番影響を与えたと思います。そのあたりの詩歌は、日本人の趣味にぴったり合っていた。感情的であって、あまり雄大なテーマはとりあげない。むしろ年を取ることがどんなに悲しいかとか、自分の生活がロウソクのようにだんだん消えていくとか、それは日本人にとってわかりやすい、しみじみとした表現だったでしょう。

などとも言っているところを見ると、やはり何か勘違いをしているとしか思えないのだが。感情的で日常茶飯な歌もあるがそうではない歌もたくさんあるからだ。司馬遼太郎との対談は失敗だったのではないか。というのは、ドナルド・キーンはものすごく正直に、
自分の思ったことを言っているのだが、司馬遼太郎はその認識の誤りを指摘も訂正もできてないからだ。

キーン:

本居宣長などは、純粋のやまとことば、つまり当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことばで、自分の作品を書きましたが、なるべく穢い外来のことばを避けるために、不思議な、まったく不自然な日本語を創作した。

司馬:

あまり日本的なものとしてがんばりすぎると、いやらしいものになる。宣長さんがいやらしいかどうかは別として、あれは不自然なんです。ぼくは…小林秀雄さんにも申し上げてみたのですけれど、…あの文章を読むと生理的な不快感があるのです。

たとえば「玉勝間」というのは、何か細工物を見ているみたいな感じで、心が生き生きとおどってこない。

などと言っている。ここで、いくつか認識に誤りがある。まず、少なくとも玉勝間は、ただの随筆であって、「当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことば」で書かれているわけではない。漢語もたくさん混じっている。もちろん国学者独自のやまとことばによる言い回しも多いけれど、それは国学について書いているわけだから仕方ないことだ。玉勝間には国学とは関係ないほんとに普通の随筆も混ざっている。漢文の公家の日記を延々引用しただけのものもある。おそらくあれは、普段宣長がしゃべっていたのにかなり近い言葉で書いたものだろう。「うひ山ぶみ」「排蘆小船」などの歌論も同様だ。少なくとも私には「細工物」というよりは宣長の「肉声」を感じる。また、日記にはほとんど漢文調のものもある。享和元年日記など。「こまけえことはいいんだよ」レベル以上の事実誤認だ。

当時和歌は極力やまとことばだけで詠まれた。柔らかいやまとことばだけで歌を詠むというのは、ずっと続いてきた伝統であり、その代わり詞書きや題などには漢語が使われる。そういう区別はずっとあった。少なくとも宣長が創作したのではない。また小林秀雄にも申しあげたのだが、などと言っているが、小林秀雄は別段宣長の文章をおかしいとは思わなかっただろう。ドナルド・キーンや司馬遼太郎など、宣長からかなり遠いところに位置する人には、不自然なものに思えるだけではなかろうか。心が生き生きとおどってこない、というのも、結局宣長は偉い学者だと思っているだけで、その歌論にも思想にもまったく関心がないのに違いない。だから、宣長の文章が何か古代の祝詞をむりやり現代に復活させたようなものに思えるのに違いない。むしろ、宣長以外の誰かが書いたへたくそな擬古文の印象のせいなのではないか。たとえば、源氏物語や平家物語などを読んだあとに宣長の文章を読めば、そりゃあ不自然な感じはするでしょうよ。それはだけど仕方ないことだろう。

実際司馬遼太郎は別のところでもしばしば宣長は偉い学者だとは言っているが、では宣長のどこが偉いかとかどこが好きかなどということはまるで言ってない。結局彼は秀吉や龍馬のような人物が好きであり、勝海舟や北条泰時や本居宣長のような人間には関心がないのだ。ただそれだけだと思う。

ドナルド・キーン

ドナルド・キーンという人はまだ存命中の方のようで、88才くらいだろうか。源氏物語か何かを研究して海外に紹介した人、というようなイメージであっているだろうか。「日本人と日本文化」という本で、司馬遼太郎と対談しているのだが、何かずいぶんへんてこなことを書いている。

私は正規に日本史教育を受けた人間ではない。高校では世界史を取った。いわば独学なのだが、それもつい最近、日本外史を精読するようになったから、ついでにいろいろ調べてみているに過ぎない。で、日本史を特に知らなかったころの自分がこの本を読んだら、ふーんなるほどで済ませてしまっていたと思う。なるほど、司馬遼太郎とドナルド・キーンがそういうのならそうなんだろうな、と。しかし、ある程度わかってみて、自分の考えというものが固まってから読んでみるとかなり個性のある、独自の主張、もっというと異様な主張をしているように思えてくるのだ。

特に驚いたのは、足利義政と本居宣長についての評価だ。司馬遼太郎は義政を

法制的には(共和制ローマの)護民官みたいな立場にありながら、まったく政治ということにタッチしなかった

と言っている。また、キーンは

ローマ皇帝のネロが、ローマの燃える炎を見ながら、バイオリンを弾いていたという伝説がありますけれども、これは嘘でしょう。しかし事実として義政公は、花の御所で、いろいろ風流の遊びをし続けていた。そのごく近い所で、多くの人々が死んでいった。

などと言っている。ようするに彼らは、足利将軍をローマ皇帝だか護民官のようなものと比較して、あまりに義政が無為で文弱だった、と言いたいわけだ。しかし私は、もしドナルド・キーンが義政と同じ立場に立たされれば、きっと義政と同じようにやるしかなかっただろうと思う。

足利高氏は逆賊となるよりはと、一族郎党にかつがれて、幕府を作り北朝を立てた。義満の時代に南北朝は解消したが、必ずしも義満に権力が集中したわけではなく、すでに有力守護大名や関東管領らによる合議体に成りつつあった。おそらく南北朝の争乱を通じて将軍家としては、功績のあった諸侯に褒賞として守護職を与え続けるしかなかったのだろう。畠山にしろ細川にしろ山名にしろもとは関東から出てきて足利氏を御輿にして一緒に戦ったわけだが、だんだん足利氏の手に負えなくなった。

ところが足利義教の時、鎌倉公方を滅ぼしたり守護大名の力を押さえたりして、中央集権の強化を図った。義教は足利将軍の中では一番強権的で、帝政ローマの皇帝か共和制の護民官に匹敵したかもしれん。しかし、義教はあんまり調子に乗りすぎたせいで、守護大名の一人の赤松氏に弑されてしまい、赤松氏を討伐した山名氏は赤松氏の領国も合わせてますます強大になった。ここで当時最有力だった細川氏との間で緊張が高まった。

そもそも守護大名らはいくつもの領国を持っていたので、将軍家よりも力を持っていた。山名宗全など赤松氏の領国を合わせて但馬・備後・安芸・伊賀・因幡・伯耆・石見・播磨の八ヶ国の守護職だった。足利氏が独力で細川氏や畠山氏を討伐することなど不可能だし、討伐したらしたで功績のあった大名の領国が増えるだけだ。最悪、赤松氏に殺された義教のように、自分も守護大名に殺されることだってあり得る。そういう状況で義政が大名の家督争いを下手に仲裁しようとしたもんだから、応仁の乱に発展し、日本全土に戦が広まって、長期化してしまった。おそらく、義政にできたことは、荒れ果てた京都において、天皇家や公家らを保護するくらいのことだっただろう。義政は最初はおそらく将軍らしくいろいろな問題を仲裁しようと思ったが、自分にできることがあまりにも少ないので絶望してしまったのだろう。だから早く引退したかったのだが、子供もいないので仕方なく養子を育てることにしたのだが、実子が出来てしまい、正室の日野富子がどうこうということがあって、なかなか将軍職を辞めらなかった。

キーンは、京都に住んで京都大学で研究してたから、京都のことはよく知っていたに違いない。いろんな人からいろいろ義政の話も聞いたのだろうが、義政の極めて一部だけを知って、つまり銀閣寺を建てたとか花の御所で遊び暮らしたとか、そんなことだけをとがめ立てして憤慨しているとしか思えない。

ある意味では気違いだったのでしょうか。

とまで言っている。気違いだとかアスペルガーだとか言ってしまえばもうそれから先は思考停止しかない。

司馬遼太郎はもっとひどい。義政はまったく政治にタッチしなかったのではない。なんとか仲裁し調停しようとはしたのだ。しかし守護大名らは勝手に戦を始めてしまった。軍事力をもたず調整役でしかない将軍が、始まってしまった戦をどうすることができようか。さらに応仁の乱はあまりにも長期的で全国的な争乱だった。おそらくは散発的なものだったのだろう。それで焼け出された民衆を助けるといっても限度があったに違いない。おそらくは、まったくなにもしなかったのではなかろう。やってみたが、焼け石に水だったのだ。それに、民衆を助けるというが、その実態は「足軽」という名のよくわけのわからない民衆たちが、勝手に寺や神社や公家の屋敷などに火を付けて略奪して回った、というのが事実なのではなかろうか。そんな民衆をどうして助けたいと思うだろうか。

なるほど、ドナルド・キーンと言う人が、義政について、よくわからないと。分からないなりに外国人としての視点から指摘をするのはまだ良いが、それについて、きちんと誤りを正す立場にある日本人が、司馬遼太郎のように、

キーンさんは、いわば義政はろくでなしの政治家であるとおっしゃった。まったく言われてみればその通りですが、しかしわれわれは将軍というものに、それほど政治家であることを期待していない。
当時も後世のわれわれも期待してないわけです。

足利将軍家の義政というのは東山文化を生んだたいへん偉大な人物であると、われわれ不覚にも単純に思っていたら、キーンさんはそれを大統領にして、あの「大統領はよくなかった」とおっしゃるからおもしろかった。

などと言ってしまっては、もうどうしようもない。司馬遼太郎の認識では足利義政は銀閣寺はすばらしいくらいでしかなく、そこに外国人から為政者として批判があっても、それにうまく答えられない。そればかりか、無学な北条氏はまじめに政治をやったが、教養人の義政は不真面目だった、要するに学問があるやつは政治にむいてないくらいの、ただの飲み屋の親父が言う程度のことしか言えてない。

思うに北条泰時などは相当なインテリだっただろう。ああいうことはよっぽどきちんと宋学を学んでないとできないはずだ。それに泰時は定家に学んで歌も残している。無学どころではない、きちんと当時の京都の最新の教養を身につけた人だ。始祖の北条時政もずいぶんと利口だった。でなければあんな大それたことはできまい。それがどうして

鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。

などということになるのだろうか。司馬はさらに

どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが、

などとも言っているのだが、ようするに、彼にとって秀吉や義経や龍馬のような、わかりやすい英雄とか、わかりやすい決着が不在の戦争、ごちゃごちゃした始まりも終わりもないようなうやむやな内戦のような戦争は無意味でただ騒ぐだけの戦争に見えるということだろう。そういう認識は間違っていると思う。そしてほんとうに問題なのは、日本人の多数が司馬遼太郎程度にしか応仁の乱を認識していないってことだよな。

なるほど。ドナルド・キーンは足利義政について何冊か本を書いているようだな。まあ、だいたい内容の予測はつくが。

草加

出張で草加まで行く。広々としている。綾瀬川。ほとんど起伏無く真っ平らな、典型的な武蔵野。武蔵野の広さを実感するには、浅草から日光までじっくり東武に乗ってみるとわかるだろう。これが神奈川だと、だいたい川沿いには深い谷ができる。崖にすらなっているが、神奈川の風景とはだいたいが山から川が出てくる谷地ばかりだからだ。草加の綾瀬川などは、周りの土地に何の渓谷も形成していない。つまりここは氾濫原であって、川筋が固定されたのはつい最近のことなわけだ。これだけまったいらで広々したところに首都を作ればどれほど便利だっただろうか。軽くロサンゼルスくらいの規模の街を作れるだろう。だが、江戸時代にはそんなに広大な都市を造ろうという発想はなかったに違いない。

龍馬の手紙・新葉集

[慶応元年9月9日付坂本乙女・おやべ宛](http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%85%B6%E5%BF%9C%E5%85%83%E5%B9%B49%E6%9C%889%E6%97%A5%E4%BB%98%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B9%99%E5%A5%B3%E3%83%BB%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%B9%E5%AE%9B)。
たしかに龍馬の手紙の中に新葉集についての言及がある。

> 是よりおやべどんに申す。
近頃御面倒おん願いに候。どうぞ御聞きこみねんじいり候。

おやべとは龍馬の乳母らしい。乳母に面倒な願いが二つあるという。

> そもそも、わたしがお国におりし頃には、
吉村三太と申すもの、頭のはげた若い衆これあり候。
これが持ち候歌本、新葉集とて南朝 (楠木正成公などの頃、吉野にて出来し歌の本也)
にて出来し本あり。これがほしくて京都にて色々求め候へども、一向手にいらず候間、
かの吉村より御かりもとめなされ、おまへのだんなさんにおんうつさせ、おんねがいなされ、
なにとぞ急におこしくださるべく候。

吉村という若くてはげた男が新葉集という南朝の歌集を持っているのだが、
京都で求めようとしてもなかなか手に入らないので、
吉村から借りて、おまえの夫に筆写するようお願いして、至急送ってくれという、確かにややこしいお願いだ罠。

これに関連して、
2009年6月10日に、日本政策研究センター岡田幹彦主任研究員による
「元気のでる歴史人物講座(23) 坂本龍馬」という記事が産経新聞に掲載されたようだ。
だが、上記手紙の文面から

> 和歌を愛し自ら詠んだ龍馬は新葉和歌集を愛誦した。

とまで言い切れるのか。
そうとう飛躍があるような気がするのだが。

龍馬の歌

けっこうたくさんあるんだな。歴史的仮名遣いに直したりした。

春夜の心にて

世と共に うつれば曇る 春の夜を 朧月とも 人は言ふなれ

月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水

湊川で詠んだものらしい。「月と日の」は謎。日月旗(錦の御旗)の意味か。単に月日、歳月という意味か。菊の下水とは楠木正成の菊水紋を言うか。

憂きことを 独り明しの 旅枕 磯うつ浪も あはれとぞ聞く

明石で詠んだもの。

嵐山 夕べ淋しく 鳴る鐘に こぼれそめてし 木々の紅葉

嵐山。

梅の花 みやこの霜に しぼみけり 伏見の雪は しのぎしものを

伏見で江戸へ出立の時に

又あふと 思ふ心を しるべにて 道なき世にも 出づる旅かな

先日申てあげたかしらん、世の中の事をよめる

さてもよに 似つつもあるか 大井川 くだすいかだの はやき年月

いずれも淀川。

桂小五郎揮毫を需めける時示すとて

ゆく春も 心やすげに 見ゆるかな 花なき里の 夕暮の空

心から のどけくもあるか 野辺はなほ 雪げながらの 春風ぞ吹く

丸くとも 一かどあれや 人心 あまりまろきは ころびやすきぞ

これはちょっと面白い。

奈良崎将作に逢ひし夢見て

面影の 見えつる君が 言の葉を かしくに祭る 今日の尊さ

「かしくに」は「かしこに」か??

父母の霊を祭りて

かぞいろの 魂や来ませと 古里の 雲井の空を 仰ぐ今日哉

蝦夷らが 艦寄するとも 何かあらむ 大和島根の 動くべきかは

常磐山 松の葉もりの 春の月 秋はあはれと 何思ひけむ

世に共に うつれば曇る 春の夜を 朧月とも 人は言ふなれ

土佐で詠む

さよふけて 月をもめでし 賤の男の 庭の小萩の 露を知りけり

泉州名産挽臼

挽き臼の 如くかみしも たがはずば かかる憂き目に 逢ふまじきもの

これは何か。結構面白い歌だな。単なる月並みでも人まねでもない。上司と部下がうまく噛み合って連動すればこのようなつらい目にあうことはないのに、という意味。いろいろ解釈はあるようだが、土佐や長州というよりは、勝海舟の立場を詠んだものではなかろうか。ははあ。ただしくは吉村虎太郎の作という説もあるようだ。なかなか簡単には信用できないね。

藤の花 今をさかりと 咲きつれど 船いそがれて 見返りもせず

「船急がれて」か。これも吉村虎太郎作らしい。

文開く 衣の袖は ぬれにけり 海より深き 君がまごころ

世の人は われをなにとも 言はば言へ わがなすことは われのみぞ知る

春くれて 五月まつ間の ほとどぎす 初音をしのべ 深山べの里

人心 けふやきのふと かわる世に 独り歎きの ます鏡かな

消えやらぬ 思ひのさらに うぢ川の 川瀬にすだく 螢のみかは

みじか夜を あかずも啼きて あかしつる 心かたるな やまほととぎす

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかかる 国の行末

もみぢ葉も 今はとまらぬ 山河に うかぶ錦や おしの毛衣

山里の かけ樋の氷 とけそめて 声打ちかすむ 庭の鶯

道おもふ ただ一筋に ますらをが 世をしすくふと いのりつつゐし

くれ竹の むなしと説る ことのはは 三世のほとけの 母とこそきけ

うーむ。謎は深まった。もっとサンプルがたくさんあるとわかりやすいのだが。

居酒屋ばくまつ (過去ログ置き場です

龍馬の和歌ですが、龍馬が詠んだと伝えられている和歌の数はそれほど多くはありません。現存する短冊や書簡、あるいは関係文書に収録されているもので殆どですが20首前後です。ただ、坂本家は実は歌人一家で代々、玄祖父直益、曽祖父直海、祖母久、父直足、兄直方、姉栄、外曽祖父井上好春、義兄高松順三などなど、詠んだ和歌が遺されており、歌会もしばしば営まれていたようです。この歌人一家の環境の中で龍馬は幼少期より姉乙女の薫陶を受け和歌も学びますが、大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです。

なるほどなあ。

駿府城

たまたま静岡出張で、初めて行くところだったのであちこちぶらぶらした。
なんか典型的な県庁所在地という感じ。
しかし雰囲気は城下町というよりは、門前町の長野に似てる。
一応東海道の宿場町だったはずだが、
旧街道と、浅間神社の表参道が交わるあたりが一番の繁華街だったろうと思われるが、
風俗店はパチンコ屋が二軒くらいしかない。かなりストイックな感じ。
すぐそばに徳川慶喜の隠居跡もあるくらいだし。
慶喜は水戸か江戸に住んでいたはずだが、老後は静岡というのは、
やはり駿府城下が一番徳川家にとって人情的には居心地よかったのだろうか。
旧旗本ごと越してきたからか。
ははあ。なるほど晩年は巣鴨に住んだんだな。
明治天皇に謁見したり勝海舟と会ったのもこの頃だわな。
するとまあやはり静岡に暮らしたのは謹慎・蟄居とかそんな感じだったのだろう。
正室美賀子の歌:

> かくばかりうたて別れをするが路につきぬ名残は富士の白雪

「別れをする」と「駿河」をかけている面白い歌。慶喜が美賀子の三回忌に詠んだ歌:

> なき人を思ひぞ出づるもろともに聞きし昔の山ほととぎす

慶喜の歌を一通り調べてみたい気もするよね。

駿府城はお堀がなんとも立派だった。
三重の堀のうち、内堀はほとんど埋め立てられ、外堀も部分的に埋め立てられていたが、
なんかすごい城だ。
だが家康が晩年住んだ他はあまりメンテナンスもされなかったようだ。

駿府というのは駿河国の国府という意味なのか。
甲府と同じだわな。

浅間神社にも行く。
このような、甲斐を甲府といったり、駿河を駿府と言ったり、浅間をせんげんと読んだりする趣味はあまりすかん。

静岡鉄道にも乗る。

海産物が安いようだ。駿河湾と相模湾はお隣どうしだから、江ノ島や小田原あたりと魚も近いようだが、
こちらの方がずっと安いようだ。金目とかしらすとか。