重婚税

日本の税収を画期的に増やす方法を思いついた。
重婚を許せばよい。
日本は昔から金持ちにはたくさん妾がいた。
倫理的にどうとかは知らん。
性別に限らず、重婚した場合には、たとえば年に500万円くらいの税金をかける。
そうすれば、
年収が2000万円の人は二人の人と結婚できる(実際には、重婚税を取られるから年収が3000万円くらいじゃないと二人目の嫁さんは養えない)。
3000万の人は3人と結婚できる。
その代わり人よりたくさん税金を納めなくてはならない。
一種の富裕税。実に合理的だ。
キリスト教徒でもなくユダヤ教徒でもないのだから、別に何人と結婚しようがかまうまい。

住宅も自分が住む一軒目には税金は軽いが、
投資や娯楽のための二軒目からは重くなる。
それと同じ発想だよ。
たくさんの人と結婚したいと思えば勤労意欲も湧く。
不倫という罪の意識からも解放される。
もしかすると母子家庭などの問題も緩和されるかもしれん。
税収は目的税にしてもよい。
託児所、保育園、幼稚園、母子家庭、少子化などに回せばよい。

おやおや、「重婚税」なる概念は世の中にまだないのかもしれない。
すごく良いアイディアだと思わないか。

夏の歌

拾遺集と後撰集を読み始める。
「よみ人も」とはなんじゃと思ったが、「題知らず」に続けて「よみ人も知らず」という意味なのだな。
古今集に比べて夏の歌が多い。

> 蝉の声聞けばかなしな夏衣薄くや人のならむと思へば

> 今日よりは夏の衣になりぬれど着る人さへは変はらざりけり

なるほどねぇ。

> よそながら思ひしよりも夏の夜の見果てぬ夢ぞはかなかりける

夏の歌というよりは恋の歌って感じだわな。

> 八重むぐらしげき宿には夏虫の声よりほかに問ふ人もなし

> 常もなき夏の草葉に置く露を命とたのむ蝉のはかなさ

> うちはへて音をなきくらす空蝉のむなしき恋も我はするかな

> さみだれのつづける年のながめにはもの思ひあへる我ぞわびしき

> うつせみの声聞くからにものぞ思ふ我もむなしき世にし住まへば

> 人知れずわがしめし野のとこなつは花咲きぬべき時ぞ来にける

> 常夏に思ひそめては人知れぬ心のほどは色に見えなむ

かへし

> 色と言へば濃きも薄きもたのまれずやまとなでしこ散る世なしやは

やまとなでしこは必ずいつかは散ってしまうのだから、薄い色も濃い色もあてにできない。
常夏はやまとなでしこのこと。

> なでしこの花散りがたになりにけり我が待つ秋ぞ近くなるらし

次のは秋の歌だが、なかなか面白い

> 夏衣まだひとへなるうたた寝に心してふけ秋の初風

義経

司馬遼太郎全集をまた読み始める。
「義経」の最初の方に、

> 武家は二流にわかれている。源氏と平家であった。その勢力地図もくっきりしている。源氏は東国に地盤をもって騎馬戦が強く、
平家は西国に地盤をもって、海戦と貿易に長じていた。

というのだが、はて、確かに平清盛は「西国に地盤をもって、海戦と貿易に長じていた」と言えるが、
平治の乱ののちは圧倒的に平氏の天下であって、
東国にも平氏と源氏が割拠しており、源氏が東国に地盤を持っていたとは言い難い。
たとえば頼朝が預けられた伊豆の北条氏も平氏側だし、関東にも平広常などがおり、
頼朝挙兵のときにも大半は平氏側だった。
明らかにおかしな記述だ。
まあそんなことにいちいち目くじらを立てるまでもないのかもしれんが。
しかし、頼朝が源氏の地盤の関東で挙兵したから簡単にことが成った、と思われては困るのだ。

しちすつの濁音のこと

司馬遼太郎が「歴史を紀行する」に

> 坂本竜馬は生涯、どの土地のたれに会ったときでもまる出しの土佐弁で押し通したという。
おかしければ本居宣長の「玉勝間」を読め、というところであろう。
そこでは土佐人の発音の正確さについてほめて書かれているのである。

とあるのだが、これは玉勝間に

> 土佐の国の言には、「し」と「ち」と、「す」と「つ」の濁り声、おのづからよく分かれて、まがふことなし。
さればわづかにいろはもじを書くほどの童といへども、この仮字をば、書き誤ることなしと、かの国人かたれり

とある。
別に褒めているというほどではなく、土佐人から伝え聞いたという程度のことだろう。
まして「土佐弁こそ日本語」などと主張しているわけではない。
もし古典文法を比較的正確に残しているものを「日本語」と言うのであれば、
九州弁などには下二段活用が完全に残っている。
高校で古文の教師が下二段活用を教えながら、自分たちの普段話している方言がまさに下二段活用であることにまるで気が付いてない。
まあそれが高校教育の限界というものだろうが。

たとえば、九州弁で「おじいさんが死なした」と言う。「死ぬ」の未然形「死な」に尊敬の助動詞「す」の連用形「し」がついて、
過去の助動詞「た」がついて「死なした」となっているのだが、
こういうことを古文の時間に教えてくれる教師がどれほどいるだろうか。

たとえば、「ら」抜き言葉というのがある。
「行かれる」「来られる」を「行ける」「来れる」という。
しかし九州弁では
「行かる」「来らる」と言う。
古文のラ変活用そのままである。

人の出去りし跡を掃くことを忌むこと

玉勝間というのは、徒然草に匹敵するものだと思うのだが、あまり古典として高校教育などで読むことはないのだが、
その玉勝間に

> 人が出でゆきしあとを掃くことを忌むは、葬の出でぬる跡を掃くわざのある故なり

とある。人を追い払ったあとで塩をまくというのもあるが、同じことだろう。
立ち食いする、一本箸で食べるなども葬式の習俗らしい。
ご飯に味噌汁をかけて食うのも葬式の風習ではなかろうか。
古くは葬式でご飯に味噌汁をかけて一本箸で立ったまま(急いで)食べたという。
このようにただ単に行儀が悪いとかみっともないと言って忌み嫌っているものの多くは葬式に由来しているように思う。

椿三十郎

おもちゃの刀をいじっていてふと気づいたのだが、
椿三十郎の最後の立ち会いの場面で、
三船敏郎は、左手で左にさした刀を外側に向かって抜き、
右手を左手と刀の間に入れて、
右手で刀の背を押し出すようにして、相手の右脇腹を押し切りしている。

ということは、刀を最初から、刃が下になるように挿していたということになる。
刃が上向きならば自分の右手が斬れてしまう。
通常、刀は刃が上になるように挿す。
剣道でも竹刀には上下の区別がある。目印として上に弦が張ってある。
左腰に竹刀を持つときには弦を下にする。
竹刀を抜いて構えると、弦は上にくる。

鞘に収めたとき刃が痛まないように、刃を上向きにしているのだと、そのように納得していたのだが、
古くは刃を下向きにしていた。
というのは、やはり、刀が湾曲している場合、刃を下に向けた方が安定するわけだよ。
刃が痛むというのは誤差の範囲だと思う。
刃を上向きにしたのはやはり居合抜きなどの理由で、振りかぶったときにすぐに敵を切れるには、
刃を上向きにしておかねばならないからだ。
或いは、左から右へなで切りにするには、刃を外向きにしなくてはならない。
しかし、上向きから左向きに刀を回すのはそれほど困難ではない。

しかし、椿三十郎の立ち会いでは、最初から、刃を下向きにしていたと考えざるを得ない。
わざわざ刀を抜くとき刀を180度回転させてから抜くだろうか。
いやいやあの一瞬の勝負でその時間的余裕はない。

思うに、椿三十郎の立ち会いは、西部劇の一対一の決闘のシーンなどに影響されたものだと思う。
黒澤明が一方的に西部劇に影響を与えたのでなく、黒澤明もやはり西部劇から影響を受けているのだ。
一発の銃撃で勝敗が決まるというのは、レボルバーが開発される前の話ではないか。
単発しか拳銃が撃てなければ二丁拳銃の方が有利だっただろう。
何発でも撃てるレボルバーの方が絶対有利に違いない。
しかし、椿三十郎では、一発で決着を付けるシーンがとりたかったのだ。
だからあんなに近い間合いで抜き打ちの勝負となったのだが、
ああいう立ち会いはそもそも日本にはもともとあり得なかったと思う。
一対一の勝負というものはあっただろうが、そもそも居合抜きというのは不意打ちで敵をたおす技であり、
お互い立ち会うつもりで、
ああいう形で刀を抜かずに最初から間合いに入って向かい合うということは、まずなかっただろう。
剣道の試合の形からしても全然違う。

で、問題なのは、三船敏郎は、最初からああいう近間の抜き打ちの決闘を想定していて、
最初から刃を下に向けていたのかということだが、状況的にはあり得ないことだ。
もしかするともっと遠間で立ち会うことになったかもしれん。

刃を下に向けて他方の手を添えてすばやく斬るというのは、たしかにカムイ伝などの忍者の斬り方に似ているかもしれん。
片手で抜いて片手で素早く斬るわけだが、それでは力が入らないから、もう一方の手を添えて押し斬りにするわけだ。

もう一度コマ送りで確かめてみないとわからんが、もしかすると、刀を抜くとき、
左手で180度刀を回してから抜いたのかもしれん。
ちと考えにくいが。