残暑

はっきり言ってどうでもよいことなのだが、立秋というのは、太陽の運行によって決まるから、旧暦でも新暦でも関係がない。
江戸時代でも現代日本でも、だいたい今の暑さの頃合いに立秋というものが来る。
なぜこうなるのか。
ということを調べてみると要するに、夏至と冬至、春分と秋分が先に決まって、それを春夏秋冬に切り分けていくと、
太陽暦で言う八月上旬が秋のはじめ、つまりは立秋になるというわけらしい。
つまり、夏至を夏の真ん中だと決めてしまうことに問題がある罠。夏至は六月下旬。
初夏ではあるが、真夏ではない、断じて。

それで、年賀というのは、昔は正月に人のうちを訪問することだったのに違いないが、
直接訪問できないので代わりに年賀状というものを出すようになり、
それが明治以来の郵便制度によってまるで国民全員の年中行事のようになってしまった。
日本人は盆と正月に家族で集まったり物を贈ったりするから、
おそらく暑中見舞いのルーツはお盆に親類縁者を訪問することだったのだろう。
で、年賀状との類比で暑中見舞いというものが始まった。
ところが、立秋を過ぎると秋だというのでなんか具合が悪いから、残暑見舞いというものを出すようになった、のではないか。
江戸や明治の頃から続く伝統であるはずがない。
も少し疑問に思ったほうが良いとおもうよ。

しかし、八月中旬以降が残暑だというのはおかしい。
この頃がまさに暑さの盛りであり、九月に入ったころにときどき夏の暑さが戻ったような日を残暑というべきではないか。

ていうか、江戸時代に完成した太陰太陽暦と明治以降の西洋暦、それから、いろいろな慣習や流行によって、
ぐちゃぐちゃになってしまった今日の日本の季節感というものを、一度きちんと直さなきゃならんのではないか、と思っているのは私だけではあるまい。

平八郎と山陽

見延典子『頼山陽』によれば、山陽が大塩平八郎に初めて会ったのは、
文政7(1824)年3月6日、平八郎の八幡町にある役宅を訪れる。同じ年、9月5日にも再び大阪へ行き、
先に平八郎に見せられた「霜渚蘆雁図」という掛け軸を所望して、もらっている。
1827年9月20日、大阪で菅茶山の杖を盗難にあった山陽は町奉行所に平八郎を尋ねる。
京都に帰って数日後、平八郎は杖を探しだして山陽に届ける。
1830年9月下旬、平八郎は与力を辞職。尾張へ向かう途上京都の山陽を訪ね、刀を贈る。
1832年4月、大阪で平八郎と会う。

およそ直接会ったのはこのくらいしかないようだ。

水西荘

頼山陽が香川景樹といつ知り合い、どのように交際をしていたか、いまいちわからない。
香川景樹は1768年生まれ、頼山陽は1781年生まれだから、景樹のほうが13歳も年上である。
しかも、景樹は山陽の母・梅颸の和歌の師匠であるから、山陽と景樹は、文人どうしの親友というよりも、
景樹のほうが山陽から敬われていたか、
あるいは、
山陽が景樹から可愛がられていた、と考えたほうがあたっているに違いない。
対等の付き合いというのではないと思う。

景樹は1830年に『桂園一枝』を出版したときにはすでに一門をなしており、
山陽が世間に認められたのは、『日本外史』が刊行された1829年以後のはず。
どちらも当時すでに京都文壇の有名人だった。

文政2(1819)年8月24日、梅颸は初めて京都に来て、山陽の手配により、山陽自宅で師・景樹と対面する。
広島に住む梅颸と京都に住む景樹とは、師弟の関係といえど、直接会うのはこのときが初めてである。
山陽が京都に住むのは、寛政12(1800)9月、脱藩上洛した一時期と、
文化8(1811)年以後である。
1811年から1819年までの間に、すでに山陽と景樹が出会っている可能性もなくはないのだが、
今のところ私はそのような記述を探しだすことができない。
母を師匠に会わせるため初めて景樹と接触を持ち、それから親しく交際するようになったというのも不自然ではない。

文政7年(1824) 8月16日、
「頼襄が三本木の水楼につどひて、かたらひ更かしてしてよめる」と詞書があって、景樹が詠んだ歌二首

すむ月に水のこころもかよふらし高くなりゆく波の音かな
白雲にわが山陰はうづもれぬかへるさ送れ秋のよの月

山陽が京都で初めて住んだ借家は新町通丸太町上ル春日町。
それから車屋町御池上ル西側、二条高倉東入ル北側(古香書院)、木屋町二条下ル(山紫水明処、柴屋長次郎方川座敷)、両替町押小路上ル東側春木町(薔薇園)。
ずいぶん頻繁に引越ししている。引越しが好きだったのだろう。
それから東三本木の水西荘。文政5(1822)年に転居。この最後の家は土地は借り物で家だけを購入、死ぬまで住んだ。
三本木というのは、今の京都御所の南隣でかつては山陽もよく通う歓楽街だったらしい。
しかし東三本木というのは、御所の東で、今の京都大学の鴨川挟んで対岸あたり。
ちなみに景樹の家は白河にあったという。よくわからんが、祇園の奥、東山、鹿ヶ谷あたりか。

水西荘に移り住んで、文政3年正月に作った「新居」と題する詩がある。

新居逢元日 新居元旦に逢ふ
推戸晴㬢明 戸を推せば晴㬢(せいぎ)明らかなり
階下浅水流 階下に浅水流れ
涓涓已春声 涓涓として已に春声
臨流洗我研 流れに臨んで我が研(すずり)を洗えば
研紫映山青 研の紫、山の青に映ゆ
地僻少賀客 地は僻にして、賀客少なく
自喜省送迎 自ら送迎を省くを喜ぶ
棲息有如此 棲息此の如き有り
足以愜素情 以て素情に愜(かな)ふに足る
所恨唯一母 恨む所は唯一母
迎養志未成 迎へ養ふ志、未だ成らず
安得共此酒 いずくんぞこの酒を共にし
慈顔一咲傾 慈顔一咲して傾くるを得ん
磨墨作郷書 墨を磨(けず)りて郷書を作れば
酔字易縦横 酔字、縦横なり易し

※晴㬢 「㬢」は太陽の色、日の光。
※酔字易縦横 酔っぱらっているので、字がふらつくの意。

頼山陽は新居で毎朝、鴨川から硯の水を取り、また、夕方には鴨川の流れで硯を洗い、弟子たちにもそれを勧めたそうだ。
土地は143坪。現代の普通の都会の宅地の5倍くらいはあるな。
ここに書生部屋などを増築したという。
「地僻少賀客」とあるが、当時は京都の町外れだったのかもしれん。

喀血歌

見延典子『頼山陽』を読んでいると、天保元(1830)年、

> 正月早々香川景樹から届いた薩摩の牛肉を食べると、

などと書かれていて、これははて、書簡や日記などにそのような記録が残っているということだろうか。
同じ年、7月、広島に帰省していた間に京都で地震があり、「郵便得京報」うんぬんという長い詩を作っている。
この「郵便」という単語は、日本国語大辞典によれば、どうもこれが初出らしい。
明治になって、山陽の詩を知る人が post の翻訳に採用したのだろうか。
郵便制度を創始したのは前島密とあるが。

同じ頃、山陽は体調を崩し、広島藩の医者、中村元亮に労咳の疑いがあると、診断されている。
満49歳。

同じ頃、大塩平八郎は、大阪町奉行を辞職、遠縁の格之助(塾生の一人だったらしい)を養子として迎え、
跡継ぎとし。
尾張の先祖に報告の墓参に行く途上、山陽をもとを訪れる。
平八郎は山陽に刀を贈り、山陽は「吾書三十余万字 博得君家両尺鉄」うんぬんという詩をのこしている。
「君家」とあるから、家宝だったのだろう。
ところで、両尺、九寸というから、脇差ではなくいわゆる本差、武士が携帯する本物の刀かとも思うが、
見延典子の記述によれば「脇差し刀」であるという。
九寸未満の刀を長脇差と言って博徒などの武士以外の人間が差していたはずである。
九寸あったのかどうか、微妙なところだ。
また「大塩子起の尾張へ適くを送るの序」というものを書いて平八郎に贈っている。

また、平八郎には本妻はなくて、「妻同様のつきあいの妾ゆう」が居たと書いている。
妾であれば嫡子がなくて養子をもらってもおかしくない。
また平八郎は与力を辞職した後の、いわゆる大塩平八郎の乱(1837)に先立って、ゆうを離縁したのではなく、
与力として弓削新右衛門事件などに当たるときにすでに離縁していたという。
また、弓削事件のとき、ゆうは薙髪しただけだという記述もあるようだ。
いずれにせよ、なぜ普通に結婚しなかったのか不思議なところだ。

天保3(1832)年4月、
詩集出版のために大阪へ。このとき大塩平八郎と会い、
平八郎の著作『古本大学刮目』『洗心堂箚記』などを読む。

同年6月12日に初めて喀血、16日まで続く。
すでに禁煙していたが、禁酒を命じられる。
27日、再び喀血。
7月下旬、「結核を患い、戯れに歌を作る」と題する詩を作る。

吾有一腔血 吾に一腔の血有り
其色正赤其性熱 その色は正に赤く、その性は熱し
不能瀝之明主前 これを明主の前に瀝(そそ)ぎ
赤光凛向廟堂徹 赤光凛として廟堂に向かひ徹するあたはず
亦不能濺之国家難 またこれを国家の難に濺(そそ)ぎ
留痕大地碧弗滅 大地に痕を留めて碧、滅せざるあたはず
鬱積徒成磊塊凝 鬱積し、徒に磊塊の凝るをなす
欲吐不吐中逾熱 吐かんとして吐かず、中いよいよ熱し
一旦喀出学李賀 一旦喀出して李賀を学びても
難収糝地紅玉屑 糝地の紅玉屑は収め難し
或曰先生閲史遭姦雄逭天罰 或る人曰く、先生史を閲し姦雄の天罰を逭(のが)るるに遭へば、
睢陽之歯輒嚼齧 睢陽の歯、すなはち嚼齧(しゃくげつ)し
渠無寸傷己自残 渠(かれ)に寸も傷無く、おのれ自ら残(そこな)ひ
憤懣遂致肺肝裂 憤懣遂に肺肝の裂くるに到る
或曰先生殺人手無銕 或る人曰く、先生人を殺すに手に銕(てつ)無く、
発奸擿伏由筆舌 奸を発(あば)き、伏を擿(あば)くに筆舌に由(よ)り、
以心誅心人不知 心を以て心を誅し、人知らず、
霊台冥冥瀦陰血 霊台は冥冥として、陰血瀦(たま)る
吾聞此語両未頷 吾れ此の語を聞けど、両つともに未だ頷かず
童子進曰走意別 童子進みて曰く、走意は別
先生肉中本無血 先生肉中本(もと)血無し
腹中奇字僅可剟 腹中の奇字、わずかに剟(けづ)るべし
賺得杜康争戴酒 杜康を賺(だま)し得て、争ひて酒を戴き
剣菱如剣岳雪雪 剣菱は剣の如く、岳雪は雪、
大福蔵府受不起 大福の蔵府、受けて起たず
溢為赤漦戒饕餮 溢れて赤漦をなし、饕餮(とうてつ)を戒しむ
咄哉此意愼勿説 咄かな、此の意、愼んで説くなかれ

※霊台 魂のある所。心。
※杜康 中国神話の酒の神。転じて杜氏。
※赤漦 赤い体液
※饕餮 なんでも食べる中国神話の猛獣。転じて暴飲暴食。

剣菱の杜氏に、もう酒が飲めなくなったと贈った詩であるという。
弟子が言う、
「遭姦雄逭天罰 嚼齧 己自残 憤懣遂致肺肝裂」とは、歴史書に悪人が天罰を受けない箇所を読むと歯がみして自ら傷つけ、
その憤懣で遂に肺や肝臓が裂けてしまった」のだろうと。
また、「発奸擿伏由筆舌 以心誅心人不知 霊台冥冥瀦陰血」とは、
歴史上の悪事を筆舌によって曝いているうちに、知らず知らずに胸に血が貯まってしまった」のだろうと。

8月18日、大量の喀血、23日、同じく喀血。
9月23日(1832年10月16日)死去。
平八郎曰く、

> その秋、山陽の血を吐き、而して、病きわまれるを聞き、われ洛に入りて以てその家に到れば即ちその日すでに易簀(えきさく、賢人が死ぬこと)せり。大哭して帰り、夢の如く幻の如く、往時を追思す。先に山陽の余を訪れ、觴酒せし際、その情の繾綣(けんけん、ねんごろ、つきまとってはなれないこと)たりしこと、それ永訣の兆しなりしか。嗚呼、痛ましきかな。悲しきかな。今、山陽をして命を延きてあらしめ、而して箚記両巻を尽くさしめなば、即ち彼に益するのみならず、必ず吾にも益せんもの。蓋し、亦少なからざらん。おもふにこれ余が一生涯の遺憾たるのみ。

[幸田成友『大塩平八郎』](http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/koda1-18.htm)に、大塩平八郎の業績の六番目として、

> 頼山陽が紛失した菅茶山手沢の杖を数十日内に捜出し、山陽の其術を問ふや階前は万里なり、阪府の所管僅に方数拾里、其内在る所の物は繊芥の微と雖もわが眼底を逃れずと答へた

とある。

裏柳生口伝

小池一夫原作の漫画「子連れ狼」(1970-1976)には主人公・拝一刀の

> 仏に逢うては仏を殺し、父母に逢うてはこれを殺し、祖に逢うては祖を殺し、
しかして、何の感情も抱かぬ、無字の境地に至れぬものか!

というセリフがある。
[こちらのサイト](http://d.hatena.ne.jp/terasawa_hawk/20140326/p1)
にはその英訳も掲載されている。

> Meet the Buddha, kill the Buddha. Meet your parents, kill your parents.
Meet your ancestors, kill your ancestors.

などと訳されているのがわかる。
映画「子連れ狼」(1972-1974)にも同様のセリフが出る
[いくらおにぎりブログ](http://blog.goo.ne.jp/langberg/e/4e9d5f60ed92ce18d1d6821a912e2a63)。

> 阿弥陀如来に申し上げる。我ら親子、六道四生順逆の境に立つもの。父母に会うては父母を殺し、仏に会うては仏を殺す。喝!

深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』(1978年)では、柳生宗矩役の萬屋錦之介が

> 親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す。

と言い、同年テレビドラマ版『柳生一族の陰謀』では、柳生十兵衛役千葉真一の冒頭のナレーションで、

> 裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、
神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、
然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、
豈に遅れを取る可けんや。

とある。
テレビドラマで「親に会うては親を殺し」は刺激が強すぎるのかもしれん。
「神に逢うては神を斬り」はこれが初出か。
いかにも日本的な言い回しではある。

『魔界転生』(1981年)では

> 神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。

という言い回しがあり、『キル・ビル』ではやはり千葉真一がハットリハンゾウ役で

> 自惚れではなく、これは私の最高傑作。
旅の途上で、神が立ちはだかれば、神をも斬れるであろう。

などと言っている。これの源流は、臨済宗の祖、臨済の言葉を記した『臨済録』の中に出てくる以下のくだりであると思われる。

> 爾、如法の見解を得んと欲せば、但、人惑を受くること莫れ。
裏に向かい、外に向かひて、逢著せば、便(すなは)ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、
父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん・親族)に逢うては親眷を殺して、
始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。

[道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。](http://ja.wikiquote.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E7%BE%A9%E7%8E%84)

臨済という人はずいぶん過激な人だったようだが、禅宗由来と言われればたしかにそんな気がしてくる。

> 戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。

ここは深作欣二のオリジナルらしいが、孫子の兵法[形篇](http://kanbun.info/shibu02/sonshi04.html)

> 勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝。

「勝兵は先づ勝ちて而る後に戦ひを求め、敗兵は先づ戦ひて而る後に勝ちを求む」
が出どころであろう。

ところで頼山陽には「兵児の謡」という詩があって、前後に分かれているが、その前半は

> 衣至骭 袖至腕

腰間秋水鉄可断

人触斬人 馬触斬馬

十八結交健児社

北客能来何以酬

弾丸硝薬是膳羞

客猶不属饜 好以宝刀加渠頭

> 衣は骭(すね)に至り 袖腕に至る

腰間の秋水 鉄断つ可し

人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を斬る

十八交を結ぶ健児の社

北客能く来らば何を以って酬いん

弾丸硝薬是れ膳羞

客猶ほ属饜(しょくえん)せずんば 好(かう)するに宝刀を以て渠(かれ)が頭に加えん

※秋水 よく切れる剣。日本刀の美称

※健児の社 薩摩藩が青年藩士のために設けた教育機関。

※膳羞 ごちそう

※属饜 飽きる

薩摩男子は、裾は脛まで、袖は腕までの短い粗末な服装だが、
腰に差した剣は鉄も切れるほどに鋭利である。
立ち向かってくるものがあれば、人だろうと馬だろうと何でもかまわず斬る。
十八歳になると健児の社に加わって同志と交わる。
薩摩の北から客が訪れれば、何をもって応対しようか。
弾丸や硝薬、これごちそう。
客がそれでも飽き足りないときには、頭に宝刀を加えて引き出物としよう。

ここで、人でも馬でも斬る、という形になっている。もともと薩摩の民謡を漢詩に翻案したもので、そのオリジナルは

> 裾は脛まで 袖は腕 腰の剣は鉄も断つ

人が触れば 人を斬り 馬が触れば 馬を斬る

若さを誓ふ 兵児仲間

> 肥後の加藤が来るならば 煙硝(えんしょう)肴に弾丸(たま)会釈

それでお客に足らぬなら 首に刀の引き出物

というようなものであったらしい。

「兵児の謡」の後半は、しかし、

> 蕉衫如雪不愛塵

長袖緩帯学都人

怪来健児語音好

一操南音官長瞋

蜂黄落 蝶粉褪

倡優巧 鉄剣鈍

以馬換妾髀生肉

眉斧解剖壮士腹

> 蕉衫雪の如く塵をとどめず

長袖緩帯都人を学ぶ

怪しみ来る健児語音の好きを

一たび南音を操れば官長瞋る

蜂黄落ち蝶粉褪す

倡優巧みにして鉄剣鈍し

馬を以て妾に換え髀肉を生ず

眉斧解剖す壮士の腹

※蕉衫 芭蕉布の服

※蜂黄落蝶粉褪 蜂の黄色い色は落ち、蝶の粉は色褪せてしまった。女色に退廃したようす。

※倡優 芸能

※眉斧 美人

衣服は真っ白で一点のちりも無く、
袖は長く、帯は緩く、都人の流行を真似ている。
健児らの言葉遣いも都びていて、
薩摩弁で話しかけると官長が怒り出すしまつ。
女色に溺れ、芸事は旨くなったが鉄剣は鈍い。
馬を妾に換えて股に贅肉が付く。
美人が壮士の腹を割いてしまった。

頼山陽は1818年、37歳頃に九州各地を漫遊している。
長崎から雲仙、熊本、薩摩と移動したようだ。
諸国を観察して、詩を作ったり、それを揮毫して小遣い稼ぎしたり、歴史を学んだりしたかったのだろう。
「肥後の加藤」とは清正のことだろうから、
秀吉の時代の歌であったのが、山陽が薩摩を訪れた江戸半ばすぎには、
島津家中の武士ですら、贅沢に馴れていた、というふうに鑑賞すべきである。

時に薩摩藩は島津重豪の時代で、開明的だが浪費家で、死後大赤字を残したことで有名だ。[鎌倉宮の謎](/?p=2323)参照。

小説も書いてます。
是非お読みください。
[人斬り鉤月斎](http://ncode.syosetu.com/n1097ch/1/)

癸丑歳 偶作

十有三春秋   十有三春秋
逝者已如水   逝く者は已に水の如し
天地無始終   天地始終なく
人生有生死   人生生死あり
安得類古人   安んぞ古人に類して
千載列青史   千載青史に列するを得ん

癸丑歳とは寛政5年、1793年のことであり、
安永9年12月27日(1781年1月21日)生まれの頼山陽が、満で言えば12才の時の作であると推測される。
数えでは14才。
その最初の形は安藤英雄『頼山陽詩集』によれば、

十有三春秋 春秋去若水
何時吾志成 千古列青史

という五言絶句であるという。
あまり面影がないよなあ。
ていうか全然違う詩だよな、ここまでいじってしまうと。

私が初めてこの詩に出会ったのは、中学三年生の時、中学校の図書館で、内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んだときだった。
私は最初、内村鑑三を通して頼山陽という人を理解し、彼と同じ気持ちで、
日清戦争前夜の日本人の気持ちで、山陽の詩に感動したのだった。
戦後民主主義は頼山陽を完全に否定し、子供の目に付かないように隠蔽していた。
今でも或る意味ではそうだ。
内村鑑三は反戦主義者だったから戦後も生き残った。
その内村鑑三を通さなくては、私は頼山陽に出会うこともなかったわけで、
内村鑑三はたまにしか読まないが、頼山陽は未だに良く読んでいるので、実に不思議な偶然とも言える。

岩波文庫には、頼山陽の著作に『日本外史』と『頼山陽詩抄』があって、
頼山陽が1781年生まれのために、生誕200年というので、『日本外史』も再版となって、だいたい1980年代からしばらくは入手が容易だったのだけど、
今では絶版となって、なかなか手に入らない。
もちろんアマゾンなどで中古で手に入らないこともないが、やや割高である。
それに比べると、『頼山陽詩抄』の方は、戦前の復刻版であるのに、未だ絶版ではなくて、
普通に書店で買うことができる。
というのは、つまり、頼山陽の詩は詩吟などで参照され、細く長く人気があるのかもしれん。

山陽は杜甫や陶淵明を好んだという。

『頼山陽詩抄』の編者の一人である頼成一は、頼山陽から数えて五代目、
『日本外史』編者の一人である頼惟勤は六代目に当たり、1999年没、お茶の水女子大学名誉教授、と見延典子『頼山陽にピアス』にある。

雇用の未来

某所に書いたことをこちらにも当たりさわりのない程度に書いてみようと想うのだが、
某ニュースによれば、今や就職戦線においては、生保や損保などが一番採用実績がよいとのこと。
おそらく「文系新卒」にとって高給・好待遇だということだろう。

生保や損保などはいずれもほとんど内需。
また、少子化の影響を、あたりまえだが受けにくい。というより、高齢化が進み団塊世代が大量に離職している今こそ、人材を大量に必要としている業界だということだ。
こういうところが新卒の最後の砦、最後の避難場所になっている、ということだろう。

逆に言えば、生保・損保は古き良き時代の旧態依然とした、新卒採用・年功序列の業態を残す最後の業界だということだろう。
生保・損保が業界内で転職したり、経験者を中途採用するなどというのはちと考えにくい。

世の中は、これから経験者の中途採用か契約社員の世界に移行していくだろう。
芸術系は昔からそうであり、理工系もそうなりつつあるのではないか。

電機メーカーはこれまで無駄に社員を抱え込んできた。
それにはいろんな理由があろう。
戦後、雇用を創出しようという社会正義的な意味もあっただろう。
会社が大きければ大きいほど競争力や影響力を持ちうるというスケールメリットもあっただろう。
社員やその知り合い、工場のある地域社会が、お得意さんとして直接的に消費を支えてくれるということもあったに違いない。

かつて会社や地方自治体は、単純労働から高度な知的労働まで、さまざまな職種を必要とし、雇用した。
さまざまな知的水準・教育レベルの人材を正社員として採用しても特に問題がなかった。
バブルの頃は単純労働の方が知的労働より儲かることが多かった。
スナックの一番良い席をドカチンが占領していたように。
しかし、今は、単純労働はいくらでも海外に発注したり移転したりできる。その方がずっと安くなる。
公共事業も無くなった。
国民全員に高度な教育を施して、単純労働を極力無くしていく、というのは、かなり無理がある。
必ず脱落者が出る。
日本のような先進国にもかつてそんな時代はなかった。
いや、いかなる国にもそんな時代はなかった。

電機メーカーは高度な技術力を持っていれば、正社員などそもそもそんなたくさんは必要ない。
正社員は少数精鋭。工場や労働者、市場は世界中に散らばっていて、社員は技術の他語学堪能で海外勤務が当たり前。
新卒は、必要ではあるが、以前ほどは採らない、要らない、ほんとに優秀な社員が少しいればよいということになる。
電機メーカーはエンジニアを中心とする本来あるべき姿に向かいつつあるだけだ。

生産者と消費者の間の中間的労働集約的職種は合理化、自由化、IT化の結果どんどん要らなくなる。
誰もがネットを通じて海外から直接個人輸入するようになれば商社も卸も小売も要らなくなる。
マスとしての消費者のために、ある種の専門家が代理で物品や情報を整理流通してやって、
その情報を参考にして消費するという形が崩壊しつつある。
その中間部分にこそ、これまで多くの新卒文系、つまりサラリーマンの雇用があったのだ。
人間と人間がヴァーチャルな世界を介在させずに直接商品やサービスを売り買いしていた。
当たり前のようだがこれからはそれは当たり前ではない。
これからは皆がサラリーマンではなく、生産者にならなければ食っていけない。

生保は今たまたま景気が良いだけだ。
20代前半で新卒だからと就職してもあと20年もすれば生保最大のお得意様の団塊の世代は急速に死に絶えていくから、生保にも冬の時代がくるだろう。そのときただ単に新卒だからと就職した連中はつぶしがきかず転職もできず、ひどい目にあうのに違いない。

これまでやたらと新卒を粗製濫造してきた大学、特に文系学部は、あと10年か20年後に、団塊の世代を顧客とする生保のような受け皿もなくなると、大打撃を受けるだろう。今の就職難はその序章に過ぎない。
誰もが自分の父親や母親のあとを追いかけていくが、そこ(いわゆるサラリーマン)にはもはや雇用は存在していない。
もっと違う人生を、早めに選択しておかないと、たいへんなことになる。
景気が良くなってももはや単なる新卒の就職が回復することはないのに違いない。

BNP

BNP は Wikipedia には、
[脳性ナトリウム利尿ペプチド](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E6%80%A7%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E5%88%A9%E5%B0%BF%E3%83%9A%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%89)
として出てくる。主に心室の心筋で合成される神経ホルモンの一種。
現在では B型ナトリウム利尿ペプチドとも言い、他に A型や C型があるそうだ。

ええっとちとまとめがてらに書いておくと、
私の症状は、典型的な鬱血性心不全というものだった。
体中に水が貯まるするので、利尿剤で水を排出しなくてはならない。

7月5日に入院して、7日に転院、17日に退院、23日に最初の外来、8月6日に、二度目の外来。
で、BNP が入院時には 1000 くらいあったのが、
23日には 500 くらいになり、
6日には 350 くらいになったらしい。
血液検査だけでわかる心不全のマーカーらしいのだが、
とりあえずこの値が 100 を切らなくちゃならんらしい。

回復しつつあるのか。
それとも、薬で症状を抑えている状態なのか。
よくわからん。

γ-GTP は 118 まで下がったが、まだ今年以前の値にも達してない。
例年は50から100の間くらい。

ましかし、薬を飲んで酒をやめていれば、とりあえず普通に暮らせるらしい。

ていうか、40才になったのもショックではあったが、
もう少し経てば 50才になってしまう。初老だよな初老。ていうか人生五十年って歌っちゃう年だよな。
そのうち定年退職だよ。ははっ。体もいろいろ故障が出てくる罠。

唐詩選

唐代の詩は古いものではあるが、
『唐詩選』自体は明末に誰が作ったとも知れずに成立したものである。
『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』などと同じようなもんだ。
それが日本に入ってきて、訓点をつけて出版されたのは、江戸中期。
日本人が知っている漢詩というのは、そのほとんどが『唐詩選』由来であるから、
漢詩の読み下しというものの歴史は、せいぜい江戸時代までしかさかのぼれないということになる。
その日本版『唐詩選』を出版したのは荻生徂徠の弟子で服部南郭という絵師。
訓点は徂徠に基づくのかもしれん。

で、その訓点にはかなりおかしなものがあると思う。
訓点などは、後世に直すべきものは直し、常に新たに翻訳し直すべきものだと思うのだが、
どうもこの最初に徂徠によってつけられた訓点を後生大事にありがたがっているふうがある。

さて、日本人の漢詩は和臭がして、美しいが吟じ難い、などと言われる。
日本人は会話言葉としての中国語を知らないから、四声や平仄、押韻などが直感的には理解しがたい。
しかし、押韻や平仄などが厳密に守られた詩というのは案外無い、
そんな完璧主義者はあまりいないものであり、
ただそれだけで「難吟」「和臭」などと非難されるのであろうか、という疑問があった。

で、思うのだが、訓点や読み下しがけっこうでたらめなせいで、
日本人はそれに引きずられて、おかしな漢詩を作ってしまうのではなかろうか。
それを元の漢文の「二・二」とか「二・三」とか「二・二・三」というリズムで読もうとしても読めない。
「難吟」という以前に「不能吟」というぺきだ。
俳句が五七五になっておらず、和歌が五七五七七になってないようなものである。

たとえば『大鏡』にも載っている話だが、白居易が

遺愛寺鐘欹聴枕 香炉峰雪撥簾看

と歌った。「遺愛寺」「香炉峰」はそれぞれ固有名詞なので、三字一区切りが自然だが、
しかしこれは、「遺愛」「寺鐘」「欹聴枕」「香炉」「峰雪」「撥簾看」と区切って歌うことが可能。
このような例は他にもちらほらある。「峨眉山月」とか。
だが、菅原道真の

都府樓纔看瓦色 観音寺只聴鐘聲

これは残念ながら、
「都府樓」「纔看」「瓦色」「観音寺」「只聴」「鐘聲」と切って吟じるしかない。
「都府」「樓纔」「看瓦色」「観音」「寺只」「聴鐘聲」とは切りがたいのだ。
かの天神様でもこんな具合であるし、日本人の誰一人としてこの詩が「和臭」である、と指摘した人はいないのではなかろうか。

他にも気になったのは、王維の「酌酒与裴迪(酒を酌みて裴迪に与ふ)」だが、

酌酒与君君自寛  酒を酌みて君に与ふ 君自ら寛うせよ
人情翻覆似波瀾  人情の翻覆 波瀾に似たり
白首相知猶按剣  白首の相知も猶ほ剣を按じ
朱門先達笑弾冠  朱門の先達 弾冠を笑ふ
草色全経細雨湿  草色は全く細雨を経て湿ほひ
花枝欲動春風寒  花枝は動かんと欲して春風寒し
世事浮雲何足問  世事 浮雲 何ぞ問ふに足らん
不如高臥且加餐  如かず 高臥して且つ餐を加へんには

「草色は全く細雨を経て湿ほひ」意味がわからん。
書き下しに従えば「草色」「全経細雨」「湿」となるが、あり得ん。
これは、「草色」「全経」「細雨湿」と切って訳すべきであり、
「草はまっすぐ伸びて細雨に潤い」などという意味ではなかろうか。

そういうことが多い、特に『唐詩選』、こんなのが定着してしまったのが、問題なのではないか。

酒を自制する詩

衆人皆酔且喫煙 衆人皆酔ひ 且つ喫煙す
我独不敢取酒杯 我独り敢へて酒杯を取らず
窃恥病躯不能悦 窃かに恥づ 病躯 悦しむ能はざるを
不得不随医師説 医師の説に随はざるを得ず

確かに五言絶句は漢字二十文字のみで、俳句に匹敵すると言う説もあるが、
ひらがな十七文字と漢字二十文字では密度が違う。読み下してみればわかるが。
五言絶句は和歌よりもやや情報量が多く、都々逸くらいだと思う。
七言絶句にいたっては、和歌二つ分くらいはあるのではないか。

なんとなく自分には七言絶句くらいがあってるように思える。俳句や和歌より若干饒舌で説明的。

ちなみに屈原の詩「挙世皆濁我独清 衆人皆酔我独醒」を微妙に参考にしている。

しかし、google chrome は utf-8 ではないページがときどき文字化けするのが困るなあ。
直す気はないんだろうなあ。
chaika が使えないのも不便だし。
ていうか chaika が自動的に 2ch のページを開かなくなったのは不便。
google 日本語入力も、ときどきイマイチ。

結局未だに firefox + atok というのが無難。この環境って、Windows95 時代から、あまり変わってないのよね(当時はネスケだったのだが)。

まあ、ついでの話だが、私は理系進学クラスだったのだが、
当時の教科書を見ると、高校三年古典IIの漢文までやっている。
三年十組三十二番、と裏表紙に記されている。当時は一クラス、四十人とか四十五人は居たと思う。
そんで、共通一次と言っていたかセンター試験と言っていたか覚えちゃいないが、
国立大学受験は理系だと五教科十科目が当たり前、
国語とは現国・古典(古文+漢文)である。
自分が古典IIをやった記憶がまったくない。
だが、こうして自分が使った教科書が残っているということは、古文も漢文も古典IIまでやったのだろうと思う。
ちなみに、古文の助動詞の活用を暗記したのは確かに高校生の時だったはずだ。これは後々非常に役だった。

で、その高三漢文の教科書を読むと容赦ない。こんなにたくさん勉強したという覚えがないのだ。
理系だったからせいぜい漢文の授業は週一くらいだったに違いない。
こんなにたくさん学べるはずがない。
世界史だってそうだ。だいたい明治維新くらいまであたふたとやって終わりでしょう。
まったくものすごい詰め込み教育だったわけだよなあ。

それに比べりゃ今の受験勉強とかまったく楽だろうなと思う。