死屍を食う男

葉山嘉樹は好きで良く読むが、
どちらかといえばざくっとしたものを書く人で、
面白いのとつまらないのの差が激しい。

「死屍を食う男」は子供向けの怪奇小説を書きたかったのだろうが、全然面白くもないし怖くもなかった。
なんじゃこりゃと思った。

つゆのあとさき

永井荷風『つゆのあとさき』だが、文字数を調べてみると150枚程度で、さほど長くもない小説だが、
とにかく内容の割に登場人物が無駄に多いというか、だらだらしてて読みにくい。
当時のカフェの風俗をそのまま記した体験記もしくは資料としては面白いのかもしれん。
そして、ちょっとした落ちも付けてあるようなのだが、受刑者が出獄して遺書を残して自殺するという、
まあ、あまり必然性があるとも思えない落ちだ。
つまり主人公の君江という女についてだらだらと書いたことと落ちとがほとんど何の脈絡もない。
伏線にすらなってない。

清岡の辺りに永井荷風本人が投映されているのだろう。

『墨東綺譚』の作者贅言部分を除いた箇所の約二倍ほどの分量だろうか。
『墨東綺譚』が昭和12年、
『つゆのあとさき』が昭和6年だからそれほど離れてない。
どちらも50歳から60歳頃に書いたものだな。
『墨東綺譚』の方が登場人物が少ないのと長さが短いのと、
同じことだがストーリーが単純明快なのと、
落ちがわりとあっさりして比較的無理が無いので読みやすいし面白いと思う。

ただ、どちらの作品も、落ちに必然性がないというか無理がある感じ、
というか他の部分と違って明らかに嘘をついているというか作り話を付け足した感じで、
無理矢理小説という体裁をとろうとしている感じがどうしてもしてしまう。
たぶん実録でもなんでも良いのではなかろうか。
そうすると私小説になってしまってそれが嫌だったのかもしれんが。

菊池寛

菊池寛の作品を読むと面白いものもあればつまらないものもある。
面白いのは、まず「恩讐の彼方に」「忠直卿行状記」「俊寛」「藤十郎の恋」「仇討三態」「仇討禁止令」。
「父帰る」も面白くなくはない。

「日本合戦譚」。これはつまらない。
昭和七(1932)年から九(1934)年にかけて書かれたらしい。
田原坂合戦にしろ姉川合戦にしろ、ただ長いだけで面白くない。
歴史小説というよりは歴史随筆、というのに近い。
つまり、頼山陽の「日本外史」に近いものか。だが、「日本外史」の方がはるかに面白い。
「日本合戦譚」は菊池寛ではなくゴーストライターが書いたものだという説があるらしいが、
確かに、本人の作かどうかはともかくとして、他の作品と印象がずいぶん違う。
松本清張は「日本合戦譚」の愛読者で「私説・日本合戦譚」というものを書いたようだ。

菊池寛の何を面白いと思い何をつまらぬと思うかは人の勝手だが、
戦記物が私には特につまらなく感じる。
つまり、織田が徳川が小笠原が浅井が朝倉がとかそんな話がただ延々並列に列挙されてしまうと、私にはどうでもよい、としか思えないのだろうなと思う。
頼山陽はそんな書き方はしない。

戦国時代の合戦の話が好きになれないのかと思ったが、
しかし、田原坂を読んでもつまらないのだから、つまらないものはつまらない、としか言いようがない。
ただちょっと面白かったのは、明治天皇が船で神戸に着き、それから京都に居て、橿原に行く途中だった、とか、
乃木希典が軍旗を奪われた話とかかな。
だが、全体にだらだらしててつまらない、としか言いようがない。
だけど、今はwikipediaでも読めるけど、戦前の昭和には、「戦国オタク」向けの、
こういう具合にまとまった形の合戦物は無かっただろうから、
少年の頃の松本清張が夢中になって読みふけってもおかしくないのかもしれない。

私にはやはり「恩讐の彼方に」のような、巧みに脚色された時代劇、特に仇討ち物が面白いと思う。
「[俊寛](/?p=212)」(初出大正11(1922)年34歳)のおもしろさはまた別だ。
ストーリー的にはたわいもない話。
これは同じ題材でいろんな人がいろんな視点で書いているのが面白いと思う。

「忠直卿行状記」が大正7(1918)年30歳。
やはり、作品に若さがあるわな。
忠直が隠居を命ぜられたのが満28歳の時だから、菊池寛にして見れば、すごく面白い素材だったのだろう。

「恩讐の彼方に」が大正8(1919)年31歳。
やはり、これが最高傑作だと思う。

「仇討三態」は大正11年。すごく良い。

直木三十五が「仇討十種」というものを大正13年に出しているが、
これは明らかに菊池寛の「仇討三態」の影響によるものだろう。

「仇討禁止令」は昭和11年48歳とずいぶん離れている。
「仇討禁止令」は菊池寛の郷里、高松の話だから、ある意味もっと早く書いていてもおかしくなかった。
遅くに書いたものの中では面白いが、やはり、菊池寛得意の仇討物だったからだろう。
「恩讐の彼方に」みたいのをまた書いて下さいよと言われてその気になったのではなかろうか。

調べればちゃんとした年譜があるんだろうが、ネットにはなかなかそういうものが落ちてない。

菊池寛が何故あのように仇討物が好きだったのか、うまかったのか。
何かあったのだろうと思うが、よくわからん。

青空文庫では
「日本合戦譚」
がばらばらの短編として公開してあって、それは良いのだが、
kindleで読もうとするとごちゃごちゃして読みにくい。
また元通り
「日本合戦譚」のように一冊にまとめて欲しいなと思う。

彷彿

「彷彿」漢和辞典を見ても、「髣」も「髴」も特に意味はないように思われる。
「方」と「弗」という音だけに意味があるのだろう。
中国語辞典で引くと、
「あたかも・・のようだ」、という意味と、
主に「相彷彿」の形で「似ている」という意味があるそうだ。

頼山陽の詩に「水天髣髴」とあるが、海と空の境がはっきりとしない(似ている)、という意味だろう。

[呉融「端居」](http://zh.wikisource.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%B1%85)

> 殘蟬彷彿鳴

残った蝉がかすかに鳴いている、という意味だろう。
呉融は晩唐の詩人。

[薛濤「江月樓」](http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9C%88%E6%A8%93)

> 秋風彷彿吳江冷

これも秋風がかすかに吹いているという意味であろう。
薛濤は唐代の女流詩人。

[丁澤「上元日夢王母獻白玉環」](http://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%85%83%E6%97%A5%E5%A4%A2%E7%8E%8B%E6%AF%8D%E7%8D%BB%E7%99%BD%E7%8E%89%E7%92%B0)

> 夢中朝上日,闕下拜天顏。彷彿瞻王母,分明獻玉環。

丁澤は誰かよくわからんがこれも唐詩。
夢の中で朝日が昇り、宮門の下で天顔を拝する。
おぼろげに王母を見、明らかに玉環を献じる。

[魯迅「秋夜」](http://zh.wikisource.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%A4%9C_(%E9%AD%AF%E8%BF%85))

> 他彷彿要離開人間而去

それ(夜空)はあたかもこの世から離れ去っていこうとするかに見える。
現代中国語的用例。

おそらく昔はかすかにとかおぼろげという意味だっただろう。
それが似ているという意味になり、まるで何とかのようだ、という意味になった。

> もし主人のような人間が教師として存在しなくなった暁には彼等生徒はこの問題を研究するために図書館もしくは博物館へ馳けつけて、吾人がミイラによって埃及人を髣髴すると同程度の労力を費やさねばならぬ。

〈漱石・吾輩は猫である〉

このように何かを想起させる、類推する、という用法はどこから来たか。謎だ。

コレステロール値

[肉食やめた](/?p=11644)
というのを書いたが、
月曜日に血液検査があり、

9/10

11/19

2/4

総コレステロール

245

261

186

LDLコレステロール

161

178

117

HDLコレステロール

64

60

53

PT-T

17.4

15.0

21.5

PT-INR

1.46

1.30

1.78

という具合にコレステロール値は正常値になっている。

PT-Tというのはワーファリン飲んで血が固まりにくくしているため、
このような値になるのだと思う。
PT-INRというのは、ワーファリンが効いてるかどうかを表す指標で、
1.0だと全然聞いてなくて、
2.0から3.0の間で調整するらしいが、
私の場合はあまり効いてない、ということだわな。

今度超音波エコー検査あって、結果が良ければ、
ワーファリンと、
利尿剤のアルダクトンくらいはやめられるかもしれんと言われた。

ワーファリンやめたら納豆食える。

人斬り鉤月斎

「人斬り鉤月斎」というものを書いているのだが、またどこかの新人賞に応募すると思う。百枚ぎりぎりくらい。

タイトルどおり普通の剣豪小説、時代小説のたぐいなのだが、自分的に剣豪小説書くのはすごく珍しい。たぶん初めて。書いてみるとわかるが、普通の陳腐な剣豪小説と差別化するのが難しいってのと、膨大な過去の蓄積があるから、やっぱどうしてもそれと比較されるのでやはり書くのがむずかしい。同じことか。これ普通の剣豪小説とどこが違うのとか言われそうで怖い。

自分なりに分析すると、戦前の菊池寛あたりの剣豪小説というのは古き良き体制的な剣豪小説であるが、戦後はそれを否定した反体制的、つまり、幕府とか主君というものに反抗するとか、庶民の目線でとか、個人主義的なとか、そんな剣豪小説が流行った。

しかし今の自分にとってはそういう反体制的な匂いのする剣豪小説というものがすでに、
鼻もちならん説教臭のする陳腐な話なのであって、その否定、つまり、反反体制的、みたいな。しかし、反反体制的だからといって体制的でも戦前的でもないみたいな。あれ、なんかポストモダンってもしかしてこんな話なのかな。ポストポストモダン、みたいなもんかな。まあともかく、既存の戦後民主主義的テレビドラマ的時代小説を破壊したくて書いてみました(笑)これまで、時代小説というか歴史小説みたいなの書いて、チャンバラが出てこないのはそういうのに反発感じてたからだと思う。

三月末までにもう一本くらい書けそうな気がしてきた。

更新できない

いろいろググってみると、
kindle direct publishing で小説本文を修正して、
最新版が自動的にダウンロードさせるようにするのは非常に困難なようだ。
まだ一冊も売れてないので、古いのを削除して新しいのをアップすることにする。

同じタイトルの本を出版することはできるようだ。
異なるASINがふられる。

けっこう疲弊する。

精米

たまたま玄米をもらったので、
どうやって食おうかと思い、
最初はすり鉢とすりこぎみたいのでごりごりやっていたが、うまくいかない。

まず、わかったことは、
玄米は玄米モード(長時間モード)で炊けば炊飯器でも炊ける。
通常モードとか速炊モードとかでは無理。
発芽玄米も玄米モードで炊いた方が柔らかく炊きあがる。
おかゆにしてもまたそうであろう。
味もそんな大差ない。
米ぬか臭い味になるかといえばそんなことはない。
そもそも米ぬか臭い味ってどんな味だ。
ぬか漬けみたいな味?まさか。

[自力で精米してみよう](http://siboono.web.fc2.com/cooking_seimai.htm)
に書かれている「はだしのゲン」的方法が実はすばらしく有効だということがわかる。
そして、米を研ぐときにものすごくヌカが出るので、
なるほど手早く洗う必要はあるんだろうなと思う。

私は長年、研いだ米と研がないで炊いた米の味に大差ないことが不思議だった。
だって美味しんぼにはよく研げと書いてあるのだから。
「米を洗う」というと「米を研ぐ」だろう、とむきになって訂正されたりもした。
そのとき思ったのだが、ではおまえは「洗っただけの米」と「研いだ米」の味のみわけがつくのかと。
「洗った米」と「研いだ米」の境界がどこにあるかわかるとでもいうのか、と。

今は無洗米というものもあるが、たぶん普通の精米でも無洗米とは大差ないのだと思う。
やや余計に精米したのが無洗米であろう。
普通に売っている米を買ってくればほとんど研ぐ必要などないのである。
普通にだまされてきた。

柳生宗矩

wikipedia [柳生宗矩](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E7%9F%A9)
に、

> かなりの喫煙者であり、沢庵より癌になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告を受けている(『沢庵和尚書簡集』)。

とあるが、これはいかにもおかしい。
当時、煙草が(肺)癌の元であるなどという説があるはずがない。

[うわづら文庫](http://uwazura.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_ac84.html)

> たはこ御やめ候はすハ、むねのいたみやみ申間敷候(もうしまじくそうろう)。たはこにて、かくに皆々成申候(なりもうしそうろう)

つまり、煙草をやめないと、胸の痛みはやまないでしょう。煙草のせいでみんなそのようになるのです、と言ってるだけではないか。

なんか知らんが最近の人がそう書いたことをそのまま載せてるっぽいよね。

幕末の頃の剣術というのは、割と知られているようだが、
もっと江戸中期から後期にかけての道場というものが、
どのようなものであったか、
どのような建築であったか、
どのような教え方であったか、
調べようとすると案外わからない。

[剣道日本に講武所の記事が](http://blogs.yahoo.co.jp/mikangaminorukoro/20808714.html)
とあるが、講武所は幕末であるし、剣術だけの道場ではあるまい。
近代兵器を教えた道場だと思うのだが。

> 玄武館道場で8間四方

とあるから、ざっと60坪くらいだろうか。
お寺の本堂くらいの広さだろうか。
どういう構造だったのだろうか。
玄武館も幕末で一番大きな町道場だったわけだから、
その他の道場はもっと小さかったのにちがいない。

ま、ともかく、江戸時代の道場の考証はけっこうむずかしい。
相撲の稽古部屋が最も古態を残すといわれればそうかもしれんと思う。

思うに、戦というものはほとんどが夜戦である、当たり前だが。
従って初期の稽古というのはもっぱら屋外で行われていただろう。
ところが幕末になると町人や農民などの弟子があまりに増えすぎて、
それらを収容するための娯楽施設として稽古場、つまり道場というものが出来たのではなかろうか。
竹刀や防具もまた同じ。