以前書いた逆転の日本史を読んでいて思ったのだが、確かに霊元上皇以後、法皇という称号は使われなくなった。出家した上皇はいたはずだが、法皇を称さなくなった。
法皇一覧など調べてもなかなか出てこない。
霊元院を霊元法皇ということはあったのかもしれないが、あまり使われなかったように思えるし、後水尾院を後水尾法皇という例もほとんどないようにおもえる。
これはやはり家康以来、徳川幕府が仏教が大好きで、仏教に何かと口出ししたがったからだろうと思う。法皇というと日本仏教界の頂点に天皇が君臨しているようにみえるが、沢庵和尚の紫衣事件などみるに、宗教上の権威に対して徳川は異様に敏感だった。幕府や老中、摂家の頭越しに上皇が僧侶に称号や特権を与えることを嫌った。幕府がというより、摂家にそれだけの権力があったせいではなかろうかと思える。徳川宗家が浄土宗を保護し、浄土宗がやたらと力をもったせいもあるかもしれない。
あとやはり、法皇というと白河院や後白河院を連想するので摂家は嫌がったのだろう。
Visited 6 times, 1 visit(s) today