大塩平八郎の詩に
春暁城中春睡衆
遶檐燕雀声虚哢
非上高楼撞巨鐘
桑楡日暮猶昏夢
というのがあるが、これは王陽明の「睡起偶成」という詩
四十餘年睡夢中
而今醒眼始朦朧
不知日已過卓午
起向高樓撞曉鐘
にちなむのであろうと今気付いた。
大塩平八郎は「小陽明」と自称していた。
大塩平八郎の詩に
春暁城中春睡衆
遶檐燕雀声虚哢
非上高楼撞巨鐘
桑楡日暮猶昏夢
というのがあるが、これは王陽明の「睡起偶成」という詩
四十餘年睡夢中
而今醒眼始朦朧
不知日已過卓午
起向高樓撞曉鐘
にちなむのであろうと今気付いた。
大塩平八郎は「小陽明」と自称していた。
洛陽とか漢陽などと言う。
洛陽は洛水という川の北にあるからである。
武漢の漢陽は漢水の北にあるからだし、ソウルを漢陽とも言うのは、漢江が南に流れている都市だからだ。
「陽」とは本来は、北が高く南が低い土地のことで、南に川が流れていて北に山があれば自然とそういう地形になる。
日当たりが良い土地のことを「陽」と言う。
中国では昔からそのような地形の場所に王城を築くことが多かった。
で、甲陽だが、この地名は神戸にある。
要するに、六甲山の南麓にあるという意味だろう。
「甲陽軍鑑」の「甲陽」も、おそらく同じような理屈で名付けたのではないか、
甲府盆地の北側の辺りを言うのではなかろうかと思うが、そのような説を見かけない。
実際、武田信玄の居城である「躑躅ヶ崎館」というのは、甲府盆地の北側、県庁舎や山梨大学よりもさらに北のあたりにあった。
荻生徂徠の詩に「還館口号」というのがあり、
甲陽美酒緑葡萄
霜露三更湿客袍
須識良宵天下少
芙蓉峰上一輪高
やはり、葡萄畑というのは、日当たりのよい「甲陽」にあるのではなかろうか。
緑色の葡萄酒というのは、おそらくは白ワインのことではなかろうか。
白ワインはやや黄色味を帯びているので、緑と表現しても良いかもしれん。
「芙蓉峰」は富士山のこと。
新井白石の「春日作」という詩でも、
楊柳花飛江水流
王孫草色遍芳洲
金罍美酒葡萄緑
不酔青春不解愁
とある。「金罍」は黄金の酒壺という意味。
「楊柳花」は柳の花で、「王孫草」はツクバネソウのこと。
「江水」はおそらくは隅田川だと思うが自信がない。
「芳洲」はおそらくは吉原、もしくは芳町(元吉原)ではなかろうか。「洲」には島とか中州の意味がある。
吉原の地形はお歯黒どぶに囲まれていてまさに「洲」である。「芳」と「吉」は通じる。
となると、おそらく吉原の情景を詠んだのではなかろうか、と思われてくるのである。
でまあ、この「春日作」は詩吟で有名らしいのだが、
私の解釈で訳してみると、
「山谷堀を通って川船で吉原へ向かうと、岸の柳並木の花が飛んで隅田川に流れていく。日本堤はツクバネソウで緑一色だ。郭に登って黄金の酒壺に入った緑色の葡萄酒を飲む。春に酔わねば、憂さを晴らせない。」となってずいぶん違う。
「緑ワイン」で検索すると、Vihno Verde というポルトガルのワインがあるそうだ。
英語版の wikipedia によれば、熟成させたワインに対して新酒のワイン。
樽に詰めて一年以内、赤、白、ロゼもあり得て、若干発泡性であるようだ。
八股文と五言排律の続きだが、
明代初期の八股文についてに非常に詳しく述べてあるが、ごく概略を言えば、明末清初の学者・顧炎武は、
経義の文、流俗、之を八股と言う。蓋し成化以後に始まる。天順以前は経義の文、伝注を敷衍するに過ぎず。或いは対にし、或いは散にし、初めは定式無し。
と明確に記している。つまり、明初には、そもそも八股文などというものはなかった。
しかし、wikipedia 「八股文」には、
洪武帝は軍師の劉基とはかって、科挙には朱子の解説による四書を主眼とした。これは洪武帝や劉基が朱子学を奉じており、この学派が四書を重視していたためである。こうして宋代と代わって難解な教典である五経は二の次とされた。そして明朝期の受験生は答案の書き方として、八股文が指定された。
などと書かれている。これでは、明の高祖朱元璋が軍師劉基と計って朱子学に基づいて四書を八股文で課したと読める。まったく意味が違ってくる。
四書を科挙に用いたのは、朱元璋も劉基も、おそらく朱子も、四書が初等テクストだからであり、出題範囲を初等教育の範囲に限定するためである。それを韻文で書こうと対句で書こうと散文で書こうと明初では自由であった。つまり当初の意図としては、何か形式張った文章題を出したわけではない。ごく妥当な、まっとうな問題が出されたのに過ぎない。
日本でも試験問題というものは、だんだん受験テクニックを駆使しないと解けないような難解なものになりやすく、その弊害をのぞくために「ゆとり教育」というものが生まれ、「ゆとり教育」ではダメだというのでまた難しくなる。同じようなことが王朝交替のたびに科挙でも起きたのは当然だ。
劉基という人の漢詩も少し読んでみたが、どちらかと言えば学者というより、自由な文人という感じを受ける。八股文というものを考案して受験生に課したというのは、まずあり得ないだろう。
またwikipedia「科挙」には
「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。科挙官僚は、詩作や作文の知識を持つ事を最大の条件として、経済や治山治水など実務や国民生活には無能・無関心である事を自慢する始末であった。こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となって来た。
中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、直接は役に立たない古典の暗記と解釈に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。
などと書いてある。しかし、「儒林外史」などを読んだだけで明らかなように、「詩作や作文」にばかりうつつを抜かすような官僚がそんなにいただろうか。むしろそれは、科挙に合格できなかった遁世文人たちの戯画に近いのではないか。普通に科挙に合格して、普通に国政に腐心した政治家たちもたくさんいた。それは清朝の歴史を調べれば、明らかだ。
科挙が有害であったことは間違いないが、あまりにも多くの責任を科挙に負わせるのも、
やはり責任逃れに過ぎない。おそらく多くは清朝を不当におとしめようとした近代中国や、日本の左翼学者たちの決めつけなのではなかろうか。そのようなステレオタイプが wikipedia にも溢れているとすれば、非常に憂うことである。
受験テクニックの加熱は、往々にして、受験産業や受験生や教師や父母らによって助長されるものだ。必ずしも大学教員や国の官僚が意図してそうなっているのではない。日本の現状を観察しただけでもわかるだろう。五言排律という格式張った中世の形式が、清朝末期に、本来は自由な作文題だった四書題にいつの間にか潜り込んで、定型化していき、それが八股文となったのだ。つまり責任の多くは民衆の側にあるに違いない。
白河天皇と金葉集を調べていたのだが、調べれば調べるほど興味深い。
まず、勅撰集の初めは古今集となっているのだが、これは、
おそらく紀友則が中心となって数名が当時の流行歌を蒐集し、
友則が途中死去したので従兄弟の紀貫之が後を継いで、醍醐天皇の勅命という体裁で公に流布したのだろう。
勅命というよりは、おそらくは、編纂事業を公に援助してもらったとか、
その程度のものではなかろうか。
そういう意味では、万葉集の成立に近いものではないか。
古今集に続く後撰集と拾遺集は、それぞれ村上天皇、花山天皇の勅命によるものとされているが、
ほんとうに勅撰集であったかも疑わしい。
古今集の補遺というのに近いだろう。
少なくともこの三代集は天皇が直接関与したのではなく、できたものを天皇がオーソライズした、
という形だ。
その後しばらく勅撰集というものは途絶えた。
ところがいきなり白河天皇がまず後拾遺集編纂を命じた。
1075年から1086年までかかっている。
白河天皇の在位期間にほぼ匹敵し、おそらく、
白河天皇自らの強い意志によって作られたものと思われる。
つまり、歌人らが自発的に編纂して天皇のお墨付きをもらったというのでなしに、
天皇自らが編纂したという意味で、事実上最初の勅撰集と言えるものだ。
古今集・後撰集・拾遺集とつづいた和歌編纂事業を発展させて、
天皇が自らプロデュースした初めての勅撰集、と言える。
白河天皇による権威付けがなければ、
後世和歌と皇室はこれほどまで強い関係を持たなかっただろうし、
明治までの連続性を保ち得なかったと思う。
白河天皇は上皇になって再び院宣によって勅撰集の編纂を命じている。
上皇による編纂というのはこれが初めてのことになる。
金葉和歌集だが、これは二度も書き直しを命じられている。
つまり白河上皇は、非常にねちっこい性格であり、おそらくは気まぐれな性格でもあり、
成立までになかなか許可を与えなかったのだ。
後拾遺集も、途中経過は不明だが、同じように何度も書き直しを経て成立したのじゃなかろうかと推測できるし、金葉集も、おそらく、後拾遺集が成立した直後から計画され、
上皇が死期を察してようやく完成したのではなかろうか、と思われるフシがある
(金葉集は1126年成立、白河上皇の崩御は1129年、76歳)。
つまり、白河上皇という人は、勅撰集を一つ作っても飽きたらず、さらにもう一つ作り、
しかしそれにもなかなか満足せず、死の直前までこだわり続けた人なのだ。
なぜか。わからん。
そこをつっこんでいる人もなかなかいない。
次の詞花集は崇徳上皇によるが、金葉集三奏本との重複が多いことや、
構成が金葉集に似ていることからも、大きな影響があったことがうかがえる。
また崇徳上皇と白河上皇の孫で自分の親の鳥羽天皇とは仲がとても悪かったことでも知られる。
崇徳上皇としては、鳥羽天皇や近衛天皇ではなく、自分が白河天皇の正統な後継者だと、
言いたかったのではなかろうか。
ま、ともかく、白河天皇は、勅撰集を二つも作ったこと、
事実上、後に室町末期まで続く勅撰集を創始したということ、
編纂に異様に執着したということ、
その他、歴代天皇の中でも、最も典型的な院政を行ったこと、
おそらく最も大きな経済力と権力を握り、
専制君主として一番最後の天皇だったこと、
などからして、非常に興味深い人だ。
勅撰集にこだわった天皇としては後鳥羽天皇もいるが、
どちらもあくの強そうな人だな。
だが、勅撰集の中でも、金葉集はあまり人気がある方ではない。
言及している人もほとんどいないし認知度も低い。
そこがまた面白い。
「是」は難しい。
漢和辞典を見ると、「是」は「これ」「この」という指示代名詞であると書いてある。または「ただす」という意味だと。
しかし中日辞典では、たしかに書き言葉として「是日(この日)」という使い方もあるにはある。
たとえば李白の詩に「疑是地上霜」というのがある。
また杜牧「無人知是荔枝來」とあり、伊達政宗に「不楽是如何」などがあって、これらはいずれも「これ」と訳すことができる。
「ただしい」「ただす」という意味では「是古非今」という例が挙げられているが、これもマイナーである。
これはほとんど例がない。
「是」は主に「である」という意味に使われる。
いわゆる英語の be動詞にあたる。
我是日本人
とか。あるいは、
他不是老師
とか。あるいは、
誰是友
とか。このように人称代名詞 + 是 + 補語、という場合が一般的、使って間違いない。
しかし思うに、「我不是日本人」を「我非日本人」と言ってはならないのか。いいのか。よく分からない。
或いは「我是日本人」を「我日本人」と言ってはいけないのか。あるいはありなのか。これもよくわからない。
良寛の詩に「我詩非是詩」とあるが、これは明らかに文法的に間違っているだろう。
「不是」とは言っても、「非是」と言う言い方はしない、と中日辞典には書いてある。
たぶん「我が詩はこれ詩にあらず」と読ませたいのだろうが、
「我詩不是詩」と書いて「我が詩は詩ではない」と解釈させるのが無難だ。
毛沢東の詩に「人間正道是滄桑」とある。
「世の中のうつりかわりは激しいものだ」という意味になる。これも be動詞的。
「疑是地上霜」も「月光是地上霜」というように be動詞的にも解釈可。
「江上客不是故郷人」「西北是融州」などというのもある。
思うに、「是」を漢詩で「これ」とか「この」という意味に使うのはさけた方がよい。
というか、そういうふうに解釈しないことが多い。
「是」を「A is B」の意味に、「誰是」を「who is X」の意味に、「不是」を「A is not B」の意味に使うのは良い。
「非」はあまり使われない。使わない方がよい。「非」を使うくらいなら「不是」を使った方がよい。
「非」には咎めるような意味合いが込められているのだろう。陶淵明の「富貴非我願」、くらいか。
これも「富貴不是我願」と書いて特に問題はあるまい。
王安石の「遥知不是雪」も、明らかに、「是は雪ではない」ではなく単に「雪ではない」と解すべき。
これを「遥知非雪」とすると、なんだか雪であることが悪いことのように思えるのだろう。
岩波文庫の「唐詩選(中)」を読んでいて気付いたのだが、
四書題(八股文)と五言排律とはその文書構造が酷似している。
どちらも科挙に出題される。
偶然の一致とは思えない。
というわけで、
[帝都春暦](http://p.booklog.jp/book/34939/page/589832)
に少し加筆した。
wikipedia [八股文](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%82%A1%E6%96%87) に
> 三田村泰助(1976)は、詩人である劉基が官僚に必要な最低限の文学的素養としてこの律詩に似た形式を採用したのではないか
とあるように、律詩に似ているという見方はすでにあったものと思われる。
ただ、劉基というのは明初の朱元璋の軍使であり、そんなに早期から八股文の形式が定まっていたとは考えにくい。
明の四書題を参考に、清が似たような出題をして、それに対する受験対策として、八股文がだんだんと成立していき、
清末にようやく定型化された、と考えるべきだろう。
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
詞歌和歌集には読人しらず題知らずで載っている。が、世の中では西行の作だということになっている。私も漠然とそう思ってた。が、「山家集」には取られていない。「山家集」はけっこうな分量の歌集なのに、勅撰集にも取られたような歌を載せないことがあるか。
そう思ってみると、すこし西行にしては言葉が荒すぎる。西行の歌には、感情の起伏の激しいものはあるが、言葉はそれほどきつくはない。
「西行物語」では
世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
となっているそうだが、こちらの方が意味は通りやすい。「身を捨つる」というのは、出家とは限らない。
そもそも西行の歌が詞歌和歌集に初出で一首だけでしかも読み人知らず。読み人知らずになる理由としては「無名」というのは通りにくい。「罪人」とか時の権力者に背いて忌避されたとか、そういう理由がないとおかしい。
やはりこれは西行の死後にできた伝説に過ぎないのではないか。
[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)は一度非公開にして徹底的に書き直そうかとも思ったのだが、割とアクセスもあってもったいないので、そのままだらだら書き直す。
ナポレオン三世の話を詳しくした。
変な人だな。
それから、アルムおじさんだが、もとはスイスからリヨンに行きここでフランスの傭兵になり、
リヨンからアルプスを越えてスーザ、トリノ、アレッサンドリアへ移動した、
という設定になっていたのだが、
ナポレオン三世の動きがあまりにもせわしなくそれじゃあ間に合わない。
で、
グラウビュンデン州からアルプスを越えてティチーノ州(スイス領だがアルプスの南麓で住民の母語はイタリア語)へ下りて、そこからピエモンテに入り、
ヴェルチェッリでセージア川の決壊工作をしたあとカザーレへ入り、そこでセメントこね仕事をしたあと、ティチーノ川を越えてマジェンタの戦いに参戦し、ナポレオン三世とはミラノで初めて合流した、という設定にした。
ま、その方がばたばたしてておもしろいかな。
かなり書き替えたな。
教科書的な記述はだいぶ減らしたつもりだが、でもまだ残っている。
『怪帝ナポレオンⅢ世』ところどころ面白い。
ナポレオン三世のフランス軍はクリミア戦争でも兵站がひどかったようだ。
イタリア戦争でも、おそらく、ナポレオン三世が自分だけ先に最前線についたのだろう。
皇帝をほうってはおけないから、後から軍隊がついてきた。
なるほどナポレオン三世は、たった四日間でパリからイタリアまで移動したかもしれんが、
フランス軍はまだまともに戦争のできる状態にはなかった。
しかし、オーストリア軍はびっくりしてひるんだに違いない。
そのすきになんとかフランス軍は徐々にだが、ピエモンテに入った。
結果論だがアレッサンドリア要塞を完全に包囲するだけで、中のナポレオン三世は音を上げただろう。
鉄道経由でいくら増援部隊を送ってもアレッサンドリアで皇帝と合流できなければ意味はないのだ。
鉄道網を寸断するだけでよかった。
だが、フランス軍はアレッサンドリアに集結し、モンテベッロの戦いには間に合った。
間一髪のタイミングだった。
もし数日、オーストリア将軍ギュライの動きが速かったら、ピエモンテは屈服し、フランス軍は諦めて帰国しただろう。
最悪の場合、普仏戦争のセダンの戦いのときのように、
皇帝自らが捕虜になってしまったかもしれない。
ピエモンテはフランスと一緒にクリミア戦争に出兵したのだから、フランス軍のていたらくを知っていたはずだ。
それでもピエモンテはフランス皇帝をうまく利用するほうを選ぶ。
できるだけ自分たちであらかじめ戦術をきちんとたてておく。
ピエモンテがフランス皇帝の親征をプロデュースしバックアップした、
ドラマチックに演出したのだと言えるだろう。
クリミア戦争やイタリア戦争における無様さは、
メキシコ出兵でも、普仏戦争でも繰り返されたのだろう。
こうしてみるとナポレオン三世というのは、この本にも書かれているが、
かつぎやすい非常に軽い御輿だった、本人も非常に腰の軽い人だった、頭は悪くないが粗忽な人、と言えるかも知れない。
この手の「軽い首領」というのは日本の政治家にも多く見いだされる。
御輿を担いでいる連中が有能で、問題がそれほど重大で複雑ではない場合にはうまくいく。
しかし、トップの指導力が問われる場合にはまるで役に立たない。
ナポレオン三世は、
ボナパルティストたちが作り出した、空疎な中心、空気のように軽くて実態のない存在、というのが当たっているのではないか。
ということはつまりボナパルティストの正体は、少なくともナポレオン三世の頃のボナパルティストたちは、
空想的社会主義者か理想主義者だったのだろう。
あと少し気になるのは、イタリア戦争の直後、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの弟、マクシミリアンが、
ナポレオン三世の助力によって、メキシコ皇帝になっているということだ。
これは何を意味するのか。
ヴィッラフランカの和議ですでに、そのような条件がナポレオン三世から出されていたのだろうか。
ナポレオン三世(のブレインたち)は、オーストリアを味方につけることでプロイセンに対抗しようと考えただろう。
フランスがオーストリアを破ったイタリア戦争のときこそそのチャンスだったのに違いない。
毛沢東の七言律詩
[人民解放軍占領南京](http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/maoshi1.htm)。
少し面白い。
七言律詩は一二四六八で押韻し、初句は押韻してもしなくても良いらしい。
二句目だけ「江」で、残りは「陽」。
「江」と「陽」はいわゆる通韻ではない。
「江」と通韻できるのは「東」「冬」だけ。
「陽」には通韻がない。
しかし現代中国の普通語では「江」は第一声の -ang、「陽」は第二声の -ang、
平仄としてはどちらも平声なので、だいたい同じ、ということなのではなかろうか。
などと考えてたら、上のリンク先にはさらに詳しい解説があった。
「詞韻」としては許容されているのか。
なるほど。
「慷慨」を「慨而慷」としたのはまず音を三つにしなくちゃならなかったのと、
「慷」で押韻したかったのと、あとは平仄を合わせるためだろう。
なんかかなり苦心しているのがわかってほほえましい。
律詩では三四句と五六句が対句になっていなくてはならないらしい。
なんか八股文(というより四股文)みたいだな。
頭があって、尾があって、真ん中に四つ足があり、それぞれ対になっている。
「虎踞龍盤」とはつまり「竜虎盤踞」、「天翻地覆」とは「天地翻覆」と言いたいのだろう。
入れ替えたのはたぶん平仄を合わせるため。これはまあ、対句と言えば対句かもしれない。
しかし、「宜將剩勇追窮寇」と「不可沽名學覇王」が対句になっているだろうか、はて。
なんかわかってくるとなかなか楽しい。
森鴎外は漢詩がうまかったのではないかと思い、いろいろ探してみているが、
数はあるようだが、なかなか感心するものがない。
開釁当年事悠々
滄桑之変喜還愁
誰図莽草荒煙地
附與英人泊萬船
たとえばこれは香港をテーマにしたものだそうだが、「滄桑」と「莽草荒煙地」とはつまり同じことを言っているわけで、
くどい。
どうもうまい詩ではない。
ルートヴィッヒ二世やガリバルディを詠んだ詩もあるが、あまりぱっとしない。
なんでこんな詩をわざわざ作ったのか、
それよか、夏目漱石の漢詩の方がまだ漢詩らしくて良い。
あと、大正天皇の一番有名な漢詩「遠州洋上作」だが、
夜駕艨艟過遠州
満天明月思悠悠
何時能遂平生志
一躍雄飛五大洲
悪くないが、「一躍雄飛五大洲」は西郷隆盛の「豪氣將呑五大洲」の焼き直しに過ぎないし、何より「州」と「洲」で押韻するのは少し苦しい気がする。
明らかに西郷隆盛の方がずっと詩のできが良い。
大正天皇が21才で皇太子の時に作ったものを伊藤博文が新聞に掲載したというのだが。
でまあ、思うのだが、明治時代の人たちはばんばん漢詩を作ったのだが、
それは今我々が漠然と想像するように、
明治の文人(あるいは武人)たちが今より遙かに漢学の素養があった、からではあるまい。
彼らは彼らなりに努力したのだ。
しかも、今は学問も整備発達しているから、江戸時代や明治時代くらい漢文や漢詩を作れるようになるのは、
それこそ英語や中国語などの語学を習得するよりはずっと簡単なはずだ。
明治時代と今では教養のレベルが違うんですよ、とわかったようなことを言われて、
はあそうですか、と何もしないうちから諦めてしまっている。
江戸時代ってずいぶんヒマがあったんですね、漢詩なんていう役に立たないものをもてあそんでられるなんて、我々はそんな悠長なことはやっておれない、と。
暗記力や詩才で官僚を登用したから中国は衰退したのだとか、科挙のせいにされるのも、
同じような理屈だ。
『儒林外史』を読むとわかるが、単なる文人墨客は科挙には通らない。
定型文、今で言うところの公式文書やビジネスレターのようなものがきちんと書けるかどうかが見られたのだ。
事務官が持つべき能力としてはしごく当然なものだ。
今の人が漢詩を作れなくなったのは単に戦後民主主義教育のせいだと思う。
あとはやはり時代が動いているから面白い詩ができやすい。
動乱の渦中にいるから内容が奇抜だ。
頼山陽を教えず、乃木希典や西郷隆盛などの、血糊の付いた日本刀を振り回しているような詩を教えない。
ただ唐詩選の有名な詩ばかりみていては、永久に詩は作れるようにならない。
江戸・明治の文人たちの詩の方がずっと親近感があり、自分たちも作ってみようかとか、自分にも作れるのではないかという気になる。
それに今は便利なあんちょこ本がなくなってしまった。
詩韻の分類表とか。
漢和辞典はまったく漢詩を作るのに向いてない。
和歌に類題集があったように、漢詩にもそういう作詩のとき参考にするための解法集があったのである。
たぶん、毛沢東も使ったのに違いない。
定型詩や文語というものが、ぞんざいに扱われ、まるで現代語の自由詩の方があらゆる点で勝っているとするのが今の風潮だ。
そんなことはない。人間、四十年五十年も生きているとだんだんコツがわかってくる。
高校生にいきなり作らせるのは無理かもしれんが、ある程度知識が蓄積された中年以降のオヤジにとって、老後の楽しみくらいにはなる。
まったく同じことは和歌にも言えるのであって、万葉集、古今集、新古今集の和歌、小倉百人一首の和歌ばかりみていても、
けっして和歌は詠めるようにならない。
明治・江戸時代にいくらでも良いサンプルがあるのに、惜しいことだ。
漢詩を学べば中国語習得の参考にもなる。
実用性だってないわけではない。