詠歌一体

[朦朧趣味](/?p=9201)を読み返してみると、
やはり為家という人は、父定家には似ず、むしろ祖父の俊成に似て、
素直なわかりやすい歌を詠む人であったように思う。
丸谷才一は定家が好きで為家が嫌いなのだ。
だからたぶん俊成もそんなに好きではなかろう。
為氏は定家に輪をかけて幽玄チックな人だったらしい。
どうも父より祖父が好きになるタイプらしいね、この家系は。
だから趣味が代ごとに振動している。
為氏の子・為世までくるとかなりもうへろへろになってる感じがする。

為家の歌論に「詠歌一体」というのがある。

> 和歌を詠むこと必ず才能によらず、ただ心より起これることと申したれど、
稽古無くては上手のおぼえ取りがたし。
おのづから秀逸を詠み出だしたれど、のちに比興のことなどしつれば、
さきの高名もけがれて、いかなる人にあつらへたるやらんと誹謗せらるなり。

俊成・定家・為家・為氏という四代の歌風の変動を見るとき、上の主張はかなり意味深である。
「比興」とは「他のものにたとえて面白く言うこと」とあり、
つまりは、実景を詠まずに、作り事でおもしろおかしい歌を詠むこと、という意味であろう。
まさに父定家や子の為氏はそういう歌を詠むのである。
為家はゆえに祖父俊成のような素直な歌を詠みたいと言っているのではないか。
しかしただ素直な歌を詠んでいても「上手のおぼえ取りがたし」つまり他人に評価されにくいから、
稽古は必要だと。
しかしあまり(定家や為氏のように)稽古しすぎると奇をてらいすぎていかんよと。

例に挙げている歌がまた興味深い。

紅葉浮水
藤原資宗

> 筏士よ 待てこととはむ みなかみは いかばかり吹く 山のあらしぞ

新古今に載る。
ここで紅葉とは嵯峨野のことである。

月照水
源経信

> 住む人も あるかなきかの 宿ならし 蘆間の月の 漏るにまかせて

これも新古今に載る。
この二つは題詠の心得のために例示したものであり、
前者は題を読まないと何の意味かつかみかねる(おそらく上流で花か紅葉が散っているのであろうと予測されるが春なのか秋なのかはわからない)のだが、題をそのまま歌に詠むのはよろしくないと。
後者は「月」は歌に出るが「水」はただ連想させているだけとなる。
題に水とあるから蘆間からは月の光だけでなく、露も漏れているのだろう、ということになろうか。

> 其の所の当座の会などには、只今の景気ありさまを詠むべし。
たとひ秀歌なれども、儀たがひぬれば正体なきなり。

正論である。
わざわざそれを言っているのは、
正直に詠まず、作って飾って詠む輩が多いからだろう。

> 雪降れば 峰の真榊 うづもれて 月に磨ける 天の香具山

祖父俊成の歌だ。
褒めている。確かにすばらしい。

> 見渡せば 波のしがらみ かけてけり 卯の花咲ける 玉川の里

相模。まあこれも実景の歌だわな。
恋の歌は

> しのぶれど 色にいでにけり 我が恋は ものやおもふと 人のとふまで

> うらみわび 今はまだしの 身なれども 思ひなれにし 夕暮れの空

が良いらしい。
前者は有名だが後者は無名の歌だわな。
今はまだ思いが通じていない恋だが、うらみわびて眺めるのに馴れた夕暮れの空、という意味だわな。
確かに面白い。

> 日も暮れぬ 人もかへりぬ 山里は 峰のあらしの 音ばかりして

源俊頼。なるほど確かに良い歌だ。実に単純明快。
ま、いずれにせよ、俊頼や俊成、家隆などは褒めているが、定家の歌が良いとはどこにも書いてない。
これは愉快だ。
暗に父の歌風を批判しているようにも見える。

敷島の道2

敷島の道の続き。

定家の「拾遺愚草」を拾い読みしてたら、飛鳥井雅経が自分の子・教雅の歩き初めに

あとならへ 思ふおもひも とほりつつ 君にかひある 敷島の道

定家かへし

敷島の 道しるき身に ならひおきつ 末とほるべき あとにまかせて

意味は分かりにくいのだが、雅経が教雅の歌の指南を定家に頼み、そのお礼に書道の手本を贈った、それに対して定家は雅経にならって教雅に歌を教えましょうと言った、ということらしい。

歌の配置からみると、定家の子・為家が元服した後の話らしいから、とっくに鎌倉時代に入っているが、承久の乱よりは前だろう。

どうも雰囲気としては「敷島の道」というのは「歌道」というよりも、も少し広く漢学や仏教に対する、日本固有のことについての知識や学問や芸能、つまり国学という意味で使われているような気がする。まあ、国学の中心は、当時としては和歌だったわけだが、神話とか神祇とか祝詞とか、歌物語など国文学全般、仮名文字の書き方、大和心の使い方のようなものまでを包含していたかもしれん。

とか思いつつ広辞苑を調べるとどうやら初出は千載集の序らしい。つまり定家の父俊成だわな。よく調べましょう自分。和歌に出た最初の例はしかし上に挙げた飛鳥井雅経と藤原定家の贈答歌かもしれん。

春の花の朝、秋の月の夕、思ひを述べ心を動かさずといふことなし。ある時には糸竹の声しらべをととのへ、ある時には大和もろこしの歌言葉を争ふ。敷島の道も盛りに興りて、心の泉いにしへよりも深く、言葉の林、昔よりも繁し。

うーん。やはり「もろこし」に対する「大和」であり、漢学に対する国学、という意味に使われている可能性は否定できないよね?文脈的には「大和もろこしの歌言葉を争ひ」とは和漢朗詠集や新選万葉集のように漢詩と和歌を並列にあつかったようなものだよね。俊成・定家・雅経には共通認識があったかもしれんが、ちゃんと説明してもらわんとわからんよね。つまり、俊成が作った言葉というより、もともと和歌に限定されない「敷島の道」の用法があって、それを俊成が和歌集の序に使ったかもしれんわけで。

蜀山人2

[蜀山家集 全](http://www.j-texts.com/kinsei/shokuskah.html)。
狂歌のみをだいたい見繕ったもののようだ。
これは便利。

弥生十二日舟にて隅田川にまかりけるに花いまだ咲かず

> 隅田川 さくらもまだき 咲かなくに 浮きたる心 花とこそ見れ

これはまともな歌。

春の日、芝のほとりにて

> 春の日も ややたけしばの 浜づたひ 磯山ざくら 見つつ飽かぬかも

これも良い歌。ていうか、一番良い出来ではないか。
竹芝海岸の「たけ」を春が長けるの「たけ」にかけていて、
「浜づたひ磯山ざくら」がうまく効いていて、
最後は万葉調にしめている。
やればできるじゃん、大田南畝君。まあ秋成の友人だけはある。
こういう歌を江戸時代に蜀山人あたりが詠んでいるというのが、やはり近世の和歌もあなどれんよなあ。

磯山ざくらとは磯に咲く山桜のことだろうか。
続後拾遺集に

> 心なき あまの苫屋も にほふまで いそやまざくら 浦風ぞ吹く

これはまあまあ良い歌。
作者はネットで検索しただけだとわからん。国歌大観で調べんとな。

竹芝は当時どんな浜辺であったか。
砂浜だったか。砂利か泥か、或いは磯か。今となってはまったく想像がつかない。

浜庇山といへる茶屋にて

> しばしとて やすらふ芝の浜庇 ひさしくみれど 飽かぬ海づら

年の暮れに

> 衣食住 餅酒油 炭たたき なに不足なき 年の暮れかな

杏園詩集はところどころ面白いがうまく意味の通らない(解釈に自信のない)ところが多すぎる。
たとえば隅田川を詠んだ詩で「南連両総北三叉」というのがある。
両総は下総国と上総国だが、北の三叉とは何か。
常陸、下野、上野であろうが、確証が持てない。

狂歌は「蜀山百首」と「千とせの門」が良い。
あとはあまりできがよいとは思えない。
「狂歌百人一首」は大嫌いだ。ただのパロディでつまらん、が、世間では一番知られているようだ。
「めでた夷歌百首」も似たようなもの。
「巴人集」「巴人集拾遺」は詠草にあたるか。数は多いが良いものは少ない。

近況

私の場合血圧は雰囲気とか飲酒とかにかなり影響を受けて変動するらしい。
家で酒を飲まずにいるとかなり下がるが、
酒を飲むと上がり、
健康診断を受けるときにもあがる。
ただし酒を暫く控えていると健康診断のときもやや目減りするようだ。
腹回りは91cmだった。
まだまだメタボだ。
しかしこのウェストポーチ部分だけがなかなか落ちないのだよな。
手足なんかはかなり細くなってきているのだが。
たぶんもう内臓脂肪はほとんどないはずだが。

エチルアルコールはカロリーはあるが普通の糖質とは違い、
体重増加作用がなく血糖値も上がらないとされているのだが、
酒を飲まずにいるとあきらかに太りにくく、痩せやすい。
別の言い方をすると、酒を飲んでないければ多少食べても体重は増えずむしろ減る、
というのが自分の体を観察した結果である。

思うに酒を飲むと体が代謝を減らしてしまうのではなかろうか。
酒を飲むと空腹中枢が麻痺して、今は満腹だと勘違いする。
満腹なときに少しでもカロリーを摂取するとそれは脂肪として蓄積されてしまう。

まよくわからんが、エチルアルコールを摂取して太る、or 痩せなくなるのは、
エルチアルコールに含まれるカロリーのせいでも、
酒のつまみをつい食べ過ぎるせいでもない気がするんだわ。

なるほど過度の飲酒は肝臓の中性脂肪合成を亢進するのか。
中性脂肪が増えるとHDLコレステロールを減らし、
LDLコレステロールを増やしてしまうのか。
いずれにしても今回の検査結果でコレステロール値が下がっているとしたら、
やはり酒は抜かねばならぬということになる。
中性脂肪の値で引っかかることはあまりないんだがなあ。
たぶん去年よりはましになってると思うが。

それはそうと最近読まれてる記事が和歌関係ばかりなので驚く。
どこから誰が読みにきているのだろうか。
民葉和歌集と明治天皇御製集、吉田松陰歌集が読まれているのはうれしいのだが、
関係ない「古歌」が人気なのがよくわからん。
これ実は比較的最近の歌とか自詠の歌とか雑多に混じってるのよね。
今更非公開にもできず困ってる。

蜀山人

蜀山人全集を読み始めたのだが、
全五巻あり、そのどこかに狂歌がまとめて載っているわけでもない。
連歌もあれば漢詩もある。
当然のことではあるが和歌について論じている文もある。

杏園詩集の巻頭

日出扶桑海気重
青天白雪秀芙蓉
誰知五嶽三山外
別有東方不二峰

要するに日本は海に浮かぶ良い国だ、
中国人は三山五嶽より外の世界は知らないだろうが、
東方の日本には富士山がある、というような意味。
「三山五嶽」は中国の名山で、
蓬萊・瀛洲・方丈の三山と、泰山・衡山・華山・恆山・和嵩山の五嶽であるという。
「五嶽三山」としたのは平仄あわせのためであろう。

押韻平仄ともにきちんとしている。
こういう詩を作るからにはまじめな人だと思う。
まあ普通の御家人だわな。旗本ではない。
武家で役人だから、当たり前といえば当たり前なように漢文が多い。

「めでた百首夷歌」というのがある。
蜀山人も「狂歌」とは言わず「夷歌」と言っているところが興味深い。
ただし「狂歌百人一首」とか「狂詩」などと言っているものもある。
「夷歌」はもとは「あづまうた」と訓んだのではなかろうか。

> 鎌倉の 海より出でし 初がつお みな武蔵野の はらにこそ入れ

蜀山百首の中の一つ。

> 武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ

を思わせる。
「武蔵野の原」という慣用句もある。「原」に月が入るのと、「腹」に鰹が入るのをかけているわけだ。
かなりひねった歌だ。

> 世の中は 我より先に 用のある 人のあしあと 橋の上の霜

> 今さらに 何を惜しまん 神武より 二千年来 暮れてゆく年

同じく蜀山百首。

> あなうなぎ いづくの山の いもとせを さかれてのちに 身をこがすとは

> 世の中に たえて女の なかりせば 男の心 のどけからまし

うーん。

> 富士のねの 表は駿河 裏は甲斐 前は北面 のちは西行

西行が出家する前は北面の武士だったことを知らないとわからないしゃれだわな。

> いたづらに すぐる月日も おもしろし 花見てばかり 暮らされぬ世は

> 寝て待てど 暮らせどさらに 何事も なきこそ人の 果報なりけれ

> 世の中は いつも月夜に 米の飯 さてまた申し 金のほしさよ

これは「それにつけても金のほしさよ」の原型だろうか。

> 呉竹の 世の人なみに 松立てて やぶれ障子を はるはきにけり

> 世の中は なにか常なる 飛鳥山 きのふの花は けふさくらん坊

> 遠乗りの 馬二三匹 隅田川 疲れたりとも 花につなぐな

> 黒髪も いつか素麺 としどしに 七夕のうた 詠むとせしまに

普通の和歌もあるはずだと探してみるが、

> 隅田川 堤の桜 咲く頃は 花の白波 寄せぬ日ぞなき

普通だ。うっかり普通の和歌を詠んだという感じ。

> あらたまの としのはじめの 初声は 春駒よりも ましらふの鷹

ましらふは「真白斑」。

> 鳥が鳴く 東の日枝の 山桜 咲くやゆたかに にほふ春の日

「鳥が鳴く」は「東」の枕詞なのでしゃれではない。
「東の日枝」とは要するに上野の東照宮のこと。
さすがに江戸っ子の幕臣、家康をネタに狂歌は詠めなかったようだ。

> たらちねの 手織りの羽織 常に着て 綿よりあつき 恵みをぞ思ふ

「ある人母の手織りの羽織の裏に歌を請う」とある。
これまたふざけるわけにはいかない。

> この春は 八重に一重を こきまぜて いやが上野の 花ざかりかな

どうして一ひねりしたがるのかなこの人は。
普通に詠めば良さそうなものだ。
この歌も、

> この春は 八重に一重を こきまぜて 上野の山の 花ざかりかな

とかすれば普通に和歌になる。
「こきまぜて」は歌語である。ただの口語ではない。
ただ上のようにするとあまりにも普通である。
つまらなく陳腐である。
蜀山人も自覚していただろう、
自分がまじめな歌を詠むと陳腐なありきたりの歌になってしまうことを。
だからついオチをつけてしまいたがるのではなかったか。
もともと狂歌を詠むのは得意だったからいつの間にかそちら専門ということになった。
もとはまじめな人なのだ、おそらくは。
ものすごく勉強した人だから、つい昔の歌をもじってしまう。
しかし自分のオリジナルの歌がなかなか詠めない焦り。
おそらく私生活もごく平凡な人だっただろう。
波瀾万丈からは遠い、江戸後期のいたって平和な江戸市中の暮らし。
漢詩や漢文だとまじめくさっていても別に変じゃないが、
古文であろうとも日本語でまじめなこと言うと照れくさい。
ついふざけたくなる。親父ギャグ言いたくなる気分。そういう気持ちだろうと思うが。

> たれをかも 仲人にせん 高砂の 松もむかしの 茶飲みともだち

> 豆腐売る 声なかりせば 朝顔の 花のさかりは 白川夜船

狂雲集

一生受用米銭吟 
恥辱無知攪万金
勇色美尼惧混雑 
陽春白雪亦哇音

狂雲真是大灯孫
鬼窟黒山何称尊
憶昔簫歌雲雨夕
風流年少倒金樽

まだ良く調べてないのだが、一休の漢詩集。
wikiによればこの中に

> 門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

という和歌があってこれのみが、一休の真作と認められているらしい。

まあ、和歌はともかくとして漢詩の方はどうやらかなりきっちり作られた七言絶句で、
韻を律儀に踏んでるし、平仄もまともである。
かなりの使い手と言っていい。
内容がかなり破戒的だから韻律的には完璧を期したか。

ググってみた感じでは、流通している本が書き下しのものばかりのようで、
群書類従にオリジナルがあるそうだから今度見てみなくては。
群書類従は大きな図書館にはたいていあるから助かるわな。
日本外史も書き下ししか出回ってないが、それはそれとして、
漢詩は白文がないとどうにもならんわな。

古今夷曲集

一休の和歌は「古今夷曲集」などにかなりの数採られているのだが、真作なのか。
これに採られている西行、慈円、道元、沢庵の和歌というのも同様だ。
中には松永貞徳や木下長嘯子のような普通に有名な歌人も混ざっている。
鎌倉時代の西行や道元や慈円、室町時代の一休の真偽はあやしいとして、
貞徳、長嘯子、沢庵は同世代の人だから真作かもしれん。
うーん、油断がならん。

「古今夷曲集」は生白庵行風という僧が編んだ日本初の狂歌集だということで、
それはそれなりに貴重なものだ。
行風は後水尾天皇とだいたい同世代、江戸初期の人。
「後撰夷曲集」「銀葉夷歌集」などの歌集も選んだようだ。

> 和歌は情淳にして風情をかざり、夷歌は俗語をもきらはず、心ただしく理にかなふをもはらとせり

なかなか良いことを言っている。
もともとは狂歌とは言わず、夷歌と言ってたというところが興味深い。
一休の号が狂雲であるので、もしかするとその影響で狂歌と呼ばれるようになった可能性もあるわな。

少なくとも行風自身の名がついている歌は真作だと考えてよかろう。
貞徳の歌が割と多いのは直接の知り合いだったからかもしれん。

一休

> 餅つかず しめかざりせず 松たてず かかる家にも 正月は来つ

うーん。
どうなのかこれは。

行風

> ともすれば 花の顔さへ 打ちちらす 風の手ぐせを 直してしがな

これは、たしかに狂歌ではあるが、ぎりぎり和歌と言えなくもない。
できも悪くない。

行風

> 野にたてる 夜風ひきてや 撫子の はなたれたりと 見ゆる朝露

これも斬新で良い。
風邪引いてはなを垂れるとかけているわけだ。

長嘯子

> 人ごとに 腰折れ歌を 詠みおきて あたら桜を 杖にこそつけ

ひどい歌だな。

宗祇

> ものごとに たらぬたらぬと 思ふこそ まよふ心の 作りやまひよ

本物なのか。

海老の絵に詠める
沢庵

> いかばかり えびを取り食ふ 報いあらば つひには老いの 腰やかがまん

ばかばかしいな。

布袋絵の賛に
沢庵

> この袋 あけてみたれば 何もなし 何もないこそ 何もありけれ

法然

> 口にある 南無阿弥陀仏の 味はひを 自力の人は 食ひ知らぬなり

法然

> ありがたや 障りのおほき 女人をば 弥陀ひとりこそ たすけましませ

本物なのか。

弘法大師

> 今ははや 後世の勤めも せざりけり 阿吽の二字の あるにまかせて

良く出来た偽物だな。

一休

> 作りおく 罪の須弥ほど あるなれば 閻魔の帳に 付けどころなし

一休

> 嘘をつき 地獄に落つる ものならば 無き事作る 釈迦いかがせん

一休

> すぐなるも ゆがめる川も 川は川 仏も下駄も 同じ木の切れ

一休

> たぞにたぞ たぞたぞにたぞ たぞにたぞ たぞにたぞとて 何もなきかな

おまえは誰だといろんな人に問い詰めた結果何もなかったということか。

うーん。釈教歌がやたらと多いな。
ありがたく使わせてもらうか。

増税

増税は悪い困る庶民が暮らしにくくなるという報道ばかりがなされる。
報道というものはそういう印象操作であってよいのか。
ちゃんと国会で審議されて法律が通っているのになぜそれをわざわざ蒸し返すのか。

増税に反対する人がいれば、
賛成する人もいる。
両者の意見を採り上げないのであればそれは公正な報道とは言えないのではないか。
いや、増税するのは官僚の利権であるとか、
政治家の秘密財源となるからだという。
庶民には決して還元されないのだという。
ほほう、なるほど、それは一見「良く訓練された納税者」の意見のようにみえるが、
マスコミが言っていることをオウム返しにしているだけではないのか?
マスコミがそういう一方的な事ばかりいうから反対側の発想が生まれてこない脳になっているのではないのか?
ちゃんと自分の頭で考えたのか。
税とは何か。

いやそれはおまえが政府陰謀論に対抗してマスコミ陰謀論をぶちたいだけだろと思われるかもしれない。
阿倍政権の肩を持つのもいい加減にしろと思うかもしれない。
そう思いたければ思うがいい。
そういう貧困な発想しか自分の脳から出てこないのが不幸だということに気づくまでは。
いや一生気づかないかもしれないが。
マスコミ以外のところから知識を脳にストックしないと、
そもそもストックされてもいないアイディアが出てくることはない。

そこらへんの子供を見てみたまえ。
まだ収入もなく納税もしていない子供のくせに増税ガー、といっている。
子供の言うことはすべてテレビのうけ売りだ。
ただの脊髄反射だ。
テレビが一斉に同じことを言い出すと子供はそのまんま信じる。
ちゃんと経済や政治について教育を受けてない年よりもそうなる。
頭を使わないとそういう意見になる。
同じ理由で日本は日中戦争に突入し大東亜戦争に発展したのではないのか?
戦争に反対すれば戦争は防げるのか?

子供でも増税に反対することはできる。
私たちは大人だ。
タックスペイヤーだ。
納税してない人たちのことまでは知らん。
一応働いて納税している一人の人間として言わせてもらえば、
増税すべて悪いと言う論調は迷惑だし、
政治家と官僚の陰謀だというパブロフの犬的な反応しかできない大衆が不憫だ。
実は日本という国はすごく馬鹿になりつつあるのかもしれない。
或いは、利口な人たちはますます寡黙になりつつあるのかもしれない。
それはどちらも決して良くないことだ。

納税することによって納税者の収入は減るが国の収入は増える。
プラスマイナスゼロだ。
誰が得する損するという単純な話ではない
(最近は共産主義者ですらそういう物言いはしないようだが、北欧型社会福祉国家とはようするにそんなもんだよな)。
誰だって自分の資産を投資する。
預金する人もいれば株を買う人もいる。
我々納税者は国に出資をしてインフラを整備してもらい社会保障してもらう。
役人や代議士を雇って政治をしてもらう。
いわずとしれた社会契約説だ。

だから、納税者というのは株主のようなものだ。経営者のようなものだ。
あんがい社会契約説も株式会社というのも根っこは同じだろう。
市民革命はオランダ独立と市民革命あたりから出てきたとかいろいろ言われるが
(アメリカ独立戦争は明らかにオランダ独立戦争の影響を受けている)、
東インド会社が出来たのと同じころだ。
株式会社を経営するのと同じ発想で国家を運営しようという、ただそれだけのものではなかろうか。

株主は配当金も欲しいだろう。しかし可処分所得を減らしてでも投資したいと考えるかもしれない。
納税者は国がどこからどのくらい税を集めてどこへ使うかということを考えるべきだ。
そういう発想を前提としてなければ要するに中世と同じじゃないか。
マスコミはもう少し出来る子だと思っていた。
非常に残念だ。

藤原為家

俊成の子が定家で、定家の子が為家なのだが、
為家は今までノーマークだったのだが、割と歌がうまい。
この三人、いずれも勅撰集の選者となった。
選者を三代独占したわけである。
かなりやばいことである。

俊成は感覚的な抒情的な歌を詠む。
定家は研究成果を実作として試してみましたみたいな固い歌を詠む。
為家は定家ほど固くない。
俊成や定家のいいとこ取りしたような優美な歌を詠む。
悪くない。
決して凡庸な三代目ではない。

結局、為家から二条派とか京極派とか冷泉家とか歌道の諸派や家というものがみな分かれていくわけである。
為家は知名度のわりにはかなり重要なロールプレイヤーでありキーストーンだと思う。
親子三代続く家系というのは後世に大きな影響を及ぼす。
伊豆の北条早雲・氏綱・氏康も三代英主であった。
菅原道真も博士を世襲したというが、父や子の名は知られてない。
紫式部も娘や孫娘も物語を書いたわけではない。
もし書いてたとしたら日本古典文学はどれほど違ったものになっていたことか。
貫之の子や孫が歌の名人だったらどうなったことか。

ともかく、俊成・定家・為家の親子三代はやばい。
過大評価されてもおかしくない。
日本文学を呪縛しているといってもよい。
もちろん彼らに負うところも大きいわけだが。

この三代の中では定家が一番名高いのだが、たぶんだが、歌が一番うまかったせいではなかろうと思う。
後鳥羽院が俊成より定家の方が良いなどと褒めたものだから、定家が一番良いことになっているが、
まあ、そういうふうに見える面もあるというだけ。
定家は膨大な日記を遺しているが、後世の学者はそういうのが好き。
万葉集も研究した。
歌も理屈で出来ている。
後世の人はそういう人の方が理解しやすい。
後鳥羽院も新古今集もわりと理屈で理解できる。
新古今は、あれはただ難しそうに見えるだけで、ある程度知識があればすらすらわかってしまう。
しかし、古今はわからない。
情報量が圧倒的に足りないからだ。
ぱっと見、わかりやすそうだが、調べれば調べるほどわからなくなる。
わかってないやつらがよってたかっていじり散らしているせいで余計手がつけられない。
新古今は積み上げ教育すればわかる。
調べるほどにわかってくる。
だから学者はそれが楽しくて仕方ない。

俊成や為家は理屈で説明つかない。
西行や和泉式部も説明つかない。
古今集はいろいろ理屈をつけようとして失敗している。
評論家は説明しやすい人が好きに決まってる。文章書きやすいから。
説明できないことを無理矢理説明する人もいるがそういうのはただのエッセイだからほっとけばいい。
でまあ、評論家が高く評価する人を世間の人はどうしても偉い人だと思ってしまう。
仕方ないことではあるが、それもまた文学というものをゆがめていると思うよ。

つまり何がいいたいかといえば、後鳥羽院や定家などは現代の評論家や学者には受けがよい。
ただそれだけだと思う。
頭で歌を詠んだという意味では紀貫之に近い。

この、俊成・定家・為家三代の周囲には強烈な重力場が存在していて時空をゆがめている。
後世の古今伝授や附会などの淵源もまたここにある。

定家の時代にはすでに仮名遣いが乱れていた。
発音と表記が乖離を始めていた。
古典文法が不安定にゆらぎはじめた。
日本古典文学の中で書き言葉と口語がほぼ理想的な形で一致していたのは、
やはり紫式部や赤染衛門、和泉式部の時代だ。
つまりは藤原道長の時代。
摂関政治の絶頂期。
日本語という言語に非常に厚みができた。質も高かった。
だから「正書法」が生まれ得た。日本語におけるサンスクリット、ラテン語、コイネーに匹敵する。
だから源氏物語も生まれ得た。
この時代だから。
この時代に勅撰集が編まれなかったのが悔やまれる。
たぶんそんなことをやろうという天皇も公家もいなかったのだろう。
あとは大鏡とか。
まあ読み物としては良いとして、
せっかく日本古典文化の最盛期であったのに。惜しいことである。

古今の頃も良いがまだ古代の雰囲気を引きずっている。
完成度は低い。

だから、古今が良いとか新古今が良いとか言うが、
ほんとは古今と新古今の間、てかもっと精密に言えば、
拾遺と後拾遺の間の和歌、
つまりは和泉式部や赤染衛門の和歌をお手本として和歌は詠むべきであると思う。
和泉式部日記を読むときのあのなんとも言えぬ陶酔感はおそらくそこに由来する。

拾遺と後拾遺の間には長いブランクがあった。
清少納言や紫式部みたいな個人制作はあったが、国家プロジェクトとしての編纂事業がなかった。
官僚や政治家にボトムアップから生まれる文化がわかってないから。
困った時代だ。
今の日本みたいだ(笑)。

古今や新古今を手本にするのは少し曲がる。
まして万葉集などは玄人が参考にするのはともかく初学者は避けた方がよい。
赤染衛門はものすごく平明でよい。
当時の口語にもっとも近い和歌で、仮名遣いにもほとんど乱れがない。
サンプル数も十分にある。
ありがたいことである。
もし数十首しか残ってなければ参考にしたくてもできない。
千近くまとまった数をみれば雰囲気は十分わかる。
それから語彙が広い。
紋切り型の表現がほとんどない。
花鳥風月から日常茶飯、写生から心理描写にいたるまでいろんな歌を詠んでいる。
自由自在な歌だ。
誰の歌にも似てない(検索してもフレーズがほとんど重複しない)。

> 昔より 憂き世に心 止まらぬに 君よりものを 思ふべきかな

> 憂き世には 何に心の 止まるらむ 思ひ離れぬ 身ともこそなれ

こんなふうに同じ気分を別の言い方に変えてる歌がたくさんある。
連作というのとも少し違うわな。
たぶんいくつか歌を詠んでそのうち良くできたやつを二つずつくらい残しているんだよ。
初学者(ただ和歌を学ぶというのではなく和歌を自分で詠もうという人)にはこういうのがありがたい。
良いエクセサイズになる。
赤染衛門が歌の推敲や添削をする雰囲気を味わえるからだ。
ここを起点にして古今や新古今を学び、万葉や近世の和歌を学べばいいと思う。

今から思うと明治天皇御製は江戸時代の庶民の和歌、
つまり堂上和歌ではなく、香川景樹あたりの桂園派の流れをくむから、
初学者にわかりやすかったのだと思う。
江戸時代にも文学の厚みがあった。その産物なのだ。
私がそうしたように、そこから始めるという手もあるかもしれん。

ひとつの仮説

> 飲む前は飲まじと思ふ 飲めばとくやめんと思ふ されどすべなし

特に最近の傾向だが、
酒を飲まずにいると血圧が 99-65 とかになる。
普通に低いのではなく、
アンカロンやアーチストなどの薬によって心臓を強制的に休ませているせいではないか。

だが、酒を飲んだ翌朝は 139-95 とかになる。
約40跳ね上がる。
この効果は約2日続いてまた血圧は下がる。

血圧と血中アルコール濃度に明らかな相関がある。
人間の体はみんなそういうもんかというとそういうわけではなく、
アルコールを飲むといったん血圧は下がるものである。
そこからやや上昇するということはあってもここまで極端ではない。

それから、酒をしばらく飲まずにいると、
何もしないのに体重は減少もしくは維持する傾向がある。

それでまあ一つの仮説なのだが、
薬を飲んで血圧が 99 くらいになっていて酒を飲んでさらに血圧が 80 とか 70 に下がろうとすると、
私の体はこりゃ大変だということで一生懸命無理に血圧を上げようとする。
同時にLDLコレステロールを大量合成して血中コレステロール値を上げてしまう。
コレステロールを合成しすぎるのは体に良くないがこの際血圧を維持するためには仕方ない。

さらに、ものを食べずに酒を飲むとさらに血圧が下がるというので、
体は余計にカロリー消費を抑制して、余計に痩せなくなる。

つまり、薬と酒の作用で私の体は飢餓状態・病気の状態と勘違いして、
いくら痩せよう、コレステロール値を下げようと思い、食事制限をしたり歩いたりしても、そうはならないのである。
だから体全体は痩せてきても最後まで腹の脂肪が落ちないのだ。
次の血液検査まで酒を抜いてみよう。
今までは検査の前日だけ酒をやめていた。それではだめなんだろう。
それでコレステロール値が下がっていれば、
まずその仮説で間違いないのではなかろうか。

寝る前に毎日ちびちび養命酒を飲む、という飲み方は案外間違いではないかもしれないが、
そもそもそんな飲み方は私にはできない。