漢文体

江戸時代まで、あるいはおそらく戦前までは、漢文のテクストとして、論語や大学のような中国の古典ももちろん利用されてはいただろうが、
それと並行して、吾妻鏡の腰越状だとか、日本外史などが利用されていた。
つまり、当時の武士というのは事務仕事もしなきゃならないが、日記にしろ公文書にしろ漢文で書く。
漢文で日常的な作文をしなくちゃならないのに、
ただ中国の古典だけ読んでいて書けるはずがない。
公家が書いていた漢文の日記だとか、あるいは吾妻鏡のように漢文で書かれた公文書なども当然参考書にしたわけだよ。

ところが戦後の日本の教育では日本人の漢文というものがまったく排除されてしまった。
しかも近代や現代の中国語を教えるわけでもない。
ただ単に浮世離れした漢籍だけを教えるようになった。
これでは日本人にとっての漢文体というものがまったくわからんようになっても仕方ない。

せいぜい森鴎外とか中島敦とかそういうふうなところからしか「日本人の漢文体」を習わない。
漢文体に接しない。

頼山陽が詩人であったということと、日本外史が漢文のテクストとしても使われていたということは非常に重要な意味があると思う。
日本外史が日本の漢文体に与えた影響はおそらくものすごく大きい。
しかし今の国語教育にはその観点が完全に欠落している、と思う。

室町時代

忘年会があってスピーチとかがあったわけなんだけど、
室町時代は政治は貧困で人民をいたわるという思想がなかったが文化が栄えたみたいな話があり、
だから室町時代と今の時代は似ているなどと言ってて、
みんなあっそうみたいな感じで聞いていたわけですが。

確かに以前私も漠然とそんなふうに思ってたような気がするので偉そうなことは言えないのだけど、
つまり、足利義政は政治を顧みず銀閣寺なんか作っちゃって遊びほうけていて、
応仁の乱みたいな内戦がなんか大義名分もなくだらだら何十年も続いて民百姓は困り切った、京都は荒廃し人民も困窮した、
だが能や茶の湯や書院造りなど現代まで続く日本文化の基礎ができた、
などというステレオタイプなイメージだと思うんだよね。

確かに室町時代の政治は混乱していたが、それが政治が貧困だったという言い方はどうだろうか。
たぶん足利義政は特別無能でも怠惰でもなく、ある程度賢かったから政治に嫌気がさしただけなんじゃないか。
義政は将軍としていろいろ仕切ろうとしたのだが、誰も言うこと聞いてくれない。
畠山氏の相続問題に中途半端に介入したもんだから、細川氏と山名氏の代理戦争に発展。
当時の守護大名は後の戦国大名の卵みたいなもんで、鎌倉時代の御家人に比べればはるかに力をもっていて、
簡単に足利将軍の言うことを聞かない。
足利将軍が天下に号令しても、鎌倉幕府の北条氏みたいには言うこと聞いてくれない。
ていうか、足利義持の時代にそれやろうとして失敗してからぐだぐだになった。
じゃあ有力守護大名が足利将軍を廃して、あるいは執権みたいにして実権を握るかというとそんなこともしない。
ただだんだんに将軍家が弱体化して有名無実化しつつ、一方で大名は完全に世襲になり、自分で勝手に所領を経営し、
勝手によその国を併呑したりする。
或いは家人がいつの間にか領主になったり。
将軍家には事後承諾。いわゆる下克上。

で、これが政治的に貧困かというと、それまでの日本の政治に比べると、むしろ豊かと言った方が当たってる。
だもんだから文化的にも発展があったのだと思うのよね。
それまでは源氏か平氏かとか、天皇家か藤原氏かとか、将軍家か執権かとか、割と対立の構図は単純だったのよね。
それはつまり家父長制でもって人の集団ができてたからだと思うし、
逆に、人の集団が血縁に寄らねば作れなかった。
目上の人に絶対服従しないと飯が食えない。
そのため一族郎党の権限が嫡子に集中するようにできていた。
頼朝はそれを最大限に利用したんだと思うが、そういう発想ってどちらかと言えば人類の歴史以前からあったんじゃないの。
人の集団が血縁によらない機能集団になってきたのは北条氏以後だよね。
足利幕府だともう、足利氏以外に管領やらなにやらたくさん有力な氏族が出てくる。
これって実は社会がものすごく複雑で高級になってきた証拠だよね。

でさらに、室町時代と日本の戦後社会を比較したときに、ほとんどまったく何も共通点がないって気にもなる。
ものすごい勢いで中世の統治システムが崩れていき、群雄割拠と地方分権が進んでいた時代と、
敗戦によって政治的には腑抜け腰抜け状態となったが、経済的には焼け野原から復興して大国になってバブルがはじけたという今の日本。
やっぱり全然似てない。
何をもって似ているというのかさっぱりわからん。
たぶん、「経済一流政治三流」と「政治貧困文化爛熟」ってのが似てると言いたいのだろうが。

ていうか、室町時代の政治が貧困ってのは、いつの時代と比べて言っているのかね。
平安、院政、鎌倉、南北朝、戦国、江戸、明治、いつの時代だろうか。
どれが特に優れているとも言えないよな。

院政

院政は白河上皇に始まり、後鳥羽上皇に終わるという。
時代で言えば平安末期から鎌倉初期、
保元・平治の乱から承久の乱まで、
源平合戦から北条氏執権確立までなわけだが。

院政とは、天皇家が家父長制を強化して外戚藤原氏に対抗し、特に、政治的実権というよりは、
相続争いの主導権を天皇家自身が獲得したいと考えたからだと言われる。
外戚の藤原氏に勝手に天皇を廃立されたくないので、自分がまだ健康なうちに後継者を自分の意志で決めて譲位する、
あるいは幼い天皇が崩御したときに摂政関白ではなく上皇が引き続き政治を行う、ということだろう。

藤原道長は源頼光ら武士団を味方に付けて四天王と称した。
その後も藤原氏は主に源氏に身辺警護をさせてきた。
これに対して上皇は北面の武士を設けたがその主力は平氏だった。
院政は始めのうちは天皇家が藤原氏を牽制するためにあったのだが、
藤原氏側に源氏が、天皇家側に平氏がつくようになり、
次第に源平の代理戦争の様相を呈してくる。

後白河法皇の時代には清盛をあまりにも寵愛したために、もうわけわからなくなってきて、
藤原氏以上に平氏が力をもってしまった。
後鳥羽上皇の時代には武士があまりにも力を持ちすぎてしまい、
天皇対藤原氏という構図自体が無意味になっていた、ということでよいか。

稿本国史眼

[近代デジタルライブラリー所蔵](http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40011969&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0)。
閲覧できるのはありがたいが、JPEG2000形式とかどうなのよ。
10年くらい前にはJPEG2000推進者もいたかもしれんが。
あと、ワイド画面が主流の現在、インターフェイスが激しく使いにくいのよね。
なんかマイクロフィルムの感覚だよねこれは。
PDFだよなあたぶん。

稿本国史眼 巻之三 第十一紀 院政ノ世

「院政」という単語は日本外史にはただ一度しか出てこない。
というのは、[PDF](http://8.health-life.net/~susa26/zakkityo/nihongaisi/)を全文検索したからなのだが。
もちろん誤字や脱落があったら別だが、
まあしかしテキストデータが存在するということはどんなにすごいことか知らんね。

自分のブログとか自分がやってるWikiに先に書いてしまうと、
Wikipediaに転載したときに著作権者がどうしたこうしたとかややこしいことになってしまう。
逆だとまあ問題は発生しないが。
本人が転載したかどうかなんて、IPアドレス調べれば簡単にわかるわけで、
checkuser制度もあるわけだし、私が気にすることではないかもしれん。

ていうか、wikiはそもそもGPLで公開してるし、
ブログとwikipediaはユーザ名が同じなんだから、特に何の問題もない罠。

まただまされたわけだが。

久しぶりに漫画のエントリで。

ついこないだも、見た目「深夜食堂」風のエッセイ集を間違って買ってしまったのだが、
昨日も久住昌之著「野武士のグルメ」を買ってしまった。
漫画売り場にあって見た目漫画にしか見えない。
実に紛らわしい。
せめて漫画以外はビニールで封するのをやめて欲しい。
そしたら見分けがつくから。
お願いします。

それはそうと「極道めし」は自分的にはかなりヒット。
よくできてる。

熊手

源氏前記平氏の平治の乱の辺りを読んでいた。
「平将軍再生すと謂ふべし」というくだりがある。
ここの「再生」も「死んだ人がよみがえる」という意味だな。
また八町二郎という者が「鉄搭を以て」平頼盛のかぶとを「鉤す」とあるがこの搭もやはり「熊手」
なのだろう。
wikipedia にも「熊手」の中に「武器としての熊手」という項目があるが、
どうやら長い柄がついた鉤鉾のようなもの、
あるいは今でも漁港や釣りで使われる打ち鉤のようなものだったのではないかと推測されるのだが、
よくわからんな。
水上の戦闘では敵の船に打ち付けて引き寄せるのに使ったそうだから、必需品だったようだ。
「熊手」というのは軍記物にそのままそう書いてあるのだろう。
実際熊の手に似せて作ったのかもしれん。

しかし我ながらこんなにボロボロになるまでよく読むなと思う。
この岩波文庫の日本外史など絶版なので、無くすと古本をamazonかなんかで買うしかなく、
たいへん困る。

脳科学的にどうこうという

二十代の頃は、空から鳩が飛んできて頭に止まるように、
霊感が空から降りてくるような感覚に襲われることがあるのだろう。
それは二十代の脳というものがそんな仕組みになっているからだろう。
生まれてから、十代を経て、脳の機能が完成へと向かう。
知識も爆発的に増える。
しかもそれらは何もかも新しくておもしろい。

鳩が頭に止まったなと思ったら、ぼーっとしていてはいけない。
三歩あるくと忘れるというが、霊感が宿ったら、直ちにそれを「゛言葉」や「図」に置き換え、整理し、記録し始めなくてはならない。
霊感を授かる作業と、それをまとめ形にする作業はやや異なる。
気持ちの切り替えが必要だ。
鳩が頭に止まってくれても、知らずに百歩も歩いているうちに鳩はまたよそに行ってしまうだろう。

四十代の脳はそういう風にはなってないらしい。
ちかごろまったく鳩が頭に止まりにこなくなった。
二十代のころは、せっせと鳩を捕まえるのに忙しかった。
三十代のころは、鳩がなかなかこないので、一生懸命待ち伏せした。
今はまるで来ないのでもう諦めた。
昔つかまえた鳩をいじくり回してその経験だけで生きている感じだ。
まあしかし経験というのも必要ではある罠。
二十代のころは親兄弟に経験者がいればも少し楽だったかもしれない。
だがわが肉親たちの経験というものは、私にはあまり役立たなかったように思う。

四十過ぎても預言者のような妄言を吐きまくる人たちがいるが、
普通に考えれば、狂言なのだろう。
経験によって、かつての預言者だった頃の自分を演じているというか。
たぶんそんなところだな。

曽我兄弟

日本外史を読んでいて、やはり、予備知識がないとわからんところはどうしてもわからん。
例えば曽我兄弟のことを「二孤」などと書いてあるのだが、
曽我兄弟を知らない人が、ここの漢文だけを読んで、何を言おうとしているのかわかるだろうか。
どうひねくり返してもわからんときには、頼山陽が参照した原典を読んでしまった方がずっとわかりやすい。

たとえば腰越状などにしても、
「先人の再生にあらざるよりは、誰か為に分疏せん」などと書いてあるがちんぷんかんぷんだ。
これは「亡き父・義朝がよみがえるようなことでもなければ誰が私のために申し開きをしてくれるだろうか」という意味だ。
がんばって解読するよりはさっさと古典を読んだ方がまし。

「疏」というのもわかりにくい漢字だが、箇条書きのようなものを言うらしい。
「分疏」では細かく説明する、弁解するの意味になり、
「疏状」は告発書、訴状のようなものを意味するらしい。
わからんよなあ。

壇ノ浦の戦いで「鉤」または「搭」などの語が出てくるが、
これらはいずれも「鉄の熊手」のことで、「鉤」はまあ鉄のかぎ爪だとわからんでもないが、
「搭」に至っては、たぶん漢和辞典でなく中国語辞典でも引かないとこれが「熊手」であることはわからんのだな。

「法皇弗予」なども「弗予」が謎である。
読み仮名の「ふよ」と、
文脈的に「不予」(天皇の病気)だろうと推測できるが、そもそも不予という言葉を知らなければ予測もつかない。

で、結局、日本外史を読むということはその出典もすべて読まないと完璧とは言えない、ということだろう。
幕末維新の武士たちが日本外史を読んで勉強したというがどの程度彼らは読めていたのだろうか。
たぶん、日本外史以外の書籍が相当にちんぷんかんぷんで、日本外史はそれらよりはましという状況だったのではないか。
まあ、今の教育が進んだ情報化社会と比較しても仕方ないわけだが。

google日本語入力だが、固有名詞には非常に強い。
マイナーな登場人物の名前もばんばん変換できる。
しかし、当然変換できるはずの単語がうまく変換できなかったり(たとえば「頼家」とか)。
atokの手書き文字入力も捨てがたい。
なんで結局atokとgoogleを切り替えながら書いている。