本居宣長

筑摩書房の「本居宣長全集」第2,15,18巻、それと小林秀雄「本居宣長」を借りてくる。
全集の解題は大久保正という人が書いているが、
中野重治が

> あんなおかしな歌を何年も何年もこりずに書いたような精神のある面が、その面は詩には無関係のものだったが、とにかく、宣長の学者としての仕事を支えていたのだと思う。

だとか、大久保氏自身も

> 宣長の和歌は今日すでに文学の化石となっている

> 彼の夥しい作中から強いて秀作を拾おうとする試みは、ここでは、それほど意味があるとも思われない

> 宣長の詠風が十年一日の如くで、極めて変化に乏しかった

などとぼろくそと言って良いほどにけなしている。

小林秀雄も

> その歌の内容を問うよりも

などと暗に歌そのものとしての評価を避けようとしている。

本居宣長は自画像も描いているのだが、確かに平凡な絵ではある。
同じことは歌にも言えるのだろうとは思う。
また遺言書に自分の墓の絵まで描いて事細かに指示してあるのはやはり何か異様なものを感じる。

その歌というのが一万首近くもあって、多くの人にとってはそれは過ぎ去った過去の学者の習作か詠草であって、
詩的な、今日的な価値はない、と言いたいのだろう。

しかし、本居宣長の歌でおもしろいものはかなり多い。
少なくとも宣長よりも下手な歌詠みはたくさんいる。
なぜみんな宣長の歌をほめようとしないかというとただ単に戦後民主主義的な雰囲気が妨げているだけではないかとさえ思える。
宣長が、ことあるごとに「やまと」「こま」「もろこし」などを歌に詠みたがるのが煙たいのだろう。
国学として、歌論としてそういうことを言っている分には良いとして歌に詠まれるのが憎らしくはがゆいのではないか。

> めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり

> 忘るなよわがおいらくの春までも若木の桜うゑし契りを

> この花になぞや心のまどふらむわれは桜の親ならなくに

> 桜花ふかき色とも見えなくにちしほに染めるわが心かな

> さし出づるこの日の本のひかりよりこまもろこしも春を知るらむ

小野小町を詠める:

> 今もなほながめせしまのおもかげは露けき花に見るここちして

紫式部を詠める:

> 言の葉に染めずばいかでむらさきのふかき心の色は見るべき

> 言の葉はたぐひなき名の立田姫いかに染めける錦なるらむ

確かに秀歌というかどうかはともかくおもしろい歌は多い。

> 待ちわぶる桜の花は思ひ寝の夢路よりまず咲きそめにけり

> のどかなるあたら春日を花も見で咲くを待ちつついくか経ぬらむ

「のどかな春の日を、花も見ずに過ごすのはもったいない、もう何日花の咲くのを待ちながら日が経っただろうか」、
という実に素直な歌だ。

> 朝な朝な庭のもみぢの色見れば賤き心のはづかしきまで

> いくばくもあらぬさくらの花ざかり雨な降りそね風な吹きそね

これはわざとこういうふうに詠んだのだと思うよ。
なかなか味があるじゃないか。どうよ。
宣長は学者だったから、素人が歌を詠む手本になるよう、
わざと教科書的な歌をを詠んだと思う。同じことは明治天皇にも言える。
自分で歌を詠もうと思ったときにこれほどたくさんサンプルがあると便利。

つまり、本居宣長とか明治天皇の歌というのは、純粋なミネラルウォーターのようなもので、
本人が詠んだことが確実で、文法的にも間違いがなく、かつ量が多い。
初学者がそのまま何の疑いもなく学ぶことができる。
こういう純度の高い歌集は勅撰集以来そうざらにはなかったものである。

ところが江戸時代の武士の歌などは個々の歌人のものはサンプル数も少ないし、
真作と偽作が混ざり合い、
文法もいい加減で、
見た目はとっかかりよさそうに見えて、
これらを手本にして和歌を学ぶなどということは不可能であり、
できは良くても狂歌や戯れ歌などであったり、
むしろ玄人が慎重により分けないとまともに鑑賞することすらできない、というわけだ。
だから私は、宣長の一万首の歌は今日的にも非常に価値が高く、
宣長の著述の中でけっして軽んじることのできない部分だと思う。

四方の海

ふと気になって明治天皇御製で「四方の海」を検索して見たのだが、かなりある。
実際にはおそらくこの数倍はあるだろう。

> 池水のうへにもしるし四方の海なみしづかなる年のはじめは (明治20年)

> 四方の海なみをさまりてこの春は心のどかに花を見るかな (明治29年)

> いくさぶねつどふもうれし四方の海なみしづかなる世のまもりにと (明治33年)

> まじはりのひろくなりゆく四方の海は波たつ風のおともきこえず (明治34年)

> 外つ国のふねもつどへり四方の海なみしづかなるとしのはじめに (明治36年)

> 仇波のしづまりはてゝ四方のうみのどかにならむ世をいのるかな (明治37年)

> おほづつの響きはたえて四方の海よろこびの声いつかきこえむ (明治37年)

> 四方の海みなはらからと思ふ世になど波風はたちさわぐらむ (明治37年)

> 四方の海なみしづまりてちはやぶる神のみいつぞかがやきにける (明治38年)

> 波風もしづまりはてて四方の海に年のほぎごといひかはしつつ (明治39年)

> 四方の海なみしづかなる時にだになほ思ふことある世なりけり (明治39年)

> 波風はしづまりはてて四方の海に照りこそわたれ天つ日のかげ (明治39年)

明治29年のは日清戦争が終わったことを言っている。
一番有名なのは明治37年の「四方の海みなはらからと思ふ世に」であろうと思う。
さらにこれらには本歌がある。

> 四方の海なみをさまりてのどかなる我が日の本に春は来にけり

亀山天皇が元寇の後に読んだ歌。「弘安百首」に採られている。
また、

> 四つの海波もをさまるしるしとて三つの宝を身にぞつたふる

後村上天皇。こちらは新葉和歌集に採られている。
もっと遡ると「後鳥羽院御集」に

> ちはやぶる日吉の影ものどかにて波をさまれる四方の海かな

がある。
うーむ。
谷知子「天皇たちの和歌」を読みつつ。
なるほど、ここで「日吉」とは比叡山の東の麓にある、滋賀大津の日吉大社のこと。
同時に詠まれた「正治二年初度百首」中の御製では、伊勢神宮、石清水八幡宮、住吉大社、春日大社も詠まれていて、
要するに近畿の主要な社を詠んでいる:

> 万代の末もはるかに見ゆるかな御裳濯川の春の曙

> 石清水絶えぬ流れの夏の月たもとの影も昔おぼえて

> 三笠山峰の小松にしるきかな千とせの秋の末ははるかに

> 冬くれば四方の梢はさびしきに千代をあらはす住吉の松

御裳濯川(みもすそがわ)は五十鈴川の別名。
で、こうして並べてみると、「四方の海」以外の歌にはそれぞれ春夏秋冬が詠み込まれている。
こうしてみると「四方の海」の歌は正月に当たって四方の神々を遙拝する「四方拝」を意味しているのだろうと言うことがわかる。
なんとも見事だ。

辞世千人一首

荻生待也「辞世千人一首」を読む。
千人といっても、
江戸時代の辞世の歌(狂歌)が充実しているようだ。

便々館湖鯉鮒(べんべんかんこうり)という狂歌師の歌:

> 三度炊く米さへこはし柔らかし思ふままにはならぬ世の中

式亭三馬:

> 善もせず悪も作らず死ぬる身は地蔵もほめず閻魔叱らず

蜀山人:

> 生きすぎて七十五年食ひつぶしかぎりしられぬあめつちの恩

魚屋北渓(ととや ほっけい、浮世絵師):

> 暑くなく寒くなくまた飢ゑもせず憂きこときかぬ身こそやすけれ

中山信名は幕臣で、国学者。塙保己一の弟子の一人。

> 酒も飲み浮かれ女も見つ文もみつ家も興して世にうらみなし

のんきだな。
とまあこんな感じで、江戸時代とは実際泰平な世の中だったのかもしれん。
幕末維新はうってかわって殺伐としていて、中山忠光:

> 思ひきや野田の案山子のあづさ弓引きも放たで朽ちはつるとは

宮本大平:

> えびす船打ちもはらはで白雪のふり行く老いの身ぞあはれなる

達磨歌

冷泉為人「冷泉家・蔵番ものがたり」を読む。
藤原俊成・定家から続く冷泉家当主が書いた本。重い。
冷泉家は天皇が東京に遷都しても京都に残り続けたのだと言う。

定家の歌は当時「新儀・非拠・達磨歌」と批判されたという。
達磨とはつまりは禅宗の創始者だ。
達磨歌とはつまり禅問答のようなわけのわからない歌という意味だろう。
まったくその通りだと思う。

> 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

にしても

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮れ

にしてもそうである。
言葉は美しいが、描かれた光景はただの空虚な何もない世界である。
上の句で色彩鮮やかな光景を提示しておいてそれを否定し、下の句では代わりに寒々しい虚無な光景を残して放置する。
和歌をただ二つにぶち切って、華やかな世界提示と否定、そして救いようのない世界の放置という構成にする。
ただそれだけ。そういうパターン。
それで結局なぜ定家が受け入れられたかと言えばその言葉の美しさと禅問答のような空疎さ、難解さだろう。
あるいは本歌取りという退廃的な知的遊戯として。
禅もまたそれから武家社会で受容され、もてはやされた。
禅ってなんかかっこいい、みたいな。
そういうのをさらに発展させると「古池や蛙飛び込む水の音」や
「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」になっていくのだろう。
俳句とは要するに「達磨歌」の末裔なのだ。

だから、定家が当時「達磨歌」と呼ばれて批判されたと知ってなおさら自分の解釈の正しさを確信した思いだ。

神武天皇のひげ

ふと思ったのだが、
昔ひげを生やしていたとき君のひげは神武天皇のようだなといわれたことがあった。
あんたは神武天皇見たことあるんかい、と思ったのだが、
もちろん神武天皇を見た人はいるわけもないし、当時の絵画が残っているわけでもない。
そんなものがあるはずがない。

思うに戦前の人たちにとっては、
ひげをぼうぼうにはやしていると神武天皇というイメージがあったのだろう。
明治の軍人たちもどんどんひげを生やした。
フランスやドイツの軍人の影響もあったんだろうが、
みんなして神武天皇のようなひげを生やすというのが明治には流行ったものと思われる。

神武天皇に代表される神話はファンタジーだった。
今も昔も流行るのはファンタジーとか推理小説とか歴史小説とかライトノベルばかりなのだろう。
それがたまたま戦前は神代七代の神話だったということだろう。

広尾

ふと思ったのだが、明治天皇御製:

> 武蔵野の昔おぼえてはなすすき広尾の原にしげりあひたる

> かぎりなく見ゆる広尾のすすき原市にまぢかき所ともなし

この広尾のすすきの原というのは、
明治のころ広尾に広いすすきの原野が残っていたというのではなくて、
いまの有栖川公園を中心とする一角のことではあるまいか。
もとは盛岡藩下屋敷が皇室の御用地になったというが、下屋敷というのはつまり大名が江戸近郊に、
何にするとなく所有してた広大な空き地のようなものだから、
周りが町屋になってもそこだけ武蔵野の原のように残っていたのだろう。

鎌倉百人一首

尾崎左永子「「鎌倉百人一首」を歩く」を読む。
北条泰時:

> 年へたる鶴の岡べの柳原青みにけりな春のしるしに

藤原長清撰「夫木和歌抄」というものに採られたものと言う。
宗尊親王:

> 十年あまり五年までに住みなれてなほ忘られぬ鎌倉の里

日本史百人一首

渡辺昇一「日本史百人一首」。
平凡な構成。
北条泰時:

> 事しげき世のならひこそものうけれ花の散るらむ春も知られず

いやあ。京都で訴訟に忙殺されていたきまじめな泰時の姿が目に浮かぶような良くできた歌だけど、
本人が詠んだ歌じゃないよな。
太田道灌以来うたぐりぶかくなった。

徳川家康:

> 嬉しやとふたたび起きて一眠り浮き世の夢は暁の空

辞世の歌というが、まあ、本人の歌じゃないよね。というかどう見ても江戸の町人が詠んだ歌だろこれは。

またまた徳川慶喜:

> この世をばしばしの夢と聞きたれどおもへば長き月日なりけり

うーん。どうなのかこれは。

私撰武家百人一首

竹村紘一「士魂よ永遠に 私撰武家百人一首」を読む。

徳川慶喜

> とりわきていふべきふしはあらねどもただおもしろくけふもくらしつ

なんだか良い味出してるなあ。

佐久間象山

> みちのくのそとなる蝦夷のそとを漕ぐふねより遠くものをこそ思へ

なかなか面白い。

村田清風

> しきしまの大和心を人とはば蒙古の使ひ斬りし時宗

これはわろた。本居宣長のもじりやね。
蒙古は「もぐり」と読むらしい。

> 長らへば憂きことおほしはねよりもかろきいのちと思ひはてまし