私小説のすすめ

小谷野敦「私小説のすすめ」を読む。
比較的最近の本。
特に異論はない。さらっと読めた。
というか私はそもそもあまり小説というのは読んでないのだな。
いろんなものをつまみ食いはするが。
いや、読んでないわけでもないか。
小説で一番まじめに読んだのは中島敦かな。
なんとも言い難い。

ちなみに田山花袋「蒲団」は読んだことがあった。
ちなみに敢えて「蒲団」の感想を書けば、なんか嫌ぁな気分になる読後感の悪い小説、
しかも私小説となると余計に気持ち悪い感じといえば良いか
(しかし、三島由紀夫の虚構に盛られた私的世界の方が気持ち悪さという意味ではずっと強い)。
丸谷才一が代表的な反私小説的作家とあって、確かにそんな感じはする。
いきなり「エホバの顔を避けて」だし(その後のは概要しか知らないが明らかに私の嫌いな、読みたくないタイプの小説)。
たぶん自分の内面をさらすのが嫌なのだろうし、
作品と自分自身の実体験を極力切り離して、少なくとも悟られないようにしようと努力するのだろう。
絵画であれ文章であれ、
ほっとくとどんどん自分の主観が表れて、
それを見ると自己嫌悪に陥ってしまう。
そうなるとそういう私小説的な文章やら絵はかけまい。
さらにそこから進むと批評しか書けなくなるのではないか。

いつもこの人の文章をブログで読んでいるので、
新書で読むとなんか一瞬何かぐらっと変な感覚がした。

それはそうと書籍名を「」でなくて『』で囲むのには何か意味あるのか。
Wikipedia でもそういう書き方をする人がいるようだが。

ところで丸谷才一がいきなり「後鳥羽院」を書いた理由が未だにわからない。
当の「後鳥羽院」を読めばわかるのかもしれんが。
思うに丸谷才一という人は、
懲役忌避やら現代における封建時代の残滓などをテーマとしたような小説を書いたそうだから、
戦前の軍国主義につながるようなものは一切受け付けないのかもしれない。
となると、丸谷才一にとって日本文学の中で拒絶反応を示さず、
純粋にその世界の中に浸れるのは、悠久の昔からたどってきて、
完全に軍事放棄し軍事音痴と化した平安王朝と、武士らに滅ぼされた後鳥羽院までの文学なのかもしれん。
王朝が破局したあと、
武家のたしなみとしてそれなりに継承され、再発見され、
発達した和歌とか、軍国主義を無批判に礼讃したような和歌などは、
丸谷才一は大嫌いだろうと思う。
だが、丸谷才一はたぶん自分の本当に言いたいことは隠す人だから、
いろいろ読んでもすぐにはわからない仕組みになっているに違いない。

紀貫之

ひきつつぎ新々百人一首。

> 秋の山もみぢを幣と手向くれば住むわれさへぞ旅心地する

面白いかといわれればそんな面白くないかもしれんが、書き留めておく。

やはり「旅心地する」の辺りが良く効いている。

和泉式部

ひきつつぎ新々百人一首。

つゆばかり逢ひそめたる男のもとにつかはしける (和泉式部)

> しら露も夢もこの世もまぼろしもたとへていはば久しかりけり

すごいなぁ。
この誇張表現。

なるほど、丸谷才一は「はしがき」に言う:

> これは簡単に言ってしまへば、「アララギ」ふうの史観に対する拒否である。
つまり「万葉集」が屹然と聳えたのち、勅撰和歌集という無視して差し支へないものが二十一もつづき、
その時代では源実朝だけが推奨するに足り、やがて平賀元義その他があって、うんぬん

> 打ち割って言へばわたしはいはゆる近世和歌にも現代短歌にもあまり親身な者ではない。
悠久の昔にはじまって応仁の乱の頃に終焉を告げた王朝和歌といふこの文学形式を明確に意識してなつかしむことが、わたしと和歌との重要な関係なのである。

と。
なるほど。
平賀元義という人は初めて知ったが(なんかえたいのしれない擬古文臭い和歌を詠む人なのね)、
要するに正岡子規や斎藤茂吉らが流行らせた明治以降の短歌が好きではない、ということなのだろう。
だとすれば丸谷才一が自らは一切歌を詠まないという姿勢もわからなくもない。

実際、正岡子規は、俳句はともかくとして、和歌はまったく大したことがない。
良いのは一つか二つあるかどうか。
斎藤茂吉も全然よろしくない。
古今集の頃はみな話し言葉でそのまま和歌を詠めたのだろう。
万葉集や古今集、後撰集、拾遺集までは、自然と世の中で流行した歌を集めていればそれで事足りた。
中には紀貫之のような宮廷歌人や職業歌人と呼ばれる人も居ただろうが。

しかしだんだんに、おそらくは言葉自体が、あるいは歌というものが変化していき、
古い形を保ち続ける和歌というものはもはや民間ではおこなわれなくなり、
歌人とは宮廷歌人つまり公家しかいないという時代がまずは来た。
これが新古今時代。
和歌というのは、節回しも抑揚もなしにのっぺらぼうに歌うものだが、
だんだんに世の中が進化してくると、楽器に合わせたり舞にあわせたりして歌われるようになる。
つまり歌から音楽や舞踊や演劇というものが分かれてくる。
また、連歌とか歌合などといった娯楽競技として行われるようになる。
ルールや技巧が細分化していく。

応仁の乱以降、宮廷が消滅してしまったわけだが、しかし、
今日の多くの日本文化が室町時代までさかのぼれるように、
和歌も一部は武家のたしなみとして存続していた。

そうして考えれば、勅撰和歌集の終焉とともにすっぱり和歌の寿命が絶えたと考えるのはいかにも乱暴だし、
おそらくは不可能な議論だ。
かといって、古今集の時代はそうだったかもしれんが、
明治になっていきなり、粗雑な会話文でもって短歌などというものを作り出すのも無茶だ。

清少納言

丸谷才一「新々百人一首」を読んでいるのだが

> われながらわが心をも知らずしてまた逢ひみじと誓ひけるかな (清少納言)

面白い。
しかし、あまり女性らしい歌には思えないな。
かと言って男性の詠む歌にもみえないし、
そもそも恋の歌とは限らないような気がする。
同じことは式子内親王にも言えるのだが。

それはそうと正徹という人が

> 人が「吉野山はいづれの国ぞ」と尋ね侍らば、「只花にはよしの山、もみぢには立田を読むことと思ひ付きて、
読み侍る計りにて、伊勢の国やらん、日向の国やらんしらず」とこたへ侍るべき也

と言ったそうだが、これには断然承伏しかねる。
あるいは、田安宗武という人が

> 賀茂真淵がいひけらく、「古歌に、くるしくもふり来る雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに、
とよみたるは、誠に旅行く人のあはれさ、うち聞きたるだに身にしむばかりおぼゆるに、後の世の人々の歌をもて、
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮、とよみて侍るは、
よき歌といふにつけてはそらぞらしくおぼゆ」と。
実にさることにて、くるし気には聞えで、かへりて佐野のわたりの雪の夕暮みまほしきまでぞおぼゆる。
されど、などさる人げとほき渡の雪の暮おもしろきことやは侍るべき。
かくくるしき事をもおもしろきことのやうによみ侍ること、おほきなる人の害ともなり侍りぬべき。
さてこそ罪なうして配所の月を見んなど、ひがひがしきこころも出で来し人おほくさへなれるなるべし。

とあって、それに対して丸谷才一曰く

> この道学的な心配性は腹をかかへて笑ふに足るが、しかし非文学的な考察にも意外な功徳はある。

うんぬん、と。
思うに、賀茂真淵の言うことはもっともである。たぶん現代人で、予備知識がなければみなそう思うだろう。
定家の歌はそらぞらしい、と。
でさらに田安宗武が、そんな人里離れて人影さえない冬の夕暮れの渡し場など、実際に行ってみれば、
面白くもなんでもない。
そんなことまでおもしろおかしそうに歌を詠むとはけしからんと。
これまた至極最もな話である。
なるほど田安宗武は、徳川御三卿の一つ田安家の家祖だな。
徳川吉宗の次男とある。
なんとなくまじめそうな感じではある。
おそらく賀茂真淵に和歌を学んでいたのだろう。

丸谷才一は反論するだろう。平安王朝における様式美とは屏風絵に添えられた歌として鑑賞しなくてはならないのだと。
また言う。

> 紀貫之はこの手の歌(屏風歌)の代表的作者で、貴顕の祝ひ事のため屏風が新調されるたびに、注文されて和歌を詠んだ。

で、紀貫之の歌の六割は屏風歌であるという。
なるほど。しかし、だからそれがどうしたというのだろうか。
まさか、屏風歌ならば文学的だとかより芸術性が高いとか言いたいわけではあるまい。
あるいは絵画に対する芸術上のひけ目でもあるのか。
それに問題は、紀貫之ではなくて藤原定家なのだけれども。

思うに、好きな歌人を百人選び、
それぞれ一首ずつ選んで私選百人一首なるものを作るのはそんな難しいことではないと思うのだが、
たぶん私が選べば王朝歌人はほとんど選ばないだろうと思う。
平安朝ならば和泉式部、在原業平、紀貫之どまり。
鎌倉時代なら後鳥羽院は採るが、式子内親王や藤原定家などは落とすと思う。
その他の有象無象な宮廷歌人たちは一切とらない。とらなくても他に良い歌人はたくさんいるし、
そもそも後世の武士にもすぐれた歌人はいる、と思ってしまう。

丸谷才一という人はほんとうに良くわからん。
英文学を専攻して修士まで行き、
國學院大學の助教授をやったりして、
「エホバの顔を避けて」などという戦後的なかなり屈折した小説を書いた。
それがいきなり「後鳥羽院」で和歌の評論を始めた。
思うに、源氏物語辺りから和歌に入ってきた人なのではないかと思うが、
やはりわからんものはわからん。

源実朝の歌の解釈にしてもどうも強引すぎるようだ。
斎藤茂吉の歌を引いてしかも、写実・写生の歌ではないと結論づけようとする。
なるほどそう深読みできなくもないかもしれないが、
しかし単なる写生の歌としても鑑賞できなくはないし、
同じことは紀貫之についても言える。
写生の歌としては到底鑑賞できない藤原定家らの歌に対する援護射撃のように感じてしまうのだが。
そう、何か写生に対する恨みでもあるような。

公債と志願兵

アメリカも、昔みたいに、戦争やるときは公債発行して、集まったお金の範囲で戦争の規模を決めれば良いのにね。
兵隊も企業に委託したりしてるよねぇ。
そういうのは一切なしにして。
そうなるともうイラクとかアフガンからは撤退するしかなくなるのかもしれんが、その方が健全なんじゃねーの。

二日酔い。

ビールや日本酒などは飲みながら適量がわかるんだが、甲類焼酎飲み放題の店があってどうしたわけか飲み過ぎて二日酔い。
夜苦しくて眠れずガスター10様に助けてもらうが、
胃腸が止まり、寒気がし、立っているのがつらい。
やっと回復してきて、ものをたべてもおいしいと感じられるようになった。

酒を飲み始めて適量で止めるってことができると良いのだろうけど酔い始めってのが一番調子が良いからなあ。

携帯

携帯を買い換えても良いのだが、つらつら眺めていてもまったく買いたいと思うものがない。
ところで kddi が jcom を買おうとしてますか。

ていうか一眼レフ以外はもう携帯で撮影すれば良いのかもしれんね。

半信半疑の定家

やはり藤原定家はわからん。
定家がわからんというより、いろんな人が良いと言っている歌がわからん。
自分で拾ってみると少し面白い歌もあるが、誰も良いとは言ってない。
丸谷才一の本をいろいろ読んでみるといろんなところで本居宣長をぼろくそにけなしていて、
定家は良いと言っている。
そこが良くわからん。
源氏物語のような、新古今のような歌が良いというのは一つの価値観であり、
本居宣長が新古今を好んだ上で独特の歌を詠んだのはまた当たり前のことで、
それがなぜいけないのかわからん。

私が定家で面白いと思うのはたぶん定家っぽくない、古今風の、
写生に近いものだと思うのだよね。たぶん。

> 玉ぼこの道行く人のことづてもたえてほどふるさみだれの空 (定家)

これは少し面白い。本歌は

> 恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道ゆき人にことづてもなき (人麻呂)

だそうだ。

> 時雨行く四方の梢の色よりも秋は夕べのかはるなりけり

面白いが意味わからん。

> わかれても心へだつな旅衣いくへかさなる山路なりとも

佐渡に流された順徳院を詠んだものだと言う。
まあ、ふつう。

> いづくにて風をも世をも恨みまし吉野のおくも花は散るなり

少し面白い。

> おのづからあればある世にながらへて惜しむと人に見えぬべきかな

まあまあ。

> たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風

少し面白い。

> いづらにも今夜は宿をかり衣日もゆふぐれの嶺の嵐に

ふつうに面白い。

> 忘れなむ待つとな告げそなかなかにいなばの山のみねの秋風

少し面白い。

> なびかじな海人のもしほ火たきそめて煙は空にくゆりわぶとも

まあまあ。

> わくらばにとはれし人も昔にてそれより庭の跡は絶えにき

ふつう?

> 飛鳥河遠き梅が枝にほふ夜はいたづらにやは春風の吹く

> 秋風にそよぐ田の面のいねがてにまつ明け方の初雁の声

まあまあ。

> 霰降るしづが笹屋のそよさらに一夜ばかりの夢をやは見る

わびしい感じだが、よくわからん。

> やまがつの朝餉のこやに焚く柴のしばしと見れば暮るる空かな

かなりこじつけ。
つまり、山の中に住む田舎者が小屋で朝飯を炊いている柴ではないが、
しばし眺めていたらはやくも夕暮れどきとなった空かな、と言っているわけだが、
朝から夕方まで何をぼんやりしていたのか不明。
ただまあ田舎ののんびりした気分にはなるわな。

> 信楽の外山の霰ふりすさみ荒れゆく冬の雲の色かな

> 待つ人の麓の道やたえぬらん軒端の杉に雪おもるなり

> 雪折の竹の下道跡もなし荒れにしのちの深草の里

> 大伴の御津の浜風吹きはらへ松とも見えじうづむ白雪

> 久方のあまてる神のゆふかづらかけて幾世を恋ひわたるらん

> うへしげる垣根がくれの小笹原しられぬ恋はうきふしもなし

やや面白い。

> 人知れず今や今やとちはやぶる神さぶるまで君をこそ待て (読人不知)