読史余論

岩波文庫「読史余論」を読む。
戦前の復刻版で旧漢字、読みにくいが、難解ではない。ゆっくりと読めば良いか。
思うに、新井白石という人は、武士が元々、天皇や公家の政治について思っていたことを、
きっぱりはっきりと言ってのけた。
時の幕閣の一人として、多少の遠慮はあるとは言え。
将軍の教育係として、その教科書として読史余論が書かれたという背景にもよるだろう。
正直に思ったままを書いたというべきだろう。

新葉和歌集

南朝で編纂された[新葉和歌集](http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/waka3/sinyo/)
がかなりおもしろい。
特に後村上天皇の歌が力が入っててすごくおもしろい。

> 高御座とばりかかげて橿原の宮の昔もしるき春かな

> あはれ早や浪収まりて和歌の浦に磨ける玉を拾ふ世もがな

> 四つの海波も収まる徴しとて三つの宝を身にぞ伝ふる

南朝は、宮廷の貴族なども少なくて、
明治になってから正統とされたからそれまでにきちんと記録に残らなかったことも多いのだろう。
後醍醐天皇の皇子らの名前の読みが曖昧なのも、
親王でよくわらかない人が居るのもそのためなのかもしれん。

幕末や維新までくだってきたならともかく、天皇が、「橿原の宮」や「三種の神器」を和歌に詠むというのはかなり異色だ。
三つめの歌などは、明治天皇御製

> 四方の海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらむ

を思わせる。
おそらく関連はあるのだろう。

今なら[岩波文庫版](http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E8%91%89%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%9D%92-139-1-%E5%B2%A9%E4%BD%90/dp/4003013913/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1261580129&sr=8-1)
が新品で買えるようだ。
確保しておくか。

勅撰和歌集

なぜ勅撰和歌集は江戸時代には無くなってしまったのだろうか。

なるほど、応仁の乱で途絶えたわけか。

しかしまあ、「室町時代は政治が貧困で文化が栄えた」的な言い方をすれば、 勅撰和歌集が途絶えたのは文化的には衰退なんじゃないのか。ねえ。和歌を詠む伝統は無くならなかったが、勅撰和歌集というものだけが消えてしまったのだろうか。あるいは宮中の歌合などもか。

日本で一番偉いのは天皇なのか将軍なのか?

わろた。

難しいよな、そりゃ。

説明しにくい。少なくとも一言では。

たとえば、後白河法皇と平清盛はどちらが偉いかとか簡単に説明できるか。できないだろ。

ま、しかし今上天皇と小沢一郎という意味ではあまりにも明らかだとは思うのだが。そうでもないのか。

同時受戒

平清盛と後白河上皇はほぼ同時期に出家して受戒している。
清盛が病気になってまず出家し、そのあと後白河が出家し、
その後同時に受戒している。

康治元年(1142年)、鳥羽法皇と藤原忠実も同時受戒したと言う。

清盛が出家したのは病気療養のためであり、後白河上皇は清盛平癒祈願のために同時に出家したとも考えられる。

で、出家と受戒の違いはなんだろうかな、と思うに、
出家と言うのはなんとなく剃髪するとか屋敷を移るとか俗名をやめて僧侶の名前(戒名ではない?)を通り名にすることを言うような気がする。
姿形や名前を俗人とは変えてしまうことか。
受戒とはどこかの寺院で戒律を守りますよ的な儀式を受けて、以後肉食など止めることを言うのかもしれない。
僧侶になるにはどちらも必要な気がするのだが、微妙に違ってるよな。
よくわからんな。
つまり、出家は個人で出きるが、受戒にはある特定の教団ないし寺院ないし主催する僧正を必要とするということか。
また受戒というのはしばしば盛大な儀式になるのでまとめてやった方が便利なのかもしれん。

ましかし、やはり、清盛のために後白河も出家したと考えてほぼ間違いないようだ。

平氏にあらざれば人にあらず

「平氏にあらざれば人にあらず」あるいは
「平氏にあらずんば人にあらず」という言い方が世間で一般的なようだが、
平家物語には「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と表現されている。
源平盛衰記でも「此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける」としか書いてない。
しかるに日本外史には「平族にあらざる者は人にあらざるなり」と出てくる。
なので、「平氏にあらざれば人にあらず」という言い方はもしかすると日本外史に由来(というか日本外史の訓み下しの一例)なのかもしれない。

中にはこのせりふを言ったのが平清盛だと思っている人がいる。
正確には平時忠である。

また重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」というのももともとは平家物語だが、
このフレーズは日本外史の訓み下し文そのものである。
もともとはもっとくどい言い回しの和文だが、それを頼山陽がすっきりとした漢文調の文句にしたのである。原文(『平家物語』「烽火」)

> 悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。

このように実は日本外史に由来するかもしれない言い回しというのはものすごくたくさんあるんじゃないかと思う。

福原遷都

こうして考えて行くと、清盛が強行した福原遷都は保元・平治の乱のような市街戦を避けるために、
御所をきちんとした城塞都市にする必要に迫られたからではないかと思う。
かといっていまさら平安京を要塞化するのは非現実的。
だから遷都する。
保元・平治の乱が直接の理由なのではないか。
いちいちあんな戦はしていられない。
だいたい外戚の藤原氏の私邸を御所として利用してあちこちに御所だの内裏だのが点在しているなんて、
行政都市として破綻してるだろ。
清盛はきっと合理主義者だったから、
行政と軍事と貿易に特化したコンパクトで機能的な首都を建設したかったに違いない。
フルスクラッチで(笑)。

頼朝が守りに堅固な鎌倉を拠点としようとしたように。
福原は一ノ谷の合戦で平氏が布陣したところだから、もともと要害の地だったに違いない。
都とするのにもっと開けたところはあったろう。
もし執権北条氏の時代の鎌倉のように福原が要塞化されていれば、
源氏の攻撃にも耐えたに違いない。
やはり福原遷都を諦めたのが平氏敗因の最大のものだと思う。

他にも寺社の強訴や、僧侶の政治的影響力の排除という意味もあっただろう。
また福原の方が日宋貿易に便利という意味もあっただろう。

福原京は半年で放棄されてしまい、清盛もあっけなく死んでしまったので、
清盛がどのような機能を福原に持たせようとしたのかはわからんが、
だいたいそんなところではないか。
当時の公家日記など読めばある程度わかるのかどうか。

もし福原遷都が完了していて、清盛がもう少し長生きしていて、
いきなり討伐軍を派遣するのでなしに、
まずは木曽源氏や甲斐源氏あたりを懐柔し、関東を孤立させていれば、
平氏にも十分勝ち目はあった。
平維盛のような軍事的に無能な人間を総大将として延々東海道を進軍させればそりゃ負ける罠。
そうでなしに、まずは木曽・甲斐、或いは奥州藤原氏あたりに宣旨を出して、
関東の平氏恩顧の武士らとともに、謀反人の頼朝を討伐させれば良かった。
そうすれば東国の直接支配は無理でも源氏や奥州藤原氏などが互いにこぜりあい、
西国に手を出すひまもなく、
一方で平氏は近江や尾張、伊勢辺りに防衛戦を築いて、日宋貿易と西国と皇室を完全支配する。
中世的解決策としてはそれでよかったはずだ。

のちに、とうとう木曾義仲が攻めてきたというので宗盛主導で都落ちし一ノ谷に立て籠もることになった。
が、平氏は桓武天皇から出ていて平安京を作ったのは桓武天皇で、
以来平氏は一度も都を捨てたことがないのだから京都でがんばるべきだ、という意見もあったそうな。
どっちもどっちだな。
一ノ谷は城塞として完成してなかったはずで、一ノ谷に移ったからと言って守れる保証は何もないのだから。
しかし京都にも城のようなものはない。
チェックメイトとしか言いようがない。
清盛全盛の時代に一ノ谷が完成していればな。

義経による鵯越の奇襲が成功した(史実であるとすればだが)のは、
福原が軍事都市として、或いは城として未完成だったからというだけのことではなかろうか。

里内裏

たとえば保元の乱で後白河天皇は高松殿、崇徳上皇は白河殿にそれぞれ布陣するわけだが。

ここで高松殿とか白河殿というのがよくわからない。
御所だとか内裏だとか書いているものもある。

調べていくと、高松殿というのは源高明が最初に作った豪邸であるという。
その後、天皇や上皇などが住む屋敷としても利用されたとある。
つまり、平安宮の内裏というのは火災で焼失したりして実際にはあまり機能してなかった。
なので、実際に天皇や上皇や法皇が居住していた屋敷が御所とか内裏と呼ばれていて、
平安宮の内裏と区別して里内裏と言ったのだそうだ。

白河殿というのもこれまたもともとは藤原氏の別荘だったのだが、
天皇家と藤原氏は姻戚関係にあり、当時は天皇も入り婿みたいにして妻もしくは母親の屋敷に住んだはずだから、
いつの間にか上皇の御所として使われるようになった。

とまあ、見ていくと、平安京みたいなのっぺりした市街に普通の寝殿造りの屋敷があって、
それが戦の本陣になったというのは、後世の常識から言ってまったくあり得ない。
そもそも本格的な戦闘が起きるとは思ってなかったのではないかとしか思えない。
こういう状況では先に敵の屋敷に火を付けた方が勝つに決まってる。
作戦という以前の問題だ。
為朝、義朝でなくても、とにかく今すぐ、夜中で良いから、敵の本陣に先にしかけた方が勝つに決まってる。
平治の乱でも似たようなことをやっている。

ていうかこの内裏とか里内裏とか離宮とか別荘とかいろいろありすぎてよくわからんのですが。

もし平安宮がきちんと壕があり、城壁があれば、保元・平治の乱などというものは起こりえなかったし、
また天皇がきちんと御所と兵士を掌握するシステムならば、
単なる天皇と上皇の戦いというものもあり得なかっただろう。
古来、皇族どうしの権力闘争というのはなかったわけではなかろうに、
なぜそうやって権力をきちんと守っていこうという方向に努力がなされなかったのだろうか。
やっぱ不思議だよね。