世界で最も新しい変化は西アジアから生まれる

西洋近代とイスラムというのは、どちらも同じものなんだよ。
イスラムがたどったのと同じことがこれから近代西洋文明に起こる。
イスラムは近代西洋を導入しようとして結局は失敗した。
そりゃあそうだ、近代西洋はイスラムのコピー(おそらくは劣化コピー)なので、
イスラムを近代西洋で改革しようとしても意味が無い。
イスラムは自分でさらに新しい何かに変わっていかなくてはならない。
しかしそれができないので苦しんでいる。

西洋人は、イスラム世界が近代資本主義や個人主義で救えると思っている。
それは間違いだ。
日本人は西洋人の真似をしてある程度までうまくいったが、例外に過ぎない。

今イスラムは過激主義や原理主義という形で自傷している。
一つの文明がそのピークを迎え、崩壊すると、例えば五胡十六国のような混乱期が来る。
その時代は何百年も続くことがある。
イスラムがイスラムという定型を自ら改良し、イスラムに変わる何かを作り出すにはそれくらいの時間が必要になる。

世界史が発展するパターンはおよそ決まっている。
世界で最も新しい変化は西アジアから生まれる。
今度の変化は、おそらく石油産油国の崩壊という形でまず現れるだろう。
誰もイスラムにとってかわる社会システムなんて想像できない。
それは私たちが現代人だからだ。ほんとうに新しいものなんて予測できない。
でもそれはいずれ生み出されるしかない。
東ローマとペルシャが滅んでイスラムが出てきたときと同じくらいの規模の社会変革が来なくてはならない。

近代とポストモダン

石原千秋『教養としての大学受験国語』というのを読んでいるのだが、この著者によれば世の中の評論というのは、

* 現実を肯定的に受け入れる保守的な評論
* 未来型の理想を掲げる進歩的な評論
* 現実を否定して過去を理想とするウルトラ保守的な評論

の三種類しかないというのだ。
つまり、現実に満足しているのは普通の保守だが、現実に満足しておらず過去を理想とするのがウルトラ保守。
そして大学受験で出てくるのはほとんどの場合「未来型の理想を掲げる進歩的な評論」なのだそうだ。

近代とは近代西欧文明のことにほかならない。
そして近代のあとに「ポストモダン」が来る。
「ポストモダン」とはまだ確かな形をもっておらず、多様で、どれか一つが正しいというものではない、そう著者は言っているのだが、
彼のいう「未来型の理想を掲げる進歩的な評論」というものが明らかに「ポストモダン」とは相容れない。
今のマスコミがとらわれてしまっている「古い」「近代世界」であって今やまさに実現しようとしている「ポストモダン」ではない。

既得権益を維持しようとするものが保守であるならば、自称「革新」自称「進歩」こそがまさにそうだ。
彼らは「進歩」と自称しながら彼らほど「保守」な連中はいない。
それも「近代」というものの上にあぐらをかいた、この70年ほどの「保守」に過ぎない。
彼らは70年間かかって完全な保守になった。
若者たちはそれに怒っている。

彼に言わせれば私はウルトラ保守の一種かもしれない。
しかし単純な過去へのノスタルジーのことをウルトラ保守と言われても困る。
それこそ「昔はよかった」とか「自然に帰ろう」などということばは、どちらかといえば今の「進歩的教養人」が言う場合が多くはないか?

近代が世界であると思い込んでいる西欧と同じく、自分たちが進歩だと思い込んでいる実質的な保守の連中が、
これから来る「ポストモダン」時代に淘汰されることになる。
彼らほど「過去」を振り返り「未来」が見えてない人はいるまい。

受験生はかわいそうだ。
ただ良い点数を取るためにだけ、彼らの「近代」につきあってやらねばならぬのだから。

古典とポストモダン

ポストモダンって何だってことを少し調べているのだが、
普通は古典、モダン、ポストモダンという三者の対立で言われることが多い。
モダンは常に今このとき、現代であり、モダンはアンチ古典として現れてくる。
モダンはその時代時代の現代において常に古典を否定する。
ところが現代が過ぎて次の時代になると、その一つ前のモダンは古典に組み込まれて、
古典の一部となり、新しいモダンができてくる。

まあこういう考え方自体がアウフヘーベンであって、一つの予定調和であって、輪廻なわけよね。
永遠に同じことが繰り返される。
そしてそこから解脱したいな、永遠にモダンが古典に組み込まれていく過程から解脱したいな、
という考え方が「ポストモダン」だという人がいて、
それはそれでまた一つ新たな「ポストモダン」の定義を与えただけなんじゃないかと思うんだが、
それを「ポストモダン」と呼ぶかどうかはともかくとして、まあ一つの考え方としてありかもしれない。
古典-モダン-ポストモダンという一直線の時間軸なのであれば、ポストモダンはモダンとともに古典に組み込まれざるを得ない。
その時間軸の外側にあるべき理論がポストモダンであると。
その時間軸から外れたところに何があるのか。
作家と鑑賞者の双方向性とか参加型の芸術とかなのか。
矛盾や偶然性を吹くんだ芸術なのか。
それらも一つのソリューションかもしれない。
いずれにしても私にとって関心があるところはそういうことではない。

「なぜいまなお古典を愛好するのか。」「古典が何でそんなに面白いのか。」
「なぜモダンやポストモダンではなく、古典愛好家がこんなに多いのか」という問いは面白い。
普通の人が神社仏閣巡りや百人一首が好きなのは、おそらくそれが単に古いから、昔からあるから、
長い歴史の中で淘汰されて残ったものだから価値がある、そう思うからだろう。
則ち、古典は評価が確定されていて安心感があるけれど、
モダンやポストモダンなどはほんとか嘘かまだはっきりしないから安心して好きになることができない、
というわけなのだ。

ところで私が古典が好きなのは逆説的になるが、モダンやポストモダンに絶望したからだ。
なぜモダンやポストモダン(例えば現代短歌など)がダメなのかといえば、それは現代における古典の解釈が間違っているからだ。
だから本来の古典というものを再発見し再構築しなくてはならない。
我々が普段古典だと思っているものは単にいろんな人の手垢がついただけのものであり、
本来の意味から大きくずれてしまっている。
そしてステレオタイプとなり偶像となって、永遠の過去、永遠の真実のようになってしまっているから、
それを壊すところから始めなくてはならない。
つまり私にとっていわゆる古典もモダンもポストモダンもどれも気に入らないから、
まずは大もとの古典をどうにかしようというのが私のスタンスだ。

繰り返しになるが、現代短歌が何でダメかと言えば明治以降の短歌がダメだからだ。
明治の短歌がダメなのは江戸時代や室町時代の和歌がダメだからである。
ならば鎌倉時代、平安時代までさかのぼるとどうか。
ここらへんまでくるとなるほどこれがこういう風に解釈されてしまったためにこんなことになっているのかってことがおぼろげにわかる。
それで代々おかしなことが積み重なって現代に至っているわけで、それらをすべて矯正してやっと現代短歌を攻撃できる。
歌学というものが藤原定家で一つの完成を見たのはまず間違いない。
それでまあ定家については少し勉強して本も書かせてもらったが、
定家についてはまだ書き足さなくてはならないことが少しある。

消極的なコンサバティブと積極的なコンサバティブがあるだろう。
たとえば保守的な人は毎年お歳暮を贈り、年賀状を書く。
しかしちょっと調べればみんながみんな年賀状を書くなんてのはせいぜい明治までしかさかのぼれない。
そんなものは伝統でもなんでもないからやめてしまえというのが積極的コンサバティブ。ウルトラコンサバティブ。
古いかどうか古典かどうか保守かどうかなんてことはきちんと歴史的に立証されねばならない。
ある時代に照らせば古典と言えるが、別の時代だとそうはいえなかったりする。
ある史観では古典でもその史観自体が間違っていることもある。

そう、まさに、古典とか歴史というものは極めて不安定で不確かなものなのだ。
だから私はわざわざ古典をやっている。誰もがいじくりもてあそべるものに私は興味を持ったりしない。

世襲の効用

社会システムというものが何もなかった中世においては、
政治にしても社会保障にしても芸事にしても、
何か世襲という形にしなくては持続性を持たなかった。
世襲でない、皆に機会が与えられて競争ができる状態のほうが優れているというのは、
社会システムが完備している現代だから言えることなのだ。
天皇家にしても将軍家にしても歌道の家にしても、みな家というものを作って「実体化」
しなくてはならなかった。
「血統」というもので相伝を守って行かねばならなかった。
一旦、「家」「血統」というものが確立したら、それをさらにいろんな伝説で理論武装し、
身内で結束しなくてはならなかった。
個人崇拝が、秘伝の教義がそこに生まれる。

それが、勅撰選者を世襲した定家の運命だったのだ。
定家個人の業績というものももちろんあるのだが、定家がなした一番大きな業績は選者を世襲したということだ。

世襲は今の時代にも案外効用がある。社会システムがいまだに不完全だから、古き良き「血」というものが補うのである。

三種の神器の呪術性

『虚構の歌人』では承久の乱のことを日本最大の黒歴史と書いた。
後堀河天皇が三種の神器の権威だけで即位したのは律令制が否定されて古代の呪術が復活したからだと。
歴史を巻き戻したからだと。

ましかし、改めて思うに、三種の神器はそれまでも政争の具に使われてきた(花山天皇退位の時、安徳天皇入水など)、
のだが、承久の乱で三種の神器が単なる皇位継承の手段として使われたことで、
完全に呪術的価値を失った、とも解釈できる。
また律令制も崩壊した。
承久の乱はまさに、呪術性も律令制も破壊して、武家政権と封建社会をもたらした。
その危うい転換点を北条泰時という天才がうまく連結した。
不連続になったはずの日本の歴史を、完全に溶接してみせたのだ。
泰時があまりにも天才なので私たちは承久の乱も泰時も、長い日本の歴史の中で見落としてしまうくらいだ。
皇位継承というものが北条執権により純化され後世不朽に伝えられた、といえる。
このことによって承久の乱は黒歴史を転じて白歴史にした、と言えなくもない。

泰時に比べて、世の中をぐちゃぐちゃにしてしまった清盛や足利氏やその後の戦国武将のほうが目立っているのは、
歴史の皮肉というものであろう。

雲居に紛ふ沖つ白波

藤原忠通

わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、まあ時期的にあり得んだろそれは。崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。そうやって、なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)であるという説。これもどうでも良い話。ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。

新続古今集

21代勅撰集の最後、『新続古今集』の仮名序に

> しかるに前中納言定家卿はじめてたらちねのあとをつぎて、新勅撰集をしるしたてまつり、前大納言為家卿また三代につたへて続後撰をえらびつこうまつりしよりこのかた、あしがきのまぢかき世にいたるまで、ふぢ河のひとつながれにあひうけて家の風こゑ絶えず、

とあり、これは『虚構の歌人』でも指摘したのだが、
勅撰選者が三代世襲したのは承久の乱という非常事態があったためで、
定家はもっとも幕府寄りの歌人であったから、俊成を継いで独撰したのである。
また為家ももっとも幕府寄りの歌人であったから、定家を継いで独撰した。
このことが歌道を硬直させたのは極めてなげかわしい事態であったが、
むしろこのことによって、
歌道の家の世襲というものが初めておこり、
それこそが定家の最大の功績なのである。
定家の偶像は「血統」「家」というものを何よりも重視する中世人に必要とされたものだったのだ。
それは「天皇家」「摂関家」「将軍家」に続いて日本人が発明した「歌道の家」というものなのだった。
為家は歌はうまいが何か独創的な歌人というわけではなかった。それもまた世襲ということに都合がよかった。

これに反発した(というより分岐しようとした)のが為家の息子の京極為兼だったが、
彼は後継者を残すことに失敗した。そして血筋を残すことに成功した二条為世から二条派が残ったのだ。

今日の私たちから見れば馬鹿げてみえるが、
しかし現代人ですら定家崇拝者はたくさんいて、彼らは無意識のうちに血統というものをありがたがっている。

> そもそも参議雅経卿は新古今五人のえらびにくははれるうへ、この道にたづさひてもすでに七代にすぎ、その心をさとれる事もまた一筋ならざるにより、ことさらに御みことのりするむねは、まことに時いたりことわりかなへる事なるべし

これは新続古今集選者の飛鳥井雅世が雅経から七代目だと言いたいのだ。
飛鳥井家は為家と縁組みして二条家を創始した。
すなわち新勅撰集から新続古今集までは、二条家が勅撰ということを独占していたのであり、
そうでない場合にも為兼などの為家の子孫が選者となったのである。

応仁の乱によって勅撰が途絶したのはまさにこの二条家、二条派の責任だ。
彼らの歌道が完全に行き詰まってしまったからだ。
足利氏も疲弊しきっていた。
足利将軍家は和歌が大好きだったがこの頃にはもうお金が続かなくなっていた。
しかし足利氏がパトロンとなることもなく、二条家がいなくとも、
日本には元気な武家が生まれつつあった。
武士も良い歌を詠むということは『虚構の歌人』で泰時などの例を見てもらった通りだ。
しかし細川幽斎など(彼も足利氏だが)歌の才能があるにも関わらず、
いつまでも二条派に追随して古今伝授などにこだわったのはおろかとしか言いようがない。
太田道灌は良い歌人だった。
明智光秀や織田信長などは連歌をやっていたのだから、勅撰集くらい作っておかしくない。
後水尾天皇の時代になっても勅撰集が復活しなかった理由は、今もよくわからない。

ところで「ふぢ河」というのは関ヶ原を流れる川のことらしいのだが、なんで「ふぢ河」なのだろう。

> 美濃国 関のふち河 絶えずして 君につかへむ 万世までに

『古今集』あそび歌。まあ、単なる歌枕だわな。

> 行く水の あはれと思へ つかへこし 一つ流れの 関のふぢ河

『続後拾遺集』1125 入道前太政大臣。誰だよ(西園寺公経か?)。
意味は、歌道の家を一筋に守って仕えてきました、と言いたいわけだ。

『虚構の歌人』を改めて読み直してみたが、これはもうね、書いては削り、書いては削りで、
最初は百人一首の謎みたいな話だったのが藤原定家伝みたいなものになり、
それから定家と禅みたいな話になりそうになり、
さらに承久の乱とか北条泰時の話が書きたくなり、
それじゃまとまらないからとざっくり消して「小さくまとめた」結果なのだが、
組み版がInDesignではなくてIllustratorだったので死ぬほど苦しんだし。
ルビとかどんどん勝手に変えられてしまうので困った。

そう、藤原定家伝+歌論を書こうということに企画会議ではまとまっているのに、
私がそれ以外のものもあれこれ書きたがり、まとめきれなかったのが最大の問題。

『虚構の歌人』は、まあ紙の本で初産だったから仕方ないと思って読んでもらうしかない。
いたるところで破綻し分断しててしかも直しようがない。
「ユニーク」な本ではあるよな。
「奇書」のたぐい。
部分的にはよくまとまっているところもあるが、全体としてきわめて記述不足で、
分かる人にはわかるかもしれないが、
普通の人には何を言ってるんだろうこの人みたいな文章になっちゃってると思う。
まあ、書き直す機会を与えてもらえるのならば一生かけて書き直したい。
『定家の禅』と『承久の乱』は書きたいネタだ。
重源、栄西、泰時、面白いネタだ。

それに比べると今度出るシュピリ初期作品集なんかは、うまい具合の長さにまとまってるし、
解説がかなり長めだが、
それもまあ必要だからその長さになっているともいえる。
完成度は高いと思う。
シュピリの他の作品を読んでいくうちに書き直したくなる箇所が出てくるかもしれないが、
まあこれはこれでおしまいにして良い気がする。
精神衛生的には良くできた本だ。
ただまあこれを一般読者が読んで面白いかというとどうだろう。
定家に比べれば簡単だから読めるが内容が暗すぎて宗教的すぎて読むのがかなり辛いと思う。
そこを我慢して読める人には面白いだろうと思う。

『古今和歌集の真相』を出したのは今から2年も前のことになってしまった。
それで読み返してみるともうほとんど何もかも忘れてすごく新鮮に読める。
この頃からすでに藤原定家とか古今伝授とか後鳥羽院の話を書いている。

『虚構の歌人』には自分の歌もけっこう載せた。
『古今和歌集の真相』には一つも無い。
『虚構の歌人』はそういう意味では『民葉和歌集』に近く、
一種の私撰集+解説というものだと思って読んでもらえると良いかもしれない。
『古今和歌集の真相』は最初は小説にしようと思ってたんだな。

『古今和歌集の真相』はも少し描き直して改訂版をだそう。
『虚構の歌人』はもはや電子データには戻らなそうな気がする。InDesign で作ればよかったのに。Illustrator で作っちゃったからなあ。ま、あとルビとか多すぎる。
今度出る『ヨハンナ・シュピリ初期短編集』は InDesign で組んでる。安定感が全然違う。

『民葉和歌集』はいつ完成するかわからん。
これの仮名序は小澤蘆庵の歌論かなんかを参考にしたんだが(なんだっけ)、
今読むとかなり陳腐だ。
しかもこの仮名序にも定家とか後鳥羽院とか承久の乱とか書いてて『虚構の歌人』にかなりかぶってるな。
とにかくいろいろ手直ししなきゃならん。

『スメラミコトの歌の力』というWeb連載をすることになっている。
これはいきなり紙の本を出すのではないので気が楽だ。
いずれにせよこれ以上迷惑はかけられない。
『ヨハンナ・シュピリ』がそこそこ売れてくれなかったら当分(永久に?)紙の本から撤退することになるだろう。

『万葉集』や『記紀歌謡』までさかのぼってやるかどうかはなんとも言えないが、
『古今和歌集の真相』『虚構の歌人』『民葉和歌集』『スメラミコトの歌の力』は全部一つにつながったものであるともいえる。

『ヨハンナ・シュピリ』はたぶん二月頃に出るだろう。
どんな装丁になるのかわからない。
スイスとかハイジっぽくなるらしい。
ゲーテとかドイツ詩にどっぷり浸れて楽しかったのだが、
日本はあんまりドイツの古典文芸ははやらないらしい。
どちらかといえば哲学系のほうがはやると。なぜなのか。
あと現代ドイツ文学といえばやはりナチスとか。そっち系だよなあ。
屈折してるよな。

また道玄坂に行ってきたのだが、今の世の中、本を読む人はどんどん減っていて、逆に本を書く人、小説家になりたい人がどんどん増えている。そして今や本を読む人と本を書く人がほとんど同じくらいになってしまっている、らしい。本を読む人は自分も書いてみようと思う。両者が同数になってしまうのは仕方のないことらしい。

紙に字を書いてた頃は、多くの人が、書いてるうちに諦めた。今はワープロなりなんなりでそれなりのものが書けてしまう。絵だってそうだ。絵を見る人はたいてい自分でも描く。

需要は少なく供給が多いとなれば、本は売れない。本が世の中に満ちあふれていても、本の読者はごく一部に限られている。ほんとに良いものなら売れるかといえば、それが十分条件でないことは明らかだ。新しく出る本のほとんどは古い本の焼き直しであって、何も新しさがない。新しくないということは内容がないということだ。馬鹿みたいな内容のない本でもそこそこ売れる。そういう本にもそれなりの需要があり、消費されるからだ。つまらない本が淘汰されるようになったわけではない。マーケティングとかそういうものがあればつまらない本でもいまだに売れるということは、限界効用というものは、我々が思ったよりはずっと大きいのだ。普通の人は限界効用ぎりぎりまで、つまり、マーケティングを完全に活用した状態で本を売れるわけではない。なんか限界効用の意味を間違って使っているような気がするがそこは雰囲気で理解してほしい。まったく売れない本とミリオンセラーの間には特に何の違いも無い。

のちの時代に残るようなものを書くしかないと思う。そこそこ売れても、何も新しさがなく、死んだら忘れられるような本など書いても仕方ない。

ほんの30年ほど前まで、情報の血流というものは本だった。紙というものを強制的に循環させて情報を流していた。今は紙が必要なくなった。だからその分の部数は減る。紙の本はまさに「文芸作品」という名の「工芸品」となり、純粋に所有欲を満たすものになりつつある。所有欲と知識欲が分離されつつある。それらはもともと別のものだったのだ。紙の本というものは、読まない人が大量に買わない限り売れない。つまり所有して棚に飾っておくだけで満足する人が世の中に大量にいないと成立しない。昔の人のほうがたくさん文字を読んだわけでもない。昔は一期一会で、とりあえず読むか読まないかわからなくても書斎に備蓄したものだ。今はそんなふうな本の買い方はしない。