宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

深読みとオカルト

> 江戸時代には、和歌の家には、堂上と地下という区別が付けられていた。和歌の用語で、堂上とは、宮中に参内する資格を持つ公家がいて、その中で和歌を詠むのを家業としている公家の流派を言う。当時、どの公家がどの家業を受け持つかということが厳しく決められており、それは世襲だった。笛の家、琴の家、琵琶の家、能の家、歌道の家、書道の家と決まっていた。堂上以外の公家や武家や町人はみないっしょくたに地下と呼ばれた。堂上には「古今伝授」という秘伝が代々伝承されており、これの免許皆伝でなくては流派を継げない。

> 古今伝授とはようするに『古今集』の序文や歌の解釈の秘密を流派ごとに独占的に伝授したものだ。たとえば「 百千鳥ももちどり」という言葉がある。これにはいくつもの解釈があって、普通は「何百何千というさまざまな鳥」、つまり何か特定の鳥を言うのではなく、種々雑多なたくさん群れている鳥のことを言うと考える。しかし、たとえば堂上のある流派はこれを「百匹の千鳥」と解釈する。またその「千鳥」も「シロチドリ」だとか「メダイチドリ」だとか、いわゆる普通のチドリ目チドリ科の千鳥ではなくて、古来は別の種類の鳥を指していたのだ、などと独自の解釈をする。こうして、歌に詠まれるさまざまな言葉を故意に「深読み」し、歌ごとにそれぞれ独特の解釈をして、それが一般人の知るよしもない極意であるとした、いわば「オカルト」「疑似科学」的なものである。契沖や本居宣長などの国学者が古文辞学的に解明したように、そのような解釈は藤原定家やまして紀貫之の時代には存在しておらず、戦国の動乱期に捏造されたものであって、なんら根拠はないのである。

これは、[歌詠みに与ふる物語](http://p.booklog.jp/book/33114)の中の、有料でしか読めない部分に書いたことだが、
「古今伝授」というものは江戸時代まで続いた。
その後、世の中では「和歌」を「短歌」と呼び変えるようになり、「古今伝授」などという古めかしいものも絶えてしまったかのように思われている。

しかし、今の文芸評論というものも、意味不明の深読みをありがたがる、
深読みに深読みを重ねて、自分の世界に行ってしまって帰ってこない、
という点においてはオカルトと何ら変わりない、
と思うことがしばしばある。
新古今から室町末期の正徹辺りまでの和歌を論じるときに、その傾向が強い。
というのは、古今までの和歌というのはシンプルでわかりやすかった。
江戸も末期になってくると、香川景樹とか小沢廬庵、良寛のように、わかりやすい歌が現れる。
しかし、新古今以後の勅撰集の和歌は、歌そのものはともかくとして、それに対して語られる歌論がわけわからん。
つまらん歌にくどくどと理屈をこねているだけとしか思えない。
そんな歌よりも面白いものは江戸時代の文人の歌にいくらでもある。

江戸時代の一部の文人たちは、自分たちの時代の、「現代的」な歌を作り出そうと努力した。
一方で、和歌というものがわからなくなった連中は、過去にこそ真の、究極の歌があるのだ、和歌は死んだ、
和歌は公家社会とともに、応仁の乱の劫火に焼かれて死んだ、などと主張して、
ますますわけのわからぬ、ロジックとも信仰告白ともつかぬ理屈をこねくり回すようになった。
現代とまったく同じだ。

だいたい、和歌を鑑賞するのに、その詞書きや本歌や、いわゆる王朝サロン固有の解釈、などというものを知らねば、
本当には味わいがたい、などと言っているのは、「古今伝授」とまったく同じ論法であって、
そんなもので素人をけむにまいておもしろがっているのではないか、としか思えない。

意味のよくわからない歌というのは、何かの歌合の題詠であったり、絵に付ける画賛であったりする。
そういうものは、一応プロがきちんと調べて解説を加えなくてはわからん。
だが、題詠であろうと、画賛であろうと、そのまま鑑賞してみて、それなりにおもしろみのあるものでなければ意味はない。
そのままで面白いものが、その由来を聞いてみてさらにおもしろみが増すとか、理解が深まるとか、そういうものであり、
だから普通に素人は、そのまま読んで面白いものを愛好しておればよろしいのだ。
ただそれだけのことだ。
いらん格付けをされても迷惑だ。

江戸時代の景樹、廬庵、良寛の歌ではなぜいけないのか、「新続古今」とか「新後拾遺」とか、
そんな「糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかり」舐めているようなことをして何が楽しいのか、と思ってしまう。

『歌詠みに与ふる物語』を有料にしているのは、歌論など無料にしてもどうせ読んでもらえないと思っているからだ。
読めば十分わかると思うが、読んで分かる人がいるとも思えない。
読んでもらえない、読んでも理解できない評論をわざわざ書く趣味はないのだが。

photoshop esc

putty-jp でリモートログインして vi いじってたら、escキーが効かないことに気付く。
はて、escキーが効かないぞ、壊れたかなとキーボードをつなぎ変えてみたのだが、やはりだめ。
putty-jp のせいだろうかと escキーを使うソフトを他に考えてみると、word でコピペしたときのバルーンみたいのを消すのに使うなと思い、
word 2010 を起動してみるが、やはり esc が使えない。

で、原因は photoshop のせいだった。なんと photoshop 起動中には esc が使えなくなる。

photoshop cs2 + windows vista。

Autodeskのサイトのフォーラムで、
[Photoshop Causes ESC Key to stop working in Revit Arch 2011 & 2012](http://forums.autodesk.com/t5/Autodesk-Revit-Architecture/Photoshop-Causes-ESC-Key-to-stop-working-in-Revit-Arch-2011-amp/td-p/3014258)
などとある。

> I believe this was a known problem with Photoshop that was fixed in version CS5

うざい。CS5にしろとか。
他にも日本語のフォーラムでちょくちょくみかける。
はげしくうざい。

psvita

iphone や android や ipad や tablet などは買う気がしなかったので、
psvita wifi モデルを買ってみたんだがね。
完成度がいまいちだよね。

psp も持っているのだが、主に用途は mp3 を聞くため。ごく希にゲームをやることもあった。
ゲームはサルゲッチュか塊魂くらい。
ゲーム機として使う気は最初からなかった。
買ってみて思ったが ipad や tablet pc よりは小さいが、
psp やスマホよりはでかい。
psp とほとんど同じ大きさかと思ってたが違った。
でも、このくらいでかい方が文字が打ちやすくて良いとは言える。

mp3 の転送にめっちゃ時間がかかる。32GB のメモリを買ったせいでもあるが。
psp の頃はせいぜい 4GB どまりだった。
mp3 を削除しようとすると途中で固まる。困るんだよなあ。

どうも、先にハードウェアをリリースしておいて、
ファームウェアは随時更新、ソフトは随時投入という戦略らしいからなあ。
まあ、psp も2台買ったし。
ハードも買い換える必要があるかも。
iphone や ipod ユーザだって買い換えてるだろ。
お互い様だよな(笑)。

しかし、良い時代になったよな。
クラシック曲なんてネットからダウンロードし放題。
思うに、やはり遅く生まれれば生まれるほど得だよな。
医療技術は進むし。
歯医者に通ったり病気に罹る確率は明らかに減る。
年金や医療費で老人に搾取されて若干貧しい生活を強いられるとしても、やはり若い人の方が恵まれている、
と言えば言えないか。

で、思うのだが、WiMAX ルータを1台持っておき、
タブレットとノートPCと携帯を使い分けるのが一番合理的だと思うんだ。
タブレットはvitaでも可。
携帯はできればWiFiにして欲しいよなあ。
通話機能だけで十分なんだけど。

家政婦のミタ

『家政婦のミタ』を、私は実際に見たのでなく、wikipedia で読んだだけなのだが、普通のテレビドラマにしては異様にストーリーが複雑なのに驚く。
これは『家政婦は見た!』という先行するテレビドラマシリーズのオマージュであり、
さらに『家政婦は見た!』には松本清張の原作『熱い空気』(1963年)があるという。
つまり、いわゆる「家政婦モノ」というドラマのジャンルの集大成であり、
ある意味で、アニメ界のエヴァのような作品なのかもしれない。

wikipedia を読んだだけで判断するのもどうかと思うが、しかし、シナリオというのは別に配役が決まって映像化すればわかるというものでもない。
プロットだけを判断するには十分だとしてだな。
これはただ一人の作家が書けるようなシナリオではないのだろう。
多くの人のこだわりが凝縮したものなのだ。
だから傑作となり得たのだろう。

一方で、普通のテレビドラマがどれほど適当に作られているかがわかるというものだ。
普通のテレビドラマがなぜつまらないか、
面白いドラマを作ればちゃんと視聴率が取れるのだ、ということが如実にわかった現象だと言える。

Turin と Trino

1849年のノヴァーラの戦いを調べていたのだが、ピエモンテには Turin (州都)のほかに Trino という地名もある。
紛らわしい。実に紛らわしい。特にイタリア語で Turin は Torino と書く。ほとんど同じではないか。

セルジューク戦記主な登場人物

[主な登場人物](http://p.booklog.jp/book/32947/page/805486)は書きかけて放っておいたのだが、とりあえず書いてみた。『セルジューク戦記』は今のところ私の書いたものの中ではもっとも複雑な話で、自分でももう忘れていた。

これとは別にセルジューク族の系譜があり、それらを併せると百人は軽く超える。登場人物をみんな数えたら(名前の出てこない人や参照されているだけの歴史上の人物なども入れて)二百人はいくだろうと思う。むちゃくちゃ話を広げたからな。

ガエータ、ナポリ、カプアなどの地名が出てくるのだが、それも忘れていた(笑)。

ポー川

ふと地図を眺めていて気付いたのだが、オーストリアのギュライ軍は、ポー川が氾濫して水田が水浸しになったから、
ノヴァーラで足止めを食ったのではない。
なぜかというに、ミラノからトリノまでは、ポー川を渡らなくてもたどり着くことができるからだ。
ギュライが渡れなかったのは、ノヴァーラとヴェルチェッリの間に流れている、
ポー川の支流のセージア川でなくてはならない。

また、水田が水浸しになったのは、ピエモンテ軍がわざと川を決壊させていたからだ。
おそらくピエモンテ軍は大雨で水かさが増しているのを知っていて、オーストリア軍を挑発したのだろう。
或いは、四月から五月にかけて、アルプスの雪解け水で、田んぼは勝手に水であふれるのかもしれん。
ピエモンテ側では予測の範囲内ではなかったか。

それから、ナポリとテアーノとガエータの位置が間違っていたので、直す。
いじりまくりだな。