じんましん2

唇が腫れて体全身にじんましんが出た件だが、あちこちに出ては消え出ては消えして三日くらいかかった。一番最初にじんましんが出たのが唇だったというだけのことのようだ。

今から思えば、常温で放置していたオートミールを食べたことによる食あたりだったと思う。昔から食あたりでじんましんになることはたまにあった。原因不明でじんましんになることもあったけど、2~3日の潜伏期間の後に食あたりになってじんましんが出た、と考えると腑に落ちる点が多い。ストレスとか疲れだとか原因不明だとかいろいろ言われているが私の場合はたぶん単なる食あたり。

それで、年も年だし、免疫も落ちてきているだろうし、古いお茶など残しても飲まずに捨てるようにした。いずれにしてもかゆいのは不快だ。

今ははや心にかかる雲もなし

花山信勝『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』を読んだ。私がわざわざこの本を図書館から借りてきて読んだのは、東条英機の辞世の歌

今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

を調べるためであった。この歌は実はすでに『虚構の歌人 藤原定家』にも載せていたのだが、その頃から、この歌が和歌についてそれなりにある程度学んだ人でなくては詠めない歌であることに気づいていた。戦時中、日本人はみんな和歌を詠んでいた。本土決戦が迫ってきて、敗戦の恐怖におびえ、人々は日本古来の和歌を心のよりどころとするようになって、私の祖父でさえも和歌を一日一首詠んだ日記を書いていたのである。

この東条英機の歌は、『虚構の歌人』を書いていた時には気づいていなかったのだが、実は足利尊氏が詠んだ

今ははや 心にかかる 雲もなし 月を都の 空と思へば

の本歌取り、というよりも露骨な焼き直しなのであった。しかしそのことについて私は東条英機を咎めるつもりは毛頭無い。なにより歌をまったく詠めない現代人よりはずっと優れている。東条英機は素人歌人に毛の生えた程度の人だっただろう。同じ時に詠んだ辞世「さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 行くぞうれしき」「明日よりは 誰にはばかる こともなく 弥陀のみもとで のびのびと寝む」など見ると、大田南畝の狂歌に近い歌を詠む人だったことがわかる。ならばパロディに近い本歌取りも芸のうちだったわけである。

尊氏の本歌は中先代の乱の最中に関東で詠んだものと思われる。決して戦の歌には見えない。武士の歌にも見えない。しかしながらこれほどよく出来た武士の歌がまたとあろうかと思えるほどよくできた歌である。これほど武士らしい歌はない、とも思えてくる。

もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

なるほどこの歌は実によく出来ている(正岡子規『歌詠みに与ふる書』「もののふの矢なみつくろふ」の歌のごとき鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強きことは並ぶものなくこの歌を誦すれば霰の音を聞くがごとき心地致候、等々)。この源実朝の歌(おそらくは贋作)は武士の歌の絶唱とされている。しかしいかにもわざとらしくしつらえてある。実朝がこんな歌を詠むはずがない、と私には思える。それにくらべて尊氏の歌はどれも素晴らしい。なぜみんな実朝の歌を褒めて、尊氏の歌の素晴らしさに気づかないのだろう。ほんとに不思議だ。

夜空には一点の雲もなく月が明るく輝いている。都で眺める月も、今こうして戦場で眺めている月も同じ月であるから、どこにいようと同じである。尊氏はそれほど京都に執着も愛着もなかっただろう。足利氏の頭領であるからにはどちらかと言えば北関東の足利よりも京都に住むことが多かったのだろうけれども。

アメリカでは従軍聖職者のことをチャプレンという。死刑執行に立ち会う聖職者もチャプレンと言う。死刑囚がキリスト教徒の場合は神父か牧師、ユダヤ教徒の場合はラビ、イスラム教徒の場合にはイマーム、仏教徒の場合には僧侶、などと宗教や宗派によって変わるというのが、宗教国家アメリカの古くからの習わしなのだという。いわゆる教誨師というのもまたチャプレンだが、東京裁判における死刑囚の場合には僧侶が呼ばれた。それが著者の花山信勝であった。彼は死刑囚がみな死ぬ前に仏教に帰依したと書いているのだが、それはある程度割り引いて考える必要があると思う。

死とは単に生の終わりに過ぎない。死後の救いとか魂の不滅など虚構だ。なるほど宗教には美しい側面もあると思うが、死んだ後にも天国があるだの地獄があるだの生まれ変わるだの奇跡があるだの、根も葉もない作り話をでっち上げて、人の精神的な弱さにつけこんでたぶらかすのもいい加減にしろと言いたい。

私ならば死ぬ間際に宗教に頼りたいとは思わない。できれば無神論者として死にたいと思う。死の恐怖を宗教なぞで紛らわしたくない。死ぬと決まってから悔い改めたくはない。教誨師に懺悔して死ぬなんてまっぴらごめんだが、それはまあおいといて、東条英機もまた仏教くさい辞世をいくつか詠んでいる。この「西へぞ急ぐ」も明らかに死後浄土で救われることを願ったものだ。

「これ(「今ははや」の歌)はこの前のものです」と東条英機は言っている。「この前」がいつかはわからないが、死刑判決の言い渡しは昭和23年11月12日には済んでいるのだが、12月6日にアメリカ大審院が訴願を受理しており、死刑執行は自動的に停止された。ところが20日になって訴願を却下し、これによって最終的に死刑執行が行われることになり、23日に執行された。

いずれにせよ、東条英機は12月22日16:00より前に「今ははや」を詠んでおり、他の(思いつきで詠んだ)辞世の歌よりも前に詠んでいたにもかかわらず一番最後にこの歌を取り上げたということは、この歌が自分の辞世の歌であるということを意識して、じっくり考えて用意したものだと思われるのである。いや、この歌がそんな簡単に、即興で詠めるはずがないのである。

戦前教育では南朝が正統で北朝の尊氏は逆賊とされていた。わざわざその尊氏の歌を引いて自分の辞世の歌としたことにはそれなりに深い意図があったのだろう。尊氏の立場と、謀反人、逆賊、戦犯として死んでいく自分の立場に通じるものがある。死を宣告され、歴史の皮肉、真相というもの気付いていたに違いない。

ともかくも、尊氏の本歌は仏教臭さなどない、きりっとした、武士らしい良い歌なのだが、東条英機の歌はそれを仏教くさい、抹香臭い歌に作り替えてしまった。そのことに私は不満なのであるが、しかしそれでも、これはよく出来た歌だと私は思う。和歌としてはともかく狂歌としてみれば相当優れた歌だ。これほどの歌を詠める人はそうたやすくは見いだせまい。

くちびるが腫れた。

夜中の4時頃急にまず下唇が腫れ始めて10分くらいの時間差で上唇も腫れた。体中ほかにもかゆいところがある気がするので、一種の食中毒だろうか。といっても今日は酒も飲んでないし、食事を最後に摂ったのは前日の19:00くらい。ネットで調べてもよくわからん。疲れやストレスのために免疫が落ちていて腫れることもあるという。腫れた箇所はだんだん周りに拡散しつつ、唇自体の腫れは少しずつ引いてる気もするがそうでもない気もする。

仕事のストレスに関しては思い当たるところが多すぎる。

ついでに最近なんだかすごく胸焼けがする。

ガソリン車は臭い。EVはもっと普及すべき。

私はガソリンエンジン車は臭くて嫌いなので、早く滅んでほしいからもっとEVが普及すれば良いのにと思っているが、まず市街地にはEVしか入って来れないようにするとか、人が大勢集まる駅周辺に車で入り込めなくするとか、電動自転車は時速8kmまでしか出ないようにするとか、やらなきゃいけないことは沢山あると思うんだよね。きっとどれも実現しないけどね。

要するに町中であれば非力で数時間しか持たないEVで十分だし電動自転車もゆっくりで良いのだが、ときどき遠出しようとなるとそれではもたない。電気自動車で日本縦断とか怖くてできないだろう。

だから都市部とそれ以外、という棲み分けをしない限りEVは普及しないんじゃないの。というかそういうふうにしてほしい。というか電動アシスト自転車って要するにあれがEVだよね。そしてEV自転車が周りもろくに確認しないで歩道も車道もかまわず疾走しまくるから、世の中とても危険極まりない状態になった。いったいどういう圧力団体が政治家を動かしてこんな社会にしようとしているのだろうか。

ていうかね、歩車分離というか、居住区に車が入れないようにするってのある意味当たり前な理想なんだけど、絶対実現しそうにないよね。それが人間社会ってもんだよね。

雨の日、子供を送り迎えするために駅の入り口に車を横付けにして歩行者の邪魔をするようなやつがいなくなってほしい。社会制度的に。

都心だとあまり感じないが、田舎道だとなんであんなにガソリン(排気ガス)臭いんだろうな。郊外はディーゼル車が多いのかな?

あとあの新宿西口の喫煙所をどかせよ。臭いよ。みんなもっと苦情言おうよ。

ブログカテゴリー

ソウルフードの手伝いをしていて結局このブログも「にほんブログ村」と「人気ブログランキング」に参加したのだが、たとえば人気ブログランキングのカテゴリー見てみると「香道」「華道」「書道」「茶道」或いは「俳句短歌」というカテゴリーはあるが、「和歌」とか「歌道」というカテゴリーはない。「国学」というカテゴリーが無いのはしょうがないとして「国文学」というカテゴリーも無い。どうも私は現代に生きる資格も場所もないようだ。世の中2割の例外はほっといて8割のマジョリティをターゲットにするのがマーケティングだとすれば古文漢文、国文なんて学ぶ必要無いってのはもう最初から答えでてるよね。

それで最近はどちらかと言えば映画やドラマのレビューを書くことが多いので、人気ブログランキングの方は「映画評論・レビュー」「ドラマ考察」というカテゴリーに入ってみた。面白いね、映画はレビューだけどドラマは考察なんだね。違いはなんとなくわかる気もするがわかりたくもない。あとは無難に「日記雑談」「居酒屋」。

ブログ村のほうはシンプルに「酒」だけにしておいた。

どうでも良いことではあるが、このブログは最初は「田中久三」という名で書き始め、それからわけあて「田中紀峰」という名前に変えて、今回「田中紀岑」というのも使ってみた。他にも作曲するときには Kelvin TANAKA という名前を使うことがある。気分でいろいろな名前を使ってみたくなる性格なのである。

左腕だけ筋肉痛

近頃なぜか左腕だけ筋肉痛になり、ずっと治らない。年を取ったからもうこれ以上酷使できないのだろうか。しかし右腕と左腕で左腕だけが筋肉が衰えるとも思えないので、鍛えれば右腕と同じくらい使えるようになるのだろうか。ネットを検索してみたがわからない。ほったらかせばなおのこと筋肉が衰えて筋肉痛になりやすくなるようにも思えるし、しばらく休ませたら治るような気もするし、ほんとにわけがわからない。

エナメル質

私はたぶんずっと左側よりも右側の歯を酷使してきた。今、右側で噛むと右側の前歯と奥歯がしみるようになってきた。虫歯かと思ったが、しばらくたつと痛くなくなるので、たぶんエナメル質が自動修復しているか、歯石の幕のようなものができるのだろうと思う。いずれにしても歯のエナメル質が年を取って薄くなってきているのではないか。

そして左側はまだましなので、できるだけ左側だけで噛むようにしている。

自分信託投資

私の株の買い方は、できるだけいろんな銘柄を少しずつ、底値と思われるときに買って、長期ホールド、ただし高くなったら売る、というやり方で、投資信託に似ているが、他人がやってる投資信託は信用できないのと、いろんな個別銘柄を自分で選ぶというのが面白いからそういう買い方をしている。世の中の投資信託をnisaで積み立てるというやり方は、なんか勝手に上がったり下がったりするのが気に入らないのでやりたくない。

株価はこれから遅かれ早かれ下がる。アメリカ大統領選挙前に下がり始めるかもしれないし、来年になるかもしれないけど、とにかく、今上がってるからとりあえず買って、落ち始める前に短期で売る、という考え方は、私には無い。

安ければ買うし、高くなったら適当なところで売る。

ブラックリスト

ブラックリスト見た。面白いんだが、何かが物足りない。homelandやvivantとは違って、エピソードがぶつ切りで、敵役は次から次に移り変わっていく。24 -twenty-four- 形式か。メインのキャラクターには何か裏設定があってそれをラストまで引っ張っていくという戦略なのだろうが、これって全部見る必要ある?と思ってしまう。

脚本はよく練られていて、これまで作られてきたFBIものCIAもの、いわゆる政治サスペンスものの王道を行っていて、俳優もみな魅力的なんだが、なんというのかなあ、悪い意味で幕の内弁当的というか。homelandだとここのエピソードはともかくとして全体のストーリーというものがあったし、キャラクター設定は破綻寸前のようにみえて一応の統一感を保っている。そういう危なっかしいところ、優等生的な作品ではないところ、ある種実験的なところに魅力があった。ブラックリストにはそのどれもがない。だから意外性が無い。ああ面白かったな、でもなんとなく既視感がある、で終わってしまう。でもまあテレビドラマなんてものはそれで良いわけで、成功した作品と言って良いのだろう。当たるかはずれるか一か八かの作品なんて商業的には作ってられない。

ある意味最近の少年ジャンプの作品なんてみんなそんなものではないのか。私もドラゴンボールあたりまではみていた。ドラゴンボールも途中で飽きて見るのをやめた。ワンピースも連載初回から見てしばらく見ていたが、途中で飽きて見るのをやめた。作り込まれれば作り込まれるほど意外性はなくなっていって、見る気がしなくなる。テレビ番組もみなそうだ。

Netflix でいうと Surviver というのがある。これも最初はプロットの面白さで見ていたが途中で飽きた。これ、最後まで見る必要ある?ただ惰性で続けて引っ張ってるだけだよな、と思えてきた。Lupin もそうだ。面白い着想だが、全部見る必要ない気がした。

おそらく homeland は、この先どういう展開になるか、もしかしてドラマ自体が破綻して終わるのではないか、というような心配を見ている側にさせる。しかし blacklist は、テレビドラマの水戸黄門を見ているように、どうせ一件落着するんだろうと安心して見ていられるから、メタな意味で面白くないのではなかろうか。