> ちりやすき一重桜の花のうへに雨さへそひてふく嵐かな
明治天皇御集角川文庫版。
> ちりやすき一重桜の花のうへに風さへそひてそゝぐ雨かな
文部省版。似ているが単なる誤記ではないな。
思うに9万首の御製の中には、このような推敲の段階によって微妙に異なる歌、習作、などがかなりふくまれるのではなかろうか。
題も相当に違っている。
> ちりやすき一重桜の花のうへに雨さへそひてふく嵐かな
明治天皇御集角川文庫版。
> ちりやすき一重桜の花のうへに風さへそひてそゝぐ雨かな
文部省版。似ているが単なる誤記ではないな。
思うに9万首の御製の中には、このような推敲の段階によって微妙に異なる歌、習作、などがかなりふくまれるのではなかろうか。
題も相当に違っている。
[梅にうぐいす 北大路魯山人](http://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49960_37760.html)
ひどい話だなと思った。
うずいすは、二月から八月くらいまで毎日のように鳴く鳥で、
しかも梅の木というよりはごく普通の竹藪にいるものだ。
正直に観察すれば梅にうぐいすのような陳腐な歌など出てくるわけがない。
最初に鳴き始める二月が一番印象的なのかもしれない。
だが、ただそれだけだ。
そもそもうぐいすの鳴く声は聞いたことはあるが、
その姿をわざわざ目撃するというのはまれだと思う。
> あたらしきいへゐはならびたちにけりやぶうぐひすのすみかなりしが
> うぐひすのあさなあさなに鳴く里は夏のやぶ蚊もさぞおほからむ
serious sam はラスボスが異様に強く途中で難易度も変えられないので、
一番簡単な tourist モードでさくっと行ったのだが、
ラスボスは自力では倒せないらしく、
わけわからんので、しかたなくネットで検索してみた。
ピラミッドの頂上まで来たら、四隅にあるカタパルトみたいので跳躍して四つのわっかすべてをくぐると、
ピラミッド上空にとまっているUFOからラスボスめがけてビームが照射される。
だがラスボスの位置によってはビームが当たらないこともある。
そのときは一からやりなおし。
ビームだけでは致命傷に至らず、回復してしまう。
そこで武器の中で一番強力な canonball などでビームと同時に攻撃すると倒せる。
以前は途中で放棄してしまいラストを見てないのでなんとも言えないが、
このラストはオリジナルと同じものなのだろうか。
明治天皇御製だが、93032首という全集は皇室に153冊の写本として残されているという。
そのうち明治天皇御製集として大正8年から宮内省の事業として編集したものが1678首を納めているが、
J-Textsにある[明治天皇御集](http://www.j-texts.com/sheet/meijit.html)は大正11年に文部省が発行しており、
おそらく同一のものと考えられる。
つまり、宮内省が編集して文部大臣鎌田栄吉の名で発刊したということだろう。
その後、昭和35年から明治神宮がより多くの歌を公にしたいというので、
入江相政や佐佐木信綱らが委員となって、「新輯明治天皇御集」というものが昭和39年に出た。
これには8936首が納められている。
現在、平成2年刊「類纂新輯明治天皇御集」というものが定価5250円で、明治神宮で買えるというのだが、はてどこで買えばよかろうか。
もしかすると宝物殿の中で売っていたかもしれない。
まあ問い合わせてみるか。
図書館にも所蔵しているところがある。
しかし、これが最大の収録であり、それ以外の9万首近くの歌というのは我々がいくら望んでも見られそうもないということだな。
さらに新輯御集から1404首を選び出して明治神宮編角川文庫版「新抄明治天皇御集昭憲皇太后御集」が昭和42年に出た。
私が大学受験の時に明治神宮で買ったものはこれだったと思う。
さらに平成12年に注釈に多少補筆した版が出ており、
現在明治神宮の文化館(土産物売り場)で表紙カバーに「非売品」と書かれているが500円で買うことができる。
他にも昭和15年に明治神宮社務所から「明治天皇御集」というものが出ているようだ。
で、J-Textsにある大正11年版御集と、平成12年版御集だが、
収録されている歌にかなり違いがある。
たとえば大正11年版には武蔵野を詠んだ歌が入ってない。
平成12年版は日常の素朴な歌をより多く取り入れる構成になっているのかもしれない。
キング付録「明治大帝」という昭和2年に出た本を見ると、
> 御製編纂以前、新聞などで公表されたのを拝誦いたすと、ほとんどみな、主観的な、教訓的な御製ばかりであったので、御製は全部かようなものかと存じておったところが、編纂に従事してみると、決してそうではない。
また
> 明治天皇の御製が新聞に洩れ始めたのは、明治三十七八年の戦役の頃ではなかったろうか。少なくとも、この頃から新聞にあらわれるのがにわかに多くなったように思う。
これは当時の御歌所長高崎正風男爵が洩らされたように承っておる。
> 元来、大帝には、御製の世に洩れるのをお好み遊ばされなかった由であるが、
> 大帝は、御製の頻々として新聞に出るのを苦々しく思し召され、高崎男爵をお召しになって、ご注意があった。
これに対して正風は
> 御製を世にお洩らし申し上げるということは、世道人心の上に、誠に結構なことと存じて、畏れながら正風取りはからったことでございます。
もしこれについてお咎めを蒙るようなことあらば、正風、切腹して御申し訳をいたします。
と答えたそうだ。
高崎正風「歌ものがたり」にある話で、
明治10年に西南戦争が起こり、
> 思いの外西南事件が長くかかって、しばらく京都にご滞在あそばされたが、
ようやく結末がついたので御還幸になることになった。
今度は路を海におとりになることになったので、自分も供奉いたして、神戸から舟に乗った。
> しかるに遠州灘ご通行の折り、富士がよく晴れておったのをご覧あそばされて、たちまち御製三首あそばされて、
それを御手帳にお書きあそばされて、お裂きなされて、私にお見せになって、
「高崎歌が出来たがどうだ」と仰せられた。
で、この時の歌というのがおそらくは
> あづまにといそぐ船路の波の上にうれしく見ゆるふじの芝山 「西京よりかへりける船の中にて」
であると思われる。
これに対して正風は
> その御製は覚えておらぬが、何でも故郷が近くなったと見えて、富士が見えるようになったのがまことにうれしいというような御製であって、
つまり久しく西南事件のために京都に御滞留あらせられたことであるから、早く故郷に帰りたい、と思うのは人情誰も同じことであるが、
その御実情をそのまま御歌いになったのであるから、誠にこの御製は結構に伺います
と答えたそうだ。
正風が宮中の御歌掛(後の御歌所長)になったのは明治9年であるから、
上記エピソードはその後のことだろうが、
明治天皇の御製が毎年きちんとした形で残るようになったのが明治12年からだから、
おそらく正風の助言や尽力があったのだろう。
実際、
> 当時宮中の御歌はいわゆる堂上風であまりにもお歯黒臭かったので、
翁はその旧弊を一洗して、かねて私淑していた香川景樹風の清新にして格調高い歌にしたい、
というようなことを申し上げたところ、非常に御意に適い、それが動機となって、明治十二年頃から御製の拝見を仰せ付けられるようになったと承っている。
またその際に
> 御歌を御好みあそばすは誠に結構に存じますが、それがために御政治にお障りあそばすようなことがあれば、
畏れながらひらにお許しを願います
と条件をつけたそうだ。
正岡子規の「[十たび歌よみに与ふる書](http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/2533_16281.html)」(明治31年)で批判されている御歌所長というのも、具体的には正風のことだと思われる。
> 田舎の者などは御歌所といへばえらい歌人の集まり、御歌所長といへば天下第一の歌よみの様に考へ、従ってその人の歌と聞けば、
読まぬ内からはや善き者と定めをるなどありうちの事にて、生も昔はその仲間の一人に候ひき。
今より追想すれば赤面するほどの事に候。
御歌所とてえらい人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐るにもあらざるべく候。
今日は歌よみなる者皆無の時なれど、それでも御歌所連より上手なる歌よみならば民間にこれあるべく候。
子規は明治35年に死んでいるので、
正風が37年頃から新聞に洩らしたというような歌も、ほとんど目にしていないものと思われる。
子規が仮に日露戦争の後まで生きていたら、
御製についてなんと言っただろうか。
たしかに気にはなる。
講談社学術文庫は比較的最近出たものが多い。
文庫本化とか復刊ものも多いようだが、見分けがつかない。
著者はおおむね定年後の大学教員で書き下ろしのようにも思えるが、
中には素人の蘊蓄としか思えないような、頭にさっぱりはいってこないものもあるようだが、
良いものも多い。
加地伸行「孝経」を読む。
これは、儒教を仏教と対比させて宗教の一種として解説してくれていて、
たいへんおもしろくわかりやすい。
仏教に限らずインドに発生した宗教は、
いやインド社会というものが、カースト制度からしてそうだが、
そもそも聖と俗をきっぱりと分け隔てするのが好きだ。
聖者になるためには、髪の毛をそり落とすなど尋常な人たちとは違った異形にならねばならない。
働いて食べてはならず、乞食にならねばならない。
家を捨てて、妻や子を持ってはならない。
などなど。
そうやって未来永劫続く輪廻から解脱して救済される。
これがインド的発想。
一方東アジアでは、未来永劫続く生命の生殖の連鎖の中の一部であることを自覚することによって精神的に救われる。
これが「孝」の本質であり、
その考えを敷衍していけば、親孝行や祖先崇拝となり、
さらにそれを政治に応用すれば「忠」となる。
親孝行や祖先崇拝や封建思想というのはようするに枝葉末節であって、
「孝」とは宗教であって魂の救済が第一義だという。
生命の連鎖から抜けだそうとするのがインドであり、
連鎖の中に埋没しようとするのが東アジアであるとする。
人はみなDNAの連鎖の途中にある。
子孫が栄えるならば死んでも死なない。
だから死をおそれる必要はない。
ということを初めて文章化し体系化したのが儒教であり、「孝経」だとする。
だから、「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」
とはつまり親からもらった肉体をまず大切にせよとなる。
身体に傷一つないこと、異民族のような身なりをしないことなどが重要視されるのは、これが宗教であり、孝の本質だからだ。
髪を切って丸坊主にしたり、出家したり、妻子を捨てたりということは従って最も忌避すべきこととなる。
また、東アジアでは政治が宗教を支配し、キリスト教やイスラムでは宗教が政治を支配しているので、
「信教の自由」とは同じ言葉でまったく逆の意味を持つと指摘している。
つまり、東アジアでは宗教を政治の影響から解放ことを意味するが、
西洋では特定の宗教の影響が政治に及ばないようにすることを意味する。
朱子は、仏教などの影響の下で観念論と大義名分論を持ち込んで、古い東アジア的「孝」を相対的に矮小化した。
鎌倉宮創建は明治2年、明治天皇わずか17才。
明治天皇の直接の意思で創建されたとは考えにくい。
思うに、鎌倉宮のほど近くの山中に、大江広元と島津忠久、毛利季光の墓が江戸時代に作られたとあるが、
長州と薩摩がわざわざ同じ場所に、鎌倉幕府の故知に祖先の墓を作るというのはこれはただごとではない。
もしやすると、江戸時代と言っても末期、薩長同盟の成ったあとに徳川幕府転覆を祈念してここに墓を建てたのではなかろうか。
碑文を良く読むとわかるかもしれん(碑文はしかし維新後のものかもしれんなあ)。
明治新政府の意思とはつまり薩長の意思であって、
維新成立後速やかに鎌倉宮が創建されたのもまさに同じ意図によるか。
ふむ。どうも、島津氏の墓が先にあってあとから毛利氏の墓が移設されたようだ。
なるほど。頼朝の墓も薩摩藩主・島津重豪が整備したのか。
で、途中にあったのが三浦一族の墓なのだな。
東京招魂社も明治2年創建。
もともと招魂社は長州藩に1865年に最初に作られ、
東京招魂社も長州藩の大村益次郎が献策している。
もしかすると鎌倉宮も長州関係かもしれない。
というか、鎌倉宮はもともと東光寺という寺だったそうだから、
単に、廃仏毀釈運動と連動して創建されただけなのかもしれん。
ええっと東光寺という寺は当時すでに廃寺だったらしい。
> 旧暦・明治2年(1869)2月起工、6月20日神体が決定、7月21日社殿落成、鎌倉宮と命名、創建される(「明治天皇紀 第二」宮内庁 昭和44年 吉川弘文館)
やっぱちゃんと天皇紀を読まなきゃだめか。
wikipedia:大江広元
鎌倉に大江広元の墓と伝えられるものがあるが、これは江戸時代に長州藩によって作られたものであり、広元の墓とする根拠はない。
へえ。そうなんだ。まただまされた。長州は毛利氏で毛利氏の祖は大江広元だから、江戸時代になってその祖先の地に墓を作ったということか。
読史余論。
按ずるに本朝古今第一等の小人、義時にしくはなし。三帝二王子(後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇、雅成親王、頼仁親王)を流し、一帝(仲恭天皇)を廃しまゐらせ、頼家ならびにその子二人(禅師君、公暁)、又頼朝の子一人(意法坊生観むすめの腹に出来しを、殺せしといふ事、承久記に見ゆ)、頼朝の弟一人(全成)、姪一人(河野冠者)。それが中、公暁をして実朝を殺させしありさま、その姦計おそるべし。景時・義盛を殺せし事、前に論じき。かれいかでかその死を得べき。東鏡に記せし所信ずべからず。順次往生の類、皆これ文飾のことばたる事明らかなり。保暦の記さもあるべくや。されど義時が奸計を遂し事も、外戚の勢に倚りし故なり。譬えば王莽元后の力をかりて、つひに漢鼎を移せしが如く、本朝にしては蘇我馬子元舅の親によりて、用明の皇弟穴穂部皇子及び守屋の大連を殺し、そのゝち終に崇峻を殺し参らせしよりこのかた、かゝる類もなく、義時が罪悪はなほ馬子に軼たり。
禅師君は禅暁か。
一幡を殺したのは時政で、義時ではないということか。
「意法坊生観」とは「一品房昌寛」のことらしい。読みはだいたい同じ。昌寛の娘は頼家の側室となって、栄実・禅暁を生んだ。頼朝ではなくて頼家の間違い。
河野冠者は阿野時元で全成の四男、つまり頼朝の甥。
按ずるに広元、累世王家の臣として頼朝をたすけ、六十州をして其掌握に帰せしめ、義時を助けて承久の謀主たり。この人当時の望みありしかば、時政が一幡を殺せし時も、かれを仮りてみづからをなし、およそ義時が奸詐をほしいままにする、常にかれをかりてわたくしを営みき。さればこの人、ひとり、朝家に背きしのみにあらず、頼朝にもそむきたり。その柔侫多智、これもまた義時が亜たるべし。
玉海に、頼朝広元に委ぬるに腹心を以てす。恐らくは獅子身中の虫也とのたまひし事、先見の明ありといふべし。
累世王家の臣とはつまり大江氏が藤原氏などと並んで古くからの貴族であるという意味。
「亜」とは次ぐもの、という意味のようだ。
引き続き、岩波書店新日本文学大系43の、「承久記」。
慈光寺本というものだが、
ネットに公開されている
[前田本](http://www.geocities.jp/hgonzaemon/joukyuuki.html)
とはまったく別物で、
どこがどう対応しているのか、
読み比べていたら脳が疲れた。
わかりにくい。
前田本の方がずっとわかりやすいし、
おそらくこちらの方が広く知られているのだろう。
脳が疲れた。
読史余論に言う。
もし平家都落ちのときにたまたま後白河法皇が京都に残っておらず、
平家とともに西海に移されていたら、
頼朝はただの反逆者と同じことだっただろうと。
そりゃまあそうだ。
そうなっていた可能性はだいぶあった。
頼朝は当時「伊豆国流人源頼朝」というのみ。
頼朝がやったことはもともとは謀反と同じであり、
たまたまつじつまがあったように見えるだけだと。