前島密

最初は切手と言わないで郵便印紙と名づけようかと思ったが、その頃は印紙などという文字は一般の人には新規であって、郵便という名すら既にわかりにくい上に、また印紙という新奇な名を加えた日には、所業創始のために不利益であると思って、多くの人の耳慣れている「切手」という名にしたのです。

もっとも、本省中には切手という名は余り俗で鰹節屋か何かのようだという非難もありましたが、私は賃銭という文字と好一対ではないかと答えたので、まず大笑いで済んだのです。その後、郵便賃を税と改称した時、切手を印紙と改めようかと思ったが、事に害のない以上は既に一般に知れ渡った事を変更するにも及ばないと思って、依然、切手の名を用いる事にしました。

私は郵便為替という名称は穏やかでないと思ったが、郵便切手と同じように最も当時の人の耳に慣れているのを適用したのだ。しかし「為換」の字がむしろ妥当であると言った人もあったが、「換」の字も俗眼にはやはり新奇の感があるだろうと思ったから俗向きのよい「替」の字を襲用したのです。

郵便創業談 : 郵便の父前島密遺稿集
著者 前島密
出版者 逓信協会

前島密年譜

デモ

常々日本人はなぜデモをやらなくなったのかと思っていたが、最近のツイッターではしばしばデモが起こるようになってきた。おそらくこれからますますSNSがデモに利用されるようになり、私はますますSNSが嫌いになると思う。

昔は労働組合が人を組織して公安と対立しつつも共存してデモを主催していた。今もその名残で、路上のデモはたいてい労働組合が組織しているから一般人はばかばかしくてデモなんかやってられない。そこへいくとツイッターなどは自宅に居ながらにして自分の正体を明かす必要もなくデモに参加できるのだから便利だ。

じゃあ自分もデモやったりクラウドファンデングやったりするかと言えば私はやらんだろうと思う。私の場合はますます孤立感を深めるだけだし、私がいくら旗振り役をやっても誰も言うことはきかんだろう。デモやめろとも思わないけど、なんて馬鹿な主張をしてるんだろうなあとは思いながら眺めている。

腹が張る

たぶん年を取って胃腸の働きが弱ってきたせいではないかとおもう。以前のように暴飲暴食はできぬ。腸内細菌を整えるためには味噌、納豆、ヨーグルトなどを食べると良いらしい。ほかにもヤクルト1000を飲むようにしている。食物繊維などは逆に腹を膨らましてしまうらしい。

純米酒

純米酒って昔はいろんな味があったけど、最近はみんな無難な上品な味に収束しつつあるように思う。一方、本醸造はいまだにいろんな味のものがある。土産物屋で売っている地酒(本醸造)とかそういうのはたいてい不味い。たぶん、どこかに外注して適当に名前だけ地酒っぽくしているのだと思う。本醸造はやはりどれも純米酒よりは雑というか、下品なというか、変な雑味があって飲みにくい味のものが多い。

吟醸酒が出たての頃は私もちょっと珍しさで飲んでたこともあったがすぐに飽きた。吟醸酒はあのわざとらしい香りが私は嫌だ。日本酒は米の香りだけあれば良い、吟醸香なんかいらんと私は思っている。

そんでまあ世間一般も最近は純米吟醸とかそういうキワモノは狙わずに普通の純米酒が主流になってきているように思う。

昔の立ち食い蕎麦とか立ち食いうどんはまずいものが多かったが、生そばに冷凍ものが使われるようになってぐんと味が良くなって、無難に上品になった。と同時に個性は失われたように思う。立ち食い蕎麦も純米酒もだんだんとうまくて上品な外れの無い味に収束していってるんだなあと思っている。

文字無き時代の淘汰圧

土屋文明も柳宗悦も、万葉集は歌人ではなく名も無い庶民が歌を詠んでいたのが良い、古代の詠み人知らずの歌のほうが後世の名のある歌人の歌より良いなどという。柳宗悦はまた沖縄の和歌のようにやはり無名の民謡のような歌のほうがよいという。しかし文字が無かった古代に残った歌というものは相当な淘汰圧がかかったはずであり、人から人へ口から口に伝えられるうちに最初に詠んだ人の歌とは似ても似つかぬほどに改変されてしまったはずだ。古代の詠み人知らずの歌というものはそうした淘汰改変の結果わずかに残った、つまり、選りに選って選抜され推敲された歌なのだから、良いのは当然なのである。ただの素人の歌がそのまんま残ったものではない。梁塵秘抄や平家物語のように自然発生的に生まれた文芸作品においても同様のことがいえるだろう。

だが現代の新聞歌壇のようなものは、素人が詠んで投稿し選者がきまぐれで選んだだけだから、だれが詠もうとそのまま文字になって残り、駄作は永遠に駄作のままなのである。

素人が自由に思ったことをそのまま歌に詠めば良いなどいうのが自然主義とか万葉調とかアララギとかいうのかしらんが、そんなのはまったく嘘だ。今の歌壇に一番近いのは万葉の詠み人知らずの時代ではなく、現代歌人が嫌っている、淘汰圧というものがほとんどかかっていなかった室町中期の続新古今集時代だろう。しかし続新古今集とても、素人がただ勝手に詠み散らかしただけの歌を採るなどという暴挙には出なかったはずだが。斎藤茂吉は良い歌人だが下手な歌人でもある。笑点の大喜利で落語家が良いことを言うこともあればつまらないことを言うこともある。あれと同じだ。だから、一般人が茂吉を見ていると歌なんてものはなんでもいいんだなとしか思えまい。ここまで混乱させておいて誰が責任を取り収拾するのか。

美濃焼

スーパーなどで、ちょっとおしゃれな柄物の洋食器があって、持ってみると軽くて薄い。裏返すと銘が入っているものもあるが、英語かURLのようなものが書いてあったりして調べてみると岐阜県の多治見市あたりの会社で、つまり美濃焼であることがわかる。そういう会社はだいたいそんな古くはなくて、とはいえ1960年頃に創業したものが多いようだ。つまり、戦後日本の庶民生活が洋風化して行く中で、洋食器に活路を見いだして、美濃焼というブランドを表に出さない形で売ってきたということだろう。

そういうことは有田や波佐見ではあまりやってないと思う。名古屋、岐阜あたりには、ノリタケ、カネスズ、ナルミなどかなり古い洋食器メーカーがあるようだ。中京地区では明治維新以後すぐに洋食器の製造が始まったということだろう。そういう風土というか慣習の違い、あと大消費地に近いという利点もあったのだろう。

筆記試験における圧迫面接的要素

某予備校の現国の問題集を読んでいると、なんだってまた現国というものは、こんな不愉快な現代文を読まされ、問題を解かされなくてはならないのだろうという気にさせられる。その中に菊池寛の書いたものが混ざっていて、私はそれを一気に読み終えて、爽快感を覚えた。こんな菊池寛みたいな文章ばかりが出題されたのなら私はきっと現国を好きになれただろうと思う。

要するに現国というものはまず書かれた内容に私はまったく共感もできなければ関心も持てないのだ。むしろ反感しか抱けないのだ。読む気が起きない、こんな文章に付き合わされるのが苦痛でしかたないのである。中には、理科系や科学に対する露骨な敵意と無理解が綴られただけの文章もある。エセ科学者や科学評論家が書いた鼻持ちならぬ文章もある。衒学的としか言いようがないこむつかしいだけの無意味な文章もある。なぜこんな文章を読まされねばならないのか。おそらく世の中のマジョリティがこうした文章を読むことに快感を覚えているからに違いない。世の中にはそうした需要があり、多くの人はこうした文章を読むことになんら抵抗が無いのだろう。私には信じられないことだが。そして彼らは自分たちがマジョリティであることを確認して安心しているのに違いない。こういう幼稚としか言いようがない現状に、大いなる不幸を感じる。

「自由とは無条件に良いものだと思われがちだが、」そんなこと思ってねーよ。世の中に「無条件で良いもの」なんかあるはずねーだろ。あり得ない誘導するなよ。はなからあり得ない前提に基づいて延々とお説教聞かされている感じ。だから全然読む気になれないんだよ。

世の中で教養人とか文化人ともてはやされている連中の有り難くもない御託や蘊蓄や価値観や思想を強制的に押しつけられ苦痛に耐えるだけのイベントとしか思えない。現代に残る圧迫面接の一種か。マークシートだけでなく記述式や小論文にもそうした筆記試験における圧迫面接的要素はあるのだろう。つまり未だに入試が、出題者が属する学術的コミュニティに受験者が適しているかどうか同調圧力をかけて試す通過儀礼の場、ある種のアカデミックハラスメントとしての性格を有しているからだろう。

完結させないほうがよい。

最近は酒を飲んでも楽しくない。一人で飲むときなどは、缶ビール一本で飽きてしまう。人と飲んでいるときや外で飲む時は逆に飲み過ぎてしまってそれはそれで面白くない。

若い頃は気分を無理矢理盛り上げるために旨くも無い酒をがぶ飲みしたりもしたが、今はまったく逆で、人とトラブルを起こさないようビクビクしながら飲んでいる。そういう飲み方してちゃ、周りのノリについていけないし、面白いはずもない。私はもともと周りに合わせて盛り上がるってことが苦手で、適当に合わせて飲むことができないので困る。

谷川俊太郎とか宮沢賢治とか山之口貘とか萩原朔太郎とか中原中也とか、いろんな詩人がいるんだが、ああいうのはいったいどこが詩なのだろうか。萩原朔太郎にしても、彼の和歌は私にはまあわかるのだが、詩はなんともいえない。谷川俊太郎も「はなののののはな はなのななあに」などは面白いとは思うけど、それ以外のはどうも大したことはない。宮沢賢治も、一日三合の飯で我慢しとか、面白くなくはないけど、だからなんなのだと思う。それを言ったら「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」なんかも、だから何が面白いのかということになる。糸井重里の「インテリげんちゃんの夏休み」なんかも、面白いといえば面白いのかもしれないが、だからなんなのだという気もする。

俵万智も、あれは不倫の歌だから面白いのだが、それ以外は、面白いのは缶チューハイくらいで、なんということもない。

岡本太郎が書いた文章は面白いと言われて読んでみたが、あまり関心しない。結局面白けりゃいいじゃん、みんなが良いと言うのは良い、と言っているだけのように思える。日比野克彦の文章なんかは私にはどうしようもないものにおもえる。しかしなぜだか知らないが岸田劉生の文章は良い。

でまあ、今挙げた人たちの中で100年後、200年後まで残るのは正岡子規と俵万智くらいかなと思うのだが、どうだろうか。たぶん香川景樹や頓阿は残るだろう。吉田類の俳句なんて10年ももつまい。あんなデタラメな漢語を並べただけの俳句をなんでまたありがたがるのか。ただのしゃれなのか。

文章のうまい人、歌のうまい人というのは私の中では確実にいるのである。正岡子規や樋口一葉はうまいほうだと思う。ただし樋口一葉にはあんまり整ってない詠草のような歌が多い。土屋文明が正岡子規や伊藤左千夫の歌を『短歌入門』でとりあげていろいろ解説しているのだが、土屋文明という人はほんとに歌のよしあしがわかっていたのだろうか。

折口信夫も読んでみたが、何を言ってるのかさっぱりわからん。小林秀雄の悪文をつまらなくしたような文章だ。和辻哲郎は、なるほど言いたいことはわかるが、それがどうしたという感じ。寺田寅彦を文系にしたという感じだ。

竹久夢二と夢野久作はなんか似てて間違う。夢野久作の書く文はなかなか良い。たとえば「眼を開く」など。

斎藤茂吉はごくまれに正気に戻ったように良い歌を詠むことがあるのだが、普段はどうしようもなくくだらない歌ばかり詠んでいた。良い歌もあるから一概にダメとは言えないが、ああいう人がいるせいで、世間の人は良い歌と悪い歌の区別がまったくつかなくなってしまったように思う。

たとえば茶道具なんかを骨董の目利きたちがあれが良いこれが良いと言っているのは、彼ら身内の間ではそういう違いがあるというだけで、私からみたら竹のヘラなんてものは茶をかき混ぜられればそれで良いようにしか思えない。おんなじことは和歌にも言えるのかもしれない。私には全然違って見える歌も人からみればどれも似たり寄ったりなのだろう。ただ和歌に関していえば単に竹のヘラのそり具合曲がり具合とは全く違う、本質的な違いがあるように、私には思えるのだ。

『関白戦記』はあれでとりあえず完結しているからいいんだが、『エウメネス』は全然完結してないのに50万字を超えてて、特にむりやり完結させた『エウメネス6』の出来が悪い。『エウメネス5』までにしておいて、『エウメネス』は未完成、ということにしておこうか。うん、完結させないほうが良いような気がしてきた。できないことを無理にできたことにするより、できないままでほったらかしておいたほうが良いのかもしれない。

もっと削らなくてはならない

『関白戦記』辺りはまああれはあれで良いと思うのだが、『エウメネス』はもっと削らなくてはならない。kindleの悪いところは書こうと思えばいくらでも書けてしまうことで、そうすると私の場合なんでもかんでも書けるものは書いちゃおうとするから読みにくくなる。

まず読みやすさを優先して削るところは削るし、読みやすさを優先して冗長にすべきところはくどくど書くべきなのだ。削るところというのはつまり単なる説明をしているところだ。何とかという人の名前とか要するに単なるキャラクター設定の紹介なんかは削らなきゃ駄目だ。どういうキャラクターかということはストーリーを追っていくうちに自然とわかるようにしなきゃダメだ。街の説明、部族の説明。みんなそう。歴史小説ではとにかく固有名詞が多くなりすぎる。そこをなんとかしなきゃダメだ。

冗長に書くべきところというのは逆で、デタラメでも嘘でもいいから想像で街の雰囲気とか、ただ道を歩いているだけの場面とか、なにかの経験を使ってもいいから、だらだらと書く。こういうのをなんというのだろうか。埋め草とでもいおうか。違うな。空気感?雰囲気というか。筋に関係ない、日常のとりとめもないことを適当に挟むと物語っぽくなる。説明っぽさが薄まる。

たぶんだけど、村上春樹の小説は9割空気感でできている。だから読んでも読んでも話は進展しない。私なんかだと、話が長いわりに話が進まないから読んでてつらくなってやめてしまう。えっ。この調子であと何百ページも読まなきゃいけないの?ってなる。しかし多くの人にとって読書体験とは、読書することそのものであり、意味を理解することではないのではないか。たとえばコーヒーを飲む。パンを食べる。できるだけ時間をかけてゆっくりとコーヒーを飲んでパンを食べる。それが心の余裕というものだ。ゆとりというものだ。立ったまま1分間でパンをコーヒーで喉に流し込むこともできる。たぶん、多くの人が望んでいるのはそんなことじゃないのだ。

喫茶店かなにかでだらだらと本を読んでいる時間が心地よければそれでよいのではないか。逆に意味を理解しないと読書できないのであれば、気が散って(笑)、読書に集中できないのではなかろうか。

多くの人は映画館で映画を見るように本を読みたいのではないか。どっぷりと映像の中に浸って、ほかのことは考えないで。私もそうしたいときがごくたまにあるけど、普通は、ユーチューブかブルーレイで、止めたり戻したり、場合によっては早送りしたりして、せっかちに、こまぎれにして、意味を見ようとする。内容を理解すればそれで良いと思っている。そして場合によってはおなじシーンを繰り返し見て精査する。村上春樹の読者はそんなことはまったく望んでいないのではないか。

ブログに戻る その2

ブログに戻るの続きなのだが、最近は本を書いてたりとか(出版はされるだろうがいつになるかはわからない)、給料をもらっている方の仕事が忙しかったりとか、そもそもブログを書くことに意味を見いだせてなかったからずっと放置していた。レンタルサーバーも解約し、ここのサイトもハテナブログ辺りに置きっぱなしにしていたと思う。

レンタルサーバーは入金が無いといきなりこの世から消滅してしまう。死んだ後にも何か書き残しておきたいという目的にはまったくむいていない。だから個人で借りているレンタルサーバーよりかはハテナブログにでも書いておいたほうがまだ後まで残る可能性が高い。ハテナが将来つぶれても、archive.org あたりが断片でも残してくれている可能性がある。

archive.org aug 2009 などみると、このサイトは当時「亦不知其所終」というタイトルだったってことがわかる。うん。「はかもなきこと」はもっと昔から書いてた「ウェブ日記」のタイトルだったはずだ。はてなブログのほうは「不確定申告」というタイトルだった。こちらも一応残しておこう。

kindleに書いたのものも残ってくれるだろう。amazonがたとえ潰れたとしてもあれだけのコンテンツが無に帰するということはないはずだ。にしても、後世に書いたものを遺したいという希望はなんと曖昧で不確かなものだろうか。たぶんこういう考えを私が早くからもっていたのは内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んだせいだと思うが、はなから書いたものは後に残るという前提でものを考えてしまうが、内村鑑三が書いたものが残ったのだって、たまたま世の中が文明開化して、彼はそれなりに有名になったから残っているだけのことであり、また、書き残しはしたものの、ほとんど誰の目にも触れないゴミくずになる可能性も大いにあるわけだ。

それでもやはりブログを書こうと思うのは、本はもちろん良いのだが、本には書ききれないこともある。書いては削り書いては削りするからその削りしろのもって行き場がない。この削りしろの量というのは馬鹿にならないし、削ってしまうともうどこにも書けないと思うと思い切って削ることができず、そのためらいが文章を読みにくくしてしまう。だから削るものはどんどん削らなくてはならない。で、とりあえずメモ程度に書いておくものが必要で、それにはブログがちょうど良い。削りしろといえば小林秀雄の『本居宣長』なんてまさに削りしろ無しに思いついたことをそのまんま全部書いているようなもので、本人はあれでもだいぶ整理したというから、もともとの文章はもっとダラダラと冗長なんだろうな。そういう文章を読むのも時には楽しいが、調べ物しているときなんかにはどこに書いてあるかすぐ出てこないから困る。

SNSにあいそがつきたというのもある。もうSNSには書きたくない。それとほぼ同じ理由で、もしマスコミに何か書けと言われても書きたくはない。どっちも同じだ。ああいうところに書くのはもうやめにしたい。自分のペースで自分の書きたいことだけを書こう。

archive.org だけど、おそらく金儲けのためだと思うが、トップページからいくら検索しても自分のサイトはでてこない。直接save page now というページに行くのが良いと思われる。

このブログは昔 markdown記法で書いていたのだが、今は最新のwordpressの記法にそろえようとしている。古いやつはリンクが無効になっていたり、改行があちこち入っていたりするので、そのうちちゃんと直しつつ文章も手直ししようかとは思っている。