前例が無い

やる気がダダ下がり中なのでなんでそうなのかって分析してみると、要するに、予算はありそうなんだが、それをうまく使うにはいろいろ根回ししたり、組織に働きかけたり、新しい法人作ったりとか、定年間近でたまたま任された役職でやるには荷が重すぎる仕事ばかりで全然やる気がおきないんだわ、これが。

前例がない。では作りましょうか、ということになって、よーしパパがんばるぞーと前例を作っちゃう人では私はないってことがわかってしまった。これが40才くらいの私であれば進んで旗振り役を買って出たかもしれんが、旗を振っても誰もついてこないってことをいやっていうほど経験してきたからいまさらやる気なんて出ないよな。

私がやる気でないのは私の問題なのでどうでもよいとして、仕事を依頼する人には話がしょぼすぎて申し訳なさすぎる。まったくばかばかしさに涙こぼるる。仕事したふりして何もしないのが一番なのよね世の中。

金と人をどう使うかまるごと決めさせてくれればもすこしどうにかなるんだが、金の使い方も人の使い方も条件を付けられてはやる気が出るほうが不思議というものだ。

もっともらしく中身のない文章

もっともらしいことを言う、おせっかいな人が嫌いだった。校長先生の朝礼の訓示、結婚式のスピーチ、乾杯の音頭から始まり、新聞の社説やテレビのニュース解説なんかでみかける言葉で、なんか面白いことでもいうのかと最後まで聞いていても、結局何も言っていない。面白くない。新しいことが何もない。もったいぶってるだけで情報量がゼロ。ただ時間の無駄、脳の空費に終わる。世の中で美文とか名文などと呼ばれているもののほとんどすべてが、改めて読んでみるとそうしたたぐいのものだ。

最近それがAIの書いた文章に似ているなと気づいた。

さらにそういうAIが作ったような動画を多くみるようになった。

テレビのアナウンサーの喋り方が嫌いだ。ああいうものはもう極力聴きたくない。

たぶん、入試に出る小論文なんかもああいう書き方をすれば良い点がもらえるのだろう。facebookやtwitter、noteなどにもよくこうした文章をみかけるようになった。なぜこんな文章が流行るかといえばそういうもっともらしくて中身がない文章に一定の社会的需要があるからなのだ。そういう需要はあるんだろうが、私には不要だ。というか非常に不愉快だ。

村上春樹の文章がそうだというつもりはない。

まじめに読んだこともない。でもおそらく、村上春樹の文章というか文体というかなんというのだろうか。あれは私にとっては何も中身がなく、それゆえ読んでも仕方のないものだ。そしてああいう文章が世間に需要があるということも事実だ。

村上春樹の文章とAIが書く文章には何か共通点があるのじゃないかと思わざるを得ない。

村上春樹があれだけ読まれるということは彼の文章は簡単なのだ。誰でも読め、読み始めるとつい続きを読みたくなるように、読者の関心が途切れないように、工夫して書いてある。そうでなければあれだけたくさんの読者を獲得できるはずがない。

それは彼が英文学の翻訳をもともとやっていた人で、ライターとしての訓練をきちんと積んでいるからだろう。

もしかすると彼の文章は簡単でもそこに盛り込まれた思想は深淵で高尚なものなのかもしれない。読みやすさと意味深さの二重性にもしかしたら彼の書くものの価値があるのかもしれない。しかし、意味があるようにみせかけているだけで実は中身はがらんどうなのかもしれない。どちらであるかを見極めた人はいないのではないか。

例えば彼が、ヤナーチェクのシンフォニエッタがどうしたこうした、などという文章を書いたとしても、別にその音楽に深い意味はないのだろう。ただそこに置かれるのに一番それっぽい文言がヤナーチェクのシンフォニエッタだったに過ぎないのではないか。

彼自身が、ジャズのインプロビゼーションのように途切れなく続くように書いているなどと言っていたと思うが、まさにそれで、つまり、喫茶店に流れているBGMのようなもので、喫茶店でのんびり時間を過ごすときだらだら読むのに向いている読み物なのであり、そういう雰囲気を楽しむ音楽のようなものであって、中身に深い意味はないのだろう。そしてそうした場にふさわしいのは紙の本であり、kindle端末やタブレットではないのだ。

逆に、もし意味のある文章を読もうとすれば、同じ箇所を何度も繰り返し読んだり、前に戻って読んだり、途中を飛ばして読んだり、辞書をひいたり他の論文を参照したりネットで検索したり、頭を休めてまた読み直したり、場合によってはどこか遠くの図書館まで遠征しなくはならず、そういう読書は至る所で寸断されているから音楽には決してならないのだ。私にとっての読書とはそうしたものだが、普通の人にとっての読書とはそうではないらしいのだ。

つまり村上春樹の本質とは、何も考えずにすらすら読める文章、ということにあるのだろうと思う。何も考えずに読むのが読書と言えるのか、とも思うが、もしかするとそれが最上の読書なのかもしれない。次から次へと流れてくる冷やしそうめんをただひたすらつまみあげてめんつゆにつけて食べる。ああおいしい。また食べる。そんな読書。

誰も白紙の本を読むのが好きな人はいない。何かが面白いから読むのだろうが、たぶんそれは、私にとっては面白くはないので、不可知だし、知りたいとも思わない。水のように飲める酒というが、ただの水が好きな酒飲みはいない。なんといったらよいかうまい言い方がみつからないし、みつけたいという気持ちもあまりない。たぶんそれを知ったところで大したことはあるまいと思う。そう、今のAIのように。

そういう環境音楽のような小説を私が読んで余暇を過ごすことはないし、ましてそのような小説を書くことはあり得ない。これから、AIがライターの仕事のほとんどを奪っていく、ということはあるかもしれない。ドラマのシナリオにしても、なんにしても。しかしそういったものは、私がもともと村上春樹に興味がないように、私にとっては無味乾燥な、不要なものであるに違いないと思う。

映画もそうで、映画を音楽のように一かたまりの時間として、大切な余暇をできるだけ有意義に過ごすためのコース料理のようなものとして鑑賞したい人には映画館は向いているだろう。しかし私などは映画をぶつぶつに分断して、途中で止めたり巻き戻したり、場合によってはコマ送りしたり早送りしたりしながら見てしまう。今のユーチューブやブルーレイならそれが簡単にできる。必ずしも画面が大きく没入感がある必要もない。私はむしろ映画からそのシナリオや原作を再構築するために見ており、映像をひとつながりの時間として体験しようとしているわけではないのだ(もちろん大画面大音量で通しでみたい気分の時がないわけではないがそういう時は滅多にない)。

そもそも私は懐石料理やフランス料理のようなコース料理が嫌いだ。単品で注文して、すぐに店を変えてハシゴするのが好きだ。時間を拘束されるのが嫌いで、自分でぶつ切りにするのが好きなのだ。それは私が落ち着きがなく飽きっぽいからだと思っていたが、ちょっと違う気もする。監督によってカメラ位置が完全に決められている映画よりも自分で視点を変えられるゲームの方が好きだ。人に決められるより自分で決められる要素が多いほど没入感が高く楽しめるタイプの人間なのだと思う。

思えばカップラーメンなどという人間の味覚をハッキングした極めて不自然な食物をうまいうまいと食べる人が(私を含めて)こんなにたくさんいるというのは気持ちの悪いことだ。同じように文章もAIによってそのハッキングはさらに加速していくだろう。

AIが書いた文章を面白いとか、ためになるとか、立派でしっかり構成された文章だと思う人は相当数いると思う。村上春樹のファンが非常に多いのと同じく。その理由を考えれば考えるほど恐ろしくなる。そのうち私もAIが書いた文章と人間が書いた文章の見分けがつかなくなるかもしれないと思うとよけいに恐ろしい。

長生き

確かに、大学受験に失敗して1年浪人しても、そのぶん、1年長生きすればチャラじゃないかという考え方はあるかも知れない。逆に、大学に現役で入っても、人より早死にしてしまったら全然得じゃない、という考え方も成り立つ。2年間大学院に行っても、2年長生きすればチャラじゃないかと。

私の場合1年浪人して5年間大学院にいたから、6年分は長生きしないと人生がもったいないということになる。そうなのかもしれない。私の場合単にもう働きたくないだけなのかもしれない。今の仕事を続けていると、細かなノイズまで全部気になってしまい、気の休まるときが無い。聴覚過敏とは、普通の人は気にしないような音が全部気になって仕方なくなる病気だ。それに近い。細かなことまで何もかも完璧に裁かないと気がすまなくなってくる。こまかくやるところとざっくりやるところをうまく切り分けられない。そこが困る。早く楽になりたい。

ダークモード

昨日はちと遊びすぎたので今日はおとなしく寝ようと思ったがなかなかねれない。

夜中画面が明るくなりすぎないように私はブラウザをダークモードで(常に)使っているのだが、facebook にはこのダークモードが効かない。実に眩しい(追記: facebookはダークモードにできることが判明した)。chrome 作ってる google からして gmail がダークモードが効かない(追記: gmail もダークモードにできることが判明した)。さらにいえば wordpress のテーマもダークモードに対応していない(ものが圧倒的に多い?)。twitter はしかしダークモードに対応している。素晴らしい。

ここのブログの過去記事を少しずつ読んでいて、面白いものもあるが、つまらないものもある。特に政治とマスコミの話がつまらない。そういうのを見つけては非公開にしている。20年以上前に書いたものを読んでいると、今の自分とは全然違っていて面白い。

常にイライラしているのはやはり仕事のせいだ。今の仕事を始めたのは36才からだから、もう23年もやっているわけだ。途中勤務地が変わったりもしたが、同じことをずっとやり続けることが私には苦痛だ。だがいまさら転職するわけにもいかない。あと6年半、この仕事をやらなくてはならない。まあしかし私も59才だ。6年半という時間は無限に長いものではなく、実はとても短くて、あっという間にすぎるということも十分知っている。

どこか引っ越しするというのもありかも知れない。金がかかるがしかたない。たぶん楽しいだろうと思う。でもそれも数年前に2年半ほど試したばかりだ。1度やって効果のほどはしれたことを2度やる意味も少ない。

とにかくもう身動きのとれない状態にある。

ubuntu の X11 は突然おかしくなってしまうことがある。一度logoutすると治る。

mozc の句読点変換は邪魔だ。私にとって、句読点をうった時点で変換されるのは早すぎる。句読点まで書いて、しばらく考えてから変換したい。

インターフェイスとか

wordpressのことをワープレと呼んでバカにする人もいるが(笑)、なんだかんだ言ってやっぱりwordpressよりもましなソフトというかインターフェイスというかシステムはないわけで、多少不満があっても 自分を wordpress に合わせて使わざるを得ない。何しろ今やホワイトハウスのサイトも wordpress で作られているそうじゃないか。これはもう使うしかないよね。

wordpress より前には perl で動いていた movable type というものがあった。周りではまだ movable type が主流だった頃に私はいきなり wordpress を使い始めた。なんで wordpress を使ったかといえば多分一番の理由はライセンスだと思う。movable type は私企業が開発したもので、基本的に有料、しかし wordpress はオープンソースだった。

perl と php どちらが好きかというのは最初のうちはあまり関係なかったと思うが、php を使っているうちに web に特化した php がだんだん好きになっていったということはある。

自分で wordpress やらウェブサーバーやらを管理するのがめんどくさくなり、はてなに移住したり、note を使ったりした。

はてなは今ではほぼ wordpress もどきになってしまったが、カスタマイズはできない。有料オプションでいろんなことはできるらしいが、そこまでやるくらいなら自分でサーバー建てたほうがましじゃん、てことにならないか。

note には 2020年から2022年くらいまではぽつぽつ書き込んでいた。2022年に入ってから株を始めたので株のことをいろいろ書いていたが今読み返すとつまらんことばかり書いているので、公開しないことにした。それ以外の記事も note で公開するのはやめて、こちらに統合することにした。

note はエディタを使うたびに、おつかれさまでしたとか、つづきが楽しみですとか、余計なメッセージが出るのが異様にイライラする。おんなじことは microsoft word にも言えて、おはようございますとか挨拶されるたびに腹が立つ。世の中の人はこういうふうにソフトに挨拶されるのが好きなのだろうか。

note はほかにもページ遷移とかインターフェイスとかいちいち気に障る。記事を一括選択する機能はあるのに、削除することしかできない。一度に非公開にするとかいう機能がない。ページもどこからどこへ移動するのかわかりにくい。しかも一度に選択できるのは20件までですとかよくわからない制限がある。なんなのかこれは。

note を使うメリットとしては有料記事を書けることかと思うがそんなら最初から kindle で書いたほうがましだと思ってしまう。連載記事のようなものを書く?たぶん私はそういうものが書きたいんじゃないんだな。そしてたぶん一番大きな問題は、note で書いている他の人と全く趣味や興味が合わないから同じ場所で書いている意味がないんだろう。noteという場の雰囲気に溶け込めない。noteってのはつまり、独りで文章を書くのはさびしいから、運営スタッフとも読者ともつながりたい、馴れ合いの場だということなのだろう。そんなものは私はまったく求めてない。となるとやはり独りで勝手にブログを書くのが気楽でよい、ということになる。

今は click証券と楽天証券の2つを使っているんだが、インターフェイス的に言うと、楽手店証券は扱える取引所とか銘柄が多いせいかとにかくごちゃごちゃしていて、どこに何があるかわかりにくい。特にローソク足のチャートが見にくい。小さなチャートがあってそこから大きなチャートにいけてさらにテクニカルチャートとかいうさらにインタラクティブに操作できるチャートを開くことができるのだが、このテクニカルチャートがすごく操作しにくい。それにくらべて click証券のチャートは一種類だけでこれが普通に見やすいし使いやすい。

あと楽天証券はいちいちカイルくんみたいなやつが顔を出してきて邪魔くさい。

善意に解釈すれば楽天証券はこれまで顧客の要望に答えて少しずつ建てましたてまししてきてあんなふうになって、一からインターフェイスを作り直すのは危険なので、とうぶんこのまま放置する(企業業績が上向けばまた考える)ってことにしたのではないか。

mozc はまあまあ使いやすいんだが、日本語には全部スペルミスの赤い波線が付くのが気になりだすとものすごく気になって仕方ない。どうにかこの赤い波線を消す方法はないのだろうか。これってもしかして wordpress の機能?

解決した。firefox のせいだった。firefox → 設定 → 一般 → 自動スペルチェック機能のチェックを外す。

ソフトランディング

レバナス1本リーマンなんか見てると、アメリカが無限に借金をし続ければ理論上リセッションにはならないがそういうことができるのか、ということを言っていて、昔は1ドル借金をしてそれを公共投資に回すとそれが8ドルとか9ドルくらい米ドルの資産価値を上げていた、国が借金をすることによって通貨の価値が上がっているうちはそれでよかったが、最近は国が1ドル借金すると通貨の価値が50セントくらいに下がってしまう。アメリカが借金をすることによって基軸通貨たるドルが世界に流通することになり、経済を活性化し、ドルの価値を上げているうちは良かったが、今はもう借金をしすぎているので通貨価値が下がるばかりで、そうなるとインフレになって結局アメリカは死ぬと言っていて、まあそれはそうなんだろうなと思う。

アメリカは結局経済問題を政治で解決しようとしているのだと思う。ごくあからさまに言えば、戦争が起きればあっという間にアメリカは好景気になって借金は帳消しになってしまう。

もひとつ。ロシアはプーチンが死ぬとプーチンに代わる指導者はもう現れてこないだろう。中国にしても、鄧小平、江沢民と、開放路線を突っ走ってきて、習近平はその勢いでここまで中国経済を盛り上げたけれども、過剰投資が過ぎて不良債権だらけになった。新築物件ばかりのうちはまだ良い。日本だと需要があるところに鉄道を通すが、中国の地方政権はとんでもないところに線路を通し駅を作るから乗客がいない。収入が無い路線はメンテナンスもされないからそのうち電車を安全に走らせることもできなくなるだろう。不動産もそうだ。人が住まず、テナントが入らない建物は維持ができずどんどん老朽化する。

習近平の次の指導者がどんなに優秀でも、中国はこれまでにあまりにもツケをためすぎた。

ウクライナ戦争というものも、そろそろプーチンも寿命で死ぬし、その後のロシアはとるに足りない、ほとんど影響力のない田舎国になってしまうかも知れない。いつまでもそんなロシアの属国でいても仕方ないと先読みして起きたものかも知れない。ベラルーシは独裁国家で大統領も年寄りだからロシアに付き合う気になったが、若者はできるだけ早くヨーロッパの一員になりたがっているかも知れない。

で、戦争が起きなくても、プーチンと習近平がいなくなれば、アメリカ一強の時代が来るしかない。基軸通貨ドルの地位は安泰で、多少借金しても誤差の範囲、ということになるかもしれない。ソフトランディングとはそのことを言っているのかも知れない。

アメリカ帝国主義は今やその本性をまったく隠そうともしなくなってきた、とも言えるし、アメリカはそもそもいつもその本性をむき出しにしてきたともいえる。

老後に備えて

老後というのはつまり65才で定年退職することを想定しているのだが、

まず、twitterやfacebook、instagram などのSNSに書き込んだり動画を上げたりするのは極力避けて、基本的に書きたいことがあったらblogに書くようにする。雑記などはtwitterに書いてしまいがちだが、そういうのももうみんなblogに書くようにする。

OSはubuntu、ブラウザはfirefoxをメインにする。

65才以前の自分との関係を断ち切ることはできないから、windowsとかgoogle chromeも使い続けるとは思うが、極力使わない。まして MacOSは使わない。

最近 brave browser も使っていたが、これをわざわざ使う必要性はないかなーと思い始めてきた。edge も普通に要らんやろ。

でまあ、ubuntu, firefox, libre office, そして mozc なんかを使っていくことになるから、脊髄とか延髄を今からこういうほうに慣らしていく。

つまり、今給料をもらって働いている仕事はgoogleアカウントもらってそれで仕事しているから、その仕事はwindowsとchromeに残す。6年半後に定年退職したらそこはまるごと切り離す。切り離せるように、個人の趣味や仕事(bookmarkも含めて)はfirefoxに移し、今から着々と準備していつでも分離できるようにしておく。googleアカウントも仕事用と個人用で混ざらないようにしておく。

まいばすけっとってビンボ臭くて嫌だったが、最近は少し良くなってきた気がする。何しろ安い。特に缶ビール。独り晩酌がかなり安く抑えられる。少なくともマルエツで惣菜買うばかりではないなと思い始めている。オリジン弁当なんかで買うのもありだが、どうしても買いすぎてしまうんだよな。ましかしこうした都会暮らしも定年後はやめてたぶん毎日田舎でマックスバリュになりそうな気がする(笑)。

仕事を辞めたあとどうやって生きていくかってことがまだまるで想像つかない。金が十分にあれば、たぶん田舎と東京(もしくは京都、大阪など)を1ヶ月おきでいったりきたりするような暮らしをするのではないか。田舎に引っ込みきりはさすがに退屈だろ。あとやはり東京にはなんだかんだで行きつけの店などがたくさんあるんだが、田舎でもそういう店ができるかなあ。

でも拠点は田舎にしといたほうが何かと安い気がする。

今の仕事は今すぐ辞めてもなんの悔いもない。仕事が嫌いというよりもう完全に飽きた。私は田舎から出てきて京都で1年浪人し東京に出てきて、最初は神奈川で働いた(しばらく東急沿線暮らしだった)。それから埼玉に転職してしばらく成増あたりに住み、その後また世田谷に越したが、今度は厚木に転職し、神奈川に引っ越して、今は新宿近辺で働いている。わりとあちこち動き回ったほうだと思うが、転職や転勤がなければ死ぬほど人生に退屈していただろうとは思う。今更転勤転職というのも悪くはないが、もう年をとりすぎた。もう楽をしてもよかろう。

65で辞めたとして70くらいまでは金があればマンスリーマンション借りていろんなところを泊まり歩きたい。京都には2、3年住みたいし、大阪にはひやかしで半年くらいは住みたいかな。あとは、博多とか。松坂もちょっと住みたい。栃木とか群馬あたりも少し住みたい。地方転勤族ならそういう暮らしを会社の金でできたのだろう。ちょっとうらやましい。

宗教

人というものはもともと野生種であった。

その人を栽培種に変えて、家畜に変えて、君臨することを覚えたのが王であった。

農業も、そして宗教も、王が他人を民として飼いならすために作ったものだった。

他人を民として飼いならすことができた者が王となった。

したがって宗教というものはもともと王がつくったものだった。祭政一致。古代、王とは国の所有者であると同時に、国教の祭祀長であった。それがホモ・サピエンスという種における、生物学的に天然自然な状態である。ゴリラがハーレムという社会単位を作るのと同じだ。

しかしながら、しだいに民の間から勝手に宗教が生まれ始めた。

中世になると、民の間でうまれた宗教を取捨選択して、採用することによって王は安定を得るようになった。王はもはや勝手に宗教を作ることはできなくなった。ここにおいてついに、王とは別に聖職者が生まれ、聖俗の権威が分かれた。

いや、もともと、宗教は民が作ったものだったのかもしれないが、それをうまく統治の手段としてコントロールできたものが王となったのだったが、王による宗教の独占は次第に難しくなっていった。そのうち王が追放されて寡頭政や貴族政となった。共和国というものがでてきて、ますます宗教は民によってコントロールされるようになり、民というものが意思を持って国を経営し宗教を規定するようにもなった。

そういう太古においては、王による民のリクルート活動というものが国を作り、国が農業や宗教を必要とした、ということを仮定したとして。

キリスト教ができたのも、古い多神教よりも、一神教のキリスト教のほうが国というものを治めやすかったからローマ帝国の国教となった。ギリシャ・ローマの宗教はシリアやエジプト、ペルシャへと連続的につながっている。一方キリスト教は国が一から専売特許にしやすい。教義を国の主導で統一しやすい。家元制にしやすい。宗教的権威を独占しやすい。ローマ皇帝にはそれが魅力だった。後のフランク王国や神聖ローマ帝国、モスクワ大公国でも同じことだ。自然発生的に生まれた多神教は民が勝手に自分の都合が良いようにカスタマイズするので王が制御しにくいのだ。

アショカ王も仏教のほうがバラモン教よりも国を治めやすいから仏教を国境に採用した。仏教は、理由は良くわからないが、明らかに王が中央集権的に民を治めるために都合が良いから流行したものであった。奈良時代の日本を見てもわかる。アホみたいにでかい仏像を作ったり。あほみたいにでかい寺院を作ったり。そうやってエジプトのピラミッドのような役割を鎮護国家のための仏教は果たしていた。鎌倉以降の仏教はまた別として。それはカトリックとプロテスタントの違いにも似ている。

そう。古代の中央集権国家は中世の地方分権の封建制に移行した。そこで、地方分権により適していたプロテスタントがカトリックから分かれた。プロテスタントは日蓮宗や浄土真宗などと同じだ。

インドでは民が仏教を嫌って昔のバラモン教にもどりそれが今のヒンドゥー教になった。

イスラム教は結局、中央集権でも地方分権でもない。そんなものをみんなすっとばして、王国というものの存在を必要としない国家と国民のために、或いは世界市民のために、コスモポリスのために、人類の中で多数派となって影響力を行使することを目的とした宗教といえる。

コスモポリスという考え方が生まれたのは明らかに西アジアである。もっとも古い文明をもつ西アジアにおいて王は生まれ、そしてもっともはやく王は否定されたのだ。すべての宗教は西アジアに生まれ、伝播し、変わっていく。残念ながら西アジアにイスラムに代わる宗教が生まれるきざしは今のところまったくない。人類は今後何百年もイスラム的一神教に支配され呪縛されるだろう。非常に不幸なことだが。人類とはしょせんその程度のものなのだ。

おそらく。類人猿の中でホモ・サピエンスはもっとも、民が王を持ち、王が民を持つことに優れた種なのであろう。そのため他の種を圧倒して滅ぼした。そのために宗教というものが必要になった。神が人を作り、人が王と民に分かれたのではない。すべては逆なのである。神→王の関係を仮定することによって、王→民の関係を説明できる。ただそれだけのために神というバーチャルな存在が仮定されたのである。神→王がバーチャルな関係であるように王→民の関係もバーチャルなものに過ぎない。神の前に人は平等という概念を敷衍することによってコスモポリスはより容易に説明できる。だから神はコスモポリス、世界市民、世界社会のためにも必要とされた。しかしいったん世界社会が完成すればもはや神の存在を仮定する必要もない。王が民に捨てられたように、そのうち神は人に捨てられる運命にある。

禁煙居酒屋

google maps には居酒屋が禁煙かどうかの記載が無い。

食べログにはあるにはあるのだが、「2020年4月1日より受動喫煙対策に関する法律(改正健康増進法)が施行されており、最新の情報と異なる場合がございますので、ご来店前に店舗にご確認ください。」などと書かれていて要するに禁煙なのかどうかがわからない。

正直店選びにまったく役に立たない。

店が嫌がるからgoogleも積極的にやらないのか。調べりゃすぐわかることだろうに。

一昔前まではみんな好き勝手吸ってた時代があって、その時代に比べれば今ははるかにましだと諦めるしかない。

東京都はわりとまじめにやってるほうだと思う。

能の式楽化

能楽の本を読んでいると、能楽は徳川幕府によって式楽となった、という記述がよくみられる。

式楽というものはもともとは大和朝廷が飛鳥奈良時代に制定した雅楽のことであった。しかし雅楽は朝廷や公家が権威を独占していて、なかなか武家の自由にならない。しかしながら能楽は足利義満以降に室町幕府がパトロンとなって興した芸能であったから、公家にはなんの遠慮も気兼ねもなく、武家が好きにいじりたおすことができた。これはちょうど、和歌というものが公家にその権威を握られていたので、武家は和歌を敬遠し、もっぱら漢詩が流行したのに似ている。

徳川幕府は能楽を、将軍宣下や勅使応接などの公の式典の場において上演される芸能として洗練させなくてはならなかった。それらは上方の寺社などに伝承された舞楽に負けぬほどのおごそかでお上品で、気高く尊いものでなくてはならなかった。見て面白いかどうかなんてことはもうそっちのけにされてしまった。

武家屋敷の屏風絵が狩野派の画家によって描かれるようになったのと同様だ。狩野派というのは要するに足利将軍家の御用絵師になったからあれほど武家で珍重されたのだ。茶道もまた武家由来の儀礼として重宝された。いずれも公家に対抗して武家が権威付けするためにもてはやされたのであり、芸能そのものが優れていたからではない。そんなことはありえない。もし良い芸能を育てたければ民間活力に委ね、政府が助成したりしないほうが良いに決まってる。政府が金を出して良いのは一部のほんとに絶滅危惧種的な伝統芸能くらいであろう。

現代の日本文化は室町、安土桃山時代に作られたとよく言われるが、要するに、それまでの宮中・公家文化を煙たがった徳川幕府が、室町幕府や、秀吉や家康らが愛好した芸能を式楽化して、武家の文化芸能として世の中に定着させた、というに過ぎない。そういう由来であるから、その源流、その権威の厳選が、世阿弥とか千利休のような、室町、安土桃山時代の宗匠に求められるようになった。また評価や選別も幕府がやったのだから、モノの良し悪しがほんとにわかるはずもなかった。

実を言えば和歌もまた、尊氏は和歌が大好きだったが、しかし家康は和歌が大嫌いだったらしく、足利将軍家が興した芸能の中で和歌だけは式楽化の対象から完全に外してしまった。家康が嫌ったというより家光や家綱が和歌になんの興味もなかったせいかもしれない。

江戸時代というものは、室町・安土桃山の人間味や活気を遺した元禄文化が最高潮であって、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、そして尾形光琳らによって代表される。元禄以後、徳川幕府による封建主義や思想・芸術弾圧が強まり、芸能も堅苦しくなっていってダメになってしまった。将軍が食べる料理はすべて脂身が抜け落ちるまで焼いて煮てあってうまくもなんともなかった、能楽もまた、目黒のさんまにあるように、徹底的に脂っ気も内臓も皮も削ぎ落とされて、米も精製した白米しか食べないようになって、そのせいで逆に将軍は脚気やなんかの病気にかかって短命で死んだ。いわゆる江戸病だ。

江戸時代における文化の衰退は幕末まで続いて、維新後、明治時代になってようやく新しい文化芸能が現れた、などと雑に評する現代の評論家たちが言っているのはつまり徳川幕府による武家に由来する文化芸能の式楽化のことだけを見てそう言っているのである。

実際、今の能楽が気絶するほどに退屈なのは徳川幕府による能の統制・形式化のせいにほかならない。義満や、秀吉や、家康らが見ていた能楽があんなつまらなかったはずはないと思うのである。家光・家綱の時代に幕府による能の統制が始まった。つまり能というものが、徳川幕府の専売特許にされてしまった。能もまた、公家文化のような家元制にされてしまった。画家の狩野家や大学頭の林家と同じ扱いを受けたのだ。こうなっては文化芸能は死ぬしかあるまい。

江戸時代には幕府の介入によって安泰化し、栄えているように見えて、実際には衰え死んでいった文化学問芸能がある一方で、庶民の活力によって次第に発展していった分野もあった。歌舞伎、浄瑠璃などもまた元禄に生まれたが、こちらは幕府の統制を受けることなくむしろ弾圧される側となったくらいで、町人文化という新たな、公家や武家と別の第三のカテゴリーを作って発展していった。幕府や武家によらない、町人の社会の中でだんだんと醸成されていった文化は、天保期にはすでに爛熟し、その勢いは幕末、いや、維新後にもずっと継続した。浮世絵から生まれた錦絵などは西洋の印刷術が伝来してなお進化し続けた。今日のマンガやアニメは錦絵の正統な後継者と言って良い。

そして国学もまた、徳川幕府による保護や統制を受けなかったことがむしろおおいに幸いして、驚くべき発展を遂げた。国学がもし官学化されて朱子学と混淆して武家の窮屈な教義になっていたらたいへんなことになっていた。そうなる可能性は、ちょっと頭のおかしな為政者がいたとしたら、実際十分にあったのである。荷田春満は明らかに国学を幕府の官学にしたがっていた。国学をもっと堅苦しい道徳に縛られた学問にしようとしていた形跡がある。賀茂真淵もますらをぶりなどと言ってちょっと怪しかった。田安宗武には実際かなり危険な傾向があったし、宣長の死後にはおかしな神道家や、神道系新興宗教や、明治の国粋主義者たちがワラワラ出てきた。国学はあっという間に偏向した危険思想になりかねないのである(宗教というものはすべてそうだが)。宣長はよく踏みとどまって後世に範を垂れてくれたと思う(宣長にもやり過ぎがあったことは否めないが)。それ以前にも、仏教と儒教と神道を際限なく混同した本地垂迹説や、山崎闇斎の頭のおかしな垂加神道なんかがいくらでもあった。東照宮なんて明らかに頭がおかしいし、あんなものを正統な神道と混同されては迷惑だ。

もちろん徳川宗家は賀茂真淵を重く用いたし、尾張や紀州の徳川家は本居宣長を崇拝すらしていたのだが、武家はやはり、公家のしばりを受けない漢学をどうしても根本教義としないわけにはいかず、下手に国学や和学なんぞに色気を出すわけにはいかず、したがって官学は朱子学のままであったし、朱子学と和学は水と油だから、結局、国学が幕藩体制の皮下組織まで浸透していくことはなかった。江戸時代に哲人政治家と言えたのは新井白石と松平定信の二人しかいなかったが(もう一人、荻生徂徠を加えても良いけれども)、その定信にできたことは、宣長の思想を密かに幕政に採用して、大政委任論を天下に公布したことくらいであった。薩長が国学を武器にして尊皇攘夷、倒幕の原動力としたのは必然と言えた。薩長は定信の大政委任論を大政奉還論に読み替えたのだったが、これとても徳川慶喜は反対したわけではなく、むしろ積極的に公武合体論の一部に組み込んで推進しようとしたのである。

和歌は国学によって再構築された。もし和歌が単に公家の専有物であったら、和歌は江戸時代に死滅していたに違いない。和歌とは別に町人は狂歌を愛好した。国学と狂歌の流行が合わさって、和歌は息を吹き返し、純化した。その最高峰はやはり香川景樹であったと言わねばならない。景樹によって何をもって「和歌の理想」とすべきかということが、やっとほのかに見えかかってきた。和歌には時代を超越した大和言葉という言語の普遍性(古典語、文語としての厳格さ、完成度)と、大和言葉によって表現されるポエジー(本来、話し言葉がもつところの叙情性、人間性、あるいは芸術性とでもいおうか)が必要なのである。

ところが、景樹の後継者、桂園派には二度と影響力のある歌人は現れなかったし、歌論の体系化も進まなかった。桂園派の歌人として最後の光輝を放ったのはやはり明治天皇と樋口一葉、わずかにこの二人しかいなかった。和歌とは何かということは結局うやむやになってしまった。

私が言いたかったのはつまり、(岡本太郎や渡辺昇一のように)江戸文化は元禄が最高でそれ以後二百年続いた封建制によって真綿に首を締められるように徐々に窒息したという見方は間違いだし、逆に江戸文化は素朴な元禄時代からだんだんに発展して天保で絶頂に達したというのも一面的な見方であるし、禁中並公家諸法度に守られた公家文化はどうしようもなく衰亡していったし、実際には公家、武家、そして町人文化が三つ巴になって絡まり合い交差し逆転しながら、江戸時代260年間をかけて確実に進歩していったということだ。その下ごしらえがなければ明治の文学などというものはあり得なかった。

思うに能楽は、綱吉や家宣くらいまでは面白かったのではなかろうか。しかし家継で家光の直系が絶えて、紀州の吉宗が江戸に入府して、吉宗以降の徳川将軍家はおそらく、「武家の式楽」としての能に存在理由は見出していたかもしれないが、もはや娯楽としての興味を喪失していたのではないか。能楽は幕府に守られたまま、どちらにその芸術性を伸ばし膨らませていけば良いかわからず、ただ宗匠の教えを墨守するだけとなって、生木の潤いを失い、急速に枯れた老木と化していきそれが、今日の能楽があれほど退屈なものになった理由ではないかと思うのだ。

茶道もそうだろう。信長や秀吉のころの茶の湯はもっとおもしろおかしいものだったはずだ。それが式楽化して、小笠原流などというものがでてきて、上流階級の作法、結婚前のご令嬢のお稽古ごととなって、死ぬほど退屈でつまらなくなった。

狩野派の絵にしてもそうだ。岡本太郎は狩野派の絵が嫌いすぎて洋画をやり始めた。狩野派の絵はつまらない。尾形光琳や俵屋宗達なんかの江戸初期の画家の絵と比べたら。その点については岡本太郎に完全に同意する。

とはいえ、式楽化によって能が死ぬほど退屈になったのはほぼ間違いないと思うが、もとの、退屈になる前の能を推定し復元することは不可能ではないと思うし、また、退屈になったことにはなにかの必然性はあったのだろうし、退屈ならば退屈でその中に面白さを感じることも不可能ではないと思う。少なくとも勉強してみる価値はあると私は思っている。生木には生木の、枯れ木には枯れ木の面白さがあろうというものだ。寺院建築や仏像も昔の彩色を復元することはそんなに難しいことではあるまい。そうしたくない、ふるぼけた骨董趣味を愛好する人がたくさんいるだけのことだろう。

つまり、普通に一般人が見れば退屈だけども、その退屈になった歴史的経緯や必然性を知識として理解していれば、かつての本来の姿を想像して、楽しむ方法はあると思うのである。たとえば、たとえとして適当がどうかはともかく、ピカソの絵は全然おもしろくないしうまいと思えないが、ピカソがなぜあの絵を描かなくてはならなかったという理由を知れば、多少はおもしろく見ることができるかもしれない。小笠原流にしても、興味ない人にはなんの価値もない、酒なんて立ち呑みで十分、懐石料理じゃ窮屈で飯を食った気にもならんという人でも、そうした作法も理屈として理解はできるかもしれないとは思う。理解はしても良いが、抹茶の最後のひとすすりをずずっと音をたてて飲むなどいう作法につきあわされるのはまっぴらごめんだ。

なんで私がそんなことを偉そうに言えるかというとまったく同じことが和歌でも起きているからだ。というか有史以来、日本の文化芸能で起きてきたすべての現象は、なによりもまず先に和歌で起き、和歌で見られた現象が、後からでてきた文化芸能でもみな同じような形で繰り返されるのだ。歴史は繰り返すってやつだ。

最初は単純素朴な娯楽、遊びだった。だんだんみんなが技巧を凝らすようになる。上流階級の目に止まって詩歌管弦の風流なもてあそびものにされたりもするし、身分は低いが面白い和歌を詠む人も出てくる。そうした地下歌人を発掘して洗練させる職業歌人で出てきて、教育したり、教材として整理したり、布教したりするようになる。世襲制度をたちあげて家元になりそれを飯の種にする人がいる。さらにそれを式楽化して、面白さなんてそっちのけでやたらとおごそかでお上品で、気高く尊いものにしてしまう人もいる。それを破って新しい歌を詠む人もいる。それらがもう、古いものから新しいものまで、公家も武家も、天皇も庶民も、みんなごっちゃになっているのが和歌なのだ。私はそういうものを一つ一つ見分けてきた。ちゃんと調べれば能楽でも同じことはできるに違いないと思う。

だから、日本芸能はなんでも、とにかくまず、最も古い和歌を学ばないことには何もわからない。国学が和歌を重視するのもそのためだ。

追記: どうも google が長い文章のほうを好んで検索結果の上位にもってくるというのは本当らしい。この文章が読まれている理由もそれではないか。あるいは、単体としてはそんなに長い文章ではないが、過去記事などにリンクがあってそっちもそこそこ長い文章などが好まれるのではないか。