マンネリの定常状態

60才近くになって、今までいろんな小説を読み映画を見てきておいて、最近は岡本綺堂や野村胡堂や池波正太郎ばかり読んでいる。いや、読むこともあるが、何かの手作業をしながら youtube や audible で聴くことも多い。おそらくこうした捕物小説というものはかつて、シャーロックホームズなどの海外の探偵物を適当に日本風にアレンジしただけの低俗なものだと思われていたのだろう。日本近代文学というものがそうした布教活動をしてきた。

さらに私たちはそれらの捕物小説をテレビドラマ化した、マンネリ化したものをさんざん見させられてきた。それでますます私は、そうした捕物小説というものをバカにして今の年までまともに読まずにきた。

しかしながらふとしたきっかけで、というのは単に私が通院している病院にさいとうたかを版の鬼平犯科帳があって、病院というところは恐ろしく退屈だから読み始めて、それからケーブルテレビのドラマも録画してみたりして、最終的に原作の小説にたどりついたというわけだ。

それでいろいろ見比べてみると、里見浩太朗主演の半七捕物帳は恐ろしくつまらない。原作の雰囲気はほとんどまったく残っておらず、まったく新しい捕物話にしてもらったほうがありがたい。

大川橋蔵主演の銭形平次も最初の1、2話は少し面白いがすぐにつまらなくなってしまう。同じことは暴れん坊将軍にも言える。ぶらり信兵衛道場破りにも同じことがいえる。

鬼平犯科帳も丹波三郎主演のやつは残念ながらあまり面白くない。中村吉右衛門のは少し面白いのもある。しかしいきなり原作には出てくるはずもないくのいちみたいな女が屋根から屋根に飛び移ったりして、原作の雰囲気とかけ離れている。

銭形平次だが、やはり平次が盆栽をいじっているところへ八五郎がてえへんだと言って駆け込んでくるところから始めてほしい。しかしながら平次と八五郎のくだらない無駄話を延々と前振りにすると1話30分だか1時間のドラマの枠にはとうてい入らないのだろう。

今のドラマだと半七や銭形平次の原作の雰囲気に一番近いのは相棒だろうと思う。派手な立ち回りやチャンバラはなくて淡々と謎解きをする。

それでもともとああいうものは低俗な大衆小説を低俗なドラマに仕立てたものだとみなされてきたのだと思うが、今読み直してみると、少なくとも原作の小説は、今となっては到底書けないような江戸時代の情緒や雰囲気が描かれていて、昔はこういうものはいくらでもあったのかもしれないが、現代では非常に貴重な読み物だということがわかる。

明治や戦後、江戸時代のものはなんでも懐古主義で無価値なものとみなされていた時代には極めて軽く見られていたが、今となっては非常に貴重なものだ。

もし江戸時代の風俗を調べようと思うと、当時の黄表紙や読み本なんかを見なくてはならずとんでもないてまひまがかかる。それよりかは岡本綺堂の半七などを読むのがずっと手っ取り早い。

刑事コロンボは69話で打ち切りになったのだが、最初はすごく緻密で面白かったのにだんだんつまらなくなった。終わりの頃のコロンボは相棒よりもつまらない。マンネリがいかに恐ろしいかということの典型的な実例だ。

しかし日本のテレビドラマだとそれでも打ち切りにはならず、単に俳優をすげ替えただけのさらにつまらなくなった続編を作り続ける。しかしそうしたものにもなんらかの需要もしくはよんどころない事情があってテレビ放映されるのだろうが、おかげで私などはテレビドラマなぞは見る価値の無いものだという固定観念(固定諦念というべきか)が完全にできあがってしまった。

ドラゴンボールもマンネリになって打ち切られたのだろうし、その反省から、ワンピースは最初からマンネリ化することを想定したうえで、プロットが作られ作者が選ばれ、マンネリ化した状態を維持する前提で話を引き延ばす戦略に出ているのだと思う。弁当をコンビニで並べるように保管や流通を工夫するのではなく、最初からコンビニに並べるための弁当作りをするようなものだ。

はっきりいって今の少年ジャンプは私にはまったくおもしろくないのだが、あれだけ売れているということは需要があるのだろう。つまり笑点やさざえさんのようにマンネリ化した定常状態というものにある一定の需要があるからこそ作られている。はっきりいってまったく付き合いたくない世界だ。せめて007シリーズくらい努力してくれれば私も見続けるかもしれないが。

ついでだが、私はスティーブンソンの『宝島』はよく出来た海賊物だと思っている。当時のカリブ海あたりの風俗がそのまま記されているように感じる。ワンピースのようなまがいものが日本人に受けるのは仕方ないかと思っていたが、西洋でもワンピースが流行っているというのがまったく理解できない。私にとってスティーブンソンの『宝島』は岡本綺堂の半七であり、ワンピースは里見浩太朗主演の半七のようなものだ。

出版社や放送局にとって一番おいしいのはそういうまがいものをありがたがる視聴者であって、そういうマンネリ化して冷め切ったコンテンツをただだらだらと提供することが、一番楽に金儲けできることなのだからどうしてもそれが世の中の定常状態とならざるを得ない。それを非常に不幸なことだと思っているのはごく一部の少数派なのだろう。

さらについでだが、私にはNHKの大河ドラマがつまらなくてどうしようもないのだが、人はみな、しかもある程度歴史や文芸に詳しい人までが、大河ドラマを熱心に見ている。不思議で仕方ないのだが、マンネリとか定常状態をありがたがる一種の群衆心理と関係があるのだろう。人は社会的な生き物なのでみんな盆やクリスマスや正月を人と同じようなやり方で過ごしたがるし、人が死ねば葬式に行きたがるし、人が結婚すれば結婚式に行きたがる。大河ドラマに紅白歌合戦にNHK。そういう人間心理を利用したメディアなのだ。いやメディアとはもともとそういうものなのだろう。

例えば半七捕物帳だと、湯島聖堂で素読吟味というものがあり、武家の子弟にも将軍に謁見を許されたお目見え以上の旗本とそれ以下の御家人の間で喧嘩がある、というようなことが下敷きになっている。こんなことは岡本綺堂の頃にはまだ常識に属することであったかもしれないが、野村胡堂の頃までくるともう恐ろしく古い時代のおとぎ話みたいになってしまっていただろう。で私にはそうした下敷きの部分が面白くて仕方ないのだが、それは私が60まで年をとったせいに違いなく、普通の人にはまったくもって余計な前振りに過ぎないのだろうと思う。スティーブンソンの『宝島』に出てくる黒丸という印象的な小道具も、私には非常に興味深いが、ワンピースの読者らにとってはどうでも良いことなのだろう。

クリエイターも運営側もある一定の条件で二次創作を認めている、というケースは増えている。生成AIによる学習に使っても良いよという場合もある。ところが二次創作は著作権侵害だから駄目だと第三者がクレームをつけるケースがあるという。その第三者というのはたとえば教員などの教育者などかもしれない。自分が行う教育にどうしても二次創作という要素を混ぜたくないのかもしれない。

私はかつて某小説投稿サイトに、日本の古典を翻訳して掲載したことがあった。鎌倉時代の文章を現代語訳したというだけのことだ。なんのクレームもこなかった。

ところが100年以上前の英語の文献を和訳して掲載したら運営側からクレームが来て削除された。パブリックドメインという概念がわかっていないし、調べようともしない。

ほかにも、ウィキペディアやアメリカ政府等がパブリックドメイン画像を公開していたりするがそれも投稿禁止にしているサイトがある。そういう頭のおかしいサイトには近寄らないようにしている。

運営に法務というものがない。法務部を作る財政的余裕がない。下手に法務に手を出して厄介ごとに巻き込まれたくない。また運営側も著作権ということがよくわかってないし、分かった人がたとえ一人ふたりいたとしても全体としては著作権にかかわりそうなややこしく金にならないことはばっさり切り捨てようということだろう。運営はともかく現場で著作権管理している連中はそもそも著作権がよくわかってないので、フィーリングでこれは著作権侵害だと判断してしまうのだろうし、それをわざわざ上に報告もしない。

さらに言えば著作権をよく調べもせずにクレームをいれてくる第三者というのが相当いるのだと思う。世の中の多くの人は法律的に正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分のお気持ち的に正しいかどうかで動いている。パレスチナとイスラエル、ロシアとウクライナにしてもそうだ。熊の射殺にせよそうだ。

そういう連中に対処するのがめんどくさいので、二次創作もパブリックドメインも生成AIも全部いっしょくたにして全部禁止にしてしまう、という運営側の態度は、不快ではあるが、理解できなくもない、少なくとも私がとやかく文句を言っても仕方ないと最近少し思い始めた。要するに人類はバカなのだ。文句を言うのは自分にとっても時間の無駄だし精神の浪費だし世の中はどうせちっともよくなりはしないのだ。

コンビニが勝手に入れてくるウェットティッシュが大量に余ってしかも良い感じに乾燥してきているので、キッチンペーパー代わりに使っている。

レジ袋は要るか要らないかしつこく聞いてくるくせに、ウェットティッシュは頼みもしないのに断りもなく入れてくる。それはつまりコンビニ側が、「うちはちゃんとウェットティッシュを配っています。汚い手でうちのものを食べておなかを壊してもそれは客側の責任です」と言いたいからだろう。何もかもがコンビニ側の都合でできている。

キッチンペーパーなどという贅沢なものはできるだけ使いたくないのだが、鉄のフライパンで目玉焼きを焼くときにはどうしても必要になる。焼くときに必要というよりも焼いた後に油をひいて手入れするのにどうしてもキッチンペーパーで最後に拭かなくてはならない。おかけでウェットティッシュの使い道がみつかってよかった。

かつて一億総白痴化ということが言われたけれども、これはテレビのせいで人が白痴になるのではない。人はもともと白痴なので、テレビを見るのである。

テレビ番組を作るほうも良い番組を作っていては儲からないし給料ももらえないので仕方なく人が見たがるものを作るのだ。人間の行動を冷静に観察すればそういう結論にならざるを得ない。

誰か悪意のある人間が大衆を扇動し、洗脳しようとしているのではく、人は人にだまされて初めて精神の平安を得られる存在なのである。すべてが自分のせいで、人のせいにできない状況に置かれれば人は不安で仕方なくなる。自己責任で自分の判断で生きていくことにはとうてい耐えられないのだ。

関宿城

利根川流域の城というのは、古河公方が拠った古河城にしろ、石田三成が水攻めにしようとして失敗した忍城にしろ、或いは上杉家の五十子陣にしろ、太田道灌の川越城にしろ、みんな水上の城、浮き城なのである。日本の中でこの地域にしかない城の形態と言ってよい。関宿城ももとはそうした城であったようだ。

石田三成が秀吉の高松城攻めを真似して忍城を水攻めにしようとしたというのは、どうも信じられない。五十子、川越、古河、忍城。それらの城の形態をみればこれらの城に対して水攻めなんてものが全く効果がないってことは、三成だってすぐ気づいたに違いない。水攻めすればますます敵は守りを固くするだけだし、水上の城を水上封鎖しようとしても抜け道はいくらでもあるんだから失敗するに決まってる。

大阪にいた秀吉が水攻めにこだわり、むりやり三成に水攻めをやらせたということはあり得るかもしれないが、それもまた秀吉を貶めようという意図が感じられる。

そもそも忍城などというものは戦略的に重要な拠点ですらなかっただろう。単に後に忍城が三成を撃退したという盛った話にされただけではなかろうか。

関宿(せきやど)はチーバくんの鼻の先端にある。ここは武蔵、下総、常陸、下野、上野の国境であり、かつて香取海のど真ん中にあった。香取海がだんだんに干上がり干拓されていって、そのため国境が一点に集中したのである。さらに家康が利根川を付け替えたためにここが江戸川と利根川の分岐点になった。チーバ君の鼻はそうした低湿地に突き出た尾根にあたっていてここに流山街道が通っている。地形的には非常に興味深いところだし、江戸時代には戦略的にも重要なところだっただろう。

今より10才も若ければ古い時代の桎梏から抜けだそうとか新しい時代に適用しようなどと思うかもしれんが、もう60才にもなろうという年になると、そのどちらの努力もする気になれず、将来のために新しい試みを今から始めて仕込んでおこうという気にもならない。ただ、やり残した仕事があるとすればそれをきちんと仕上げてから死のうと思うだけだ。

昔は、つまり私が生まれ育った昭和の頃は、確かにどうしようもない時代だった。今の時代のほうがましなのは明らかだ。しかしながら、今の時代に積極的に自分を合わせていこうという気にもなれない。

昔も今も民間企業というのは生きにくいところのようだ。私はただそういう世界から離れて、自分のやりたいことだけ、好きな仕事だけやって生きて死ねればそれでよかった。

今の時代も、昔の時代に劣らず、何から何までなんとガチガチに縛られていることだろうか。みんな自分の意思で自分の好きなときに働き自分の好きなときに休暇を取ろうとはせず、国が決めた休日に同じような休暇をとろうとする。社会全体が自分で自分を縛っている。その傾向はむしろ昔より今のほうが加速しているようにみえる。なぜみんなもっと自由に生きようとしないのだろうか。結局それが人間の本能に基づいているからなのだろう。だから自然と人は資本家と労働者に分かれるようになっているんじゃないのか。労働者は資本家をうらやむが自分が資本家になろうと努力するわけではないので、結果的にいつまでも労働者のままだ。人から賃金をもらって生活し、不平を言いながら、すべて他人のせいにして生きている。

年寄りは年寄りになるまでにいろんな試行錯誤や失敗をしてきているから、慎重に、臆病になるのがほんとうだと思う。今はもう死ぬまでの間、痛い思いをせず、何か失敗をしでかさないように、びくびく怖がりながら生きている。外で酒を飲むのが一番危険だ。しかしこれをやめてしまうとほとんど何も外界との接点が無くなってしまうので、すべてやめてしまうわけにはいかないのが問題。

酒を飲むと気が大きくなる。酒がまだ血の中に残っている早朝が一番気が小さくなる。酒に酔って気が大きくなると細かいことはどうでもよくなってしまう。金遣いも荒くなる。記憶も残らなくなる。

無意識でやっていることと意識的にやっていることの境目が酒を飲むことによって動く。無意識だと記憶に残らないから後でなんであんなことやったんだろうと思う。

動画を撮ってみてみるとわかるがいろんなノイズや周りの人の話声なんかが入っていて、自分が撮りたかったものが埋もれてしまっている。人は意識していることとそれ以外のことを無意識に選別して知覚しているわけだが、聴覚過敏になったり自閉症になったりするとその選別ができなくなってしまう。年を取るとそれまでどうでも良かったことがいちいち気に障るようになる。鈍感であることは精神を疲弊させないためにどうしても必要なことだが、年を取るとその調整ができにくくなるように思える。

コロナ以前は、私にまだうかつにも、人間社会に対する信頼というものがあったが、もはや完全にそんなものは失われた。人間は救いようのない、手の施しようのない、なんの取り柄もない馬鹿なので、ただ右往左往慌てふためくだけ。なぜかは知らないが最初からそういうふうに作られているらしい。人間社会に何か貢献しようという気も薄れてきた。人間以外の何かとか、ずっと遠い未来の何かのためになら、いろいろ頑張っても良いかもしれないが、今の人間には何をしても無駄なので、ただできるだけ社会と関わらず、不快な思いをできるだけしないように生きようと思うようになった。私にとってあのコロナ騒ぎで得たほとんど唯一のものは人間のために何かすることはすべて無駄だということを学習したことだった。

イレーザー

イレーサーを見たのだが、ミッションインポッシブルの主役をトム・クルーズからアーノルド・シュワルツェネッガーにして、より馬鹿っぽくした感じのもの。いろいろと変なところはあるが、それゆえにというべきか、単なるエンタメとして最後まで楽しめた。

岸田劉生全集

岸田劉生全集を間違って買ってしまった。カーリルで検索すると「検索できません」と言われて、蔵書が無いのかと思ってしまった。近所の図書館に全巻揃っていることがわかったので、買うまでもなかった。そんなにしょっちゅう読むはずがない。

買ってしまったのは仕方ないとして、なぜ買いたかったかというと、彼の文章にところどころ光るところがあったからだ。彼の書いたものは岩波文庫から抄録が出ているからそれを読めばだいたいのことはわかる。一部は青空文庫にもある。しかし私としては日記や書簡も含めて残されたすべての文章を読んでみたくなったのである。

彼は若い頃キリスト教徒になった。しかも詩人になろうとしていた。だが結局画家になった。日本の画家であそこまで文芸に理解のある人はいないと思う。岡本太郎もけっこう文章を書くのだけど、ときどき書きすぎる。つまり画家が書いた文章になってしまっている。アーティストだから書いても許される文章になってしまっている。日比野克彦や落合陽一みたいな文章になってしまっている。ジョンレノンや坂本龍一が言いそうな文章になってしまっている。私としてはそういう文章を「文芸」と見なすわけにはいかない。 

しかし岸田劉生の場合は、れっきとした、日本を代表する画家であるのに、同時に彼の書くものは「文芸」になっているのである。岡本太郎はギリ文筆家と言ってよかろう。それと岸田劉生、他には誰が挙げられるだろうか。柳宗悦か岡倉天心くらいか。まあしかしこの二人は芸術家というよりは美術評論家だよな。

世間ではしかし岸田劉生は画家としてしか認められていない。画家が酔狂で書いた文章があるから物珍しさで出版されたのだろう。実際、岸田劉生全集が古本で出回っている値段は極めて安い(状態をさほど気にしなければ全巻揃で5000円くらいで買えるはず)。また、図書館で収蔵しているところも決して多くはない。たぶんほとんど誰も彼の「文芸」が優れているとは認識していないのだ。珍本の類いなのだ。日比野克彦や岡本太郎の書いた本なら図書館にはザラにあるが、岸田劉生はそうではない。

岡本太郎や日比野克彦の文章を語れるアーティストならいくらでもいるだろう。しかし岸田劉生の文芸を語れるアーティストはおそらくいるまい(岸田劉生の絵について語る人なら日曜美術館あたりにいくらでもいそうだが)。いきおいででたらめなをことを言えばすぐばれてしまう。そもそも「アート」とは何かという根本的な前提が岸田劉生と他の画家とは違っている。

文芸の世界の人もたぶんアートがよくわからないので岸田劉生を語れる人はいるまい。小林秀雄的な人がしゃしゃり出てきて語りそうもない。まして文学者は岸田劉生のことなんかわかるはずがない。

たとえばためしにこのばけものばなしなどを読んでみるとよい。

追記: 日比野克彦は芸大学長メッセージというものを書いていた。彼の文章、面白すぎるので引用しておく。小泉純一郎の息子にも通ずるところがある。

屹度(きっと)

人のこころは動き、うつろう。
その動き・うつろいがアートの表現になる。
微弱なうつろいもあれば、一人では抱えきれない動きもある。
その動き・うつろいの表現を感じる場として様々な媒体がある。
長い地球の時間の中で表現・媒体は変容し続けている。
けれども、
ひとのこころは、どうなのだろうか?
長い地球の時間の中で変わってきているのだろうか?いないのだろうか?
そもそもこころとは何なのか?
ひとつ確かに言えるのは・・・
アートによってこころは動く。
だから、
不思議なこころが集まっている社会の中で起こっている現代の課題に対して、
アートが作用することによって、社会の中の心が動きだすのではないだろうか。
アートが社会を動かすことができるのではないだろうか。
アートが人を生き生きとさせることができるのではないだろうか。

アートは人間にとっての生きる力なのだから、
屹度出来る。

好き嫌い

年を取ると好き嫌いが激しくなる。好き嫌いが曖昧になる人もいるかもしれないが、私の場合はもともとどっちでもよかったことでも好きか嫌いかどっちかに偏るようになる。

若い頃は何を読んでも面白かったから乱読していた。筒井康隆とか星新一とか吉行淳之介とか安岡翔太論なんかの、当時たまたま本屋に並んでいた本を手当たり次第に読んでいた。今筒井康隆初期のショートショートを読んでも、それほど面白くない。そりゃまあそうだろう。『大いなる助走』『唯野教授』『ハイデッガー』なんかは力作だと思うし面白くもあるが、すごい傑作だとまでは思わなくなってきた。小室直樹は、カッパブックスは編集者がいろいろ直してくれて名著となっていたのだろうが、『三島由紀夫が復活する』なんかは小室直樹が好き勝手書いたものがそのまま書籍になってしまったようなもので、事故物件と言っても良いのではないか、と思っている。

丸谷才一も私は崇拝していたほうだったが、今読み返すとけっこうおかしなことを言っている。和歌とか宣長について言っていることはかなりおかしい。論拠が希薄なのを語調や勢いでごまかして決めつけようとしているところもある。後鳥羽院とか京極為兼とか書いている辺りもそうとうあやしい。大野晋と丸谷才一が共著で書いている本もあるが、大野晋も丸谷才一のあやしげなところをやや警戒しながら発言しているのを感じる。大野晋は偉大な人ではあるが、彼も古代タミル語紀元説などあやしいことを言っているのでまあどっちもどっちか。

柳田国男は和歌は全然うまくない人だったと思う。うまい人ではあったが面白くない人だった。

小林秀雄はやはりおかしな人だった。

そうやって昔はすごい人だなと思っていてもだんだん物の見分けがつくようになってくると、それほどすごくもない、むしろ変だなと思うことが出てくる。それは自分が書いたものも同じで、そりゃそうで、若い頃に書いたものは若い頃に良いと思ったものを参考にして書いているから、そういうものを良くないと思うようになれば、自分の書いたものも良くないと感じるようになる。

それでやはり本居宣長と頼山陽はやはりすごいし、この二人のすごさを見抜いていた松平定信もまたやはりすごい。

そんな具合で、今は、1割くらいがいまなおすごいなと思えて、残り9割は大したことないなと思っている。これまで自分が書いてきたものがあまりにも多くて困っている。1割くらいは良いが9割が駄目だから書き直さなきゃならないのだが、その作業量に絶望する。