察然和尚

宣長年譜 元文4年(1739)

> 同四年【己未】血脈受入蓮社走誉上人。【伝通院中興ヨリ二十七世之主矣】法名英笑号也

宣長年譜 寛延元年 (1748)

> 樹敬寺宝延院方丈にて観蓮社諦誉上人蓮阿◎(口編に爾)風義達和尚に五重を授伝し、血脈を授かり、伝誉英笑道与居士の道号を受く。

察然和尚

宣長が10歳で法名を授かった入蓮社走誉上人と19歳で道号を授かった察然和尚とは別人。
察然は宣長の母の兄というから実の叔父にあたるわけである。

厳密には「英笑」の部分が戒名、法名であって、
「道与居士」は位号、
「伝誉」が道号(浄土宗で言う「誉号」)。
「英笑道与」までが戒名であるかもしれんが。
院号は(まだ)無い。

しかしながら宣長は晩年自ら「高岳院石上道啓居士」という号を付けている。
「石上」という法名は彼の私家集の名でもあり、宣長の雅号でもあるのだろう。
で、「高岳院」が道号、この場合は院号である。
「道啓居士」が位号。「道を啓く」とはずいぶん立派な名だ。

伝通院は小石川にある徳川将軍家の菩提寺。浄土宗。増上寺の末寺。
樹敬寺は松坂にある浄土宗の寺。
父方の小津家と母方の村田家の菩提寺。京都知恩院の末寺。

小林秀雄『本居宣長』

小林秀雄『本居宣長』をまたしても読むことにした。今度は徹底的に読むつもりだ。以前に書いたもの。「本居宣長」連載小林秀雄 源氏物語池田雅延氏 小林秀雄を語る

小林秀雄は1902年生まれ。『本居宣長』は 1904年創刊の月刊の文芸雑誌『新潮』に、1965年から1976年まで、小林秀雄が63歳から74歳まで、64回連載された。隔月くらいの掲載だったのだろうか。これらに1977年、最終章を加筆し、50回にまとめて同年単行本として出版。小林秀雄 78歳。およそ10万部が売れた。さらにその後も『本居宣長補記』の連載を78歳(1980年)まで継続。1983年、小林秀雄没、80歳。ほとんど死ぬまで書き続けた、最晩年の長大作、と言って良い。効なり名を遂げ何を書いても許されるようになった大批評家が、晩年、やや耄碌した頃に書き綴ったよくわからないエッセイだと片付けることもできなくはない。というよりそういう評判の方がずっと多いと思う。また、小林秀雄という人は、戦前も戦後もまったく主義主張を変えなかった人であり、「反省しない人」とか「反省できない人」などとも言われた。その小林秀雄が、若い頃はフランス文芸の翻訳、或いはヨーロッパ芸術の評論などをやっていたが、晩年になって日本固有の「国学」に回帰しちゃった残念な人、というようにもとらえられよう。そういうもろもろが小林秀雄のファンの大半には気に入らないものと思われる。

64回+最終章がどのようにして50回になったかだが、たぶん何回か分をまとめたものがあるという程度のことで、知ったところでどうということはないかもしれない。64回分を1/3くらいに縮めて49回にしたわけだが、もともとがどれほど冗長な文章であったか、雑誌連載をリアルタイムで読んだ人(たとえば白洲正子など)が、それをどれほど退屈な思いで読んだだろうか、ご愁傷様、という気にもなる。

* 1 序章。折口信夫との問答。宣長の墓探訪。遺言書。自画像。14
* 2 遺言書続き、墓参、法事等。辞世の歌。「宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘」6
* 3 宣長の出自。少年時代。松坂の生家、生い立ち、家業。京都遊学。12
* 4 大平『恩頼図』。宣長が影響を受けた学者ら。京都時代の師・堀景山。12
* 5 儒学との関わり。孔子。10
* 6 契沖。13
* 7 契沖。水戸光圀。万葉代匠記。12
* 8 中江藤樹。15
* 9 伊藤仁斎。13
* 10 荻生徂徠。11
* 11 儒学まとめ。荒木田久老による宣長(の取り巻き)批判。12
* 12 あしわけ小舟。宣長の学問は真淵に入門する前にすでに方向性が決まっていたということ。7
* 13 もののあはれ。源氏。15
* 14 同上。17
* 15 同上。17
* 16 同上。12
* 17 源氏。契沖。秋成。真淵。17
* 18 源氏。15
* 19 真淵と契沖。真淵の万葉考、枕詞考、古事記研究をしたいと言って万葉研究を勧められる 16
* 20 宣長と真淵の書簡のやりとり、和歌添削。真淵の破門状。16
* 21 宣長と真淵の対立。16
* 22 万葉調批判。15
* 23 歌とは。語釈は緊要にあらず。15
* 24 源氏の読み方。9
* 25 大和魂 13
* 26 篤胤 12
* 27 業平、土佐日記。言霊、大和心、手弱女ぶり。15
* 28 古事記の文体。18
* 29 津田左右吉による宣長批判。14
* 30 古事記。主に序文。19
* 31 新井白石による古事記評価。14
* 32 荻生徂徠の影響。22
* 33 徂徠。直毘霊。漢意。15
* 34 雑記?10
* 35 雑記?13
* 36 和歌の本義。10
* 37 まごころ 13
* 38 雅の趣、迦微(カミ)。9
* 39 迦微 12
* 40 上田秋成との論争(日の神論争)。14
* 41 続き。13
* 42 続き。8
* 43 熊沢蕃山批判など。学者らしく、もっともらしく処理することの拒絶。「あやしさ」へのこだわり。14
* 44 晩年の真淵。10
* 45 荷田在満、田安宗武、真淵。古事記解釈。14
* 46 続き?13
* 47 続き?14
* 48 続き?「あやしさ」の処理。12
* 49 秋成との論争、再び。15
* 50 終章(1977年10月)24
* 江藤淳との対談(1977年12月)28
* 補記1 (1979年1-2月)
* 1 ソクラテスは神話を信じるかいなか。12
* 2 雑記 21
* 3 真暦考 21
* 補記2 (1980年2-6月)
* 1 13
* 2 17
* 3 16
* 4 19

最初の3章はある程度話の流れがあり、途中にも少し整理して書いているところもあるが、全体に調べたり思いついたりしたことをその順番に記していて、必ずしも一つのテーマで一つの章ができているのではない。特に補記などは、ソクラテスの話と真暦考には一応の流れがあるが、他は後から思いついたことを付け足した雑記になってしまっている。補記を執筆したときにはすでに相当高齢になっているので、論旨もものすごく錯綜しているように思われる。ただまあそれはそれとして辛抱して読んでみるかと思っている。

28回目以降は古事記の話題が中心になり、明らかにどうでも良いような神道教義の解釈うんぬんという話になり、29回目の「津田左右吉「記紀研究」の紹介など」からどうも明らかにテンションが下がりまくり、後はもうどうでも良い感じ。

という感想をかつて書いたわけだが、上田秋成との論争はそれなりに面白いし、神道教義の解釈うんぬんとか古事記伝についての話は以前感じてたほど多くはないなと思った。というより後半へ行くにつれて、雑記感がどんどん強くなっていく。前に言及し忘れていたことをつけたし付け足ししているのが見え見えであり、本来なら全部一度整理し直さなくちゃならないところをそのまま時系列につないであるようだ。だから、誰かが整理してあげるとよいのだろうが、誰がそんな仕事をわざわざ引き受けるだろうか。源氏物語についての箇所も一つにまとめてきちんと筋立てて論じれば面白いと思う。国文学の学生なんかがそういうのを論文にすれば良いと思うが、まあ、誰も注目してはくれないだろうな。

中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠なんかはいかにも余計だと思うけど、私もいろいろ調べていくうちに、白洲正子やら柳田国男やら佐佐木信綱のことも一応書いておきたくなるから、それは仕方のないことかもしれない。

立田川と水無瀬川

本居宣長は玉勝間(巻一、巻二)で、立田川というのは今の水無瀬川であると言っている。

竜田川というのは大和国竜田山を流れる川であるというのが定説で、業平の伊勢物語第百六段に「昔、をとこ、みこたちのせうえうし給ふ所にまうでて、たつた河のほとりにて」

ちはやぶる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは

もまたそのように考えられているのだが、これは文徳天皇の時代に「渚の院」と呼ばれ、皇子の惟喬親王に相続され、のちに廃れて(土佐日記に「渚の院」「これ、昔、名高く聞こえたる所也」と出る)、後鳥羽院の時代に(おそらく業平にちなんで)再建され「水無瀬離宮」と呼ばれ、宗祇・肖柏・宗長らが水無瀬三吟百韻を奉納し、現在「水無瀬神宮」が建っている場所で詠まれたと考えるのが自然だ。というのは、業平は惟喬親王のお供でしばしばこの渚の院を訪れ、たくさんの歌を残しているが、わざわざ大和の立田山に行ったという話は出てこないからである。また、同じく宣長が指摘しているように、万葉集には「立田山」という地名は何度も出るが「立田川」という地名は一度も出ないのである(いずれもいずれも山をのみ詠みて、川を詠めるは一つも見えず)。また立田川は筑紫へ下る途中に通る場所として歌に詠まれている。「源重行集」

白浪の 立田の川を 出でしより のちくやしきは 船路なりけり

従って大和には立田川などいうものはなかったと言わざるを得ない。つまり、古今集「なぎさの院にてさくらを見てよめる」業平

世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし

また後鳥羽院によって

見渡せば やまもとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ

が詠まれたのと同じ場所だということになる。立田川は別名、山崎川とも呼ばれ、後に水成川(みなしがは)と呼ばれ、水無瀬川となったが、もともと水無瀬川とは涸川、もしくは水無川のことであったという。

京都から見ると大阪平野に出るまえに巨椋池というものがあって、そこが地峡になっていた。この地峡の西側が山崎。東側は男山石清水八幡宮である。

宣長がとっくの昔に発見しているのに小倉百人一首の解説にはみな、「竜田川」を「奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある竜田山のほとりを流れる川」としているのがおかしいではないか。誰も玉勝間を読んでないのだろうか?

小林秀雄の芸

白洲正子「花にもの思う春」p.64

小林秀雄には「飴のやうにのびた時間」「一枚の木の葉も、月を隠すに足りる様なものか」といった、一言でずばりと真髄を貫く言葉があり、愛読者はみな空で覚えたものなのに、
「本居宣長」にはそんなものは一つもない。「批評をすることなど、考えてもいない」、ある学者は「今度の作品にはまるで発見がない」、また別の学者は「あんなものは作文に過ぎない」とけなしたというのである。

白洲正子は小林秀雄にむかって、「本居宣長」は以前の作品とは違っている、読んでいるあいだは面白いけれども、読み終わると全部忘れてしまう、何が書いてあるのか一つも思い出せないのが不思議である、などと言ったらしい。それにこたえて小林秀雄は「そういうふうに読んでくれればいいんだよ。それが芸というものだ」と。

私もまったく「本居宣長」と、それ以前の小林秀雄の著作とは違うと思っていた。ただし白洲正子や小林秀雄の愛読者や学者らとは正反対の意味でだ。「本居宣長」は小林秀雄が書いたものの中では私には一番わかりやすく、ぐんぐん頭に入ってくる。それ以前のものと同じ著者とは思えないくらいだ。私に言わせれば、「飴のやうにのびた時間」なんてのは何の意味もない、理解不能な言語にすぎない。世阿弥を評して「美しい花がある、花の美しさがあるのではない」というのもわかるようでわからない、というより批評でも何でもない、ただの言葉遊びのように思える。

「本居宣長」で小林秀雄は歌人宣長を発見している。宣長は自分を歌人だと思っているし、小林秀雄もそこに気付いたのだが、普通の人は宣長が歌人だとは思わないし、小林秀雄にいくら丁寧に説明されても理解できないのだ。

世間では国学者は神道家かなんかだと思っている。宣長がたくさん歌を詠んだことは知識として知っていても、また歌とはなにかについて何度も繰り返し繰り返し彼が書いていても、そのことが重要だとは思えない。宣長はへたくそなくせにたくさん歌を詠んだものだ、契沖に似てる、くらいのことしか感じない。

国学者とはまず第一に歌学者であり、歌人でなくてはならない。小林秀雄は明らかにそのことに気づいていた。後半、グダグダ書いた「古事記伝」の箇所は宣長の神道家としての説明であって、私にはここは退屈だ。たぶんここでは小林秀雄は昔の小林秀雄に戻ってしまったのだ。

小林秀雄は読者が自分の書いたものを理解しているとはまったく思ってなかった。そんなことは期待してなかった。めんどくさいので説明する気がなかったというべきか。たぶん説明すればするほど理解してもらえないとでも思ってたか。もっと詳しく丁寧に説明するには原稿料が足りないと考えたか。

ともかく「本居宣長」以外の小林秀雄の著作が私にはちんぷんかんぷんな理由を白洲正子に教えてもらった気がした。

また道玄坂に行ってきたのだが、今の世の中、本を読む人はどんどん減っていて、逆に本を書く人、小説家になりたい人がどんどん増えている。そして今や本を読む人と本を書く人がほとんど同じくらいになってしまっている、らしい。本を読む人は自分も書いてみようと思う。両者が同数になってしまうのは仕方のないことらしい。

紙に字を書いてた頃は、多くの人が、書いてるうちに諦めた。今はワープロなりなんなりでそれなりのものが書けてしまう。絵だってそうだ。絵を見る人はたいてい自分でも描く。

需要は少なく供給が多いとなれば、本は売れない。本が世の中に満ちあふれていても、本の読者はごく一部に限られている。ほんとに良いものなら売れるかといえば、それが十分条件でないことは明らかだ。新しく出る本のほとんどは古い本の焼き直しであって、何も新しさがない。新しくないということは内容がないということだ。馬鹿みたいな内容のない本でもそこそこ売れる。そういう本にもそれなりの需要があり、消費されるからだ。つまらない本が淘汰されるようになったわけではない。マーケティングとかそういうものがあればつまらない本でもいまだに売れるということは、限界効用というものは、我々が思ったよりはずっと大きいのだ。普通の人は限界効用ぎりぎりまで、つまり、マーケティングを完全に活用した状態で本を売れるわけではない。なんか限界効用の意味を間違って使っているような気がするがそこは雰囲気で理解してほしい。まったく売れない本とミリオンセラーの間には特に何の違いも無い。

のちの時代に残るようなものを書くしかないと思う。そこそこ売れても、何も新しさがなく、死んだら忘れられるような本など書いても仕方ない。

ほんの30年ほど前まで、情報の血流というものは本だった。紙というものを強制的に循環させて情報を流していた。今は紙が必要なくなった。だからその分の部数は減る。紙の本はまさに「文芸作品」という名の「工芸品」となり、純粋に所有欲を満たすものになりつつある。所有欲と知識欲が分離されつつある。それらはもともと別のものだったのだ。紙の本というものは、読まない人が大量に買わない限り売れない。つまり所有して棚に飾っておくだけで満足する人が世の中に大量にいないと成立しない。昔の人のほうがたくさん文字を読んだわけでもない。昔は一期一会で、とりあえず読むか読まないかわからなくても書斎に備蓄したものだ。今はそんなふうな本の買い方はしない。

『正法眼蔵随聞記』2-1

是によりて一門の同学五根房故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて持斎を固く守りて、戒経を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり。

葉上とはまさしく栄西のことである。道元が栄西のことを「一門の同学」と呼んでいるのは興味深い。このくだりは、仏像や仏舎利などを崇拝したり、戒律を遵守し一日中読経するのは、あまりにやりすぎれば逆に外道となる、南宋の僧も必ずしも戒律にはこだわらなかったし、栄西も戒律にこだわるのを捨てさせたというのである。

道元は栄西を同じ宗派だと考えていたのだろうか。

wenn, sollte dann

いつもの長文(というより、長いセンテンス)の時間です。

Wenn wir Menschenkinder kaum ertragen können, die Fehler und Flecken zu sehen, die uns und unsere Mitmenschen entstellen und erniedrigen und um so schärfer sehen, je mehr uns an den Menschen gelegen ist, sollte dann nicht unser Herr und Gott immer noch schärfer sehen und es noch genauer mit uns nehmen?

全体的に見ると

wenn もしなんとかならば, sollte dann であるべきだ

という形になっている。sollte はここでは助動詞。sollen の過去形とみると意味がおかしい。

「もし、私たち人の子が、ほとんど耐えることができなかったら」その目的語は「誤りや汚点を見ること」である。そのあとの die は「誤りや汚点」を受けていて、

die uns und unsere Mitmenschen entstellen und erniedrigen

私たちや私たちの同胞を損ね、貶める

und (die) um so schärfer sehen, je mehr uns an den Menschen gelegen ist

厳密に見れば見るほどににますます人々にとって重要になる

となる。gelegen はここでは明らかに形容詞(ふさわしい、重要な)であり、かつ、

人3 an 物4 gelegen sein

だれそれにとって何々は重要である、というイディオムになっている。
また

je 比較級、um so 比較級

もイディオムである。

それでまあ、直訳すれば、「私たちや私たちの同胞を損ね、貶める、しかしながら厳密に見ればみるほどに重要になっていく誤りや欠点を、私たちがほとんど直視できないとしても、私たちの主と神はいつも厳密に見ているのだから、私たちもやはり厳密に受け止めるべきではなかろうか。」とでもなるだろうか。最後のあたりが少し自信がないが、主語は es ではなくて unser Herr und Gott であり、es は目的語だろう。いずれにしても、訳してみると、べつにこんなに馬鹿丁寧に訳す必要のあることではない。てきとうに意訳しておけば十分だろう。

dagegen

Fanden nun Vater und Mutter ihren besten Trost und die befriedigende Nahrung für ihr inneres Leben in den Worten des alten Bibelbuches und solcher Schriften, die desselben Sinnes waren, so war es dagegen den Bedürfnissen ihrer Natur gemäß, aus den Worten der Dichter und Weisen zu schöpfen, die ihren Blick weiteten, ihr Denken erhellten und ihr ganzes Wesen festeten, daß sie, der eigenen Kraft bewußt, gerüstet dem Leben entgegentreten könnte.

なんと長い、そしてコンマの多いセンテンスだろうか。これは A, so B, daß C と言う形になっていると解釈できよう。

A の部分は

父と母は古い聖書などの書物の言葉の中から、彼女のために、元気と心の糧を見つけた。それらはおよそ同じような意味合いだった。

B の部分は

しかしそれゆえにそれらの宗教的な文句は彼女自身の好みに反していた。

彼女の好みというのは aus den Worten der Dichter und Weisen zu schöpfen という zu 不定詞句が Bedürfnissen ihrer Natur gemäß にかかるとみて、

詩人や賢者の言葉から生まれ出て、彼女の視野を広げ、彼女の考えを明解にし、彼女の本質を確立してくれるもの

である。そして C の部分は

自分自身の力を自覚し、すでに自分なりに理論武装していた彼女は、人生に立ち向かっていけた。

となるだろう。

前半部分の父母の宗教的な好みと、後半部分の彼女の詩的な好みが対比されている、と見るべきだ。dagegen があるのでそれがわかりやすい。

「, so」や「, daß」などでセンテンスが大きく切れている、ということに着目すべきだ。

大村益次郎銅像銘文 解説

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大村益次郎の銅像を見に行った。に書かれていた解説をもらいに行った。駐車場の受付(?)ではもらえなかった。いろいろ人に聞いてやっと受け取ることができた。内容は同じようで微妙に違う。原文は載せてほしかった。

あと、碑文だが、円筒状になっていて高いところにあるために非常に読みにくく、かつ、写真にとりにくい。逆光になるとまあ普通のスマホでは写せない。一眼レフ持ってかないとだめだわ。

嗚呼此故兵部大輔贈從三位大村君之像也方顙圓頤眉軒目張凛乎如生使人想其風采君諱永敏稱益次郎長門藩士性沈毅有大志夙講泰西兵法擢為兵學教授尋參藩政釐革兵制慶應二年之役守藩北境連戦皆捷戊辰中興徴為軍防事務局判事時幕府殘黨據東叡山方命君獻策討而殲之尋征奥羽平函舘君皆參其帷幄以功賜禄千五百石陞任兵部大輔大定陸海軍制之基礎明治二年在京師為兇人所戕薨年四十七

天皇震悼贈位賜賻後又授爵榮子孫頃者故舊相謀造立銅像以表其偉勲以余知君尤深記其概略若夫平生事業具載其郷圓山墓碑嗚呼像之與碑君之功名可共不朽

明治廿一年六月

内大臣従一位大勲位公爵 三條實美撰并書

どうでもいいっちゃいいんだが、実際に目で「函館」は「函舘」であることを確かめた。

「方命」は天子の命にさからうことと辞書にある。孟子に「方命虐民」とあるらしい。この「方」は「妨」もしくは「放」の意味か。「幕府殘黨據東叡山方命」いわゆる彰義隊のことだな。

カニバリズム

神経痛はだいぶ治ってきたがまだ痛む。年齢と同じくらいの日数かかるというから、順調に治ってきているのだとは思うが、ずいぶんとしつこい病気ではある。

「キリスト教とカニバリズム」というそのものずばりのタイトルを付けた本もあるようだが、実際にイエスが食われたかはともかく、初期のキリスト教が、なんらかの形でカニバリズムと関係していた可能性は高い。

後世、予言と見えるようなことはたいていは後付けの解釈である。日本書紀の地名説話にしても、大化の改新にしても、寺や温泉の由来にしても、韓国起源説にしても、後世になってわからなくなったことを後から適当に理由付けしたものである。福音書にしてもイエスの死後五十年以上して成立したもので、それは平家物語の成立とも似ているが、一時資料としての歴史的な信用性はない。

人を殺して神に捧げ、時にはその肉を食い、血を飲むというような宗教儀式は、古代には広くみられたはずだ。犠牲は人から牛や羊などとなり、後に血は酒で代用されるようになる。人よりは家畜、家畜よりは酒のほうがコストがかからないからだ。つまり食人の習慣が廃れた主たる理由は、人を使うのが「もったいない」からだ。中国では犠牲の血で青銅器を血塗り、その血を飲んで盟約を結んだ。今日ではマオタイ酒がその代わりをする。キリスト教でも、本来は血を飲んだかもしれないがそれがワインに変わったのかもしれない。ユダヤ教では血は飲まないので、明らかにユダヤ教以外の異種の宗教が混入したのである。おそらくはヒンドゥー教のカーリー信仰のようなものだった。アーリア人の宗教はインドからペルシャまで広く分布していて、当然ユダヤにも影響を与えた。というよりか、ユダヤ人はペルシャ人によって捕囚されたのだから、ペルシャ人の宗教の影響を受けないはずがない。

イエスの処刑というものは、ほとんどめだたない出来事だったはずだ。しかしイエスにごく近い異端の宗教指導者が、イエスを教祖に祭り上げる。初期は家畜の肉や血が聖餐に使われていたかもしれない。それは今のヒンドゥー教の儀式のようなものだったかもしれない。明らかにユダヤ教の正統の儀式ではない。

やがて肉と血はパンとワインで代用されるようになった。パンはキリストの肉、ワインはキリストの血であるとはわかりにくい比喩である。そこをうまく説明づけるために、最初期の福音書は書かれたのではなかろうか。ただそれだけのことではないのか。

「アンデスの聖餐」などと呼ばれる事件があったが、要するに、他に生き残る手段がないときに、死者の肉を食べるのは、聖餐と同じであって許される、という解釈だ。

中国に食人の習慣があったのは有名だが、
小室直樹の『資本主義中国の挑戦』に詳しく書かれている。

日本には食人の習慣はあまりみられなかったようだが、殉死や人柱などの人身御供はかなり一般的だったのではないか。
ヨナ記にも海の神を鎮めるためにヨナが海に投げ込まれるなどいう話がある。
兵馬俑や日本の埴輪は生きた馬や人の代用だともいう。