養子

昔の人の経歴を調べていて感じるのは、養子縁組というのが、非常に多かったということだ。
例えば自分が次男・三男などで、親戚筋、特に本家などに嫡子がいない場合に、
養子となってその家の家督を相続する。よくあることだったようだ。

独身で子供がいない、ということは当時としては滅多になかったようだが、
実子がいない、
実子がいても娘しかいない、
実子はいたが早死したり病気だったりして嫡子にはなれない、
あるいはなんらかの理由で廃嫡した、
などということはしばしばあった。

息子はいないが、娘はいる場合には、婿養子を取る。
その場合も通常は親戚の男子を優先するのだろうが、
特に学問や芸能の家の場合には、有能な弟子を婿に取ることが多かったようだ。
娘もいない、親戚にも適当な子がない場合は、
まったく赤の他人を養子にすることもあったように思われる。
その際には、赤の他人が赤の他人の嫁をもらう、というのではなく、
親戚の娘を養子にしてその婿養子をとるとか、
あるいは養子に親戚の娘を嫁がせるとか、
そんな工夫をしたのではなかろうか。

ともかくそういう具合に養子で成り上がった人というのが少なくない。
家というのが重要かつ根本的な社会組織であり、
そこには家業とか所領とか財産とか株とか組合など、誰かに相続しないわけにはいかない資産が付随する。
一方では子沢山な家庭があり、
他方では子宝に恵まれない家があり、
かつ家業の優秀な後継者が欲しいという状況では、
さかんに養子縁組が行われてきたのだろう。
一度養子制度というものをきちんと調べる必要があると思う。

宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

シチリアとロシア

Expedition of the Thousand

Britain was worried by the approaches of the Neapolitans towards the Russian Empire in the latter’s attempt to open its way to the Mediterranean Sea; the strategic importance of the Sicilian ports was also to be dramatically increased by the opening of the Suez Canal.

面白い話だが、シチリアとロシアの関係がいまいち裏付けが取れない。

まあ、おもしろけりゃ嘘でもかまわんが。

アルプス猟兵隊

アルプス猟兵隊 (Hunters of the Alps) というものがある。これはガリバルディが編成したフランス・サルディーニャ連合軍の別働隊であり、ソルフォリーノ戦と並行してスイスに近いミラノ北部でオーストリア軍と戦い、撃破。これがのちのシチリア上陸の際の赤シャツ隊となった。名前が紛らわしいが、しかし、明らかにこれはスイス傭兵ではない。

宮家

[今日の産経抄](http://sankei.jp.msn.com/life/news/111126/imp11112602500001-n1.htm)に、

> 当時の皇室は、財政難もあって天皇の子供でも皇位継承の可能性が高い親王を除き出家させるのが普通だった。承応3(1654)年に後光明天皇が若くして崩御した際には、皇族男子はほとんど出家しており、綱渡りの状態で後西天皇が即位した。

> 事態を憂えた白石は、徳川家に御三家があるように、皇室にも皇統断絶を防ぐため新たな宮家が必要だと論じた。白石が偉かったのは、宮家が増えるのは武家にとって不利ではないか、という慎重論を一蹴、「ただ、武家政治の良否のみに関係する」(折りたく柴の記・桑原武夫訳)と幕府の枠を超えた判断を示したことだ。

などとあって、これを読むだけだと、先に徳川氏の御三家があって、それを参考にして宮家が創設されたように思えるが、
wikipedia で宮家など読むと、宮家というものが、北条氏による鎌倉時代の両統迭立の頃まで遡ることができるのがわかる。

持明院統と大覚寺統に分かれた両統迭立というものは南北朝の原因になったと批判され、
新井白石の宮家創設は皇統断絶を防いだ名案だった、というのは後付けの理屈にすぎないのではないか。

徳川氏の御三家とか御三卿というのは、本家と分家の関係であり、本家が途絶えたときに分家が代わりに血統を継ぐというものであろう。
両統迭立というのは、持明院統と大覚寺統が対等で、そのために継承争いが激化した、とみなされているのかもしれない。
両統迭立の実態はそんなに簡単なものではなかったし、宮家が併存する場合でも(皇位継承順が明確に定められていない場合)、
決して問題がおきないとは言えないのではないか。

結局、新井白石の処置は事後的に適切だったといえるだけではなかろうか。

しかし、後西天皇とは紛らわしい名前である。
「後」が頭に付くのだから「西天皇」という天皇が前にいなくてはなるまい。
調べてみると、第53代淳和天皇の別名「西院天皇」にちなむという。
それで後西院と追号されたが、後西院が院号のようだというので、大正時代に後西天皇と呼ばれるようになったという。
明治以前には院号だけがあり、天皇号が存在しない天皇もいたために、明治時代には後西院天皇と呼ばれていたそうだ。
ややこしい。
最初から後淳和天皇などという名前にしておけばよかったのに。

素人考えだが

高山病と鬱血性心不全は症状がほとんど同じだそうである。高山病の場合はまず血中酸素濃度が下がる。そうすると、血流を増やさなくてはならないので、24時間365日、心臓をよけいに稼働させなくてはならず、つまり運動やスポーツといった一時的な負荷ではなくて、常時心臓に負担をかけるために、次第に心臓が弱ってきて、静脈が水を心臓に返すことができなくなって、むくみや腹水、肺水腫という症状がでてくる。このうち肺水腫が一番自覚症状としてわかりやすく、また末期なので、肺に水がたまり始めるとやばい。即、入院。

アルコール性心筋症の場合、血中アルコールが直接心筋を弱めるとか負担をかけるとは考えにくい。それで私はふと考えたのだが、アルコールを大量に、毎日、何年間も続けて飲むと、肝臓は常にフル稼働でアルコールを代謝しなくてはならない。肝臓をフル稼働させるにはそれなりの血流が必要であろう。というより、ただ単に、血液を肝臓に通してアルコールを強制分解するためだけでも、肝臓を通す血流量を増やす必要があろう。というより、肝臓のフル稼働が常態化していることが、心臓にメッセージとして送られて、なら心臓もフル稼働せねばならぬ、という体質になってしまい、心臓もまた常時フル稼働させられる。そうして常時心臓に負担をかけるために、次第に心臓が弱ってきて、高山病と同様に、やがて、静脈が体から水を抜くことができなくなって、むくみや腹水、肺水腫という症状がでてくる。とまあこういう具合ではなかろうか。

この仮説が正しいとすれば、高山病とアルコール性心筋症はどちらも急性心筋症とでも言うべきものだ。心臓を休ませる。血液量を減らすために塩分を控える。水の摂取も控える。

高山病の場合山を下りれば血中酸素濃度が増えて心臓が休まり治るわけだが、アルコール性心筋症を治すには、別に、アルコールやカフェインなど、肝臓で代謝される物質の摂取を控える。というより、毎日大量に摂取するのをやめる。そうすると、肝臓の稼働率が下がる。肝臓の稼働率が下がると、どういう仕組みかは知らぬが、これまで肝臓にばんばん血液を回してくださいよ、とか言ってたホルモンの分泌が減る。心臓への指令が減って稼働率も下がり、次第に心臓が回復していく。とまあ、こんな具合ではなかろうか。この理論によれば、肝臓が丈夫で、肝機能障害がおきていなくても、肝臓の稼働率が高いだけで、心臓に負担をかける理由が説明できるのだ。アルコール性心筋症について書かれた論文をネットで検索して読んだことがあるが、現時点では、アルコールによって肝臓に何らかの障害がおきて、それがどういう理由でかわからんが、心筋を弱らせる、と考えられているらしいのである。実に曖昧模糊とした仮説ではないか。

γ-gtpが今年は150くらいまで上がったから、アルコール性肝機能障害であったことは間違いない。そうすると、やはり、肝臓はアルコールを分解するために余計に血流を必要とし、などというフィードバックがかかってた可能性があるよなあ。誰かこの理論の正しさ(或いは間違い)を証明してくれ。

ましかし、アルコール性心筋症などというマイナーな病気を研究する人などほとんどいないか。

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

喀血歌

見延典子『頼山陽』を読んでいると、天保元(1830)年、

正月早々香川景樹から届いた薩摩の牛肉を食べると、

などと書かれていて、これははて、書簡や日記などにそのような記録が残っているということだろうか。
同じ年、7月、広島に帰省していた間に京都で地震があり、「郵便得京報」うんぬんという長い詩を作っている。
この「郵便」という単語は、日本国語大辞典によれば、どうもこれが初出らしい。
明治になって、山陽の詩を知る人が post の翻訳に採用したのだろうか。
郵便制度を創始したのは前島密とあるが。

同じ頃、山陽は体調を崩し、広島藩の医者、中村元亮に労咳の疑いがあると、診断されている。
満49歳。

同じ頃、大塩平八郎は、大阪町奉行を辞職、遠縁の格之助(塾生の一人だったらしい)を養子として迎え、跡継ぎとし。
尾張の先祖に報告の墓参に行く途上、山陽をもとを訪れる。
平八郎は山陽に刀を贈り、山陽は「吾書三十余万字 博得君家両尺鉄」うんぬんという詩をのこしている。
「君家」とあるから、家宝だったのだろう。
ところで、両尺、九寸というから、脇差ではなくいわゆる本差、武士が携帯する本物の刀かとも思うが、見延典子の記述によれば「脇差し刀」であるという。
九寸未満の刀を長脇差と言って博徒などの武士以外の人間が差していたはずである。
九寸あったのかどうか、微妙なところだ。
また「大塩子起の尾張へ適くを送るの序」というものを書いて平八郎に贈っている。

また、平八郎には本妻はなくて、「妻同様のつきあいの妾ゆう」が居たと書いている。
妾であれば嫡子がなくて養子をもらってもおかしくない。
また平八郎は与力を辞職した後の、いわゆる大塩平八郎の乱(1837)に先立って、ゆうを離縁したのではなく、与力として弓削新右衛門事件などに当たるときにすでに離縁していたという。
また、弓削事件のとき、ゆうは薙髪しただけだという記述もあるようだ。
いずれにせよ、なぜ普通に結婚しなかったのか不思議なところだ。

天保3(1832)年4月、
詩集出版のために大阪へ。このとき大塩平八郎と会い、平八郎の著作『古本大学刮目』『洗心堂箚記』などを読む。

同年6月12日に初めて喀血、16日まで続く。
すでに禁煙していたが、禁酒を命じられる。
27日、再び喀血。
7月下旬、「結核を患い、戯れに歌を作る」と題する詩を作る。

吾有一腔血 吾に一腔の血有り
其色正赤其性熱 その色は正に赤く、その性は熱し
不能瀝之明主前 これを明主の前に瀝(そそ)ぎ
赤光凛向廟堂徹 赤光凛として廟堂に向かひ徹するあたはず
亦不能濺之国家難 またこれを国家の難に濺(そそ)ぎ
留痕大地碧弗滅 大地に痕を留めて碧、滅せざるあたはず
鬱積徒成磊塊凝 鬱積し、徒に磊塊の凝るをなす
欲吐不吐中逾熱 吐かんとして吐かず、中いよいよ熱し
一旦喀出学李賀 一旦喀出して李賀を学びても
難収糝地紅玉屑 糝地の紅玉屑は収め難し
或曰先生閲史遭姦雄逭天罰 或る人曰く、先生史を閲し姦雄の天罰を逭(のが)るるに遭へば、
睢陽之歯輒嚼齧 睢陽の歯、すなはち嚼齧(しゃくげつ)し
渠無寸傷己自残 渠(かれ)に寸も傷無く、おのれ自ら残(そこな)ひ
憤懣遂致肺肝裂 憤懣遂に肺肝の裂くるに到る
或曰先生殺人手無銕 或る人曰く、先生人を殺すに手に銕(てつ)無く、
発奸擿伏由筆舌 奸を発(あば)き、伏を擿(あば)くに筆舌に由(よ)り、
以心誅心人不知 心を以て心を誅し、人知らず、
霊台冥冥瀦陰血 霊台は冥冥として、陰血瀦(たま)る
吾聞此語両未頷 吾れ此の語を聞けど、両つともに未だ頷かず
童子進曰走意別 童子進みて曰く、走意は別
先生肉中本無血 先生肉中本(もと)血無し
腹中奇字僅可剟 腹中の奇字、わずかに剟(けづ)るべし
賺得杜康争戴酒 杜康を賺(だま)し得て、争ひて酒を戴き
剣菱如剣岳雪雪 剣菱は剣の如く、岳雪は雪、
大福蔵府受不起 大福の蔵府、受けて起たず
溢為赤漦戒饕餮 溢れて赤漦をなし、饕餮(とうてつ)を戒しむ
咄哉此意愼勿説 咄かな、此の意、愼んで説くなかれ

※霊台 魂のある所。心。
※杜康 中国神話の酒の神。転じて杜氏。
※赤漦 赤い体液
※饕餮 なんでも食べる中国神話の猛獣。転じて暴飲暴食。

剣菱の杜氏に、もう酒が飲めなくなったと贈った詩であるという。
弟子が言う、「遭姦雄逭天罰 嚼齧 己自残 憤懣遂致肺肝裂」とは、歴史書に悪人が天罰を受けない箇所を読むと歯がみして自ら傷つけ、その憤懣で遂に肺や肝臓が裂けてしまった」のだろうと。
また、「発奸擿伏由筆舌 以心誅心人不知 霊台冥冥瀦陰血」とは、歴史上の悪事を筆舌によって曝いているうちに、知らず知らずに胸に血が貯まってしまった」のだろうと。

8月18日、大量の喀血、23日、同じく喀血。
9月23日(1832年10月16日)死去。
平八郎曰く、

その秋、山陽の血を吐き、而して、病きわまれるを聞き、われ洛に入りて以てその家に到れば即ちその日すでに易簀(えきさく、賢人が死ぬこと)せり。大哭して帰り、夢の如く幻の如く、往時を追思す。先に山陽の余を訪れ、觴酒せし際、その情の繾綣(けんけん、ねんごろ、つきまとってはなれないこと)たりしこと、それ永訣の兆しなりしか。嗚呼、痛ましきかな。悲しきかな。今、山陽をして命を延きてあらしめ、而して箚記両巻を尽くさしめなば、即ち彼に益するのみならず、必ず吾にも益せんもの。蓋し、亦少なからざらん。おもふにこれ余が一生涯の遺憾たるのみ。

幸田成友『大塩平八郎』に、大塩平八郎の業績の六番目として、

> 頼山陽が紛失した菅茶山手沢の杖を数十日内に捜出し、山陽の其術を問ふや階前は万里なり、阪府の所管僅に方数拾里、其内在る所の物は繊芥の微と雖もわが眼底を逃れずと答へた

とある。

裏柳生口伝

小池一夫原作の漫画「子連れ狼」(1970-1976)には主人公・拝一刀の

仏に逢うては仏を殺し、父母に逢うてはこれを殺し、祖に逢うては祖を殺し、しかして、何の感情も抱かぬ、無字の境地に至れぬものか!

というセリフがある。こちらのサイトにはその英訳も掲載されている。

Meet the Buddha, kill the Buddha. Meet your parents, kill your parents. Meet your ancestors, kill your ancestors.

などと訳されているのがわかる。映画「子連れ狼」(1972-1974)にも同様のセリフが出る。いくらおにぎりブログ

阿弥陀如来に申し上げる。我ら親子、六道四生順逆の境に立つもの。父母に会うては父母を殺し、仏に会うては仏を殺す。喝!

深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』(1978年)では、柳生宗矩役の萬屋錦之介が

親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す。

と言い、同年テレビドラマ版『柳生一族の陰謀』では、柳生十兵衛役千葉真一の冒頭のナレーションで、

裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや。

とある。テレビドラマで「親に会うては親を殺し」は刺激が強すぎるのかもしれん。「神に逢うては神を斬り」はこれが初出か。いかにも日本的な言い回しではある。

『魔界転生』(1981年)では

神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。

という言い回しがあり、『キル・ビル』ではやはり千葉真一がハットリハンゾウ役で

自惚れではなく、これは私の最高傑作。

旅の途上で、神が立ちはだかれば、神をも斬れるであろう。

などと言っている。これの源流は、臨済宗の祖、臨済の言葉を記した『臨済録』の中に出てくる以下のくだりであると思われる。

爾、如法の見解を得んと欲せば、但、人惑を受くること莫れ。
裏に向かい、外に向かひて、逢著せば、便(すなは)ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん・親族)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。

道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。

臨済という人はずいぶん過激な人だったようだが、禅宗由来と言われればたしかにそんな気がしてくる。

戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。

ここは深作欣二のオリジナルらしいが、孫子の兵法形篇

勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝。

「勝兵は先づ勝ちて而る後に戦ひを求め、敗兵は先づ戦ひて而る後に勝ちを求む」が出どころであろう。

ところで頼山陽には「兵児の謡」という詩があって、前後に分かれているが、その前半は

衣至骭 袖至腕
腰間秋水鉄可断
人触斬人 馬触斬馬
十八結交健児社
北客能来何以酬
弾丸硝薬是膳羞
客猶不属饜 好以宝刀加渠頭

衣は骭(すね)に至り 袖腕に至る
腰間の秋水 鉄断つ可し
人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を斬る
十八交を結ぶ健児の社
北客能く来らば何を以って酬いん
弾丸硝薬是れ膳羞
客猶ほ属饜(しょくえん)せずんば 好(かう)するに宝刀を以て渠(かれ)が頭に加えん

  • 秋水 よく切れる剣。日本刀の美称
  • 健児の社 薩摩藩が青年藩士のために設けた教育機関。
  • 膳羞 ごちそう
  • 属饜 飽きる

薩摩男子は、裾は脛まで、袖は腕までの短い粗末な服装だが、腰に差した剣は鉄も切れるほどに鋭利である。立ち向かってくるものがあれば、人だろうと馬だろうと何でもかまわず斬る。十八歳になると健児の社に加わって同志と交わる。薩摩の北から客が訪れれば、何をもって応対しようか。弾丸や硝薬、これごちそう。客がそれでも飽き足りないときには、頭に宝刀を加えて引き出物としよう。

ここで、人でも馬でも斬る、という形になっている。もともと薩摩の民謡を漢詩に翻案したもので、そのオリジナルは

裾は脛まで 袖は腕 腰の剣は鉄も断つ

人が触れば 人を斬り 馬が触れば 馬を斬る
若さを誓ふ 兵児仲間

肥後の加藤が来るならば 煙硝(えんしょう)肴に弾丸(たま)会釈

それでお客に足らぬなら 首に刀の引き出物

というようなものであったらしい。

「兵児の謡」の後半は、しかし、

蕉衫如雪不愛塵
長袖緩帯学都人
怪来健児語音好
一操南音官長瞋
蜂黄落 蝶粉褪
倡優巧 鉄剣鈍
以馬換妾髀生肉
眉斧解剖壮士腹

蕉衫雪の如く塵をとどめず
長袖緩帯都人を学ぶ
怪しみ来る健児語音の好きを
一たび南音を操れば官長瞋る
蜂黄落ち蝶粉褪す
倡優巧みにして鉄剣鈍し
馬を以て妾に換え髀肉を生ず
眉斧解剖す壮士の腹

  • 蕉衫 芭蕉布の服
  • 蜂黄落蝶粉褪 蜂の黄色い色は落ち、蝶の粉は色褪せてしまった。女色に退廃したようす。
  • 倡優 芸能
  • 眉斧 美人

衣服は真っ白で一点のちりも無く、袖は長く、帯は緩く、都人の流行を真似ている。健児らの言葉遣いも都びていて、薩摩弁で話しかけると官長が怒り出すしまつ。女色に溺れ、芸事は旨くなったが鉄剣は鈍い。馬を妾に換えて股に贅肉が付く。美人が壮士の腹を割いてしまった。

頼山陽は1818年、37歳頃に九州各地を漫遊している。長崎から雲仙、熊本、薩摩と移動したようだ。諸国を観察して、詩を作ったり、それを揮毫して小遣い稼ぎしたり、歴史を学んだりしたかったのだろう。「肥後の加藤」とは清正のことだろうから、秀吉の時代の歌であったのが、山陽が薩摩を訪れた江戸半ばすぎには、島津家中の武士ですら、贅沢に馴れていた、というふうに鑑賞すべきである。

時に薩摩藩は島津重豪の時代で、開明的だが浪費家で、死後大赤字を残したことで有名だ。鎌倉宮の謎参照。

癸丑歳 偶作

十有三春秋   十有三春秋
逝者已如水   逝く者は已に水の如し
天地無始終   天地始終なく
人生有生死   人生生死あり
安得類古人   安んぞ古人に類して
千載列青史   千載青史に列するを得ん

癸丑歳とは寛政5年、1793年のことであり、安永9年12月27日(1781年1月21日)生まれの頼山陽が、満で言えば12才の時の作であると推測される。数えでは14才。その最初の形は安藤英雄『頼山陽詩集』によれば、

十有三春秋 春秋去若水
何時吾志成 千古列青史

という五言絶句であるという。あまり面影がないよなあ。ていうか全然違う詩だよな、ここまでいじってしまうと。

私が初めてこの詩に出会ったのは、中学三年生の時、中学校の図書館で、内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んだときだった。私は最初、内村鑑三を通して頼山陽という人を理解し、彼と同じ気持ちで、日清戦争前夜の日本人の気持ちで、山陽の詩に感動したのだった。戦後民主主義は頼山陽を完全に否定し、子供の目に付かないように隠蔽していた。今でも或る意味ではそうだ。内村鑑三は反戦主義者だったから戦後も生き残った。その内村鑑三を通さなくては、私は頼山陽に出会うこともなかったわけで、内村鑑三はたまにしか読まないが、頼山陽は未だに良く読んでいるので、実に不思議な偶然とも言える。

岩波文庫には、頼山陽の著作に『日本外史』と『頼山陽詩抄』があって、頼山陽が1781年生まれのために、生誕200年というので、『日本外史』も再版となって、だいたい1980年代からしばらくは入手が容易だったのだけど、今では絶版となって、なかなか手に入らない。もちろんアマゾンなどで中古で手に入らないこともないが、やや割高である。それに比べると、『頼山陽詩抄』の方は、戦前の復刻版であるのに、未だ絶版ではなくて、普通に書店で買うことができる。というのは、つまり、頼山陽の詩は詩吟などで参照され、細く長く人気があるのかもしれん。

山陽は杜甫や陶淵明を好んだという。

『頼山陽詩抄』の編者の一人である頼成一は、頼山陽から数えて五代目、『日本外史』編者の一人である頼惟勤は六代目に当たり、1999年没、お茶の水女子大学名誉教授、と見延典子『頼山陽にピアス』にある。