上意討ち

三船敏郎主演「上意討ち ― 拝領妻始末 ―」というのを借りて見たのだが、想像と違って陰々滅々としたやな感じの映画。こんなのだれが好きこのんでみるのかと思った。養子に入って何十年も嫌みな妻に我慢してついにぶち切れてお家断絶、息子も嫁も全部死んで最後は自分も死ぬ。

終わりのほう、仲代達矢との立ち合いは椿三十郎のエンディングに似たデジャブ感。その後鉄砲隊に三船敏郎は殺されてしまうという落ち。

というか、こういうのを上意討ちというのか。つまり主人公が上意討ちにあったということなのだよな。主君の命で上意討ちにいく侍が主人公なのかと思うじゃないですか。

匿名製作委員会

今日はいつもの飲み屋で喧嘩した。 とにかく速く帰りたくて勘定すませて釣りももらわず帰った。

それはそうと。

匿名の製作委員会というのが今ははやりらしく、「踊る大捜査線」で当たったのが始まりだという。

思うに、日本には健全なベンチャーキャピタルが育たず、シリコンバレーでは毎年何十兆円もの投資が行われていると。 しかし、匿名製作委員会というのはつまりベンチャーキャピタルのことですよね。ファンドのようなものかもしれない。

日本でも一部ではすでにベンチャーキャピタルが育ちはじめているのかもしれないなあと。

それはそうと「踊る大捜査線」は大嫌い。現場の公務員が職務規程に従わずに自分の判断で行動するなど許せない。 226事件とどこがちがうんですか。 公務員が上司に従わないということは国会に従わないということ、つまりは納税者に従わないということ。 国民に、警察組織の問題を訴えたければ、国会議員に立候補すべきで、選挙で正当に選ばれた代表を通じて行動すべきであって、現場の判断で勝手に行動してよいことにはならない。

身内の警察官が死んだり怪我をしたら本気で敵討ちですか。 つまり民間人が犠牲になったときは相対的に本気で仕事してないということだよね。

状況的に公務員が機密をリークしなくてはならないことはあるかもしれん。しかしそんな国家の利益がとか切迫した状況ではなくただ現場の公務員が自分勝手に暴走しているだけではないか。こんなドラマが大ヒットしたこと自体許せない。 一国民として許せない。

冥王星

なんか世間と感覚がずれているのかな。冥王星なんてどうでもいいし。ていうかほんとの科学者ならあっそうで終わりじゃないの。科学者じゃない連中の琴線に触れる部分があるんじゃないかなとか。そうじゃなきゃこんな大騒ぎしないでしょ。教育関係者とか、インテリってこういう話好きだよな。立花某とか専門でもなきゃわかりもしないくせに科学談義大好きだしな。子供の頃小学校で「一番遠い惑星は冥王星です」って教わりましたみたいなノスタルジー。科学的な客観的事実とか、科学者どうしが決めたクライテリアよりも、検定教科書になんと記述されているか、教育指導要領にはどのように定められているか、入試にはどのように出題されるか、その方が100倍重要なんだろう。明らかに科学的態度からは乖離しているよね?果ては「科学者の傲慢」とか言い出す始末。そのうち「科学は非民主的」とか言い出すよ。アホかと。だいたい論文の新規性や有効性だって査読者どうし話し合いで決めてるんだよ。ノーベル賞の審査基準だってそうだろ。今更なんだよって感じだよね。

「冥王星」って名前の響きはいいよね。でも月より小さいひねこびた岩の固まりなんでしょ。

腐敗臭がする俗悪。

まあ、これは主観の問題なのだが、と一応前置き。

17:00から始まる某報道番組をだらだらと見ていたが、テンポが速く要領よくて小気味よくこれが民放地上波の報道番組かとびっくりした。テレビも捨てたもんじゃないなと思った。同時にこの時間帯にテレビでニュース見てるやつって誰だろうとか、誰を対象に放送しているのか不思議に思った。

ところが18:00台になるとタレントコメンテイターなどが出てきて、たぶんそれだけじゃないんだがとたんにつまらなくなった。マスコミ特有の腐敗臭を放ちはじめた。

なるほど、17:00台は前座なのである。18:00ともなると田舎の役場勤めなどだと自宅に帰り着いて家族そろって夕食を食べてる時間かもしれん。

テレビ局は実はすごい会社なのだと思った。ものすごく良い人材が集まっている。そりゃそうだろう。いろんなしがらみにしばられないはずれた時間帯や前座みたいのやケーブルテレビではとても良い番組を流す。おそらく若手が実力を認められようと真剣に作っているに違いない。しかしタレントが出てくる時間帯、みんなが好んで見る時間帯は俗悪。もうどうしようもないのでないか。

マイキーというDVDを見たがこれはテレビ東京系らしいが、素人くさく見せているが明らかにプロ。テレビ局の機材を使い、まっとうなスタジオで、プロのカメラを使い照明あて、大道具さんや衣装やメイクの担当がいる。売れてはなさそうだがちゃんとプロの役者を使っている。音響もきちんとしてる。金のかかり方が違う。テレビ局的にはすでにあるものを使い回しているから特に金はかけてないのかしれんが、結果的に金がかかっている。こういう深夜番組とかには良いものがあるのだなと思った。

こういうのみてるとほんともう、テレビなんてインターネットなんかよりもずっと可能性があるんだろうが、実にもったいないなあとか思ってしまう。

フジテレビ721で流してる俺たちひょうきん族なんてみてると今よりずっとおもしろい。あのころの俗悪はほんとの俗悪だったが、今のは気持ち悪い俗悪。腐敗臭がする俗悪。煮え切らない俗悪というか。懐古主義者にはなりたくないが。

油菜橋

なぜか秦野へ。静かで美しい町。それから栢山の二宮尊徳記念館。3150円の金次郎像を買う。油菜橋というのがある。孤児となり、叔父に養われていた二宮金次郎が菜種を植えて油を作り、初めて自力でお金を稼いだという場所。時あたかも菜の花が咲いていた。ちょっと感動した。内村鑑三は、中学三年のころ二宮金次郎から間接的に影響を受けているのだった。内村鑑三はクラーク博士に農学を学んでいる。江戸時代の先達として二宮金次郎を尊敬していたのである。

それはそうと天孫降臨の天孫が天照大神の孫のニニギノミコトだということを日本人の99%は知らない。日教組の戦後教育の成果を見る思いだな。そんなことで女系天皇は是か非かなどと議論してるのだからばかばかしい。

芸術と科学

昔、政祭一致とか言って、宗教と政治は未分化だったとかいうわけです。また、宗教と哲学も昔分かれて、哲学からさらに科学が枝分かれしたとか。あるいは昔は芸術と科学は同じモノだったが近世になって分かれたとか。あるいは古代は原始共産制で身分や差別はなくて万人が平等だったとか。どこまで本当なのだろうか。

人間の脳の仕組みはたぶん何万年も前から変わってないはず。芸術と科学の違いはおそらく脳の仕組みに由来すると思う。理系と文系の違いもおそらくはそう。文系理系とか芸術科学とか言う言葉の上での区別が生まれるずっと以前から、人間はこの両者を異なる概念として認識してたのではないか。

レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの時代から、技術者と芸術家の違いはかなりはっきりしてた。前にも書いた気がするが、ダ・ヴィンチを万能人とか言って偶像化したのは、フロイトなどを中心とする19世紀末のヨーロッパ人なのであって、彼らはそういう芸術科学の融合的理想型としての聖人を祭り上げる必要があったのだ。日本仏教徒が聖徳太子や弘法大師を必要としたように。そういう存在がいたことにした方がわかりやすくて良いだけのこと。

本質的な違いというものは脳の中に最初から存在しているのでないか。脳の中で区別できないものは永久に区別できないし、区別できるものは最初から脳の中に存在しているのではないか。

脳を直接楽しませ喜ばせ驚かせるものが芸術だと思う。そのためには視覚やインタラクションや音や動きが有効なのにすぎない。そして新しく強烈な芸術はしばしば脳を攪乱しめまいをおこさせる。

女系天皇制

思うに女系天皇制について皇族が発言するのはけしからんというが、主権は国民にあるのだから、天皇は定められた国事行為を行う以外に政治権力を有さないし、なんか問題があったら内閣が責任とれと憲法は言っているだけ。また天皇は日本人ではあるが日本国民ではないから、憲法による基本的人権の保証などない。憲法を普通に読めば天皇と国民は対立概念であって、国民に天皇が包含されるなどとはとても読めまい。

憲法は国民のために書かれたもので「天皇の人権」について憲法で保証する必要などないし、そもそも皇族の人権を明文化する必要すらなかろう。思うにだいぶ以前から非公式な皇族内の会議がたびたび開かれて一応の合意形成があり、首相かごく一部の識者がその意向を受けて皇室典範改正の運びになったに違いない。内閣や有識者会議が勝手に決めるはずはない。表向きは主権者たる国民の中から正当に選ばれた首相である小泉氏が有識者会議を開いて決めたことになっているが、そんなものは半分茶番、茶番と言って悪ければ単なる儀式だろう。そう考えるのが普通ではないか。小泉首相も言いたくて仕方ないかもしれんがそんなこと絶対しゃべるはずがない。まさか車屋の社長が勝手に決めるはずがなかろう。そこまで一応根回ししておいてなお出てくるのはたぶんイレギュラーな発言だと思うがな。

おそらく皇族の中でも意見の対立はあるんだろうが、皇族は長い歴史の中で何度も親子兄弟の殺し合いもやってきて何千年も続いているのだから、私らが心配しなくても何らかの形で調停されて存続するだろう。少し政治問題化したくらいどうってことないのじゃないか。

ハイハーバー攻略戦

未来少年コナンのハイハーバー攻略戦。モンスリーがもし斥候を出して敵情視察を十分行い、村の正面から電撃戦で決着をつけていれば、インダストリアは楽勝しただろうなぁとか。ていうか一度ラナやラオ博士を誘拐したときハイハーバーの地形や村の位置くらい確認しとけよとか。しかしコナンにガンシップを沈没させられれば長期的にはやはりハイハーバーが勝っただろうなあとか。しかしそもそも津波がこなければインダストリアが勝ててた可能性もあるしなとか。まそんなこたどうでもいいか。

link free

今更らネタかもしれんが、 “link-free page” というのは “page without links” という意味かもしれんよね。書くとすれば “free-link page” かな。しかしこれでは無料でリンクを張れるページって感じ。あるいは「このページにリンクを張る場合、そのリンク先のページも必ず自由にリンクを張れるようにしなくてはいけません」、みたいな(笑)。

mixi はいきなり他人だらけのオフ会に足を踏み込んだような間合いの近さが気まずい。特に「足あと」というので誰が来たか、誰のところに行ったかばれるのがナー。リアルな知り合いともあまり積極的に「マイミクシィ」とかやりたくないのだが。まー、間合いのとり方とか慣れてくると違和感なくなるのかな。

レオナルド・ダ・ヴィンチという神話

レオナルド・ダ・ヴィンチなんだけど、代表作は「モナリザ」と「最後の晩餐」くらいで、あとは膨大な手稿と素描。「モナリザ」「最後の晩餐」はすごいのかしれんが、過大評価されすぎな気がする。
片桐頼継著「レオナルド・ダ・ヴィンチという神話」という比較的最近出た本では、レオナルドの周りには技師や医者や建築家などのさまざまな科学者が居て、レオナルドは彼らのアイディアを挿絵に描いてやる「テクニカルイラストレーター」だったのではないかと言っている。
レオナルドがもし科学者であるとすればオリジナリティがなくてはならないが、レオナルドの場合はたまたま良く描けた手稿と素描がまとまった形で後世に伝わったというだけで、もっとオリジナルな発明や研究はレオナルドの先人たちによってなされていたという証拠がどんどん出てきているそうだ。
そうなってくると「万能の天才」とか「芸術と科学の融合」などという話はそもそもルネサンスにもなかったということになる。

ある人が死んでしまうと後には文書や作品などしか残らない。百年も経つとそういう文献だけが「事実」となり、それら断片的に残された古文書を「補完」することによって、同時代の人たちには想像もできない形で神格化されていくというのは、良くあることかもしれない。現代でも一部の有力者が勝手に流行や権威を作り出すということがありがちなように。