桂園遺文

景樹の「桂園遺文」に、

文句は古今に従ひ、都鄙によりてかはりゆくものなれば、たのみがたきものなり。この調べのみは古今を貫徹するの具にて、いささかもたがはざるなり。ひとり大和言葉のみならず、からもえぞも変はらぬものなり。

などと言っている。ここで古今と言っているのは古今集のことではない。語彙や言葉遣いは時代や場所で変わってしまうので、頼りないものだが、調べ(リズム)というものは、
時代や地域の違いはなく、言語の違いすらない、などと言っている。

思うに、景樹の歌論にはかなり無理がある。景樹の歌が当時の京都の人々の話し言葉で詠まれているとは誰も思ってないだろう。景樹は確かに俗語や口語を和歌に取り入れてみたが、100%俗語口語で歌を詠んだのではない。今日の、現代短歌のような意味での口語の和歌ではないのは明らかだ。また、誠実に歌を詠めば自然と良い調べの歌になる、というのも単なる精神論にしか思えない。結局何を言いたいのかがわからない。景樹は、歌人としての天性の才があったのは間違いないが、いろんな人の影響を受け、またいろんな人の批判も受け、そのため歌論のようなものを主張しては見たが、そもそもあまりロジカルな考え方をする人ではない、というのがまあ、だいたいの結論と言ってよかろう。

その時代にしか通じない言語で歌を詠んでしまうと、その歌はたちまちに陳腐化する。わずか50年後に見ても何か違和感を感じるだろう。明治期の万葉調の和歌や、戦後の左翼歌人らの和歌、俵万智の模倣者らの歌などがまさにそうだ。ところで景樹の歌などは今から200年ほど前の歌なわけだが、それなりに今でも鑑賞できるし、古今集なども多少古典文法を学んでおけば何の説明もなしにわかる平易なものが少なくない。それは、古典文法や文語文法というものがそのような時代を超えて生き続ける生命力を持っているからであり、だからこそ和歌を文語文法に則って詠む必要があるのだと思う。

忘れ草

八千草の いづれがそれか 忘れ草 名にのみ聞きて 我れ知らなくに

野辺に出でて 我れも摘みてむ 忘れ草 よもまがはじよ 忍ぶ草とは

忘れ草 忘れな草と とりよろふ 野の八千草に まどひぬるかな

忘れ草 同じ忘るる ものならば 酒飲むことも なほ忘れなむ

牛ならば ひねもす野辺に たむろして 草をはみつつ もの忘れせむ

なかなかに 忘れがたくば 野の牛に なりてひねもす 草もはままし

忘れ草 生ふる尾上に 住む鹿は 妻を忘れて うれひなからむ

うーんと。 ワスレグサは初夏に、ワスレナグサは春に咲くもののようだ。 忍ぶ草とは、吊りしのぶのようなシダのことだろう。季語は秋だが、 初夏に萌え出でる。

二条為世の歌

たくさんあるのでとりあえず新千載集から為世の歌。

明けやすき空に残りて夏の夜は入ること知らぬ月のかげかな

夏は月が入るより先に夜が明けてしまう。

あくがるるものと知りてや秋の夜の月は心をまづさそふらむ

恨み侘び夕べは野辺にこゑたてて来ぬつまこひに鹿ぞ鳴くなる

音たててこずゑを払ふ山風もけさよりはげし冬や来ぬらむ

ひさかたの空に積もると見えゆるかなこ高き峰の松の白雪

白波も寄せつるかたにかへるなり人をなにはのあしと思ふな

白波でも心を寄せる方に帰るのだから人を悪く思うな、と。まあ縁語などがそこそこ面白い。

言ひ初めて心変はらばなかなかに契らぬ先ぞこひしかるへき

したもえの我が身よりこそ立てずとも富士のけぶりのたく人は知れ

うーむ。

うつつにはまた越えも見ず思ひ寝の夢路ばかりの逢坂の関

おのづからいつはりならで来るものと思ひ定むる夕暮れもがな

うーむ。

同じ江の葦分けを舟押し返しさのみはいかが憂きにこがれむ

長き夜もひとり起きゐてまどろまぬ老いの友とは月を見るかな

いく夜かは見果てぬ夢のさめぬらむ松の戸叩く峰の嵐に

月かげの夜さすほかはみなと江に行くかたもなきあまの捨て舟

さかのやま照る日のかげの暮れしより同じ心の山に迷ひき

確かに平坦、確かに平凡。幽玄とか有情とか言えばそうかも。題詠なんだろう。これが二条派なんだな。なんか、ドリルを解いてるみたいだよな。頓阿、契沖、宣長に通じる。

定家の前衛的なところとか西行や和泉式部の情熱的なところとかは京極為兼に行き、定家や西行の無情感とかわびさびは二条為世に受け継がれた。こってりと情緒的な京極派は仏教、とくに禅宗が流行った中世の雰囲気には合わずに衰退した。文芸の担い手に僧侶が多かったことも、京極派には災いしただろう。そういう芸術家肌のこってり情緒的な公家文化を担っていけるような余力のある公家というものも、もはや存在しなかった。武士にも愛好されることがなかった。狩野派の絵や茶道のように家元の言う通りに作法を学べば万人にも嗜むことができる、それが二条派。陶芸や書道のように希少性(カリスマ性や芸術性)を要求されるのが京極派。前者をデザインと言えば後者はアートだ。あるいは、前衛的実験的なデザインがアートであり、逆に定型化し普遍化したアートがデザインといえようか。そんなところだろうか。

近世和歌撰集集成

上野洋三編「近世和歌撰集集成」明治書院全三巻。新明題集、新後明題集、新題林集、部類現葉集などの堂上の類題集など。他には若むらさき、鳥の跡、麓のちりなどの撰集。これらは地下の巻に入っているのだが、通常は、堂上に分類されないだろうか。私家集はない。国歌大観にもれた珍しい近世の撰集というだけあって、かなりマイナー感がある。しかもこれまた電話帳。なぜか貸し出し扱いになっていたが、家に持ち帰ってももてあますだけなので、とりあえずそのまま借りずに返却した。借りたくなったらまた行けば良い。「近世和歌研究」加藤中道館。論文集みたいなもの。それなりに面白い。

霊元天皇

車をも止めて見るべくかげしげる楓の林いろぞ涼しき

契沖

我こそは花にも実にも名をなさでたてる深山木朽ちぬともよし

数ならぬ身に生まれても思ふことなど人なみにある世なるらむ

高畠式部。
江戸後期の人だが、90才以上生きて明治14年に死んでいる。
景樹に学ぶ。少し面白い。

春雨に濡るるもよしや吉野山花のしづくのかかる下道

さよる夜の嵐のすゑにきこゆなり深山にさけぶむささびの声

なかなかに人とあらずは荒熊の手中をなめて冬ごもりせむ

最後のはやや面白いが、

なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり

なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ

などの本歌がある。「桑子(くはこ)」とは蚕のこと。「なかなかに人とあらずは」は「なまじ人間であるよりは」の意味であるから、「なまじ人間であるよりは荒熊になって、てのひらでもなめて冬ごもりしようか」の意味か。

なかなかに人とあらずはこころなき馬か鹿にもならましものを

これは狂歌(笑)。

なかなかに人とあらずは花の咲く里にのみ住む鳥にならまし

子規と景樹

改めて歌よみに与ふる書を読んでみると、子規が景樹を褒めていて驚いた。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。

「古今貫之崇拝にて見識の低き」とはおかしな言い方だ。だいたいだじゃれがすきなのは貫之だけじゃない。古今がすきなのも貫之だけじゃない。当時の歌人はみなだじゃれが好きだったし、人麿だって好きだった。業平だろうが小町だろうが和泉式部だろうが、竹取物語だろうがみんなそうだ。

景樹の歌に俗なものが多いのはそのとおり。

しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存候。

それはそうだ。時代が下れば必ずしも悪くなるばかりではない。良くなることだってあり得る。そもそも、景樹は「貫之を崇拝」していたのではあるまい。古今を手本にして学べと言っているだけだろう。そうするとだいたい後の世の歌も詠める。宣長が言っていることとほぼ同じ意味だと思う。

あをによしならやましろのいにしへをまなばでなどか歌は詠むべき

これは、今思いついた歌。

景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太(りょうた)に比するが適当と思われ候。
蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣き有之候。ここの処よくよく闊眼を開いて御判別あるべく候。

蓼太とは大島蓼太という人のことらしいが、よくわからない。景樹のどの歌が良くどの歌が悪いということを具体的に例を挙げてもらわないと、子規の真意を掴みかねる。景樹は確かに狂歌まがいの歌や俳諧歌をたくさん詠んでいる。そういうのは駄目だがまじめに詠んだのは良いと言いたいのか。わかるようにきちんと指摘してくれないと卑怯だ。だいたい景樹というのは幕末近くまで生きていたのだから、
江戸の終わりまで歌詠みの名人というのはいたのであり、そのこと自体、和歌が江戸末期まで生きていた証拠であり、その弟子が無様だからといって、和歌全体が駄目な理由にはなるまい。

真淵は雄々しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。

実際、真淵の歌はあまり雄々しいものはなく、どちらかと言えば古今調に見える。良寛の方がはっきりと万葉調がわかる。それはやはり時代が下って万葉調に馴れたからだろう。

もしほ焼く難波の浦の八重霞一重はあまのしわざなりけり

契沖の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、この歌の品下りたる事はやや心ある人は承知致しをる事と存候。

漫吟集にある歌だが、そもそもどうでも良い歌だ。なぜ子規がわざわざこの歌を攻撃しなくてはならないのか。この歌が駄目だとしてなぜ和歌が駄目だということになるのか。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。

私もこの歌は駄作だと思う。だからどうだというのか。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労加減は恐れ入つた者なれど、
これもこの頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめになされては如何や。

言いたいことはわかるが、何を批判したいのだろうか。一言で言えることを三十一文字に引き延ばすことがいけないといってしまうと、秀歌の多くがそれにひっかかる。「難波津に咲くやこの花」などからしてそうだ。「春になって花が咲いた」というだけなのだから。やはり、何がいいたいのかわからない。俳句ならば文字数を惜しむということはあるだろうが、いや、俳句だからこそそういう発想が出てくるのであり、和歌の場合、そこに囚われずにもっとさまざまな技巧のこらし方があり得る。たとえばわざと文字数を浪費するとか、わざと無駄な言い回しを使うとか。長ければ長いだけ情報を詰め込むこともできればわざと冗長にすることもできる。子規が実朝の歌と言われる歌

もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

を、助詞や助動詞が少なく名詞が多く、動詞も現在形で短く、

かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。

などと言ってほめているが、これこそまさに俳句的発想であって、和歌というものは名詞が多ければ良いというものではない。子規はそのへんがまるで理解できてないのではないか。

敷島のやまとごころ、の謎

岩波古語辞典を見ると、「やまとだましひ」「やまとごころ」の意味として 「(漢詩文の能力に対する)実務処理能力」のことと書いてある。敢えて意訳するとそうなるわけだが、今で言えば、いわば、学校で習う語学や数学などの学問としての知的能力に対して、学校では教わらないが、世の中をわたっていくうえで必要な、人が人としてそなわっているべき基礎的能力のことを言うわけだ。学習で獲得するリテラシー能力に対して、リテラシー以前の能力と言うべきか。「腹芸」とか「胆力」とか「人の器」とか「対人交渉力」とか「地頭(じあたま)」などと言うようなものに近い。それを具体的に「実務処理能力」と言えばそうなる。儒教で「仁」とか「徳」というのがそれだろう。それがかつては舶来のもの(漢才)と日本古来のもの(倭心)という対比でとらえられていたところがややこしいが、近代でも和魂洋才などと言ったわけでそれと同じとも言える。宣長の

敷島の やまとごころを 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花

だが、宣長は近世において大和心を上記の意味で正確に理解した(というより発見した)最初の人だが、
この歌はそういう意味ではかなり謎だ。誤解に満ちている。なにしろ幕末の時代にすでに宣長のイメージはかなりゆがんでしまっている。

敷島の やまとごころを 人とはば 蒙古の使ひ 斬りし時宗

という替え歌まで出来ているくらいだから。戦後はなおさら戦時中のフィルターを通してしか宣長は見えない。そのフィルターを通すと、上の歌は「日本精神」とは「桜花」だとしか解釈できないが、そういう解釈は、宣長を知れば知るほど不可解だ。

ある人は、宣長は里桜よりも山桜が好きで、野性的で潔く清楚な桜が好きで、それが大和心に通じるのだと、解釈したがるだろうが、そういう人はイメージで、ステレオタイプで、自分を投影して宣長を解釈しているだけで、宣長って人は全然そんな人ではない。山桜の特徴は、山野に自生している野生種だということ。花の色はほとんど白く、花と芽が同時に出る。しかしそういう山桜の特徴が特に好きだと宣長が言っている歌はない。たぶん一つもないと思う。逆に葉桜が嫌いだとか花が散った後の葉だけになった桜が嫌いだとか、葉桜を見ると花の時期が待たれるとか、花が散って葉ばかりになるのが憎らしいとか、そんな歌ならいくらでもある。

散るべきときに清く散り御国に薫れ桜花

と歌う『戦陣訓』という軍歌があるが、宣長は散るべきときに清く散れなどとは一言も言ってない。まして特攻機に「桜花」などという名前をつけようという発想も絶対ない。

桜は咲いてすぐ散るので、武士道のように未練がなくて良いなどというのも、少なくとも宣長の趣味ではない。宣長は、一年中咲いている桜があれば常世の国にでも行って種を取ってきたい、などと言っている。

花咲きて 散らぬさくらの 種しあらば とこよの国も 行きてもとめむ

たづね見む 死なぬくすりの ありと聞く 島には散らぬ 花もあるやと

つまり、宣長にとって桜は咲いていることが一番重要であり、それが日本の山野に自生している必要など全くなく、外国産の種を栽培して育ててもよいとすら言っている。潔く散るすがたもあっぱれだなどと言ったことは無い。たぶん一度もない。

宣長は、桜は、日本にしか咲かないと思っている。それはある意味真実で、日本以外の野生種は日本の桜とはかなり異なっているし、さほど多くも見られず、さらに山桜と言っているものもおそらくは栽培によって人為的に繁殖しまた改良したものであり、さらには日本固有の野生種から派生した数多くの里桜があり、このような現象は決して日本以外ではあり得なかったのであり、また桜に対する熱狂も日本にしかない。宣長が桜を好むというのもおそらくはその辺りにあるのかと思う。宣長はつまり江戸時代の桜好みの日本人のやや人なみ外れた典型であり、宣長がいようがいまいが江戸時代までにすでに日本人は桜が大好きで、それは日本人が和歌などの公家文化を好んだこととだいたい同じようなことだっただろうと思う。

「敷島のやまとごころ」と言っているところがやはりヒントであり、これはつまり「やまとうたを詠む心」と解釈すべきで、宣長は桜とともに和歌が大好きで、従って敢えて意訳すれば「敷島の道の心を人に問われたら、私にとってそれはたとえば、朝日に匂う山桜花を詠むことだ、と答える」と解釈すべきではなかろうか。いや、すなおに解釈すればこうとしかとりようがない。これが自画像に対して自ら冠したタイトルだと考えれば、「「敷島のやまとごころ」を問われれば「朝日に匂ふ山桜花」だねと答える私」と解釈すべきで、するともっと具体的に「歌と桜を愛する私」と超訳してもよい。これこそまさに宣長という人を一言で言い表した言葉だと言える。宣長が大好きで、人にも繰り返し勧めた「桜の花」と「大和心」と「敷島の道」がこの歌には同時にこめられていると考えたい。あるいは、歌から離れたとしても、「日本人固有の心とは、桜をめでることだ」とでもなろうか。

そもそも、「大和心」が「桜花」だというような禅問答的な返答を宣長がするわけがない。宣長にとって「大和心」は儒学や仏教などと離れた日本固有のものの考え方とらえ方処し方のこと、「桜花」とは宣長にとってはこよなくいとしいもの、めでるものであり、ときとしては「心なく散る」ものであり、自分の意思ではどうにもできないものである。「桜花」に人間同様の「心」があるなどという思想が宣長から(或いは伝統的公家文化から、といっても良い)出てくるとはちと考えにくい。「心あらば」「心あれや」などとは言うかもしれんが。さらに「敷島の大和心」を「和歌を嗜む心」ととれば、もはや上記の解釈以外にはありえない。思うに「敷島」を単なる枕詞として使っていた古代はともかくとして、南北朝以後、江戸時代ともなると歌に詠み込まれた「敷島」はずばり「敷島の道」「歌道」を指していると言って良いと思う。そういう用例がほとんどだ。

そして傍証として、宣長には、圧倒的な数の桜の詠歌がある。あわせて「うひやまぶみ」を見よ。きっとそう確信できる。また、この歌は、宣長の自画像に付けた歌、しかも自画像にしか書かれなかった歌である。だから、「私という人間は」「あなたがどう思うか知らないが、私は・・・」という言外の意味があると思う。私はそういう趣味の人間なのですよ、と少しはにかみながら告白している歌なんだよ。ちょうど漫画に吹き出しを付けるようにね。

小林秀雄も宣長の自画像は自分を聖人化するための宗教画のような意味で描いたものでは決してないと言っている (後世の国学者や神道家ならともかく)。逆に、自分とはこういう人間なんですよと告白している気持ちで書いたものだと思う。宣長という人は、いろんな人が自分の思想を補強するのに使いたがる、そのため勝手に拡大解釈され、結局意味を欠落させた普遍化された聖人としての像だけが利用されるが、その実体は純朴で等身大の学者なのだ。

しづのをだまき

新古今恋五辺りを読んでいると、

忍びて語らひける女の親、聞きていさめ侍りければ 参議篁(小野篁)

数ならば かからましやは 世の中に いとかなしきは しづのをだまき

あるいは

藤原惟成

人ならば 思ふ心を いひてまし よしやさこそは しづのをだまき

などと出てくるので、ここでは「しづのをだまき」は単に「賤の男(しづのを)」として使われているように見える。身分が低いので相手の親に諫められたとか、告白できなかったとか。

伊勢物語32段

むかし、物いひける女に、年ごろありて、

いにしへの しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな

といへりけれど、何とも思はずやありけん。

ここでは「倭文の苧環」という意味で、「いにしへのしづのをだまき」までがひとつながりの意味になっていて、しづは唐衣に使われる漢綾に対する昔ながらの麻などで織られた大和綾というもの。なので「いにしへのしづ」となる。古くは濁らず「しつ」「しつおり」「しつり」などと言ったらしい。「をだまき」は「緒手巻」か「麻手巻」か。紡いだ麻の糸を巻いたもので、糸から綾を編むときに使う。
機織りの動作から「くりかへし」となった。ましかし、「いにしへのしづのを」というのがつまり「昔おまえとつきあってたこの身分の低い男がよぉ」というへりくだった意味も含むのだろう。となるとかなり滑稽な雰囲気の歌となる。

古今集雑題しらずよみひとしらずに

いにしへの しづのをだまき いやしきも よきもさかりは ありしものなり

という歌があり、おそらくはこれが「しづのをだまき」いちばん古い形で、 やはりこれも「賤の男」にかけた意味に使われている。「いやしき」も「よき」もという辺りがわかりやすい。

千載集、源師時

恋をのみ しつのをたまき くるしきは あはで年ふる 思ひなりけり

ここでは「恋をのみしつ」と「賤の男」と二つの意味に使われている。

新古今、式子内親王

それながら 昔にもあらぬ 秋風に いとどながめを しつのをだまき

ここでは「ながめをしつ」と「しづのをだまき」に「くりかへし」を連想させて、昔ながらのようでそうでもない秋風にいつまでも長々とながめをしてしまった、の意味か。女が詠んだ歌としては初出か?それに式子は決して賤しい身分ではない。ちょっと不思議だ。どうしても「しづのをだまき」を詠んでみたくなったのかな。ここから静御前の歌が生まれてきたか。

もっとあるがだいたいこのくらいで全パターン網羅か。

草庵集玉箒

宣長による頓阿の歌の解説。

山深く わくればいとど 風さえて いづくも花の 遅き春かな

歌の意は、まず奥山ほど寒さの強き故に、花の咲くこといよいよ遅きが実の理なり。しかるを作者の心は、その道理を知らぬものになりて、里にこそまだ咲かずとも、山の奥には早く咲きそめたる花もあらむかと思ひて、山深くたづねつつ、分け入れば入るほど余寒強く、いよいよ風さえて、まだ花の咲くべきけしきも見えぬ故に、さては里のみならず、山の奥までいづくもいづくも花の遅き春とかなと思へるなり。「春かな」ととどまりたるところ、花を待ちかねたる心深し。

丁寧な解釈。

一木まづ 咲きそめしより なべて世の 人の心ぞ 花になりゆく

一首の心は、かつかづただ一木まず咲きそむれば、いまだなべての桜の梢は花にならざるさきに、はや世の人の心がまず花になりゆくといふ趣旨なり。「心ぞ」の「ぞ」をよく見るべし。「心の花になる」とは、花のことのみを思ふなり。

宣長の桜の歌によく似ている。

おのづから 散るはいづれの こずゑとも 知られぬ宿の 花ざかりかな

まだどのこずえも自然と散るようすも見えない、満開の宿の花盛り、という意味。

つれもなく けふまで人の とはぬかな 年にまれなる 花のさかりを

宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて
山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め
今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば

宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。

黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき

死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。

死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ

「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。

聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人

聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。

聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人

孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教などで言われている聖人は嘘つきで良い人を悪く言う醜い人たちばかりだが、孔子だけは良いと言っている。