酔ひてかも寝む

実はこないだ久しぶりに中編くらいの小説を書いて新人賞に応募したのだが、これは落ちてもKDPで出す予定がない。新人賞が取れれば多少恥をかいてもよいが、そうでないのなら人目にさらしたくはない、そういうものだからだ。

私の場合あまりネタを使い回すことはなく、一つのネタを使うとネタが貯まるまで時間がかかる。通常複数のネタを組み合わせて一つの話を作る。まあ、二年くらいあければなんらかのネタはたまってくるから、今後も完全オリジナルな小説は書けなくもなさそうな気がする。しかし余り年を食うともう頭がぼけてくるから書かないほうが良いと思う。耄碌した老人を、たくさん見てきた。彼らも60歳くらいまでならまあ普通だが、それからだんだんあやしげになる。たぶん自分もそうなるだろうと思うから、早めに書いておかなきゃならんなと思う。

私の場合、積極的にネタを拾いに行くことはできるかもしれん。そう、根は非常に臆病者なので、天涯孤独ならできるかもしれんが、いろんなしがらみで動けない。あと病気持ちなんで怖い。旅行いくのも最近はおっくうになってしまった。もっと若いうちにいろいろ旅行しておけばよかった。熟年とか定年後によくみんな旅行にいこうと思うなって思う。

小説以外にもいろいろ書きたいものはあり、書き始めて、同時並行で下調べをしていて、
ものすごく大変だってことがわかって書けなくなる。いろんなものが途中で放ってある。
これがまあ、必ず売れるとわかっていればやるんだろうが、これまで売れたためしがない。

ツイッターは便利だが、危険でもある。ブログのほうが安全だなと思う。

なぞかかる 愚かなる世に生まれ来て 今日また酒に 酔ひてかも寝む

酔ってこういう感じの歌を詠んでそのまんまツイッターに書いて、翌朝忘れた頃にまた見て、びっくりするということがあった。そういう危険な歌の詠み方をしてはいかんなと思う。いったん紙とペンでメモるべきだ。

私はもともと理系だから理系の空気というものを身にまとっている。文系の人は文系の空気を、芸術系の人は芸術系の空気をまとっている。同族であるかどうかはその空気でわかる。理系の人間が文芸出版の世界へ入っていくのはその空気を身にまとっていないのでかなり難しいと思う。その、私から見ればなれ合いというか既得権益のようにしか思えないその空気をかき乱してやりたい気になる。そしてますます入り込めずにいる。だがまあ、文系の人間が文系の文芸を書くのは当たり前のことであり、そこで世界が閉じていて面白いわけがない。その世界の高度な専門性をもっていて敬服する人もいるのだが、単に閉じこもっているだけとしか思えない人もいる。

或老人之歎歌一首並反歌四首

我が書きし ふみのかずかず 我が詠みし 歌のかずかず うつせみの うつし人にて あらむ間に 残しおかむとたくめども ときのまにまに いそとせは むなしくすぎて 身とともに 心も老いて あたらしき 思ひも出で来ず めづらしき ものも見出でず 名をのこす 人はさはにあれ かなしくも 我はさにあらで なにはえの うもれぎとなり 後の世の 人にわすられ いまさらに 何をか残さむ ことさらに 何をかうたはむ このうつし世に

反歌

うつし世に 見るべきものは すべて見つ 詠むべき歌も 詠みや果てつる

うつし世の 人はたのまじ ただ神と のちの人にぞ 歌は詠むべき

あきらけく をさまりし世の おほ君に 学びしならひ 忘るべしやは

しぬまでの よはひにかへて のこさまし わがかきしふみ わがよみしうた

近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき / 悠悠として官路の浮沈に仕ふ / 此の身に更に苦有りて辛在らんと / 飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し / 自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり / なほ一般の優劣の処あり / 鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士 / 一志を手に伝へ洛陽に入る / 昼夜の兵談何事かなさん / 攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと / 今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと / 回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん / 来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。かるがるしく和親を結ぶな。「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり / 之を取りて失無ければ果して英雄 / 英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも / 赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。すべての行いは、孝と忠に依る。これらを守って過失がない者が英雄である。たとえ私は英雄ではないとしても、真心をもって外敵を払いたい。「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん / 喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん / 果して英雄の心上の事を識らば / 英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる / 顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る / 一片の丹衷よく節に殉ず / 雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。雎陽は文天祥の「正気歌」による。安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん / 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 / 快く受けん電光三尺の剣 / 只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、頼山陽が見たらきっと感心しただろう。幕末明治の詩人の中でも一流。昭和の中島敦などは遠く及ばず、永井荷風もかなわないのではないか。

詠歌一体2

詠歌一体の前半部分は単に題詠の作法のようなことをうだうだ述べているだけである。藤原清輔が「和歌一字抄」という、一字題の詠み方について書いているのに対して、「池水半氷」のような長い具体的な題をどう詠むか。題のすべてを詠み込むのでなく全部あるいは一部を連想させるようにするとか。初句や上三句にすべての題を詠み込むのは良くないとか。そんな技巧上の話をしていて、為家の趣味や嗜好とは直接関係ないように思えるが、

からにしき 秋のかたみを たちかへて 春はかすみの ころもでのもり

これは「すべて歌がらもこひねがはず、衣手の森をしいださんと作りたる歌なり」と手厳しい。誰の歌かと調べてみると、明日香井雅経。父定家の親友である(雅経は一時鎌倉に住んだので、源頼家、実朝とも親しい。実朝と定家に交流があるのも雅経のおかげである)。定家と雅経は歌風も近い。どちらかと言えばなんかもやっとした、作った歌を詠む人である。これはやはり遠回しに定家を批判していると言えないだろうか。これに対して次の二首

春がすみ かすみていにし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に

これは古今集に出る詠み人知らず。

ほととぎす 鳴く五月雨に 植ゑし田を 雁がね寒み 秋ぞ暮れぬる

こちらは新古今に載る善滋為政の歌。これら二つは雅経の歌と同様に春と秋を一つの歌に詠み込んでいるが、雅経の歌ほどはわざとらしくないから良い、などと言っている。まあそう言われればそうかもしれない。

善滋為政はよくわからん人だが、幸田露伴連環記によれば、善滋は「かも」と訓み、文章博士・陰陽師の賀茂氏で、父賀茂忠行はおよそ醍醐・村上天皇の頃の人、兄慶滋保胤はこれも名字は「かも」と訓むらしく、道長の頃の人。為政の歌は拾遺集に初出だから、やはり道長よりかすこし前の人ではなかろうか。このあたりの時代背景を調べ出すと切りがないな。

中宮の内におはしましける時、月のあかき夜うたよみ侍りける 善滋為政

九重の 内だにあかき 月影に あれたるやどを 思ひこそやれ

宮中ですらこんなに月が明るい夜は、粗末な我が家などはさらに明かりが漏って明るいですよ、というかなりふざけた歌。

「泉」という題で「木の下水」、鹿を「すがる」、草を「さいたつま」、萩を「鹿鳴草」、蛍を「夏虫」などとわざと変名で詠むのは良くないと。なるほどまったくそのとおり。

名所の地名を詠み込むときには必ず有名な地名にしなさい、ただし、旅で実景を詠む場合にはそれほどこだわる必要は無い。これも素直に同意できる。

百首など定数の歌合で最初のとっかかりとなる歌を「地歌」というらしい。歌合の歌はその場の即興で詠むべきものであり、たとえ秀歌であってもあらかじめ用意しておいてはいけない(どうしても場の雰囲気とは違う内容になってしまうからだろう)が、地歌だけはその性格上、先に詠んでおかなくてはならない。後拾遺の能因の歌

ほととぎす 来鳴かぬよひの しるからば 寝る夜も一夜 あらましものを

このようなものが地歌だという。確かに歌合の即興というよりは巧んだ歌な感じだ。

やはり為家はわざとらしく作った歌が嫌いである。雅経や定家の歌風を嫌っていたはずである。そして小倉百人一首は定家の原型を為家が完成させたというのもなんか違う気がしてきた。小倉百人一首はあきらかに為家の趣味ではない(かといって定家の趣味でもない)。

為家が選んだ「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の傾向を見ればもっとはっきりしてくるはずだ。それでなんとなくだが、小倉百人一首は定家・為家の二代で完成したのではなく、もう少し後の世に、つまり為氏・為世の時代に、なんとなくもやっと成立したのではないかと言う気がする。

新井白石日記

新井白石の日記を、全集ではなく、白石日記上下巻というもので読んだのだが、あっけないほど短い。折り焚く柴の記の半分もないように思う。

芝の白銀、つまり今の港区白金のことだと思うが、ここに綱豊から屋敷を拝領したという記述がある。非常に興味深いが、今までそんな記述は見たことない。綱豊というのだから、まだ甲府藩邸勤務の頃だ。下屋敷か何かだろうか。それとも本宅か。しかし、当時の白金はずいぶん田舎なはず。

改行が多く、難解ではないが、なんというかだらだらしてておもしろみはない。一度じっくり読んでみる必要はあると思うが。読み物として見れば断然折り焚くの方がおもしろい。

ふと見ると、夢で見たという「倭句」なるものが二箇所ほどみつかる。

寛永二年五月十四日
笛吹く宿へほにはろいいろは哉

正徳二年二月三日
春くれば垣ほの梅のほころびて
我が前に立つ人ぞ嬉しき
慰めに天といふ人まれなるべし
道にして心を道に任すれば
すでに天知る心なりけり
必ず後に至らざりけり
花橘の香には匂へる
ただただ道に任すべきなり

これは、何のつもりなのだろうか。神のお告げのたぐいか。和歌はある程度わかるようではあるが、和歌を嗜むとか訓練を積んだというようにはみえない。和歌のように見える箇所もあるが、単語や内容も陳腐だし、素人同然と言ってよいと思う。

中世歌論集

最近、岩波文庫「中世歌論集」というのが復刻されたので、新宿アルコットのジュンク堂が閉店するとき買ったのだが、最初に出てくる俊成の古来風体抄、長くて何言ってるのかわかんない。定家の毎月抄、これは短いのだが、やはり何言ってるのかよくわかんない。頭にすっと入っていかない。後鳥羽院御口伝、すげえわかりやすい。なんでみんな後鳥羽院みたいに言いたいことをすかっと言わないのかな。

為兼和歌抄。期待に胸ときめかせて読んでみたが、うーん、さっぱりわかんない。やまと歌も漢詩も同じだとか、理屈は仏法と共通だとか、なんか観念的なことばかり書いてあって、で結局何が言いたいのかよくわからんのだ。天照大神、八幡、賀茂、本地垂迹、仏、菩薩、権現、仁徳、聖武、聖徳太子、みなよろしなどと書いてある。で、最初に挙げられている例がよりによって釈教歌。もちろん、釈教歌がすばらしいと言ってるのではない。和歌も漢詩も仏教もその本質はみな同じだと言いたいのだ。治世にも道徳にも幸福にも役立つなどという。要するに万病に効く御利益のある薬か、八百万の神々みなよろしという論法。なんという大風呂敷。なんといういんちき(笑)。同じことは俊成も言っているから、こういう論法が当時の流行だったのだろう。

で、同語反復、或いは「先達のよまぬ詞」を詠む例として俊成、定家、西行、慈鎮などをあげ、俊成の

見てもまた思へば夢ぞあはれなる憂き世ばかりの迷ひと思へば

今日くれぬ夏の暦を巻き返しなほ春ぞとも思ひなさばや

を挙げている。一つ目の例は「思へば」を二度使っていて、二つ目は「暦」が先達よまぬ詞なのだろう。それはそうと正しくは「今日暮れぬる」ではなかろうか。終止形で一旦切れてるともよめるが。
ああそうか、暮れたのは春なんだ。だから終止形で切れてて良いわけだが。

家隆

あふとみてことぞともなくあけぬなりはかなの夢のわすれがたみや

これも「なし」が同語反復となっているが新古今に採られた、と言っている。他にもいろいろ書いているのだが、よくわからん。最後に

浅香山かげさへみゆる山の井のあさくは人をおもふものかは(あさき心をわれ思はなくに)

の「さへ」が余計だという人がいるが、いややはり必要だ、などと書いているのだが、やはり理屈がよくわからない。作者とされる采女は人妻だから人前に出るのがはばかれてうんぬん。なんじゃそりゃ。

それはそうとこの歌、浅香山の姿さえ映るほど浅い井戸と解釈する人もいるんだな。それから、姿が映ってみえるくらいにきれいな山の井と解釈する人もいる。

思うに明治神宮に清正井というのがあるが、あれは井戸というよりはわき水だ。わき水だから水面はごく浅い。浅くて水があとからあとから湧き出している。だから水は清い。「ゐ」というのは、もともと水くみ場という程度の意味であり、泉にも掘った井戸にも使われていたようだ。いずれにせよ、浅い井戸だから水鏡としても使われているのであろうし、そんな浅い井戸のような浅い心で思っているのではない、浅香山は単なる「アサ」のリフレインと山の井の山のイメージ、と解釈すれば良いだけだと思うのだが、どうも歌論というのは、そういう「ひさかたの」とか「あしびきの」とか「かげさへみゆる」だとか、そういうどうでも良い語句の解釈にああだこうだとこだわるところがある。

岩波古語辞典によれば「あしひきの」とは「足がひきつる」とか「足がなえる」というような意味ではないかという。もしかすると「びっこ」も同語源かもしれんな。「びっこをひく」とも言うし。山を上り下りすると足が疲れるからね。

桂園遺文

景樹の「桂園遺文」に、

文句は古今に従ひ、都鄙によりてかはりゆくものなれば、たのみがたきものなり。この調べのみは古今を貫徹するの具にて、いささかもたがはざるなり。ひとり大和言葉のみならず、からもえぞも変はらぬものなり。

などと言っている。ここで古今と言っているのは古今集のことではない。語彙や言葉遣いは時代や場所で変わってしまうので、頼りないものだが、調べ(リズム)というものは、
時代や地域の違いはなく、言語の違いすらない、などと言っている。

思うに、景樹の歌論にはかなり無理がある。景樹の歌が当時の京都の人々の話し言葉で詠まれているとは誰も思ってないだろう。景樹は確かに俗語や口語を和歌に取り入れてみたが、100%俗語口語で歌を詠んだのではない。今日の、現代短歌のような意味での口語の和歌ではないのは明らかだ。また、誠実に歌を詠めば自然と良い調べの歌になる、というのも単なる精神論にしか思えない。結局何を言いたいのかがわからない。景樹は、歌人としての天性の才があったのは間違いないが、いろんな人の影響を受け、またいろんな人の批判も受け、そのため歌論のようなものを主張しては見たが、そもそもあまりロジカルな考え方をする人ではない、というのがまあ、だいたいの結論と言ってよかろう。

その時代にしか通じない言語で歌を詠んでしまうと、その歌はたちまちに陳腐化する。わずか50年後に見ても何か違和感を感じるだろう。明治期の万葉調の和歌や、戦後の左翼歌人らの和歌、俵万智の模倣者らの歌などがまさにそうだ。ところで景樹の歌などは今から200年ほど前の歌なわけだが、それなりに今でも鑑賞できるし、古今集なども多少古典文法を学んでおけば何の説明もなしにわかる平易なものが少なくない。それは、古典文法や文語文法というものがそのような時代を超えて生き続ける生命力を持っているからであり、だからこそ和歌を文語文法に則って詠む必要があるのだと思う。

忘れ草

八千草の いづれがそれか 忘れ草 名にのみ聞きて 我れ知らなくに

野辺に出でて 我れも摘みてむ 忘れ草 よもまがはじよ 忍ぶ草とは

忘れ草 忘れな草と とりよろふ 野の八千草に まどひぬるかな

忘れ草 同じ忘るる ものならば 酒飲むことも なほ忘れなむ

牛ならば ひねもす野辺に たむろして 草をはみつつ もの忘れせむ

なかなかに 忘れがたくば 野の牛に なりてひねもす 草もはままし

忘れ草 生ふる尾上に 住む鹿は 妻を忘れて うれひなからむ

うーんと。 ワスレグサは初夏に、ワスレナグサは春に咲くもののようだ。 忍ぶ草とは、吊りしのぶのようなシダのことだろう。季語は秋だが、 初夏に萌え出でる。

二条為世の歌

たくさんあるのでとりあえず新千載集から為世の歌。

明けやすき空に残りて夏の夜は入ること知らぬ月のかげかな

夏は月が入るより先に夜が明けてしまう。

あくがるるものと知りてや秋の夜の月は心をまづさそふらむ

恨み侘び夕べは野辺にこゑたてて来ぬつまこひに鹿ぞ鳴くなる

音たててこずゑを払ふ山風もけさよりはげし冬や来ぬらむ

ひさかたの空に積もると見えゆるかなこ高き峰の松の白雪

白波も寄せつるかたにかへるなり人をなにはのあしと思ふな

白波でも心を寄せる方に帰るのだから人を悪く思うな、と。まあ縁語などがそこそこ面白い。

言ひ初めて心変はらばなかなかに契らぬ先ぞこひしかるへき

したもえの我が身よりこそ立てずとも富士のけぶりのたく人は知れ

うーむ。

うつつにはまた越えも見ず思ひ寝の夢路ばかりの逢坂の関

おのづからいつはりならで来るものと思ひ定むる夕暮れもがな

うーむ。

同じ江の葦分けを舟押し返しさのみはいかが憂きにこがれむ

長き夜もひとり起きゐてまどろまぬ老いの友とは月を見るかな

いく夜かは見果てぬ夢のさめぬらむ松の戸叩く峰の嵐に

月かげの夜さすほかはみなと江に行くかたもなきあまの捨て舟

さかのやま照る日のかげの暮れしより同じ心の山に迷ひき

確かに平坦、確かに平凡。幽玄とか有情とか言えばそうかも。題詠なんだろう。これが二条派なんだな。なんか、ドリルを解いてるみたいだよな。頓阿、契沖、宣長に通じる。

定家の前衛的なところとか西行や和泉式部の情熱的なところとかは京極為兼に行き、定家や西行の無情感とかわびさびは二条為世に受け継がれた。こってりと情緒的な京極派は仏教、とくに禅宗が流行った中世の雰囲気には合わずに衰退した。文芸の担い手に僧侶が多かったことも、京極派には災いしただろう。そういう芸術家肌のこってり情緒的な公家文化を担っていけるような余力のある公家というものも、もはや存在しなかった。武士にも愛好されることがなかった。狩野派の絵や茶道のように家元の言う通りに作法を学べば万人にも嗜むことができる、それが二条派。陶芸や書道のように希少性(カリスマ性や芸術性)を要求されるのが京極派。前者をデザインと言えば後者はアートだ。あるいは、前衛的実験的なデザインがアートであり、逆に定型化し普遍化したアートがデザインといえようか。そんなところだろうか。