Reservoir Dogs

レザボアドッグスだが、話自体は単なるチンピラ映画ではあるのだけど、何度かじっくり見てみるとやはり、タランティーノの処女作だけあって価値の高い作品だ。

タランティーノ自身が演じるブラウンだが、一番みっともないダサい役だけども、役者というものはこういう役は敢えてやりたがらないだろうか、それを監督が自分で演じた、と言えなくもない。パルプフィクションでも同じなのだろう。

ブラウンを殺したのは潜入捜査官のオレンジだった。映像として見せてはいないが他には考えられない。

オレンジはまた、たまたま巻き込まれた民間人を殺してしまった。これもくどくど説明されていないが、反射的に殺してしまったのだろう。

ブラウンはさらにブルーも殺したとされているのだが、これはそもそもまったく映画の中で描かれてない。最終的にざっくり省略したのだろう。そもそもこの作品は強盗がダイヤモンドの卸を襲撃して奪うという筋書きであるのにその強盗シーンはさくっとカットしてあり、時系列もパルプフィクションと同じくわざとバラバラにしてあり、見せるところ、撮るところを大胆に取捨選択して順番を入れ替えている。ぼーっと見ているとかなりわかりにくいところもある。映画館で一度見ただけではわかるまい。映画館で見るなら何度か繰り返し見る必要がある。DVDならスロー再生したり、コマ送りしたりしないとわからないシーンも多い。そういう意味では『カメラを止めるな』に近い。

ブロンド役はキル・ビルに出てきた、ビルの弟役。

ピンクは最後まで生き残り、ダイヤモンドを持ち逃げすることに成功した、という解釈なのか。それとも外で張り込みしていた警察に結局は捕まったのだろうか。いろいろと裏設定はあるらしいが、すべてが説明されているわけではない。

ゲイとか黒人とか、今のポリコレ時代にはもう二度と作れないようなゲスい映画ではあった。

リアリズムとファンタジー

vivantについて、続きなのだが、そういえば私も特務内親王遼子とか潜入捜査官マリナとか、特殊な任務についた軍人や警官の話を書いたりもしたのだが、普通に考えて、そういう特務機関の存在を完全に隠蔽するのは不可能であろうと思う。特務内親王遼子では

「我が軍には、特務、などという機関も職種もないはず。それに軍命であれば、なおのこと、上官の命令によらなくては、私はあなたにお手伝いのしようがありません。」

「そんなことは、上等兵のおまえに言われなくてもわかっている。特務は特務だ。軍隊とは直接関係ないから、おまえが知らなくて当然だ。おまえの上官は誰だ。」

などという会話をさせたりしている。そういう特務機関が現代の日本に存在するという設定自体がこのvivant というドラマをファンタジーにしてしまっている。まあ、ファンタジーで良いんだというのであればそれはそれで良いのだけど。また、いくら射撃の腕前が天才でも、心臓の付近を撃って急所を外すというような撃ち方ができるはずがない。できたとしたら魔法だ。拳銃などというものはそんなに正確に狙えるものではない。

リアリズムとファンタジーは混在できない。リアリズムにファンタジーを混ぜようとすると結局すべてが夢の国の魔法の話になってしまう。それがvivantの最大の弱点であって、とりあえずシーズン1はそれでなんとか完結させたとしてもシーズン2以降の続編を作ろうとするとますますその設定が足枷となり、ちぐはぐなものになっていくような気がする。

homelandで登場人物はみな優秀だが欠点も持ち失敗もする。それが現実でありリアリズムである。ゴルゴ13は常に単独行動し狙撃を必ず成功させるがそれはゴルゴ13が漫画でありファンタジーであり、劇画でありギャグ漫画であるから許されるのであって、vivantで実はこれはファンタジーなんですと言われたらしらけるだろう。

vivant

最近ホッカイロレンという youtubeチャンネルをよくみるのだが、そこで viviant が紹介されてて、 netflix にも公開されているから、では見てみるかと見てみると面白くて一気見して2度目も見始めている。ドラマにしろ映画にしろあまり私はこういうことはしないので、よほど面白かったのは確かだ。

主人公が半沢直樹にしか見えないのは新鮮さを欠くと言って良いと思う。ちなみに半沢直樹は見てないのだが、印象が強すぎる。じゃあ他に誰を主人公にすれば良いのかと言われても私にはわからんが。たぶん半沢直樹の続編、和製ciaドラマを作ろうというのがおおもとの企画だったのだろう。俳優はみなだいたいはまってる。脇役がよく固めているのだが、二宮和也だけが浮いてる。演技はともかくとして、せめて顔をこんがり日焼け色にして髪の毛をぼさぼさにしてモンゴル人っぽくしてくれればだいぶなじんだと思うのだが、なんだろうこれは。これがいわゆる事務所の都合というやつなのだろうか。役所広司は必ずしもこの人でなくても良かったとは思うがこれも良い演技だった。阿部寛はなかなか良かった。

ciaドラマはよく研究されていると思う。本場アメリカのciaドラマにもアメリカ人固有の偽善というものがあり、それを克服しようとかなり努力した「ホームランド」ですらまだまだその「臭み」は残っている(視聴者がアメリカ人なのだから仕方ないのだが)。日本人にとっては当たり前の、フーテンの寅さん的人情話、浪花節というものが根底にあり、その上にciaものが乗っかっているので、だんだんとじわじわとものすごい違和感がわきおこってくる。「正義感」というベクトルが日本とアメリカでは似ているようで全然違ってて、警察もの、ciaものになるとその違いがよけい目立ってなんか気持ち悪くなってくる。

でも最後までなんとかそれをねじ伏せてまとめあげているから、これはこれで一つの前例として、よくできていると思う(つまり歴史的価値があると思う)。単なる妥協の産物に終わってない、よくできた作品だ。見終わった後にも、ではあそこはこうしたほうが良かったのではないか、というような瑕疵も出て来ない。ああするしかなかったんだろうなあとは思う。

日本でciaものを作るには、陸軍中野学校から三島由紀夫の盾の会みたいなものがどうしても絡んでくるのだろう。その絡ませ方が少し過剰な感じもしたがネトウヨにも多少サービスしたせいかもしれない。この程度であれば特に問題無いか。ただこの三島由紀夫的な方向へ続編をどんどん暴走させるということも可能であって、そうすると評価は分かれてくるんだろうなあ。

アクションものとしては派手さが足りないとか、韓国ドラマやアメリカドラマと比べてつかみが弱いとか映像的魅力が無い、エフェクトに迫力が無いなどという人もいるようだが、別にそんなくどい演出はしなくてよいのではないか。そういうポスプロ的な演出は本来おまけであって、それがシナリオより前に出てくるのは嫌味だ。映像作品なんだから絵で見せるというやり方もあるかもしれないが、どちらかと言えばこの作品の売りはストーリー展開なのだから、このくらい地味でも良いっちゃ良い。きちんと脚本が練れていれば派手なアクションシーンなんてなくて良い。

こういうciaもの特有の間の持たせ方とか焦らせ方とか伏線の張り方とかあるいは見る人間の予想をわざとはぐらかすやり方など、すべてはやり尽くされている手法ではあるので、私は用心しながら見ていったけれども、どれも丁寧に作られていて、飽きさせないのは良かった。

結局浪花節的なきれい事に終わっているのだがテロとか戦争というものはそんなきれい事じゃ済まないだろとも思うし、日本人に見せるだけならこれで良いかもしれんが netflix などで配信して海外からの収入も当てにするとなるとこれでは日本人の自己満足と言われても仕方ないのかもしれない。しかしアメリカのドラマだってディズニーアニメだってアメリカ人の自己満足には違いないのだから、これはこれでもう開き直るしかないのかもしれない。いろんなことを覚悟の上できれい事で逃げ切ったとも見える。

モンゴル、ロシア、中国(ウィグル)、カザフの国境が集まる地帯にバルカ共和国という架空の国のもうけるという設定も面白いし、そういう国に日本人の諜報部員が送り込まれたら当然そういうことも起きるだろうなという自然な設定になっている。ただ、ラスボスが自分の父親だったというのはスターウォーズを思わせるし、諜報部員が送り込まれて現地のテロリストの親玉になるというのは地獄の黙示録だし、大使館に逃げ込んで綱引き状態になるというのもどこかで見たような気もするし、いろいろと既視感のあるシーンも多いがどれも良く調べてうまく活かしたオマージュと言って良いかもしれない。逆に初めて見る演出やシーン、設定も多くて、どうやってこんなネタ仕込んだのかなとちょっと感心もした。

あと、ホッカイロレンに関して言うと、スターウォーズではマンダロリアンが一番(?)面白いとか言ってて共感したがしかし私はそもそもそれほどスターウォーズのコアなファンではないし、私は少年ジャンプとか特にワンピースみたいなのがまったく面白いと思わないので、感性とか好みにはかなり差はあるだろうなとは思った。ひろゆきと岡田斗司夫がスターウォーズネタで口論する動画など、面白いっちゃ面白いんだが、そこまで細かいことに別にこだわりはないしなーとも思った。

岡本綺堂、野村胡堂、池波正太郎

グランド・ブダペスト・ホテルという映画に冒頭、この物語を創作したとされる作家が、「よく誤解されがちだ。「作家は常に想像力を働かせ、絶えずさまざまなエピソードを発明している。何も無い所から物語を夢想している」と。ところが事実はその逆だ。作家と見るや人々はネタを持ちかけてくる。」などと語るシーンがあって、実際そうなのだろう。いったん売れっ子作家になってしまえば編集者が次から次にネタを持ち込んでくるだろうし、ファンたちも、場合によっては何の見返りも求めずに自分のネタを作品にしてほしいと提案してくるかもしれない。さらにはそのネタはもともと私が先に考えたものだと訴えてくる人もいるかもしれない。

野村胡堂の池田大作や銭形平次はかなり読んだ(というより朗読を聞いた)ので、だんだんパターンはわかってきた。これらにはたまに長編もあるがだいたいは短編もしくは短編と中編の中間くらいの長さで、岡本綺堂や池波正太郎らと比べても一番わかりやすい(朗読で聞いているだけでも読める。逆に岡本綺堂や池波正太郎を朗読だけで読むのは難しいかもしれない)。だいたい、一番犯人らしい人物がそうではなく、一番犯人らしくない人が犯人であった、というこしらえになっていることが多い。そういう、読者の推理を誤らせるような仕掛けが随所に仕掛けてあるから、読み慣れてくるとそういう手口には引っかからないぞとこちらも身構えるようになる。

岡本綺堂は江戸時代の人にしか知り得ないような、後の時代には創作もできないようなエピソードを拾ってくるのでそこが面白いのだが、純粋に推理小説として読みたい人にはそこが逆に邪魔かもしれない。非常に懐古的で、耽美的なところがある。池波正太郎となるとかなり現代小説に近づいていて、また、推理とか江戸情緒というよりは、かなりチャンバラ、つまりテレビドラマの時代劇にもともと近い内容になっている。鬼平などは中編から長編で長いものが多い。野村胡堂の作品がおやつのようにさらっと読めて楽しめるものだとすれば鬼平はこってりしたフルコースのようなものだ。

岡本綺堂、野村胡堂、池波正太郎。この三者を比較考察している人、いそうでなかなかいない。ちゃんと読むのは大変だし、たいていの人はテレビドラマで見知っているだけなのだろう。

ホームランドを結局全部そろえようと思っているのだが、なかなか手強い。3時間くらいのblu-rayが3枚組みで4巻くらいあるから、全部で40時間くらいはあるんだろう。久しぶりにきちんと最初から見ると以前よりずっとわかり良いのはやはり最初からブロディ軍曹がテロリストだってことをわかった上で見ているからだ。ブロディが死ぬまでが本編で後は惰性みたいなもんだろうから、最初のあたりはともかくきちんと見ることにする。

シックスセンス

シックスセンスも見たんで感想を書いておくが、なるほど着想、特にオチは面白く、見終わるまでは良い映画だなあと思いながら見ていられるんだが、終わったあと思い返すとシナリオ的にはかなり不味くて不自然なことが多い。なんとなく煽られて踊らされてだまされた感がある。

幽霊が、自分が死んだということに気付いていない、まだ自分が生きていると信じ込んでいる、という前提がそもそも怪しい。で、幽霊なんだからどんな設定でもありだろ、で話は終わってしまう。

そこいくとたとえばシャッターアイランドの場合には怪奇現象でもホラーでもなんでもないので、患者本人が狂っているのか、狂っていると思われされているのか、解釈しようによってはどっちとも考えられるってあたりが面白い。これがホラーならどっちでも良いじゃんで終わってしまう話だ。どこまでもサスペンス、ミステリーとして作られているから良い。

でも世の中にはミステリーでもホラーでもどっちでも良い、面白けりゃそれで良いという人も多いのかもしれんね。

Red Sun

久しぶりに Red Sun を見たのだが、見ている間はなんとなくごまかされるのだが、やはり見終わって、ストーリー展開の強引さが気になる。いくら武士とはいえ、坂口備前守にしろ黒田にしろあそこまで頑迷な設定はおかしい。コマンチ族も銃は持っていたはずだし、自分が焼け死ぬかもしれないのに草原に火を付けるのはちと考えにくい。いろいろと不自然だし、雑だ。

坂口備前守の命令は無茶過ぎるし、修好条約締結のためにはなんら必要無い。黒田は仇討ちはしたということにして刀を持ち帰ればそれでよかったはずだ。

映画は人をだますのに便利なメディアだが見た後で、やっぱりあの話のもって行き方は変だなと感じさせてしまうのは、やはり駄作ということだろう。

野性の呼び声

2020年公開の「野性の呼び声」という映画を見た。ハリソンフォード主演でなければ見ることはなかっただろう。ある意味この映画がそこそこ良い出来だったので、インディージョーンズ新作の話が出たのだろう。
原作の小説があり、すでに5回も映画化されており(1908, 1935, 1972, 1997, 2009)、よほどアメリカ人受けするネタなのだろう。
犬のCGが非常に稚拙だが、最後まで一気に見たので、私としてもまあまあ楽しめたということになる。

センター・オブ・ジ・アース 2

『センター・オブ・ジ・アース 2』という映画があってこれは『センター・オブ・ジ・アース 』の続編なのだが、全然地底探検になってないのにこの日本語タイトルにした人はどういうセンスなんだろうねしかし。 『サスペリア』と『サスペリア2』の前例もあるしもうどうでもいいんだろうねマーケティング的には。

『センター・オブ・ジ・アース 』は原題が『Journey to the Center of the Earth』で、原作はジュール・ヴェルヌの『地底旅行(Voyage au centre de la terre)』だから、これはいいんですよ。『センター・オブ・ジ・アース 2』の原題は『Journey 2』。まあこれじゃ邦題考えるの大変だったかもしれんね。

で、雰囲気は完全に『ジュマンジ』(新しい方の)なんだけどさ。まあいいんですよ。さらっと最後まで見れたので、嫌いじゃないです。 ヒロインはほとんどララ・クロフトだった。 プロットはほとんど『天空の城ラピュタ』だった。というかオマージュのつもりなのか? 何にも考えずに飯食いながら見るには良い作品で、『ターミネーター』みたいに途中胃が痛くなるような展開もなくて、淡々と楽しく見させてもらえる作品だと思った。 日本でいうところの劇場版ドラえもんみたいなものか。

ツイッター見ているといつも「何言ってんだこいつ」ってリプライかリツイートしたくなって、精神衛生に悪いので、見ないで、あるいはそこはいったんためといて、ブログなぞにグダグダ書くのが良かろうと思う。 学者が馬鹿だというのは自明の理であって、 社会に適合して器用に生きることを諦めて、その代わり、学術的に何か生産的なことをやって、 世の中の片隅に住まわせてもらおう、そういうやつだけが、学者として良い仕事をする。 社会に出ればたちまち無用の長物になってしまう。いや、社会で役に立とうとすれば立たなくもないかもしれないが、そういう宮仕えは死ぬほどいやだ、 だから学術界に引き籠もっているのだ。

いやしかし馬鹿で社会不適合でしかも学才もなく貪欲でしかも世の中に害悪を垂れ流す連中がたくさん淘汰されずにいるのも事実であるが、それは淘汰の仕組みがうまく働いていないのが悪い。で、淘汰がうまく働くようにしようとすればするほどその仕組みは改悪されていくので、手をつけないほうがまだましだ、というただそれだの理由でなかば放置されている。だから、ああいう盲腸みたいなものが出てくるのはある意味仕方ない。 膨大な無駄遣いをしてるのもある程度まではその性格上しかたないと思う。 自然淘汰は無駄を省くこともあるけれど、必要がなければそのまんま放置することも多い。それだけのことだ。

盲腸も別に炎症を起こさないのであれば大した実害はない。わざわざ開腹手術をして摘出するほうが体に害になる。 だから、ほっとけばよいのだが、これが腐敗して、化膿して、体中に毒素をまき散らす状態になったら、そりゃ手術したほうがよい、ということになる。

隠し砦の三悪人

ルーカスがエピソード4を作る前に見ていたという『隠し砦の三悪人』を見てみた。 確かに似ていると言えば似ている。

のっぽとちびはC-3POとR2-D2で、三船敏郎(真壁六郎太)はオビワン・ケノービで、雪姫はレイア姫。 ダースベーダーは山名家の侍大将・田所兵衛。 最後の大団円も似てなくもない。

ただこの『隠し砦の三悪人』が黒沢作品の中でもあまり知られてないことからもわかるが、今見てそれほど面白いものではない。 スターウォーズとの関連を見ながら見ればなんとか楽しめるかなってとこか。

Homeland + Tom Crancy’s Jack Ryan Amazon Prime Video

プライムビデオのジャックライアンを見たのでホームランドも見始めたのだが、 ジャックライアンのキャラクター設定にけっこうゆらぎがあって誰が善人で誰が悪人かってのがかなりぼかされていて、 たとえばスターウォーズなんかのキャラクター設定と比べると曖昧な感じがする。 スターウォーズだと善人がいて悪人がいて、元善人が悪人になり、改心して善人に戻るとか。 暗黒面なんてものがあるわけだから、どうしてもそういう勧善懲悪的なものになるわね。

それがジャックライアンには希薄で、ホームランドだともっとそうで、主人公も性格的に破綻してて、脇役もみんなどこか壊れてて、 そういうものが、ドラマのシリーズものだからよけいに、だらだらと演じられていくのだが、それでも見続けられるのはどこか面白いところがあるからだろう。 たぶんホームランドはフィクションの形をかりたドキュメンタリーみたいなもので、 CIAの仕事というのも、誰の判断が正しく誰が間違っているかわからない状況で試行錯誤の連続なのだろうし、 それを正義と悪、国家とテロリストという対立軸でドラマに仕立てるのは明らかに嘘なわけだ。 私たちはついこういうものを謎解き物として見てしまうのだが、謎解きや正解などはないのだ。 判断は当たることもあれば外れることもあるし、外れたからといって見る側が作者の意図に負けたということにもならないし、 まして見抜いたからと言って勝ったことにもならない。 だれかが作ったストーリーであることを拒絶しようとしているようにもみえる。現実とはまさにそうしたものだ。 テロリストとの戦いというものの実態、退役軍人の実態、そうした生のものを描こうとしてて、それがストーリーとかキャラクターの魅力以前の、 人気の秘密だろうと思う。

ジャックライアンは同じくCIA分析官とその上司というのがメインキャラで、明らかにホームランドを下敷きにしているけれども、 プライムビデオの新規顧客を獲得しようという意図がもっと前面に出ている。 ホームランドはどちらかといえばドラマとして当てようという考えよりも、作りたいものを作ろうとしたというのが先ではなかろうか。

たぶんプライムビデオのほうは、「トムクランシーのジャックライアン」というタイトルを使うことにまず金をかけているはずだ。 制作にもそうとう金がかかっている。 たとえていえば、ホームランドはタモリ倶楽部でプライムビデオのほうはブラタモリといったところか。

アメリカというのは、アラモの砦にしろパールハーバーにしろ、先に手を出させて反撃するのは正義、みたいなところがあって、 それはもとをたどればイエスの受難に行き着くのだろう。 自国民保護という名目で世界中に海兵隊を送り込み現地人を殺傷するのはイエズス会がやっていることと何も変わらない。 そういうものを反省するゼスチャーを示しつつ同じことをやりつづけている。