寛政五年上京日記

あいからわずのネタ。

宣長の寛政五年(1793)上京日記(全集第16巻)。
四月十一日(陽暦5月20日)、蘆庵宅訪問。

蘆庵

> 来む年を契りおけども老いぬればけふの別れをしばしとぞ思ふ

かへし。宣長

> しばしとて立ちもとまらば松陰に千世や経なまし飽かぬ心は

> 千世八千世長らへて待てながらへて我もとひ来む来む年ごとに

また別の箇所に

> 道のついでに小沢蘆庵といふ歌人の岡崎なるいほりにとぶらひものしてたるに軒ちかくたてる松はわかの浦よりうつしたるなりと聞きて、
あるじの雅びを思ひよせて

宣長

> 思はずも都ながらにわかの浦のこ高き松をけふ見つるかも

> この庵南に向かひて東山の見わたさるるいとおもしろし

> 見るか君ひむがし山の花の春月の秋をも宿のものにて

> とよみけるに

> 本居翁のことの葉は松のおもておこしなめればこの庵に残してむと思ふついでに

蘆庵

> 春ごとに松はみどりもそへてけり年のみ高き我や何なる

> とぞうめかるる庵の見わたしはげに四の時うつりゆくをりをり飽かぬことなくなむ

蘆庵

> わがものの君に贈らで悔しきは野山をいるる庵の明け暮れ

> とありけるかへし

宣長

> 年のみと何かはいはむ君が名は松より高く聞こえける世に

> 春秋の野山をいるる言の葉にその月花も見るここちして

亡くなった年は同じだが、蘆庵の方が宣長よりもだいぶ年配なので、
常に宣長が蘆庵を敬っている雰囲気が伝わってくる。

他にやりとりした歌があるかどうかわからない。
六帖詠草の方には宣長の歌は見あたらないようだ。
がしかしもう少し調べてみる。

静養中

昨日は午前の9時から20時くらいまでぶっおしで働きそのあと0時過ぎまで遊んだ。
風邪引きなのに。
起きたらもうろうとしてた。体重もかなり減っていたらしい。
らしいというのは、朝、爆食爆飲したあと計ったからだ。

もう少し静養する。
午後から働くかどうかはまだ決めてない。
風邪は最終段階のようでそろそろ治ると思う。

上田合戦

サマーウォーズにちらっと出てくる
[上田合戦](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6)
だが、なかなか面白そうな話だな。
三河物語も読んでみたい。
面白そうな話が多すぎて困る。

[あずまきよひこ.com](http://azumakiyohiko.com/archives/2010/05/18_0825.php)
に書いてあったのでつい反応した。

いや、安彦良和の三河物語なら、もう読んだのだが。

享和の上京

宣長の享和の上京の件だが、門人と京都の学者らがみなで資金をまかなったのだろうか、
二ヶ月半もの長い間、松坂を離れている。
72才の最晩年に、歩いて行ったとも思われない。馬か、籠か。
四条烏丸という、今でも一番繁華な辺りに宿泊している。
「天の下に住ままほしき里は京をおきてほかにはなかりけり」などとも言っているし、

> 涼しさに 夏もやどりも ふるさとに 帰らむことも みな忘れけり

などと言っているのはよほど京都が気に入ったからでもあろう。
この年、1月には和歌山に居た。
それから詠歌を見るに、2月24日に仁徳天皇陵、その後法隆寺やなどを旅行している。3月1日に帰宅。
3月28日出発。

> 鈴鹿山 坂の下道 分け暮れて 関はなけれど 泊まりぬるかな

などと言っている。
29日、鈴鹿山越え。30日、勢多。
4月京都で(グレゴリオ歴では5月13日。ちょうど今頃だ罠)

> さみだれと春の雨との中空も晴れやらでのみ日数ふるかな

4月8日、平野神社で

> 神垣や春思ほゆる桜かな並木の青葉かげ暗きまで

すでに葉桜だったようだ。
10日、清水寺に行こうとしたがにわか雨にあって、六波羅蜜寺に雨宿り、

> かきくもり思ひもかけずふる雨に古寺たのむふることのとも

12日、清水寺

> 見渡しにさはる青葉はつらきかな桜が枝も花ならぬころ

> 清水に我も夏来て桜木の青葉に春をしのぶこのもと

などとまたしても葉桜を憎んでいる。

14日、東山双林寺・長喜庵、閑居時鳥、山花盛を題に歌会か。

15日、賀茂の祭り。

> よそとせはよそに過ぎぬる神わざにまたもあふひのけふのたふとさ

40数年ぶりに葵祭を見たという、なかなか良くできた歌。

18日、先に伊勢に帰る人たちを送る。

28日、中山殿。

5月2日、富小路貞直が宿に来訪。

5月28日(グレゴリオ歴で7月8日)、香川景樹と東山の吉水弁財天のほとりで納涼。
桂園一枝拾遺に「都のわかれがたきことなどいへるに」などとある。
また、丸山の左阿弥、ともある。
今も円山公園内に「左阿弥」という料亭があるようなので、これのことか。
「安養寺「円山の六坊」の一つと数えられ、文人墨客の集うところとなり風流の限りが尽くされた」とか。
料亭になったのは幕末からのようだ。

この頃、鴨川納涼で多くの人と歌を詠み交わしたらしい。

6月9日(グレゴリオ歴で7月20日)、大津の湖畔で京の見送りの人々と別れる。

6月12日、帰宅。

うーむ。宣長と景樹の出会い。
ディテイルが分かればわかるほど、もっと詳しく調べてみたくなる。
景樹は当時まだ33才。
従六位下に除せられ、長門介に任ぜられたのは、その2年後。
29才で香川家の養子となったばかり。
36才で離縁。
すでに老境の加藤千蔭と村田春海から「ふでのさが」という批判を受けたのは、
34才、批判されたということはおそらくすでに鼻持ちならない存在だったということだろう。

なんというか、断片的な情報を少しずつつなぎ合わせていく作業がもどかしい。

養子

江戸時代は、いやつい最近まで日本では、家を絶やさないために養子をとることが多かった。
家が産業であり(学者の家ならば学問でもあり)、家が財産であり、家が共同体であったからだが、宣長も大平を養子にしている。
大平が弟子の中で特に良く出来たからでもあろうが、実子が眼病で、家業を継がせられなかったからだろう。
玉勝間を読んでいると、11の巻に「本生の父母」という話があって、
実父実母というのは、養父母の方を虚構のようにみなす心ばえであって、よろしくないから、
養父母に対して本生の父母と呼んではどうかなどと書いている。