入院2日目。アブレーション(カテーテル治療の日)。
これまで私は自分を追い込んでたまったストレスを酒で解消するという仕事の仕方をしてきた。ストレスがなければあまり酒を飲みたいとも思わない。これからはストレスがたまるような仕事をしないようにしよう。ストレスがたまる仕事というのはつまり人と違った、何か新しいことをやろうとして自分を極限状態においてギリギリまで追い詰めるような仕事なのだが、もう何も新しいことはしないと決めてしまって、今年は去年と同じことを繰り返すと決めてしまえば楽になれるし、空いた時間で何か新しいことに挑戦しようということもしなければ良いのだ。私はもう年寄りで十分これまで仕事をしてきたのだし、これから新しい時代に適用する必要もないのだから、ストレスのない生き方、仕事の仕方をしよう。そして時々なめるように酒をたしなむことにしよう。
今回入院してみてわかったことだが、平熱が低い。ほぼ35℃台。あと身長も縮んでいる気がする。5ミリか1センチくらい?もう60才だから仕方ないよなー。加齢は確実に進行している。



アブレーションの手術は12:30から予定されていたがなぜか14:00からになった。前の手術が長引いたか、主治医の診察が長引いたか、いずれにしてもよくあることではある。
前回は尿道カテーテルで痛い目にあったのだが今回はオムツになっていて痛む心配はなくなった。おむつと言っても紙おむつのようなものではなくてなんか特殊なもの。
全身麻酔が効く寸前、顔がひりひりするような感覚があったがそのまま意識を失う。
終わったあと前回は鼠径部になんかテニスボールのようなものを当てて圧迫止血していてそれがけっこう痛かったのだが、今回はそれもない。特段痛いということもない。
おわって4時間は絶対安静ということで夕ご飯は21:00から。飲み込むときにのどに痛みがあるのはおそらくのどに管を通していたのだろうが、ゆっくり飲み込めばそんなに痛いことはない。
コロナ騒ぎの直前、4年前に受けたときとはずいぶん進歩したように思う。医学の進歩というものはありがたいものだ。
「いやあ、ここは最高です。値段も最高級の施設のようですがね(笑)」作家・筒井康隆(90)が終の棲家に“高齢者施設”を選んだ“納得の理由”
筒井康隆が自宅で転んで要介護となって、今は施設に入っているという話だが、こういうのを読むと、自分もこうなりたいのかなあ、違うんじゃないかなあといろいろ考えさせられる。筒井康隆のように功成り名を遂げた人はいまだ棺の蓋が閉じられていないというだけで、後世の評価はもう100%確定している、と言えるのではないか、これ以上あくせくと業績を積もうとせずのんびり余生を送ればよいのではないのかなどと。
私は死後の世界などないと思っているし、長生きしても意味はないと思っているし、あと一年ばかり生きて私の遺言替わりの本が出るのを見極めたらいつでも死んで良いとも思っている。ただじゃあ死ねと言われて、または死のうかと思って死ねるかというと死ねない気もするし、実際明日死ぬと決まるととたんに死のうという気持ちもうせてしまう気もする。ただ理屈から言えば、私はもう新しいことは何もしないと決めたのだから、これ以上長生きすることには意味はないと思っている。
縄文時代の人生に意味があったかといえばそれはそれであったのだろう。縄文時代がなければ弥生時代もなく古墳時代もなく、それらの時代の文字記録がまったくなくとも、記憶の連鎖という形で、死んだ人の生きざまというものは、集合知として今の世にも残っているのだ。
新明解国語辞典では、
「凡人」は、自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人
と定義されているそうだが、そうすると2万年近く続いた縄文時代の人間は後世に影響しなかったという意味で全員凡人だったということになるが、実はその影響力が文献等で確認できないだけで、実は無数の無名の偉人らが歴史に影響を与えているのだ、とも言える。現代においても同じ理由で「影響力が皆無」な人などいないという考え方もできる。
厳密にいえばだれにもなんにも影響を与えず何も残さずに死んだ人などいないわけで、私もまた、何ら新しいことをしなかったとしても、それが一文字たりと後世に残らなかったとしても、周囲の人と会話をしただけでそれは未来に影響を与えているのだから意味はなくはないともいえるかもしれない。