家名と姓

[佐藤賢一『カペー朝』](http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120221)を読む。
「ユーグ・カペー」はユーグが名前でカペーが名字だと思うが、
カペーはあだ名にすぎない。
ユーグの家系はロベール家と呼ばれるが、ロベールも単に、
代々ロベールという人が当主になったという程度の意味であり、
ロベール家というのは何かおかしい。
ブルボン家をルイ家というようなものだ。

ただ、セルジューク朝とかオスマン朝などという。
これらは高祖の名前を王朝の名前にしている。
だが、家名ではない。
スレイマーン・オスマン(オスマン家のスレイマーン)などとは言わない。
そもそも中東の人名には姓がない。
父の名を姓の代わりに使うだけだ。

メロヴィング朝とかカロリング朝などとも言う。
これも高祖がそれぞれメロヴィクス、カールだからであり、
家名でも姓でもない。

中世の西ヨーロッパでは領地の名前が姓となり家名となっていく。
ブルボン家やハプスブルク家など。
ルイ・ブルボンとは普通言わないが、言ってもおかしくない。
ブルボンはブルボネーという地名に由来するし、
ハプスブルクという地名ももとはスイスにある。
ヨーロッパでは貴族や王族と言ってもつまるところは土地の所有者というにすぎない。
土地を相続するのが国であり王朝に他ならない。
日本の封建領主も比較的これに近い。

東ローマ帝国では、おそらくかなり古くから、
始祖の名前を姓とした家という制度が確立したと思われ、
姓が王朝の名前になっている。

怪帝ナポレオンⅢ世

鹿島茂『怪帝ナポレオンⅢ世』というものを借りてきた。
ナポレオン三世に関する本というのはなかなか無い。珍しい。しかも翻訳ではない。
全体はゆっくり読ませてもらうとして、ともかくもイタリア戦争のところを読んだ。
Wikipedia などと合わせ読むと次のようになる。

* 1859年4月23日 オーストリアからピエモンテに最後通牒
* 1859年4月29日 オーストリアがピエモンテに宣戦布告
* 1859年5月3日 フランスがオーストリアに宣戦布告
* 1859年5月10日 ナポレオン三世がパリを出発
* 1859年5月14日 ナポレオン三世がアレッサンドリアに到着
* 1859年5月20日 モンテベッロの戦い
* 1859年6月4日 マジェンタの戦い
* 1859年6月24日 ソルフェリーノの戦い
* 1859年7月11日 ヴィッラフランカの和議

ここで驚くべきは、ナポレオン三世が、たったの四日間で、パリからアレッサンドリアに着いているということだ。
ちょっと信じられないが事実だろう。
パリからマルセイユまで鉄道で。おそらく二日かかる。1950年には10時間かかったそうだ。
日本では、1870年に新橋横浜間の所要時間が約1時間、時速は30kmほどしかない。
ノンストップで走っても1日に700km。
パリ・マルセイユは860kmもある。
やれやれ。

マルセイユからジェノヴァまで海路で。
黒船サスケハナは時速10ノット、つまり、20km/h くらいだったらしい。
マルセイユからジェノヴァまでは 300km はあるので、
いわゆる黒船、蒸気機関の外輪船でもって、まる一日かかるだろう。

ジェノヴァからアレッサンドリアまで鉄道で。二、三時間ってところかな。

不可能じゃない。計算すればちょうど四日ほどかかるわけだ。

今の感覚で、飛行機を使わず、鉄道と船でいくと考えれば、ごく普通。
しかし、鉄道網ができかけの欧州では電撃戦となり得た。

これでオーストリア軍が負けない方がおかしい。
当時の資料がなけりゃSFになってしまう。
或いはミステリー小説か。松本清張の『点と線』みたいな。
ま、当然きちんと記録は残ってるわな。残っているから歴史小説になり得る。

『怪帝ナポレオンⅢ世』にはまた、フランスの先遣隊がモン・スニ峠を越え、ジェノヴァから来た皇帝とアレッサンドリアで合流したと書いてある。
つまり、フランス先遣隊はおそらくリヨンに居て、
そこからサヴォアのモリアンナまで鉄道で、そこから徒歩でアルプスのモン・スニ峠を越え、
スーザからトリノを経てアレッサンドリアまで移動したのだ。
いやー。楽しいね。
しかし著者は書く。

> フランスがオーストリアに対して宣戦布告を行ったとき、フランス陸軍の総司令部は、完全に不意をつかれる形になった。

> 陸軍の内部からいえば、武器弾薬も兵站も整ってはおらず、とても戦争などできる状態ではなかったのである。

ふーむ。これはあれだよね、敵を欺くにはまず味方からってやつだよね。
オーストリアを油断させとくためでしょう。
絶対そうだよね。
だって陸軍に戦争準備させてたらオーストリアがピエモンテに宣戦布告しないからでしょう。
戦争準備しないことも戦争のうちなんだよなあ。電撃戦・奇襲戦の場合。
真珠湾の太平洋艦隊が無防備だったみたいなもの?
うんうん。
ちょっとニュアンス違うがけっこう似てる。

しかし、普通は、オーストリア側の将軍ギュライが皇帝ナポレオン三世よりもっとまぬけだったとか、
そういう程度しか書いてないことが多いんだよなあ。
しかも、フランスはトスカーナを攻めて南からロンバルディアに向かう、と見せかけた。
うーむ巧妙だ。
孔明の罠だ。
いやこの場合策士はカヴールなんですよ。
カヴールの手のひらの上で、オーストリアとフランスの皇帝が踊ったのだよ。

というわけで、またしても
[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)
を書きかえた。
詳しくすっきりとした。
前は星形要塞についてくだくだと書いていたが全部削除。
まあ、あれは無くてもよい。少し面白いけど。

病中偶成

漢詩は推敲し始めると止まらない、ということがよくわかった。
漢詩の作り方の本など熟読。
日本人は直感的に漢詩の良し悪しを判断できない。感覚的に作れないから、どうしても規則にこだわってしまう。
こだわらざるを得ない、ということもわかってきた。
みんな律儀に平仄を守っている。

怏怏無聊病者憂
坊中起臥似俘囚
迎秋不覚秋風冷
窓外只看雲片流

題もつけてみた。「病中偶成」とはしゃれである。さんざん推敲したのだから。

だいぶ完成形に近づいた気がする。
夏目漱石が病気中の詩をいくつか作っていて参考になる。
先達はあらまほしきかな。

Geißenpeter

オリジナルの『ハイジ』、つまりシュピリが書いたドイツ語の原文では、ペーターは Geißenpeter と呼ばれている。
Peter が洗礼名で本名、Geißenpeter はあだ名で、Geißen というのは羊飼いか山羊飼いのようなものかと思ったが、
独和辞典で調べてみると、Geiß というのは「雌山羊」のことなのだった。
なるほど、山羊を放牧に行くのは、山羊の乳を取るためであるから、メスしかいなくておかしくない。
乳の出ない「雄山羊」は、種山羊(?)以外はみな屠殺されてしまうのだろう。
鶏や乳牛と同じ運命だわな。

メスヤギはオスヤギより体も小さく気性もおとなしくて、従ってペーターやハイジのような子供でも扱えるということではないか。

清原氏

前九年の役 1051年 – 1062年、
延久蝦夷合戦 1069年 – 1074年、
後三年の役 1083年 – 1087年。
この三つの戦いには関連性があるのか。
延久蝦夷合戦は後三条天皇の時代で、後三条は桓武天皇を思慕し、征夷の意図があったという。
後三年の役は白河天皇即位から院政期にすっぽり含まれている。
かつ、後三年の役の主役八幡太郎義家は白河天皇の扈従で身辺警護の武士、北面の武士のはしりでもある。

思うに、前九年の役というのは、それらしきものはあったかもしれないが、いわば前説のようなもので、戦争の実態はそれほどないのかもしれない。
この三つの戦いの過程で蝦夷の清原氏が興り滅んでいる。
代わって奥州藤原氏の時代がくる。

なんかおもしろそうだな。

懿子2

角田文衛『待賢門院璋子の生涯』を読んでいて思ったのだが、
白河天皇の最初の后も天皇より11歳も年上で、后が28歳、天皇が17歳。
立太子した年に結婚したそうだ。
これまたかなり無茶な結婚である。

『源氏物語』の桐壺など読むとわかるが、皇子は御曹司といって、元服するまでは母親と一緒に住む。
元服したら一家を構えて別居することになるが、
普通皇子には財産がなく家もないから、金持ちの貴族の娘と結婚して、その貴族に家や所領をもらうことになる。
光源氏の最初の妻もそうだったし、
白河天皇も妻の方が年上。
後白河法皇も同様だった可能性が高い。

待賢門院璋子の父は藤原公実で、璋子の腹違いの姉にあたる女子、公子(きみこ)が、藤原経実に嫁いで生んだ子が懿子である。だから、懿子は璋子の姪にあたる。

また、源有仁は白河天皇の甥にあたるが、
やはり公実の娘をめとり、子供ができなかったのか、懿子を養子にしている。
懿子が皇子時代の後白河天皇と結婚したとき、懿子は24歳。後白河天皇は13歳だった。
実のいとこどうし(祖父がいずれも公実)の結婚ということになる。
とすると、やはり、後白河天皇はしっかりした後見人(この場合は藤原経実)を持つために、
つまり主に財政的な理由で懿子と結婚した、と考えた方がよかろう。

孝明天皇御製

孝明天皇の号は「此花」と言うので、その私家集には「此花集」「此花新集」などという名前がついている。
平安神宮編『孝明天皇御製集』だが、その前半部分は若い頃に詠んだ詠草であり、それほどみるべきものはない。
36才で亡くなっており、しかも、元治とか慶応(1863-67)の最晩年の頃の歌は載ってない。
と、言うことは、あったかもしれないが、残ってない、誰にも知られてないということだろう。

面白いなと思える歌は一時期に集中している。つまり、黒船が来た安政元(1853)年から、長州の都落ち、薩会同盟が成立した頃(1863)だ。およそ、二十代前半から終わりまで。

「市」とか「蚊遣火」とか「遊女」とかそういう通俗的ないろんな題で詠んだものもある。これも一種の題詠で、明治天皇もやっているので、
おそらく当時一般的だった一種の習作のようなものなのだと思うが、それに割と面白いものが多い。
まあさすがに明治天皇は「遊女」の歌は詠まなかった(残されてないor公開されてない)。
明治天皇の場合恋歌もたしか公開されてない。
もともと存在しないはずはないと思うのだが。
ものすごく、見てみたい気はする。

歴史的仮名遣いはかなりでたらめで和歌特有の漢字の当て字も非常に多い。
明治天皇の時代にはきちんとした仮名遣いが確立しており、直してくれる学者も大勢いたから、仮名遣いの間違いは皆無だが、
孝明天皇の場合にはそれも期待できなかっただろう。
そもそも和歌の師たちもきちんとはわかってなかっただろう。
そのへんは差し引いて考えてあげないとかわいそうだ。
字余りも(特に初期の詠草には)多い。
当時ある程度字余りが許容されていたということだろうと思う。

> 茂るをば 憂しとも刈るな 夏の花 秋来る時ぞ 花も咲くものを

「ぞ」があるのに連体形が続かない。「花も咲くものを」は字余り。
上の句がなんとなく俳句的。上の句だけで俳句になってしまう。
夏草を刈るとか刈らないという歌は後醍醐天皇にもあり、明治天皇にもたしかあったと思うが、
面白いが、こういうのはあまりよろしくない。

> 暑き日の 影もとほさぬ 山陰の 岩井の水ぞ わきて涼しき

「かげもとほさぬやまかげ」というのがなんとなくくどい気がする。これも、悪くはないが。

七夕草花

> おのづから 手向け顔にも 咲きいづる 花の八千草 星の逢瀬に

これは、少し面白い。

女郎花

> 靡くとも ひとかたならぬ 女郎花 こころ多かる のべの秋風

晩夏蝉

> 夏の日も しばしになりぬ 鳴く蝉の 声もあはれに 聞こえつるかな

> あきびとの 売るや重荷を 三輪の市 何をしるしに 求めけるかも

閑居

> 春来ぬと 柳の糸は 靡けども 来る人もなき 宿の静けさ

> おのづから 来る人もなく なりにけり 宿はよもぎや おひしげりつつ

> 夏来れば 茂る木立の 中にしも 緑をそふる ならの葉柏

> よろづ木の 枝はさまざま ある中に ひとり檜原の なほき陰かな

述懐

> 位山 高きに登る 身なれども ただ名ばかりぞ 歎き尽きせじ

遊女

> 漕ぎいでて ゆききの人の うかれ妻 身は浮舟の ちぎりなるらむ

往時

> 今はただ 世に有りとしも いつしかは 我が身も人の 昔とや言はむ

祈恋

> わが命 あらむ限りは 祈らめや つゐには神の しるしをも見む

寄風述懐

> 異国も なづめる人も 残りなく 払ひ尽くさむ 神風もがな

「異国(ことくに)もなづめる人も」というのは外国人も日本人で頑なな人も、という意味。

夏月涼

> 蚊も寄らず 扇も取らで 月涼し 夜は長かれよ 短きは惜し

雪中望

> 富士の峯の 姿をここに 写し見む みやこも今は 雪の山の端

夕立

> ゆふだちの 過ぎても高き 川波を うれしがほにも 登る真鯉や

田邊柳

> 堰き入るる 水のかはづも 釣るばかり 門田の柳 糸垂れてける

「たれてける」は口語的。本来は「たれてけり」だろう。

竹雪深

> 国のこと 深く思へと いましめの 雪の積もるか 園の呉竹

> この国の けがれぬからは 春ごとに かく咲く梅の 香りつるかな

淵亀

> 我が思ひ 比べばいづれ 深き淵 住みも浮かべる 亀に聞かばや

緑池紅蓮

> 夏涼し 池の緑の 水の上に くれなゐ深く 蓮咲ける見ゆ

田家槿

> 賤の女の 門田に咲ける 朝がほは けふのつとめを いそぐ心か

霜隠落葉

> 冬枯れて 散りゆく木の葉 見苦しと おほひも隠す 霜の白妙

わりと斬新で個性的な歌もたまにある、まあまあのできではなかろうか。