家政婦のミタ

『家政婦のミタ』を、私は実際に見たのでなく、wikipedia で読んだだけなのだが、普通のテレビドラマにしては異様にストーリーが複雑なのに驚く。
これは『家政婦は見た!』という先行するテレビドラマシリーズのオマージュであり、
さらに『家政婦は見た!』には松本清張の原作『熱い空気』(1963年)があるという。
つまり、いわゆる「家政婦モノ」というドラマのジャンルの集大成であり、
ある意味で、アニメ界のエヴァのような作品なのかもしれない。

wikipedia を読んだだけで判断するのもどうかと思うが、しかし、シナリオというのは別に配役が決まって映像化すればわかるというものでもない。
プロットだけを判断するには十分だとしてだな。
これはただ一人の作家が書けるようなシナリオではないのだろう。
多くの人のこだわりが凝縮したものなのだ。
だから傑作となり得たのだろう。

一方で、普通のテレビドラマがどれほど適当に作られているかがわかるというものだ。
普通のテレビドラマがなぜつまらないか、
面白いドラマを作ればちゃんと視聴率が取れるのだ、ということが如実にわかった現象だと言える。

Turin と Trino

1849年のノヴァーラの戦いを調べていたのだが、ピエモンテには Turin (州都)のほかに Trino という地名もある。
紛らわしい。実に紛らわしい。特にイタリア語で Turin は Torino と書く。ほとんど同じではないか。

セルジューク戦記主な登場人物

[主な登場人物](http://p.booklog.jp/book/32947/page/805486)は書きかけて放っておいたのだが、とりあえず書いてみた。『セルジューク戦記』は今のところ私の書いたものの中ではもっとも複雑な話で、自分でももう忘れていた。

これとは別にセルジューク族の系譜があり、それらを併せると百人は軽く超える。登場人物をみんな数えたら(名前の出てこない人や参照されているだけの歴史上の人物なども入れて)二百人はいくだろうと思う。むちゃくちゃ話を広げたからな。

ガエータ、ナポリ、カプアなどの地名が出てくるのだが、それも忘れていた(笑)。

ポー川

ふと地図を眺めていて気付いたのだが、オーストリアのギュライ軍は、ポー川が氾濫して水田が水浸しになったから、
ノヴァーラで足止めを食ったのではない。
なぜかというに、ミラノからトリノまでは、ポー川を渡らなくてもたどり着くことができるからだ。
ギュライが渡れなかったのは、ノヴァーラとヴェルチェッリの間に流れている、
ポー川の支流のセージア川でなくてはならない。

また、水田が水浸しになったのは、ピエモンテ軍がわざと川を決壊させていたからだ。
おそらくピエモンテ軍は大雨で水かさが増しているのを知っていて、オーストリア軍を挑発したのだろう。
或いは、四月から五月にかけて、アルプスの雪解け水で、田んぼは勝手に水であふれるのかもしれん。
ピエモンテ側では予測の範囲内ではなかったか。

それから、ナポリとテアーノとガエータの位置が間違っていたので、直す。
いじりまくりだな。

ピエモンテの鉄道

[Turin–Genoa railway](http://en.wikipedia.org/wiki/Turin%E2%80%93Genoa_railway)によれば、トリノからジェノヴァまでの路線は、
国費によって1853年に完成している。

[Turin–Modane railway](http://en.wikipedia.org/wiki/Turin%E2%80%93Modane_railway)によれば、スーザからトリノまでの路線も、
1854年には完成している。

[アレッサンドリア駅](http://en.wikipedia.org/wiki/Alessandria_railway_station)は1850年に開業している。

[カザーレ駅](http://en.wikipedia.org/wiki/Casale_Monferrato_railway_station)は1857年に開業している。

[ノヴァーラ駅](http://en.wikipedia.org/wiki/Novara_railway_station)は1854年に開通している。

[ヴェルチェッリ駅](http://en.wikipedia.org/wiki/Vercelli_railway_station)は1856年に開通している。

ナポレオン三世は、スーザからアレッサンドリアまで来たのだろうか。
船でジェノヴァまで来て、そこから鉄道でアレッサンドリアまで来たのかもしれない。
どちらかわからん。
おそらくフランス軍はその両方から来たのだと思う。だから、アレッサンドリアが集結地に選ばれたのだ。

シチリアとロシア

Expedition of the Thousand

Britain was worried by the approaches of the Neapolitans towards the Russian Empire in the latter’s attempt to open its way to the Mediterranean Sea; the strategic importance of the Sicilian ports was also to be dramatically increased by the opening of the Suez Canal.

面白い話だが、シチリアとロシアの関係がいまいち裏付けが取れない。

まあ、おもしろけりゃ嘘でもかまわんが。

ギュライ軍の謎

ギュライがミラノを出たのが1859年4月29日。ヴェルチェッリに着いたのが5月14日。50kmの行程に2週間かかっている。50kmといえば東京と川越の道のりくらいだ。夏目漱石の『坑夫』という小説では東京から川越まで川越街道を歩いて2日で着いた、などという描写がある。素人が歩いて2日で着くところをなぜ2週間もかけたのか。遅れればフランス軍が参戦してくる可能性があることくらい、ギュライにはわかっていたはずだ。ミラノから100km離れたトリノを目指していたのならば、強行軍で1週間くらいで到着できていたはず。その頃はまだフランス軍はピエモンテに入ったばかりで、すでにトリノに入城していたとしても、態勢が整っていなかったはずだ。オーストリアにとって、開戦後の1週間こそが、勝機であったはず。いくらポー川が氾濫していたからといって、たとえば最悪、タイの洪水のような状態だったとしても、軍隊というものは、歩兵というものはある程度は前進できるはずであって、2週間で50kmしか進めなかったはずがない。謎だらけだ。

一般に負けた方の戦史は失われて残らないことが多い。ギュライがなぜ負けたのか。なぜあんなへたくそな戦をしたのか。わからん。調べようもなさそうな気がする。

もしかすると、ギュライには、トリノにフランス軍が到着した知らせが入っていて、トリノまで行くのをためらったのかもしれない。それで代わりにアレッサンドリアを取ろうと進路を変更したが、こちらも先にナポレオン三世に入られてしまった。そういうことかもしれん。

スイス兵の暴動の真実

以前にナポリ傭兵というものを書いたのだが、こちらにスイス傭兵の暴動についての非常に詳しい資料がある。
The Swiss and the Royal House of Naples-Sicily 1735-1861 A Preview on the 150th Anniversary of the Surrender at Gaeta

One late evening in June 1859, the Court, thinking of rebellious Neapolitans, was panic-stricken when hundreds of mutinying Swiss were approaching in a riot. What happened? In 1848 the Swiss Federal Council abolished the Foreign Service but tolerated the contracts with Naples. In 1859, because of her neutrality, Switzerland forbade flying the Swiss flags in Italy. Not all soldiers, however, accepted the removal of the Swiss cross and wanted the King to restore it. A furious General Schumacher went to meet the drunken mutineers and gave orders to wait on the Campo di Marte for the King’s answer. The Queen, fearless as usual, watched the ghostly scene from her balcony. At dawn, after a rioting night, the mutineers were encircled by the loyal Swiss who, as they refused to surrender, gunned them down. After this incident the King made it optional for the Swiss to stay in his service. A lot went home, many stayed.

つまり、スイス連邦は1848年から傭兵の契約を廃止していたが、両シチリア王国に関しては依然として認めていた。1859年に両シチリア王国は中立性を示すためにスイス国旗の掲揚を禁じた。一部のスイス兵はスイス国旗掲揚を求めた。スイスのルツェルン出身の将軍、フェリックス・フォン・シューマッハー男爵は、酔っ払って暴動を起こした兵士たちに怒り狂い、マルテ広場で王の返事を待てと命令した。翌朝、降伏を拒んだ暴徒たちは王に忠誠を誓うスイス兵たちに取り囲まれて銃撃された。この事件の後、王はスイス兵たちに兵役にとどまるかどうか自由にさせた。多くは去ったが、多くは残った。

フランチェスコ2世 (両シチリア王)

軍備面では長年にわたって国王の親衛隊を務めてきたスイス人傭兵隊の大規模な暴動が発生している。フランチェスコ2世は傭兵隊に待遇の改善を約束して彼らをなだめた後、軍に命じてスイス兵を皆殺しにした。暴動を鎮圧するとフランチェスコ2世はスイス傭兵隊の廃止を宣言した。

この記述は非常に間違っていて、誤解を与える。英語版の

a part of the Swiss Guard mutinied, and while the king mollified them by promising to redress their grievances, General Alessandro Nunziante gathered his troops, who surrounded the mutineers and shot them down. The incident resulted in the disbanding of the whole Swiss Guard, at the time the strongest bulwark of the Bourbon dynasty.

も、実状を正確に言い表しているとは言いがたい。スイス兵は長年両シチリア王国に忠実に仕えており、その中には将軍になったものや、男爵1に叙任されたものさえいた。つまりナポリに永住して貴族になったものすらいたということだろう。暴徒となったスイス兵を他の忠実なスイス兵たちが銃撃して鎮圧した、というのが正しい。

追記: ウィキペディアの記事で当該箇所はすでに削除されたか編集されているようだ。

ガエータの戦い

[Siege of Gaeta (1860)](http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Gaeta_(1860))を読んでいたのだが、

> Some of the Sicilian troops were Swiss soldiers.

などと書いてある。
スイス傭兵はすべてフランチェスコ二世によって解雇されたのではなかったのか。
スイス傭兵からなる親衛隊は解散したが、スイス傭兵の一部は王軍に残ったということか。
なかなかしぶといなスイス傭兵。

多分、真相はこんな具合だっただろう。
スイス傭兵からなる親衛隊の中でも、王党派と統一派が居た。
統一派はイギリスやサルディーニャにそそのかされて「待遇改善」という名目で1859年6月7日暴動を起こした。
王フランチェスコ二世は、待遇改善を約束してなだめたが、王軍の将軍Alessandro Nunziante によって鎮圧された。
王は、親衛隊の維持を断念し、解隊した。
しかし、なおも王に仕えたいと申し出たスイス傭兵を王軍に編入した。
彼らはナポリを落ちた王とともにガエータ要塞に立てこもり、最後まで王とともに戦った。