アルプス猟兵隊 (Hunters of the Alps) というものがある。これはガリバルディが編成したフランス・サルディーニャ連合軍の別働隊であり、ソルフォリーノ戦と並行してスイスに近いミラノ北部でオーストリア軍と戦い、撃破。これがのちのシチリア上陸の際の赤シャツ隊となった。名前が紛らわしいが、しかし、明らかにこれはスイス傭兵ではない。
ナポレオン 獅子の時代
今更ながら「ナポレオン 獅子の時代」を読みなおす。
おお、面白い。ガルダ湖も出てくる。
パルムの僧院冒頭に出てくる、ロディ橋も出てくる。面白すぎる。
知識があるとないではまるで面白さが違う。
ポスタル3
ポスタルの開発は
Running With Scissors
から
Akella
というロシアのデベロッパーに委託されたらしい。
Akella は「ポスタル2ロシアから愛をこめて」のときから関わっているようだ。
ポスタル2はUnrealエンジンだったが、3はSource Engine を使ってるそうだ。
ふーん。
ていうか、もう12月だが、まだ発売されてない。
ポスタルのくせにクリスマス商戦に投入しようというのが笑える。
ロシアでは11月23日にリリースされたらしい。
ふーん。
ナポリ傭兵
wikipedia で両シチリア王国最後の君主「フランチェスコ二世」を読んでいると、ガリバルディがシチリアに上陸する前に、
軍備面では長年にわたって国王の親衛隊を務めてきたスイス人傭兵隊の大規模な暴動が発生している。フランチェスコ2世は傭兵隊に待遇の改善を約束して彼らをなだめた後、軍に命じてスイス兵を皆殺しにした。暴動を鎮圧するとフランチェスコ2世はスイス傭兵隊の廃止を宣言した。
と書かれている。つまり、スイス傭兵は長らく両シチリア王国の親衛隊として雇われていたが、フランチェスコ二世はその待遇改善を拒んで皆殺しにし、スイス傭兵を廃止した、となる。
ということは、アルムおじさんはそれ以前にやはり直接ナポリで傭兵になった可能性が高い、ということか。あるいはフランチェスコ二世の虐殺の生き残りなのかもしれない。うーむ。そういう話にした方が面白かったかなあ。
ナポリのブルボン家はイタリア語でボルボーネ家というらしい。
英語版 wikipedia だと、
On 7 June (1859) a part of the Swiss Guard mutinied, and while the king mollified them by promising to redress their grievances, General Alessandro Nunziante gathered his troops, who surrounded the mutineers and shot them down. The incident resulted in the disbanding of the whole Swiss Guard, at the time the strongest bulwark of the Bourbon dynasty.
ということは、6月4日のマジェンタの戦いと、24日のソルフェリーノの戦いの間くらいに、反乱を起こしたスイス親衛隊の一部が撃ち殺され、それが傭兵隊全部の解隊という結果となった、ということになる。また、当時、スイス傭兵がブルボン家最大の防波堤になっていた、とも書いてある。
スイス傭兵はローマ教皇やフランス王の近衛兵にもなっているから、どちらかといえば小規模な常備軍として雇用されることが多く、戦争のような大規模な臨時徴収には、そもそも向かないし、雇用もされなかったのかもしれん。ともかくガリバルディがシチリアに来た頃にはスイス傭兵はナポリにはいなかったということよね。
Swiss Guard など見ると、ナポレオンがスペインやロシア遠征にスイス傭兵を雇ったとある。1830年に再びチュイルリー宮殿が襲撃されたとき、スイスの近衛兵は、二度目の虐殺(一度目はルイ十六世の時)を恐れて姿をくらましたため、以後近衛兵として雇われることはなかった、とある。
また、フランス外人部隊(French Foreign Legion, Légion Etrangère) など読むと、
The Foreign Legion acquitted itself particularly well against the Austrians at the battle of Magenta (4 June 1859) and at the Battle of Solferino (24 June).
などと書いてあって、ソルフェリーノの戦いに外人部隊が投入され善戦したらしいことがわかるし、アンリ・デュナンが見聞しているから、その中にスイス傭兵がいなかったとはいえない。
しかし、やはり、ナポリで直接傭兵になった、という話の方がすんなりくるし、なんか面白そうでもあるんだよなあ。
リソルジメント
イタリア統一戦争はイタリア語では il Risorgimento と言い、英語で The Resurgence (再起、復活) と言う意味であり、
Italian unification と訳されることもあるようだ。
英語版 wikipedia を良く読むと、ガリバルディ軍は、イギリスによるサポートを受けていた。
イギリスはなぜスペイン・ブルボン家が治める両シチリア王国ではなくて、ガリバルディを助けたのか。
これも英語版には書いてある。
まず、シチリアのブルボン家は地中海に進出してこようとしていたロシア帝国とつながろうとした。
ロシアが黒海から地中海へ出てシチリアを拠点とすると、イギリスは困る。
スエズ運河の権益は絶対手放せない。
シチリア島は、地中海の戦略的拠点であるから、イギリスはガリバルディに恩を売ろうとした、ブルボン家を懲らしめた、ということらしい。
もしかするとロマノフ家とブルボン家の間に縁組でもあったのかもしれんが、よくわからん。
紙とネット
アルプスの少女デーテだが、ワープロで縦書きにしてみると、ひどいできで気に入らない。ワープロうちしたものをネットで公開することはできても、ネットで書いたものを紙で読んでみると納得いかないものだなと、改めて思った。
スースも一度全部まとめてワープロうちにして推敲してみようと思う。
ブルボン家とハプスブルク家
今のスペインの君主もスペイン・ブルボン家。
フランス革命でブルボン家は滅んだのではなかった。
では、ハプスブルク家はどうなかったかというと、現在のオーストリア・ハプスブルク家の当主は、
カール・ハプスブルク=ロートリンゲンという人で、1961年生まれ、50歳、
「元オーストリア皇太子の長男」「オーストリア皇帝、ハンガリー国王などの君主位の請求者」「欧州議会議員」「金羊毛騎士団長」「オーストリア国民党所属」「ザルツブルク在住」だそうだ。
ふーん。
イタリア統一戦争
調べれば調べるほど、ナポレオン戦争からイタリア統一戦争までのイタリアの歴史は面白いのだが、
なぜ塩野七生は小説に書かないのか。十字軍書くよりずっと良いと思うが。
いや、つまり、古代ローマの話はイタリア視点で書いてもいいかもしれん、
ヴェネツィアとオスマントルコの戦いも。
しかし、十字軍は、それよりずっとでかい話で、
イタリア史観に無理やり押し込めて書くことは不可能だと思うのよね。
それはそうと、ガリバルディはなぜあんな短期間に両シチリア王国を滅ぼせたのか。
英語版の wikipedia を読むと、
シチリア島の首府パレルモに進軍するときに、イギリス軍が休戦を調停したとある。
また、シチリア島からメッシーナ海峡をイタリア本土に渡るときに、イギリス海軍が助けた、
とも書いてある。
つまり、ガリバルディは、たった千人のイタリア人の義勇軍で両シチリア王国を倒したのではなく、
当時の超大国であるイギリスの支援を受けたから成功したのである。
なんだ普通のパワーポリティクスじゃんか。
日本語版を読んでいるだけではその辺の事情がよくわからない。
ところで英語版では、イタリア統一戦争を Italian War of Independence
と表記している。
イタリア独立戦争。
いったい何が何から独立するというのだろうか。
どうもアメリカ人は、ひとつの国家ができる戦争を独立戦争と呼びたがるようだ。
実に funny だ。
そんなら、プロイセンが主導したドイツ統一はなんというかと調べると今度は
Unification of Germany
とある。意味わからん。
ふむ。イタリアはオーストリアから独立したことになっているのか。
違うだろ、それは。
それは北イタリアの一部の話であり、全体としてみるとイタリア統一戦争と言うしかないだろ。
そんなこと言うのならドイツ統一だってオーストリアからの独立戦争じゃんか。
両シチリア王国
『アルプスの少女デーテ』を手直ししているのだが、『ハイジ』は1880年に書かれていて、この年にハイジが10歳くらいだとすると、トビアスが生まれたのは1850年くらいとなる。
アルムじいさんはナポリで傭兵になったというが、このときナポリは両シチリア王国の首都。君主はブルボン家。このブルボン家はスペイン・ブルボン家だが、もとはフランスのブルボン家の分家。フランスとスイスは深い関係があり、スイスから直接ナポリに傭兵になりに行ってもおかしくはない。
しかし、両シチリア王国ではこの時期何も戦争が起きてない。近いのは1816年、ナポレオンの没落とウィーン体制確立のとき。次は1860年、ナポリがガリバルディ軍によって陥落してイタリア統一がなった時。
ナポリはそんな大きな国ではない。平時からうじゃうじゃ常備軍や傭兵が居たとは思えない。ガリバルディが攻めてきたときの負けっぷりからして、よほど油断していたか、そもそも軍備らしきものがなかった、とさえ思える。
それで、仮にボナパルト失脚時にアルムじいさんが従軍したとすると、ハイジがフランクフルトに行って帰ってきたのは1850年くらいのことになる。ちと時代設定が古すぎる。また、1860年に従軍したとすると、ハイジのフランクフルト行きは1890年くらいのことになり、時期的に遅すぎる。
それで、ハイジの作者は、執筆時の20年くらい前に起きた、比較的記憶に新しいイタリア統一戦争を漠然とイメージして書いたのではないか、時期的に合わないけど、という仮説が成り立ち得ると思う。そうすると、アルムおじさんの祖先がナポレオンのアルプス越え(1799年)に参加して傭兵で成り上がった、という話につながりやすい。先祖が1848年のウィーン体制崩壊のとき、ルイ・ナポレオンに従ったとすると、アルムじいさんのお父さんの時代になってしまう。まあ、それでも話は作れるのだが、ちとせわしすぎる。
アルムおじさんが1860年に両シチリア王国の傭兵だったとすると、ガリバルディによって征服される敗軍の中にいたことになる。それも話としてはおもしろい。今は、最初フランス・サルディーニャ連合軍に居て、それからサルディーニャ軍に編成された、という設定になっているのだが。さて、どうしたものか。
そもそも、アルムおじさんとハイジは1830年に書かれた別の話から借用したものであり、おじさんが傭兵にいこうがいくまいが、時代が合わないのは当たり前であるといえる。
私は『ハイジ』の中でデーテだけが実在のモデルに基づいて書かれている、と思っている。つまり、『ハイジ』は1880年当時のデーテ系のソースと1830年当時のアルムおじさん系のソースをミックスして作ったものなのだ。そうすると、1860年代にナポリで生まれた傭兵の子供というのが実はハイジなのではないか。傭兵に行ったのはトビアスなのではないか。デーテは何かの理由で、トビアスからハイジを預かることになり(トビアスが死んだので遠縁ということで引き取ることになったのかもしれない)、10歳くらいのその子をフランクフルトに連れていったけど、都会生活にうまくなじめなかった、その話を聞いたのがだいたい1875年頃、とすればうまく辻褄があう。
ファーティマ公開
まだ執筆中だが、[ファーティマ](http://p.booklog.jp/book/24023)を公開した。
これは、[トゥエンティ・トゥエンティ](http://p.booklog.jp/book/23991)の続編として書きかけたものをほったらかしていたのだが、
橋下市長の当選を祝って、前倒しで公開する。
ついでにトゥエンティ・トゥエンティも、すべて試し読みできるようにしておいた。
ファーティマはトゥエンティ・トゥエンティの裏設定のネタばらしを含む。
主人公は武央市市長の島谷、ヒロイン役は、ヤスミーンの姉のファーティマ。
もともとトゥエンティ・トゥエンティは、
[セルジューク戦記](http://p.booklog.jp/book/32947)に出てくるアリー、ヤスミーン親娘を切り出して、短編近未来小説にしたてたもの。
おひまなかたは読み比べてみてください。