古今伝授の真相

この「古今伝授」なる珍現象を考えるに、最初にでっちあげたのは東常縁という人だったに違いないが、
宣長も言っているように彼はただの小者であって、とやかく批判しても仕方ない。
三条西実隆と言う人は、ごく普通の教養人のような人だったろう。
宣長は、彼は利口な人であって、自分の家が歌道の権威を独占するためやったのではなかろうかというが、そこまで腹黒い人だったとはちと思えない。

細川幽斎という人は、武士らしい斬新な歌を詠む人であり、この人が古今伝授などというものを墨守していたはずがない。

思うに、主犯は冷泉為村、またはその師匠たちではなかろうか。つまり江戸中期の公家たち。
為村は霊元院から直接古今伝授されたと言っている。
霊元院は後水尾院から。
古今伝授というものが権威付けされたのは、江戸初期から中期にかけての、
後水尾院と霊元院の二代の院政期であって、
それ以前は特に注目もされてなかっただろう。
天皇家の秘伝となるといろんな輩がそれを箔づけに利用したがるに違いない。
それが為村だったのだ。
彼がわざわざ紀貫之までさかのぼって、古今伝授を由緒ありげなものにしたてたのだ。

私はかつて、古今伝授は応仁の乱の後の戦国のどさくさに捏造されたのではなかろうか、と推測したわけだが、
要するにこの時期は南北朝のように何もかもでたらめで、まともな記録が残ってないので、後世の人がいろいろと捏造するのに都合良いのだ。
後水尾天皇の歌もまだ江戸初期なのでのびのびとしている、ように思える。

類題集というものも後水尾天皇より前からあったが、江戸期に入って世の中が落ち着いてくると、
暇つぶしにこの手のデータベース作成的な事業が盛んになった。
後水尾天皇と霊元天皇が勅撰したという類題集がその精華だと言える。
後水尾天皇には、応仁の乱で途絶えた勅撰集を復活させようという圧力が、公家からも武家からもあっただろう。
だが、後水尾天皇は幕府が大嫌いだった。
勅撰集を出すには足利氏の頃の慣例に依らないわけにはいかない。
後鳥羽院の昔に戻すわけにはいかない。
室町時代の勅撰集とは、武家、公家、天皇の三位一体で量産されていたから、
天皇が勅撰集を出すということは、武家の協力を仰ぎ、彼らと和歌の権威を分かち合うことに他ならない。
足利氏の時代に確立された、公家や天皇家に対する武家の桎梏とはそこまで強固だったし、
徳川氏の時代にはさらにそれが強化された。
一挙手一投足、すべては武家の監視下に置かれたのだ。
天皇は、宮中ならびに公家諸法度やその他の有職故実に記されたとおりに行動しなくちゃならない。
後水尾天皇はそんな窮屈なことに縛られるのはまっぴらだっただろう。

しかし公家たちは天皇の権威の下で勅撰集の編纂事業がやりたくて仕方ない。
やむをえず、一応勅撰という形はとるが、武家を交えず、秀歌を選りすぐるなどという作為を交えず、
公家たちだけで淡々と類題集の編纂という形の活動をしたのではなかろうか。
冷泉為村もまた、そういうこすっからい公家の一人だったのだ。

となると、古今伝授の権威付けには、後水尾天皇と霊元天皇だけでは足りず、
紀貫之までの連綿とした伝統が欲しい。
後陽成天皇が細川幽斎の助命嘆願をしたというのを、古今伝授が失われるのが惜しい、という理由にすり替え、
さらに三条西殿三代というのをやたら持ち上げて和歌の中興などと位置づけた。
為村は、よほど自分の才能に自信がなかったと見える。
そうやって過去の権威にひたすらすがろうとしたのだろう。
宣長や蘆庵はそういう為村を目撃したのである。
だからあんなに厳しい批判を加えたのだが、敵はそんな大昔にいたのではなかったのだろうと思うよ。

【コミュニティの一生】
面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする ←ニュー速いまココ

面白くないので皆居なくなる

このコピペ、偶然みつけたんだが面白いな。まったく同じ話だわな。

宣長の儒学

宣長は、京都の堀景山の門下生となって儒学、つまりは漢学を学び、その間はずっと漢文で日記をつけた。
思うに、公家はずっと公式の日記を漢文で書いてきた。
定家の日記にしても、九条兼実の『玉葉』にしても、『吾妻鏡』にしろ漢文だから、
ともかく漢語を知らぬことには国学もできないわけであり、彼にとっても必須教養を学んだわけだ。
頼山陽のような学び方とは無論まったく意味が違っただろう。

逍遥院実隆

古今伝授の祖とされるのが室町末期・戦国初期の武将の東常縁。
本家は関東の千葉氏であるという。
お家騒動があって千葉氏が下総千葉氏と武蔵千葉氏に分かれて戦った。
東常縁は将軍足利義政に派遣されて、大石氏を頼り葛西城に居た武蔵千葉氏の実胤、
太田道灌と同盟して赤塚城に居た実胤の弟の自胤と共に戦ったという。
東常縁の父は素明法師と呼ばれる東益之で、
最後の勅撰集・新続古今集に歌が採られ、またその祖先・東胤行は藤原為家の娘婿であり、
母方が定家の血を継いでおり、
常縁は頓阿の曾孫・堯孝の弟子で、また冷泉為尹の弟子・正徹にも学んだそうだ。

常縁によれば、この古今伝授なるものは、紀貫之以来の相伝が、
藤原基俊から弟子の俊成へ、俊成から子の定家へ、
定家から子の為家へ、
為家から二条家の祖・為氏へ、
為氏から子の為世へ。
為世の時代には二条家は漸く衰微して、定家の子孫の中では冷泉家だけがなんとか命脈を保った。
そこで為世の弟子の中でもっとも有力だった頓阿に古今伝授が伝えられ、
頓阿の子孫の堯孝から常縁に伝えられた、と言いたいらしい。
頓阿もまた藤原氏の末裔であるというが、ほんとうだろうか。
後世の人の願望が込められてはいないか。

東常縁は宗祇に古今伝授を伝え、
宗祇は三条西実隆に伝え、実隆は子の公条に、公条は子の実枝に伝えた。
実枝は細川幽斎に伝え、幽斎は実枝の孫の実条に伝えた。
あるいは幽斎は八条宮智仁親王に相伝し、智仁親王は兄・後陽成天皇の皇子・後水尾天皇に伝授し、
後水尾天皇は皇子の霊元天皇に伝授した、ということになっている。

それで、『排蘆小船』を読むと、

> 西三条殿三世を、世には道の中興のやうに思ひて、この人々を神のやうに敬へども、
実は歌道の中興にはあらで、此の時より歌道大いに衰えたり。

などと書かれている。
西三条殿とは三条西実隆のこと。三世とは、実隆、公条、実枝のことだろう。
江戸後期の歌壇の雰囲気がやや伝わってくる。
また、

> 西三条殿逍遥院実隆公、和漢の才ありて、ことに歌学に達し、詠歌もすぐれたまへり。
この人まことに歌道の中興にして、今に至るまで仰ぎ信ずることかはらず。

などと言っているので、宣長は実隆を一定に評価していることがわかる。
[実隆公記](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E9%9A%86%E5%85%AC%E8%A8%98)
など読むと、実に多芸多趣味な人だったことがわかる。

実隆は応仁の乱で勅撰集というものが途絶した後に出た歌人なので、
当然勅撰集には採られてない。この時代から以降は勅撰集という基準がないので、
誰がその時代を代表する歌人かがわからずやっかいだ。
ちなみに東常縁について宣長は

> もとよりいふにたらぬおろかなる人

とまったく評価していない。

ついでだが、明治天皇の和歌指南役に三条西季知がいるが、季知はむろん実隆の子孫である。
冷泉家が定家子孫直系。三条西家が古今伝授の総本家。
他には最後の勅撰集の選者を出した飛鳥井家などが和歌の堂上家の代表。

改めて高崎正風の『歌ものがたり』を読みなおしてみると、初期の御歌掛には、
季知の他に福羽美静、渡忠秋が居たとある。
季知と美静はいずれも孝明天皇の近習であるから、明治天皇が京都で皇太子だった頃から、
和歌を教えていた可能性が高い。
渡忠秋は香川景樹の弟子、正風と同様桂園派である。
季知と美静は孝明天皇派であると同時に長州派でもあり、
ふたりとも七卿落ちのメンバーだ。
正風と忠秋はどちらも明治七年とかそのくらいから出仕したのだと思われる。

そのほか、西四辻公業や有栖川宮幟仁親王も明治天皇に歌を教えたとある。
西四辻公業は高松公祐の子。
高松公祐は季知の歌の師とのこと。

宣長の歌

宣長が和歌に志し、『和歌の浦』を執筆し始めたのは延享4 (1747)年11月14日のこと。
生まれた日は享保15 (1730) 年5月7日なので、満17歳の時。
『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」

> 十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、
よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、
人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき

宣長が初めて歌を詠んだのは、延享5 (1748) 年正月のこと。

> 此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける
> 新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空

寛延2年3月20日 (1749/5/6)
> 同二年【己巳】従三月下旬、詠和歌受宗安寺〔中ノ地蔵立〕法幢和尚之添削【自去年志和謌、今年ヨリ専寄此道於心】また、三月下旬ヨリ、宗安寺ヨリ歌ノ直シヲ受ル、「杉ナラハ、「ハル/\ト、「カクヲシム、「ナニハヱノ、「池水ノ、始テ五首ヲツカハス

この[法幢和尚](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/houtoku.html)というのが、初めて宣長が歌を添削してもらった人、
つまり最初の師匠ということになる。
どんな人かはそれ以上はわからない。

寛延2年9月10日 (1749/10/20) 定家の歌論書『詠歌大概』『秀歌体大略』などを筆写する。

なぜ和歌に興味を持ったのか、いろいろ理屈を考えてみたが、京都に行ったり、
父が商売していた江戸に行ったり、
また吉野や伊勢神宮に参拝したりなどして、自然と和歌に関心をもった、
という程度のものなのだろう。

宝暦2(1752)年3月上京。上京というのはこの当時は当然京都へ行くこと。

> 母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒学をもせむとてなりけり

> 景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす

堀景山とは儒学者で医師。
また、契沖の研究者で、景山の紹介で契沖の『百人一首改観抄』を読む。
宣長は契沖を高く評価しているがそれは師匠景山の影響だろう。

宝暦2年9月22日、新玉津嶋社を訪い社司森河章尹に入門、
新玉津嶋社和歌月次会に約1年ばかり出席するようになる。
この森河章尹という人が、法幢に続いて宣長の二番目の和歌の師範となる。

宝暦2年11月 (1753/1/3)

> 年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉もはか/\しくよしあし見わくる人もなき事をうらみて同し題(浦千鳥)にておもひをのへ侍りける/和歌浦たちよるかたを浪間にそ夜半の千鳥の鳴あかすなる/浜千鳥鳴こそあかせ和歌の浦やたつらんかたもなみのよる/\

と言った具合に、宣長は森河章尹という人が歌の良し悪しもわからぬ人だと言っている。
森河は藤原氏であり、冷泉為村の弟子である。
為村(正徳2年1月28日(1712年3月5日) – (安永3年7月29日(1774年9月4日))は正真正銘、
堂上家の歌人であり、霊元天皇(承応3年5月25日(1654年7月9日) – 享保17年8月6日(1732年9月24日))に古今伝授を受けた。
霊元天皇が添削した詠草が現存するらしい。
冷泉家というのは定家の唯一の直系の家系でもある。

宣長が、『排蘆小船』で古今伝授のことを激しく攻撃しているのは、
この森河や為村のことを指している、と言って間違いなかろう。
古今伝授がでっちあげだと初めて主張したのは契沖で、
宣長も全面的に賛同している。

小沢蘆庵は為村の弟子だったが破門された。
宣長と蘆庵は、宣長が京都遊学中、宝暦7年8月6日(1757/9/18)出会っている。
蘆庵と宣長の接点は森河か為村しかない。
為村は当時まだ存命中だ。
新玉津嶋社和歌月次会で顔見知りになったと考えるのが自然だ。
この年には師匠の景山が死去し、宣長はただちに帰郷している。

宝暦8年2月11日地元松坂の嶺松院歌会に初めて出席し、有賀長川に添削を受けている。
つまり彼が宣長の三番目の歌の師範となる。
長川は有賀長伯という比較的有名な二条派の歌人の嗣子。
松坂に住んでいたのでなく、おそらく大阪か京都に居て、宣長は書簡で添削を受けたのだろう。

宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

深読みとオカルト

> 江戸時代には、和歌の家には、堂上と地下という区別が付けられていた。和歌の用語で、堂上とは、宮中に参内する資格を持つ公家がいて、その中で和歌を詠むのを家業としている公家の流派を言う。当時、どの公家がどの家業を受け持つかということが厳しく決められており、それは世襲だった。笛の家、琴の家、琵琶の家、能の家、歌道の家、書道の家と決まっていた。堂上以外の公家や武家や町人はみないっしょくたに地下と呼ばれた。堂上には「古今伝授」という秘伝が代々伝承されており、これの免許皆伝でなくては流派を継げない。

> 古今伝授とはようするに『古今集』の序文や歌の解釈の秘密を流派ごとに独占的に伝授したものだ。たとえば「 百千鳥ももちどり」という言葉がある。これにはいくつもの解釈があって、普通は「何百何千というさまざまな鳥」、つまり何か特定の鳥を言うのではなく、種々雑多なたくさん群れている鳥のことを言うと考える。しかし、たとえば堂上のある流派はこれを「百匹の千鳥」と解釈する。またその「千鳥」も「シロチドリ」だとか「メダイチドリ」だとか、いわゆる普通のチドリ目チドリ科の千鳥ではなくて、古来は別の種類の鳥を指していたのだ、などと独自の解釈をする。こうして、歌に詠まれるさまざまな言葉を故意に「深読み」し、歌ごとにそれぞれ独特の解釈をして、それが一般人の知るよしもない極意であるとした、いわば「オカルト」「疑似科学」的なものである。契沖や本居宣長などの国学者が古文辞学的に解明したように、そのような解釈は藤原定家やまして紀貫之の時代には存在しておらず、戦国の動乱期に捏造されたものであって、なんら根拠はないのである。

これは、[歌詠みに与ふる物語](http://p.booklog.jp/book/33114)の中の、有料でしか読めない部分に書いたことだが、
「古今伝授」というものは江戸時代まで続いた。
その後、世の中では「和歌」を「短歌」と呼び変えるようになり、「古今伝授」などという古めかしいものも絶えてしまったかのように思われている。

しかし、今の文芸評論というものも、意味不明の深読みをありがたがる、
深読みに深読みを重ねて、自分の世界に行ってしまって帰ってこない、
という点においてはオカルトと何ら変わりない、
と思うことがしばしばある。
新古今から室町末期の正徹辺りまでの和歌を論じるときに、その傾向が強い。
というのは、古今までの和歌というのはシンプルでわかりやすかった。
江戸も末期になってくると、香川景樹とか小沢廬庵、良寛のように、わかりやすい歌が現れる。
しかし、新古今以後の勅撰集の和歌は、歌そのものはともかくとして、それに対して語られる歌論がわけわからん。
つまらん歌にくどくどと理屈をこねているだけとしか思えない。
そんな歌よりも面白いものは江戸時代の文人の歌にいくらでもある。

江戸時代の一部の文人たちは、自分たちの時代の、「現代的」な歌を作り出そうと努力した。
一方で、和歌というものがわからなくなった連中は、過去にこそ真の、究極の歌があるのだ、和歌は死んだ、
和歌は公家社会とともに、応仁の乱の劫火に焼かれて死んだ、などと主張して、
ますますわけのわからぬ、ロジックとも信仰告白ともつかぬ理屈をこねくり回すようになった。
現代とまったく同じだ。

だいたい、和歌を鑑賞するのに、その詞書きや本歌や、いわゆる王朝サロン固有の解釈、などというものを知らねば、
本当には味わいがたい、などと言っているのは、「古今伝授」とまったく同じ論法であって、
そんなもので素人をけむにまいておもしろがっているのではないか、としか思えない。

意味のよくわからない歌というのは、何かの歌合の題詠であったり、絵に付ける画賛であったりする。
そういうものは、一応プロがきちんと調べて解説を加えなくてはわからん。
だが、題詠であろうと、画賛であろうと、そのまま鑑賞してみて、それなりにおもしろみのあるものでなければ意味はない。
そのままで面白いものが、その由来を聞いてみてさらにおもしろみが増すとか、理解が深まるとか、そういうものであり、
だから普通に素人は、そのまま読んで面白いものを愛好しておればよろしいのだ。
ただそれだけのことだ。
いらん格付けをされても迷惑だ。

江戸時代の景樹、廬庵、良寛の歌ではなぜいけないのか、「新続古今」とか「新後拾遺」とか、
そんな「糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかり」舐めているようなことをして何が楽しいのか、と思ってしまう。

『歌詠みに与ふる物語』を有料にしているのは、歌論など無料にしてもどうせ読んでもらえないと思っているからだ。
読めば十分わかると思うが、読んで分かる人がいるとも思えない。
読んでもらえない、読んでも理解できない評論をわざわざ書く趣味はないのだが。

photoshop esc

putty-jp でリモートログインして vi いじってたら、escキーが効かないことに気付く。
はて、escキーが効かないぞ、壊れたかなとキーボードをつなぎ変えてみたのだが、やはりだめ。
putty-jp のせいだろうかと escキーを使うソフトを他に考えてみると、word でコピペしたときのバルーンみたいのを消すのに使うなと思い、
word 2010 を起動してみるが、やはり esc が使えない。

で、原因は photoshop のせいだった。なんと photoshop 起動中には esc が使えなくなる。

photoshop cs2 + windows vista。

Autodeskのサイトのフォーラムで、
[Photoshop Causes ESC Key to stop working in Revit Arch 2011 & 2012](http://forums.autodesk.com/t5/Autodesk-Revit-Architecture/Photoshop-Causes-ESC-Key-to-stop-working-in-Revit-Arch-2011-amp/td-p/3014258)
などとある。

> I believe this was a known problem with Photoshop that was fixed in version CS5

うざい。CS5にしろとか。
他にも日本語のフォーラムでちょくちょくみかける。
はげしくうざい。

psvita

iphone や android や ipad や tablet などは買う気がしなかったので、
psvita wifi モデルを買ってみたんだがね。
完成度がいまいちだよね。

psp も持っているのだが、主に用途は mp3 を聞くため。ごく希にゲームをやることもあった。
ゲームはサルゲッチュか塊魂くらい。
ゲーム機として使う気は最初からなかった。
買ってみて思ったが ipad や tablet pc よりは小さいが、
psp やスマホよりはでかい。
psp とほとんど同じ大きさかと思ってたが違った。
でも、このくらいでかい方が文字が打ちやすくて良いとは言える。

mp3 の転送にめっちゃ時間がかかる。32GB のメモリを買ったせいでもあるが。
psp の頃はせいぜい 4GB どまりだった。
mp3 を削除しようとすると途中で固まる。困るんだよなあ。

どうも、先にハードウェアをリリースしておいて、
ファームウェアは随時更新、ソフトは随時投入という戦略らしいからなあ。
まあ、psp も2台買ったし。
ハードも買い換える必要があるかも。
iphone や ipod ユーザだって買い換えてるだろ。
お互い様だよな(笑)。

しかし、良い時代になったよな。
クラシック曲なんてネットからダウンロードし放題。
思うに、やはり遅く生まれれば生まれるほど得だよな。
医療技術は進むし。
歯医者に通ったり病気に罹る確率は明らかに減る。
年金や医療費で老人に搾取されて若干貧しい生活を強いられるとしても、やはり若い人の方が恵まれている、
と言えば言えないか。

で、思うのだが、WiMAX ルータを1台持っておき、
タブレットとノートPCと携帯を使い分けるのが一番合理的だと思うんだ。
タブレットはvitaでも可。
携帯はできればWiFiにして欲しいよなあ。
通話機能だけで十分なんだけど。

家政婦のミタ

『家政婦のミタ』を、私は実際に見たのでなく、wikipedia で読んだだけなのだが、普通のテレビドラマにしては異様にストーリーが複雑なのに驚く。
これは『家政婦は見た!』という先行するテレビドラマシリーズのオマージュであり、
さらに『家政婦は見た!』には松本清張の原作『熱い空気』(1963年)があるという。
つまり、いわゆる「家政婦モノ」というドラマのジャンルの集大成であり、
ある意味で、アニメ界のエヴァのような作品なのかもしれない。

wikipedia を読んだだけで判断するのもどうかと思うが、しかし、シナリオというのは別に配役が決まって映像化すればわかるというものでもない。
プロットだけを判断するには十分だとしてだな。
これはただ一人の作家が書けるようなシナリオではないのだろう。
多くの人のこだわりが凝縮したものなのだ。
だから傑作となり得たのだろう。

一方で、普通のテレビドラマがどれほど適当に作られているかがわかるというものだ。
普通のテレビドラマがなぜつまらないか、
面白いドラマを作ればちゃんと視聴率が取れるのだ、ということが如実にわかった現象だと言える。