古今和歌集の真相

[古今和歌集](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86)
は醍醐天皇の勅令によって、
延喜五年に完成したことになっているのだが、どうもこれはおかしい。

まず、延喜五年では醍醐天皇は二十歳になったばかりで、勅撰集編纂を命じるはずがない。
普通二十歳くらいは和歌を一生懸命学んでいる年であって、歌のよしあしなどはわからないのが普通。
宇多上皇ならばあり得るだろう。
宇多上皇は醍醐天皇よりも長生きしているくらいだ。
仮名序を読んでみて必ずしも今上帝、つまり醍醐天皇による命令、とはどこにも書いてない。
なぜこんな自明なことが今まで指摘されなかったのか。

今日知られているいわゆる延喜の治というものは、
そのほとんどすべてが宇多上皇によるものであると、見たほうがよい。

[亭子院歌合](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AD%E5%AD%90%E9%99%A2%E6%AD%8C%E5%90%88)
というのから古今集に採られているのだが、
これは延喜13年3月13日に行われたことがほぼ間違いないわけだが、
古今集成立のずっと後である。
これも、よく知られた事実らしいのだが、あまり問題視されてはいないようだ。
後から付け足したのだろうと。

亭子院とは宇多上皇の院御所だから、宇多上皇によって催されたと考えてよいと思う。
でまあ、紀貫之集第十雑という、貫之集の一番後のあたりに、

> 亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れとあるに、

> 桜ちる木の下かぜはさむからで空にしられぬ雪ぞ散ける

とあって、その次に

> 延喜御時やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ始の月夜ふくるまでとかくいふあひだに御前の桜の木に時鳥のなくを四月六日の頃なればめづらしからせたまてめし出し給ひてよませ給ふに奉る

> こと夏はいかが聞けん時鳥こよひばかりはあらじとぞ思ふ

とある。
延喜御時とあるから延喜帝、醍醐天皇だと考えるのは短絡的で、
このときもやはり宇多上皇だったのではないか。
そんでまあかりに古今集仮名序や真名序が後世の偽書であったとしても、
この部分でもって、貫之に勅撰の命令があって、それが古今集として伝わっているのだ、
と解釈は可能なんだが、
貫之集の中の歌の並びからいけば、
この宇多天皇からの院旨は、
亭子院歌合の後だったんじゃないか、
延喜十三年以後だったのではないか(延喜の御時だから、延喜年間より後ではない)、
と思われるのである。
というかそう考えるのが一番自然だ。

でまあ、仮名序が最初に現れるのは
[元永本古今和歌集](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%B0%B8%E6%9C%AC%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86)
という写本で、
恐ろしく非常に豪華絢爛な製本。
時期的には後拾遺集と金葉集の間くらい。
つまり白河天皇が一生懸命勅撰集という者を編纂していた頃なのだ。

私はつねづね、事実上勅撰集というものを創始したのは白河天皇だろうと思っている。

で、今回古今集を調べてみて思うのは、
古今集の最初の形態はおそらく後撰集や拾遺集と大差のない、ざっとした歌集だったのではないかと思っている。
それで、仮名序が一番先に作られたのが後拾遺集であり、
そこからさかのぼって古今集の仮名序が書かれたのではなかろうかと思っている。

古今集は確かにすごい、すばらしい歌集であるが、
仮名序はひどい。
支離滅裂だ。
あんまりひどいので後世の人が手直ししてるのが丸わかりなのだが、
どういうわけかこれを全部紀貫之一人が書いたのだと考えられている。

亭子院歌合を読んだ。
なるほど日記文学風の序がついている。
伊勢によるものだと推測されているが、実際そうかもしれん。
こんなふうに歌合に仮名序をつけたものの延長として、
ちょっとした文章が、古今集と一緒に流布していたのかもしれんし、それは確かに貫之が書いたかもしれん。
しかしそれを今伝わるような形にリライトしたのはずっと後の人であって、
おそらくは白河天皇がコミットしていると思う。

つまりは古今集を勅撰したのも事実上は白河天皇なのだと思う。

これまで後拾遺集や金葉集はあまりにも軽く見られてきた。
白河天皇の関与というものも。
しかし実際には非常に重要なものであり、
もっときちんと調べなくてはならないことだ。

もう一つ、古今集は、巻一春上、巻二春下あたりに、要するに前半部分に、
良房や基経の歌がいくつも出てくる。
しかも詞書きが異様に丁寧。
宇多上皇も醍醐天皇も初出は後撰集であって古今集には採られていないのに。
このことはすなわち、
古今集が成立するより前に、基経によって編纂された歌集の原型があっただろうということだ。
それをもとに、宇多上皇の勅命によって、もっと大部なものが作られたのではないか。
それがまあつまり、宇多天皇とか平城天皇とかあるいは光孝天皇の時代の歌が古今集の大半を占めていることの理由ではなかろうか。

さらにもう一つ、
亭子院歌合のとき貫之はまだ殿上人ではなかった。
だから、
「亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れ」の時にはおそらく地下に居た。
「歌一つ奉れ」と言ったのは殿上にいた誰か、貫之に屏風歌を詠ませた主人だ。
だが、
「やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ」
の時には明らかに昇殿しているのである。
このときは正式な勅命を受けていると思われる。
それは従五位下に昇進し、貫之自身が殿上人となった、延喜十七年以後のタイミングであろうと思うのである。

茜の帳

おそるおそる読んでみたのだが、『茜の帳』というのはおよそ前半部分の小説で、
わりとあっさり読み終えてしまう。
小説の最初、家庭教師とのからみ、その後霊媒師の話はまあおもしろい。
あえてたとえると「辛酸なめ子」が小説書けばこんな感じか。
言葉遣いというか語彙が少しおもしろい。

最後のあたりが何か祐徳稲荷の幻想を記述しているのだろうけど、
その前までのほうが読み応えがあったかな。

残りはブログの転載記事的なものであり、
ざっと読み流した。
定価はいくらなんだろう。
ちょっと短いかなあ。

祐徳稲荷は子供の頃つれられていったことがあり、
なんだか異様にばかでかい朱塗りの階段が延々と続く神社だなという、
なんともいえない異様な記憶が残っていて、
肥前鹿島にあるので鹿島神社というのかとずっと思ってたが全然違って稲荷神社だった。
あんな田舎になぜあんな巨大な神社があるのか。
これに書いてある説明を読むと江戸初期に勧進されたわけだから、
歴史が長いというわけでもない。
実に不思議だなと改めて思った。

どうでもいいことだが辛酸なめ子が昔、池松江美という名前でブログ書いてたんだけど、
ええっと「女一人日記」だったかな。
あれはおもしろく読んだ。
確か紙の本として出版されたんじゃないかな。
いまさら読み返そうとまでは思わないけど。
『千年王国』とか『にがよもぎ』とか。なつかしいな。

cat shit one vol. 1

cat shit one を読み終えた。
シリーズ化第一巻だけあって非常に読み応えがある。
そのへんの凡百のベトナム戦記ものよりためになるだろう。

インドシナ史の入門書として読むのもありかもしれない。

cat shit one の前に
dog shit one という劇画調の漫画があっって、
月刊コンバットマガジンという雑誌に連載され、
それも収録されているのだが、
正直大しておもしろくない。
アメリカ兵がウサギでベトナム兵がネコという意外性がなければ、
ミリオタではない私がこれを目にすることはなかったと思う。

酒の味

若者に純米酒を飲ませてやると、「アルコールの味がする」などという。
そりゃそうだアルコールなんだから。
彼がいわんとするところは、つまり、アルコール度数が高い、ということだろう。

純粋にアルコールの味というのはウォッカなんかを飲めばいい。
エチルアルコール以外の味や香りは活性炭で完全に取り除いてしまうからだ。

それに比べると中国の白酒などはものすごい濃い香りがする。
こういうものは、普通、蒸留だけではつくはずがなくて、
樽に寝かせてその香りがつくものなのではなかろうか。
よくわからない。

ふむ。蒸留した後にも麹を加えたりするのか。
しかし、蒸留酒に麹菌を入れてもすぐ死んでしまうと思うのだが。
単なる風味付けなのだろうか。

ビールを飲ませると苦いという。
私もビールの味がわかりだしたのは35くらいからで、
日本酒の味がわかりだしたのは45くらいからなんで、
たぶん人より遅いくらいかと思うが、
若者がビールも日本酒もまずいという気持ちはよくわかる。
たぶん魯山人が年をとらないと料理の味はわからんと言っているのと同じことだと思う。
そういえば煙草を吸わなくなったのも35くらいで、
酒や料理の足がわかりだして煙草が嫌いになるというのは関係あるのやもしれん。

春秋公侯伯子男

気になったので主に中文ウィキペディアを参考にして調べてみたのだが、
春秋時代(西周)当初の爵位というのはこんな感じだったらしい(一部戦国が混じってるかもしれない)。

公国
: 周、宋、虢、州、虞、召、

侯国
: 魯、斉、陳、唐、蔡、衛、邢、随、杞、曾、滕、薛、紀、徐、莱、韓、魏、息、荀、酆、楊、管、応、王叔、

伯国
: 燕、秦、曹、鄭、梁、凡、茅、郕、邳、毕、祭、原、滑、単、芮、

子国
: 楚、巴、呉、越、向、須句、莒、郯、鄅、鄫、钟吾、邾、偪阳、譚、牟、雍、毛、劉、賈、

男国
: 許、宿

周には王と公がいた。
周王と周公。
周公にはたとえば周公旦がいるが彼は王ではない。
周公爵旦などという言い方はしない。
周公国、という言い方もしなかったはず。
鄭国の君主は鄭伯、などと言ったはずである。
男国が非常に少ないがあまり重要性がないので後世に記録が残ってないだけなのかもしれぬ。

商の時代には公侯伯の三爵しかなかった。周になって五爵になった。
春秋に、そう書いてあるらしい。

子国と男国にはほんとに爵位があったかも疑わしい。
特に楚などはみずからは王を称していたのだが、
朝貢貿易みたいなもんで、
たまたま楚の使節が周に訪れたとき、周が勝手に子を叙爵しただけかもしれない。

山東地方には群小の邑があり、それらは実際に男国と呼ばれていたかもしれない。

当時の国とか君主というのは要するに今の大地主みたいなもんで、
あるいは、本家があって分家がある田舎の大家族みたいなもんで、
従者や奴隷などを含めてもせいぜい一万人くらいの集団だったのではなかろうか。

公侯は百里四方、
伯は七十里四方、
子男は五十里四方の領国とあるが、
百里は4kmなんで、百里四方は16km2=1600haくらいか。
山手線の内側が69km2らしいから、ざっとその四分の一。
まさに耕地を含めた邑の広さだわな。

たとえば、今日 Principauté de Monaco をモナコ公国と訳す。
しかるに、「春秋の筆法」に従えば、単にモナコ国となり、その君主がモナコ公となる。

原音至上主義

久しぶりに『エウメネス』を読み直してみる。
しばらくして読むといろいろ忘れているので新鮮に読める。
だいたいこんな感じで間違ってないと再確認する。

ギリシャはヘッラス、ヨーロッパはエウロパ、
パピルスはパピュルスと表記すべきではないのかなどと思い始める。
しかしギリシャをヘッラスに統一すると、
ギリシャ語はヘッラス語になり、
あるいはヘッレニーケーなどとなるのだが、あまりにもわかりにくい。
ギリシャというのはラテン語であるから、
当時のギリシャをギリシャと呼ぶのはほんとはおかしい。
きわめてよろしくないことなのだがあまりに不便だ。
めんどくさいのでほっとくことにした。

文中「ヘーレスポントス海峡」というのが出てくるが、
これは現代ではトルコ語でダーダネルス海峡。
本来は Έλλης πόντος だから直訳すれば「ギリシャの橋」
という意味だ。
これまた訳しにくい。
原音至上主義ならば
「ヘッレースポントス海峡」とすべき。

しょうがないので、
パピュルスとヘッレースポントスは次回なんかの機会に修正することにする。
どうも些末なところばかりいじっている印象がしてよろしくない。

他人事だが『ヒストリエ』ではアレクサンドロスがギリシャ統一のためにビュザンティオンを攻めるという。
なんだかよくわからない。
マケドニアによるギリシャ統一は父フィリッポスの代で終わっているはずだ。
何がやりたいのかよくわからないのだが、もしかして、
カイロネイアの戦いみたいなことを描きたいのだろうか。
テーバイ、アテナイがペルシャと組んでマケドニアに対抗し、
ペリントス、ビザンティオンで戦いが起きたというのは、
カイロネイアの戦いの前のことだ。
要するにギリシャのポリス間の戦いまで描いて終わらせたいのだろうか。
もともと史実とはあまり関係なさそうだったが、
『ヒストリエ』という題名からますます離れていきそうだ。

BNP

BNPの値が6月急に252とかになって、
心房細動とか出たりとか心肥大だとか言われてあせったが、
毎日ちゃんと薬を飲んで今日の検査にのぞんだら、
4.2に下がっていてほっとした。
BNPは50超えると心不全とか言われてて、
アンカロンという薬が不整脈を抑えてくれると私の場合それが回復するらしい。

思うに、心房細動は30歳頃から出ていたから、
私の心臓というのは、昔から不整脈がでやすいたちだったのだろう。
不整脈のせいで心臓に負担がかかり、心不全となって、肺水腫となった。
さらに不整脈が進行して心室細動となった。

アンカロンを1日1錠では足りなかったが、
1日2錠飲むようになり、BNPが下がり、症状が改善した。
薬飲むのをさぼってアンカロンを1日に1錠かそれより少なく飲むようになってまた
BNPの値が高くなった。
1日2錠忘れずに飲むようにしたらまた治った。
ということだろうと思う。

世の中戦争かなんかになってアンカロンが入手できなくなったら、
私はたぶん数ヶ月で死ぬのだろうと思う。
だけど毎日薬飲まなきゃ死ぬ人なんてたくさんいるわけだし。
人工透析してる人もいるし。
まあ、よくいる病気持ちってことだわな。
国が認めた重病人。

宗教というのは、霊長類の脳があまりに肥大しすぎて、
特に人間の場合はそれが顕著で、
脳の産物が現実世界にあふれ出してできたものであろうと思う。
人間の最終目標というのは、脳の中の世界をそのまんま現実化することだろうと思う。
自我というものを永遠化することだと思う。
宗教というのはその不完全な段階に相当するのだろう。

暑いときを涼しくするとか、寒いときを暖かくするとか、
食べ物を安定供給するとか。
そういうことは、宗教ではないだろう。
しかし、精神を病んだときに心を救済するというのは宗教だろうと思う。
カウンセリングとか臨床心理学などという言い方もするのかもしれない。
心を救済するには事実や真実でなく、虚構であってもよいらしい。
そこが、エアコンを発明するとか、
農産物の収穫を増やすなどということと根本的に違うところだろうと思う。

肉も卵も食べなかったがコレステロール値が下がらない。
思うに、コレステロール値というのは体重に相関するのだろうと思う。
要するに、コレステロール値を下げるにはやせるしかない。
炭水化物であろうがなかろうが、
食べる量を減らすしかないようだ。

feedの整理

[前書いたこと](/?p=12966)と同じだが、
読んでるサイトのfeedがあまりに混沌としているので、
割とひまなんで(とりあえずモデリングくらいしかすることない)、
新たにdigg readerにアカウントを作り
(今までgoogleでログインしてたのをtwitterアカウントでログインし直しただけだが)、
そちらにどうしても読みたいものだけ移すことにした。

みんながまじめにウェブサイト作ってればフィードリーダーの時代は続いたのかもしれんが、
twitterとかfacebookとかに流れてしまって過疎ってしまった。
一番良いのはやっぱりみんながきちんとウェブを維持することだと思うが、
それがなかなかできないんだろうな、やっぱ。
しきいが高いってのかな。
フィードリーダーでサイトの更新チェックして読むというのは、
今から思えば新聞や雑誌の記事を購読しているのと一番近い。
記事の執筆にはそれなりに労力が必要で、誰もができるわけではない。
ということか。

twitter とかだと逆にアホな子がどんどん露出してきて、
それはそれで問題だ。
facebook は知り合いか知り合いじゃないのかわかんないやつから友達リクエストが来て、
誰だこいつとか考えるのが面倒なんでそろそろやめようかとも思う。

そんで田中久三というのは虚構の部分で、
リアルな自分というのもあるわけだが、
できるだけネット上の存在は田中久三の方に収束していったほうが幸せなんじゃないとか、
思わなくもない。
定年退職まであと20年切ってるわけで、
実世界では現状維持のままなんとかやりくりして、
よけいな冒険はしない。
こっちの世界でやりたいことやるというのでどうか。
できるだけ実世界から前倒しで引退してこっちの世界で遊びたい気持ちもある。

昔はだらだら実名で身内話とか書いてたわけで。
fj とかなら 1991年くらいからそう。
web だと 2000年くらいまではそんな書き方してた。
よく考えると今の twitter や facebook の使い方となんら違いない。

矯正視力は両目とも1.5以上と、たぶん生涯で今一番視力が良いのだが、
パソコンの画面が見づらくて仕方ない。
老眼鏡を買うべきなのだろう。
キンドルなんか読むときは裸眼で顔近づけて読めばよいが、
パソコン作業は画面全体を見なくちゃならぬ。
作業効率的にどうにもならん。

WP Social Bookmarking Light

このサイトは見ればすぐわかるが wordpress でできている。
wordpress を使い始めたのは tanaka0903 という名前を使い始めてだから、
2009年3月からだと思う。
それ以前は一時的にはてなダイアリーを使っていて、
それ以前のことはよく覚えてないが、たぶんHTMLじかうちだったと思う。
このサイトは1986年くらいまで補完されているが、
もちろんそんな昔からこのサイトがあったはずもない。
私は1994年からwebサーバーを立ち上げているんで、
おそらく日本でも最初期からずっーとwebに関わってる人間の一人だと思うんだが、
それ以前にはwebなんてものはかげも形もなかった。
ただ、1986年頃からすでに和歌を詠んでいたというのを見せびらかすために、
さかのぼって載せてある。

そんで当初は wordpress よりか movable type のほうが人気があったと思う。
周りでも wordpress よか movable type 使っている人が多かったように思うが、
wordpress にしといてよかった。
perl が嫌いという理由が一番大きい。
php も嫌いだったが知り合いに使ってる人がいて普通に使うようになった。
wikipedia だって php + mysql だしね。
趨勢は見えてたよな。
movable type で perl + postgresql とかでやってた人たちはそろそろ死滅したことだろう。

そんなことはどうでも良くて、
[WP Social Bookmarking Light](http://wordpress.org/plugins/wp-social-bookmarking-light/)
というのを使い始めたのはつい最近で、
twitter でつぶやけるようにしようと思ったらいろんなほかのSNSにも使える。
今まで、はてぶとツイッターで反応があったが、
検索してもよくわからん。
もしかすると非公開のはてぶとかツイッターで使われているのかもしれず、
単に検索に引っかからないのかもしれない。
facebook 反応ないんで削っておいた。
正直SNSをずらずら並べるのはうざい。
私自身ははてぶあんま使わないのだが使ってくれる人がいるようで、残しておく。
このプラグインの作者は日本人のようで、
ソーシャル・ブックマーキングという呼び名からしてやはりはてぶ関係者だろうと思われる。

ときどき過去記事を発作的に非公開にすることがあって、
それをツイートされているのを見つけた。
とくに非公開にするような内容ではなかったので公開に戻しておいた。
0903以前のものは当たり障りのないものだけが公開されているだけで、
実際にはもっといろんな雑記が残っている。

『特務内親王遼子2』はすでに減速しはじめていて前作『スース』には及ばないことはほぼ判明した。
『スース』はイラストを増やしてラノベ風にしたから読まれたのだろうかと思ったが、
単に女子大生がお酒を飲む話なので読まれたらしい。
てことはいくら pixiv とかと連携して cg 増やしても、
それだけでよそのラノベと同じくらいに注目されたり、
読まれたりするわけじゃない、ってことだ。

世の中、ラノベやミステリーが読まれる、
というより、kdp だろうが紙の業界だろうが、ラノベやミステリー以外は売れない、
というわけを、kdp やりながら我が身の上のこととして思い知っているところだ。

ある文学部出身の人がいて今彼はアーティスト兼デザイナーをやっているが、
彼は文章を子供の頃から書きまくっているが、自分のためだけに書いて、
人には決して読ませないという。
文学好きな人にはそういう人もいるのかもしれん。
私がキンドルで出版してあれやこれや売ろうとがんばっているという話をすると、
なんだか作家のようですねと言われる。

「文学」はともかくとして「文芸」というのは芸能の一種で、
落語や演芸のたぐいだと、最近は思っていて、
いかに人に読ませるか巧むところがたいへんでおもしろい。
だから世間一般のラノベやミステリーは確かに「文芸」だ。
せっかく書いたものは私の場合できるだけたくさんの人に読んでもらいたいし、
後世に遺したい。
後世に遺らぬものをいくらがんばって書いても死んだら終わりだと思う。
死んで終わりなら生きてるうちに楽しんだほうがましだ。
たくさんの人に読ませる技能の部分が「芸」だと思う。
ただその「芸」の部分にも何かの「アート」はあると思う。
「芸」と「アート」ね(笑)。

というか、読んでる人などいないと思ってたら意外といるらしいのでうかつなことは書けない。