アーティスト

エンジニアはアートが天然自然に存在するように思いがちで、「数学はアートだ」とか「宇宙はアートだ」とか「自然はアートだ」とか「科学はアートだ」とかいいたがる。しかしアートはアーティストが作り出すものであり、アーティストはおそらく人類の歴史でもそうとう古くからいる人種だが、エンジニアは近代以降に現れたきわめて人工的な職種で、エンジニアが夢想するアートというものもまた人工的なものであって、これに対してアーティストがアートと呼んでいるものはきわめて人間臭いものじゃないかと思う。

アーティストは今でも個人経営か家内制手工業の形態をとる。デザイン事務所もたいていこぢんまりとしている。アーティストはパトロンという人たち抜きでは存在できず、むしろ逆に、アートの本質はパトロン制度そのものではないかという気もする。アーティストは自らの意志で存在するのでなく、国家や企業に縛られない個人のアーティストというものをパトロンが必要とするから、存在し得る。アートとは何かという問いは非常に難しいが、制作費を稼ぎ図録に載せ美術館に収蔵してもらい後世に作品を遺すという才能、もしくはそういう目利きをするキュレーターという才能であれば、かなり正確に定義可能だろう。

エンジニアは近代以来国家や企業に雇用されることによって、アーティストから分離して生まれた。エンジニアは賃金労働者であって近代では組合や労働法などによって守られているから、職務規定に縛られてはいるが雇い主に媚びる必要はない。ある一定の制約のもとで生活は保障されているから、「自己の職務と夢想に忠実に」研究や開発ができる。

エンジニアとアーティストが見た目これだけ違っているのは、実は単に雇用形態の違いだけなのかもしれない、などということはすでに誰かが指摘してることに違いないのだが。

毛沢東の私生活

「毛沢東の私生活」という本を読み始める。
昔も読んだのだが。
毛沢東の主治医になった李という医者が毛沢東に秘書にならないかとか、
政治や哲学の話題をふられたりする。
医者(技術屋)が秘書(事務屋。政治家)に転向した例は多い。
孫文、魯迅、郭沫若…、などと言ってしきりに誘われる。
しかし李先生はかたくなに一医師であり続ける。
そして毛沢東の死語だいぶ経ってからこんな暴露本を書いたりするわけだなー。
若い頃は技術屋さんでも中間管理職以降はだんだんマネージメントをやらされる。
昔読んだときと違う意味で感情移入してしまったわけだが。

ウコン

ごく大まかに言えば、
安いウコン茶は原産地がインドで、
高いのは沖縄産。
カレーの黄色いのはウコン(ターメリック)が入っているからで、
インドは世界最大のウコンの生産・消費国。
物価もそんな高くないから、
インドから輸入すれば安く作れる。
沖縄産にこだわるとやや高くなる。

焼酎

焼酎試飲会。
青酎というすごく臭い酒を飲んだが昔の白波はこれよりもずっと臭かったという。
なんでも数年前森伊蔵などの臭くなくてうまい芋焼酎というのが評判になり、
白波など昔からある焼酎も臭くないよう努力した結果、
今では臭い焼酎の方が珍しく「個性的」だなどと言われるようになったそうだ。
芋焼酎など臭くて女性が飲むものではないという私の先入観は間違いではなかったらしい。

焼酎は戦時中に兵隊に飲ますアルコールを増産するために国策として清酒の酒造に作らせたものがほとんどだという。
南九州は清酒を造るのには暑すぎるので焼酎専門の酒造が多いが、
長野辺りだと冬は清酒、春から焼酎を造るそうだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチという神話

レオナルド・ダ・ヴィンチなんだけど、
代表作は「モナリザ」と「最後の晩餐」くらいで、
あとは膨大な手稿と素描。
「モナリザ」「最後の晩餐」はすごいのかしれんが、
過大評価されすぎな気がする。
片桐頼継著「レオナルド・ダ・ヴィンチという神話」という比較的最近出た本では、
レオナルドの周りには技師や医者や建築家などのさまざまな科学者が居て、
レオナルドは彼らのアイディアを挿絵に描いてやる
「テクニカルイラストレーター」だったのではないかと言っている。
レオナルドがもし科学者であるとすればオリジナリティがなくてはならないが、
レオナルドの場合はたまたま良く描けた手稿と素描がまとまった形で後世に伝わったというだけで、
もっとオリジナルな発明や研究はレオナルドの先人たちによってなされていたという証拠がどんどん出てきているそうだ。
そうなってくると
「万能の天才」とか「芸術と科学の融合」
などという話はそもそもルネサンスにもなかったということになる。

ある人が死んでしまうと後には文書や作品などしか残らない。
百年も経つとそういう文献だけが「事実」となり、
それら断片的に残された古文書を「補完」することによって、
同時代の人たちには想像もできない形で神格化されていくというのは、
良くあることかもしれない。
現代でも一部の有力者が勝手に流行や権威を作り出すということがありがちなように。

レオナルド

レオナルド・ダ・ヴィンチの本をいっぱい借りてくるが、
すでにルネサンスの頃にフランス人とイタリア人の間で
「科学のない芸術は無だ」(Ars sine scientia nihil est) とか
「芸術のない科学は無だ」(Scientia sine ars nihil est)
などという問答があったらしく、
ほとんどまったく同じ議論が未だに繰り返されていて、
基本的にはなんの進展も見られていない。
おそらくルネサンス以来今日まで同じようなことが何度も何度も起きていて、
サーベイする前からその膨大な試行錯誤の歴史を想像するだけで気が遠くなる。
何年も自分なりにやってみると、
やはりどうしようもなくうさんくさいものが目に付くようになってきた。
知ればしるほど飽きてつまらなくなるというのは良くない傾向だが。

レオナルドは芸術と科学を融合させた天才だと言われているが、
実は話は逆だと思っている。
レオナルドの時代までは芸術と科学に区別はなかったのだが、
彼の時代でついに決定的な違いが生まれ、
その後ものすごい勢いで離れ遠ざかってしまったのではないか。
芸術と科学は対立概念なのだと思う。
ars とか scientia という言葉が今と同じ意味に使われるようになったのも、
西洋のルネサンス以後、レオナルド以後なのではないか。
イスラムや中国で芸術と科学の対立概念などそもそもなかったような気がする。
古代ギリシャにも中世にもなさそうだし。
となると近代西洋固有のものではないか。

つまりレオナルドとかあるいはカルダノなんかは、
科学と芸術が分離する最後の時代の人だったのじゃないか。
科学と芸術を融合させるに、
ルネサンスやレオナルドを見習えなどというのは見当違いなのではないかと思うのだ。

華氏911

マイケルムーアの番組とか華氏911とかみてると、
アメリカ経済は軍事産業や大企業やアラブの大富豪に癒着してるということはわかるのだが、
ならそれは「良くない」ことだからブッシュを落選させてケリーを選べば良いかというと、
アメリカが汚れて腐ってるのは昔から分かり切ったことで、
清らかな国になったらよけい危ないじゃないかと、
選挙民は思ったのではないか。
自分の悪事を自分で裁ける人間などいるまい。
だからブッシュは再選したのであってマイケルムーアの映画は逆効果だったのではないかと。

アップルシード

アップルシードを見たが、実に見事なできばえだ。
セルは一切使っておらず、フルCGで、人物はトゥーンレンダリング、
背景やメカはリアリステックなレンダリング。
モーションキャプチャもリップシンクもまずまず、
というか今の技術ではこれ以上の動きは無理だろうな。
体の動きの役、口パク役、声優役とそれぞれ別人のようだ。

この感覚は青の六号に似てるが、青の六号はここまで徹底していなかったような気がする。
良く思い出せないが。

ストーリーを含めた総合的な評価はともかくとして、
日本のCGアニメもまだまだ捨てたものではないなと思った。
メカと戦闘とアクションと美少女CGだけで楽しめる人はこれで十分だろう。
そういう意味ではマクロスに似てる。
DoGAコンテストをものすごく高級にした感じというか…。
さっきから全然ほめてないようだが(笑)、良い出来だと思うよ。
これより悪いCGアニメならいくらでもあるし。

マイケルムーアの「華氏911」と「アホでマヌケなアメリカ白人」を借りてきた。
「アホでマヌケ…」は The Awful TRUTHというたわいないテレビ番組。

マッハ

マッハ見た。
アクションは確かにすごい。
見えないところにトランポリンが置いてあったりとか、
リアクションがオーバー過ぎるとか、
そんなまやかしは一切ない。
もちろんCGも速回しもない。
たぶんブルースリーを超えてる。
しかし、映画としておもしろいかというと、どーかな。
良くも悪くもタイ映画というか。

シュレック2も見たが、なんと退屈な続編だろうか。
また途中で寝てしまった。
そりゃあ3年でCGは見違えるほど進歩したろうさ。
しかしそれがどうしたというのだ。
キルビルとはえらい違いだ。
スパイダーマン2にも悪い予感しかしない。
それはそうとキャシャーンがずーっと貸し出し中で借りられんのじゃー!
キューティーハニーはあまりまくってるのだが。
勝負ありまくりだよな。
つーか、シュレック2をそんなたくさん借りるやついねーよ。
なんだかなー。

アートには社会的なアートもあれば反社会的なアートもある
(非社会的だと言いたいわけではない)。
技術的なアートもあれば非技術的アートもある。
資本主義的アートもあれば共産主義的アートもある。
平均してならしてしまうとアートというものがわからなくなるが、
世の中が無秩序で迷信に包まれるとアートは体制的になったり啓蒙活動と結託しようとするし、
世の中が安定し画一化するとアートは反社会的アナーキズムへ向かう。
アートという純目的的なものがあるのではなく、
むしろアートは社会から積極的に影響されようとし社会を変えようとする
(アーティストが、というよりはアートを愛好する人たちが、といった方がよいかもしれない)。
この点、社会や人間性から比較的自由なのは科学の方であって、
特にもっとも「非社会的なアート」は数学だろう。
アーティストはしばしば数学を拒絶し理解しない。
これは「数学がアートでない」からというよりむしろ、
より社会的な人が(つまり数学を解さない人が)多くアーティストになるからではないか。

アートが「美」や「真実」よりもしばしば「コンセプト」や「哲学」を重視するのも同じ理由ではないか。
コンセプトとはより具体的に「社会的メッセージ」と言えばわかりやすいだろう。
数学者は社会に何かメッセージを送りたくて数学をやるわけではなく、
むしろその正反対だ。
そういう意味では数学は「美しい」が「アート」ではない。
プログラミングについても同じことが言える。
プログラミングは「何かを表現するための手段」であるというよりは、
それ自身がアートだ。
IllustratorやPhotoshopやカメラやコンピュータは「何かを表現するための手段」であるが、プログラミングや数学はそれ自身がアートなのである。
しかしこのアートは社会的でもなく反社会的でもなく体制的でもなく反体制的でもなく、建設的でもなく破壊的でもない。
人を崇高にもさせない代わりに堕落もさせない。
そのようなコンセプトを盛るための器ではく、
従って純粋に目的そのものなのである。
社会から遊離し隔離された純粋目的であるからこそ価値がある。
だからアートに嫌われる。
だから、アートとは呼ばず、技術とかあるいは Hack などと呼んだ方がよいかもしれない。

世の中が技術的に未熟なときか発展途上のときは、
アートと技術の関係が一番良好で、
アートは技術を支援しようとする。
技術が発展した今日ではむしろアートは非技術的で非生産的で原始的な方向へ行きたがるようだ。
アートとしてはそれでよいかもしれないがエンジニアや科学者にとってはたまったものではない。
芸術は科学と対立する位置に置かれることもある。
これはアートだと科学的に説明した瞬間にそれはアートでなくなってしまう。

芸術と科学の融合というが、
芸術が本来もつそのようなあまのじゃくな性格を理解せねばうまく行かないと思う。
レオナルド・ダ・ヴィンチの時代は芸術と技術が未分化であってかつ技術が未発達だったので、技術と科学の蜜月関係が生まれたのだろう。
同じことが現代に通用するだろうか。