文中の(  )にあてはまる文字を入れなさい

今更読んでみた。
読んだがよくわからなかったのでネットでぐぐってみた。
そうするとだんだんわかってきた。
感想を書いている人が多いのにすこしびっくりした。

つまりこういうことか。麻美は百崎Pにそそのかされてボーカルになりステージにあがったがうたいだしが思いつかなかった。
パニックに陥り「少女3」のところで、異世界にとばされたのだ。
なんだつまりは異世界ものか、と思った。
つい最近「パプリカ」を見たのでそれに似ているなと思った。
よくわからない(と、いうより、わざとはぐらかしたような)ハイテンションが続く展開。

少女パートと少年パートが交互に進んでいって最後にボーイミーツガール話になるかと思ったら、
そういう可能性もあるがそうしなかったみたいなメタな結末。

それで伊能忠敬がよかったとか、異世界に飛び込んだ感じが良かったとか感想書いている人がいて、
自分はそこでツボらなかったし、
ハイテンションな疾走感のある、というか迷走してる感じの文体というかストーリー展開に引き込まれることもなかった。
そういう展開の中に自分から飛び込んでいき浸れる人には面白いのだろうが、私はそういう読書をするには年を取り過ぎたし、
いや、年を取ってもそういう読書をする人はいるんだろう。
祭りだから踊っとけという人だけが祭りの中へ入っていける。私はもはやそうではないんだなってことを改めて知った。
では実験小説、前衛小説として評価しますかと言われたら、うーん。
では次回作まで判断は保留しますか、という感じかなあ。
ま、次回作ももう読んじゃったんだけどね。

ダダイズムの詩や絵画みたいなもので異世界を表現されても、
普通の前衛小説の表現と見分けがつかなくて、
どこから異世界に入り込んだのか私にはわかりにくかったのでした。
私が、異世界ものを普段読まずになれてないせいかもしれないが。

たとえば 1984 を読んでいるときに、途中で異世界やファンタジーが混ざり始める、なんてことは決して考えずに、
私たちは読み進める。
ふだんからそういう頭でいる人間にはファンタジーまじりのフィクションは読めない。
読んでて途中でわからなくなるのはしかたないよね。

1984 から 1Q84 を調べてて知ったのだが、
1Q84 ってボーイミーツガールな異世界転生話なのね?
てことは今ラノベ界で大流行な「ボーイミーツガールな異世界転生話」というのはもしかして村上春樹の影響なの?
もしかしてラノベって多かれ少なかれ村上春樹に影響されてるの?
もしかしてこの世界が理解できない私というのは、
村上春樹を全く読まないからなのだろうか。
そんな気がしてきた。
けっこうな人たちが村上春樹の方向へつっぱしてっている世の中で取り残されたような気分がしている。

思うに、
真実であることを主張して嘘をつくのがドキュメンタリーであり、
フィクションをカモフラージュにして真実を語るのが小説というものだ。

ほんとうのことを実名で書いてはシャレにならないから、
時代を変えたり、人物を変えて、小説仕立てにして書くから、小説は面白いのであり、
奇想天外な、荒唐無稽な、ご都合主義的な嘘八百を書くから面白いのではないのだ(ま、しかし、世の中あれほどラノベの読者が多いってことは、夢想に溺れ、つらい現実から逃避したいからかもしれない。孫悟空的、ハヌマーン的な需要は別にあることは認めざるを得ない)。

そしてドキュメンタリーがしばしばつまらないのは、事実の断片をコラージュしただけのまがいものであり、
制作者のオナニーに過ぎないからだ。

1984

1984を書き遺したジョージ・オーウェルという人は、大英帝国の末期に生きたイギリス人なわけだ。「ビルマの日々」「動物農園」などをあわせよんでみると彼の輪郭がだんだんはっきりしてくる。

殉教者を作ってはならない(one must not make martyrs.)。

これこそまさに大英帝国がその数百年にわたる帝国支配において、というより、キリスト教社会において、長い年月をかけて学んできたことだ。

キリスト教は「殉教者ビジネス」の先駆だ。教祖のイエスが殉教者の典型であったが、しかし、ユダヤ教の預言者にその前例がなかったわけではない。イエスがその殉教という演出方法を完成した。ほかの、例えばバラモン僧が自分で火あぶりになって死ぬみたいに、悟りや救済のために自発的に死を選ぶ「殉教」ではなくて、キリスト教の「殉教」は権力者による宗教弾圧とセットになっている。

宗教的弾圧を受けることによってより強固な共同体を作り出し、民衆、特に貧民を組織し、国家を侵食していって、やがて国教におさまって国家を乗っ取る。キリスト教とはそのような宗教である。

かつて日本にやってきた宣教師も弾圧され殉教した。ローマ法王は日本で殉教した宣教師を列聖することによって、日本にキリスト教の種を植え付けようとした(日本も爆心地の浦上天主堂をそのまま遺しておけば殉教のシンボルとすることができたのだが、建て替えてしまい、惜しいことをした)。殉教によって信仰がより強固になることを知った徳川幕府は、彼らを殺してしまってはいけないということに気付いた。改宗させるか、改宗しないまでも、生かして閉じ込めておくことにした。死ぬと殉教者になってしまい、信者たちの心の拠り所にされてしまうからだ。

20世紀には独裁国家が多数生まれ、殉教者もまた大量生産された。欧米の独裁者たちもまた、殉教者を自ら作り出さないように腐心した。独裁者たちは死に至らしめない肉体的拷問方法をたくさん編み出した。そしてもっとも巧妙なのは、反逆者らを精神的敗北者にしてしまうことだった。そのために一番効果的なのは、同志を告発させ、裏切らせ、転向させることだった。日本の「踏み絵」と良く似ている。「異端者」を「自由意志にもとづいて」「屈服させる」。「消極的な服従」にも、「至高の服従」にも満足しない。自分の最も愛する人を裏切り告発することで人は心が折れてしまい、反逆者として存在しなくなってしまう。これは反逆者を死刑に処すよりもずっと効果的なのだ。ということが 1984 に描かれている主題だ。

しかしながら、そうやって反逆者を消し去ったようにみえて、結局は、スターリンや毛沢東も、殉教者を完全に抹殺することはできなかった。無数の、無名の殉教者がいることを私たちは知っている。

殉教者を実数より少なくみせることも、逆に多くみせることも、殉教者ビジネスの一種だ。この「殉教者ビジネス」は今日でも「被害者ビジネス」「社会的弱者ビジネス」として健在なのは驚くべきことだ。イエスが自分で意図してこのビジネスモデルを発明したとすればおそるべき慧眼といえる。

アンプルフォースという詩人がキップリングの詩集を編纂していた。その詩の一つに、rod と韻を踏むために god という単語が出て来た。脚韻のために god を詩から削除することができず残した、それで思想警察に捕まってしまう、という話が出てくる。

君は考えたことがあるかね、イギリス詩の歴史は、全般的にいえば、英語が脚韻に乏しいという事実によって決定づけられていることを?(‘Has it ever occurred to you,’ he said, ‘that the whole history of English poetry has been determined by the fact that the English language lacks rhymes?’ )

「英語が脚韻に乏しい」よく見かける文句だが、これは 1984 が初出なのだろうか。どうもそうらしいのだが、だとするとずいぶん新しい。

ところで 1Q84 は 1984 に触発されて書かれたものであって、それゆえに 1984 を読み返す人が多いというのだが、それはどうだろうか。

ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

シドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそれを理解した。

いや、それはどうだろう。新井白石の著書から、そんなことが読み取れるだろうか。彼の認識は「我国厳に其教を禁ぜられし事、過防にはあらず」であろう。

白石は、問題をこじらせないためには、宣教師を本国に送り返すのが上策だし、でなきゃめんどうだが幽閉してしまえ。処刑するのは下策だ。転向させたり拷問することは無意味だ、と提言しているだけだ。国内的には一般人から隔離して「存在しない」ことにしてしまえばそれで足りる。対外的には迫害や殉教という事実がそもそも「存在しない」ことを示せば足りる。

個人出版はいかにプロデュースされるべきなのか

プロデュース、本来は何か物を作る、特に農産物を生産することのはずだが、多くの場合、ラジオやテレビ、映画など、
何かの作品を作るために人と金を手配して、作品を市場に売り込むことを言うらしい。
別に日本人がそう誤解しているだけでなく、本家のアメリカでもそうらしい。

[Amazon 講談社の読み放題対象作品を一方的に削除した問題](https://kindou.info/74150.html)。

> きんどうとしては、もともと読み放題にユーザーさんが参加されても、読まれてもアフィ収入にはならないので……そのどっちでもいいっちゃいいんですが。

なるほど。
ぽちって買わないと広告収入にはならないわけですね。

私としてはアマゾンがこれからも「実験的」な新サービスを次々繰り出してくれることはありがたい。
アマゾンとしては Kindle Unlimited がどっちの方向へ走り出すか、
完全に読み切れない状態でのスタートだったと思うんで、不測の事態に備えて、
一方的に配信停止したり、契約解除できるような契約を結んでいたのに違いない。
大手出版社や、佐藤秀峰らが、アマゾンとどんな形で契約していたのか。知らんがな。
実際にアマゾン側に不手際があったのかどうか。
そんなことは私にはわからないから推測するしかないのだけど。

たとえば、佐藤秀峰さんところの「マンガ on ウェブ」。
今も読み放題で提供されている。
これは良い本だ。
アマゾンはこれは切ってない。
それ以外のどんな本が切られたのか。
佐藤秀峰は言及してない。

どんな本がどんな理由で配信を拒否されたか。
それについては誰も語りたがらない。明示してない。
語りたくないからでしょう。
ほんとうにアマゾンが不当だったのか。判断できない。
自分に不利なカードは隠して戦おうとしている。そりゃそうだろう。商売とは、訴訟というものはそんなものだ。
どうもどっちもどっちな気がしてしかたない。
出版社側もわかってるのではないか。なぜ切られたか。
ほんとうに自信がある本が切られたから怒ってるのじゃあるまい。
アマゾンにカスをつかませようとして断られたからキレてるだけでしょ。違うの?

私としては、アマゾンに対して、まじめな個人作家の作品をなんとかプロデュースしようという「愛」を感じている。
読者がたくさんの文字を読むということは、良書であるということだろう。
たくさんの文字を書いて、それをきちんと読んでもらえたということは、報いがあったと感じる。励みになる。
KENP はおそらくその指標のために作られたものだろう。

中身がすっかすかで、1ページ辺り読むのに1秒かかるかかからないかで読み捨てられるような本。
エロと猫と萌えの写真がずらずら並んだような本。
アマゾンとしてはそんな本をプロデュースしたくて KDP を始めたんじゃなかろうよ。
私も自分で書いていて、この本の1ページと自分の本の1ページ、同じ報酬で読まれたんじゃたまらんなという本をよくみた。
逆ももちろんある。
ああこの本の1ページには他のアホみたいな本の100ページ以上の価値があるのにと感じることもある。

もちろんアマゾンも商売で本が売れりゃそれでいい、しかし、
いままでの流通や広告では見すごされて、埋もれていた、良質な個人作家の作品を、マスとして掘り起こしたい。
潜在需要を掘り起こしたい。
いわゆるロングテイルというやつ。そういう戦略で KDP をやっている。
アマゾンの一連のサービスや対応で見えてくるのはそこだ。
アマゾンに一貫する長期戦略というのはそこだよ。
個人出版としてはそこに乗っかるしかないじゃないか。

あほみたいなマーケティングに明け暮れる出版業界。
そのあほみたいなマーケティング、特に、すでに形骸化して久しい文学賞とか権威付けに群がるしか能の無い読者たち、作家たち。
アマゾンがそこをヤってくれるかどうかはわからんが、そこが、長い目で見て解決されなきゃならない部分でしょ。淀みでしょ。

読み放題や試し読みの方法はもっといろいろ試されて良い。もっと広まったほうがよい。
読んでみたらつまらなかった本は淘汰されたほうがよい。
今のアマゾンランキングは改善されるべきだ。
これからもどんどん変わっていくのに違いない。

Kindle Unlimited やアマゾンプライムビデオという新サービスが始まっただけで、
私の映画視聴や読書の量、幅がまったく変わってしまった。
そしていままで見たことのない作品をたくさん見るようになった。
同じ事は J:Com で CATV を見始めた頃にもあった。

私はもう本など読まないつもりだったのに、こんなに読むようになったのは不思議だ。

同時に思うのは、仮に、仮にだが、たとえどんなに私の作品が勝れていたとしても、
それが他人の目に触れない限りは存在しないのと同じなのだ。
新サービスによって人の目に触れるようになり多少は読者が増えるかもしれない。
それは KDP や Kindle Unlimited などですでに体験したことでもある。

そして Kindle Unlimited のおかけで、ブログレベルのしょうもない本が良く読まれている例もよくみかけるようになった。
そんなのググればいくらでも書いてあるじゃんみたいな内容の本が KDP で出版して、有料なのだが、
Kindle Unlimited 対象なのでランキング上位にあがってくる。

人の目にどうやって触れるようにするか、いかにして人の目に触れる機会を増やすかということは、
非常に大きな問題だ。
私は二冊、紙の本を書かせてもらった。
KDP と何が違うだろうか。同じ人間が書いたものではないか。
しかし、紙の本のほうが明らかに人の目に触れやすいし、流通しやすいのだ。
むろん紙の本には編集者や出版社、書店、業界が介在し、助言や助力がある。
たいへん感謝している。
しかしそれでも KDP とこれほど差がつくだろうか。
そしてほぼ確実に予測できるのは、同じ私の本であっても、
マーケティング次第で、もっと売れるはずなのだ。
コンテンツのクオリティとは別の何かが必要なのは明らかだ。
それは何年もやってて身に染みた。

「潜入捜査官マリナ」は探偵もの、刑事もののジャンルで敢えて書くことによって、
そちらのジャンルの読者の目に触れようとしたものだ。
官能小説、大衆小説を読もうと思った人はあてが外れたかもしれない。
でも一応作品解説みればある程度わかるよね?
だがあまり節操なくいろんなジャンルに手を出すのは恥ずかしい。

個人出版にできることは限られているってことを、いまはひしひし感じてる。
アマゾンがまた何か新しいサービスを始めて、世の中への露出が増えないかなあみたいな他力本願なことを考えたりする。
たまたま誰かアルファブロガーかなんかの目に触れてレビュー書いてもらえないかなあなんてことも考える。
ま、ともかく、焦らず、自分が良いと思うものをこつこつ書いておくしかないのかもしれん。

アマゾンプライムビデオというやつを最近は良くみるようになった。

J:Com の CATV でせっせと録画していたのだが、最近は録画はめんどくさくなってほとんど使ってない。
もったいない。
でも BS で自動予約録画する番組がいくつかある(酒場放浪記と女酒場放浪記だが)。
まあ使っていくしかなかろう。

そんで今日は、「東京ゴッドファーザーズ」と「パプリカ」を見た。

「東京ゴッドファーザーズ」は15年くらい前の東京が舞台で、今とはかなり違ってしまっている。
新宿中央公園にはもはや浮浪者のビニールシート小屋なんてないし、
もう誰も公衆電話なんて使わない。
勝手に線路に下りたら点検のために電車が止まっちゃうから普通捕まる。
いろんな意味で15年前の東京はまだまだいい加減だった。
新宿南口にはまだ屋台が出てたし。
東京で知り合いと偶然出会う確率はほぼ0%だ。
帰る路線が同じで帰宅時刻もかぶってたりすれば別だが。
しかしその偶然が余りにもかさなりすぎるし、しまいにゃ宝くじにあたったりするのがしらける。
そういう偶然に頼ったストーリー展開は、私ならやらない。
全部が偶然で出来ている話は書いてもいいがプライオリティが低く、
ほとんど全部を必然で組み立てていてそこにご都合主義の偶然を一つ混ぜるとすべての努力が無になるからだ。
まあ、2000年頃の新宿の雑多な風俗をアニメで表現した作品、として見れば良いのかもしれないが。

「パプリカ」には困惑する。
夢の中でまた夢を見る、他人との夢、現実とが混ざり合う。
それはそれで面白いのだが、やはり「夢オチ」はしらけるものだ。
「東京ゴッドファーザーズ」と同じようにそのしらける技を徹底的に反復したという意味で、ふっきれているつもりなのだろうが、
なんというのかなあ。こういう派手なけばけばしい作品を作られると、
まじめな作品を作ろうとしている人間にとっては、迷惑な部分もあるんだよな。

面白いから許すというところまでふっきれてないというのかなあ。
筒井康隆の原作があるから完全な娯楽に徹してない。どこか思わせぶりだ。
たぶん筒井康隆の原作は、読んでないからわからんが、その夢オチ特有のしらける感じをうまく回避して作品を成立させてたんじゃないかと想像するのよね。

私としては、「オカルト」とか「ファンタジー」のご都合主義を極力削り落としてリアリズムに徹しようとしているわけ。
で彼らがリアリズムを捨てて虚構に徹しててくれれば棲み分けできるんだけど、
オカルト屋さんやファンタジー屋さんは、リアリズムにもちょっかい出してくるじゃないですか。
ありがちなんだけど。
そうするとリアリズムの世界だけで書いてる人間にしてみると、自分の作品がただの地味な作品に見えて困るのよねえ。
現実にはそんな面白い話は簡単にころがってない。
その制約のなかでいかに面白く、地味じゃない話を作るか。
起こりえることを、それが起こる前に思いつくことには意味がある。つまりは予言だわな。新規性。
手垢の付いてないストーリー。処女地の開拓。
起こった後なら取材だわな。ま、それにはそれで価値はあるが。
一番つまんないのはテレビか何かでみたような展開をご都合主義という糊で貼り合わせたような作品だよね。

「シン・ゴジラ」なんかは割と硬派な作りで、フィクションとリアリズムが一つの作品の中に共存しているんだが、
互いを極力侵さないようにしている。
しかしフィクションとリアリズムがお互いにもたれ合ってるのは見てて不快よね。
シン・ゴジラは、
ゴジラはフィクションなんだが、自衛隊や米軍はリアリズムでできてるよね、少なくとも前半までは。
ヤシオリ作戦からおかしくなる。ゴジラが気絶してるうちに口から注入するとか、
爆弾電車ぶつけるとかドリフのコントだよね。
ヤシオリ作戦は単なるエンターテインメントの怪獣映画になっちゃっててサービスのつもりかもしれないが、私にはつまらない。
まともかくフィクションとリアリズムは混ぜないでほしいというのが私の感覚。

feedly再開

なんか昔 google の feed reader があってそれがサポート切れしたんじゃなかったっけ。

それで feedly というのが出て来て乗り換えて暫く使っていたのだが、使うのやめにした。

しかし今の時代もブログをせっせと書いている人もいて、読んだほうが良い気がして feedly を再開した。
昔の subscribe がそのまんま残っていたので、やや手直し。

ソラリス総括

結局ソラリスを一から全部見直すことになってしまった。

ツタヤで借りてきたタルコフスキー版の DVD は 2013年製で、これは今年出た「新装版」Blu-Ray と内容的には基本的にはまったく同じものである、と思う。画質音質などに違いはあるのかもしれないが。タルコフスキー傑作選Blu-Ray Box を出すにあたりついでに「新装版」を出したということだろうと思う。それより前の DVD を入手するにはアマゾンあたりで中古を買うしかないようだが、そこまでする気にはなれなかった。

さて、ハリウッド版、というか、ジョージ・クルーニーが主演して、ジェームス・キャメロンとスティーブン・ソダーバーグが作ったソラリスだけども、最初の雨のシーンや、宇宙ステーションに流れているBGMがバッハなのは明らかにタルコフスキー版のオマージュである。レムの原作では、クリス・ケルヴィンは特に誰かに呼ばれたというわけでもなく、何かソラリスで事件があったからというわけでもなく、たまたま何かの通常任務としてソラリスに赴き、そこで宇宙ステーションの異常事態に気付くことになっている。ギバリャンとはかつて一緒に仕事をしたことがあるが、ギバリャンに呼ばれたわけではない。
ケルヴィンの肩書きはたしかに作中で「心理学者」と言及されているが、心理学者だからわざわざソラリスの非常事態に派遣されたのではない。そういうふうな書き方ではない。
ケルヴィンは物理学的な素養も充分持った、一般的な自然科学者として描かれている。

しかしソダーバーグ版では、冒頭でかなりの尺を使って、「精神科医」あるいは「セラピスト」として勤務しているクリスが描かれる。さらに、クリスは一人でベッドに寝ており、「私をもう愛してないのね」という女のセリフが流れることによって、昔つきあっていた女がいたが、今はいないことが示唆される。

そして、知り合いの科学者ジバリャン(原作ではギバリャン)が、ソラリスからビデオメッセージで助けを求めたのでクリスがおもむくことになる。そのメッセージは謎めいていてよくわからない。ジバリャンはいかにも心を病んでいるようにみえる。

このイントロは、おそらくアメリカ社会において、心理学者とか精神科のカウンセラーというものが日常生活に浸透していて、その「わかりやすさ」をシナリオに利用したのだろう。アメリカ人でない私には最初良くわからなかったが。原作にはそんなニュアンスは一切無い。

クリスがソラリスに着いてみるとジバリャンはすでに自殺していた。見ている側では、ああ、ジバリャンは心を病んでとうとう自殺を図ったんだなと思う。クリスは間に合わなかったんだなと思う。そう思えば自然な流れだ。それからスノウ(原作ではスナウト)とゴードン(原作ではサルトリウス)に会う。ジバリャンが何故死んだのかを聞き出すためだ。これまた自然な流れだ。ここまでSF的要素は極めて希薄である。スノウやゴードンという名前もおそらくはSF色(というかロシア色)を消すために変えてある。ソラリスというものについても何も説明されない。単に、クリスはジバリャンの心の治療のために宇宙まで呼び出され、患者はすでに自殺していたという流れだ。レムの原作を知って見ていると何が言いたいのかよくわからない展開だが、先入観無しに見ればそういうことになるはずだ。

いよいよ死んだ妻レイア(原作ではハリー)がクリスの元に現れる。セラピストのクリスが妻を自殺で死なせたという伏線がここで生きてくる。セラピスト自身がソラリスの謎の心理現象に対峙することになるわけなのだが、以後、妻との不仲と和解というものがしばしばメインテーマとなるハリウッド映画路線を突っ走ることになる。死んだ妻との再会、懺悔。ある意味アメリカ映画にありがちな、オカルト的な展開と言えなくもない。

これもハリウッドの事情を知らず、レムの先入観を持っている私などがみると、なんとも意味不明に見えてしまう。おそらくアメリカでは倦怠期の夫婦が映画を見に行くことが多いのだろう。精神科医やカウンセラーに夫婦仲を相談するということも一般的。そういうアメリカ社会の背景を下敷きにしいてみると、やっとこれがすごくわかりやすい映画なんだってことがわかる仕掛けなのである。

でまあそこまで考えてみるに、この映画の脚本家は一応大衆向けの映画を作る気でいたのに違いない。別に難解なソビエト映画のリメイクをやろうとしたのではないのだ。

アメリカではたぶん、男一人で、あるいは女一人で、映画を見に行くというのは罪悪に近いのではないか。だから、アメリカではオタクな映画は流行りにくい。男女の恋愛というものが描かれないと映画館に人を呼びにくい。きっとそういう事情がある。日本で子供向けの映画が流行るのと同じ理由だ。

われわれは自分を聖なる接触の騎士だと思っている。ところがそれが第二の嘘だ。われわれは人間以外の誰をも求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない。われわれには自分の世界だけで充分だ。ところが、その地球はまだなんとなく住みにくい。そこでわれわれは自分自身の理想的な姿を見出したいと思う。広い宇宙には、地球の文明よりももっと完全な文明をもつ世界があるにちがいない。また、非常に幼稚であったわれわれの過去の生きうつしであるような世界もあるだろう。

原作でレムはスナウトにそう言わせている。これがレムのSFなのだ。他人が書くSFとの違いをここまではっきり丁寧に説明している。レム以外のSFというのは要するに人間自身を映している鏡に過ぎず、実際に起こり得る地球外生命との接触などというものからほど遠いのだ、レムはそう言いたいのである。レムの小説を読む価値はここにある。レムと一緒になって、ほんとうの未知との遭遇とはどんなものだろうかってことをあれこれ思考実験する。人間の持つ先入観と戦う作業。しかしそれでは世間一般のSFにはならないし、ソビエト映画にもハリウッド映画にもならない。観客を映画館に呼ぶこともできない。

ソダーバーグ版の見どころを一つ言えば、スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。難点を言えば、これは人類に不変な真実を描いたものではない。私に言わせればこれはハリウッド映画にありがちな、アメリカ人のオナニーというのに近い。

wikipedia にも書いてあるのだが、90分に縮めた日本語吹き替え版は、レムの原作に近いという意味では良く出来たものになっていると思う。おそらくタルコフスキーよりはレムに同情的な人が、台詞やナレーション、効果音などをふんだんに補完して編集したのに違いない。ある意味力作だと言える。ただしタルコフスキー的要素を完全に切り捨てられなかったために、ラストが意味不明になってしまっている。誰かがレムの小説に忠実に映画化すれば良いのに。そうすればソダーバーグ版やタルコフスキー版を理解する助けになるだろう。

「君の名は。」が大ヒットしたというのだが、
一部の年齢層の一部の客が見に行って、延べ100万人超えたというだけのことだろう。

よくわからんのだが、
試写招待券はともかくとして、先行上映券や前売り券、平日鑑賞券なんかをばんばんばらまけば、
興行成績というのはかなり盛ることができるのではなかろうか。
実質どのくらい収入があったのだろうか。

私も某演劇を無料で見せてもらったことがある。
知り合いのコネさえあれば、見ようと思えば、人気の無い公演ならばいつでも見られるようだ。
そういうからくりはきっとあるはずだ。
映画館だってホテルだって、開店休業よりは、たとえもうけはほとんどなくても、
少しでも客を入れたほうがマシだと思うだろう。

100万人と言えばなんとなく気分で多いように思うが、
実は大したことないのではなかろうか。

シン・ゴジラは、やらせ無しでガチンコで客を呼んだのではないかと思う。
誰かそういう裏話をしてくれないだろうか。
知っている人はもっと詳しく知っているはずだ。

wordpress

tanaka0903.net が固まっていた。JetPack とか All in One SEO などのプラグインのせいであるのは明らかだ。いまどきアフィリエイトもやらずに、非力なレンタルサーバーで、プラグインも使わずに、wordpress を使い続けることにどんな意味があるのだろう。だがまあ、ともかくこのまま使い続けてみようと思う。もしかするともう少しうまい方法がみつかるかもしれない。facebook と連携なんてアホなことをやるのはやめた。