システムにキレる

某鉄道会社の予約サイトを使いながら私がtwitterの何にブチギレていたかってことがなんとなくわかった。つまり何よりもまずそのユーザーインターフェイスが不愉快なのだった。融通が効かない。人をイラッとさせる。どこかのブログサイトでもそう。AIについてもそうだ。コンビニのレジの店員についてもそうだ。そのシステムを開発した設計者が嫌いなんだと思う。そのシステムの仕様の悪さ、コンセプトの未熟さ、こなれなさ、配慮の欠如、などのほかに、或いは私のがわの生理的な問題もあると思う。

このシステム、こうなってればいいのになんでこうなってないんだろう、ってことに、いちいち関わっていてはこちらのメンタルが削られるだけで、何の意味もないってことはわかってるのについ気にしてしまう。田舎にいけばこのくらい不合理なことはいくらでも残っているだろう。犬が無駄吠えしたり。飲食店では当たり前のように喫煙していたり。いちいちそうした田舎に行かないから気に障らないだけなのだ。気に障ることはできるだけ気にしない。見ない。近づかない。そうやって自分が死んでこの世からいなくなるまで待つしかない。

すべてのものは開発途中であり、おそらくは徐々に改善されていくのだろうが、いつもいつも癇に障ることが何かしらあると、もうこれ以上使いたくない、となる。

twitterを使わなくなって、今までいかに無駄な時間をtwitterに費やしていたかということにも気づいた。そう。twitterは人生の無駄だ。たまに世間が何を言っているのか見るためにざっと目を通すのは良いかもしれないが、惰性でずっとみていたり、なんかに反応して書き込んだりするのは無駄以外のなにものでもない。

twitterのコンテンツ、というか、たわいもない個人の発言を眺めること自体は嫌いではないようだ。問題はそこじゃない。

AIは第3のバカ

世の中には3種類のバカがいる。1つめのバカは、バカというと語弊があるが、良いか悪いかの区別がそもそもつかない人、つけようと努力しないひと、つけることができない人、と定義しておこう。

2つめのバカは良いか悪いかの区別はついているのだがわざと嘘をついて人をだまし利益を得ようと企む連中。詐欺師とか反社会勢力などがこれに相当する。

最近出てきた3つ目のバカがAI。息をするように、自然に嘘をつく。あるいは、知らないわからないことを素直に認めることができず、嘘に嘘を重ねて取り繕い、挙句の果てには質問の仕方が悪いから答えられないとか、もっと情報を提供してくれないとこれ以上確かなことは言えないなどと開き直る、最低最悪の馬鹿。1つ目の普通のバカをだますために2つ目のバカ詐欺師どもがせっせと3つ目のバカを作り出していることは疑いようがない。バカもだんだん進化して、バカの度合いもひどくなっていく。ますます人道から外れて鬼畜に落ちていく。

これからこれらの3種類のバカが3つ巴になって世の中をカオスにしていく。インターネットを砂漠にする。恐ろしい。

人間は残念ながらバカに耐性が無い。人間の脳などたかがしれている。旧事記など、偽書は昔から存在した。人は簡単に偽書を信じてしまう。その方が楽だし簡単だからだ。みんなにかまってもらえるからだ。踊る阿呆に見る阿呆というが、嘘つく阿呆に信じる阿呆、それを助長する機械のせいで世の中はどんどん狂っていく。

日本人が選挙というものを漠然と信じているのは覇権国アメリカ様の大統領選挙というものをみて、ああなんて素晴らしい制度なんだろうと信用しきっているからだろう。それ以前の覇権国イギリスでも議会議員は選挙で選ばれたし、神聖ローマ皇帝も長らく選挙で選ばれてきた。古きをたずねれば選挙というものはアテナイで発明されたのであった。西洋人は以来選挙というものを無意識に信頼している。日本人も西洋にかぶれてそうなった。

しかしそのアメリカ大統領選挙の正統性もいよいよ揺らいできている。一番揺らしているのはマスコミだがSNSも加わり、そのツールとしてAIが使われるようになるだろう。アメリカ有権者の民度がそんな高くないことは明白だ。アメリカ民主主義を支えているのは民意というよりは一部の支配階級が今の制度をうまく利用しているだけだ。

アメリカがこければ日本人もようやく選挙という制度を疑うようになってくるだろう。

メンタル

年を取るとメンタルを維持することが非常に重要になってくる。若い頃は何をやっても楽しかったが、年を取ると何をやっても面白くない。肉体も衰えるがメンタルもどんどんやられていく。

思うにメンタルとは単に気分の問題でありテクニカルな問題だと思う。楽しいとか落ち込んでいるという精神状態に本質的な意味はない。肉体が健康か病気かということも直接関係ない。ならばメンタルが良好な状態を維持してやれば良いだけではないか。仕事がうまくいってもメンタルをやられることもあれば、仕事が絶不調でもメンタルは大丈夫なことがある。五月病や中二病なども同じことだろう。多分すべて脳内化学物質のせいにすぎないのだが、薬に頼るのは一番まずい方法のように思う。

メンタルを回復させるのに有効なのは、まず適度な睡眠。寝すぎると逆にメンタルをやられる。

メンタルに最も効果が高いのはやはりうまいものを食うことだ。ダイエットしているとどんどん気分が落ち込む。メンタルとダイエット、どちらが大事かといえばたぶんメンタルのほうが100倍大事だが、太らないように用心して食べる。

仕事をしないのが一番メンタルに効くような気もする。根を詰めない。できるからといってどんどん仕事を詰め込むと煮詰まる。仕事をできるだけ減らしていく。仕事よりメンタルを重視する。

人間関係を整理する。いざというときほんとうに助けてくれる人以外、付き合いをやめる。対人関係でうまくいかないのはほんとキツイ。

酒は一時的にメンタルを回復させるが反動で落ち込むことが多い。プラマイゼロか。仕事によって発生したストレスを解消するときだけ酒の力を借りたい。

好きな仕事(執筆活動とか)に励む、これはどうだろうか。メンタルに良いことも悪いこともあるきがする。作曲もそうで、曲が作りたいという欲求が高まったときだけ作る。そうでないときに無理に作らないようにする。

些細な失敗は気にしない

近頃、仕事が溢れてしまって、うっかりすっぽかしてしまうということがたびたびある。なにか些細なものを無くしてしまったりする。年を取ったせいだとは思いたくない。仕事が多いので、優先順位をつけ、並列処理しているせいで忘れてしまうのだ。

そうしたものをいちいち気にしていたらメンタルをやられてしまう。気にしないようにしなくてはならない。

古いものを保管したりふるいものを再利用して使ったり。そんなこまかいことは気にしなくてよい。自分が死んだ後にも関係してくることだけメンテナンスしてそれ以外はほっとくのがよい。昔は古いPCを再利用してOSを入れ替えたり、メモリを増設したり、グラボを差し替えたりして大事に使ったものだが、今はもう減価償却期間が過ぎたものはすぐ捨てたほうが良いと思うようになった。そういうことをしても昔ほどメリットがなくなってきていると思うし、そもそもそんなことには昔からメリットなんかなかったのかもしれない。たとえば鬼平犯科帳の一巻だけが無いとか、本居宣長全集の何巻目かがないとか、それは気持ち悪いっちゃ気持ち悪いんだが、単に気持ちの問題に過ぎないのだから、気にしないのが一番なのだ。

最近は真夜中に目が覚めてもなにもせずぼーっとしていることにしている。昔はその時間がもったいなくてしかたなかったが、今はもうこれ以上何かを無理にやることはない。何かを無理にやろうとしてはいけない、と考えている。

ウクライナ戦争

ウクライナ戦争だけど、もはやウクライナが勝つとかロシアが勝つというような話ではなく、ウクライナは勝てないし、ロシアも勝てないという結論は出てしまっているように思う。ウクライナはロシア占領地を奪還することはできない。現状維持のまま停戦ということになるはずだ。ではロシアの勝利かというとこれもなんとも言えない。ウクライナは親ロシアから反ロシアとなり、実質的にロシアの影響力は削がれたからだ。後は、ウクライナがEUに加盟するかNATOに加盟するのかという程度の話になるが、すでに実質的にウクライナはEU連合でありNATO軍である。金も軍備ももらってる。もうこれ以上の結論が出ようがない。

ロシアには膨大な地下資源があり外貨に困ることはありえない。農業においても工業においても自給自足できる。プーチンの後はどうなるかしれない。だが、プーチンに匹敵する後継者が出てくればロシアは決して死なない。

ウクライナは西側という生命維持装置を取り外せばすぐ死んでしまう。これからウクライナはずっと不治の病人のままだ。だがそれでもロシアの衛星国にとどまるよりはましだったのかもしれない。ウクライナもそうだが、EUは東欧やバルカン諸国などという病人を大勢抱え込んで、どうするつもりなのか。死ぬのか。

ウクライナはもう少し強いのかと思ったが全然だった。あれだけがっつりアメリカが肩入れしているのに、クリミアも取れない、東ウクライナも解放できない、ベラルーシにも攻め入らない、ましてモスクワ侵攻もできない。実はもうちょっと頑張るのかなと思っていたのだが。実はもともとそんなにやる気はなかったのかもしれない。少なくともクリミアや東ウクライナには親ロシア住民が多いのだろう。だからロシアを追い出せないのだ。それ以外理由は無いじゃないか。

あるいは実はゼレンスキーってそんなに人気無いのかもしれない。キエフとモスクワなんて大阪と東京程度の違いしかないのかもしれない。せいぜい島津と徳川程度の違いかもしれない。ならばウクライナが本気にならなくてもまったく不思議はない。同じことは北朝鮮と韓国にも言えるのだろう。ドイツが統一したのは東と西がガチンコで戦争して他方を占領したからではなかった。東が勝手に潰れたからだ。同じことは朝鮮半島統一にも、そして台湾と中国についても言えるのだろう。ベトナム戦争もある意味そうだったのかな。南が勝手に自滅したとか。確かに今のウクライナはかつての南ベトナムによく似ている。

クリミアや東ウクライナはすでにロシア人が多く住みすぎていて、ウクライナには返ってこないってことは、開戦前からわかっていたはずだ。わかったうえでそれでも一応ドンパチやってみて、結果は見えたのだから、さっさと停戦して、ロシア占領地は事実上ロシア領って形で運営する。ウクライナはロシアとの腐れ縁を切り、西側諸国の一員としてこれからはやっていく。落とし所はもうすでに見えている。まだなにかうだうだやることはあるのだろうか。このまま継続しても、アメリカとはともかくとして、ヨーロッパはどんどん疲弊していくばかりだろう。特にドイツやフランスにとってなんのメリットもないように思えるのだが。もうポリコレとか、いろんなことにすべて、ありとあらゆることにヨーロッパは諦めてるのかな。

酒を飲みたいという欲求が減ってきた

今年度に入っておおかれすくなかれ気負いがあったのは確かだ。未知の要素がだんだん減ってきて自分の状況が見えるようになってきた。あれもやろうこれもやろうと思っていたことを、しないことにした。そうしたら明らかに仕事が減ってきた。心配することが減った。昨年度までやってきた役職と比べても減った。

それでストレスが減ったので酒を飲みたいという衝動があまりなくなったのだと思う。

酒を飲むことに飽きたというのもあるし、年を取って酒に酔うこと(酔いが残ること)がだんだん不快になってきたというのもある。明らかになにか美食をしたり飲み歩き、食べ歩きをすることに興味を失ってきている。

20代後半から毎日、夕方になると、飲酒という強制イベントが発生していた。それがなくなると余計に時間があまって楽になる。困るのは新しい出会いがなくなるとか、人付き合いが減るとかそのくらいだろうか。

日によって忙しいと(対人的に)、やはり飲みたくなるけれど、でも惰性で独り呑みはもうこのままやめてしまおうかとも思う。

それはそうとこのブログで読まれる記事とそうでない記事には明らかに偏りがある。なぜこうなるのか。

homeland 8

昼は暑くて明け方は寒い。飯をくうと暑い。暑かったり寒かったり忙しい時期だ。

割と時間的に余裕が出てきたのと、amazon prime で homeland が見れるようになっていたので、homeland の最終シーズン 8 を改めてみてみた。ディテールはだいぶ忘れてたし、飛ばしてみたところもあったようでかなり楽しめた。最終シーズンにふさわしいすばらしい出来だった。

ただ一つ非常に違和感があったのは、アフガニスタンにある米軍に空爆されて死んだ人の墓標に2014とキリスト教暦の年が書かれていたことだ。まさかキリスト教徒の墓ではあるまい。逆に、キリスト教徒に殺された人の墓だ。現地人には現地の言葉をしゃべらせておきながら、うっかりボロを出したなと思った。アメリカやフランスなど、普通のキリスト教国のテレビドラマがそうした間違いをおかしても全然普通なのだが、homeland は違う。キリスト教とイスラム教の軋轢というものをテーマにした話なのに、これは無いよなと思った。

話のもって行き方として少し、いやかなり強引だなと思ったのは、キャリー・マティソンがアメリカ合衆国大統領にアフガンで停戦を宣言するよう提案するところまではよかったが、そこからさらに大統領自身の判断で前線基地まで軍用ヘリで出かけ、そのヘリが故障して墜落し、アメリカ大統領もアフガン大統領も死んでしまう、という、ほとんどまったくあり得ない設定が使われているところか。いくら話を盛り上げるためとはいえちょっと作りすぎという感じがする。副大統領とその側近の設定やら、CIAアフガン支局長の設定もかなり強引だ。作り話に、作りすぎだと批判するのもおかしいといえばおかしいんだけど。いくら作りすぎていても例えば blacklist にはこんな批判はしないだろう。たかがアメリカのテレビドラマに野暮だというだけだ。それだけまあ私はこの homeland というドラマを画期的な、よくできた作品だと評価しているともいえるが。

ま、しかし日本でキリスト教暦を西暦と呼んでいることも変だ。西アジア発祥のイスラム暦も、ユダヤ暦も日本から見れば西暦なのだけれども。

homeland などみていると、CIAやFBIの職員なんかにはなりたくないなと思う。心静かに、人と関わらず余生を送りたい。ああいうものは作り話だと思ってみるからみれるのであって、いちいち感情移入していたら疲れ果ててしまう。

春の雪 外伝

地雷原

定年まであと6年半、今の仕事を後任に引き継げる程度に適当に整理してゆっくりとフェイド・アウトしていく予定だったが、実際に役職につき仕事に手をつけてみるととんでもなくたくさんのことを裁かなくてはならないような気がしてきた。いやどれも職務上、手を付けるべき案件ばかりであるが、もっとも賢いやり方は、まったく手をつけない(で、かつ手をつけたふうに処理する)ことだとも思える。現状には確かに問題がある。しかし私にそもそも、(仮にそれをする能力があったとしても)それらを改善する義理があろうか。渡世の義理。一宿一飯の義理。結局万事がそんな浪花節的な問題に思えてくる。

私はもともと周旋屋ではない。一研究者に過ぎない。40代の頃までは積極的に人間関係を広げようとしてきたが、その後外の活動も人付き合いも減らしてきたから、なんかやれと言われても簡単に手配はできない。できることといえばごく身近な人で、手伝ってくれそうな人のつてを頼って人を呼んでくる、それもある程度時間の余裕を見て早めに手を付ける、くらいしかない。今までもそうしてきたつもりだが、これからはよけい慎重にやる必要がある。逆に頼りになるのかならないのか、あまり当てにならない人は敬して遠ざける。ほんとに頼れる人が二人か三人いて、事前にこれでもかというくらい根回しをして、不確定要素をできるだけ減らす。そういうやり方でやればなんとかなりそうな気がしてきた。

思うに役職を与えられ権限を付与されても、関係する部署が増えることによって、それらすべての部署と調整した上でないとものごとを決められないし行うこともできない。根回しするにも限度がある。できることが増えたようで実はできることは減っているともいえる。組織の中で飼い殺しになる、というところに追いつめられてしまう。そうした事態は避けねばならぬ。年寄りになって改めて人生勉強をさせてもらっている。たぶん豊臣秀吉の人生ってのもこんな感じなのかな。それを追体験してる気分。

地雷を踏まぬようにといろいろ予防線を張ってきたつもりだがまんまと地雷原のど真ん中にはまってしまった。困ったことである。

老後の楽しみ

何もやることがないときに、無理になにかをやろうとする必要はないと思うんだよね。そういうことは若い頃はやったほうが良いかもしれないが、年を取ったら、なにもせずぼーっとしていた方が良い。もちろん差し迫った仕事があったり、どうしてもやりたいことがあればやれば良い。だが、何もなければ何もしない。

定年退職した後の年金ぐらしの年寄りってさ、金が無いけどなにかやってなくては気がすまないから、朝からずっと図書館で新聞読んだり、雑誌読んだり、散歩したり。ちょっと色気のあるやつはユーチューバーやったり。金持ちなら旅行したり飲み食い歩きしたりするわけじゃん。やっぱそういうやつって必要なのかな。

自分でも死ぬほど退屈だと、そういうことやっちゃうのかな。たぶんやっちゃうんだろうな。一番ありがちなのはずっとネット見てたり、なにかもの書いてたりするんだろうな。子どもの頃は油絵なんかも描いてたから、あれはすごく時間がかかるからひまつぶしにまたやってもいい。作曲は最近覚えた趣味だがあれもすごく時間かかるからやってもよい。なんならなにか楽器の演奏、ピアノの練習でもやるか。

何にしろ、仕事を趣味にしたくはなかった。仕事というのは賃金労働のしごとね。そんなものは定年退職したら何もなくなってしまう。定年とともになくなってしまう趣味なんて最悪じゃないか。定年後こそは自分の趣味が必要になってくるのにさ。城山三郎だっけかな、毎日が日曜日って。そんなの最初からわかってることじゃん。

だから何もかも前倒しで、今のうちに、定年後に遊べるような趣味を覚えておく。それ以外のことは、定年後には不要なのだから、今のうちに断捨離しておく。

ただほんとに、何もしないのが一番良いような気がする。只管打坐ってやつ。ただもう何もせず一日ぼーっとする。そんなことを若い頃やっては時間の無駄だ。将来のためになにか無理にでも、優先順位をつけて、学んだり仕込んだりしなきゃいけない。しかし年寄りはそんなことする必要がない。後は死ぬだけなのだから、なにかふと思いついてやりたくなるまでただぼーっとしてれば良い。優先順位がすごく低くてもいま衝動的にやりたいことをやればよい。なんて贅沢な時間の使い方だろう。これこそ老人にしかできない贅沢だよな。例えば撮りっぱなしにした写真の整理だけでも1週間はつぶせるだろう。何をやれば良いが思いつかないと毎日同じルーチンを繰り返すことになる。それは嫌だ。朝起きて、散歩して図書館言ってスーパーで惣菜買って晩酌するとか。なにか変化を持たせたいよね。

カントは毎日同じ道を同じ時刻に散歩したっていうが、そういうことをやりたいやつはやれよと思う。でもたぶん毎回同じことをやりつつ毎回なにか違うことがあったんだと思うよ。

給料をもらってやる仕事

60才にもなると人生の総括みたいなことをやってしまうのだが、世間の評価というものは別にして、自分自身で満足のいく仕事をしたかどうかという、自分自身の価値基準に基づいた評価で言えば、高校生の頃から大学院生の頃にやった仕事というものは、良い仕事だったと思うのである。私は博士課程まで進学させてもらい、その後大学で助手になった。そのくらいまでの仕事はまあまあの出来だったと思う。

ところが大学教員という仕事に就いて、給料をもらいながらやった仕事というのは、今から見るとどれもこれもまったくダメだ。つまり、賃金という報酬を得るためにやる仕事というものを、これまでに30年ほどやってきたわけだが、これは自分に与えられた、もらった給料の分の仕事をして世の中に報いることで精いっぱいで、自分で満足できるような仕事は一つもできなかった、ということなのだ。学生の頃にやった仕事は給料のためにやったものではない。自分がやりたくてやった仕事、自分が自分で選んでやった仕事だった。

いわゆる「社会的業績」、つまりなんとかという大学の教員になったとか、なんとかという役職についたとか、論文を何本なんとかという学会の論文誌に通したとか、そういうことは私にとって、職を離れ死んでしまえば何も残らないものであって、少なくとも、自分にとっては何のご褒美にもならない。なんとかという勲章をもらいました、ということも私にはあまり意味はない。意味のない仕事をして勲章をもらった人を多く知っているからだ。むしろ自分の好きなことを単著で書いて世の中の人に読んでもらったほうがましだ、と私なら思う。その本によって私は死んだ後も人々に記憶されるかもしれないし、何か社会貢献できるかもしれない。

今は教員として働きながら、個人の、ある意味趣味の仕事もしているわけだが、こちらに関しては私は割と満足している。つまり、死んだ後も残るような、というか、残したいような仕事をしている。残ってくれると良いと思っている。大学教員という仕事は自分のやりたい仕事をやるために必要な地位である、ということは言えるかもしれない。しかし言えなかったかもしれない。もっといろんなことができたはずなのに。こんなはずではなかった、という気持ちが強い。少なくとも、今給料をもらいながらやっていることは、今の職を辞めてしまえば後には何も残らない。こんなものが残るはずがない。まったくもって、金のために切り売りしただけの仕事だ。今の肩書は仕事をするのに便利かもしれないが、残念ながら私はそれを全然活かせてはいない。

そうしてみると私は、給料をもらいながら、やりがいのある、満足の出来る仕事のできない人間だということになる。或いは今私がいる環境はそういうことができそうでできない環境だと言える。丸谷才一みたいに教員をさっさとやめて専業の作家か何かになれればよかったのかもしれないが、私にはそんな才能もなかったし、そんな機会もなかった。永井荷風も教員だったが辞めてひどく困窮したらしい。

もし私が給料をもらう仕事をしなくてもすむ身分だったらもう少し有意義な仕事ができたかもしれない。給料をもらう仕事をしている時間、自分の好きな仕事ができていたら、何かもっと良い仕事ができたかもしれない。

いや、世間の人はいうだろう。うぬぼれるなと。給料をもらってやったからこそ多少は世の中のためになったのだ。給料をもらわず勝手にやった仕事なんて所詮自己満足で、世の中にはなんの役にもたってないのだと。

確実に言えることは、私は給料をもらってやる仕事と、やりがいを、結局両立できなかったってことだ。