登城

丸谷才一の「文学のレッスン」に江戸時代の侍はひと月に四、五回お城に行けば勤めたことになるから暇人天国だったなどと書いている(p204)が、そんなはずはないと思う。

事務職じゃないんだから城にいれば仕事が勤まるはずもない。
ある程度以上偉い人は蔵米を給料としてもらうのではなく領国を経営しなくちゃならない。
つまりは地方自治体の長のような役目で、しかも、三権分立なんてものはないから、
立法・行政・司法、全部こなさなきゃならなかった。
部下も全部自分で雇わなきゃいけない。
領国というのは一箇所にまとまってあるわけではない。
相模に三百石、武蔵に二百石、のようにばらばらにもらってた。
ものすごく遠い土地に領国があることもある。
そういうのを全部任されているからほんとならばものすごく忙しいはず。
忙しいはずだが代官なんかに丸投げして遊んでいる旗本もいたかもしれん。
御家人にしてもなんとか奉行とかその与力とかどんどん仕事が回ってくる。
江戸町奉行ならいいが長崎奉行みたいにとんでもなく遠いところに転勤することもある。
年貢の取り立てとか市中警邏とかとにかくいろいろある。
無役なら仕事はないかもしれんが、手当もないから失業中みたいなものだ。
暇人天国なんてはずがない。

ま、だから、わざわざ登城する日というのは幹部会議か進捗報告のようなもので、
それこそ週一くらいしかやらなかっただろう。

毎日登城する役人もいたと思う。祐筆などの事務官・秘書官はそうだったに違いない。
文人というのは、おそらく、和歌にしても漢文にしても、文官として必要だから、
仕事として学んだのだ。
暇つぶしじゃない。
丸谷才一が大好きな大田南畝にしてもそうだったはずだ。彼はれっきとした幕臣。
上田秋成は武士ですらない。
紙油商の養子になった。
商売がうまくいっていれば町人の方がヒマはあったのではなかろうか。
本居宣長は本業は医者だった。学問がしやすいようにわざと自由業を選んだ。
しかしヒマだったわけではない。

文学のレッスン2

長くなるので記事をわける。

p151

> 色好みの話で、こういうエピソードがあります。本居宣長が亡くなったとき、弟子たちが本居家に集まって、酒を飲みながら口々に先生の偉大さをたたえ、あんな偉い学者はもう出ないみたいなことを語りあっていた。そしたらお酒を運んでいた本居家の女中の一人がワーッと泣きだした。みんながどうしたんだと問いただしたら、その女中いわく、「そんなに偉い先生だとはわたしは知りませんでした。毎晩のようにわたしの部屋に来て、一緒に寝ようというのを、わたしは邪険に断ってばかりいました」って。

> ― それはどこかに書いてあるんですか(笑)。

> 岡野弘彦さんから聞いたんです(笑)。

岡野弘彦は三重県の神主の家に生まれたので、もしかすると実話かもしれない(笑)。
丸谷才一より一才年上で存命。
でもなんとなく、
国学者や神道家のコミュニティーの中で自然と広まったゴシップのような気がするなあ。
本人ご存命なのだから聞いてみたい気はする。

私は、宣長の恋歌をみていて、ただ観念的に恋を歌ったのではなかろうとは思っていた。
ある程度事実に基づく心情が盛り込まれているのではないかと。
ただ、七十近くのおじいさんが毎晩女中をくどくということと、
青年時代に色好みであったということは必ずしも結びつかないと思う。

いずれにしてもどうでもよい話ではある。
単なるエピソードとして紹介してみたかったのだろう。

文学のレッスン

丸谷才一「文学のレッスン」を読んだ。
丸谷才一はもうなくなってしまったが、ものすごい長寿で、死ぬまで執筆活動をしていた幸運な人だ。
この本もインタビューという形で2007年頃から始めて2010年に出たものだが、
80才をとっくに越えていた。
「文学概論」のようなものというのをうたっているが、
いろんな作家や作品が羅列されているがその一つ一つについて解説しているわけでなはい。
体系的とも言いがたい。
エッセイのたぐいというべきだろう。

短編小説のことをスケッチと言うと書いてある。
私も「川越素描 (a sketch of kawagoe)」というのを書いた。
しかし私の書いたものの中では「川越素描」は一番の長編と言ってよい。
長編だけど普通の長編小説みたいな構成にはなってない。
千一夜物語のようなつもりで書いたもので、その個々の要素は素描にすぎない、
と言いたいわけである。
長編小説というのは今で言えば指輪物語やハリーポッターみたいなのを言うのだろう。
どちらもイギリス人の作家だ。
丸谷才一もフランスは短編、イギリスは長編が発達したと言っている。
なるほどなと思う。
ましかし、フランスでも「レ・ミゼラブル」やスタンダールなんかは長編だわな。
私はたぶん、長編を書こうとしても書けないんだと思う。
書こうとすると「川越素描」や「司書夢譚」のような短編を束ねたようなものになるか、
束ねきれずに「エウドキア」「ロジェール」のような中編小説の集合体のようなものになってしまうだろう。
書こうとしたけど書けなかったというのは一つの成果だと思う。

丸谷才一はモーパッサンは短編(どの作品がとは言ってない。脂肪の塊や女の一生は明らかに短編ではない)、永井荷風の「墨東綺譚」を中編と言っていて、
私にしてみるとどちらも短編のような気がするが、
気分としてはたしかにモーパッサンは短編であり永井荷風は中編の人な気がする。
志賀直哉がスケッチがうまいというのは分かる気がする。
「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」「剃刀」「万暦赤絵」・・・。

p117

> 「太平記」という歴史物語が日本の国運を左右したというのが僕の前々からの説なんだけれども、「太平記」というのは、怨霊がいかに世の中を乱すか、要するに後醍醐天皇や楠木正成の怨霊が怖いという話ですよね。それを読んだ人たち、階層的にいうと一番上の徳川光圀や頼山陽から、「太平記読み」の講釈を聞いた庶民まで、みんなそろって正成は偉いし南朝は尊い、彼らの怨霊は怖いから大事に祀らなくちゃね、そういうイデオロギーを持っていた。

丸谷才一は戦後民主主義の文化人で、太平記とか頼山陽とか徳川光圀とか本居宣長などを徹底的に抹殺しなきゃならないと考えていた一人だ。
むろん現代的な意味において太平記や日本外史や大日本史や古事記伝などはナイーブで脚色されているわけだが、それを言うなら源氏物語だって平家物語だってそうだ。
太平記のせいにして議論を終わらせるのは単なる思考停止にすぎぬ。

南北朝や室町時代は難解だが非常に重要な時代である。
それがわからんから降参しますというのが嫌で全部太平記のせいにする。
太平記に影響を受けたであろう徳川光圀や頼山陽のせいにしようとする。
それではだめだ。
南北朝がわからねば天皇はわからん。
南北朝がわかってる日本人がどれほどいるか。
だから日本人のほとんどは天皇とは何かがわかってない。
天武天皇や天智天皇とか古代の天皇のことをいくら学んでも天皇のことはわからん。
藤原、北条、足利、徳川がどのように天皇を利用してきたかということがわからんと天皇はわからん。
天皇がわからんというのは南北朝がわからんというのとだいたい同じだと私は思う。
太平記のせいにしないでほしい。

対句と対聯

聯という字が我々にほとんどなじみがないように対聯という概念も日本人には希薄だと思う。
対聯は五言排律のような比較的長い漢詩にのみ使われる用語であり、
律詩や絶句くらいしか親しみがない日本人にはよくわからん世界である。

対聯は二句だけでも成立し、中国では今も門の左右に掲げたりする。

八股文の股というのも聯であり、
すなわち八股文とは四つの対聯を胴体とする文章というのに他ならない。
対聯が三つの六股文というのもあり得る。

八股文には頭と尾がついている。五言排律とまったく同型である。
このことについては「帝都春暦」に詳しく書いておいた。
八股文と五言排律のアナロジーに気づいたのが私が初めてだとはとても思えない。
中国の文学会ではすでに定説なのかもしれぬ。

対句というのは二字でも時には一字でも成り立つものだが、
対聯はたいてい五字、さもなければ七字とか八字などである。

このように対聯というものは中国文芸には非常にポピュラーなものだが、
日本文芸ではほとんど発達してないと言って良いと思う。
古今集仮名序の
「人の心を種「よろづの言の葉」とか、
「花に鳴くうぐひす」「水に住むかはづ」とか、
「力をも入れずして天地を動かし」「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」とか、
「男女のなかをもやはらげ」「猛きもののふの心をもなぐさむ」
は典型的な対句だが、
これはおそらくは真名序の
「託其根於心地」「発其華於詞林」とか
「動天地」「感鬼神」「化人倫」和夫婦」が原型であろうと思われるのである。
当時の人々には文芸を論ずる言葉がなく、漢文を参考にするしかなかったと思う。

しかるに後世になると、
連歌というものが流行りだして、一つの歌が上の句(発句)と下の句(付句)に分かれた。
これはある意味非対称な対聯と呼び得るものであるかもしれない。
さらに発句は三つの句でできているから、
音楽に二拍子と三拍子があるように、
俳句はある種対句を発展させたワルツ形式の句構成であるかもしれない。
そう考えると俳句の意義というものがわかった気がするのである。

日本人は、干支や陰陽五行説のようなものを、外来思想として受け入れつつも、
そういう完全なシンメトリーというものを忌避する傾向があると思う。
七五調のような非対称なものが逆に安定すると考えている。
阿吽の形相なんかも対称の中にも非対称をもたせている。
右近の桜、左近の橘なんかもそうかもしれん。
夫婦岩も非対称だ。

日本人の場合はそれをさらに発展させて、
生け花でいうところの天地人とか真留体などの非対称な三角関係を安定していると考える。
同じことは庭石の配置にも言えるし、俳句の句の配置にも言える。
これは決して完全に等辺な正三角形のようなものを言うのではない。
キリスト教における三位一体説とはよく似ているがまったく別種の発想から来るものだ。
日本人はシンメトリーとかトリニティーというものを意図的に排除する傾向がある。

和歌というものは、近世の日本人好みの非対称三角関係というものにはおさまらぬ。
形も無くぐにゃっとしたものだ。
正岡子規は最後までそれが理解できなかった。

産経購読10年

今となってはもう大昔だが、
[地方紙5紙の社説がソックリ。](/?p=1635)
というのを書いた。
もう10年も前になるわけだ。

私は高校生の頃に朝日が嫌いになり、
大学生の時に読売が嫌いになり
(理由は敢えて秘す。巨人が嫌いとかそんなどうでも良い理由ではない。
朝日以上に心底嫌いだ)、
毎日は好きとか嫌い以前につまらなすぎて読みさえせず、
仕方なく折り込みのチラシや自治体の広報を読むために一番安い東京新聞を読んでいたことがあるのだが、
東京新聞も朝日に劣らず偏っていることを知り、
やむなく高いがまともだと思われた日経新聞を読んでいたことがある。
日経は悪くなかったが、2006年にも書いたようにおかしな記事を書いたので、
もう他に読む新聞がなかったので仕方なく産経新聞を読むようになったのである。

何度も書いているが、田中久三という名前は tanaka0903 の方がさきにできている。
2009年3月からこの名前を使い始めて田中久三はその当て字である。
それ以前は某所で実名でブログを書いてたわけで、
日経読むの辞めましたというのはそのころに書いたわけである。
昔のブログの記事も当たり障りのないやつはサルベージしてある。
当時の日本経済新聞社東京本社編集局総務の小孫茂という人の講演もすでに本家にはないが、
Wayback Machine で読むことができるのでわざわざリンクを張り直して読めるようにしている(笑)。

> 中国や韓国につけいる隙を与えているのも結局は国内マスコミとか有識者連中らが大騒ぎするせい。ほとんどは国内問題、マスコミ問題なんだよね。鯨問題もまた同じ。売国発言する連中が後を絶たぬのはなぜか。悪女の深情けというやつか。一億二千万人の日本世論が毅然と正論を通せばよいだけのことなのだが。

「悪女の深情け」が意味不明だが、
今のネトウヨが言うようなことをすでに言ってるよな。
「国際問題」と思われることのほとんどすべては「国内問題」であり、
日本世論が一枚岩ならば簡単に他国につけいられることはない。
人口400万人のノルウェーが毅然として商業捕鯨をつづけているようにね。

でまあその頃は産経読むのは「右翼」と後ろ指を指される時代だったので、
多少恥ずかしくもあったのだが、
今は産経はずいぶん人気が出てきてまさに「隔世の感」があるわな。
産経は当時から読んでもいらいらする記事がなくて今も特に不満なく読んでいる。

今も紙の新聞をわざわざ読むのは、折り込みチラシや市や県の広報を読むためである。
毎日読むわけでもなく、週に一度くらいたまったのをまとめ読みしている。
ネットでは読み過ごしてた記事を拾ったり、
あるいはネットで話題になった記事を再確認したりしている。