父の歌など

柳田国男『故郷七十年』「父の歌など」

> はかなくも 今日落ちそむる ひとはより 我が身の秋を 知るぞかなしき

ここで父とは柳田国男の父・松岡操のこと。
彼もまた桂園派の歌人であった。

「ひとは」とは普通に考えれば「一葉」なのだがこれには「一歯」がかけてあり、
秋の葉が落ちるように自分の歯も抜け始めたということが言いたいのである。

> 奥山は 住み良きものを 世に出でて 立ち舞ふ猿や 何の人まね

これらはどちらかと言えば狂歌に近いけれども、こういう皮肉で自虐的な、
人を馬鹿にしたような歌というのも香川景樹と桂園派の歌の特徴といえる。

> 夜光る 白玉姫を 見てしより 心そらなり つちは踏めども

> 山なしと 聞く武蔵野の 夏の夜に 吹くやいづこの 峰の松風

これらは景樹が京都から江戸に下って浅草に私塾を開いた頃の歌であるという。

> 私は明治にあつて、まだ生々とした江戸文化の残り火に肌ふれることができたのであつた。

> ついでながら近世和歌史についても一言いつておきたいことがある。それは景樹翁が亡くなつてから、歌が衰へたといふ説があるが、それは誤りであつて、加藤千蔭や村田春海が亡くなつてから、かへつて歌はよくなつてゐると、私は見るのである。

> 後になつて落合直文や与謝野鉄幹らが出て来て盛んになつたのは、時代の機運に乗じたのであつて、それ以前の和歌がまづかつたためではない。

> その間の四、五十年といふのは、じつは歌が良くなつた時代であつた。関東においても千蔭が力を揮つた時代よりも、歌は良くなつてゐる。

加藤千蔭や村田春海というのは賀茂真淵の影響下にあった(つまり万葉風の)江戸歌壇の歌人らであり、景樹はわざわざ本拠地京都から江戸に下って彼らに勝負を挑んだのだが、結局京都に戻り天保年間に亡くなった。
柳田国男が真淵よりも景樹のほうが歌はましだったと擁護しているのがおかしい。
落合直文や与謝野鉄幹、そして続く正岡子規らもあきらかに真淵のますらをぶりを継承している。
柳田国男が正しく江戸文化、とりわけ桂園派を理解し、その擁護者であったことを示す文であるといえる。

柳田国男はある意味私に良く似た人である。彼に関する誤解は、彼自身というよりも、彼の言葉を引用して、それを自説に都合良く解釈する人たちのせいのようだ。

頓阿の草庵集

> 今でもよく憶えてゐる。われわれ松浦先生の門下で作つてゐた紅葉会では、よくいくらか冗談半分に「何々の恋」とか「寄する恋」、例へば「虫に寄する恋」とか「花に寄する恋」とかいふ題で詠ませる習慣があつた。深窓の処女といへども歌の練習にこれを作つたのである。後の世になると事実と空想の境がはつきりしなくなつて、これをしも真実の告白と思はれてはたまらない。

> 日本の文学は不幸な歴史をもつてゐて、事実応用するような場合のない人にまで「嗜み」として和歌を作らせ、お茶、花、琴などと一列にして、歌も少しは教へてありますなどといつてお嫁にやる時の条件にしたりした。そのため、本当はどこの恋だつたのかと談判されると、閉口するやうな「待つ恋」だの、「待ちて会はざる恋」だのを、平気で若い娘さんも書いてゐたのである。これが日本の文学の一つの大きな歴史であつたことに注意しなければならない。

> かういふフィクションの歌をいちばん詠んでゐるのが坊さんであるといふのも興味あることである。江戸時代にも、室町時代にも頓阿とか兼好などといふ歌僧がゐて秀歌を残してゐる。頓阿は門人を集め「草庵集」といふのを出してゐるが、その中にもちろん恋の歌がずつと出てゐる。面白くないことにかけては、これくらゐ有名な面白くない歌集はないが、半折の本で誰でももつてゐた。

> 大体、足利時代から江戸時代の初期にかけての和歌は、みなかういふやうな安らかなものであつた。今ではあのころの歌を悪くいふが、当時は人数がずつと少なく詠む者は珍重せられてゐたので、あれでも何か一節あるやうに思はれた。「ああも詠める」といふ手本にはなつたのである。これが「類題集」といふものが出来たもとであつた。題をたくさん集め、作例を下へ集めたのが類題集で、これは大変な仕事であつた。手紙を書いても歌がなくては求婚にならないとか、そのまた返歌を書くなど、どうしても男女ともに歌を詠まねばならぬ時代であつたから、誰でも「恨む恋」とか「待つ恋」の練習をするため、類題集は必要であつた。「草庵集」はこの類題集の一番早いもので、前に記した秋元安民の「青藍集」まできてゐるのである。

> この類題集を見ると、恋歌の変化とか、恋歌の目的の変化がよく分る。松浦先生は非常に堅苦しい方であつたから、わざと恋歌などは出さなかつたが、それでも酒などの出た時の当座の題に、何々の恋といふやうな題を出した。人によつてはそれに力を入れて、いくらか興奮させる点を利用して、深窓の娘さんにまで作らせる例もあつたのである。

> 新しい人たちが、古風な歌を月並だといつて馬鹿にするのも、つまりは歌の必要が一地方にゐた一人、二人の職業歌人とか詩人とか以外の、素人にもあり、一通り嗜みとして題詠を練習したことからきてゐるのである。

大塚英志は柳田国男のことを「自然主義文学の成立に深く関わり、そのくせ、そのあとは生涯にわたって自然主義文学を批判し続けた天の邪鬼な人物」と評しているのだが、私が見る限りにおいて、柳田国男はごく普通の桂園派の歌人として生まれ育っているので、決してもともと「自然主義文学」畑の人ではない。桂園派の歌人が自然主義文学の人であるはずがない。

松浦先生というのは松浦辰男(1843~1909)という人で、「最後の桂園派歌人」と言われているそうだが、桂園派は大正時代までは普通にいたし、柳田国男はどこにもそんなふうには紹介されてないようだが、明らかに桂園派の歌人の一人なので、少なくとも桂園派の歌人は彼が死ぬ1962年まではいたのである。
ある意味私も桂園派の歌人と言えなくはないので、現代でも桂園派の歌人はいるのである。
もしかしたら私も「最後の桂園派歌人」と言われることになるかもしれないが、
まさか私で終わりなんてことはあるまい。

世の中の、現代歌人らはみな、明星とか正岡子規らによって桂園派は駆逐されてしまったことにしたいらしい。
私はその風潮に断固反対するし、抵抗していく。

松浦辰男の紅葉会には柳田国男と、彼の実兄の井上通泰、田山花袋、他には、
太田玉茗、宮崎湖処子、櫻井俊行、土持綱安らがいたという。

それで「いくらか冗談半分に」とか「酒などの出た時の当座の題」などとあるように、明治の頃になると桂園派でも普通は題詠で恋の歌などは詠まなくなっていた。それは高崎正風の『歌ものがたり』などを見てもわかることである。単に松浦辰男独りが固い人だったわけではない。
江戸時代の堂上和歌ならばともかく、香川景樹などは単なる題詠に過ぎない恋歌などは詠んでないはずだ。しかるに景樹の弟子らにはまだ題詠というものの需要があったから、仕方なく景樹も芸事としての題詠を弟子たちに教えることもあっただろう。

こういう馬鹿げたフィクションの恋歌を流行らせたのは明らかに藤原定家である。
それについては『虚構の歌人』にも書いた通りなのだが、
定家の二条家の血筋が途絶えて坊さんが二条派というものを継承しだすとなおさらこの虚構の恋歌というものをこじらせるようになった。
江戸初期に後水尾院、松永貞徳、細川幽斎らが比較的まともな恋歌を詠んだが、
その後はもうからきしダメになってしまった。
というのも定家があまりにも完璧な嘘の恋歌の技法を編み出し、それを頓阿が体系化してしまったからだ。
まさに「日本の文学」の「不幸な歴史」である。

> 「写生文」以前の文学は架空の「私」を作るジャンルとしてあった

と大塚英志は締めくくるのだが、
江戸時代までの日本文学がすべてそうだと思われるのはたいへん困る。
定家より前は架空ではなかったし、またその後も架空の文学に抵抗した人たちはたくさんいたのだし。

また、与謝野晶子の歌にしても、もともと題詠の恋歌という膨大な蓄積があって、
それが天真爛漫な彼女によって解放されることによって初めて生まれ得たものである。
ありとあらゆる形の恋歌のパターンが江戸時代までに分類され体系化され、準備されていたことの意味は大きい。

ところで草庵集は類題集ではなくて頓阿の私家集であるはずだ。
単なる勘違いであろうか。
或いは草庵集を類題集代わりに用いたりしたのだろうか。
宣長は類題集の例として『題林愚抄』を挙げている(『うひやまふみ』)。

史学への反省

柳田国男『故郷七十年』の続き。

「史学への反省」という文で

> 日本の史学が遅れてゐることの理由の一つは、漢字を憶えることが史学に入るための困難な関門になつてゐることであると思ふのである。漢字を憶えるために苦労をするため、やつと他人が書いたものを理解できる段階にまで至つた時には相当の年齢に達してをり、そこから自力で考へ、自分のものを創り出すところまでにはなかなか到達しないのである。漢字を制限してみても、この悪弊は打破できないのであつて、まして外国文献をそのままあてはめるくらゐのことで日本の史学の将来が解決するものとは思はない。

などと書いてあって、
柳田国男という人が、日本の古典というものに非常に同情的であると同時に、
これをなんとかしなければならないと考えていることがわかる。
しかし史学とか古典というものは漢字があろうとなかろうと、日本だろうと海外だろうと、
「他人が書いたものを理解できる段階にまで至」るまでには相当な年月がかかるものであり、
従って若者にはなかなか独自研究はできぬものである。
それが自然科学、とりわけ数学などとは違うところだ。
逆の言い方をすれば、かの早熟な柳田国男ですらそうなのであるから、
凡百の若者が、史学や古典などがわかったようなことを言うのは、ただの勘違いに過ぎないということだ。

故郷七十年

[大塚英志『キャラクター小説の作り方』](/?p=17797)の続きなのだが、
この中に「柳田国男による古典文学批判」として出てくるのは、
「頓阿の草庵集」というごく短い文であり、
『定本 柳田国男集 別巻3』に載っている。
この『別巻3』は『故郷七十年』『故郷七十年拾遺』からなっていて、
柳田国男が神戸新聞の求めに応じて、口承で残した自伝であるという。
序に昭和三十四年とあるから、1959年、柳田国男84歳、死去する3年前に出版されたことになる。

明治20年というから、柳田国男が12歳の時に、
彼は故郷の播州を、兄・井上通泰とともに離れる。

> 私は早熟で子供ながらに歌をやつてゐた。私の家に鈴木重胤の「和歌初学」といふのがあり、四季四冊のほかに恋、雑の上・下など七冊になつてゐた

などとあり、香川景樹の

> しきたへの 枕の下に 太刀はあれど 鋭(と)き心なし いもと寝たれば

が引用されている。
12歳にして景樹のこの歌を暗唱していたとは確かに早熟である。
鈴木重胤は江戸時代の国学者というか、平田篤胤系の神道家のようである。

大塚英志『キャラクター小説の作り方』

非常にためになった。
親切に書かれた良い本だと思う。
ところどころ反論したいところはある。
彼が「キャラクター小説」と言いたいところのものは今の「ラノベ」である。
彼がこの本を書いた2003年当時には「ラノベ」という言葉はなかった。
ラノベや漫画やTRPGについて語りながらいきなり
柳田国男の『頓阿の草庵集』の話が出てきたのも面白かった。

少し調べればわかるのだが、
大塚英志という人は筑波大学で千葉徳爾という人のもとで日本民俗学を学び、
千葉徳爾は柳田国男の弟子であった。
大学院に進学して研究者になろうとも思ったらしい。
だから柳田国男とか頓阿とか草庵集を知っているわけだ。

柳田国男とか佐佐木信綱などは明治時代からのインテリで戦後まで生き残って、
戦後民主主義教育のステレオタイプを作った人で、
どうにかしなきゃならんと常々思っている。
柳田国男は明治の中頃、類題集で和歌を学んだという非常に貴重な体験をした人のようだ。それで恋愛経験もない深窓の令嬢までもが「忍ぶ恋」とか「逢わぬ恋」などの題詠で恋の歌を詠む練習をしていた、というのに矛盾を感じていたというのである。
そういう「虚構の歌」はよろしくないということはすでに江戸後期の国学者の中に気付いていた人たちがいた。
小澤廬庵や香川景樹らだ(というより鎌倉後期に出て題詠を否定した京極派辺りが最初に問題意識を持ったんだろう)。
ところが明治の歌人らは、廬庵や景樹の先進性までも頓阿といっしょくたにして切り捨ててしまった。新しいか古いかという基準でしか歌を考えられなかったのだろう。古くても良いものもあれば、古くて悪いものもあり、新しくても悪いものもある。
私から見れば頓阿というのはひどくまずい歌詠みだ。
歌がまずいだけでなくてその書いた歌論やらがひどい。
嘘ばっかり書いてる。
頓阿はただ有名なだけで最悪な歌詠みと言って良い。
頓阿によって歌道や歌学というものがどれだけゆがんだか知れない。
そのゆがみを直すためにどれほど国学者が努力せねぱならなかったか。
頓阿はとても悪い。
でも景樹はかなり良い。
上田秋成なんかはすごく良い。
宣長には良いのも悪いのもある。
古いものでも一つ一つ丁寧によりわけて悪いものを捨て良いものを残す。そういうてまひまのかかる作業を明治から昭和にかけての学者たちはしてくれなかった(しかし『日本歌学大系』という名著を編纂したのも佐佐木信綱だった。なんたる皮肉。つまり彼は古いものをひとまとまりにして倉庫に入れて封印する仕事をしただけだった)。

話はそれるが、
皇族、武士、町人は割と面白い歌を詠む。
公家は歌読みは多いが良い歌詠みはそんなにいない。
僧侶には良い歌詠みは滅多にいない。
西行や蓮生あたりまではよかったかもしれんが(というかこの二人はもともと武士だが)、
慈円なんてのは凡作ばかりだし、
鎌倉・室町までくだると坊主でまともな歌人はかろうじて正徹くらいではないか。
江戸時代だと契沖、良寛が少し良い。

大塚英志はまた明治の文学には「言文一致」と「候文」の二種類しかなかったような書き方をしているがこれは嘘だ。
「言文一致」というのも今から見ればそう見えるわけで当時としては新奇な人造言語だったし(大塚英志自身がそれに気付いているのに!)、「候文」なんてのは江戸時代の武家の公文書にむやみと使われただけの、
日本古典文学から見ればゲテモノに過ぎない。
彼らは古文は古くさい因習で、現代文によって淘汰されたことにしたくて仕方ないのだ。
そこが柳田国男とか佐佐木信綱の悪いところだ。
現代文にも淘汰されるべきものが多くある。
淘汰圧がまだかかってなくて残っているものがたくさんある。

それはそうと、キャラクターとは記号であり、小説はTRPGのように書くべきだという考え方には大いに共感した。
私の小説もゲームの影響を強くうけている。
キャラクター設定とはAIであり、
世界観とか舞台設定はマップであり、
マップの上にアセットを配置して、ゲームをリプレイする感覚でストーリーを作っていく。
ただ私はそれをTRGBのような、パーティを組むみたいな手垢の付いたストーリーにしたくないだけのことだ。
これから小説は、ゲームの開発環境のように、アセット作る人、キャラクター作る人、キャラクターのAI作る人、マップ作る人、ストーリーというか世界観作る人、テンプレ作る人、みたいな分業体制になっていくんじゃないか。ハリウッド映画もすでにそうやって作られている。ストーリーの生成はある程度自動化されるんじゃないか。一人の人間がいきなりワープロに向かって何か書くというやり方は効率悪すぎて、そのうち勝てなくなる、と思う。ほとんどの小説はそういうふうにして作られて消費されるようになる。というより、一発当たった作品はそうやってよってたかって再生産されていく。ルーカスがいなくても未来永劫スターウォーズが作られていくようにして。
だからまあそこから外れたもの、そういうものの大もとの企画や原作を書いてみたい気もするが、そういうものは社会的な需要がないから受け入れられないだろうし、よほどのことがないと当たらないということになる。

私が小学一年生の時に見た「トリトン」を大塚英志は中学生で見たという。
アニメ史に残る富野由悠季の業績とは「ガンダム」ではなく「トリトン」だと言ってて、面白い視点だなと思った。

高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』

> もちろん、小説が嫌いな小説家はいないはずです(たぶん)。

さて。
私が小説家かどうかはひとまずおいて、
私はどちらかと言えば小説が好きだから小説を書いているわけではない。
私は最初は画家になりたかった。
それから歌人になりたいとも思った。
画家と歌人ではそもそも飯を食えないし、
才能を判断される基準が曖昧としか言いようがないし、
ともかく食うための仕事をしないわけにはいかないので、
私はなんとか論文を書く仕事についた。
論文を書くのは楽しいけれどむなしくもある。
世界でおそらく私の論文を楽しく読んでいる人は三人くらいしかいない。
死んでからときどき見つけて読んでくれる人がいるかもしれない。
それでも良いと思ったが、あるときから論文を書くのがばかばかしくなってやめた。

歌人になるにはおそらく新聞とかの歌壇で評価されねばならないのだろう。
まっぴらごめんだ。
そういう仲間になる気はない。

それで私は自分が詠んだ歌を小説の中に紛れ込ませる方法を考えついた。
和歌の本を買って読んでくれる人よりも小説の本を買って読んでくれる人のほうがはるかに多い。
それで本がたまたま当たったら、そこに載ってる歌に気付いてくれる人が出てくるかもしれない。
ともかく読まれないことには、私の歌を世の中の人に知らしめることはできない。
それで私は『日本外史』などを読んでやっと日本史というものに興味が出てきた頃だった(『日本外史』は明らかに小説ではないわな)。
私は日本史などというローカルな歴史にはもともと興味がなかった。
世界史ばかりおもしろがって読んでいた。
ところが『日本外史』という武家の通史を読んでみて、
承久の乱とか南北朝とか室町なんていう時代がけっこう味があって面白いなってことに気付いた。
おそらく世界史を知っていたからこそ南北朝みたいな話に興味が持てたのだと思う。
歴史小説の中に自然にとけこむような歌の詠み方を私はすでに習得していた。
完璧な大和言葉で和歌を詠む訓練をした。
そうしたらだんだんと本居宣長や上田秋成なんかの国学者の気持ちがわかってきた。

そうしてまず歴史小説から入っていったのだが、
この歴史小説というやつも新人賞なんかで募集しているところは少ない。
無いことはないらしいが、たぶん私の書くようなものは求められてない。
それで新人賞に応募するために現代小説らしきものを書き始めた。
というのがおおよその流れだったと思う。
それでもともと世界史は好きだったから、和歌とは離れて世界史の歴史小説も書き始めたのだが、それでも最初は主人公がオマル・ハイヤームのものを書いた。彼の詩に興味があったからだ。ここでも関心はどちらかと言えば歴史であり、詩であって、小説ではなかった。私はいまだに自分がどういう小説を書けば良いのか良くわかってない。むしろいまなお人に読まれて自分が書けるものがあるならそれを見つけたいと思っている。

> 短い詩と、それより長い詩、この二つは、明らかに詩です。

> しかし、なぜ、詩なのか、説明してくれ、といわれると、それは難しい。改行してあるから詩、というわけではないし、韻を踏んでいるから、リズムがあるから、繰り返しがあるから、詩だ、ということにはならないのです。

> わたしは、詩、という確固たるものがあって、それに向かっているから、詩なんだ、とういう説明が一番正確なのではないか、と思っています。

谷川俊太郎の詩は、私もなぜこれが詩なのか、うまく説明できない。というより、私は谷川俊太郎という人のどこが良いのかわからない(つまりまったく評価していない)。彼を評価するくらいなら、私は江戸時代までの歌人や詩人を評価したほうがずっとましだと思う。私にはいろいろな意味で現代文学の良さがわからない。
現代自由詩がなぜ詩であって小説ではないのか。そんなことをいくら説明しようと試みてもムダだと思う。いろんな人がそれを説明しようとしてきた。丸谷才一も『日本語のために』で似たようなことを書いていた。
一度は納得した気になっていたが、
和歌を学び、漢詩を学び、ペルシャのルバイを学び、ドイツ詩を学んで、
ますますわからなくなった。
「王様の耳はロバの耳」と同じことだ。
誰も、現代詩が詩じゃない、って怖くて言えないだけなんじゃないのか。
私はこれまで和歌を中心にいろんな詩を学んできた。
だから私は(少なくとも日本の)現代詩は詩じゃないって言う資格があると思っている。

> (もっと正確にいうと「岩波文庫」に入っているような)文学史に名を残すような文豪たちの本が、どんどん絶版になっていることをご存じでしょうか。

> 現代の読者は、そんな古い名作より、生きのいい現代の作品の方を好んでいます。

いつの時代もそうかと思うが、
一番小説を読むのは中学生から高校生くらいの子供だろう。
或いは一般大衆はドラマを好む。
彼らには歴史がわからない。
義経信長秀吉家康龍馬。そういう加工された歴史しかわからない。
古典はそういうマジョリティに消費される娯楽作品にはなれない。
岩波文庫を見ればわかる。
逆に年を取ると歴史がわかってくるから古典が読みたくなる。
そういう人たちの需要のために今も岩波文庫はあるといえる。
ただそれだけのことだと思う。

> 読者は保守的です。読者は「楽しませてくれ」という権利を持つ王さまです。その、読者の楽しみのほとんどは「再演」の楽しみ、いままで楽しいと思えたものと同じものを読む喜び、確実に楽しめる喜びです。そして、作者はその王さまのいうことを聞く家来 ― それが、いまの小説の悲しい現実です。

そりゃそうだ。
そんなことは物書きならみんな知ってる。
知らないことを知る喜びなど読者にはない。
彼らは自分が中学や高校でならった古典をおさらいしてやると喜ぶ。
そうでないことは理解できない。

> 小林秀雄 全作品

> 日本でもっとも高名な批評家である彼の文章は、批評の世界では、まねしつくされましたが、小説としてまねする人は意外と少ないようです。活用するべきでしょう。

文体を真似たひとはいるのかもしれないが、小林秀雄を真似て成功した人がいるとは思えない。私は小林秀雄のすべてはわからないが、自分の得意分野、たとえば『本居宣長』『実朝』などは理解できたつもりである。それで小林秀雄のような文章を書きたい誘惑に駆られたこともあるが、そんなことしたら誰もついてきてくれないと思う。
彼が、誰も気付いてないことを気付く本物の批評家であることは間違いないと思う。でも、彼の文章を読んで、誰も気付いてないことに最初に気付いた人であることに気付く人はおそらく皆無だ。みんな何が書かれているかわからずに読んでいる。
小林秀雄は非常に不親切な文章を書く人で、かつ文章のクオリティにものすごくムラがあって、大半はわけのわからないことをただぐだぐだ書いているだけで、たまにすごいことがぽろっと書いてあったりする。
小林秀雄だからああいう文章が許されるのだ。
そして彼は、読者が結局誰も自分の文章を理解してないってことに気付いていて、それでどんどん不親切になっていったのだ。丁寧に親切に書いても、不親切に書いても、どっちにしたって理解されないし、理解してくれる人はどんなに不親切に書いても理解してくれるんなら、親切に書く努力がばかばかしくなる。
そう、少なくとも彼が宣長について書いていることのかなりの部分は、別に難しいことじゃない。読み取ろうという気があって読めばわかるようには書いてある。

言文一致

たまたまヒマがあって図書館で「小説の書き方」みたいな本に一通り目を通したのだが、
どれもだいたい明治の頃に「言文一致」運動というのがあってそれまでは書き言葉と話し言葉の二種類があったのだが、書き言葉が捨てられて話し言葉で小説を書くようになったなどという説明がある。
これは嘘とまでは言えないがものすごく乱暴な言い方だと思う。

そういうことを言っている人たちは、江戸時代に女子供らが読んでいた、
例えば「春色梅暦」のようなものを読んだことがないのだろう。
もちろん厳密に小説(novel, Roman)と言えばそれば西欧のものだが、
それがそのまま輸入されてそれまでの日本の読み物がすべて淘汰されたのではない。

たとえば「言文一致」で語尾を「だ」とか「です」とか「である」にそろえたという話があるが、
そのこと自体からすでに「話し言葉」ではない。
明らかに、当時の話し言葉からサンプリングした新しい「書き言葉」に他ならない。
つまり明治維新がなって、日本人が誰でも読める本や新聞の文体というものが必要になったから、
それを当時の東京山の手辺りの話し言葉を基準に決めたというのに過ぎない。
それまでは共通語と言えば古典語しかなかった。
完全な正書法をもっていたのは、和歌などに使われる比較的きっちりとした大和言葉しかなかった。
無節操に漢語や仏教用語などを取り込んだ平家物語などは文章に書けば読めなくはないが、
あれを註釈無しで耳で聞いてわかる人はあるまい。
しかし大和言葉ならば意味と音が比較的きちんと対応しているから、
音声だけで意思疎通が可能だった。つまりは「話し言葉」として使うことも可能だった。
もちろん大和言葉だけでは新しい概念を表現できないから漢語など交える必要がある。
本居宣長の玉勝間などもそうして書かれている。
うぞうむぞうの方言に分かれていた封建時代の日本において日本人が誰でも読めるような書籍を書くには宣長のような書き方が一番現実的な文体だった。
そういう古典語が廃れたのはおもに西洋の概念を急速に輸入する必要があったからだ。

「春色梅暦」は当時の江戸の話し言葉で書かれているから今の私たちが読めばものすごく読みにくい。
仮名遣いもむちゃくちゃなので今の現代仮名遣いになれた人も、
当時の歴史的仮名遣いになれた人にもとても読みにくい。
いずれにしても話し言葉をそのまんま文章にした小説というものであれば、
多少の古典的言い回しは混じっていたにせよ、江戸時代にもあったのである。

山東京伝の黄表紙や為永春水らの人情本ですら読みにくかった。
今私たちが聞いている落語にしたって江戸時代のものをそのまま聞けばわからんに決まっている。
落語の多くは、元ネタは江戸時代にもあったかもしれないが、明治になって直したもの、
或いは明治になって新しく書かれたものだ。

話し言葉というものはそのまま文章にすればものすごく読みにくいものだ。
そんなことは今も口述筆記でそのまま話し言葉を記してみただけでわかる。
話し言葉と書き言葉の違いは現代でも歴然としてある。
今の書き言葉が読みやすいのはきちんと全国的な標準が定められて、全国一律で教育され、
またすべての出版社や放送局がその決まりを守っているからに過ぎない。
近代以降の国語はいずれも、多かれ少なかれ人工言語であり、極めて人為的なものだ。

無敵ヒーローとボスキャラの様式美

無敵設定の主人公ってのはよくあって、
また、無敵設定の敵キャラというのもよくいる。
また普段は普通だが無敵モードになると死なないとか。

で、無敵と無敵が戦ってどちらかが勝ちどちらかが負けるのはまさに矛盾なので、
いろんなお約束が考えられてきた。
無敵ヒーローが死ぬのがストーリーの中の一番の山場であるから、
ここに伏線を張るためにフラグというものが仕込まれるようになった。

だいたい鑑賞者は主人公が死ぬのはいやがるので、それなりの理由付けと舞台設定がないといけない。
解釈不能な死に方をするとたいてい暴動が起きる。
主人公が普段はやらないようなことをやったり、一瞬の気の緩みのすきに雑魚キャラに倒されるとか。
ヒロインが家で帰りを待っているとかだ。

ボスキャラの倒し方も、こちらはどちらかと言えば映画というよりゲームの方で発達してきた。
まず敵の弱点を見つけて、そこに攻撃を集中し、無駄な攻撃はしない。
体力を回復し、アイテムを取得しつつ、じわじわと敵の体力を減らしていくという戦法。

これらすべてが今日ではほぼ定番というかお約束というか様式美にまでなっていて、
そういうもんだという刷り込みができている。
だけどこういうお約束というのはだいたい20年くらいの歴史しかなく、
特にラノベみたいなのはここ10年くらいで急速に様式化が進んだのだと思う。
そういう世界をあまり知らない者にとってはなんで作者は、監督は、こんなふうなストーリー展開にしてしまったのだろう、
とわけがわからなくなってしまう。
なんか独自の解釈、独自のストーリーが作れる人なのかも知れないとさえ思う。
だけどお約束を一つ一つ調べていくと、すべてが実は既存の様式美の組み合わせでできているってことがわかり、
しらけてしまう。

そんでコッポラの作品なんかは、あれはちゃんと見ればラノベ世代より古い様式美で構築されていて、
盛者必衰の理というやつでできているから、
ああこれからどのキャラが死ぬなとか、どのキャラは死なないなというのが、
きちんと説明されているのである。
ゴッド・ファーザーはもちろん、地獄の黙示録もそうだ。
おそらくコッポラは古典芸能的な様式美にこだわるほうだ。
映像表現にしてもストーリーにしても。
きっとオペラとかギリシャ悲劇なんかを理想にしていると思う。

古代ギリシャでも劇作家がけっこう処罰されたりしているのだが、
表現の自由の問題もあるのだろうが、
作家は自分が作りたいように作ってはいけない、鑑賞者の許可が得られないものは作ってはいけないということなのだ。
それが悲劇の可能性を狭め、テンプレを作りがちにしても、作家はそこから先の実験はしてはならないのだ。
ジョージ・ルーカスが、ロシアの監督のほうがより自由に映画を作れると言っているのもだいたい似たような意味だろう。

世界で最も新しい変化は西アジアから生まれる

西洋近代とイスラムというのは、どちらも同じものなんだよ。
イスラムがたどったのと同じことがこれから近代西洋文明に起こる。
イスラムは近代西洋を導入しようとして結局は失敗した。
そりゃあそうだ、近代西洋はイスラムのコピー(おそらくは劣化コピー)なので、
イスラムを近代西洋で改革しようとしても意味が無い。
イスラムは自分でさらに新しい何かに変わっていかなくてはならない。
しかしそれができないので苦しんでいる。

西洋人は、イスラム世界が近代資本主義や個人主義で救えると思っている。
それは間違いだ。
日本人は西洋人の真似をしてある程度までうまくいったが、例外に過ぎない。

今イスラムは過激主義や原理主義という形で自傷している。
一つの文明がそのピークを迎え、崩壊すると、例えば五胡十六国のような混乱期が来る。
その時代は何百年も続くことがある。
イスラムがイスラムという定型を自ら改良し、イスラムに変わる何かを作り出すにはそれくらいの時間が必要になる。

世界史が発展するパターンはおよそ決まっている。
世界で最も新しい変化は西アジアから生まれる。
今度の変化は、おそらく石油産油国の崩壊という形でまず現れるだろう。
誰もイスラムにとってかわる社会システムなんて想像できない。
それは私たちが現代人だからだ。ほんとうに新しいものなんて予測できない。
でもそれはいずれ生み出されるしかない。
東ローマとペルシャが滅んでイスラムが出てきたときと同じくらいの規模の社会変革が来なくてはならない。

近代とポストモダン

石原千秋『教養としての大学受験国語』というのを読んでいるのだが、この著者によれば世の中の評論というのは、

* 現実を肯定的に受け入れる保守的な評論
* 未来型の理想を掲げる進歩的な評論
* 現実を否定して過去を理想とするウルトラ保守的な評論

の三種類しかないというのだ。
つまり、現実に満足しているのは普通の保守だが、現実に満足しておらず過去を理想とするのがウルトラ保守。
そして大学受験で出てくるのはほとんどの場合「未来型の理想を掲げる進歩的な評論」なのだそうだ。

近代とは近代西欧文明のことにほかならない。
そして近代のあとに「ポストモダン」が来る。
「ポストモダン」とはまだ確かな形をもっておらず、多様で、どれか一つが正しいというものではない、そう著者は言っているのだが、
彼のいう「未来型の理想を掲げる進歩的な評論」というものが明らかに「ポストモダン」とは相容れない。
今のマスコミがとらわれてしまっている「古い」「近代世界」であって今やまさに実現しようとしている「ポストモダン」ではない。

既得権益を維持しようとするものが保守であるならば、自称「革新」自称「進歩」こそがまさにそうだ。
彼らは「進歩」と自称しながら彼らほど「保守」な連中はいない。
それも「近代」というものの上にあぐらをかいた、この70年ほどの「保守」に過ぎない。
彼らは70年間かかって完全な保守になった。
若者たちはそれに怒っている。

彼に言わせれば私はウルトラ保守の一種かもしれない。
しかし単純な過去へのノスタルジーのことをウルトラ保守と言われても困る。
それこそ「昔はよかった」とか「自然に帰ろう」などということばは、どちらかといえば今の「進歩的教養人」が言う場合が多くはないか?

近代が世界であると思い込んでいる西欧と同じく、自分たちが進歩だと思い込んでいる実質的な保守の連中が、
これから来る「ポストモダン」時代に淘汰されることになる。
彼らほど「過去」を振り返り「未来」が見えてない人はいるまい。

受験生はかわいそうだ。
ただ良い点数を取るためにだけ、彼らの「近代」につきあってやらねばならぬのだから。