鬼滅の刃

以前、少年ジャンプみたいな小説を書いてもらいたいと言われたことがあった。少年ジャンプみたいな熱血もので、映画やNHKの大河ドラマの原作になりそうなもの、ということだ。最初は書けると思った。書き始めてもみた。一通り書き終えてもみたが、それはまったく少年ジャンプみたいにはならなかった。いろいろアドバイスももらって直してみたが、どうしても少年ジャンプにはならない。

結局私には熱血小説というものは書けないということがわかった。

ワンピースのような、進撃の巨人のような、寄生獣のような作品は、私には書けないのだということがわかった。もし自分を殺して、ただ与えられた企画書の通りに書くことならできるかもしれないし、一度はそういうこともやってみたいが、しかし、自分が企画も考えて文章も書くとなるとほぼ不可能。また、企画をいろいろと出してみて後は誰かが書くというのであれば企画を出しもしようが、要するに、私にもちかけられた仕事はそれらのどれでもなかった。

もちろん、すごく面白い企画があって、自分もそれを小説にしたい、というシチュエーションがあれば幸せだと思う。しかしその企画が熱血ものとか、売れ筋とか、映画の原作みたいなもの、というようなふわっとしたもので、かつ、なんとなくすでにどこかでみたことあるようなネタふりだったりすると、やる気がでるわけない。そもそも私が好きでもなんでもない作品を例に挙げてそういうものを作ってくれと言われてやる気が起きるはずもない。そもそも私はNHKのドラマは朝ドラにしろ大河にしろまったく好きではない。

まあ世の中の企画会議というものはだいたいそんなものなのだろう。たぶん私はそういう世界では生きていけないのだ。もちろん私も自分の小説が映画やドラマになってもらいたいと思ってはいる。なればなったで面白いつもりで書いているのだが、まったくお呼びがかかる気配もない。

鬼滅の刃をざくっと見た感じでは、プロットとしてはアイ・アム・ア・ヒーローに似てると思った。アイ・アム・ア・ヒーローの連載開始は2009年らしいが、その頃はまだ私も惰性で漫画雑誌を買って読んでいた。アイ・アム・ア・ヒーローはやはりその中で私が惰性で読んでいた作品の一つで途中で読むのをやめてしまった。

鬼滅の刃の連載開始は2016年ということで、おそらくアイ・アム・ア・ヒーローの影響は受けていよう。舞台を現代ではなく大正時代に置き換えて、武器もショットガンではなく刀にして、美術にも凝っている。その辺りが受ける要素だろうか。

要するにゾンビものの一種だが、おおもとのプロットは1982年に出た遊星からの物体Xだろう。人から人へ感染してゾンビ化していくというもの。

鬼滅の刃に関して言えば、美術は優れているし、世界観や登場人物に感情移入できれば見続けることもできるかもしれないが、プロットとしてはそれほど目新しいしものではない。こういう作品は近頃たくさんあって鬼滅はその中から頭一つ抜け出した存在なのだろう。こういう連載物はなんでもそうだが最初の数話が当たるとそれをいつまでも引き延ばすだけのことだから、最初だけ見れば十分に思える。劇場版がみたいかといわれれば、まあそこで新しい展開があるなら確認はするかもしれないが、ともかくがっつり見ようという気にはなるまいと思う。

主人公の額に傷だか痣があるのはレディ・プレイヤー・ワンのヒロインを思わせるし、北斗の拳もまたそうだ。

結局、こういう前例があってこういう企画で売れるように書けばこうなった、という作品以上のものではないように思うし、何かそこから逸脱する要素があってそこで受けているとも思えない。こういう作品を自分で書くかといわれれば、他の人にも書けるじゃんと思うからたぶん書かない。大正時代に特有な、たとえば江戸川乱歩的な要素は感じるが、そういう世界観が特別珍しいわけでもない。

ほかの、源流となった作品を何度も見返すことはあるかもしれないが、一通り見たらそれ以上見ることはないと思う。ま、要するに幕の内弁当的な作品、ということになろうか。ツイッターでは旨味調味料などと書いてしまったが。

もっと言えば、私としては、誰かの解説をいくつか読んでからざっと確認するだけで十分な作品に思える。それは進撃の巨人もそうだ。別にその世界の中に入り込みたいわけではなく、単に、世の中で流行ってるから確認作業をするというだけのことだ。

ネタバレ無しでガチに見たい作品はほかにもっとある。

犬の散歩

普通に考えて朝8時から10時の間に犬を散歩させるべきではない。

通勤通学の歩行者、自転車、自動車、みんな殺気立っていて、この時間帯、道を歩くのは非常に不快だ。常日頃できるだけ避けようと思っている。

特に危険だと私が思うのは、というより個人的に憎んでいるのは、電動アシストの自転車、会社のロゴも入ってない白いバン、そして黒づくめの宅配自転車ドライバー。

敢えて8時に犬の散歩に行く人はその時間帯しかできないからなのだろう。犬を引っ張るのに精一杯で、犬が私を威嚇していても、私に謝ろうというそぶりも無い。この犬にしても子供や夫などが勝手に飼い始めたものを妻が面倒見させられているだけなのかももしれない。などということを単に道で犬に吠えられただけでひとしきり考えたりする。

きちんとわきまえている人はだいたい朝6時くらいに散歩させる。そのほうが飼い主にも犬にもストレスが少ないに違いない。

他の人たちも別に8時から10時の間に通勤通学する必要は無いのだ。社会がそうだからそうするのだというのは言い訳に過ぎず、社会の大多数がそれでかまわないと考えているからそういう状況になっている。

コロナが流行る前から首都移転しようとか混雑を解消しようなどとかけ声だけはあったが一向に進まなかった。不可能なのではない。みんなそれほど関心が無いのだ。

私が働いているところでは今年四月になってもまだ屋外に喫煙所が残っている。そこは大勢の社員にとっては社屋の端っこに過ぎないかもしれないが、私の居る場所の真下にあって非常にたばこ臭い。廊下やエレベーターの中まで臭い。ところがこの喫煙所は保健所が来てここなら喫煙所にしてもかまわないという許可を得ているのだという。会社と保健所のお墨付きが出てしまった喫煙所を私の苦情でどかすことはほぼ不可能だ。

結局、どうでも良いことでも大勢の人が苦情を言えば世の中は動くし、どうでも良くないことでも私一人が文句を言っても何も動かないのだ。

10人の組織であろうと1000人の組織であろうと3000万人の組織であろうと1億2千万人の組織であろうと、私の不満など何も影響しないのだ。

宅配業者

最近は宅配業者がいろいろ気になる。

かつては郵便局か黒猫か佐川くらいだったが、今は得たいの知れないやつが運んでくる。特にアマゾンから来る荷物が得たいがしれない。

こないだなどは某超優良宅配業者を名乗る謎の男がアマゾンの荷物を運んできた。出てみるとその会社の制服を着てないし、車もただの白いバンだ。レシートもアマゾンのものしかない。ますますあやしい。

某業者が、人手が足りなくて個人に外注したということだろうか?

それとも謎の個人業者が、某業者の名を出せばあやしまれないとでも思ったのか。

なんだか嫌な時代になったものだ。

郵便局だからといって不正をやらないわけではないことはいろんな不祥事でわかるんだが、しかし、目に見える組織がちゃんと責任を負っている。

わけのわからん個人に委託してほしくない。

鬼平犯科帳

別に『鬼平犯科帳』の悪口を言いたいわけではないが、あれは結局、江戸時代を舞台に今の刑事ドラマを作り替えただけのものであり、だから一般受けするのだ。

元は同じで、そのアレンジ次第で時代劇にもなり、『相棒』にもなる。ただそれだけのことだ。結局人はいろんなものを見ているようでごく狭い限られたものを見ているに過ぎない。

別の言い方をすれば刑事ドラマにしても、今の現実の刑事やら警察官をきちんと取材すれば、全然違う作り方をすることができるはずで、全然違う『亀有交番前』ができるはずだ。だがそのためには一からネタを仕込み、まったく新しいプロットを考えねばならない。そんな売れるかどうか当たるかどうかもわからぬことに労力を費やす人などいないのだ。

eumenes english edition

人に言われてその気になって、『エウメネス1』を英訳してみたものの、ほとんど誰にも読まれないってことがわかっただけだった。英文ならどんどん読者を獲得できるのではないかと期待したが、そんなことはなかった。

和文と英文を分離して、和文は縦書きに戻すことにした。やはり縦書きのほうが全然読みやすい。

今回書き足してしまってずいぶん長くなった。短ければあっさりしすぎていると思われ、長いと飽きられる。簡潔で読みやすく、気がつけば次々に読んでしまって、長さを感じさせないというか、長さが気にならないようなのが良い文章なのだろう。誰も別に長編を読みたいわけではないのだ。面白い作品なら、長ければ長いほどうれしいだけなのだ。

英文もせっかく書いたからどこかにタダで公開しようと思うのだが、英文の小説投稿サイトはもちろんたくさんあってそっちに投稿すりゃ良いのかもしれんが、そこにもまた有象無象の小説があって、結局は埋没してしまうのに違いなかった。

日本語の投稿サイトもいろいろ検討してみたものの、どこも英語の匂いがしない。小説サイトなのに学問の匂いがしない、というのは変な言い方かもしれんが、ああいう文芸サイトというものには、結局、私は受け入れられない気がする。

まだハテナブログのほうが、英文に関心を持つ読者いるのではなかろうかと思われたので、とりあえずこちらに公開することにした。

一度に公開しないのはもったいぶっているせいではなく、マジで最近時間が無いからだ。私の場合、趣味と本業が分離してしまって久しい。もう10年以上そうだ。しかし、少しばかり、本業にも身をいれようと思うようになった。

本業と趣味を分離してしまうと趣味ばかり本気になってしまい、それはそれで疲れる。

やはり学閥というものはあるのだと思う。大学の同期や先輩後輩、師匠はやはり頼りがいがあるものだ。自分の実力だと思っていても、実は学閥というマーケティングないしは広報が効いているからこそ、社会に露出し、世間に認めてもらえるのだ。

つまり学者になりたければアカデミアのコミュニティに属しなくてはならず、小説家になりたければジャーナリズムのコミュニティに属さねばならぬ。そのためには大学に入るのが一番良い方法だ。だからあんな一見何の役にも立たない大学というものが存在しているのだ。

自分が属する世界に飽きてしまってその外の世界で活路を見いだそうとしても、うまくはいかない。逆に自分の学閥の中でぬくぬくと活動していて、良い気になっていても、それはほんとうの実力ではない。ホンモノでなければいずれ遠からず忘れ去られるだけだ。

二足のわらじというが、単に本業と副業があるというだけではないのだ。複数のコミュニティに属するにはどうすれば良いか。一つの大学を出て、年を取って他の大学も出ればよいのか?なるほど、それもありかもしれない。しかし今更他人の弟子になって頭を下げる気など起きない。そこまでして他人に搾取されたくない。

世の中は実に馬鹿げている。身内で盛り上がっているだけではないか。そんなものは死んでしまえば何も残らない。学者ならば常日頃学者を観察しているはずだ。そこから導かれる結論は学者は馬鹿だという以外無いはずだ。それなのに、学者のくせに学者を擁護する。そういう学者ばかりだ。

海苔弁

こないだ海苔弁の危機というものを書いたが、あれは間違いだった。

海苔弁にはやはり需要がある。

昼時、一番最初に売れてしまうのだ。だからちょうど、朝11時くらいにいかないと手に入らない。

海苔弁に人気がある理由は要するに安いからだ。鮭弁とか幕の内よりも、100円くらい安い設定にしなくては売れない。単価が安いからほんとは売りたくない。しかしよく売れるからその価格設定は崩せない。だから、めちゃくちゃ流行りはしないがしぶとく生き残る。

スーパーやほか弁屋ではそうだが、コンビニはまた違う。コンビニもまた、品揃えは豊富にしたいのだが、余力が無いところは、安くてボリュームがある鶏の唐揚げがメインになってしまうのだろう。

ほか弁屋は待たされるから嫌だ。待たされるくらいなら遠くのスーパーに歩いて行ったほうがましだ。あちこちスーパーを巡って海苔弁研究でもしてみるか。

センター・オブ・ジ・アース 2

『センター・オブ・ジ・アース 2』という映画があってこれは『センター・オブ・ジ・アース 』の続編なのだが、全然地底探検になってないのにこの日本語タイトルにした人はどういうセンスなんだろうねしかし。 『サスペリア』と『サスペリア2』の前例もあるしもうどうでもいいんだろうねマーケティング的には。

『センター・オブ・ジ・アース 』は原題が『Journey to the Center of the Earth』で、原作はジュール・ヴェルヌの『地底旅行(Voyage au centre de la terre)』だから、これはいいんですよ。『センター・オブ・ジ・アース 2』の原題は『Journey 2』。まあこれじゃ邦題考えるの大変だったかもしれんね。

で、雰囲気は完全に『ジュマンジ』(新しい方の)なんだけどさ。まあいいんですよ。さらっと最後まで見れたので、嫌いじゃないです。 ヒロインはほとんどララ・クロフトだった。 プロットはほとんど『天空の城ラピュタ』だった。というかオマージュのつもりなのか? 何にも考えずに飯食いながら見るには良い作品で、『ターミネーター』みたいに途中胃が痛くなるような展開もなくて、淡々と楽しく見させてもらえる作品だと思った。 日本でいうところの劇場版ドラえもんみたいなものか。

ツイッター見ているといつも「何言ってんだこいつ」ってリプライかリツイートしたくなって、精神衛生に悪いので、見ないで、あるいはそこはいったんためといて、ブログなぞにグダグダ書くのが良かろうと思う。 学者が馬鹿だというのは自明の理であって、 社会に適合して器用に生きることを諦めて、その代わり、学術的に何か生産的なことをやって、 世の中の片隅に住まわせてもらおう、そういうやつだけが、学者として良い仕事をする。 社会に出ればたちまち無用の長物になってしまう。いや、社会で役に立とうとすれば立たなくもないかもしれないが、そういう宮仕えは死ぬほどいやだ、 だから学術界に引き籠もっているのだ。

いやしかし馬鹿で社会不適合でしかも学才もなく貪欲でしかも世の中に害悪を垂れ流す連中がたくさん淘汰されずにいるのも事実であるが、それは淘汰の仕組みがうまく働いていないのが悪い。で、淘汰がうまく働くようにしようとすればするほどその仕組みは改悪されていくので、手をつけないほうがまだましだ、というただそれだの理由でなかば放置されている。だから、ああいう盲腸みたいなものが出てくるのはある意味仕方ない。 膨大な無駄遣いをしてるのもある程度まではその性格上しかたないと思う。 自然淘汰は無駄を省くこともあるけれど、必要がなければそのまんま放置することも多い。それだけのことだ。

盲腸も別に炎症を起こさないのであれば大した実害はない。わざわざ開腹手術をして摘出するほうが体に害になる。 だから、ほっとけばよいのだが、これが腐敗して、化膿して、体中に毒素をまき散らす状態になったら、そりゃ手術したほうがよい、ということになる。

海苔弁の危機

コンビニ弁当の角はもう少し丸くしてもらえないものだろうか。 電子レンジの中で回りにくくて困る。

近頃はコンビニのせいで弁当屋が減ってきていると思う。 セブンイレブンもwebサイトを見るといまだに海苔弁をメインにもってきてはいるが店頭ではあまり見かけない。 人気なので最初に売れてしまうのだろうか。 ほかの某系列だととにかくもうやたらと鶏の唐揚げばかり並んでいて、選択の余地がない。 セブンイレブンはまだ選択の余地があるぶん良いといえば良いが、カルビ丼とかそういう重いやつが目立つ。 スーパーの惣菜コーナーでも海苔弁はあまりみかけなくなりやはり鶏唐が優勢だ。

昔は弁当屋の弁当と言えば、高い方が幕の内で安いほうが海苔弁だった。まずこの二つは常にガチであったと思う。 鶏の唐揚げはおそらく原価がものすごく安いのだろう。 海苔弁はもとは安かったが最近は割高になりつつあるのではなかろうか。

このままでは海苔弁が絶滅危惧種に指定されるのではないかと心配だ。

小説の英訳

さて何かブログに書こうかと思っても最近はいろいろ気が散ることが多くて、ツイッターに何か書き込んだり、調べ物をしたりしているうちに、 執筆意欲というものがどんどん消費されていって、他にもいろいろやらなきゃならないことが思い出されてきて、結局書かないってことが多い。 以前はそうではなかった。2010年くらいまでは、twitter や facebook はまだ閑散としていたし、電子出版というものがそもそもまだ普及しておらず、 kdp など影も形もなかったから、何か書きたい衝動が起こってきたらブログに書くしかなかった。

『1984』に主人公の Winston Smith が「さて何か日記を書こうか」と思い立ったときの心境が描写されているのだが、これがいまさらながら少し面白い。 最近は英語の原作をぼちぼち読み始めているのだが、 やはり、日本語訳で読むときと原文で読むときではかなり雰囲気が違う。 この雰囲気というものを訳すのはやはり難しい。 なんで英語の小説を原文で読み始めたかといえば、自分が書いた小説を一部英訳してみようと思ったからだ。 思うに英語を読まねばならぬという義務感のようなもので読み始めても頭に入っていかず、結局途中で読むのをやめてしまうのだが、 自分の小説を英訳したいという動機があり、その自分の英文にはなはだ自身がなく、他人の小説の言い回しを参考にしようという下心があると、不思議と読めてしまうものだ、ということが今回わかった。

He sat back. A sense of complete helplessness had descended upon him.

まあたったこれだけでも、英文と和文では受ける印象が違うのがわかるというものだ。 A sense of complete helplessness。意味はわかる。しかしこれをどう日本語に訳すのか。自然な意訳ならば「完全な絶望感」とでもなろうか。He sat back。これも案外難しい。意味は明解だ。しかし、back をわざわざ訳すと長ったらしくなる。sat すら訳せない。座っているのは自明なのだから訳すまでもない。もとの 3ワードの簡潔な文をどううまく訳すのか?たぶんこれは訳せない。「彼は真新しい日記を見つめながら途方にくれた。」くらいにしか訳せないと思う。

For whom, it suddenly occurred to him to wonder, was he writing this diary?

この言い回しもなかなかしゃれていてかっこいい。まず For whom、と来て、その後に挿入節、というか転置された文が挿入される。しかしこれも和訳すれば単に「誰のためにこの日記を書こうとしているのか、という疑問が突如彼に涌いてきた。」くらいにしかできまい。

For some time he sat gazing stupidly at the paper.

こういう書き方ね。これが George Orwell という作家の持ち味なんだが、これを日本語で表現するのは難しい。「しばらく彼はぼんやりと紙の上を見つめていた。」とでも訳しようがないのだが、それでは元の味わいというものがまるででてこない。 たぶん私ならこの sat は書かない。he gazed stupidly at the paper. と書くだろう。日本語にも特に訳しようがない。stupidly もここで「馬鹿のように」と訳すと直訳臭がするから「ぼんやりと」とでも訳すしかない。でもそうすると明らかに原文の味は失われる。でまあそういう英文の「味」をうまく和文に変換できれば、おそらくだが、村上春樹みたいなシャレオツな文章になるのだろう。この、シャレオツと直訳臭の違いは純粋に感覚的なものだから、誰もが書けるわけではあるまい。村上春樹のパロディみたいな文章は、割と誰にも書けるのかもしれんが。

単に英語の勉強のために英文を読むのではなく、つい私の場合、著作権が切れた作品を英訳してみようという色気が出てきてしまうのだが、別に著作権が切れてなくても、ハリーポッターなんかは読んでみたりしている。 George Orwell の著作権が切れてるかどうかはぎりぎりのところでなんともいえないが、どうも私にはうまく訳せるようには思えない。しかし、うまいかへたかはともかく訳せば少なくとも自分の勉強にはなるし、売れれば多少の収入にはなるわけだ。

メガス・バスィレウス

『エウメネス』の一番初期の草稿を読んでみたのだが、まず、タイトルが『エウメネス』ではなく『メガス・バスィレウス(大王)』になっていて、一人称ではなく三人称になっていて、エウメネスではなくて、アテナイ出身の貴族ニコクラテスという人が主人公になっている。いやそもそもこのニコクラテスなる人物は主人公というほどでもなく、王の次くらいに主要な登場人物というにすぎない。 アマストリーもまだ出てこない。 拙い、5000字足らずの草稿のようなものだが、『エウメネス』のエッセンスはとりあえず最初からここにそろってる。沙漠の話しかしてない。アッリアノスの『東征記』を読んで一番面白かった箇所を抜き出して小説風に脚色しただけ。これを多少膨らまして中編小説としてどこかの新人賞に応募したが、何の反応もなかった。

※追記: 今は全6巻、文字数は、1巻平均10万字として、50万字は軽く超えてるだろう。よくまあ書いたものだ。もはや自分でも読もうと思っても読めないくらい長い。

以下にその最初期の草稿全文を公開する。

メガス・バスィレウス

田中久三

アフガンの山岳地帯を抜け、ペルセポリスへ向かう途中に、ペルシャ高原でも一番に過酷な砂漠が横たわっている。その東半分は塩の平原。太古の昔、カスピ海やアラル海のような、閉ざされた塩辛い海が広がっていたのだろう。さらに西へ進めば、砂の砂漠。塩と砂の他には、不毛の岩山がそびえているだけ。あとは何もない。

「ところどころにオアシスくらいあるだろう。砂漠というところは、要するに、飛び石のように点在するオアシスをたどってゆけば越せるはずだ。」

王は砂漠の案内人らに尋ねた。

「この砂漠には、十日もの間一つの水場もない箇所があります。越えることはできません。」

「なんだ、たったの十日間か。キュロス王であればこの砂漠を越えただろう。」

案内人の一人が遠慮がちに答えた。

「我がペルシャ帝国建国の祖キュロス王とて同じです。」

「ではダレイオス大王ならば越えたであろうか。」

「いいえ。この砂漠は誰一人として生きては返しません。この砂漠を越えられぬことを、我がダレイオス大王自らが立証したのです。」

「ほう。おまえたち、どう思う。」

幕下に参集した指揮官たちは、一様にうつろな眼をしていた。打たれ強い、というよりは、あまりに打たれすぎて惚けてしまったようだ。 ニコクラテスという男がたまらず口を挟んだ。彼はマケドニア人ではない。アテナイ人である。彼はたびたび王に諫言をなした。王もそれを許した。

「おお、我らが王よ、バスィレウスよ!沙漠行は確かに我ら自らが望んだことでありました。一日も早く故郷に西帰するために。しかし今一度お考え直しください。」

かつて王は聖なる川ガンガーの岸辺でマケドニアの将兵らを集めて言った、

「ヘタイロイたちよ。我ら全員が乗れるほどの船を調達し、この川を下ってそのまま東の海へ出でて、アジアの海を一巡りして、カスピ海に戻ってこよう。船旅もまた面白そうではないか」、と。

いつも従順なマケドニア兵たちも、このときばかりは抵抗した、首に縄を付けられ、岐路で嫌いなほうへと導かれる散歩途中の飼い犬のように、身をくねらせ足を踏ん張って。

王は考えた。ニネヴェのアッシュールバニパル図書館で見た世界地図によれば、ガンジス川の河口からシナの海とカスピ海はつながっていた。シナもアフリカの奥地もカザフ平原もきわめて矮小に描かれていた。我らは苦も無くそれら全世界を経巡ることができる、と。しかし、兵卒らの本能は察知していた、「世界がそんなに小さいわけはない。海や大陸はどこまで続いているかもしれない。生きてマケドニアまで戻れる保証はない。」

王は言った。 「よろしい。ではアジアの海を航海するのと、ペルシャの沙漠をよぎって帰還するのでは、どちらがよいか。おまえ達が好きな方を選べ」と。

「我らは皆、東の海よりは西の沙漠の方がましです、後生ですから、沙漠に行かせてください。」

王はニコクラテスに向き直り、栗色の縮れ毛の下に光る、その黒い瞳をみつめて言った。

「私はペルシャのキュロス大王よりも偉大だろうか。」

ニコクラテスは答えた、

「もちろんでございます。王より偉大な王はこの世界にはおりません。」

「では我らマケドニア人がはじめてこの砂漠を越えてみせようではないか。キュロス王やダレイオス大王よりも、我らが偉大で強いことを後世に伝えるために。」

ニコクラテスはめまいがした。王はまったくひるまない。むしろ闘志を燃やしていた。

「ペルセポリスはまさしくこちらの方角か。」

「王よ。その通りです。しかし交易路はずっと北を迂回しております。まっすぐに砂漠を抜けることはできません。」

ニコクラテスの父はアテナイの貴族で書記官だった。王の父フィリッポスはアテナイやテーバイからなるギリシャ連合軍をカイロネイアの戦いでうちやぶり、マケドニアが全ギリシャの盟主となった。アテナイはマケドニアの要請に応じて、ニコクラテスを王の旅団に派遣した。以来彼は、いつ果てるともしれぬその大遠征 に従い、王の記録係を司っていた。立場上、王の相談役となることもあった。しかし、彼の意見が取り入れられることはなかった。王は何事も自ら即決するの だった。この王ほど参謀を必要としない王はあるまい。

王はもちろん気が狂っている、と彼は思う。

「四の五の話していても埒があかぬ。そろそろ行こうではないか。」

王は常々、インド人が乗る象ほども巨大な、スィリア産の白馬プケパラスに乗馬していた。しかし今、みずから鞍を外して荷駄を載せ、自分は徒歩で、プケパラス の手綱を引いて塩の海へと歩みだした。全軍が魔法にかかったように、すっくと立ち上がり、王の後について歩き出す。ニコクラテスはもはや驚かない。ただ、 王だけではない、マケドニア人はみな気が狂っている、そう思った。

分厚い岩塩の下には、ときおりコールタールのように真っ黒で腐った水がたまっていた。馬やらくだが塩を踏み抜いておぼれてはたいへんだ。案内役は注意深く、全軍を安全なルートに導く。

「次のオアシスまで、あと5日の行程です。」

日の出とともに進み、日の入りとともに野営する。それを3回繰り返したら、涸れた塩の湖がついに尽きて、標高が1スタディオンもあるかという、砂丘が現れ た。足が熱砂に膝まで埋もれた。一つ砂丘を上るとそのいただきから次の砂丘が見える。その砂丘に上ってもただまた次の砂丘が見えるだけだ。

「今日の野営地はここだ。」

皆は砂丘の斜面をベッドに寝た。王もまた兵士らとどうように直に砂の上に寝た。

王はバクトリアで敵将オクシュアルテスの娘ロクサナを娶った。王の両脇にロクサナとオクシュアルテスが添い寝する。

「ロクサナ。なんとやわらかな砂地だろう。ペルシャ王宮の絨毯や、フラミンゴの羽布団よりも、この砂漠の寝床の方がここちよいではないか。」

ロクサナは飼い猫がそうするように、無言でじろりと主を見ると、あきれかえって眼をそらした。

「叔父上よ。なんと見事な夜空ではないか。まるで星が鼻の先で光っているようではないか。手でつかめそうだ。地平線まで雲一つなく、空気がどこまでも透き通っている。」

王は水もなく飛ぶ鳥さえない死の沙漠のただ中にいて、恐れるどころか、むしろ楽しんでいる。オクシュアルテスは戦慄した。王は艱難辛苦がお好きなのだ。艱難辛苦によって得られる名声や富ではなく、艱難辛苦そのものがお好きなのだ。炎暑の沙漠に焼かれ、酷寒の雪原に凍え、断崖絶壁をよじり大河を渡河する、そういうこと自体がお好きなのだ。

翌朝また出立し、いくつかの砂丘を越えると、眼下に青々とした、小さな湖が見えた。

「オアシスだ。」

兵卒らは砂丘をわれ先に滑り降り、服を脱ぐのももどかしげに、湖の中に飛び込んだ。後から後から兵士らが飛び込み、多くの家畜らも後を追ったものだから、水面に浮かび上がることができず、少なからぬ兵がおぼれしんだ。また、余りにも一度に大量の水を飲んだために、急死するものまで出た。

「なんというざまだ。」

王は死者を砂に埋めて葬った。王は案内役に言った。

「これからはオアシスに着くより20スタディア手前で宿営することにする。これ以上部下を死なすわけにはいかぬ。」

一行は次第に深い砂漠に沈んでいった。日にちの感覚が失せていき、永遠に砂漠の中を彷徨するのではないか、という錯覚に陥る。

「恐れながら王よ。一つだけお聞かせ願えませんでしょうか。私が常々抱いております疑問について。」

「なんだ、オクシュアルテス。申せ。」

「王は何故に、困難なことと簡単なことの二つを選ぶときに、必ず困難な方を選ぼうとなさるのでしょうか。王都に安住せず、危険な世界を経巡ろうとなさる。ひとときも心休まるときはありますまい。」

「ははは。私はそなたたちとものの考え方が違っているからこのように世界の王になれたのである。極めて自然なことだ。そなたたちに困難と思えることが私にはむしろ簡単であり、簡単と思えることが逆に困難なのだ。楽しいと思えることが私には耐えがたい苦痛であるし、苦痛はむしろ快楽なのだ。

叔父貴よ。これは、そなただけに打ち明けることであるから、他言は無用であるが、私がマケドニアかバビロンの宮廷に戻れば、臣下らは、みな喜び安堵するであろう。しかし、この私にとって宮廷ほど危険なところはない。

今我らは世界征伐の途上にあって、我が旅団も生きるか死ぬかという緊張状態にある。私が真の意味に必要とされている場所は戦場なのだ。私が、このアレクサンドロスが宮廷にいれば、逆に誰も私を必要としなくなってしまう。我が父フィリッポスもまた同じであった。父は戦場で死んだのではない。宮廷の祝宴のさなかに死んだのだ。だから、私もまた祝宴も、宮廷も好きではない。戦場こそが私の安住の地なのだ。我が兵ら、ヘタイロイらもまた、危難の中にあればあるほど私に従順である。宿営地に集めておれば全軍を即座に掌握できる。もし我が故郷へ帰ってめいめいの家の中に入ってしまえば、私の目は届かず、何を企んでいるかもしれないではないか。」

王はそこまで話すとオクシュアルテスの返事を待たずに立ち上がり、尻や腕の砂を払うと、ロクサナの手を取り、砂の中から起こし立たせた。王は娘をバビロンに連れていき、そこで正式に挙式して、王の妃に立てるという。王がそう言うのであるからそうするのであろう。そしてまたどこかの戦場へ旅立つだろう。それまで私も王の軍にいるしかないのである。

王は沙漠の民を案内人として、水場から水場へと行軍した。日の出とともに行軍を開始し、日の入りとともに野営した。翌日も、また翌日も、同じように進軍した。

或いは駱駝や馬を屠ってその生き血をすすり、或いは奴隷のはらわたを割いてのどを潤さねばならぬ。すくなくともロバや羊は沙漠を出る前にみな食われてしまうだろう。

岩陰には夜露がたまっていることがある。夜中のうちに岩に当たって冷えた空気が結露して、わずかな雫が窪地に集まって、人ののどを潤すほどの量になることがある。兵卒らはあらそってそれらの水をすすり岩をなめた。

ある兵士が洞穴を見付け、兜一杯分の水をくんできて、それを王に献上しようとした。

「これだけか。」

「はい。」

「私もまた、マケドニアのヘタイロイの一人にすぎぬ。皆が渇きに苦しんでいるときに、私だけがこれを飲むわけにはいかぬ。おまえが見付けたのだから、おまえが飲めば良い。」

「それはご勘弁ください。」

「我が軍全員の分がないのに私だけ飲んでも意味が無い。捨てるとしよう。」

そう言って、全軍注視の中、兜一杯の水を砂地に撒いた。水はたちまち沙に吸い込まれ、太陽がたちまち乾かしてしまった。兵士らは無言でその信じられない光景を見ていた。まるで、砂が一杯の水を飲み込んだように、全軍が等しく一杯の水を飲んだかのような感覚を共有しつつ。

兜の持ち主は、王の手から空の兜を受け取り、元のようにそれをかぶった。

オクシュアルテスは言った、「ニコクラテス。おまえは、王があの水を飲まなかったことが、きわめて立派なことのように思っていよう。しかしそれは違うのだ。王は用心していたのだ。王は素性の知れない水は飲まぬ。奉られた食べ物も食べぬ。兵士らが食らっている食い物を分けて食い、兵士らが飲んでいる水を分けて飲む。王は自分のヘタイロイの一人に過ぎぬというつもりでそうしているのではない。毒を盛られるのを怖れているのだ。

また、仮に、兵士に悪意なくして、水を献上したとしてもだ。砂漠の案内人が飲んで良いと言った水しか飲まぬのだ。岩山の洞窟にたまっていた水など、得体の知れないものを飲んで腹を壊してはならぬ。遠征途中で病気になってもいかぬ。だから飲まなかっただけなのだ。」