自分信託投資

私の株の買い方は、できるだけいろんな銘柄を少しずつ、底値と思われるときに買って、長期ホールド、ただし高くなったら売る、というやり方で、投資信託に似ているが、他人がやってる投資信託は信用できないのと、いろんな個別銘柄を自分で選ぶというのが面白いからそういう買い方をしている。世の中の投資信託をnisaで積み立てるというやり方は、なんか勝手に上がったり下がったりするのが気に入らないのでやりたくない。

株価はこれから遅かれ早かれ下がる。アメリカ大統領選挙前に下がり始めるかもしれないし、来年になるかもしれないけど、とにかく、今上がってるからとりあえず買って、落ち始める前に短期で売る、という考え方は、私には無い。

安ければ買うし、高くなったら適当なところで売る。

ブラックリスト

ブラックリスト見た。面白いんだが、何かが物足りない。homelandやvivantとは違って、エピソードがぶつ切りで、敵役は次から次に移り変わっていく。24 -twenty-four- 形式か。メインのキャラクターには何か裏設定があってそれをラストまで引っ張っていくという戦略なのだろうが、これって全部見る必要ある?と思ってしまう。

脚本はよく練られていて、これまで作られてきたFBIものCIAもの、いわゆる政治サスペンスものの王道を行っていて、俳優もみな魅力的なんだが、なんというのかなあ、悪い意味で幕の内弁当的というか。homelandだとここのエピソードはともかくとして全体のストーリーというものがあったし、キャラクター設定は破綻寸前のようにみえて一応の統一感を保っている。そういう危なっかしいところ、優等生的な作品ではないところ、ある種実験的なところに魅力があった。ブラックリストにはそのどれもがない。だから意外性が無い。ああ面白かったな、でもなんとなく既視感がある、で終わってしまう。でもまあテレビドラマなんてものはそれで良いわけで、成功した作品と言って良いのだろう。当たるかはずれるか一か八かの作品なんて商業的には作ってられない。

ある意味最近の少年ジャンプの作品なんてみんなそんなものではないのか。私もドラゴンボールあたりまではみていた。ドラゴンボールも途中で飽きて見るのをやめた。ワンピースも連載初回から見てしばらく見ていたが、途中で飽きて見るのをやめた。作り込まれれば作り込まれるほど意外性はなくなっていって、見る気がしなくなる。テレビ番組もみなそうだ。

Netflix でいうと Surviver というのがある。これも最初はプロットの面白さで見ていたが途中で飽きた。これ、最後まで見る必要ある?ただ惰性で続けて引っ張ってるだけだよな、と思えてきた。Lupin もそうだ。面白い着想だが、全部見る必要ない気がした。

おそらく homeland は、この先どういう展開になるか、もしかしてドラマ自体が破綻して終わるのではないか、というような心配を見ている側にさせる。しかし blacklist は、テレビドラマの水戸黄門を見ているように、どうせ一件落着するんだろうと安心して見ていられるから、メタな意味で面白くないのではなかろうか。

ククルスドアンの島

ククルスドアンの島を見たのだが、最近の日本アニメってすごいんだな、というのが感想だった。モビルスーツはCGでかっちょよく動くし、キャラクターは正真正銘安彦良和の絵がなめからに動く。ストーリーもさすが富野由悠季、まったく破綻がない。セイラさんの口調がなんだか気持ち悪いのがなんとなく歴史修正主義みたいだがまあいいか。技術が向上し、お金も人もかければこのくらいは作れるんだな、という印象はあるが、意外性は少なかった。そりゃしょうがないよね。ドラえもんもクレヨンしんちゃんもそのほかいろんな日本アニメはみんなそうなのだ。長谷川町子原作のサザエさんは長年テレビでアニメ放送されているうちにすっかり毒気を抜かれてしまった。同じことがガンダムでも進行中なわけだ。ガンダムもまたどこかで見たことある日本アニメの一つになってしまった。

正直な話私はそうした類いの作品を見たいわけではないのだが、このククルスドアンはあまりにもよくできていたから最後まで一気に見てしまった。しかし何度も繰り返し見るタイプのものではないかもな。

改めてこの最新ガンダム作品を見てみるとアムロなんかがいちいち「アムロ中尉」などと呼ばれているのが気になる。昔からこんなにいちいち階級で呼んでいたのだろうか。さらに日本が作る戦争ものには共通のウェットさがある。義理と人情。浪花節。同じ感覚をvivantにも感じたし、タランティーノも日本映画(仁義なき戦いのことか)に影響されてレザボアドッグスを作った、などという人もいる。このククルスドアンでも特有の暑苦しさを感じた。日本料理に必ず醤油が使われているような。特色でもあるが呪縛でもあると思うんだ。もっとすかっと作れないんだろうか。

Reservoir Dogs

レザボアドッグスだが、話自体は単なるチンピラ映画ではあるのだけど、何度かじっくり見てみるとやはり、タランティーノの処女作だけあって価値の高い作品だ。

タランティーノ自身が演じるブラウンだが、一番みっともないダサい役だけども、役者というものはこういう役は敢えてやりたがらないだろうか、それを監督が自分で演じた、と言えなくもない。パルプフィクションでも同じなのだろう。

ブラウンを殺したのは潜入捜査官のオレンジだった。映像として見せてはいないが他には考えられない。

オレンジはまた、たまたま巻き込まれた民間人を殺してしまった。これもくどくど説明されていないが、反射的に殺してしまったのだろう。

ブラウンはさらにブルーも殺したとされているのだが、これはそもそもまったく映画の中で描かれてない。最終的にざっくり省略したのだろう。そもそもこの作品は強盗がダイヤモンドの卸を襲撃して奪うという筋書きであるのにその強盗シーンはさくっとカットしてあり、時系列もパルプフィクションと同じくわざとバラバラにしてあり、見せるところ、撮るところを大胆に取捨選択して順番を入れ替えている。ぼーっと見ているとかなりわかりにくいところもある。映画館で一度見ただけではわかるまい。映画館で見るなら何度か繰り返し見る必要がある。DVDならスロー再生したり、コマ送りしたりしないとわからないシーンも多い。そういう意味では『カメラを止めるな』に近い。

ブロンド役はキル・ビルに出てきた、ビルの弟役。

ピンクは最後まで生き残り、ダイヤモンドを持ち逃げすることに成功した、という解釈なのか。それとも外で張り込みしていた警察に結局は捕まったのだろうか。いろいろと裏設定はあるらしいが、すべてが説明されているわけではない。

ゲイとか黒人とか、今のポリコレ時代にはもう二度と作れないようなゲスい映画ではあった。

平淡==仏教的価値観

和歌を評するのに「平淡」「枯淡」「妖艶」などという形容詞を使うのが最近いちいち気になっている。『新古今』は妖艶だったが、年を取った定家が独撰した『新勅撰』から「平淡」になって、それを為家が『続後撰』で引き継いで、それが二条派の元になったのだ、という筋書きにしたいらしいのだけれども、そんなことをいえば俊成が年を取ってから独りで選んだ『千載集』だって枯淡だったはずだ。

定家が選んだ私撰集八代抄新勅撰をみれば定家がどのような歌を良い歌だと思っていたかということは如実にわかるのであって、選定基準が錯綜している『新古今』に比べれば定家撰の歌はどれも、定家という人を知っていれば安心して見ていられるものばかりなのである。あれっ。なんでこの歌選んだのかなという歌はほぼ無いと言って良い。『虚構の歌人 藤原定家』を書いたときも、まず私は定家がどのような歌を好むかその趣向から調べていき、定家という人の実像を把握しようと思ったのだ。そして世間一般がいわゆる定家的と思っていることがかなり偏った、かなり間違った定説によっていびつにゆがめられていると思うようになった。

思うに、室町後期になって、猿楽をむりやり高尚な古典芸能に祭り上げようとした人たちがいたのだと思う。或いは茶の湯というものをむりやり高尚な禅問答のようなものにしようとした。つまり、もともとは踊ったり歌ったり飯を食ったり茶を飲んだりするだけの民間の風俗であったものを、和歌と同じ程度に宮中で通用するありがたみのあるものにしようとする人たちがいた。俗人が藤原氏とか源氏などの姓を賜って殿上人になるようなものだ。

まあよい。和歌とても同じような過程を経て宮中儀礼になっていったのだから。本来卑俗なものを高貴なものに改変していこうというときに、おそらく主に仏教徒などが、わびさびとか、平淡とか、枯淡とか、そうした仏教由来の価値観を混入させていったのだろう。茶道に関していえば特に臨済宗が関与していた。

なんのことはない、平淡とかわびさびなんてものは、仏教思想、仏教観、特に禅宗の価値観を非宗教的な言葉に言い換えただけのものではないか。まあそうだということにしよう。そうすると定家や為家はそんなに仏教思想が強かったかといえばそんなことはあり得ない。もちろん彼らは仏教を愛好してはいたが同時に和泉式部など、仏教的とはとても言えない歌人を愛していたし、西行にしても彼は僧侶の身ではあるが仏教的価値観とは一線を画していた。禅と遠いものを妖艶などと言っているだけではないか。

室町末期、和歌を平べったく衰退させてしまった一因が禅宗の価値観であったことは否めまい。同じことは能楽にも言えると思う。能楽はもともともっと面白くエンターテインメントなものだったに違いない。ところが禅的価値観にがんじがらめにされてしまってあんな無味乾燥なものになってしまったのではないのか。

別に禅がダメだとは言わない。禅は禅だ。好きにすれば良い。そして和歌と根本的に相容れない部分があるのは事実だと思う。

岩波文庫版『新勅撰集』解題にも

新勅撰集には、しみじみと優しい述懐歌、格調の整った典雅な晴れの歌、新古今的な幻想的な歌、万葉集や実朝の作にみられるたけ高い歌と、さまざまな傾向の歌が混じており、決して単一な色調ではない

と言っていて、そんなことはそもそも、定家の趣味から言えば当たり前のことであって、この解題を書いた人もちゃんと一通り調べてみてわかっているはずであるのに、なぜかしら、全体的な論調は、新勅撰は定家が年取ってから選んだ平淡な歌集、という方向へ、むりやり引っ張られていて、この解題を読んだ人は、はあつまり、新勅撰は新古今よりはつまらないんだね、という感想しか持たないと思うのだ。

こういう現代歌学における定説、刷り込みというものを一つ一つ正していかなくてはなるまい。

私は、和歌が平淡で無味乾燥になっていったのは日本人の精神が仏教に蝕まれ、中世以降厭世的悲観的価値観が蔓延したからだと思う。定家や為家が平淡美を理想としその理念を説いたというのは濡れ衣だ。むろん俊成は自らその責めを負わなくてはならないが。