『宣長さん』2

小林秀雄は宣長の桜に対する異様な愛着に気付いていたが、
中根道幸は、宣長が自らを「神の申し子」と信じ切っていたことによる、と断言する。
つまり、子の授からなかった宣長の父母が、吉野水分の子守明神に願掛けをしたことによって宣長を儲けたことを言う。
水分(みくまり)は「みごもり」、子授け、子育ての神として、
『枕草子』にも「みこもりの神またをかし」と書かれているそうだ。

また、p. 17

> サクラも歌も物のあわれもヤマトゴコロも紫式部も、アマテラス男神説をふんがい排撃するのも、

宣長が父を失った「母子家庭」であり、「母性原理」によるのである、というのだ。
これらは小林秀雄よりもはるかに踏み込んだ言及である。

> 父母の むかし思へば 袖濡れぬ 水分山に 雨は降らねど

> みくまりの 神のちはひの なかりせば 生まれ来めやも これの吾が身は

> 鳥虫に 身をばなしても さくら花 咲かむあたりに なづさはましを

> したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

一方、同様の趣きの歌として、小林秀雄は次のような歌を挙げている。

> めづらしき こまもろこしの 花よりも 飽かぬ色香は さくらなりけり

> 忘るなよ 我が老いらくの 春までも 若木の桜 植ゑし契りを

> 我が心 休むまもなく 使はれて 春はさくらの 奴なりけり

> 此の花に なぞや心の 惑ふらむ 我は桜の 親ならなくに

> 桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染める 我が心かな

私も、宣長の一番わかりにくい、というかつまらないところはその非常に女性的なところである。
私には『源氏物語』はよくわからない。『和泉式部日記』なら面白いが。
「もののあはれ」というのも俊成や西行の言うようなものならわかる気がするが、『源氏』がどうという気にはならない。
和歌の趣味に至っては、私とは部分的に全然違っている。
宣長の和歌はいわゆる二条派の和歌であって、
彼が二条派固有の古今伝授を批判するのも、
公家と坊さん趣味の二条派の系譜に、戦国時代になって東常縁や細川幽斎などの武将が連なるようになったのが気に入らないだけではなかろうか。
古今伝授がいかんのであれば三条西実隆もダメなはずだが、公家の三条西には非常に同情的なのだ。
また京極派が嫌いなのも、京極為兼がかなり異常な公家であったからかもしれない。
ともかくいわば女々しい公家文化から少しでも外れてしまうと宣長は全然拒絶反応を示してしまう。

宣長の神霊思想についても、『古事記』についても、私はあまり興味がない。
「天地初発之時」を

> あめつちはじめてひらけしとき

と訓もうが、

> あめつちのはじめのとき

と訓もうが、私にはどちらでも良い気がする。
「天地が開く」という言い方は古文に見えないので「開く」と解釈してはならないというのが宣長の意見で、
まあそうかもしれないとは思うが、私にはそれほど重要だとは思えない。
「あめつちおこりしとき」と訓む人もいるらしい。
宣長は学者として極めて卓越した研究能力を持っていた。
そして仏教系・儒教系、垂加神道や度会神道などもよってたかって宣長の研究成果を自分たちの教義に取り込み、
自分たちに都合良く解釈するためのソースにしてしまった。

『宣長さん』中根道幸

小林秀雄の『本居宣長』を読み返すのと平行して、宣長について書かれた本を一通り読んでいる。

子安宣邦という人が宣長の本をたくさん書いている。
どうもこの人は平田篤胤との関係で宣長を論じたいところがあるようだ。
宣長に関する本では小林秀雄と中根道幸という人が書いたものが良いと言っており、
小林秀雄について言及している点や、
この中根道幸を紹介してくれたことはたいへんありがたいと思うのだが、
子安氏本人の主張に関してはどうも頭に入っていかない。

村岡典嗣は1911年に宣長の本を出した先駆的な人。
宣長その人というよりはその周辺のことを良く調べて書いてある。
加納諸平という歌人を教えてもらった。

吉川幸次郎。『漱石詩注』『宋詩概説』『元明詩概説』などは読んだが宣長はまだ読めてない。
しかし明らかに宣長の専門家ではないし、たぶん荻生徂徠がらみで何か書いているのだろう。

その他何冊か読んでみたがどれも大したことはない。
どれもよくわからないことが書いてある。
たぶん著者がよくわかってないのだろう。

子安氏が主張しているように、
小林秀雄著『本居宣長』と
中根道幸著『宣長さん』
を合わせ読みすれば必要十分であると感じる。
『宣長さん』は比較的最近(といっても2002年)出たもので、
著者が専門の研究者ではないせいもあるのだろうが、ほとんど世間に知られてないのだが、
これはすごい本だ。
この本を読まずして宣長を語るのは、もぐりであると言って良い。
早く出会えてよかった。

p. 350

> 結論として、端的に問題を提起しておこう。宣長さんは、定家、新古今をカンちがいしてはいなかったか、または新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だったのであろう。

こういうことをさらっと言ってのけるのは相当の自信だ。
宣長と定家の両方をきちんと学んでなければ言えないことだ。

中根道幸は定家の私家集と宣長の『古今選』を比較している。
そして定家の好みと宣長の好みに大きな隔たりがあることを発見している。
宣長は定家を高く評価しているにもかかわらず、定家の好みを理解していない。それはそうだろう。
宣長は他の人よりも定家の歌を一番多く『古今選』に採っている。
しかし、その定家の歌というのが、『新古今』より後の、

> 多く二条派の目で拾われた定家なのである。

私は、宣長は契沖と出会う以前に、頓阿や三条西実隆の影響をうけたのではなかろうかと感じていた。
宣長は頓阿や叔父・察然和尚のように、或いは最初に歌の添削を受けた法幢のように、
浮き世離れした僧侶になろうと思ったのではないか、と思った。
宣長という人は、若い頃に書いた『おしわけ小舟』から晩年の『うひ山ふみ』までほとんど思想的な変化がなかった人だ。
途中、真淵の弟子になっているが、そのことが宣長の思想に与えた影響は軽微である。
真淵は宣長よりずっと年上であったから、自然弟子入りという形をとったまでだと思われる。
宣長はある日突然何かの思想にかぶれたり、またそれを捨てて別の思想にのめり込んだりというような、
スクラッチ・アンド・ビルドな人では決してないのである。
だからこそ、少年の頃の宣長を丁寧に調べてみる価値がある、と私は思っていた。

宣長が契沖によって国学に志し『おしわけ小舟』を書き、その後のことはだいたいはっきりしている。
その前、十六、七歳ころに和歌を詠みたいと思い始め、十九から自ら和歌を詠み始めた、
その理由はなぜだろうということを調べたいと思った。
『宣長さん』はその頃のことを非常に詳しく調べてある。
まさに私が読みたい本だった。
宣長が若い頃に誰と会ったか。
どんな本を読んだかを緻密に調べ上げている。
結論としては、宣長が育った松坂というところが、俳諧や和歌が盛んな土地柄であったから、
宣長も自然と感化されたのであろう、ということだった。
この「松坂文芸」は、
京都から松坂にやってきて、和歌、連歌俳諧、伊勢物語を講義した北村季吟という人によって基礎づけられた。
その「松坂文芸」が宣長という人を生んだというのである。

本居、宣長という名を選んだことについても興味深い考察がある。
最も注目すべきは、宣長が、単に経済的理由で紙商の養子になったのではないという指摘である。
「養子留学」であったというのだ。

> なぜ山田へ、跡目を継ぐあてもない養子に出かける気になったのか。

養子といえば普通は子の無い家の息子となって跡取りとなることだが、そうではなかった。

> 学業の飛躍を願い、父母先祖への謝恩の念とは別に、小津の家を捨て、進んでこの道を選んだ

実際宣長は、後に遊学先の京都で医者の養子になろうと運動するが、失敗している。
彼にとって養子縁組みとは就活のことであり、学者として生きていくための生計を立てることなのである。

> 今井田家であるが、従来紙商とされてきていて、それをあながち否定するわけではないが、私は妙見町に13軒あった御師(檀家数23000余)の中でも有力な家と考えている。

御師とはつまり伊勢神宮の檀家衆(宿屋など)をまとめる役職だ。その養子となって、
宗安寺住職・法幢に付いて和歌を学び始めた(宗安寺は伊勢市内の中ノ地蔵にあった浄土宗の寺)。
つまりは、僧侶になるというよりは御師の仕事を手伝いながら、学者になろうとしたわけだった。
そして養子が離縁になったのも、紙卸という商売が嫌になったからではなくて、
今井田家での学問に限界を見たからだろう。

宣長は、松坂に生まれ、江戸にも暫く住み、京都には何度か遊学し、山田(つまり今の伊勢市街地)にも養子に出た。
そうしてどっぷりと当時の「二条派」の歌風に親しんだ。
この「二条派」趣味は、生涯決して抜けなかった。
「二条派」に呪縛される余りに古今伝授批判などもやらかしたのだが、
宣長という人は、かなりの程度、和歌音痴であったと思われる。
定家を賞賛し、玉葉や風雅集を批判するのだが、ではそのどこが優れ、どこが悪いのか、
具体的にこの歌のここが良い悪いというような歌論を展開したのを見たことがない。
特に京極派に対する批判に具体性が欠けている。異風だというだけ。
二条派と違うからダメだと言っているだけのように見える。
二条派から離れることを異風に落ちると言っているだけ。

二条派がなぜよいか、それが正風だからだ。
京極派がなぜ悪いか、それが異風だからだ。
この宣長の主張には意味が無い。
二条派と京極派の歌を比較してその差異を指摘し、どちらがどういう理由で優れているかを分析してみせなくてはなるまい。
実際、二条派と京極派の違いを理路整然と指摘できる人はほとんどいない。
わかっているようでわかってない人がほとんどだ。
中野道幸氏や、京極派の研究者の岩佐美代子氏は例外的にわかっている人だ。

宣長はまた、細川幽斎の良さがわからない。
幽斎は古今伝授とは無関係に、明らかに優れた歌人である。
たぶん式子内親王も西行もわからないのに違いないし、俊成についても誤解していると思う。
そして、幽斎はダメだが頓阿が良いなどと言っているところなどもうどうしようもない感じがする。

> いとはじよ 老いの寝覚めのなかりせば このあかつきの 月を見ましや

> 憂きことは 身をも離れず みそぎ川 かへらぬ水に 払ひ捨てても

> いかにして 人にむかはむ 老い果てて かがみにさへも つつましき身を

これらは幽斎の歌だが、実に巧みだ。

正徹は読んだらしい。定家や頓阿についての知識は『正徹物語』から得た形跡がある。
しかし正徹の歌についての言及が見られないのは不思議だ。
たぶん正徹の理論はわかるが歌が理解できないのだろうと思う。
正徹は有名な定家崇拝者だが、正徹の歌は独特な、独立独歩のものだ(むしろ京極派と言ってもよい)。

宣長は、源氏物語や古事記を、原典に直接当たって読めと言っている。
古今伝授に騙されるなとか、古今集を参考にせよと言っている。
しかしその宣長が、二条派というフィルターを通して定家を眺めているのである。
明らかに定家そのものを見ているのではない。
それほどまでに宣長における二条派の呪縛は強かった。
しかしそれは説明の付かないことではない。
宣長が古事記と出会ったのは学者として分別がついてからのことだ。
しかし宣長が和歌を詠み始めたのは契沖と出会う前のことだ。
若い頃に染みついてしまった嗜好を除去することは困難だった。
また、和歌は余りにも宣長の日常と密接に結びついてしまっていて、
古事記や源氏物語を見るときのような客観的な目で見ることができなかったのだろう。

中根道幸は宣長に固有な「神秘主義」についても言及している。

p. 15

> 終生宣長さんの神秘主義とかかわる、この申し子意識はいつごろ確定したものだろうか。

宣長が、吉野、水分(みくまり)、そして桜に異様な執着をしたこと、
仏式と神式の墓を別々に作ったこと、
『直毘霊』や「日神論争」などに見られる宣長の依怙地で理解困難な思想とは、おそらく関連があるのだろうし、
これらもまた契沖と出会う以前の若い日の宣長の中ですでに完成されてしまっていて、理性による変更が効かなかったのに違いない。

p. 75

> 一見整った優等生の歌だが、よく見れば、モチーフは雅、片々たることばをつなぎ組み立てた。パズル歌。職人的機巧さが見える。

[宣長の初めての歌](/?p=18052)についての講評。
これも宣長の歌について、そして和歌について、よく知っていなければ言えないことだ。
他の人たちが単に「契沖のように退屈な歌」とか言っているのと同じなんだが、もう一歩踏み込んでいる。
まあ、確かにそうなんだよな。どの時代の誰というのでなく、あちらこちらから影響をうけて、それらをパッチワークのようにつなげた歌。
上にあげた幽斎の歌のように、思いをそのまま一気に歌にしたのではない。
つまり、幽斎の歌は写生なのだ。自分の心の動きを観察しているもう一人の自分がいて自嘲している。
こういう歌は宣長にはあまり無い(たまにはある)。
宣長は、基本的にはいろんな既存の歌のパーツを組み合わせて、技巧だけで作っている。
[本居宣長の漢詩](/?p=12569)についても、ほぼ同様のことが言える。

詠歌と歌学

> 歌の学び有リ、それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集物語書などを解キ明らむるとの二タやうあり

> 歌をよむ事をのみわざとすると、此歌学の方をむねとすると、二やうなるうちに、かの顕昭をはじめとして、今の世にいたりても、歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌学のなき人に上手がおほきもの也、こは専一にすると、然らざるとによりて、さるだうりも有ルにや、さりとて歌学のよき人のよめる歌は、皆必ズわろきものと、定めて心得るはひがこと也、此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、歌学いかでか歌よむ妨ゲとはならん、妨ゲとなりて、よき歌をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也、然れども歌学の方は、大概にても有べし、歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ

宣長は、「うひやまふみ」で、詠歌と歌学と二つがあって、
歌学がよい人はだいたい歌を詠むのが下手で、歌学のない人のほうが歌はうまい。
しかし歌学の良い人は必ず歌が下手だというわけではない。
詠歌と歌学という二つのものそれぞれの性質(こころばへ)を心得ていれば、歌学が詠歌の妨げとなるはずはない。
良い歌が詠めないのはそのわきまえがないからだ。
しかし、歌学のほうはだいたいでよく、歌を詠むほうをこそ大切にするべきだ。
などと言っている。

これは宣長自身が戒めとして言っていることに違いない。
あるいは契沖や頓阿のことを言っているのだろう。
宣長は国学者であり、歌学者であった。古学を解き明らめることを得意とする人であった。
しかしなによりも歌人たることに憧れていたし、歌人であることに至上の価値を見出していた人だった、と言えないだろうか。

少なくとも詠歌よりも歌学のほうが、歌学よりも古学のほうが重要で、(古事記などの)古学に励みなさい、などというはずがない。

宣長の初めての歌

> 新玉の 春来にけりな 今朝よりも かすみぞそむる ひさかたの空

宣長が19歳の時に、最初に詠んだ歌。
ちょっと検索してみると、いろんなことがわかる。

「春来にけりな」という歌は無い。
普通は「春は来にけり」と言うところだがなぜ「春来にけりな」?

> 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

やはりこれの影響か。

「来にけりな」であれば後鳥羽院

> 昨日まで かかる露やは 袖に置く 秋来にけりな あかつきの風

或いは寂連の

> 吹く風も 松の響きも 波の音も 秋来にけりな 住吉の浜

がある。
いずれも「秋来にけりな」の形。
いずれにしてもあまり事例は多くない。
「あらたまの」は普通は「年」にかかるが「春」も無くはない。
「今朝よりも」これもあまり用例はない。初出は凡河内躬恒

> 七夕の 飽かで別れし 今朝よりも 夜さへ飽かぬ 我はまされり

普通は「春立ちぬ」などというところだが、「春来にけり」「春は来にけり」も少なくはない。

「かすみぞそむる」これも用例がない。まあ、普通ならば「かすみそめたる」などとやるところだ。

「ひさかたの空」これもなくはないが用例は少ない。
初出は西行の

> うき世とも 思ひとほさじ 押し返し 月の澄みける ひさかたの空

であるらしい。

これらは主に新古今時代の歌だが、新古今やその他の勅撰集に出ているわけでもない。
宣長はどうやって和歌を勉強したのであろうか。
もう少しほかの宣長の初期の歌に当たってみる必要がありそうだ。

> 今朝よりや 春は来ぬらむ あらたまの 年たちかへり かすむ空かな

似てる歌を探してみた。
これは二条為世。まあ、普通の歌人の歌だわな。
そうだなあ。私なら、もとを活かして

> あらたまの 春は来にけり あしたより かすみそむらむ ひさかたの空

或いは

> あらたまの 年のたちぬる あしたより

などと直すだろうか。
いずれにせよ私はこんな歌は詠まないけど。

村岡典嗣『本居宣長』

村岡典嗣『本居宣長』

自分の門弟たちには、どうも歌文の道を好む人が多く、自分の学問の本旨である、古学をする人のないのは、嘆かはしいことである。それゆえに御身も、先にも言つた様に、神代の道を明らめることを専らとして、歌文といふごとき末のことに心をとめるな

門弟の服部中庸という者に、宣長が死の直前に戒めたことばだというが、とても信じられない。宣長が「歌文といふごとき末のこと」などという認識を持っていたはずがない。これはおそらく服部中庸が平田篤胤とともに謀ったことか、或いは篤胤が服部中庸から聞いたということにして勝手に広めた説ではなかろうか。

とくに平田篤胤は信用できない。

『うひ山ぶみ』を見るだけで明らかなように、宣長は「歌文」について、特に「歌学」についてそうとう細かなことを記している。歌学について書いた分量と他の記述の量を比べてみよ。

いずれにしても、こういう他人の逸話というのは信じるに値しない。宣長は、自分の考えはすべて著書にして遺した人で、門人に何か秘伝のようなことを遺す人ではない。また、宣長の書いたものと、門人が伝えることに齟齬があるとすれば、それは門人が間違っているか、嘘をついているのだ。宣長はそうやっていろんな人に勝手に解釈され利用される人だった。

内在律

漢意(からごころ)とはすなわち内在律である。
時代環境や教育によって後天的に獲得した、無自覚的、無意識的に思考を束縛し規律するものだ。

> 第一に漢意儒意を云々。
おのれ何につけても、ひたすら此の事を言ふは、故無くみだりに、これを憎みてにはあらず。
大きに故ありて言ふ也。
その故は、古の道の意の明らかならず、人みな大きにこれを誤りしたためたるは、いかなる故ぞと尋ぬれば、みな此の漢意に心の惑はされ居て、それに妨げらるるが故也。
これ千有余年、世ノ中の人の心の底に染み着きてある、痼疾なれば、とにかくに清くはのぞこりがたき物にて、近き頃は、道を説くに、儒意を交ふることの、わろきを悟りて、これを破する人も、これかれ聞ゆれども、さやうの人すら、なほ清くこれをまぬかるることあたはずして、その説クところ、畢竟は漢意に落つるなり。
かくの如くなる故に、道を知るの要、まづこれを清く除き去るにありとは言ふ也。
これを清く除き去らでは道は得難かるべし。
初学の輩、まづ此の漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅くすべきことは、たとへばもののふの、戦場に赴くに、まづ具足を良くし、身を固めて立ち出づるが如し。
もし此の身の固めを良くせずして、神の御典を読むときは、甲冑をも着ず、素肌にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふが如く、必ず漢意に落ち入るべし。

これは『うひ山ふみ』だが、「儒意」「漢意」を「内在律」に置き換えてみよう。

> 第一に内在律を云々。
おのれ何につけても、ひたすら此の事を言ふは、故無くみだりに、これを憎みてにはあらず。
大きに故ありて言ふ也。
その故は、古の道の意の明らかならず、人みな大きにこれを誤りしたためたるは、いかなる故ぞと尋ぬれば、みな此の内在律に心の惑はされ居て、それに妨げらるるが故也。
これ千有余年、世ノ中の人の心の底に染み着きてある、痼疾なれば、とにかくに清くはのぞこりがたき物にて、近き頃は、道を説くに、内在律を交ふることの、わろきを悟りて、これを破する人も、これかれ聞ゆれども、さやうの人すら、なほ清くこれをまぬかるることあたはずして、その説クところ、畢竟は内在律に落つるなり。
かくの如くなる故に、道を知るの要、まづこれを清く除き去るにありとは言ふ也。
これを清く除き去らでは道は得難かるべし。
初学の輩、まづ此の内在律を清く除き去て、やまとたましひを堅くすべきことは、たとへばもののふの、戦場に赴くに、まづ具足を良くし、身を固めて立ち出づるが如し。
もし此の身の固めを良くせずして、神の御典を読むときは、甲冑をも着ず、素肌にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふが如く、必ず内在律に落ち入るべし。

或いはこんなふうに読みかえてみると面白いかもしれない。

> 第一に戦後民主主義教育を云々。
おのれ何につけても、ひたすら此の事を言ふは、故無くみだりに、これを憎みてにはあらず。
大きに故ありて言ふ也。
その故は、戦前の意の明らかならず、人みな大きにこれを誤りしたためたるは、いかなる故ぞと尋ぬれば、みな此の戦後民主主義教育に心の惑はされ居て、それに妨げらるるが故也。
これ七十年、世ノ中の人の心の底に染み着きてある、痼疾なれば、とにかくに清くはのぞこりがたき物にて、近き頃は、戦前を説くに、戦後民主主義教育を交ふることの、わろきを悟りて、これを破する人も、これかれ聞ゆれども、さやうの人すら、なほ清くこれをまぬかるることあたはずして、その説クところ、畢竟は戦後民主主義教育に落つるなり。
かくの如くなる故に、戦前を知るの要、まづこれを清く除き去るにありとは言ふ也。
これを清く除き去らでは戦前は得難かるべし。
初学の輩、まづ此の戦後民主主義教育を清く除き去て、やまとたましひを堅くすべきことは、たとへばもののふの、戦場に赴くに、まづ具足を良くし、身を固めて立ち出づるが如し。
もし此の身の固めを良くせずして、戦前の文章を読むときは、甲冑をも着ず、素肌にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふが如く、必ず戦後民主主義教育に落ち入るべし。

近年の、現代の常識をまずきれいに除き去り、古典を直接読みなさいと言っているだけである。
古典理解に一番差し障りがあるのが実に現代の常識という痼疾なのである。
この意味において古典とは畢竟は現代社会の問題なのである。
現代の問題から目を背けて古典のファンタジーの世界に遊ぶことではない。
むしろ現代を糾弾するために古典を学ぶのである。
古典の問題とは昔の資料が欠けていることばかりではなく、現代までの曲解を除去することにもある。

例えば天声人語を毎日書き写すという勉強を子供の頃からやっていれば、
それはそれなりに実用文を書く練習にはなるが、そのついでに天声人語の「内在律」に落ち入るのである。
そしてそれ以外の文章を読んだときに無意識的に拒絶反応を起こしてしまうのだ。

現代の内在律を無視して小説を書けば読者はついてこない。
音楽もそうだ。
全然聞いたことのない音楽を聞いても面白くはない。
内在律を否定するためには内在律を囮にして読者を引きつけておき、かかったところでそれを否定しなくてはならない。

ま確かにこの「内在律」というものはそれほどまでに強固に人を規律するものであるから、
これを利用すれば、散文を書いても詩のようなものは書けるのかもしれない。
ひたすら詩を読み、作り続ければそんな「内在律」を持つことはできるかもしれないが、
普段から散文しか書いてない人には無理ではないか。

察然和尚

宣長年譜 元文4年(1739)

> 同四年【己未】血脈受入蓮社走誉上人。【伝通院中興ヨリ二十七世之主矣】法名英笑号也

宣長年譜 寛延元年 (1748)

> 樹敬寺宝延院方丈にて観蓮社諦誉上人蓮阿◎(口編に爾)風義達和尚に五重を授伝し、血脈を授かり、伝誉英笑道与居士の道号を受く。

察然和尚

宣長が10歳で法名を授かった入蓮社走誉上人と19歳で道号を授かった察然和尚とは別人。
察然は宣長の母の兄というから実の叔父にあたるわけである。

厳密には「英笑」の部分が戒名、法名であって、
「道与居士」は位号、
「伝誉」が道号(浄土宗で言う「誉号」)。
「英笑道与」までが戒名であるかもしれんが。
院号は(まだ)無い。

しかしながら宣長は晩年自ら「高岳院石上道啓居士」という号を付けている。
「石上」という法名は彼の私家集の名でもあり、宣長の雅号でもあるのだろう。
で、「高岳院」が道号、この場合は院号である。
「道啓居士」が位号。「道を啓く」とはずいぶん立派な名だ。

伝通院は小石川にある徳川将軍家の菩提寺。浄土宗。増上寺の末寺。
樹敬寺は松坂にある浄土宗の寺。
父方の小津家と母方の村田家の菩提寺。京都知恩院の末寺。

今日日本の詩というものがまったくわけのわからないものになってしまった要因はいくつかあると思う。

イギリスと違ってアメリカという国が文芸の中で詩をあまり重視しないからであるかもしれない。
戦前、近代文芸史における詩の本場はイギリス、フランス、ドイツであった。
その中でもドイツ詩というのは非常に影響力があったが、
二度の大戦の敗北で、ドイツ語はその影響力をほとんど失ってしまった。
日本人が詩というものがわからなくなった理由の一つは戦争でアメリカが勝ってドイツが負けたからだ。

詩、というか韻文というものは、
言葉自体に韻律を持たせ、リズムとメロディを持たせるものだ。
それが音楽と相性が良いのは当たり前なのだが、
詩と音楽が深く結びついたのは近世以降のことだろうと思う。
詩は文芸の中では最も歴史が古い。
叙事詩というのは口承文芸時代の典型的な形式だ。
長文を唱えて、暗記して、後世に伝達するのに適した形式である。
多くの文芸はここから発する。

逆に最も歴史が浅いのは散文であり小説だ。
詩は文字の無い時代からあり、文字を獲得した時点で急速に流行し、
熟成期を向かえ、
と同時にに国語や民族意識というものが生まれ、
その民族とともにだんだんに衰退していく。
当たり前のことだが詩は民族と、言語と、深く結びついている。
詩は翻訳不可能だ。
しかし散文や小説は、特に言語を選ぶわけではなく、
その意味においては他民族的、国際的なものだ。

そもそも昔は音楽理論は未発達だし、楽譜も不便だった。
音楽と詩をあわせる技術も未熟だった。
古代ギリシャの吟遊詩人も竪琴や笛などで伴奏したのに違いない。
だが、詩と曲が、一対一に結びついていたわけではなかろう。
詩にはある定型があり、曲にもある定型があって、組み合わせやすくなっていただけであろう。
それは平曲や謡曲などにも言えることではなかろうか。

従って詩というものがそれ自体で自立している必要があったが、
近年のようにCDのようなもので完全に曲と詞を同時に記録できるようになると、
詞はほぼ完全に曲に従属するようになってしまった。
従って歌謡曲の歌詞のようなものを詩だと思うようになっても不思議ではない。
曲に合わせる詞には当然それ自体の韻律は必要とされない。
むしろ邪魔なだけだ。
逆に普通の話し言葉や台詞のようなものを曲に合わせるという「技巧」が好まれることになる。
それはもはや詩ではない。

少なくとも戦前までは和歌や漢詩という伝統文芸があって、
詩とは何かという暗黙のコンセンサスがあったのだが、
両者とも戦後完全に忘れられた。
誰も自分で漢詩を作らなくなり、
和歌は短歌という口語定型詩によって駆逐されてしまった。

詩学、詩論というものも、確かに戦前の萩原朔太郎辺りまではあったかもしれない。
彼はもともとは明星派の歌人だった。
彼の中にはまず和歌の素養があって、西洋詩の影響を受けて詩を作った。

ところが戦後まともに詩学について書いた人はいない。
吉本龍明くらいだろうか?
その他はたとえば谷川俊太郎の詩について論じたものなどがあるくらい。
そのほとんどはただお花畑な詩をお花畑に批評しているだけ。
定番はアリストテレスの『詩学』くらい。中間がほとんどない。
こういう状況で、日本人が詩とは何かということがわかるはずがない。

たしかに口語自由詩というものは、翻訳してもその本質を損なうことはないのである。
また散文になれたものでも詩を作ることができる。
しかし彼らが試しに定型や対句などの修辞を使った詩を作るとたちまち陳腐になってしまうだろう。
つまりは演歌や軍歌の歌詞のような、下手な都々逸のようなものしか作れなくなってしまう。
韻律や修辞や伝統というものに負けてしまうのだ。
そういうものに負けずにさらに残るものが詩の本質というものではなかろうか。
私はあまり詩の本質とか内在律などというものに言及したくはないのだけど。
まあ定型詩が演歌や軍歌みたいになってしまうのは仕方のないことだ。
彼らが直接・間接に影響をうける定型詩の見本はそういうものしかないからだ。
佐佐木信綱あたりの影響を受けているのだ、本人は無自覚なままに。
佐佐木信綱は彼の短歌というよりは、軍歌の作詞によって世の中に多大な影響を及ぼした人だ
(彼の短歌は多くの漢語や外来語を含んでおり、和歌(やまとうた)とは言えない。彼もまた明星派の歌人だった)。
結局はみんな何らかの「内在律」に支配されているので、定型詩を作ろうとすると、
どうしても「佐佐木信綱律」に支配されてしまう。
「新聞歌壇律」と言っても良いかも知れない。
そういう「律」に支配されるのが嫌だから、それよりかはよっぽど無毒な「散文律」に逃げる。

定型で詠もうとすればどうしてもそういう明治の文芸よりも昔にさかのぼらなくてはならない。
明治の和歌の完成度は、しょせんその程度のものであり、
江戸期や平安時代の完成度には遠く及ばないからだ。
その努力をせずに定型詩が作れるはずがない。

夏目漱石は多くの漢詩を遺したが、
漱石の漢詩を鑑賞しようという人はほとんどいない。
漱石自身は詩人になりたかったかもしれない。
しかし世の中はすでに小説万能時代だったから、
彼は敢えて自分の詩を人目にさらそうとしなかった。
文豪の余技だと思われるのを恐れたのだろう。
もし世の中が漢詩全盛期であれば(例えば江戸中期から後期ならば)漱石は詩人として名をなそうとしたのに違いない。
もし本気で漱石を理解しようと思うならば彼の漢詩と小説の関係も議論すべきだろう。

今の世の人は頼まじ

> 学者はただ、道を尋ねて明らめるをこそ、つとめとすべけれ。私に道を行ふべきものにはあらず。されば随分に、古への道を考へ明らめて、そのむねを、人にも教へ諭し、物にも書き遺しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ゐ行ひたまひて、天下に敷き施したまはむ世を待つべし。これ宣長が志なり。

まったくその通りだ。自然科学であれば、
ニュートンの力学と、現代の量子力学では、昔より今の方がより精密になっていることを断言できる。
自然科学とか数学というものは、そうしたものだからだ。

しかし思想とか文芸などはそうとは言い切れない。
近代よりは現代が、現代よりはポストモダンが優れているなどということは決して言えない。
前衛芸術は前衛であることに意味があって、時代的には後退しているかもしれない。

> 昔の人より、君達は果たして本当に利口になったかどうか

> 文字の発明の御蔭で、誰も記憶力の訓練が免除されるから、皆忘れっぽくなる。書かれたものに頼る人々は、物を思い出す手段を、(中略)自分達には何の親しみもない様々な記号に求めている。(中略)何も知らない癖に、何でも知ってるとうぬぼれるようになる。

同じことを中島敦は『文字禍』で言っている。

> 近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

私は別に思想や文芸が自然科学より劣っているといいたいわけではなく、
新しい思想や新しい文芸、新しい芸術は必ずしも過去を凌駕しているわけではないという、
当たり前のことが言いたいだけだ。
だが往々にして人は今自分が生きているこの時代が最高であり、最も無謬であると考えたがる。
そして現代より優れているのは来たるべき未来だと考えたがる。
スマホがなかった時代よりスマホがある時代の方が人間も利口になったと思うし、
未来に今以上の何かSNSなりネットワークができればさらに利口になると思う。
果たしてそうかとそこで立ち止まり考えねばならない。
そうしたら過ぎた昔など意味はないことになってしまう。

私たちは何度も間違ってきた。帝国主義、資本主義、マルクス主義、共産主義、ヒッピー、ポストモダン。

現代人はそういう現代を賛美し過去を貶めようとする我々の現代というものと、
我々自身と戦わなくてはならない。
戦って後世に問わねばならない。
だからこそ、「私に道を行」わず、「古への道を考へ明らめて」、「物にも書き遺しおきて」、「時至りて」、「天下に敷き施したまはむ世を待つ」べきなのだ。

思うに、「古学」というもの、「古義学」「古文辞学」というものは、
中世から現代までの思想の影響を排除して、
古い時代のことをできるだけそのままの形で再現しようというものであり、
そのできるだけピュアな形態へ到達しようとするものであるから、
これは一神教との親和性が高いのである。
宣長が「古学」を極めた結果、
形態としては多神教であるが、
一神教的性格を持つ国粋主義に到達したのはある意味必然だったかもしれない。

筆者の余技

小林秀雄『本居宣長』補記一

> 今日遺されている彼の全著作が、筆者の余技を出ないものという事であれば、田中さんが言われたように、プラトン研究家は困ったことになる。プラトン自身はどうでもいいと思っていた文章から、その明さなかった哲学思想の核心となっていたものを、犯人でもあげるように探さなければならぬ、言ってみれば、そんな窮境に立たされることになる。

これは小林秀雄が自分の著作について言っているように思えてならないのである。

> 昔の人より、君達は果たして本当に利口になったかどうかという問いが、含まれている

> 正気でいたい利口者には、恋の真相とは、まさにその通りであるかどうかという問題には、直かに出会えない。利口者は恋の愚を避けた積りでいるだろうが、実は、恋の方で、利口者など近付けないのである。

> 狂気(アニマー)とは、正気に到らないものではなく、正気を超えるもの

> 心を狂わせなかったら、到底常人には出来ぬ仕事がやってのけられた筈はない。

以前書いた[日神論争](/?p=14196)というのも合わせて読んでみてほしいのだが、
上で小林秀雄が利口者、常人と言いたいのは上田秋成であり、パイドロスである。
狂人と言いたいのは本居宣長であり、ソクラテスである。
私は以前この『補記一』を読んで、なんで宣長の本に唐突にソクラテスとかプラトンの話が出て来なきゃならないのだ、
なんかの冗談かと思ったのだったが、落ち着いて読んでみるとなかなか面白いことが書いてある。
またしても私は彼の「余技を出ないもの」、彼自身「どうでもいいと思っていた文章」から「その明さなかった哲学思想の核心となっていたものを、犯人でもあげるように探さなければならぬ」という気持ちになった。

神話は実際にあったことと信じるかいなかというパイドロスの問いに対して、ソクラテスは「もし私が当今の利口者なみに、そのような伝説は信じないと言えば、妙な男と思われないで済むだろうがと言葉を濁し」た。「気に入らなかったのは、当時のアテナイ人の知識人の風潮、神話に託された寓意を求めるという、学問めかした神話解釈であった。」

その時代時代の人が太古の神話を、その時代時代の都合に合わせて解釈しようとする。特に日本の場合には、外から新しい宗教や思想が伝来するたびに、神話は再解釈されてきた。
秋成は、仏教も儒教も、日本の神様は嫌っておらず、時代の流れで自然に今のようになったのだ、と言っている。宣長にしてみればそういうある種の合理主義というかご都合主義というのは、漢意に染まった考え方と同じく拒絶せねばならなかった。日本的多神教から秋成の考え方は自然と出てくる。宣長の一神教的な発想はなかなか出てこない。

数学者や自然科学者は必ずしも利口者ではなく、近代西洋では狂信的なキリスト教徒であることが多かった。ニュートンなどがそうだ。
彼は数学や天文学を通じて神が実在することを証明しようとした結果あのような偉大な学問上の成果を発見し得たのである。
同じことは本居宣長にも言える。
「利口者」「常人」ではない「狂人」、「妙な男」でなくては到達できない境地というものは確かにあるはずなのだ。
宣長は独力で、儒教や仏教の影響が未だ及ばなかったころの、純粋な神話までたどり着いた。
それは天武天皇が見ていた世界だった。
彼はそこに彼自身の一神教を発見した。

ところで中島敦の『文字禍』はこの「パイドロス」に着想したもののようだ。

小林秀雄『本居宣長』四十九

小倉色紙の巻頭の色紙が10枚伝わっている。
そのうちの1枚は本物で、残りの9枚は偽物だが、
上田秋成はどれが本物かなどわからぬのだから10枚とも偽物だと言おうとしている。
などと宣長が言っているのがすごくおかしい。
定家直筆の小倉色紙は1枚に1首なので、10枚同じ歌の色紙があるのはおかしい。
しかしそのうちの1枚が本物である理由にはならない。
『明月記』に定家自身が書き残したように小倉色紙はあった。
しかし1枚も後世に伝わってない可能性もあるのだ。
つまり、もし本物があるとすればそれはたかだか1枚しかない、ということしか言えない。
また『明月記』には100首100枚あるとも書いてない。もっと少なかった可能性もある。
しかし宣長は本物の小倉色紙が100首100枚あることを疑おうとしない。
どうも宣長は数学的、論理的思考は苦手だったようだ。

私は、本物の小倉色紙は宣長の時代にはもはや存在していなかっただろうと思っている。
それは嵯峨中院こと亀山殿が火災で失われたときに一緒に燃えてしまったのに違いない。
亀山殿は天龍寺になったが、天龍寺も何度も焼失している。
色紙を障子からはがして保管していない限り(そんなことするはずもないが)、
燃えてしまったに違いない。

宣長は頓阿が好きで京極派が嫌いだがそれはおそらく宣長が少年時代に和歌を学び始めたときにすでにそうだったからで、生涯頓阿のような坊さん臭い、二条派の和歌が好きで、新古今が好きで、それとは正反対の京極派が嫌いなのだ。ということは西行や式子内親王の歌も嫌いだったはずだ。
それは宣長の好き嫌いという以上のものではない。
宣長は学問的には恐ろしく直感や推理が効くところがある。
『古事記』や『源氏物語』を解き明かしたこと。古今伝授の嘘を見抜いたところなど。
しかし宣長は万能ではなかった。ある部分は醒めて、ある部分では狂った人だったからだ。