池田雅延氏 小林秀雄を語る

小林秀雄の『本居宣長』について今までいろいろ[書き散らしてきた](/?p=3575)のだが([小林秀雄](/?s=小林秀雄)でこのブログを検索してもらったほうが話は早い)、
担当編集者[池田雅延氏](http://nozawashinichi.sakura.ne.jp/mkpc/2005/11/post-94.html)の詳しい講演があり、
『本居宣長』がどのように執筆されて成立したかがわかる。
130分もあるので、ゆっくり聞くことにする。
もともとは茂木健一郎がソニーのサイトにアップしたものらしいが、
その大もとのMP3はもはやなく、適当に検索したら見つけたのが上のリンク。

単行本では50章に分かれているが、
もともとは『新潮』に64回連載された記事であり、
11年半も連載した。と、いうことは、2ヶ月に1回程度の寄稿であったか。
それを1/3くらいに縮めて、最後に1章新たに付け足して、単行本にしたのだそうだ。
ふーん。
すごく削ったな、もったいないな、というより、そんなに削ったのにまだあんなに冗長なんだ、
というのが素直な感想なんだが。

追記 wayback machine

国語教科書の闇

ついでに読んでみた。

これを読んでまず思ったのは、小説を読んでもらうなら、高校国語までの教養で理解できる範囲のことを書かなきゃならないということだ。普通の日本人は「こころ」「羅生門」「山月記」を読む。そこから先は読まない。大学に入ると専門に分かれるから、定番の読み物なんてものはない。大学に行かないひとも多いし、行っても勉強しない人が大半。だから、(総体としての)日本人の教養といっても高校止まり。

おそらく放送業界や出版業界のマーケティングもそうなっているはずだ。無難に高校教育までの範囲で本を出していきましょう。それ以上の冒険をしても売れませんよ、と。日本の高校教育までで必要十分な教養が身に付くという考え方もあるが、それはあまりにも狭い世界で、定番で、既視感で、予定調和で、昨日もどこかのテレビでみたような話、となる。そこから一歩出れば新しい珍しい話もいろいろある。しかし、結局、発展途上国へ旅行するのを取りやめて、せいぜい海外といっても先進国、或いは国内旅行に切り替えるようなもの。

別にね、ハリーポッターとか、シャーロックホームズとか、高校生の男子と女子がどうしたこうしたなんて話を、私は読みたくはないんです。そういうラノベを中学生や高校生が読むのはいい。ラノベは読みやすい。読者も多い。従ってそういうのの作者になろうとかそういうのを商売にしようという人も多いだろうと思うよ。

私が書いているものは、そんなに難しいものじゃあない。半導体理論や量子力学に比べればはるかに簡単だ。それでも理解できないのは、普通の人の教養が、高校教育までで閉じていて、その外の世界の存在を想定してないからだろう。

それから今回初めて森鴎外の舞姫を読んでみたのだが、なんじゃこりゃという感じ。

げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。

は?それが何か、としか言いようのない陳腐な擬古文。擬古文を読ませたいならば、他にもいくらもあるだろうが、擬古文はたいてい国学つまりは右翼思想が混じっている。やはりこれも戦後、GHQのチェックが入って、なんとなく鴎外ならよかろうということになっただけの話じゃないのか。こんなもの勉強させられても何のやくにもたたないよ。

たぶん、検定教科書作ってる出版社の人も、検定している文科省の人も、そんなことは言われなくてもわかっている。しかし、教科書を最終的に採用するのは地方自治体の教育委員会とか日教組とかPTAとか校長先生だろ。そうすると「舞姫」みたいな、衒学的な話を好む。なんかかっこよさそう。それから、なんかよその学校も同じこと教えてるから安心、みたいな。鴎外の雅文体教えられる俺かっこいい、みたいな。「山月記」あるいは「羅生門」「こころ」にも、そんなところはあるだろう。そんで戦後GHQの時代のことはともかくとして、教員もPTAも世代交代して、俺が私が子供の頃はこんなの読まされました、だからうちの息子娘にも読ませよう、みたいな怪しげな一子相伝・免許皆伝みたいなものが形作られてくる。時代に合わせて変えるのは大変だがそのまま残すのは簡単だから出版社もじゃそれでいいわとなる。

「舞姫」と「山月記」に共通するのは、頼山陽や本居宣長といった本物を隠蔽して、その代用品を提供するというところにあるわけ。最初から頼山陽や本居宣長を読めばいいんだよね、明治時代みたいにさ。或いはそういう右翼思想が嫌なら、永井荷風がやったように、為永春水や山東京伝を読めばいいんだけど、仮名遣いがむちゃくちゃだし、しょせんは江戸時代のラノベだから、教材にはなりにくいわな。

さらに、菊池寛とか楽しくておもしろいのにわざわざ「こころ」とか「羅生門」を読ませたがる。ねじけてるよね。戦後左翼思想だよね、典型的な。そこまでねじけたければ葉山嘉樹でも読ませりゃいいのに。

今年のセンター国語センター試験「国語(古文)」を解いてみる。などにも書いたことだが、今の高校国語なんてセンター試験で高得点出すための手段にすぎないわけ。だから教材も定番なほうがいいに決まってる。どれが正解でもいいようなどうでも良い選択肢のうち一番間違ってないやつを選ぶ技術を競うだけ。法律や契約書の文言解釈にはこういう技術が必要なんだろう。或いは特許とか?曖昧に書かれた文言の中にある真意を読み取る駆け引き。実用性はあるっちゃあるが、しかし文芸とは関係ない。そんなら最初から民法や刑法の条文を試験に出せばいい。著作権関係の法律なんか特に役立つに違いない。あるいは本物の契約書を読み解く試験をすればいいだけじゃんか。最初からそう割り切らないと良い点取れないんだわ。

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

私は中島敦が好きなのでこの本を読ませてもらったのだが、まず、高校国語教師というのは、おおよそただの人である。指導要領もなしに授業などできない。では指導要領を作るひとたちはどうかと言えば、別に彼らが特に中島敦を理解できるわけではないだろう。だから「山月記」が高校の国語の教材として採録されれば、このような「誤読」や間違った「教育」が行われうるのは当たり前であって、国語教育批判はたとえば丸谷才一の『日本語のために』などが古くからあるのに、今更わざわざ怒ってどうするのかと思う。

次にこの作者は『山月記』がわかっていてこれを書いているのか。いや、わかる必要はない。自分なりの解釈、自分なりの思い込みがあればそれでよい。しかし、結局言っていることはこれは古潭という連作の中から切り取られて、わざと短編小説となって、わざとらしいお説教臭い教材に仕立てられたというだけだ。

中島敦生誕百年ガス抜きとしての中島敦に書いた通りだが、ドナルド・キーンがなんといおうと中島敦の作品は戦争小説ではない。あれは、南洋の現地人に日本語を教育するための教科書の教材として自ら書いてみたものだ。

「山月記」がなんで漢文調かっていえば、それは漢文をいきなり教えるのは難しいが、
漢文は日本語教育に不可欠だから、わざと漢文調の文章をこさえたのである。

それからみんなだまされているが中島敦は必ずしも漢文は得意じゃない。漢学の家に生まれたわけでもない。商人の祖父が趣味で漢詩をかじってただけで、中島敦よりも漢詩がうまい人は明治時代にはざらにいるし、江戸時代ならもっといる。昭和だとそんな多くなかったかもしれないが、少なくとも永井荷風は中島敦よりちゃんとした漢詩を作った。中島敦も彼の叔父も漢詩は平仄がむちゃくちゃ。「山月記」に出てくる漢詩も中島敦には決して作れないまともな詩だ。

それでまあ考えられるのは中島敦は、山月記とか李陵なんかは、わざと、擬古文みたいにして、難しい和漢混淆文を書いたのだということ。もともと教科書の教材として書いたものだから教科書と相性が良くてもおかしくない。

山月記自体は面白い教材だと思うが、私ならちょっと悪趣味だが「山月記」と一緒に原作の「人虎傳」を読ませるだろうと思う。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

というところは

隴西李微博學弱冠從州府貢焉時號名士天寶十五載春於尚書右丞楊門下登進士第後數年調選補尉江南微性疎逸恃才倨傲不能屈跡卑僚

の訳である。「才穎」「虎榜に連ね」などという表現に若干のオリジナリティーがあるが、
だいたいは同じである。いきなり「人虎傳」を教材にしては難しすぎるから、中島敦が多少現代風にアレンジした、というあたりが真実だと思う。

追記: 人虎伝中島敦の書簡と日記

歌と音楽

アリストテレスの詩学を読んで思うのだが、散文は文字によって言葉が記されるようになった後に現れた文芸形態であり、それ以前の口承文学はすべて韻文によって表されていた、と考えて良いだろうと思う。つまりかつては単なる意志を伝達するための(一時的な)会話と、記録を後世に遺すための(保存用の)韻文の二種類があった。韻文とはつまり暗記しやすく唱えやすい形態の言語、ということになる(韻文が会話、たとえば演説などに使われることはあったかもしれない)。

それで韻文、詩、或いは呪文とか祝詞とかお経とか歌と言っても良いのだが、これらがいわゆる音楽と不可分なものなのか、そうではないのかということを、ずいぶん考えてきたのだが、少なくとも日本の和歌の歴史を見る限り、歌は独立した文芸の形であって、音楽と不可分であるとか、或いは音楽に従属するものであるとは思えない。万葉集の時代でもそうだし、それ以前の歴史に残ってない時代にさかのぼってもそうだと思う。

あくまでも想像だが、イリアスやオデッセイなども、古事記などの成立と同様、最初はごく短いばらばらに伝承されてきた詩だったのだが、文字を獲得した時期に、誰かが、或いは大勢の人たちによって、集められ、つながれて、整えられて、韻文としての形式も同時進行的に発達してきて、あのような形になったのだろう。

延喜式の祝詞などはだいぶ散文的だが、反復や対句などが使われていて、やはり一種の韻文であろう。勅撰集の仮名序も祝詞によく似ている。掛詞や枕詞などが多用され煩雑だが、口承文学時代の名残なのに違いない。たとえば中国で完全な韻文が成立したのは唐代である。詩経の詩は韻文としては未発達である。万葉時代より以前の記紀歌謡もあまり韻文的ではない。そうすると昔には会話と韻文の区別さえ定かではない時代があった、と考えるべきだろう。

漢詩は非常にわかりやすい例だが、リズム(句の長さ)とメロディー(平仄と韻)がある。これらはどちらかと言えば音楽的要素だが、さらに対句があり、起承転結がある。これらの文書構造は必ずしも歌曲には必要ではない。しばしば邪魔ですらある。唐詩では短い詩形に情報を凝縮するために同じ字の反復を嫌うがこれも歌曲にするにはかなり大きな制約である。さらに暗喩や省略、倒置などと言った修辞があるが、これらは音楽的な要素とは言いがたい。おそらく今日的な自由詩の方が曲に合わせやすい(というより曲に合わせて手直しされる)のであろう。詩は自己完結しているので、必ずしも曲との相性が良いとは言えない。

また和歌の場合には、本歌取りというオマージュを盛り込む手法や、返歌という気の利いたやりとり、題詠で即興で詠むなどという遊び方がある。それを書としても楽しむ。これらも音楽的とは言いがたい。ただしこれらの趣向は今日ではほとんど忘れられてしまったが。カルタ取り以外は。

今の歌詞は字数や押韻などが割と自由で、曲を合わせることで初めて完成する。むしろ曲のないただの歌詞は不完全であって曲と合わせることで命を与えられるように見える。それからの類推で、韻文が未発達だった太古には、詩を音楽で補完していたのではなかろうか、と考えるかもしれん。そこから詩と音楽は不可分という発想も出てくるのかもしれない。しかし詩が未完成な時代には音楽もまたそうだったはずで、詩を補えるほどのものですらなかったと思う。

たとえば画賛とか歌合わせというのは、歌を絵画に結びつける。歌は音楽にも絵画にも舞踏にも結びつけられる。もちろん物語や軍記にも使われる。しかし、それらのどれにも従属していないし、それらのどれも歌に不可分な要素ではない。たとえば墓碑銘は詩である。しかし墓碑銘に何か曲が付いていると考える人はいるまい。念仏も俳句も詩である。
しかしそれらのごく短い詩に曲をつける必然性はほとんどない。南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、私を誘惑から遠ざけてください、一夜一夜に人見頃、良い国作ろう鎌倉幕府、いずれもフシ回しは特に必要ない。

語源的に言えば歌は訴えること、唱うこと、謳うことであって、そこにはまず音声があり、リズムや調べも付随しただろうが、音楽的要素はむしろ、そこから派生していったというべきであって、歌の本質とはやはり言葉そのものである。読経を音楽ということも不可能ではない。だがお経はお経であって、ドラや木魚と不可分ではない。

歌を音楽や絵画や演劇と合わせるのはメディアミックスであり、それはそれでけっこうなことなんだが、私は歌はあくまでも歌だと言いたい。

ギリシャ哲学は忽然とギリシャに生まれたものではない。オリエント世界でたまたまアレクサンドロス大王がヘレニズム世界を作り、その文化をローマが継承した。その他の伝承はすべて失われた。近代、ヨーロッパが世界を征服した。だから、ギリシャにだけ哲学者がいたように見えるが、そういう見方はたぶん間違いだ。エジプトにもシリアにもペルシャにも哲学者はいた。自由な精神を持ち、自由な思索を楽しむ人たちがいた。ただ彼らはディオゲネスと違ってアレクサンドロスと出会わなかった。ただそれだけだ。

不良債権としての『文学』

j:com の smart tv boxちゃんが来たのでさっそくimagica bsで録画したブラックホークダウンやら、au video passで見放題の吉田類居酒屋放浪記などを見ている。book passでスマホにたくさんマンガを落としたから通勤途中に見るだろう。

それはそうと、[不良債権としての『文学』というのを読んだのだが、読んでみるとごく当たり前の主張だ。大塚英志氏の書いた本は、たぶん私が読むといらいらして読めないと思うのだが、要するに専門学校生や大学生にプロットの組み立て方を教える本であって、誰が書いても同じようなことは書くだろう。

戦前から戦後のある時期まで文学全集が馬鹿みたいに売れた時代がありました。その時の高収益体質は、細かく検証しませんが「文学」の既得権を形成した現在の高コスト体質に繋がっています。

文芸というものをビジネスモデルで見た、実に面白い指摘であり、たとえば永井荷風が大学教授を辞めて文筆業で食って行けたのはたしかに文学全集が売れたからであり、今日我々が「文豪」というイメージを抱いているのもそうした作家である。今や「紙」の文学全集や百科事典ほどばかげたものはない。ああいうものはようは、昔家を建てたときの家具や調度品の一種として買われていたものであり、神棚の一種で、別に実際に読んだりするものではない。本当に読もうという人には不便きわまりない。今ならウィキペディアやキンドルを読むだろう。多くの愛書家というのは結局は自宅に自分だけの文学全集を作ることが好きなだけであり、蒐集家の一種であり、だから紙の本が好きなのにすぎない。逆の言い方をすればキンドルではそういった蒐集癖を満足させることはできない。こどもが切手や昆虫やカードを蒐集するのが好きなようなものでこれはどうにもならない。

大塚氏はコストがかかりすぎる現在の出版業そのものを疑問視し、コミケを参考にした「文学フリマ」などというものを提唱しているが、これは今kdpの世界でまさに進行していることだろう。「文学」と同様、出版業界もまた既得権化しているからで、それは出版にコストとリスクがかかるからであり、よって元の取れる本ばかりが本屋に並ぶことになる。彼の言うことはいちいちもっともだと思う。

小谷野敦氏が「大塚の文章は非論理的で、下手というより平然と論理をすりかえる詭弁と直観だけで書いていて、それを実証的に検証しようという姿勢がない」と批判しているそうだが、確かにこの「不良債権としての『文学』」という一文を読むだけでも、そういう印象を受ける。威勢は良いが実がない気がする。

でまあプロットを作る技術を教えれば多くの人が小説を書けるようになるだろう。しかしこれはハリウッド的娯楽のプロットですとか、これはミステリー、これは恋愛のプロットで、起承転結があってここが盛り上がりで、ここで落とすとか、そういう文書技術の部分をどんどん取り除いていってあとに何も残らないのは、種のない果実のようなもので、それは天然自然のものではない。世の中は種なしブドウや種のないミカン、バナナ、無精卵のほうが好まれる。種があればそれをよけて食べる。パパイヤに種ごとかぶりつく人はいない。そんなゴリラかオランウータンみたいな食べ方はしない。

プロデューサーならば売れればそれで良いかも知れないが、原作者は実は自分の作品の中に種を仕込みたいのではないか。私なんかはそうだ。いや、作家になるのが最終目的であって何を書くのかというのはあまり関係ない、とにかく売れるものが書きたい、というのであればそれでもいい(逆に自己表現したい何かか自分の中に何もないと作家になれないから、わざと異常な体験をして特別な自分になろうとする人もいるわな)。「自己」より「人と人とのつながり」のほうが大事という人はいくらでもいる。どちらかといえば劇場でパフォーマンスしたい人や営業の人、プロデューサーなどがそうだ。

私は違う。私にとって文章というのは所詮は手段だ。私が死んだあとにもこの世に自分という種を残したい。種だけ残しても誰も見向きもしないから、そこにストーリーという果肉をまとう。みんな果実は好きだから食べる。種ごと食べる。せっせと食べてもらえるようなおいしい果実を作ろうと努力する。種ごとたべない人が多いかもしれないが、たくさん出回ることによって種の存在に気付いてくれる可能性は高まる。それが原作者のわがままだと思う。

トイストーリーやボルトなんか見ていると、原作者や原画のわがままなどという要素は注意深く、完全に取り除かれている。完全に種なしにされている。確かに繰り返し見ればみるほどにさすがディズニーだな、さすがハリウッドだなと感心されられるが、そこからディズニー的、ハリウッド的な要素を取り除くと何も残らない。完全に去勢されている。

ハリーポッターはさすがに原作がきっちりしているのと、原作も合わせて読むことができるから、原作者の鬱屈した自我というかどろどろとしたこだわりが伝わってくる。ハリウッドがそれをいかに子供にもわかるエンターテインメント作品に仕立てて、3DCGで飾っても、ある程度は残っていて、だからハリーポッターの作者は作品に種を残すのに成功しているといえる。

スピルバーグとルーカスを比べると、スピルバーグはユダヤ人、ルーカスはイングランド系だからかもしれんが、どちらもハリウッドの娯楽映画を作る人ではあるが、スピルバーグのほうがはるかに屈折したものを作り、ルーカスのほうがよりハリウッドに向いているといえる。私はどちらかと言えばスピルバーグのほうが好きだ。そういう苦さや雑味に味わいを感じるからだ。

スピルバーグやコッポラなんかの作品を除けばハリウッド映画は総じて予定調和であって、だいたい展開が読めるからつまらない。逆に老若男女だれでも安心して楽しめる。いくら激しいアクションがあっても箱庭の中で暴れているようなもの。いきなり主人公が死んだりしてパニックに陥ることがないようにできている。水戸黄門やさざえさんや笑っていいともがいつも同じなようなものだ。私なんかはよくまあああいうものを飽きずに見ていられるなと思うが。それだけ予定調和に需要があるからだろう。

そういう意味ではパーフェクトストームはほとんど唯一の例外で、私は最後に予想を裏切られてびっくりしたのだが、おそらく海の波を3DCGで表現することが至上命題で、そのため実話をなぞる必要があったのだろうと思う。そこには青の六号に対するハリウッドの激しい嫉妬・対抗心が感じられて面白いが、そういうところを楽しむことじたいハリウッド映画には想定されていない。

ま、そういう意味ではブラックホークダウンも若干ハリウッド的テンプレからは外れてるかな。でも今見るとやっぱりいたるところアメリカ臭がする。

敷島の道

「敷島の道」なんてのは足利尊氏が歌に詠み始めた(流行らせた)なんて書いたのが気になって調べてみたのだが、「しきしまの」は「やまと」などに懸かる枕詞でこれは古語だ。
崇徳院御製に「しきしまのやまとのうた」というのがあるが、これは和歌のことであるが、貫之が「やまとうたは」などと言っているのとなんら変わらない。少なくとも古今集の時代にはあった言葉だ。宣長の「しきしまのやまとごころ」これもまた平安中期頃にあっておかしくない言い方。

しかるに「しきしまの道」を「歌道」という意味に用い始めたのは案外新しいはずだ。
たぶん初出はなんかの歌学書もしくは勅撰集の仮名序であろう。明らかに後世作られた「歌学用語」である。そもそも「道」なんてことぱには要するに宣長があまり好きではない漢才の匂いがする。

和歌に詠まれた「しきしまのみち」の初出は玉葉集らしい。九条孝博

おろかなる身をば知れども代々経ぬるあとをぞたのむ敷島の道

ただこれ、初出な上に「日本の道」と言ってるだけなんでほんとに歌道の意味で使ったかは不明。だんだんと定着していったんだろうけど。

冷泉為相

これのみぞ人の国より伝はらで神代を受けし敷島の道

二条為藤

住吉の松の思はむことのはを我が身にはつる敷島の道

住吉の松も花咲く御代にあひてとがへり守れ敷島の道

うーん。ほんとに和歌のことかどうか、あやしいよな。

為藤は為世の子だから明らかに二条派だろうな。為相はどちらかといえば京極派?

玉葉は伏見院の院宣による持明院統と大覚寺統に分かれて争っていた鎌倉後期の成立、
しかも京極派が優勢だったころで、かつ、九条孝博は玉葉集の選者の一人で伏見院の側近、どちらかといえば京極派だったかもしれない。いずれにしろ歌論というものがやかましく言われるようになったころに生まれた言葉だわな。時代的に足利尊氏がその影響をもろに受けたのは自然。ていうか東国の武士が朝廷に接近するためにはまずは和歌を学ばないと、敷島の道にはげまないと、と彼は考えただろう。尊氏が歌好きだから将軍はじめ武士はみんな和歌好きになってしまった。

なにごとも思はぬ中に敷島の道ぞこの世の望みなりける

すごいよなこの尊氏の歌。足利将軍の歌ですよといわれなきゃ誰もわかるまい。ましかし武士だからこそ逆にこんな言い方をしたのかもしれんが。

こういうの調べ始めるときりがないんだけど。

追記: 敷島の道2

上田秋成の誤解

願はくは 花のもとにて 千代も経む そのきさらぎの 盛りながらに

これは宣長の歌で、明らかに西行の歌

願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃

を本歌としたものである。宣長らしいおもしろい返し方だ。上田秋成が、宣長の

敷島の 大和心を ひと問はば 朝日ににほふ 山桜花

を批判しているのだが、

大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。 おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。 おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。

宣長は、賀茂真淵や平田篤胤とはまったく違う意味に「大和心」「大和魂」という言葉を使っていた。「大和心」「大和魂」がもともと源氏物語や赤染衛門の歌に出てくるように、それはもとはといえば女言葉であり、平安時代の日本の女性的な心をさすものであった。特に「漢学」に対する言葉だった。宣長はもちろんそういう意味で使っている。漢心(からごころ)、漢才(からざえ)に対して大和心という言葉を使っている。そのことを指摘したのは小林秀雄だったと思うが今ちょっと良く思い出せない。

宣長が「大和魂」などという言葉を使ったのだろうか。使った可能性もあるが、それは「たをやめ」の「弱く女々しい心」という意味に使ったはずだ。敷島の大和心とは何かと人に問われれば、それは「朝日ににほふ山桜花」をひたすら愛でる、私のような、女々しい心のことだ、と解釈しなくてはならない。宣長が詠んだ大量の桜の歌をみればその気持ちを補完できるだろう。

宣長は復古神道の創始者(の一人)ということになってしまった。だから「敷島の」の歌も誤解されている。秋成も誤解した。ただし秋成は「正しく誤解」している。つまり宣長があんまり外国よりも日本を崇拝するのが気持ち悪いという意味で言っている。宣長にしてみれば国学の重要性を強調したいが故に、極端な表現をした。それくらい当時の漢学崇拝は空気のように自然であり、宣長は孤立無援だった(ある意味今も宣長はほとんど誰にも理解されていないという意味で孤立無援である)。

しかし宣長の弟子の国学者たちは「間違って誤解」した。大和心、大和魂を日本男子の猛々しい心だと考えた。平安時代より前の武人の心だと解釈した。

そしてその誤解が宣長を余計に有名にしてしまった。すべては後の世の人たちの仕業である。

ちなみに和歌のことを「敷島の道」などと詠み始めたのは足利尊氏ではないか。少なくとも彼がその一人であるのは間違いない。尊氏も武士からぬ女々しい和歌を詠んだ。大量に詠んだ。室町時代に勅撰集がやたらと作られたのは尊氏のDNAのせいだろう。彼が和歌好きだったのは間違いない。実は周りの武士団が勇ましいだけで、その真ん中にいた尊氏はほんとに女々しいだけの人だったかもしれないと思う。

追記:昔の記事を読み返すとほとんど同じことを書いていた。国意考。ついでに敷島の道

石垣山と石橋山

たまたま小田原に行く機会があったので石垣山に行こうとおもった。一日空いていたから、時間があれば石橋山にも行こうとおもった。石垣山は有名な観光地であろうから、さくさくいけると思ったら甘かった。頂上までは農道しかなく歩行者ではなく農耕車が優先だなどと書いてある。こんな観光地はない。登り口の表示もわかりにくく結局は google maps に頼ることになった。できれば箱根登山鉄道の、博物館辺りから遊歩道が欲しいところだ。そしたらすごく良い観光地になるだろうにと思う。史跡はすばらしいのだから。
どうもこの自治体はやることがいろいろとちぐはぐだ。言いたいことは山ほどあるが、文句を言うのはこのくらいにしておこう。

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本丸跡からの眺め。小田原市街、相模湾が見える。酒匂川河口だけ砂浜が突起しているのがわかる。手前の芝生は二の丸跡。

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本丸跡の石垣。だいぶ崩れているが、これはすごい。こんなすごい山城跡は滅多にない。

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秀吉一夜城ともいうこの小田原攻めの主城は石垣山というだけあって、石垣がものすごくたくさん残っている。山城でこんだけ石積みがあるのは珍しいのではないか。まあ、熊本城とは比べものにならないかもしれないが。一応はテンポラリーな作りの城のはずだが、数年がかりの長期戦を予測していたのか。あるいは土木技術を見せつけた、ブラフのたぐいなのか。

本丸跡も天守台跡もなかなか立派だが、圧巻なのはこの写真にみるような井戸曲輪跡というもので、すり鉢状になった一番底の穴にはまだ水が湧いている。おそらく地形を利用して雨水を溜める機能もあったのだろう。

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海側に山を下りて石橋というところまでは国道沿いに歩道があったが、歩道はここまでで、あとは山の中の農道しかない。農道しかないのでは田舎と同じだが、田舎なんだから仕方ない。もう観光者気分はやめた。佐奈田霊社はそういう田舎のミカン畑の真ん中にある。おそらくみんな車で来るのだろう。小田原から歩いてくる人は皆無に違いない。いるとしても小田原市が作成した山歩きの地図を持っているはずだ。道ばたにたてられていたこの地図を写真に写して手がかりとし、あとはgoogle mapsを頼りになんとかたどりついた。

佐奈田霊社は石橋山の戦いという古戦場にあって、これは頼朝が伊豆で挙兵して最初に敗北し、佐奈田与一という味方を討たれて、いったん房総半島に逃げたという歴史的には非常に重要な場所なのだが、実にもったいないというかなんといえばよいのかわからない。鎌倉の混雑っぷりとここの過疎っぷりを見ると、観光業とはいったいなんなのだろうと思う。

佐奈田与一が討たれたという場所は普通のミカン畑だった。お土産に現地販売のミカンを買ってくるのを忘れた。

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小田原から根府川まで歩こうという人にはこの地図はあまりにも重要なので、まあフェアユースだと思うので掲載させてもらう。歩いてみて思うにハイキングコースとして悪くない。いや、かなり良いほうだと思う。景色もいいし。しかし何度も言うがこれは農道以外の何物でもない。農道でかつほとんど車が通らないので歩くのは快適だったがさんざん迷った。

根府川は駅前にコンビニすらない田舎の駅だった。

今回気づいたのだが、androidタブレットのgoogle maps は自分の wifi ルータが電池切れしても、自分が今いる位置がわかるのだ。つまりandroid端末は常に利用可能な周囲のwifiルータを検索しているから、その複数のルータから三角測量的に位置を推定している。検索機能などは使えないものの、位置だけはわかるのである。すごい。おそらくこれがkindleにはない。あるのかもしれないがgoogle mapsと連携してなくて非常に遅くなるのだろう。今回歩いたのは主に山道だったが、近くを東海道線とか西湘バイパスなどが走っているので、アンテナはたくさんあったのに違いない。

班田収授

班田収受というのが基経の時代、元慶3年(879年)に行われた。実に50年ぶりだったという。これは明らかに基経主導だっただろう。元慶官田など。

元慶2年(878年)出羽国蝦夷俘囚の反乱というのは班田収受を強行しようとしたことに対する反発で、それを鎮圧したということだろう。

高子が元慶寺を元慶元年に建立しているのだが、その出費がかさんだためではなかろうか、などと考えてしまう。藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基とある。

高子は元慶2年にも山城国愛宕郡(京都市左京区岡崎東天王町)に東光寺を建立とあって、後に高子は東光寺僧(座主?)善祐と密通したとして皇太后位を剥奪される。

ともかくこの時期高子ちゃんは自分の子供の陽成天皇が即位して、国母となれてものすごくうれしくて、たくさん寺を建立しちゃったんですよ。夫の清和天皇は外に女を作りまくるしね。お兄ちゃんの基経は一生懸命税金を集めまくるんです。で、たぶん、高子ちゃんは善祐や遍昭のパトロンだった。もっと親密な関係であったでしょう。業平との関係もなかったとはいいきれない。

そんで、京では天使様が代替わりしたかしらないがその母親が夫を追放して遊蕩しまくって、そのため税金とりにくるとなれば、陸奥で反乱が起きるのは当たり前だわな。

最後の班田収受は延喜2年に行われたのだが、これは菅原道真が失脚し、藤原時平が実権を握った直後であるから、父基経にならって時平が強行したのではなかろうかと思われるのだが、よく分からん。もし道真が計画していたとすると、話は全然違ってくるのだが、情報が少なすぎる。

ハリーポッター

知り合いの子供がハリーポッターを読んでいたので読ませてもらうと確かにおもしろい。
明らかにかいけつゾロリよりはおもしろい。

どこがおもしろいかと聞いてみると「全部」だという。登場人物では誰が一番好きかなどという具体的な質問をしてみても「全員」だなどという。これでは書評にならない。まあ子供というのはそういう全体把握から入るのだろう。分析的なアプローチというのは大人がやることであり、逆に、子供の頃から分析しかできなければろくな大人になれぬということだな。

で書評だけど、よく考えるとこれは難しい仕事だ。主人公のハリーポッターが布団の中で隠れて読書をしたり勉強したりする。学校も宿題もない夏休みが嫌いだ、とか。課題や宿題が大好きだとか。このへんが笑える。おそらく作者の子供の頃の実体験、実感なのだろう。こういうのは早熟な文学少女にはありがちである。そこがおもしろい。童話形式のファンタジーに埋め込まれた、作者の屈折した心理の告白的なもの。男の子というのはこういうふうにはあまりならないと思うが、それを男子のハリーに投影しているのがまたおもしろい。

しかしいまだにエウメネスだけが売れているのだが、あのヒストリエという漫画の主人公がなんでエウメネスなのかということを、誰もが不思議に思って調べようとして私の小説を買うのだろう。だが、エウメネスについてはほとんど何も知られていない。私の小説に出てくるエウメネスも史実は1割くらいであとは私の灰色の脳みそが生み出した産物である。ただ、アレクサンドロス大王東征記を全部読むくらいなら、さらっとおもしろおかしく読めてよいのではないかと思っている。アッリアノスの時代にはすでにアレクサンドロスの話は伝説になりつつあった。だから小説にするのはそんなに苦労はない。というより、あまり自由度がない。いや、逆に自由度が高いともいえる。

これに対して十字軍の時代まで来るとディテイルが多すぎる。英語版のウィキペディア読んでいたらきりがない。そのディテイルを取捨選択して読んでおもしろい物語にする作業はかなりきつい。ものすごい時間がかかる。ふつうは歳月というものがその作業をあらかた終えていてくれるからだ。そしてたいていは誰かがおもしろい逸話をいくつか創作してくれている。そういう人だけが世の中では物語の主人公として認識されている。

一次資料と状況証拠だけあたっていると話はちっともおもしろくなってこない。今まで埋もれていた人を発掘してきて、主人公に仕立てる作業。どこかでいかさまをしなきゃ、主人公にはなってくれぬ。そういうものだ。ハリーポッターがおもしろいのは(私がおもしろいと感じるのは)、単なる創作物語なのではなく、そこに文学少女の性癖が投影されているからだ。不思議の国のアリスがおもしろいのも作者の少女愛好癖が投影されているからだろう。その理屈で言えば作者である私の性癖を何かの形で投影しなくては物語は物語としておもしろくならない、ということになってしまう。まあ、たぶんそれでいいんだろうと思う。

もちろん、単なる創作話としても、自分で豊富な一次資料にあたり、自分で話を捏造したほうが、他人に捏造されるよりは、きっと良いものができるはずだ。