「本居宣長」連載

小林秀雄「本居宣長」は連載もので、50回に分かれていて、正直なところ、この50回という切りの良い数字は、必要があってそうなったのではなく、何か出版社との約束事でもあってそうなっているだけなのではないか。というのは、連載も30回を過ぎた辺りから内容もとりとめなく朦朧としてきて、わけがわからなくなるのである。明らかに連載第1回と続く2回目の「遺言書と墓、墓参、法事等について」「辞世の歌」などはおもしろい話題だ。ぐいぐいと引き込まれる。3回目「松坂の生家、生い立ち、家業など」は、まあ普通の前フリ。それから延々と話は宣長からそれて、19回目の「賀茂真淵の万葉考、枕詞考など」からまたおもしろくなり、20回目「真淵との書簡のやりとり、宣長の歌詠み批判、破門状など」。21回目「宣長の弁明、新古今風についてなど」。22回目「歌学と詠歌」辺りまでがこの連載の山場だと思う。その後は 25回目「(ざゑに対する) やまとだましい、やまとごころ、姿と意、など」、26回目「平田篤胤など」、27回目「ことだま、古今仮名序、土佐日記など」がややおもしろいが、28回目以降は古事記の話題が中心になり、明らかにどうでも良いような神道教義の解釈うんぬんという話になり、29回目の「津田左右吉「記紀研究」の紹介など」からどうも明らかにテンションが下がりまくり、後はもうどうでも良い感じ。というのが私の率直な読後感ですが何か。そうだな。ざっと5分の1、要領よくやれば10分の1でまとまると思うのだが。

また、補記の方だが、1回目にプラトンやソクラテスの話ばかり出てくるのは冗談としか思えないし、3回目の「真暦考」についての話がややおもしろい程度で、どうも別段どうということもない。こういうものを頭から難解だが名著だと信じて読んでも意味はわからないと思うのだが、どうよ。

本居宣長の最大の功績はやはり「古事記考」という大著をまとめたことだとは思う。当時解読不能になっていた古事記を読み解いた。それはすごいことだ。特に、古事記は日本書紀に比べて神話時代の話が濃密であるし、宣長は神話はすべて事実だと考えていたから、どうしても宣長という人は神代について、神話について研究した人という見え方になる。

さもなくば源氏物語を読み解き、「もののあはれ」の重要性を指摘し、近代小説との類似性に着目した人、ということになる。この辺りは近代の作家のひいきによるものだろう。

そこでつまり本居宣長とは「古事記」と「源氏物語」の人だということになる。それはそれで間違ってはいないと思う。小林秀雄も最初読んだのは「古事記考」でさらに折口信夫に「本居さんはやはり源氏だよ」などと言われて考え込んだりしている。そういうことが冒頭に書いてある。やはり小林秀雄にとっても宣長について書くきっかけは「古事記」と「源氏」だったわけだ。未だに世間一般ではそういう見方に違いない。

だがその書いたものを見るに彼が着目しているのは宣長の遺言だったり、真淵との師弟関係だったり、「うひやまぶみ」で彼が主張しこだわっていることだったり、異様に膨大な詠歌群だったり、「やまとごころ」「やまとだましひ」の発見だったりする。いやそもそも「やまとごころ」の意味を発見したのは、というより宣長が実は(幕末や戦前において)まるで理解されていなかったことを発見したのは、宣長を理解し再発見した小林秀雄自身の功績であろう。後半の古事記うんぬんの辺りはただ単に小林秀雄の独学というか独り言のように思える。ひどい言い方をすれば義理のために書いた埋め草というか。ただまあ、書きたくて読ませたくて書いた部分ではないのではないかと思う。

坂本は文字がありません。

巖本善治編勝部真長校注「新訂海舟座談」を読む。 江藤淳の「氷川清話」以上のことは書かれているようにも思えないが、附録で、 高木三郎という人が坂本龍馬について

坂本は大きな男で、背中にあざがあって、毛が生えてね。

坂本は、柔術を知らないものですから、

坂本は、文字がありません。

などと言っている。 龍馬は文字の読み書きができなかったらしい。 手紙を書いたとしても代筆だったのだろう。 あの有名な、姉に宛てて書いた手紙も代筆なのだろう。 武士で柔術を知らないというのも当時としては珍しかったのだろう。 剣術は千葉道場で北辰一刀流の目録をもらったというが、五六年もいれば誰でももらえるようなものではないか。 印象としては、行動力はあるが無学文盲の大男、といったところだろう。 勝海舟、西郷隆盛、その他長州や薩摩の志士たちにはだいたい最低限の教養はあったが、龍馬にはなかった。

ともかく、文字を知らないというのではまず和歌は詠めまい。 柿本人麻呂も文字は知らなかったかもしれないが、 それとこれではわけが違う。 仮に詠めても有名な歌のつぎはぎくらいしかできなかっただろう。 読み書きができなきゃそろばんもできなかっただろう。 政治家くらいにはなれたかもしれんが、
商売ができる人間ではなかったのではないか。

龍馬は『新葉和歌集』を欲しがったというが、なんのためだったのだろう。

wikipedia に

平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」

とあるのも同じか。

勝海舟の歌:

天駆ける翼持たねばにはつ鳥あはれ落ち穂を争ひにけり

なんとも言えない歌だな。

勝海舟が危篤になったときに高崎正風(歌会所長、明治天皇の歌の師)が詠んだ歌:

眠られぬ夜寒の床に響きけり氷川のもりの雪折れのこゑ

玉の緒の絶えぬうちにと駆けつけてかひもなくなく帰る悔しさ

移りゆく世をうれたみて語らひしこゑなほ耳の底に残れり

身は苔の下にありともたましひは天駆けりてや世を守るらむ

「うれたむ」は「憂ひ」+「痛し」が動詞化したもののようだ。
まあ普通。実に平凡。というか明治天皇の御製に良く似ていてびっくり。
明治天皇の歌をより情緒的にしたような感じ。

逆説の日本史

井沢元彦「逆説の日本史」を読み始めたのだが。まあ、一割くらいは面白いことが書いてあるが、八割近くは単なる状況証拠と推理であり、真実は多くて三割くらい。見ただけで間違いとわかることも多いし、記述があまりにも偏向してる。こういうのは南朝の皇族の子孫が明治になって出てきて云々というような話と同じだわ。一つ一つ、裏付けをとる作業を積み重ねながら先に進まないと、こんなふうに歴史なんてどんな具合にも脚色あるいは捏造できてしまうだろ。

義満が天皇になろうとしていたという話にしても、ただ単に自分の息子の義嗣を偏愛していただけとも読める。義満が天皇とまったく違う形の日本の統治者になるというのも、そのままそっくり天皇になるというのもどちらも無理だろ。天皇家の祭祀のうちいかに仏教系の儀式を自宅で執り行ったとしても、宮中の儀式の多くは神道系、たとえば新嘗祭とかなわけで、いきなり神主さんになりますかといわれてもなれないだろ。皇位の簒奪が難しいというのはやはりそのあたりが理由ではないか。

それに足利将軍やら管領やら公家やらが義満の独裁に批判的だったわけだから、義満の暴走は遅かれ早かれ中に浮いて頓挫しただろうと思うな。足利幕府は当時としてはかなり合議制が進んでいたように思われるので、義満はただ煙たがられてただけでは。義満は決して絶対君主的な存在ではないし、それだけの軍事力を足利氏が独占していたわけでもない。一休が後小松天皇の落胤で、後小松天皇の子・称光天皇の兄に当たるので、位を継げば良かったなどというのは、かなりトンデモ系。そもそも還俗して上皇になった例はあるかしれんが、天皇になったなどという話はないだろ。明らかにあり得ない。ていうか、上皇は院、つまり僧侶として法皇にもなれるわけだから、上皇になるために還俗する必要すらないわな。天皇は神道系の儀礼しかできない、法皇は仏教系の儀礼しかできない、という棲み分けはあったんだろうな。仏教系の祭礼の重要性が時代が下るとともに大きくなり、逆に神道系の祭祀が形式化していったのが、もしかすると院政がさかんになった大きな原因の一つかもしれんわな。逆に言えば幼い天皇でも宮中祭祀はできたということだが、摂政か関白が代行していたのだろうか。ていうか幼い天皇がいるうちは上皇は祭祀を代行するために、院にはなれなかったのではなかろうか。なので、天皇、上皇、法皇という三段構成が必要だったのでは。ややこしいなあ。ましかし、天皇家が神道以外に仏教も祭祀に加えていく過程で、直系内での役割分担が必要になって、自然とそうなっていったのかもしれん。江戸時代に入ると天皇家が仏教の儀式をやらなくなった(国家仏教をしきらなくなった)ので、法皇も不要になったのだろう。最後は霊元天皇(在位1663年-1687年、1732年崩御)。

しかし皇位継承が男系に限るというのは良くできている。女系もありとすると自分の息子(内親王と結婚してその息子か娘)を天皇にできる。しかし、男系に限ると孫(娘を皇后に立ててその男子)を天皇にすることしかできない。そもそも皇后に立てるというのはとても難しいが、内親王と結婚するのは割と簡単かもしれん (女帝と結婚する必要はない。皇族の女性と結婚しさえすれば良い)。義満も内親王の子だから、女系もありとするとあっというまに皇位継承対象者になってしまう。女系を認めるかどうかというのはやはりかなり難しい問題な気がする。

ましかし、上記は皇位を簒奪しようというのが男であるという前提だが、完全な男女同権の時代になってしまえば、ある(野心ある)女性が天皇と結婚して自分の子どもを天皇にすることも可能なわけで、あまり抑止力にならんわな。ある意味尼将軍政子みたいなものか。
ま、ていうか、野心ある女性が無理矢理天皇か親王と結婚して子供を天皇にするという状況があまり思い浮かばないけどな。

二所詣

頼朝と政子が子供連れで、あるいは、頼朝が死んだ後も政子・実朝らが二所詣と言って伊豆山神社と箱根神社、それから三嶋神社にたびたび参詣している。

伊豆山神社は、政子が輿入れ先から逃げ出して匿われたところだし、箱根神社は頼朝が石橋山で負けて匿われたところだから、要するにお礼参りということだわな。三嶋神社は伊豆で一番大きな社という程度のことだろう。

しかし市町村合併で伊豆に「伊豆市」と「伊豆の国市」があるというのはあまりにもひどすぎないか。いっそのこと合併すれば良いのに。

飲んで帰って朝起きて

財布を確認すると、思ったよりも金が残っててびっくり。金を使いすぎてても嫌だが残り過ぎているのもどこかで勘定忘れて帰ったとか心配したりする。しかも胸ポケットに1500円入っているのも気になる。

なるほど。五千円札をあと一枚入れていたと考えるとだいたい勘定が合う。そして釣りを胸に入れたんだな。途中、松屋でカレー食べたのを思い出す。

まあ体重的にはOK。

デザイン

デザインというのは、ある不幸な状況のときに必要とされる。しかしもともと不幸な状況にあるのだから、その不幸な状況を改善できなかったとして、デザインのせいにするのは酷というものだろうと思った。そう、よくあるパターンとしては、デザイナーの独りよがりであったり、デザイナーの自己満足のためにデザインが悪いのだろうと思ってしまうということ。しかし、必ずしもそうではない。

たとえばある間取りの悪いテナントがあったとする。形も間口も悪くてどうがんばって洗い場やカウンターを配置しても客を効率的にさばけないとする。デザインしようがない。
しかしそんなときでも「デザインが悪い」と言われることが多い。デザインはかわいそうだ。

たとえばある限られた予算の中である公共交通機関ができるだけ乗客を増やしつつ障害者にも配慮した車両を作ろうとするだろう。そんなときに条件を満たそうとしてちょっとした配慮の不足があるとたちまちそれは「デザインのミス」として観察されてしまう。デザインはかわいそうだ。

しかし、往々にして、我々からみていると、とくに不幸な状況でもないのに、デザインがしゃしゃりでてきて、状況を不幸にしているように見えることもある。たぶん錯覚なのだろう。

資金が潤沢にあるようにみえてデザインが悪いのは、デザインが悪いのではなくてたぶん何かの政治的理由なのだろう。なにしろ金がうごけば動くほど世の中は妥協の産物となるものだ。やはりデザインのせいにされてはかわいそうなのだろう。

デザイナーはマネージメントができて戦略的な予測もできて、かつ市場調査もできなくてはならないが、そんな完璧な人材は、どんな業種にもめったにいない。デザイナーはやはりかわいそうだ。ある意味 SE くらいかわいそうだ、とおもえばわかりやすい。

そもそもアレとかアレとかアレとか、とてつもなく人間に不親切な設計とか、別段、デザイナーのせいではなくて、複数の候補を用意して、それを選んだクライアントがセンスがないせいかもしれない。たぶんだが、デザイナーは、センスの良いデザインではなく、コンペでクライアントに選ばれやすいデザインをする傾向にあるだろう。そうこうするうちにデザイナーはますますそういうデザインをするようになり、世の中はそういうデザインで満ちあふれることになろう。まあ、政治家と国民の関係にも似ているよな。あるいはマスコミと国民の関係と言っても同じだが。

デザイナーは同時にアーティストであったりする。しかし基本的にデザインとは自分を殺すことであり、アートとは自己主張することであって、あい矛盾する。しかしなぜか世の中ではアート&デザインなどといって、この二つは混同されている。いやおそらく同時に二つの属性が必要とされるのだろう。やはり不幸だ。それについて十分に説明されていない状況も不幸すぎる。

昔バブルの頃は、低学歴だがお金持ちという人と、高学歴だが貧乏という人がいた。なんか矛盾しているようだが、こういう社会は非常に安定している。ようするに世の中景気が良くて勉強しなくても進学しなくても日銭がいくらでも稼げるわけ。ばかばかしくて何年もかけて勉強しない。はてはフリーターみたいな人たちも出てきた。そりゃそうだ。まじめに勉強したり、正社員としてしばられなくても、生きていけるんならみんなフリーターになる。しかし今は低学歴だと低収入、高学歴だと高収入という、当たり前なんだが、非常に危険な社会になってしまったよな。

だがしかし、そもそも、景気の変動の影響を受けやすいリスクの大きい仕事に就いた人と、景気の変動を受けにくい手堅い職に就いた人といるわけだから、景気の良いときに我慢する人と、景気の悪いときに我慢する人がいるのも当然のことだよな。

モーニングのアレとか読むと確かに大学進学率が上がって大学生が異常に増えた。大卒の採用人数も増えている。しかし大学生が多すぎるので、就職内定率は下がる。不況で新卒が採れないという以前に大学生が多すぎるから内定率が下がっている。もし大学生の数が20年前と同じなら内定率はもっと高いのだろう。

大学生は増えたかもしれないが、少子化で新成人は減ってきているはずで、じゃあこの先どうなるかといえば、団塊の世代が退職したあとは逆に新卒は足りなくなる。そもそも労働人口自体が足りなくなる。あと五年くらいだろうか。多少不況だろうと就職はできるようになろう。で、失業率が下がれば賃金も上がるし景気も良くならざるを得ない。そうこう考えればいま就職ができないとか不況がどうこうということをあまり深刻に考えても仕方ないのではないか。ただ今の状況だけ見て、企業の奴隷みたいな人材を作り続けるのはやめた方がよい。むしろやらなきゃいけないことは逆。

世の中には正しいか正しくないかの基準が明確には決まってないのにどちらかに決着を付けなくてはならないことがある。商売や営業などもそうだし、企画もそうだし、裁判もそうだし、倫理や文芸批評もそうだろう。とにかく人文系はたいていそうだ。これが工学系だと、定量化とかいう手法を使うわけだが、文系だと延々と時間をかけて立法とか法令の成文化とか判例の蓄積とかなんだかんだかけてやっている。答えがないんだからそうやってやっていくしかないのだろう。それはそれで良いとして、センター試験などの大学入試の問題も文系の問題はたいていそうだということだ。もっとも確からしいものを選べといわれてもどれも正しくどれも正しくないように見える。そういう答えが判然と決まってない問題を大学入試に出して良いのか。あるいは大学入試の頃からそのような感覚を磨かねばならないのか。出題ミスかどうかの判断はどこでされるのか。

読史余論

岩波文庫「読史余論」を読む。戦前の復刻版で旧漢字、読みにくいが、難解ではない。ゆっくりと読めば良いか。思うに、新井白石という人は、武士が元々、天皇や公家の政治について思っていたことを、きっぱりはっきりと言ってのけた。時の幕閣の一人として、多少の遠慮はあるとは言え。将軍の教育係として、その教科書として読史余論が書かれたという背景にもよるだろう。正直に思ったままを書いたというべきだろう。

平氏にあらざれば人にあらず

「平氏にあらざれば人にあらず」あるいは「平氏にあらずんば人にあらず」という言い方が世間で一般的なようだが、平家物語には「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と表現されている。源平盛衰記でも「此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける」としか書いてない。しかるに日本外史には「平族にあらざる者は人にあらざるなり」と出てくる。なので、「平氏にあらざれば人にあらず」という言い方はもしかすると日本外史に由来(というか日本外史の訓み下しの一例)なのかもしれない。

中にはこのせりふを言ったのが平清盛だと思っている人がいる。正確には平時忠である。

また重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」というのももともとは平家物語だが、このフレーズは日本外史の訓み下し文そのものである。もともとはもっとくどい言い回しの和文だが、それを頼山陽がすっきりとした漢文調の文句にしたのである。原文(『平家物語』「烽火」)

悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。

このように実は日本外史に由来するかもしれない言い回しというのはものすごくたくさんあるんじゃないかと思う。

里内裏

たとえば保元の乱で後白河天皇は高松殿、崇徳上皇は白河殿にそれぞれ布陣するわけだが。

ここで高松殿とか白河殿というのがよくわからない。御所だとか内裏だとか書いているものもある。

調べていくと、高松殿というのは源高明が最初に作った豪邸であるという。その後、天皇や上皇などが住む屋敷としても利用されたとある。つまり、平安宮の内裏というのは火災で焼失したりして実際にはあまり機能してなかった。なので、実際に天皇や上皇や法皇が居住していた屋敷が御所とか内裏と呼ばれていて、平安宮の内裏と区別して里内裏と言ったのだそうだ。

白河殿というのもこれまたもともとは藤原氏の別荘だったのだが、天皇家と藤原氏は姻戚関係にあり、当時は天皇も入り婿みたいにして妻もしくは母親の屋敷に住んだはずだから、いつの間にか上皇の御所として使われるようになった。

とまあ、見ていくと、平安京みたいなのっぺりした市街に普通の寝殿造りの屋敷があって、それが戦の本陣になったというのは、後世の常識から言ってまったくあり得ない。そもそも本格的な戦闘が起きるとは思ってなかったのではないかとしか思えない。こういう状況では先に敵の屋敷に火を付けた方が勝つに決まってる。作戦という以前の問題だ。為朝、義朝でなくても、とにかく今すぐ、夜中で良いから、敵の本陣に先にしかけた方が勝つに決まってる。平治の乱でも似たようなことをやっている。

ていうかこの内裏とか里内裏とか離宮とか別荘とかいろいろありすぎてよくわからんのですが。

もし平安宮がきちんと壕があり、城壁があれば、保元・平治の乱などというものは起こりえなかったし、また天皇がきちんと御所と兵士を掌握するシステムならば、単なる天皇と上皇の戦いというものもあり得なかっただろう。古来、皇族どうしの権力闘争というのはなかったわけではなかろうに、なぜそうやって権力をきちんと守っていこうという方向に努力がなされなかったのだろうか。やっぱ不思議だよね。