坑夫

『坑夫』を何年かぶりに再読したのだが、やはりこれはずいぶんへんてこな小説だ。坑道に入ってから出てくるところまでが一番面白いところだが、それまでが異様に長い。で、坑から出てくるとあっという間に終わってしまう。どうでもよさそうなことがくどくどと書いてある。漱石はつまり、わざと小説らしくない小説を書くためにこんな仕掛けにしたのだろうが、どうも迷惑だ。もう少し書きようがあるんじゃなかろうか。

も少し推理してみると、前半の異様に長い前振りはこれは漱石自身の体験を脚色したものだから、異様に詳しい。で、銅山の話は誰かから取材したもので漱石本人は銅山に登ったことさえない。だからさらっと書いてしまっている。

そういういくつかのネタを適当につなげた結果こんな具合になったのではなかろうか。これはまあ自分の体験にも基づくわけだが、自分が実際に経験したこととか実際に取材したことというのは、つい詳しくなるが、そうではない箇所も補完して書かなくちゃならない。そういうところはまあ、つい短くはしょってしまいがちだ。明らかにそんなふうな小説というのは世の中にざらにある。自分の小説も、だいたいそうだといえばそうだ。想像で書いたところ。wikipedia や google earth で適当にすませたところなんかは、正直自信がない。出版社がついてて編集とか担当もいれば、そこちょっと話薄いですね、とかいって、適当に話をもってくれたりカモフラージュしてくれるのだろう。あいにくそんなスタッフのようなものはない。全部自分で考えて自分で書いている。そのかわり儲けを折半する必要も無い。

たぶん銅山の話がなければあまりにつまらない話で、漱石としても、小説として発表するのが憚られたので、当時のキャッチーな話をとってつけたのではないか。だもんだから

自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

などというおかしな言い訳がついている。漱石らしくない、へんな嘘の付き方だ。

BNP上昇

ええっと、そんで、心室細動でICUに入れられたのが2011年10月27日なんだが、11月29日には退院して、それからずっと順調に回復していて、実はもう完全に良くなってたんじゃないかと思って、薬を飲むのもサボりがちだったのだが、いきなりBNPが250台になってしまった。たぶんアンカロンという薬を飲み忘れることが多かったせいだと思う。

アンカロンは強力な不整脈を抑える薬なので、この薬が効いているとBNPは5くらいまで下がるらしい。正常値は20以下。100を超えると心不全の確率が高い。

非常に強力な抗不整脈作用がある反面、新たな不整脈や、肺線維症など重篤な副作用が多いのが欠点です。日本では、専門医により、他の薬が無効な致死的な不整脈に限り用いることになっています。

なんかまあ恐ろしい薬だな。私の場合不整脈が出たら死ぬしかないから、つまり致死的な不整脈ってやつだから、しかたなくアンカロンを飲んでいるわけだ。幸い副作用は出てない。

よくわからんのだが、私はもともとBNPが高い体質だったのではなかろうか。BNPは普通の血液検査では調べないから、昔どのくらいだったかってことはわからんのだが。これからもずっとアンカロンは飲み続けなくてはならなさそうだ。次回の検査でBNPが下がっていればいいのだが。

コレステロール値も相変わらず高い。まあ死ぬまで節制しなさいってことだな。

夏目漱石『坑夫』

夏目漱石『坑夫』をkindle版で再読しているのだが、無駄に長い。冗長。こんなだらだらしたものを書きたいから書いたんだろうけど、付き合うほうはよほどおっとりした性格でなくてはなるまい。

昨夕東京を出て、千住の大橋まで来て

とあるから、おそらく日光街道を越谷、春日部あたりまでを二日がかりで徒歩で歩き、ここから鉄道で古河、小山、桐生、足尾とたどった、という設定だろうと思うのだが、越谷や春日部のあたりは一面の田んぼのはずであり、どこまでも続く松原、なんてものがあるとは思えない。

途中の街道の描写は川越街道、武蔵野の光景に酷似している。

だいたい二日もぶっとおし歩けば、川越か春日部あたりまでいけるだろう。

川越の手前は川越河岸というものがあって、ちょうど

いつの間まにやら松がなくなったら、板橋街道のようなけちな宿の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車が通る。

というのがこの川越河岸だか福岡河岸あたりの光景だろう。さらに進むと、

そのうちに人通りがだんだん多くなる。町並がしだいに立派になる。しまいには牛込の神楽坂くらいな繁昌する所へ出た。ここいらの店付や人の様子や、衣服は全く東京と同じ事であった。

これはおそらくは川越のことだろうと思う。春日部がどんなだかは知らない。

ここにはわざと云わない。

などと書いていて、しらばっくれているのは、ほんとうは春日部日光街道(奥州街道)なんだが、そっちは取材してなくて、たまたま知ってた川越街道のことを書いたんじゃなかろうか。或いはだれか(漱石本人か)が川越のあたりまで出奔したという話と、足尾銅山で働かされた誰か別の人からの取材があわさってできているのかもしれん。でないと、この前置きの冗長さを説明できん。

そういうどうでもいいごまかしのために、或いは文字数を増やすがために、やたらとだらだらわけのわからない文章を書かれては困る。川越なら川越、春日部なら春日部と書けば良いものを。わからんことは取材してから書けばよいのに、と思う。

きちんと実名を出し、余計な回想だかをくどくど繰り返さなきゃ、この鉱山行の話は十分の一ですっきり片付くだろうと思う。

板橋街道

というのがぽろっと出てくるがこれは中山道と川越街道が板橋で分かれる手前のあたりを言うと思われる。

追記あり

梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件

慶応四年、「神仏判然令」。
明治三年、「陰陽寮」廃止。
明治四年、廻国聖(山伏?)、普化宗(虚無僧)廃止。
明治五年、修験道廃止令、修験者(山伏)を天台宗か真言宗に帰属させる。
明治六年、梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件

「梓巫」は「あずさみこ」と読むらしい。「梓巫子」とも。「市子」(いちこ)は梓巫女にほぼ同じ。歩き巫女

梁塵秘抄

我が子は十余になりぬらん 巫(こうなぎ)してこそ歩くなれ 田子の浦に潮踏むと いかに海人(あまびと)集うらん まだしとて 問いみ問わずみなぶるらん いとおしや

梓巫女梓弓を鳴らす。

「憑祈祷」これはそのまんまか。

憑依。鎮魂帰神。神懸かり。『英霊の声』川崎君。

口寄せ」陰陽師が寄り人に物の怪を憑依させて口走らせること。筆記するのは「お筆先」みたいなものか。「神おろし」トランス。エクスタシー。入神、脱魂、恍惚、三昧、法悦。

「孤下ケ」(きつねさげ)。「狐憑き」「稲荷下げ」

イタコ
ユタ
霊媒
降霊術
交霊術
ネクロマンシー

明治初年の民間宗教禁止令

まー、普通に禁止されて当然だと思う。民間信仰から国家神道へ集約、ってことですかね。

吉野南朝

南朝の都は吉野城、つまり吉野山の金峯山寺にあったかと漠然と思っていたが、実はもっと南の奥吉野、天川村の天川弁財天社あたりなのだった。飛鳥時代の吉野宮というのは東の方、吉野川をさかのぼって菜摘とか宮滝とか言われる所にあった。

思うに、金峯山寺というところは確かに修験者の拠点ではあったかもしれないが、城とするにさほど適した場所ではないように思う。千早城や赤坂城にしても同じ。天川村というのはものすごい山奥だ。こんなところに入り込まれたらとても攻めがたかっただろうと思う。

人斬り鉤月斎

「人斬り鉤月斎」というものを書いているのだが、またどこかの新人賞に応募すると思う。百枚ぎりぎりくらい。

タイトルどおり普通の剣豪小説、時代小説のたぐいなのだが、自分的に剣豪小説書くのはすごく珍しい。たぶん初めて。書いてみるとわかるが、普通の陳腐な剣豪小説と差別化するのが難しいってのと、膨大な過去の蓄積があるから、やっぱどうしてもそれと比較されるのでやはり書くのがむずかしい。同じことか。これ普通の剣豪小説とどこが違うのとか言われそうで怖い。

自分なりに分析すると、戦前の菊池寛あたりの剣豪小説というのは古き良き体制的な剣豪小説であるが、戦後はそれを否定した反体制的、つまり、幕府とか主君というものに反抗するとか、庶民の目線でとか、個人主義的なとか、そんな剣豪小説が流行った。

しかし今の自分にとってはそういう反体制的な匂いのする剣豪小説というものがすでに、
鼻もちならん説教臭のする陳腐な話なのであって、その否定、つまり、反反体制的、みたいな。しかし、反反体制的だからといって体制的でも戦前的でもないみたいな。あれ、なんかポストモダンってもしかしてこんな話なのかな。ポストポストモダン、みたいなもんかな。まあともかく、既存の戦後民主主義的テレビドラマ的時代小説を破壊したくて書いてみました(笑)これまで、時代小説というか歴史小説みたいなの書いて、チャンバラが出てこないのはそういうのに反発感じてたからだと思う。

三月末までにもう一本くらい書けそうな気がしてきた。

張耒

ネットで検索してもきちんとセンターの漢文を解説している人がいないので私がやってみようと思う。

新聞の解答見て答え合わせしたが一応全問正解した。

まず、張耒というひとだが、維基文庫に詩が二つ載ってるだけ。「張耒集」なるものはどうやって入手すればよいのやら。

だいたいの意味は、秋に某寺に引っ越して、海棠という木を植えて、翌年春、慈雨に恵まれ海棠はすくすくと育っていた。花が咲いたらいつも一緒に酒を飲むやつとその木の下で一杯やろうと約束し酒も取り寄せた。ところが急に左遷されて転居してしまい、海棠のことはそのままになってしまった。ちょうど一年すぎた頃に寺僧から手紙がきて、去年と同じように花が咲きましたという。海棠を植えた場所は自分が寝るところから十歩も離れておらなかったが今は千里も離れている。このように将来を予測するのは極めて困難だが、ならば急に時勢が変わって、また海棠の花を目の当たりにすることができないとも言い切れない。

「致美酒」の意味はよくわからん。美酒を送り届けたでは意味が通じない。美酒を取り寄せた、というような意味なのではないか。いずれにしても「招致」の用法に一番近いと思われる。

「周歳」はこれも知らないがちょうど一年、という意味であろうかなと思われる。新字源を見てもよくわからんからたぶんよく知られた熟語ではない。ああ、ネットで検索すると出てくる。丸一年という意味だ。

「欲与隣里親戚一飲而楽之」は明らかに「隣里親戚と一飲して之を楽しまんと欲す」だが、「隣里親戚と一飲せんと欲して之を楽しむ」という選択肢もあってこっちでもいいんじゃないかと思ってしまう。たぶん文法的にはどちらもありではなかろうか。

ていうかまあ、私もそんなに確信を持って解けたわけでもないのだが、それでも国語というものは勘や当て推量で満点がとれてしまうから、余計に難しくしておかないと点差が出にくいんだろうなあ。

ま、ともかく、細かいことはわからんでも、全体の意味はだいたいわかるし面白い文章ではある。

「安知此花不忽然吾目前乎」これもまあ、そんな難しい文ではない。「いずくんぞ知らん、此の花の忽然として吾が目前にあらざらんかを」とかそんな感じ。

日本橋と大名行列

以前江戸の街道に書いたことの繰り返しになるが、1600年関ヶ原、1601年から「五街道」整備、1603年に日本橋が架かり、1604年から日本橋を五街道の起点にした、などとあるが、その根拠はいったいなんなのか。

日本橋よりも神田橋の方が先に架かっていて、門も見付もある。中山道と奥州街道の起点はこの神田橋門(神田口門)であり、東海道は虎の門、甲州街道は半蔵門を起点とすると考えたほうがずっと自然ですっきりする。また、日光街道が徳川家にとって重要になったのは家康が葬られて家光が東照宮を祖先崇拝してからだと思われるし、1604年ころから日光街道を奥州街道と区別し五街道と呼んでいたとは信じられない。また甲州街道が五街道に入るほどに重要だろうか。完成したのも他の街道より百年ほど遅い。甲府街道が重視されたのは、吉宗以後幕府直轄領になってからではないのか。

道中奉行というものがあったそうだが、たぶん日本橋は道中奉行の支配ではなく、町奉行支配であろう(と思うが橋奉行とかいたかも知れんね)。神田橋に至っては江戸城の一部だから奉行とかそういうものはなかっただろう(普請奉行か?「江戸城代」という役職は家康が入府する以前のもの)。日本橋を宿場と考えることにも疑問があるが、商人らは日本橋や小伝馬町、馬喰町などの繁華街に投宿しただろうから、商人や町人にとって日本橋は宿場町のようなものだったとはいえる。日本橋付近に武家屋敷がなかったわけでもなかろうが、このあたりを大名行列が頻繁に往来したとは考えにくい。

安藤広重『東海道五十三次』日本橋には、日本橋を大名行列が通る朝の情景が描かれている、というのだが、これがいわゆる大名行列かどうかも疑問だ。大名行列だとして、どこの大名がどこからどこへ行こうとしているのだろうか。大名が日本橋を通る必然性がない。ただの公務中の旗本かもしれない。

さらに、大山街道、中原街道の方が、東海道より利便性が高いように思われる。現在でもそうだし、江戸時代より前でもそうだった。江戸時代だけ東海道の地位が高かったのも、よくわからん話だ。この三つの街道は、少なくとも庶民レベルでは対等だったのではないか。

宮将軍擁立説

徳川四代将軍家綱が嗣子なくして死去したときに、後継者としては、弟の綱吉、家綱より早く死んだ綱吉の兄で家綱の弟の綱重の子の綱豊、その他に、有栖川宮幸仁親王を宮将軍として迎えようという案もあったと徳川実記に書かれているという。

有栖川宮幸仁親王は家康の血を引いているというので、調べてみると、家康の次男・秀康は結城家に養子に出たが後に松平家に復帰、その息子・忠直は越前松平家(福井藩松平家)当主でかつその妻は二代将軍秀忠の娘・勝姫。忠直と勝姫の娘で秀忠の養女となった亀姫(寧子)は高松宮好仁親王の妃。好仁親王と亀姫の子・明子女王は後西天皇の女御で、有栖川宮幸仁親王はその皇子である。たしかに、男系・男系・女系・女系・男系と来て家康の五代後の子孫なのである。

ここで一番問題になると思われるのは徳川宗主である家綱の遺志なのだが、これがまったくはっきりしない。血筋で言えば家光に一番近い綱吉であると徳川光圀や堀田正俊が主張したという。長子相続の原則にのっとれば綱豊(後の家宣)であるが、綱豊の父綱重(家綱の弟、綱吉の兄)はすでに死去していた。有栖川宮幸仁親王を推したのは大老酒井忠清。酒井家は三河時代からの譜代であるが、その主張に根拠なしとは言えない。

鎌倉幕府が宮将軍を迎えたのは、頼朝の子孫が皆絶えてしまったからであるが、家康の子孫は、親王・内親王を含めてけっこういたようである。ただし家康の血を引いた天皇はいまだいなかったはずで、いたらもっと大問題になっていただろう。いずれにせよ、頼家の子や実朝の兄弟らが死んだときほど必然性はなかったと思う。だって御三家だっているわけだし。血統が絶える心配がまるでないのに、わざわざ宮家から将軍を呼ぶか。吉宗に決まるときにもそんな議論があったのだろうか。

ただ、天下国家のためには宮将軍の方が都合が良いという考え方もあり得る。戦国の世であればともかく、血の近い遠いよりも、いっそのこと皇族を将軍に迎えた方が良い、外様大名や浪人者などから文句の出ようも無い、一気に天下は静謐になる。たぶん遅かれ早かれ公武合体は成るのだから、今一気にやってしまえ、という考えはあったかもしれない。豊臣秀吉だってわざわざ摂家になったのだから、ゆくゆくはそうしたかったのに違いない。

堀田正俊が稲葉正休に刺殺されたのは、稲葉の個人的遺恨という説が有力だが、堀田と対立した綱吉(もしくはその側近の柳沢など)の陰謀であるという説もある。また、綱吉を擁立した堀田を恨んだ有栖川宮幸仁親王派か綱豊派、大老の酒井らなどということもあり得よう。事件の現場に居合わせた大久保忠朝・戸田忠昌・阿部正武などの老中らが、口封じのために稲葉と堀田を一度に始末したと考えられなくも無い。よくわからんねえ。

しかし puboo が重くて困る。最近はときどきつながらないし。

追記。

有栖川宮幸仁親王の母は亀姫の娘明子ではなく、清閑寺共子、彼女と徳川家に血のつながりは無い。明子女王は後西天皇の正室なので、幸仁が明子の養子になったということはあっただろう。明子が生んだのは八条宮長仁親王。長仁は21才で死んでしまったが、長仁が宮将軍になるという話は実際にあったかもしれないし、後西天皇が霊元天皇に譲位したのも、宮将軍を立てたくない後水尾院の意向があったかもしれない。長仁が死んだのは1675年。家綱が死んだのが 1680年。堀田正俊が殺されたのは1684年。

なお霊元院の娘が徳川家継の正室になるはずだったが家継が早死にして成らなかったということがあり、これは『将軍家の仲人』に書いておいた。