詠歌一体の前半部分は単に題詠の作法のようなことをうだうだ述べているだけである。藤原清輔が「和歌一字抄」という、一字題の詠み方について書いているのに対して、「池水半氷」のような長い具体的な題をどう詠むか。題のすべてを詠み込むのでなく全部あるいは一部を連想させるようにするとか。初句や上三句にすべての題を詠み込むのは良くないとか。そんな技巧上の話をしていて、為家の趣味や嗜好とは直接関係ないように思えるが、
からにしき 秋のかたみを たちかへて 春はかすみの ころもでのもり
これは「すべて歌がらもこひねがはず、衣手の森をしいださんと作りたる歌なり」と手厳しい。誰の歌かと調べてみると、明日香井雅経。父定家の親友である(雅経は一時鎌倉に住んだので、源頼家、実朝とも親しい。実朝と定家に交流があるのも雅経のおかげである)。定家と雅経は歌風も近い。どちらかと言えばなんかもやっとした、作った歌を詠む人である。これはやはり遠回しに定家を批判していると言えないだろうか。これに対して次の二首
春がすみ かすみていにし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に
これは古今集に出る詠み人知らず。
ほととぎす 鳴く五月雨に 植ゑし田を 雁がね寒み 秋ぞ暮れぬる
こちらは新古今に載る善滋為政の歌。これら二つは雅経の歌と同様に春と秋を一つの歌に詠み込んでいるが、雅経の歌ほどはわざとらしくないから良い、などと言っている。まあそう言われればそうかもしれない。
善滋為政はよくわからん人だが、幸田露伴連環記によれば、善滋は「かも」と訓み、文章博士・陰陽師の賀茂氏で、父賀茂忠行はおよそ醍醐・村上天皇の頃の人、兄慶滋保胤はこれも名字は「かも」と訓むらしく、道長の頃の人。為政の歌は拾遺集に初出だから、やはり道長よりかすこし前の人ではなかろうか。このあたりの時代背景を調べ出すと切りがないな。
中宮の内におはしましける時、月のあかき夜うたよみ侍りける 善滋為政
九重の 内だにあかき 月影に あれたるやどを 思ひこそやれ
宮中ですらこんなに月が明るい夜は、粗末な我が家などはさらに明かりが漏って明るいですよ、というかなりふざけた歌。
「泉」という題で「木の下水」、鹿を「すがる」、草を「さいたつま」、萩を「鹿鳴草」、蛍を「夏虫」などとわざと変名で詠むのは良くないと。なるほどまったくそのとおり。
名所の地名を詠み込むときには必ず有名な地名にしなさい、ただし、旅で実景を詠む場合にはそれほどこだわる必要は無い。これも素直に同意できる。
百首など定数の歌合で最初のとっかかりとなる歌を「地歌」というらしい。歌合の歌はその場の即興で詠むべきものであり、たとえ秀歌であってもあらかじめ用意しておいてはいけない(どうしても場の雰囲気とは違う内容になってしまうからだろう)が、地歌だけはその性格上、先に詠んでおかなくてはならない。後拾遺の能因の歌
ほととぎす 来鳴かぬよひの しるからば 寝る夜も一夜 あらましものを
このようなものが地歌だという。確かに歌合の即興というよりは巧んだ歌な感じだ。
やはり為家はわざとらしく作った歌が嫌いである。雅経や定家の歌風を嫌っていたはずである。そして小倉百人一首は定家の原型を為家が完成させたというのもなんか違う気がしてきた。小倉百人一首はあきらかに為家の趣味ではない(かといって定家の趣味でもない)。
為家が選んだ「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の傾向を見ればもっとはっきりしてくるはずだ。それでなんとなくだが、小倉百人一首は定家・為家の二代で完成したのではなく、もう少し後の世に、つまり為氏・為世の時代に、なんとなくもやっと成立したのではないかと言う気がする。