光琳と宗達

岡本太郎は尾形光琳を非常に愛好していて、その理由をいろいろと自ら解説しようとしているのだが、それを読んでもいっこうによくわからない。岡本太郎が個人的に光琳を好きなのは、別に趣味なのでかまわないのだが、それを一般化しようとして、光琳以外の画家やら江戸時代の文化芸術をゆがめて解釈しようとするのは、非常に迷惑で、ちょっと許しがたい気がする。はっきり言って、少なくとも私には、その論理がまったく意味不明なのである。はたして世の中にわかっている人はいるのだろうか?

じじつ、光琳があの絢爛で、心にくいまで力づよい仕事をつくりあげた世界は、元禄年間、日本の近世文化がもっともはなやかに開花した時代です。

これがよくわからない。元禄文化。実際、言論人の中では元禄を褒めて江戸後期の文化をけなす人が一定数いる(渡部昇一などがそれに近いと思う)。元禄文化の代表としてそれらの人々が挙げるのはたいてい井原西鶴と尾形光琳。江戸時代というものは、平安時代から続いて安土桃山で開花し、江戸初期の元禄で最も発展した。その後鎖国の影響で、封建社会の世の中で芸術も文化もいびつに歪んでいき、あきらめ、わび、さび、など、しぶくくすんだ文化がはびこった、というのである。そうした主張をする文化人はたいてい明治維新によって日本が世界に開かれたことによって、日本の文化や芸術は再び活気を取り戻したのだと言いたい人たちが多い。

そうなのだろうか。たぶん、安土桃山というのは、信長が築いた安土城とか千利休の金の茶室とか、そういうイメージで、そういう金ぴかなものが元禄の頃までは続いていた。しかし江戸城の天守閣も焼け落ちて以後再建されなかった。なんかダセーな。そんな感じだろうか。

わび、さびなどは鎌倉時代から顕著になり、おもに仏教の影響で、安土桃山時代に最高潮に達した。元禄は江戸文化の中では非常に初期的で、ナイーブで、未発達なものだった。日光東照宮に代表されるように、安土桃山元禄は、ありとあらゆるものをごちゃまぜにして、兜に鹿のツノをはやしたり虎革のパンツをはいたり、やたらと金箔を貼ったり金の茶釜を作ったようなゲテモノ文化が流行った時代であった。

時代劇にしてもそうで、戦国時代は派手で、江戸時代は地味だ。そんなイメージだろうか。

幕府や士族階級による締め付け、鎖国による閉塞感というものは確かに江戸時代を通じてあったけれども、町人文化がそれを押しのけてあまりあった。また学術的な考証がきちんと積み重ねられていき、古いものと新しいもの、外来のものと日本古来のもの、儒教と仏教と道教と神道の違いなどがだんだんと整理されていった。

江戸初期の神道というものは、太宰春台が「今の世に神道と申候は、仏法に儒者の道を加入して建立したる物」などと評したような、実に情けないものだったが、太宰春台の師である荻生徂徠が始めた古文辞学を取り入れて、本居宣長らが神道に混入していた仏教や儒教の成分をより分けて、より近世的な、洗練された神道を作っていった。

明治になると江戸時代(というより徳川幕府)はなんでもダメだと決めつける薩長のプロパガンダが世論を圧倒し、戦後になっても江戸時代の名誉回復はまったく不十分だった。

ともあれ、岡本太郎らがいうような、元禄時代が日本の近世文化が最も開花した時代である、という主張はまったく受け入れがたい。私は天保が最も爛熟しその絶頂であったと思うし、それ以降幕末まで、江戸時代は非常に文化的に豊かな時代だったと思う。元禄を初ガツオだとすれば天保は戻りガツオ。そのくらいに脂ののり方がまったく違う。江戸時代もそれぞれの時期に良さがあり、どこが良いなどということは、そう簡単には言えないはずだが、岡本太郎は乱暴にも、元禄以降をばっさりと切り捨ててしまう。非常に困った人だ。

さらに岡本太郎は俵屋宗達と尾形光琳を比較して光琳のほうが優れているということを証明しようとするのだが、これもよくわからん。

光琳の重厚絢爛で威圧的な気配が、教養ある趣味人には、ほんとうには好かれていない。

宗達には今までの日本の教養人に、何か情的にふれてくるきずながある

これにたいして、同じく典型的な日本人でありながら、光琳はそれとまったく異質な非常な世界を現出させます。

はっきり言って私には岡本太郎が何をいいたいのかさっぱりわからない。教養ある趣味人とか日本の教養人とは誰のことか。典型的な日本人とは誰のことか。光琳や宗達は典型的な日本人なのか。では江戸後期の日本人は典型的な日本人ではないのか。わけがわからない。思うに宗達の絵は伝統を踏まえていて、昔っぽくて、新鮮味が足りないけど、光琳は金ぴか感がすげーあって、派手で斬新でカッコイイと言いたいのか。

宗達というのはつまりあの風神雷神図のようなものをいうのだろう。光琳というのは燕子花図や紅白梅図屏風のようなものをいうのだろう。はっきりいって私にはどっちもどっちとしか思えない。ああいう絵が良いとはまったく思っていない。悪いとも思わないが、私にはなんの面白味もない。檀家がたくさんいて金持ちな京都の寺の金屏風くらいにしか思えない。風神雷神の、ああいうぶさいくな、おなかがぶよぶよな醜悪な絵柄はむしろあまり見たくないとすら思う。私なら歌川国芳の相馬の古内裏のような錦絵や、谷文晁の南画のほうがずっと面白い。どっちが良いというのは趣味にすぎないが、あの時代はよかったがこの時代は悪いとなにか芸術理論のごときものを語りたいのであれば、もうちょっと勉強して理論武装するべきではなかろうか。

江戸時代は260年間もあって、明治維新から現在までおよそ150年だから、それより100年も長いわけである。昔は時代の進化が遅かったから時間が長くても大したことはなかった、退屈な、空疎な時代だったと今の人は思っている。まずそこから間違っている。さらにその前の室町時代もなんと240年間もあった。これも明治維新から今までよりずっと長い。長いけど何があったかよくわからんから、現代人は、ただ時間が長いだけで大したことは何もなかった時代だと思い込もうとする。そんなことはない。ちゃんと見ていくと江戸時代も室町時代も長いだけではなくものすごく濃密な時代だった。しかしそれをちゃんと理解しようとするとおそろしく手間ひまがかかるから、今の人たちは坂本龍馬が活躍して日本は文明開化した、それまでは封建時代でいびつに歪んで文化も停滞していた、というごく単純化された歴史モデルで理解したことにしたいのだ。なぜそうなるかといえば、要するにちゃんと調べるのがめんどくさいからだ。坂本龍馬は歴史を極限まで簡略化して何も考えなくて済む(わかった気分になって自分を納得させられる)ようにする便利なツールなのだ。無理解と無関心。岡本太郎の態度もまったくそれと同じだ。

神宮外苑の銀杏並木を切るなという人たちがいる。あんなものはせいぜい、関東大震災以後わずか100年の伝統しかない。戦後日本人は江戸城の堀を埋めたり上に高速道路を通したりして台無しにしてしまった。隅田川添いにも自動車道路を通して景観を台無しにしてしまった。400年の歴史がある江戸の風情をぶち壊しておきながらせいぜい100年の銀杏を守ろうとするとは。ばかげていて話にもならない。要するにみんな歴史なんてどうでもよくて、今目に見えている景色を守ればよいとか、今常識として信じられていることを信じたいだけなのである。戦後80年。ちっぽけな時代だよ。今自分が生きている時代だけが正しく、過去は間違っているという考え方自体が間違っている。

今の私たちは封建という言葉に対してだいぶものわかりがよくなってきている。客観的で正確な歴史的認識を持っている。それは日本においては古代の大和朝廷による中央集権的な国家体制が瓦解し、これに代わって中世から近世に至る地方分権的な武家政権のことを言うし、ヨーロッパの中世社会と非常に類似した社会であった。しかるに敗戦後のいわゆる戦後民主主義の一時期においては、ナチズムやファシズム、家父長制や男尊女卑などと同様な絶対悪のイメージで、封建的とか封建制とか封建主義とか封建時代という言葉が使われていた。岡本太郎もまたそのドストライクな意味で封建という言葉を使っており、戦前の旧勢力を攻撃するための便利なレッテル貼り、革新の自己肯定的免罪符として、当時この言葉をそういうニュアンスで使っていた人々の中の一人であったといえる。

レンブラントとゴッホ

相変わらず岡本太郎を読んでいるのだが、彼が友人とアムステルダムで開催された大ゴッホ展を見に行ったときの記事に次のように書かれている。

博覧会場を出てから友人に案内されるままに王立美術館を訪れた。オランダの最も誇りとする画家、レンブラントの傑作の数々が展示されていた。そこで私は「夜警」を見た。

レンブラントとゴッホは同じ国の人間だ。が、まったく正反対の極に運命づけられている。一方は過剰と思われるくらい確信にみち、冷ややかである。一方は熱く燃えながら、すべてから拒否され、絶望し、自ら命を絶った。

同行の友人はゴッホの絵を見ているときよりもはるかに真剣に、「レンブラント」の前に直立したまま動かない。確かに、そのスケール、巧みさは圧倒的だ。しかし、私はとまどった。いったい、このどこに私は入り込めるのか。どこにも、本当に私の魂をうってくるものがないのだ。このような美術史の典型的な大傑作。感動しなければならない条件はすべて揃っているのに、空しい。

それよりも、いま私の胸にこたえているのは、先ほど見てきたあの「じゃがいも」、あのまったく下手くそな、そして惨めな「じゃがいも」なのだ。その方が私の精神、身体全体にのしかかってきている。

とまあこんな感じである。これを読んで私はやはり、岡本太郎に見えているものと、私に見えているものはまったく違うんだなあってことを確信した。

私も実はアムステルダムの王立美術館に行ったことがある。同僚と二人、ポーランドで開かれる国際会議に向かう途中オランダのスキポール空港にトランジットで降りた。一泊したか、その日に移動したかはよく覚えていないが、あまり時間はなかった。同僚はアンネの部屋に行きたがり、私はゴッホ美術館と王立美術館に行きたかったので別行動をとった。

ゴッホ美術館にはまさしく本物のあのひまわりがあり、さらに驚いたことにはあの本物の烏の居る麦畑まで展示されていた。すべてがほんものだった。それで私は感動したにはしたのだけど、ゴッホの絵というものはすでに何かの画集のようなもので見たことがあるものばかりだったから、実物を見たからと言ってそれほど私はすごいなとは思わなかった。実物だから伝わってくる何か、というものは、ある種の絵にはあるのかもしれないが、私にとってはどうでもよかったらしい。

王立美術館では例の夜警の部屋も通った。いったん通り過ぎて、待てよ、今の部屋はなんだったんだろうと引き返したら、一部屋まるごとあの有名な夜警が展示されていた、というような出会いであったと思う。とにかく扱われ方がすごかった。こりゃすごいなと思ったけど、あまり事前知識がなくて見たので、なんだかやたらとたくさん人が描かれた絵だなと思ったが、細部まで眺めることはなかった。ああいう権威主義的な展示の仕方をするから何度も傷つけられるのだろう。かわいそうな絵だともいえる。

王立美術館で私が一番印象的だったというかびっくりしたのは、レンブラントの自画像だった。それはとても小さな手のひらサイズの絵で、しかし何か異様な感じがしたので近づいてみたら傍らに張られたプレートにレンブラントの名があったのである。そう、最初の印象はちっぽけな何か薄気味の悪い絵というだけだった。ゴヤに我が子を食らうサトゥルヌスという作品があるがあんな雰囲気。そしてあのレンブラントがこんなちっぽけな気持ち悪い絵を描くのかというのがなおさらに衝撃的であった。また、その展示方法があまりにもそっけなくてそれにもびっくりした。いろんな名画が並んでいる中にわざとそんなふうに展示してあるのか。わからない。

油絵で肖像画やら自画像を描いたことがある人ならわかると思うが普通はこういう肖像画は描かない。光は真横か少し後ろから当たっていて顔の半分は暗く、目はくぼんでうつろで、まるで黒い穴が開いたように描かれている。髪の毛はもじゃもじゃの天然パーマ。

レンブラントはなぜこんな絵を描いたのか。非常に不思議だった。あまりにも印象的だったので私はわざわざ売店でその絵の絵ハガキを買った。何度も眺めてみて、まさしくこれが光と影の画家、レンブラントの絵なのだろうと納得することにした。

今調べてみるとその絵は彼が23才の頃、つまり、絵の修行をして、やっと世の中に認められた頃に描いたものらしい。自画像というのものは、自分をモデルにしているから、いつでも好きな時に描きたいだけ描ける。絵の練習にはちょうど良い。絵の中で一番難しいのは人物の、それも顔を描いた絵なんだけど、レンブラントは自画像をたくさん描いている。年をとってからの自画像は醜く太っている。なんでこんなものを描いたのかやはりよくわからない。

他人に依頼され金をもらって描く肖像画と違って自画像を描くときにはある種の葛藤がある。どうしても実際よりかっこよく描きたいと 思ってしまい、逆に謙遜にかっこ悪く描いてしまったりする。自分自身との対話なのである。

自画像は当然、誰かに売るために描いたものでもない。だから描きたいように描きたいものを、人物画の練習として描いたものに違いない。さらにうがって考えてみれば、モデルがいる肖像画を描くときには前から光を当てて描くに決まっている。後ろから光が当たった時顔はどういうふうに見えるか、どういうふうに描けばよいか、それをテストするためわざわざ自分をモデルにして練習したのかもしれない。絵の中にモブ(ザコキャラ)を描きこむときその人物には逆光で光が当たっていることはしばしばあるわけだから。

そうした絵をいくつもいくつも描いて、練習して、絵の注文が来たら、夜警のような、集合写真みたいな絵を描くわけである。つまり、夜警はレンブラントの画業をまとめて応用した集大成であって、人に売るために描いたものであり、人に気に入られるように描いたものだ。一方でこの、23才で描いた自画像というものは、描きたいものを描いた、というより、自分は何を描こうか、何が描けるのかを試している絵なのである。もちろん自画像だから、そこには自分の内面も表現されているかもしれない。

それで話は岡本太郎に戻るが、岡本太郎はレンブラントというか、古典絵画というものをまったく理解していないし、理解する気も勉強する気もないようにみえる。おそらくこの認識でまず間違ってはいないと思う。これは非常に困ったことではなかろうか。レンブラントがわかってないということはゴッホのことも実はわかってないのではないかという疑いもわいてくる。

私は大学受験の時に大阪万博跡地を訪れて太陽の塔を見た。よく覚えていないが感動したと思う。更地になった芝生に残されている太陽の塔。そこにExpo70の熱狂を見た気がした。しかし同時に、だからなんなのだ、ただでかいだけではないかという気がした、ような気がする。私はむしろ民俗博物館のほうに新鮮な感動を覚えたことを記憶している。

この太陽の塔こそはレンブラントの夜警ではないか。功成り名を遂げて、注文されて作った。美術史の典型的な大傑作。感動しなければならない条件はすべて揃っている。しかし空しい。このどこに私は入り込めるのか。どこにも、本当に私の魂をうってくるものがない。それらの言葉が皮肉にもそのままそっくり当てはまるような気がしてならない。

さきほど手のひらサイズと描いたが、実際の大きさは h 22,6cm × b 18,7cm であるらしい。レンブラントは同時期に同じようなモチーフの自画像を少なくともあと二つ描いている。どれも良く似ている。

ホーローにクリームクレンザーを塗ってみる

ガスコンロの上面が安物のホーローコーティングなんだけど、毎回洗うのもめんどう、たまに洗うと焦げ付いてるからクリームクレンザーで磨いているが、だんだんホーローが削れて傷がついてきてよろしくない。

それで最初から、吹きこぼれして焦げ付きやすそうなあたりにクリームクレンザーを塗ってみることにした。

クリームクレンザーは乾くとアルミニウム(カルシウムorシリコン?)の粉に戻るだけのはずだし、琺瑯はガラス質だし、特に問題はないとおもうんだがどうだろう。汚れてきたら塗っておいたクリームクレンザーごと洗い流せばよい。

岡本太郎と岸田劉生

岡本太郎と岸田劉生はどちらも画家であり、芸術家であって、同時に文人でもある。私はまず青空文庫などで岸田劉生を見かけて面白いと思い、岸田劉生全集を買った。買ってしまうと積読になりがちなのだが、実際今はそれほど読んではいない。

そうしたところで、ある人から、岸田劉生ばかりではない、岡本太郎もずいぶんたくさん本を書いているよということを聞いた。そこで私は、岸田劉生を読むからには岡本太郎も読んで比較せねばなるまいと思った。岡本太郎の本は図書館にいけばいくらでも借りることができるし自分で買うこともできる。一方、岸田劉生全集はめったにない(岩波文庫にもあるが全集には程遠い)。ある図書館にはあるが、非常に珍しい。珍本の類といってよい。つまり岸田劉生を読む人は岡本太郎の読者よりも圧倒的に少なく、それゆえ、岸田劉生を理解する人もほとんどいない状況である、と言える。

それで岡本太郎の書いたものを片っ端から読んでいるのだが、たとえば、日本庭園というものは、自然そのものではなく、人工物でもなく、その中間的な、その多くはどっちつかずであいまいな、安易な姿勢をとっている。それが日本の伝統芸術全般に言えることであって、口惜しい、などと言っている。岡本太郎は、日本のいろんな古刹や庭園を見て回って、日本の伝統芸術というものを、ときに褒めつつ、ときにけなしつつ、全般的には、戦後民主主義社会に顕著な、戦前や維新以前のものを否定して、現代を肯定する方向へ、どうしてももっていこうとする。結論ありきな展開が透けてみえる。

実を言えば、岡本太郎自身が、彼が自ら言うように、極めて、中間的な、その多くはどっちつかずであいまいな、安易な人なのだ。彼が日本の古典に対して言うことはいつもふらふらしていて、結局何が言いたいのかはっきりしない。つまり、よくわかっていないのだ。自分には良いか悪いか判断する知識が、あるいは判断力そのものが足りません。わかりませんといえば済む話だと思うのだが。たぶん彼は出版社やら新聞社やらに連れ回されて日本の寺社を隈なく見て回らされたのだと思う。そして何か書けと言われた。原稿料ももらった。だから書いたけど、結局見れば見るほど彼はわからなくなっていったのではないか。そうした迷いで書いたものを編集者らはそのまんま出版してしまった。何しろ岡本太郎本人が書いたものを出せば売れる。商品価値があるから出してしまった。同じことは白洲正子にも言える。

今日の日本芸術論はたいていこの岡本太郎の言うことの焼き直しばかりだと言える。

日本の古典美術を礼賛する人は必ずしも日本の古典の真の価値、真の意味を「発見」してはおらず、たいていそれは戦前の保守的国粋的な価値観を蒸し返しただけの迷惑なものだ(いわゆるネトウヨの主張はたいていその程度のものだ)。人は往々にしてそれら戦前の遺物を叩いて満足し、それ以上古典というものを自分の目で精査しようとはしない(人は自分が生まれた時代の新たな方法論で古典を再評価し、客観的に見て明らかに間違った定説を破棄する義務がある)。彼らはつまり記号化された保守、記号化された国粋主義を批判しているのであり、そもそも何を保守すべきで、何を捨てるべきかという選別をしていない。旧家が老朽化し取り壊すことになった。蔵の中にしまわれたものを日の当たる場所に並べて一つ一つ鑑定し直すこともなく、まるごと解体屋に壊してもらい更地にしてしまったという発想となんら変わりない。

逆に、これもよくあることだが、旧家は何がなんでも保全しなきゃならんと、民間でできなきゃ国や地方自治体が予算を組んで保守しなきゃならんと言う人たちもいて、彼らもやはり、保守するならするで保守する価値のあるものはなにかを一から鑑定し直す、修復しなおす、などという手間をかけようとは、普通はしないのである。ただ古いからもったいないと思っているだけだ。

戦後雨後の筍的に生えてきた革新的評論家に比べれば岡本太郎はより勉強しているし古典に対して理解があり、同情的であると言えるが、彼が生まれ育った環境からは、日本の過去が、歴史が、伝統が、古典というものがあまり見えてはいないようだ。世の中のすべてのことを見知る機会を得られる人などいない。岡倉天心だってたまたま開港したばかりの横浜に生まれ育ったからああいう人になったに過ぎない。岡本太郎と岡倉天心はそういう意味でよく似た人だと言える。

だからそこで、岸田劉生や夢野久作、夏目漱石や芥川龍之介などといった、ほんものの古典理解者との差がでてきてしまう。今世間で保守主義とか国粋的と言われている人々のほとんどは芥川龍之介程度の「革新」かぶれの「若造」ほども古典を理解してはいない。

それで岡本太郎が世界に名の知れた芸術家であるから私は彼の書いたものを読んでいるが、彼がそれほどの名声を得ていなければ私は彼が書いたものをわざわざ読むことはなかったと思う。つまり私は世の中で芸術家と呼ばれる人が書いたものを参考までに読んでいるのに過ぎない。

しかし岸田劉生は違う。彼がまったく名の知られていない画家であっても、私は彼が書いた本を読むだろう。なぜかといえば彼が書いたものは読んで面白いからだ。

人々が装飾的だと思う光琳こうりんなどは僕の目には本当の装飾の感じをうけない。形式がいやに目について装飾の感じは来ない。装飾の感じは線や何かが有機的に生かし合っている、そして如何にも精神を以てこの世界を飾るという感じがする。ウィリアム・ブレークやシャバンヌなども装飾的だ。ブレークの描く人間の形は布局の線のための形だ。その表情から来る想像の力をぬかせば。
 こういう内容の一部を生かすのには日本画法はよい手法である。花鳥でもいい人物でもいい風景もよかろう。写実に行かずとも充分に内からく美で形を与える事の出来る内容(即ち内なる美)を取る人が執るとあの資料はたしかに世界に特殊な美を生んでくれると思う、昔の日本画にはそういうものがわりに沢山ある、いろいろの程度で。

どうかな。難解、とか、衒学的、というより、理解するのに非常に時間を要する、つまり、一つの文章がもつ情報量が圧倒的に多い。岡本太郎は絶対こういう文章はかかない。

岸田劉生は、尾形光琳の絵は装飾というよりは形式だ、記号だと言っているように見える。劉生にとって装飾とは人間の想像の華である。美術とは世界の装飾にある。美は外界にはないく人間の心の
うち
にある。しかし光琳の絵は世界の装飾というよりは単なる形式に近い、と言いたいのだろうと思うが、合ってるだろうか。そして岡本太郎が光琳の絵に惹かれたのはおそらくそこに、縄文の土偶や弥生の埴輪や、アフリカの原始美術にみるような意匠性、社会的な記号性を見たからではないか。劉生の言う形式とはつまり、商店街に掲げられる看板のような、菓子箱のパッケージデザインのような、様式化された、外面的なものをいうのではなかろうか。一方で装飾とは、写実から外れた誇張表現、叙情的な、緊張や恐怖など内面の表現のことを言うのではないか。つまり世間でデザインとアートを分けていうようなものが、形式(様式)と装飾の違いではなかろうか。

多くの古典批判や古典礼賛に共通しているのは情報量がゼロだということ。ただ宣伝したりけなしたりしているだけで、読んでも何も得るものがない。それらは方向性が違うだけでどちらも同じものだ。

結局私は岸田劉生が良い作家であることを再確認するために彼の同業者である岡本太郎を参考にしたというわけだ。もちろん文芸だけでなく芸術についても興味はあるのだが。

創作活動の孤独

ふつう、人は、今の自分のために創作をして、今の人に自分の作品を見てもらって、同じ趣味の者どうし集まって、交流して、楽しみを分かち合う。それが普通の人たちにとっての創作活動というものであって、中学高校、あるいは大学のサークル活動と大きな違いはない。

だが、私は違う。もちろん私は自分のため、人のために創作しているけれども、それは今の私でもなく今の人々のためでもない。今の世の中の人々が私の作品の価値を理解できるとは思っていないし、まして、共感することで作品の価値が変わるとも思っていない。他人を超えるため、他人にできない、私にしかできない仕事を後世に残すためにわざわざ時間をかけて創作しているのだから、サークルの仲間たちと同じレベルの活動をしても無意味だと思っている。だからコミケに出品したりなどという、いわゆる同人活動というものを私はまったくやっていない。そういうものも創作活動のうちだろうし、そこから新しいものが生まれてくることもあるだろうし、そうしたものに意味がないとは思わないが、他人はともかく私はそうしたやり方を取るつもりはない。若いころならば、友人を作ったり、そうしたことをきっかけに、新しい方向性が開けたりしたかもしれないが、年をとったいま、もうそういうことはしない。

つまり私にとって創作活動とは自分が死んだ後のためにやっている。終活というやつだ。死んだ後にこの世に私が生きていた痕跡を残すためにやっている。

そこのところが人と私と大きく違っていることを最近ひしひし実感する。

もちろん私を理解してくれる人が現世で現れてくれたほうが現れないよりはずっと良いのだが、そうした人を探したり、人に私を理解してもらうために労力を費やすこと、あるいは、私の作品に価値があるかわからない人のために金を使って宣伝をすること、そんなことをやりたいとは思わないのだ。

私がやっているような、そうした孤独な創作活動を行ってきた人は今までにもいたはずだ。しかし彼らは圧倒的多数の人たちには理解されないから、存在を認識されていないだけだと思う。

メンタルは死んでいく

生きているのがめんどくさいに書いたことの繰り返しになるが、ベトナム帰還兵や外人部隊の傭兵が、平和な日常に耐え切れなくてまた戦場に戻っていくというのもやはり脳内麻薬依存であろう。メンヘラとか鬱病とかもなんかの病気というよりは単なる脳内アルカロイドに依存しているせい、デブとか恋愛とか失恋とか仕事のやる気とかそういうのも全部脳内麻薬のなせるわざなのに違いあるまい。

年寄にとって日常がつまんないというのは若い頃ほど何かに熱中できなくなったからだ。あれもこれも、すでにやったことがあることばかりでやったらどのくらい面白いか、好奇心が刺激されるかということもやる前にだいたいわかってしまうし、体力も気力もおちてきているので疲れてしまうからやらない。それでもなんとか今までまだやったことのないことを必死になって探して、あるいは無理やり見つけて没頭してみても、そもいつかは一段落して、飽きて、普通の日常が戻ってくると、よけいに深い喪失感が待っていて、どんどんエスカレートしていって、簡単には楽しめなくなってくる。

つまり年寄は、何もすることがなくなって、死ぬべくして死ぬのだと思う。

昔はいくらでも金の使い道はあるような気がした。今は別に何もない。まず食い物、酒に金をかけたいという気がなくなった。車や服にはもともと関心がなかったし、時計も一時期興味はあったがいまじゃチプカシで十分だと思ってるし、旅行もユーチューブみてたらすでにおなか一杯だし、著作活動もやりたいことはたいていやったし、とにかくやりたいことがない。SNSで匿名でインプレゾンビとかやっている人は何が楽しくてやっているのだろうか。まだ若い人なのか。それとも人によっては年老いて死ぬまでそんなことに夢中になれるものなのだろうか。仕事にはもうすでにまったく興味をうしなった。旧領をもらえなくなるのは困るから働いているが、働かなくても生きていけるのであればすぐにでもやめたい。

しかし最近はみんなブログを書かなくなった。ちょっと気の利いた人は youtubeで動画配信する。twitterでちょこっと発言はしてもブログでまとまった記事は書かなくなった。結局自分が昔書いた記事を読んでいるほうが間が持つ。ついでに手直ししたりアイキャッチ画像を付けたりしている。昔はビデオゲームをやってたらあっという間に時間が経ったものだが今はそれも飽きてやらない。自分のブログ読んでるほうがずっとはかどる。

大和言葉と漢語は普通は混ざらない

大和言葉だけで和歌を詠むのは難しいのではないか、大和言葉だけでは語彙が足りない、表現の幅が狭いので、口語や英語などを混ぜて詠まないと詠めないのではないか、と考える人がいるかもしれない。私も最初和歌を詠み始めたころはそうだった。

私の場合最初は、九州弁と東京弁がまざったような変なしゃべり方をしていたが、やがて普通に東京弁でしゃべるようになり、九州弁は忘れてしまった。しかし九州に帰って周りがみんな九州弁をしゃべっているといつの間にか九州弁でしゃべっている。

英語でしゃべるのも同じで、日本語と英語をごちゃまぜにしゃべるほうが実は難しく、英語をしゃべっているときは人は英語の脳になっているし、日本語をしゃべるときには日本語の脳になっているはずだ。日本語と英語とドイツ語がしゃべれる人がいてもその三つの言語をまぜこぜにしゃべる人はいない。普通は。

和歌もそうで、大和言葉だけで詠むと決めて詠んでいるうちに、口語や漢語なんかは自然と混ざらなくなるはずだ。そのうち漢語を混ぜようと思っても簡単には混ざらなくなる。

語学としてみれば当たり前のことなんだが、和歌もまた一種の語学であり、大和言葉もまた一種の語学のはずなのだが、今の世の中、大和言葉だけでものを読んだり、会話したり、和歌を詠む人がまったくいないので、それがわからなくなってしまっている。

平家物語は和漢混交文ではないかというかもしれないが、あれはあれで一つの特殊な文体なのであって、平家物語の文体を真似てものを書いたりしゃべったりすることはできなくはないかもしれないが、そうではなく、完全にオリジナルに、一から和文と漢文を混ぜてしゃべりなさいと言われても、普通の人がいきなりしゃべれるようになるはずがない。

そもそも大和言葉のすべてが和歌に使われるわけではない。そんなことは誰にもできない。大和言葉のうちから少しずつ、だんだんに歌に使われる歌語というものができていく。詩語というものができていくのである。それは現代短歌でも同じはずだ。口語をそのまま歌にできるわけではない。みんな誰かほかのひとがすでに詠んだ歌から影響を受けて歌を詠んでいる。一から歌が詠めるわけではない。一から歌を詠めるのは天才しかいない。

みんな自由に口語で歌を詠んでいるというのは錯覚にすぎない。

PC環境

近頃仕事場ではPCを同時に3台使っている。このうち2台は古いPCが余ったのでubuntuを入れていて、実際の仕事は win11のPCでやっていて、こいつには2台ディスプレイがついている。

ubuntuの2台はどちらもファイルサーバーとかwebサーバーを兼ねている。また片方は主にyoutubeを垂れ流すためだけに使っていて、もう一台のほうは仕事の合間に適当にネット巡回したりブログ書いたりするのに使っている。

win11のほうは、youtube用に動画をキャプチャしなきゃならんので16:9 つまり 1920×1080 のディスプレイでなくてはならず、補助のポータブルディスプレイもつけている、という構成。

microsoft windows とか office とは不本意ながら定年退職後も付き合わねばならぬ。ほかにも da vinci resolve とか steam のゲームなんかは win でやるしかない。しかしながらできれば仕事から離れたら ubuntu をメインで使いたい。

in out pv

ブログ村をみると in ポイントはいつも 0 か 10 だ。つまりこのブログからブログ村へ見に行くユーザーは私一人しかいないということだ。

最近 out ポイントが割とついている。pv はそれより少ない(追記: pv が out よりちょっと多い傾向がある。いずれにしてもだいたい同じくらい。たぶん pv は自分でブログ記事をあちこちうろうろしている分なのだろう)。

ということは、ブログ村で、いろんなブログを流しでみていくような人に読者登録されたのかもしれない。pv は google 検索かなにかでたまたま来たアクセスなんかだと思うが、これも私のサイトは相変わらず少ない。世間にほとんど注目されてない普通のサイトということだな。いまところ。

私は人のついででブログ村を使っているだけなので、ブログ村へのアクセスを増やそうという気もないのだが、普通、ブログ村を使っている人は、人に自分のブログを見てもらいたいわけで、ブログ村に誘導して順位を上げたいと思っている、つまり inポイントをそれなりに重視しているはずだ。

ブログ村のおかげで見に来てくれる人がいるのであれば、私としても多少は貢献してあげないといかん、つまり、ブログ村のアイコンをもう少し目立つようにしなくてはならないのではないか、という気にはなる。

ガワをふやす

人斬り鉤月斎なんだけれども、ほぼ忘れてたので非常に新鮮な気持ちで読めた。これはこれでKDPで出版しておこうと思ったが、このままでは出だしがいかにも読みにくいので、できるだけすっと入っていけるようにかなり加筆したり、順序を入れ替えたりした。こういう加筆が良いのかどうかよくわからんのだが、小説などというものは、身が大きくて衣が薄いエビフライよりは、クリームがみっちりでシューが薄いシュークリームよりは、むしろ中身がすくなくてガワが多いほうがさらりと読みやすいと思う。落語も枕から始める。私の場合いきなり本論から始めたりするが、それじゃだめなんだなと、人に言われてもピンとこないが、自分の旧作を忘れたころに読み返すとそれを実感する。

世の中には逆に中身はないけどさらりと読めて面白い文章を書く人もいるのだろう。それもまた美徳ではあるので見習えるところは見習わなくては。

ついでに初めてKDPのペーパーバックというものに挑戦してみた。手元に置いておいて人に見せるにはちょうど良い媒体かもしれない。750円で売ると450円が印刷代、300円がアマゾンの取り分で、著者には1円も入らないが、別にそれでもよい。751円くらいにしておこうか。

戦後民主主義的テレビドラマ的時代小説を破壊したくて書いたなどと言っていて、ははあ当時はそんなつもりで書いたんだなあと改めて思った。戦前の菊池寛とか、山本周五郎とか、あるいは子母澤寛あたりまでは好きなんだが、吉川英治あたりまでくると、強烈な戦後臭がして嫌なんだよね。それはNHK大河ドラマにも言えることなんだが。戦後のサラリーマン社会から電柱なんかを消してちょんまげのヅラをかぶった感じが嫌だな。そういう現代臭を消し去らなくてはならないと思うんだよね。でも結局彼らは現代のほうが過去より良いと思ってるから、逆に過去へ現代をばんばん投影させて、過去を自分好みに改変してくる。過去がもっとこうなら良かったのにとか、過去はこうだからいけない、今の時代に生きている俺らは幸せだ、戦後民主主義は最高だとか、そんな価値観ばんばんぶっこんでくる。それが嫌味だよな。そう。お説教臭い。何もかもが。

そりゃまあ医療とか福祉なんかは現代のほうが優れているに決まってるんだろうけどさ。

たぶんこれ、KDPが始まる前に新人賞に応募するように書いたものだな。KDPがでてきた頃には忘れててそのまんま放置されてたってことだな。