老後に備えて

老後というのはつまり65才で定年退職することを想定しているのだが、

まず、twitterやfacebook、instagram などのSNSに書き込んだり動画を上げたりするのは極力避けて、基本的に書きたいことがあったらblogに書くようにする。雑記などはtwitterに書いてしまいがちだが、そういうのももうみんなblogに書くようにする。

OSはubuntu、ブラウザはfirefoxをメインにする。

65才以前の自分との関係を断ち切ることはできないから、windowsとかgoogle chromeも使い続けるとは思うが、極力使わない。まして MacOSは使わない。

最近 brave browser も使っていたが、これをわざわざ使う必要性はないかなーと思い始めてきた。edge も普通に要らんやろ。

でまあ、ubuntu, firefox, libre office, そして mozc なんかを使っていくことになるから、脊髄とか延髄を今からこういうほうに慣らしていく。

つまり、今給料をもらって働いている仕事はgoogleアカウントもらってそれで仕事しているから、その仕事はwindowsとchromeに残す。6年半後に定年退職したらそこはまるごと切り離す。切り離せるように、個人の趣味や仕事(bookmarkも含めて)はfirefoxに移し、今から着々と準備していつでも分離できるようにしておく。googleアカウントも仕事用と個人用で混ざらないようにしておく。

まいばすけっとってビンボ臭くて嫌だったが、最近は少し良くなってきた気がする。何しろ安い。特に缶ビール。独り晩酌がかなり安く抑えられる。少なくともマルエツで惣菜買うばかりではないなと思い始めている。オリジン弁当なんかで買うのもありだが、どうしても買いすぎてしまうんだよな。ましかしこうした都会暮らしも定年後はやめてたぶん毎日田舎でマックスバリュになりそうな気がする(笑)。

仕事を辞めたあとどうやって生きていくかってことがまだまるで想像つかない。金が十分にあれば、たぶん田舎と東京(もしくは京都、大阪など)を1ヶ月おきでいったりきたりするような暮らしをするのではないか。田舎に引っ込みきりはさすがに退屈だろ。あとやはり東京にはなんだかんだで行きつけの店などがたくさんあるんだが、田舎でもそういう店ができるかなあ。

でも拠点は田舎にしといたほうが何かと安い気がする。

今の仕事は今すぐ辞めてもなんの悔いもない。仕事が嫌いというよりもう完全に飽きた。私は田舎から出てきて京都で1年浪人し東京に出てきて、最初は神奈川で働いた(しばらく東急沿線暮らしだった)。それから埼玉に転職してしばらく成増あたりに住み、その後また世田谷に越したが、今度は厚木に転職し、神奈川に引っ越して、今は新宿近辺で働いている。わりとあちこち動き回ったほうだと思うが、転職や転勤がなければ死ぬほど人生に退屈していただろうとは思う。今更転勤転職というのも悪くはないが、もう年をとりすぎた。もう楽をしてもよかろう。

65で辞めたとして70くらいまでは金があればマンスリーマンション借りていろんなところを泊まり歩きたい。京都には2、3年住みたいし、大阪にはひやかしで半年くらいは住みたいかな。あとは、博多とか。松坂もちょっと住みたい。栃木とか群馬あたりも少し住みたい。地方転勤族ならそういう暮らしを会社の金でできたのだろう。ちょっとうらやましい。

宗教

人というものはもともと野生種であった。

その人を栽培種に変えて、家畜に変えて、君臨することを覚えたのが王であった。

農業も、そして宗教も、王が他人を民として飼いならすために作ったものだった。

他人を民として飼いならすことができた者が王となった。

したがって宗教というものはもともと王がつくったものだった。祭政一致。古代、王とは国の所有者であると同時に、国教の祭祀長であった。それがホモ・サピエンスという種における、生物学的に天然自然な状態である。ゴリラがハーレムという社会単位を作るのと同じだ。

しかしながら、しだいに民の間から勝手に宗教が生まれ始めた。

中世になると、民の間でうまれた宗教を取捨選択して、採用することによって王は安定を得るようになった。王はもはや勝手に宗教を作ることはできなくなった。ここにおいてついに、王とは別に聖職者が生まれ、聖俗の権威が分かれた。

いや、もともと、宗教は民が作ったものだったのかもしれないが、それをうまく統治の手段としてコントロールできたものが王となったのだったが、王による宗教の独占は次第に難しくなっていった。そのうち王が追放されて寡頭政や貴族政となった。共和国というものがでてきて、ますます宗教は民によってコントロールされるようになり、民というものが意思を持って国を経営し宗教を規定するようにもなった。

そういう太古においては、王による民のリクルート活動というものが国を作り、国が農業や宗教を必要とした、ということを仮定したとして。

キリスト教ができたのも、古い多神教よりも、一神教のキリスト教のほうが国というものを治めやすかったからローマ帝国の国教となった。ギリシャ・ローマの宗教はシリアやエジプト、ペルシャへと連続的につながっている。一方キリスト教は国が一から専売特許にしやすい。教義を国の主導で統一しやすい。家元制にしやすい。宗教的権威を独占しやすい。ローマ皇帝にはそれが魅力だった。後のフランク王国や神聖ローマ帝国、モスクワ大公国でも同じことだ。自然発生的に生まれた多神教は民が勝手に自分の都合が良いようにカスタマイズするので王が制御しにくいのだ。

アショカ王も仏教のほうがバラモン教よりも国を治めやすいから仏教を国境に採用した。仏教は、理由は良くわからないが、明らかに王が中央集権的に民を治めるために都合が良いから流行したものであった。奈良時代の日本を見てもわかる。アホみたいにでかい仏像を作ったり。あほみたいにでかい寺院を作ったり。そうやってエジプトのピラミッドのような役割を鎮護国家のための仏教は果たしていた。鎌倉以降の仏教はまた別として。それはカトリックとプロテスタントの違いにも似ている。

そう。古代の中央集権国家は中世の地方分権の封建制に移行した。そこで、地方分権により適していたプロテスタントがカトリックから分かれた。プロテスタントは日蓮宗や浄土真宗などと同じだ。

インドでは民が仏教を嫌って昔のバラモン教にもどりそれが今のヒンドゥー教になった。

イスラム教は結局、中央集権でも地方分権でもない。そんなものをみんなすっとばして、王国というものの存在を必要としない国家と国民のために、或いは世界市民のために、コスモポリスのために、人類の中で多数派となって影響力を行使することを目的とした宗教といえる。

コスモポリスという考え方が生まれたのは明らかに西アジアである。もっとも古い文明をもつ西アジアにおいて王は生まれ、そしてもっともはやく王は否定されたのだ。すべての宗教は西アジアに生まれ、伝播し、変わっていく。残念ながら西アジアにイスラムに代わる宗教が生まれるきざしは今のところまったくない。人類は今後何百年もイスラム的一神教に支配され呪縛されるだろう。非常に不幸なことだが。人類とはしょせんその程度のものなのだ。

おそらく。類人猿の中でホモ・サピエンスはもっとも、民が王を持ち、王が民を持つことに優れた種なのであろう。そのため他の種を圧倒して滅ぼした。そのために宗教というものが必要になった。神が人を作り、人が王と民に分かれたのではない。すべては逆なのである。神→王の関係を仮定することによって、王→民の関係を説明できる。ただそれだけのために神というバーチャルな存在が仮定されたのである。神→王がバーチャルな関係であるように王→民の関係もバーチャルなものに過ぎない。神の前に人は平等という概念を敷衍することによってコスモポリスはより容易に説明できる。だから神はコスモポリス、世界市民、世界社会のためにも必要とされた。しかしいったん世界社会が完成すればもはや神の存在を仮定する必要もない。王が民に捨てられたように、そのうち神は人に捨てられる運命にある。

禁煙居酒屋

google maps には居酒屋が禁煙かどうかの記載が無い。

食べログにはあるにはあるのだが、「2020年4月1日より受動喫煙対策に関する法律(改正健康増進法)が施行されており、最新の情報と異なる場合がございますので、ご来店前に店舗にご確認ください。」などと書かれていて要するに禁煙なのかどうかがわからない。

正直店選びにまったく役に立たない。

店が嫌がるからgoogleも積極的にやらないのか。調べりゃすぐわかることだろうに。

一昔前まではみんな好き勝手吸ってた時代があって、その時代に比べれば今ははるかにましだと諦めるしかない。

東京都はわりとまじめにやってるほうだと思う。

能の式楽化

能楽の本を読んでいると、能楽は徳川幕府によって式楽となった、という記述がよくみられる。

式楽というものはもともとは大和朝廷が飛鳥奈良時代に制定した雅楽のことであった。しかし雅楽は朝廷や公家が権威を独占していて、なかなか武家の自由にならない。しかしながら能楽は足利義満以降に室町幕府がパトロンとなって興した芸能であったから、公家にはなんの遠慮も気兼ねもなく、武家が好きにいじりたおすことができた。これはちょうど、和歌というものが公家にその権威を握られていたので、武家は和歌を敬遠し、もっぱら漢詩が流行したのに似ている。

徳川幕府は能楽を、将軍宣下や勅使応接などの公の式典の場において上演される芸能として洗練させなくてはならなかった。それらは上方の寺社などに伝承された舞楽に負けぬほどのおごそかでお上品で、気高く尊いものでなくてはならなかった。見て面白いかどうかなんてことはもうそっちのけにされてしまった。

武家屋敷の屏風絵が狩野派の画家によって描かれるようになったのと同様だ。狩野派というのは要するに足利将軍家の御用絵師になったからあれほど武家で珍重されたのだ。茶道もまた武家由来の儀礼として重宝された。いずれも公家に対抗して武家が権威付けするためにもてはやされたのであり、芸能そのものが優れていたからではない。そんなことはありえない。もし良い芸能を育てたければ民間活力に委ね、政府が助成したりしないほうが良いに決まってる。政府が金を出して良いのは一部のほんとに絶滅危惧種的な伝統芸能くらいであろう。

現代の日本文化は室町、安土桃山時代に作られたとよく言われるが、要するに、それまでの宮中・公家文化を煙たがった徳川幕府が、室町幕府や、秀吉や家康らが愛好した芸能を式楽化して、武家の文化芸能として世の中に定着させた、というに過ぎない。そういう由来であるから、その源流、その権威の厳選が、世阿弥とか千利休のような、室町、安土桃山時代の宗匠に求められるようになった。また評価や選別も幕府がやったのだから、モノの良し悪しがほんとにわかるはずもなかった。

実を言えば和歌もまた、尊氏は和歌が大好きだったが、しかし家康は和歌が大嫌いだったらしく、足利将軍家が興した芸能の中で和歌だけは式楽化の対象から完全に外してしまった。家康が嫌ったというより家光や家綱が和歌になんの興味もなかったせいかもしれない。

江戸時代というものは、室町・安土桃山の人間味や活気を遺した元禄文化が最高潮であって、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、そして尾形光琳らによって代表される。元禄以後、徳川幕府による封建主義や思想・芸術弾圧が強まり、芸能も堅苦しくなっていってダメになってしまった。将軍が食べる料理はすべて脂身が抜け落ちるまで焼いて煮てあってうまくもなんともなかった、能楽もまた、目黒のさんまにあるように、徹底的に脂っ気も内臓も皮も削ぎ落とされて、米も精製した白米しか食べないようになって、そのせいで逆に将軍は脚気やなんかの病気にかかって短命で死んだ。いわゆる江戸病だ。

江戸時代における文化の衰退は幕末まで続いて、維新後、明治時代になってようやく新しい文化芸能が現れた、などと雑に評する現代の評論家たちが言っているのはつまり徳川幕府による武家に由来する文化芸能の式楽化のことだけを見てそう言っているのである。

実際、今の能楽が気絶するほどに退屈なのは徳川幕府による能の統制・形式化のせいにほかならない。義満や、秀吉や、家康らが見ていた能楽があんなつまらなかったはずはないと思うのである。家光・家綱の時代に幕府による能の統制が始まった。つまり能というものが、徳川幕府の専売特許にされてしまった。能もまた、公家文化のような家元制にされてしまった。画家の狩野家や大学頭の林家と同じ扱いを受けたのだ。こうなっては文化芸能は死ぬしかあるまい。

江戸時代には幕府の介入によって安泰化し、栄えているように見えて、実際には衰え死んでいった文化学問芸能がある一方で、庶民の活力によって次第に発展していった分野もあった。歌舞伎、浄瑠璃などもまた元禄に生まれたが、こちらは幕府の統制を受けることなくむしろ弾圧される側となったくらいで、町人文化という新たな、公家や武家と別の第三のカテゴリーを作って発展していった。幕府や武家によらない、町人の社会の中でだんだんと醸成されていった文化は、天保期にはすでに爛熟し、その勢いは幕末、いや、維新後にもずっと継続した。浮世絵から生まれた錦絵などは西洋の印刷術が伝来してなお進化し続けた。今日のマンガやアニメは錦絵の正統な後継者と言って良い。

そして国学もまた、徳川幕府による保護や統制を受けなかったことがむしろおおいに幸いして、驚くべき発展を遂げた。国学がもし官学化されて朱子学と混淆して武家の窮屈な教義になっていたらたいへんなことになっていた。そうなる可能性は、ちょっと頭のおかしな為政者がいたとしたら、実際十分にあったのである。荷田春満は明らかに国学を幕府の官学にしたがっていた。国学をもっと堅苦しい道徳に縛られた学問にしようとしていた形跡がある。賀茂真淵もますらをぶりなどと言ってちょっと怪しかった。田安宗武には実際かなり危険な傾向があったし、宣長の死後にはおかしな神道家や、神道系新興宗教や、明治の国粋主義者たちがワラワラ出てきた。国学はあっという間に偏向した危険思想になりかねないのである(宗教というものはすべてそうだが)。宣長はよく踏みとどまって後世に範を垂れてくれたと思う(宣長にもやり過ぎがあったことは否めないが)。それ以前にも、仏教と儒教と神道を際限なく混同した本地垂迹説や、山崎闇斎の頭のおかしな垂加神道なんかがいくらでもあった。東照宮なんて明らかに頭がおかしいし、あんなものを正統な神道と混同されては迷惑だ。

もちろん徳川宗家は賀茂真淵を重く用いたし、尾張や紀州の徳川家は本居宣長を崇拝すらしていたのだが、武家はやはり、公家のしばりを受けない漢学をどうしても根本教義としないわけにはいかず、下手に国学や和学なんぞに色気を出すわけにはいかず、したがって官学は朱子学のままであったし、朱子学と和学は水と油だから、結局、国学が幕藩体制の皮下組織まで浸透していくことはなかった。江戸時代に哲人政治家と言えたのは新井白石と松平定信の二人しかいなかったが(もう一人、荻生徂徠を加えても良いけれども)、その定信にできたことは、宣長の思想を密かに幕政に採用して、大政委任論を天下に公布したことくらいであった。薩長が国学を武器にして尊皇攘夷、倒幕の原動力としたのは必然と言えた。薩長は定信の大政委任論を大政奉還論に読み替えたのだったが、これとても徳川慶喜は反対したわけではなく、むしろ積極的に公武合体論の一部に組み込んで推進しようとしたのである。

和歌は国学によって再構築された。もし和歌が単に公家の専有物であったら、和歌は江戸時代に死滅していたに違いない。和歌とは別に町人は狂歌を愛好した。国学と狂歌の流行が合わさって、和歌は息を吹き返し、純化した。その最高峰はやはり香川景樹であったと言わねばならない。景樹によって何をもって「和歌の理想」とすべきかということが、やっとほのかに見えかかってきた。和歌には時代を超越した大和言葉という言語の普遍性(古典語、文語としての厳格さ、完成度)と、大和言葉によって表現されるポエジー(本来、話し言葉がもつところの叙情性、人間性、あるいは芸術性とでもいおうか)が必要なのである。

ところが、景樹の後継者、桂園派には二度と影響力のある歌人は現れなかったし、歌論の体系化も進まなかった。桂園派の歌人として最後の光輝を放ったのはやはり明治天皇と樋口一葉、わずかにこの二人しかいなかった。和歌とは何かということは結局うやむやになってしまった。

私が言いたかったのはつまり、(岡本太郎や渡辺昇一のように)江戸文化は元禄が最高でそれ以後二百年続いた封建制によって真綿に首を締められるように徐々に窒息したという見方は間違いだし、逆に江戸文化は素朴な元禄時代からだんだんに発展して天保で絶頂に達したというのも一面的な見方であるし、禁中並公家諸法度に守られた公家文化はどうしようもなく衰亡していったし、実際には公家、武家、そして町人文化が三つ巴になって絡まり合い交差し逆転しながら、江戸時代260年間をかけて確実に進歩していったということだ。その下ごしらえがなければ明治の文学などというものはあり得なかった。

思うに能楽は、綱吉や家宣くらいまでは面白かったのではなかろうか。しかし家継で家光の直系が絶えて、紀州の吉宗が江戸に入府して、吉宗以降の徳川将軍家はおそらく、「武家の式楽」としての能に存在理由は見出していたかもしれないが、もはや娯楽としての興味を喪失していたのではないか。能楽は幕府に守られたまま、どちらにその芸術性を伸ばし膨らませていけば良いかわからず、ただ宗匠の教えを墨守するだけとなって、生木の潤いを失い、急速に枯れた老木と化していきそれが、今日の能楽があれほど退屈なものになった理由ではないかと思うのだ。

茶道もそうだろう。信長や秀吉のころの茶の湯はもっとおもしろおかしいものだったはずだ。それが式楽化して、小笠原流などというものがでてきて、上流階級の作法、結婚前のご令嬢のお稽古ごととなって、死ぬほど退屈でつまらなくなった。

狩野派の絵にしてもそうだ。岡本太郎は狩野派の絵が嫌いすぎて洋画をやり始めた。狩野派の絵はつまらない。尾形光琳や俵屋宗達なんかの江戸初期の画家の絵と比べたら。その点については岡本太郎に完全に同意する。

とはいえ、式楽化によって能が死ぬほど退屈になったのはほぼ間違いないと思うが、もとの、退屈になる前の能を推定し復元することは不可能ではないと思うし、また、退屈になったことにはなにかの必然性はあったのだろうし、退屈ならば退屈でその中に面白さを感じることも不可能ではないと思う。少なくとも勉強してみる価値はあると私は思っている。生木には生木の、枯れ木には枯れ木の面白さがあろうというものだ。寺院建築や仏像も昔の彩色を復元することはそんなに難しいことではあるまい。そうしたくない、ふるぼけた骨董趣味を愛好する人がたくさんいるだけのことだろう。

つまり、普通に一般人が見れば退屈だけども、その退屈になった歴史的経緯や必然性を知識として理解していれば、かつての本来の姿を想像して、楽しむ方法はあると思うのである。たとえば、たとえとして適当がどうかはともかく、ピカソの絵は全然おもしろくないしうまいと思えないが、ピカソがなぜあの絵を描かなくてはならなかったという理由を知れば、多少はおもしろく見ることができるかもしれない。小笠原流にしても、興味ない人にはなんの価値もない、酒なんて立ち呑みで十分、懐石料理じゃ窮屈で飯を食った気にもならんという人でも、そうした作法も理屈として理解はできるかもしれないとは思う。理解はしても良いが、抹茶の最後のひとすすりをずずっと音をたてて飲むなどいう作法につきあわされるのはまっぴらごめんだ。

なんで私がそんなことを偉そうに言えるかというとまったく同じことが和歌でも起きているからだ。というか有史以来、日本の文化芸能で起きてきたすべての現象は、なによりもまず先に和歌で起き、和歌で見られた現象が、後からでてきた文化芸能でもみな同じような形で繰り返されるのだ。歴史は繰り返すってやつだ。

最初は単純素朴な娯楽、遊びだった。だんだんみんなが技巧を凝らすようになる。上流階級の目に止まって詩歌管弦の風流なもてあそびものにされたりもするし、身分は低いが面白い和歌を詠む人も出てくる。そうした地下歌人を発掘して洗練させる職業歌人で出てきて、教育したり、教材として整理したり、布教したりするようになる。世襲制度をたちあげて家元になりそれを飯の種にする人がいる。さらにそれを式楽化して、面白さなんてそっちのけでやたらとおごそかでお上品で、気高く尊いものにしてしまう人もいる。それを破って新しい歌を詠む人もいる。それらがもう、古いものから新しいものまで、公家も武家も、天皇も庶民も、みんなごっちゃになっているのが和歌なのだ。私はそういうものを一つ一つ見分けてきた。ちゃんと調べれば能楽でも同じことはできるに違いないと思う。

だから、日本芸能はなんでも、とにかくまず、最も古い和歌を学ばないことには何もわからない。国学が和歌を重視するのもそのためだ。

追記: どうも google が長い文章のほうを好んで検索結果の上位にもってくるというのは本当らしい。この文章が読まれている理由もそれではないか。あるいは、単体としてはそんなに長い文章ではないが、過去記事などにリンクがあってそっちもそこそこ長い文章などが好まれるのではないか。

はたからみてわかりにくい孤独

創作活動の孤独というものを書いてその続きのようなものだが。

「山月記」を読めなかった男が1年半ぶりにもう一度読む日。非常に良い記事だと思うのだが、隴西の李徴という人は、誰がみてもそれとわかるような、本当に孤独な詩人であったが、こういう天涯孤独な詩人というものは案外少ないのではないかと私は思っている。

実際には、中島敦自身もそうであったかもしれないが、仕事もあり、妻子もいて、友人もいて、一見全然孤独にはみえなくても、自分の作品が理解されなくて、深い孤独を感じている人は多いと思うのである。

つまり何が言いたいかといえば、隴西の李徴という人ははたからみてわかりやすい孤独な人であるが、はたからみてわかりにくい孤独な人もたくさんいると思うのだ。

もちろん世の中には、友人が少なく、結婚もせず、結婚式にも呼ばれない、そういう、人間関係における孤独な人も少なくはないのだろうけど(そうした人たちは家族ができ友人ができれば孤独ではなくなるのだろうか?)、作家が感じる孤独というものは、また別のものではないかと思うのだ。

本居宣長も、『本居宣長』を執筆していた晩年の小林秀雄も、そうした意味の、はたからみてわかりにくい孤独な人だったと思うのだ。宣長にしても小林秀雄にしても、功成り名を遂げた人で、弟子も多く、家族もいた人だから、普通は孤独なはずなどないと人は思うかもしれないし、一方では、いや、彼らの孤独はよく理解できるという人も少なからずいるのではないかと思う。

ともかく、隴西の李徴という人は、私生活においても、仕事においても、そして作家活動においても、何から何まで、極めてわかりやすい孤独な人だったわけであり、そこが逆に、孤独とはなんだろうということをわかりにくくしている気がする。

己は努めて人との交わりを避けた。

李徴は言っているけれども、少なくとも私は、人との交わりを避けようと思ったことはない。多少臆病になって人に見てもらうことを躊躇することはあっても、どちらかといえば、新人賞に応募したりなどして、人に積極的に評価してもらおうとするほうだった。だがあまりにも、自分と同じことを志す人が少なくて、交流することが不可能だった、例えば歌を詠みかわすことすらできなかった、というのが実際だった。そのあたりがやはり李徴に感情移入できないところだ。中島敦自身はどうだったのだろう。李徴に近い性格の人だったとは思えない。誰か李徴に近い性格の人を知っていた、あるいは、自分のなかに若干そうした傾向があることに気付いていた、その部分を切り出し脚色した、くらいだろうか。

私が今度出す本もはたからみてわかりにくい孤独な詩人の話である。思えば私が孤独ということについてここまで熱く語ったのは初めてのことではないか。というのは私自身、孤独ということをあまり気にしない性格であったから。少なくとも孤独そのものを恐れたり避けたりする人間ではなかった。むしろ孤独を楽しむほうだったと思う。年をとってそろそろこの世を去るというときになっていまだにいつまでたっても自分の仕事が理解されることがなくて、それで孤独というか焦りというか迷いを感じ始めたのだろう。だがそれも単に老人の孤独というものとは内容が異なるように思う。

そういえばこの空谷に吼えるというのも私が書いたものであったはずである。「黄色い犬」というのは当時 yellow dog linux という、PowerMac とか初代 PS3 で動いてた Linux のこと。2006年ということは41才くらいかー。

いろいろごちゃごちゃ試す

中学生の頃にオーディオが流行っていて、またあの頃は世の中にシンセサイザーというものが出始めたころで、そうしたものを中年、老年になって、多少金が自由になっていろいろ買ったりもしたのだが、いろいろ試してみた結果わかったことは、オーディオインターフェイスは要らんということであった。パソコンを数台にブルーレイプレイヤーなども追加で使おうというときにオーディオインターフェイスをミキサー代わりに使ったりするのだが、ミキサーを使うくらいなら、入力が3系統くらいあるアクティブスピーカーを使ったほうがましだと思うようになった。

多くのパワードモニタースピーカーには2系統の入力がある。

3系統となるとローランドのCM-30というものがありこれが非常に便利である。タンノイみたいに同軸になってるのもかっこいい。ただしこれは音楽鑑賞用にはちょっと音が派手過ぎるかもしれない。また、ブックシェルフスピーカーとして使うにはできればもう少しコンパクトな方がよいと思ったりする。

アナログミキサーもしくはオーディオミキサーというものを使う手もあるのだが、なんかどれもごちゃごちゃこてこてしていて、スタジオとかライブとかで使うには良いのかもしれないが、普通にパソコン周りで使うには邪魔すぎる。

多系統入力のプリメインアンプとパッシブスピーカーを組み合わせる、という手もあるはずなのだが、あいにくそういうアンプが今のご時世にはあまりみかけない。というより、アンプにはセレクターやスイッチャーの機能はあっても、すべての入力を一度に鳴らせるようにはなってない。なんでこうなってるんだろう。

USB接続のオーディオインターフェイスは案外ノイズに弱い。電子回路が複雑だからなのだろう。最新のドライバーを入れたりすると治ることもあるんだが、うまくいかないこともある。特にPCモニターをHDMI接続して、ここからヘッドホン出力で鳴らそうとするとノイズが乗りやすいような気がする。このPCモニターというものもまったく信用ができない。PCモニターを多入力にしてセレクターみたいにして使うといろんな問題が発生してくる。

結局パソコンとブルーレイは別々のスピーカーで鳴らし別々のモニターで見る、というのが一番無難な解決策になってしまうような気がする。

それはそうと音響系の某通販サイトがいちいち検索にでてきて鬱陶しい。一度痛い目にあったのでもうここからは二度と買わないと決めているのだが、非常に目障りだ。実店舗を持ってる楽器店から買う方がずっと気持ち良い。

仕事に飽きた

楽しみは 死にたるのちに わが歌を なほ忘られぬ 人のあること

近頃終活ばかりしていて死ぬことばかり考えているような気がする。死ぬ時できるだけ苦しまずに死ぬにはどうしたら良いか。全身麻酔で意識がないうちに死んでしまうのが一番良い死に方な気がする。希死念慮とか自殺願望というのではないのだが、なんだろうな、もうこの世でやり残したことがないという人はどうやって生きているのだろうか。仕事が生きがいで、死ぬまで仕事を続けたいという人はけっこういるように思う。功成り名を遂げた人でも、やり残したことがある、というより、何かまだやってみたいという気のある人は死にたいとは思わないのだろう。

とにかく仕事がつまらなくて仕方ない。金が十分あって辞められるなら今すぐでも辞めたい。いろんなことに忖度しながらこつこつ送りバントするみたいな仕事。とてつもなくつまらない仕事。仕事をできるだけしないことが仕事だということを最近ひしひし感じる。結局、私がやりますと言い出したやつが責任を取らされることになるのだから、何もしないのが一番ということになるし、ほんとにやりたければやればいいんだが、それは今の職場には無い。というかいろいろやりつくして飽きた。

定年までは社畜で、定年後に人生を楽しまなくては損だという人もいるかもしれないが、もちろん社畜は辛いのだけど、社畜から解放されたから即楽しいという気持ちにはなれないのだ。

今のところ私には今の職場の肩書しか社会的存在意義がない。私という人間は今働いてる役職でしか評価されていない。それはもちろんある程度満足のできる社会的地位ではあるし、また、これまで自分が努力してきた成果でもあるのだが、しかし、裏を返せば、今私が所属している組織の外では私はほとんど無価値な存在であって、私からその組織の構成員であるという属性を除けば私は単なる一人の一般市民にすぎない。私は自分のことを科学者と称することはできるはずだ。それはよいのだがしかし、一人の作家でもなければ画家でもなければ詩人でもない。このことは私には非常に苦痛だ。一人の独立した意味と価値のある人間として死にたい。

同僚と酒を飲みたいという気持ちはあるがそれは愚痴を言いたいからだ。愚痴を言ってもそのことには何の意味はないし、相手も迷惑だろう。では仕事の愚痴抜きで何か楽しく酒が飲めるかというとそんなことはなくて、たぶん話題もなくて気づまりなだけだろう。となると、仕事と関係ない赤の他人と楽しく飲んだほうがましということになる。

ここに書いていることも愚痴なのだが、ブログに何を書こうが本人の勝手だし、読むか読まないかも勝手だし、つまり、SNSなどで強制的に人に読ませるのではなく、愚痴はこういうブログなどに吐き出すのが一番よろしいということになる。

土蜘蛛

土蜘蛛という能は安土桃山時代に初めて演目に現れたというから能楽の中でそんなに古いものではない。神楽や歌舞伎にもあるから、どうやら、安土桃山から江戸初期にかけて、民衆芸能として、つまり僧侶や公家とは関係のないところから、急に流行り出したもののように見える。

また、手から蜘蛛の糸を投げるという演出はもっと遅くて明治時代になって加わったものであるという。私たちが能楽としてありがたがっている土蜘蛛は、実は案外歴史の浅いものなのだ。そして多くの能楽とは違い、その見た目の派手さで人気があるのだろう。

しかしながら、土蜘蛛とは本来、大和朝廷にまつろわぬ、稲作も行わない山岳民族で、縄文人の子孫、サンカのようなものであるとも考えられていて、もしかするとそうした山伏の山岳信仰やサンカにおいて、伝承されてきたものであったかもしれない。

さらに想像を働かせるならば、もともとは、土蜘蛛が大和朝廷から派遣されてきた武士を返り討ちにする舞曲であったかもしれない。

しかしながら一方で、この土蜘蛛という話は、日本古来の説話というよりも、ギルガメッシュ叙事詩における都市神ギルガメッシュと山岳神フンババの戦いと、ほぼ同じ性格のものであるようにも見える。もっと言えば、土蜘蛛は遠く西アジアから日本に伝わったギルガメッシュ伝説なのかもしれない。桃太郎ももとはと言えば西アジアに由来する英雄流浪譚であるように。桃太郎もまた室町末期に成立したと言われているから、もしかすると日本に渡来したキリシタンから伝わった話なのかもしれない。

鬼坊主の女

私は「鬼平犯科帳」は池波正太郎の原作を、流し読みではあるが一応全巻読んでいて、さいとうたかをのマンガも機会があれば読むようにしているのだが、そのマンガに「鬼坊主の女」というものがあった。原作には見覚えのない話なので(和歌が題材になる話を私が見落とすわけがない)、さいとうたかをのオリジナルかと思ったのだが、調べてみると、もとは「鬼平犯科帳」とは直接関係ない「にっぽん怪盗伝」という、池波正太郎の短編集があり、その中に収録されていたものらしい。「にっぽん怪盗伝」は audible にあったので聞いてみた。

ウィキペディアの鬼坊主清吉によれば、鬼坊主と呼ばれた盗賊は実在していて、獄門にかけられたときに辞世の歌

武蔵野に 名もはびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに かくてしをるる

を詠んだという。これは和歌としてみて、まずまずの出来だと思う。意味も明確だ。1805年6月27日のことだというから、長谷川平蔵は既に死に、松平定信も老中を退いている。旧暦文化2年6月27日をグレゴリオ暦に変換すると1805年7月23日となるから、夏の暑い盛りだったことになる。オニアザミが咲くのは6月から9月。

この話は落語『鬼あざみ』になっていて、その中では

武蔵野に はびこるほどの 鬼あざみ 今日の暑さに 枝葉しおるる

となっている。池波正太郎はこの落語を元ネタにして、「鬼坊主の女」を書いたらしい。

盗賊の頭、鬼坊主は捕らえられたが、子分に命じて、先に盗んで隠しておいた金を使って、辞世の歌を代作してもらって、それを獄門のときに詠じて、役人を驚かせたということにしたのである。この「鬼坊主の女」では辞世の歌は

武蔵野に 名ははびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに 少し萎れる

となっている。これを鬼平犯科帳ものに最初に仕立て直したのはテレビドラマで、1970年5月19日放送の「鬼坊主の花」であったという。さらに1993年に再度「鬼坊主の女」としてドラマ化され、2003年にはさいとうたかをによってマンガ化されたらしい。

このマンガでは鬼坊主と一緒に磔にされた手下二人も代作の歌を詠み、しかもこの歌を代作したのが長谷川平蔵やら木村忠吾であったことになっている。

武蔵野に 名を轟かせし 鬼太鼓 罰は受けれど 音のさやけき

商売の 悪も左官の 粂なれば 小手は離れぬ 今日の旅立ち

浄瑠璃の 鏡に映る 入れ墨に 吉の噂も 天下いちめん

こうなってくるともう和歌ではない。狂歌としても、あまり良い出来とはいえない。池波正太郎の原作まではなんとか和歌らしい様式と体裁を保っていたが、おそらく和歌というものの良し悪しのわからぬ人の手によって、テレビドラマ化、マンガ化する段階で誰かが適当におもしろおかしく改作したのだろう。

こうして並べてみると、やはり鬼あざみ清吉本人が詠んだ歌が一番優れているように見えるのだが、あまりに出来過ぎているので、人から人に言い伝えられるうちに上品に洗練されていったのではないかと思われる。あるいは、歌の内容からして、本人が詠んだというよりは、獄門にされた清吉を見た誰かが詠んだ歌にも見える。やはり無学文盲な盗賊がいきなりこのレベルの和歌を詠むということはちょっと考えにくい。ちょうど大田南畝が蜀山人の号を使い始めた頃に当たるから、彼が詠んだとしてもおかしくはない。大田南畝はれっきとした幕臣なので、彼が盗賊に同情的ともとれる歌を詠んではまずいので、盗賊本人が辞世で詠んだ、ということにした、としたらなかなかおもしろいかもしれん。

また、しょせんテレビドラマやマンガを見る人、或いは作る人々には、和歌のよしあしなどわからないのだなという気にもなる。盗賊が辞世にまずい狂歌を詠んだという演出にはおあつらえかもしれんが。

面白いブログの見つけ方

kindle unlimited だが、借りてみて、さらっと読んで、読み続けられそうなら最後まで読み、そうでない場合はすぐ返すようにしている。面白くなるまで読んでみようと、借りっぱなしにしていると回転が悪くなる。とにかく気に入らないときはすぐに他の本を借りる。100冊に1冊くらいはぐいぐい読める本がある。どこが面白くどこがつまらないのかいちいち分析しない。面白ければ読んでみて、なぜ面白かったかは後でゆっくり考えれば良い。

エウメネスくらいは KDP で紙の本にしようかとも思うのだが、ざっくり10万字でだいたい1000円くらいの本になってしまう。エウメネスはたぶん50万字かへたすると80万字くらいはある。果たして5000円の本を買うだろうか。kindle電子書籍でエウメネス6巻全部まとめ買いしても1500円くらいかと思う。

エウメネスも読み返すたびに書き換えたくなるので、まだしばらくはこのままにしておこうと思う。

今回ちょっとエウメネス2をいじったのだが、後半がとにかく読みにくい。マケドニア王家の話を延々と書いているのだが、これをほんとうに読んでいる人がどのくらいいるのだろうか。読みにくいところは無理せず飛ばし読みしてくれていることを望む。

昔は面白いブログを書く人はけっこういたように思うが、いまどき面白いブログを探すのはとてもたいへんだ。面白いブログを個人でコツコツ書いている人はたぶん今でもけっこういるんだろうが、探すのが難しい。たとえばブログ村にはいろんなカテゴリーがあったりランキングがあったりするが、自分の読みたいブログを探すのにはほぼ役に立たない。しかも最近強制的に広告を一定時間見させられるのでめんどくさい。

じゃあnoteは面白いかと言えば全然面白くない。テレビとかマスコミとかが面白くないから個人のブログを読んでいるのに、みんなテレビやマスコミみたいな書き方をするから面白くない。はてなダイアリーの機能にはてぶとかおとなりページとかおとなり日記というものがあるんだけど、たぶんこういうものが一番面白いブログを探すのには効果があると思うのだが、過疎っているというか廃墟になってるブログが多くてなかなかみつからない。